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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

大彦命と布施氏の布制(布施)神社詣でと茶臼山ラッセル(妻女山里山通信)

2016-01-29 | 歴史・地理・雑学
 以前の記事「茶臼山の茶臼ケ城、修那羅城、篠ノ城探索。布施氏の山城は想像以上に大規模でした(妻女山里山通信)」で、望月氏の後裔(こうえい:子孫)である布施氏について記しましたが、その布施氏を祀る布施(布制)神社が、茶臼山を中心として東西南北に4社あります。その内の北の篠ノ井山布施の社と西の山布施にある社は訪れたことがあるので、残りの2社を訪れてみました。前回、『滋野系図』より布施氏は滋野氏(望月氏)の後裔と記しましたが、滋野氏の祖は清和天皇なので、辿ると崇神天皇まで行くのでしょうが、まず間違いなく何度か切れているので真実は霧の中です。

 長野市篠ノ井五明にある布制神社(左)。延喜式式内社で、主神は布施氏の祖といわれる大彦命(おおひこのみこと)。『古事記』では大毘古命と記載。当社は、927年に完成した延喜式に記載があります。他の3社は南向きですが、ここのみ東向き。布施神社が正しい表記ですが、仏教のお布施に繋がるということで現在は布制神社と表記するそうで、これは明治の廃仏毀釈の置き土産でしょう。本来の布施神社に戻すべきです。
『日本書紀』では、崇神天皇10年9月9条で、『大彦命を北陸道へ、子の武淳川別命(たけぬなかわわけのみこと)を東海へ、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を西道へ、丹波道主命(たんばにおみちぬしのみこと)を丹波へ派遣したとしされています。いわゆる四道将軍のひとりです。
『古事記』には、崇神天皇が伯父の大彦命を北陸道(越国・高志国)へ、その子武淳川別命を東海道へ遣わせたとあります。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れ、二人の出会った所を相津(会津)というとあります。 その後、社伝によると、大彦命は五明の布制神社後背(西)の瀬原田の長者窪に居を構えそこで薨去(こうきょ)した(亡くなった)といいます。
 境内にある天満宮(中)と合祀された石祠が数多く並んでいます(右)。明治の廃堂令で長野市に400あったお堂で残ったのは僅か16。現在は40ほどに復活。南方熊楠が猛反対した神社合祀令により多くの産土神が合祀されたり消えてしまったのです。廃仏毀釈や合祀令は、中国の文化大革命に匹敵するといっていい明治政府による非情な文化破壊だったのです。明治政府の祖となる明治天皇が偽物だったのですからそこまでする必要があったのでしょう。詳細は「田布施システム」で検索を。
「1町村1社を標準とし、整理統合された数多くの神社跡は、その神社林が払い下げられ伐採されていく。熊楠の主たる研究対象は、この神社の森に保護された微小な生物であり、神社を単位とした共同体の風習や伝承である。それが一朝にして破壊の危機に立たされた。森がはぐくんできた数千万年の生物が、合祀令によって一朝に消え失せる。産土神を遠くの神社に合祀され、参詣の不便さをなげく村民の声を聞くにつけ、また、合祀後の払い下げを見込んで巨樹の多い神社を合祀の対象に選ぶ神官や郡長らの所行を見るにつけ、熊楠は怒りを爆発させた。」(新・田辺市民読本「南方熊楠」より)拙書でも粘菌のコラムで取り上げていますが、私が敬愛してやまない明治の偉大な研究者です。

 次に南西に車を走らせ、川柳将軍塚古墳の南の麓にある篠ノ井石川の布制神社へ(左)。参道が狭いので一の鳥居の脇に駐車して登ります。鳥居の中に見えるのが川柳将軍塚古墳のある山。400m足らず登ると社殿の赤い鳥居(中)。拝殿は新しく、後背の本殿もそう古いものではなさそうです。拝殿から南南東を見ると森将軍塚古墳が見えます(右)。赤い鳥居の前に東山道支道の標柱が立っています。
 神社に来る途中に長野市指定文化財建物 石造多層塔がありました。高句麗の王族、前部秋足(ぜんぶのあきたり)が延暦18年(799)に篠井性を下賜(かし)されています。それが現在の篠ノ井の名称の元でしょう。この時、多くの高句麗の豪族が帰化しています。高句麗人はツングース系で石の文化を持ち、現在の半島の人とは異なります。長野市には高句麗式積石塚古墳として大室古墳群が、多くが破壊されましたが妻女山にもあります。千曲市には堂平積石塚古墳群があります。

 石川の布制神社の上にある川柳将軍塚古墳(左)。前方後円墳で、地元ではここが大彦命の御陵といい伝えています。その上にある姫塚古墳は、更に古い時代のもので、やや小型で前方後方墳(中)。途中の四阿から南方を見ると森将軍塚古墳が見えます(中央の白い部分)。右上は有明山、左奥は五里ヶ峯。

 これは以前夏に訪れた茶臼山西の山布施にある布制神社(左)。村史には奈良時代後期の宝亀8年(776)創建とあります。拝殿は江戸時代後期のものでしょうか。木彫には諏訪立川流の様式らしき立派なものが見られるのですが、明治の村史には特に記載がありません(中)。これは後で研究者の友人に確認したところ、石川流の山嵜儀作の木彫と分かりました。その木彫の写真と説明は、「山布施の布施神社と諏訪立川流木彫。布施氏の須立之城探訪。陣馬平のカモシカの親子」の記事を御覧ください。
 神社から東方を見ると茶臼山北峰と崩壊してしまった南峯が見えます(右)。

 布施氏の領地を見たいと思い茶臼山へ。先週の雪かきで腰を痛めてしまったので若干躊躇したのですが、旗塚まで車で行けば大丈夫だろうと強引に茶臼山植物園入口のゲートまで車を入れました。積雪は10~30センチでしたが、先に歩いてくれた人が2名ほどいたようで、その足跡を辿りました。山頂西側の登山道(左)。気温が6度なので樹上の雪が落ちる度に粉雪の光の柱が立ちます。アニマルトラッキング。これはニホンジカのもの(中)。ノウサギが駆けまわった跡(右)。

 茶臼山のアルプス展望台から。中央やや左の高い杉の木に囲まれている山布施の布制神社。奥は左から爺ヶ岳、山頂に雲がかかった鹿島槍ヶ岳、右に雪解けの頃に武田菱が現れる五竜岳。北アルプスの仁科三山。命名の元となった仁科氏は、『信濃史源考』では、大和国の古代豪族安曇氏の一支族が仁科御厨に本拠をおいて、土地の名をとって名字としたといわれています。1400年の大塔合戦では、新守護として強圧支配をした小笠原長秀に対して村上満信と仁科氏を盟主とする大文字一揆を起こして守護軍を追いやっています。戦国時代の仁科氏の動静は非常に複雑で、武田に降りたり、信長の代には高遠城主で陥落したり。後に善光寺平に移ったものは故郷の湖を偲んで青木を名乗ったという説も伝わっています。また秀吉の景勝の国替えで付いていったのか米沢にも仁科姓があります。

 右へ目をやると、神城断層地震で山頂が4割も崩壊してしまった虫倉山。松代藩の尊崇が厚かった神話の山です。拙書でも紹介しているさるすべりコースが早く復活するといいのですが。虫倉山は善光寺地震でも大崩壊しており、その様を藩の御用絵師、青木雪卿が描写しています。彼については、「『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信)」を御覧ください。コメント欄も読んでいただくと全貌がかなり見えてくると思います。

 そこから5分ほど北へ下って反対側が見える善光寺平展望台へ。川中島の奥に白い根子岳と黒い四阿山がそびえています。大河ドラマ『真田丸』の真田家と非常に関係の深い山で、麓の山家神社の奥宮が二つ、その間に信仰の原点といわれる小石祠があります。奥宮は拙書でも紹介しています。
 左手前のビル群は、長野冬季オリンピックで選手村になったところ。現在は住宅地。その手前が北陸新幹線。

 右に目をやると、松代方面。プリン型の皆神山の左上に保基谷岳、右に菅平の大松山。左中央に広い畑地が見えますが、地名を御厨(みくりや)といって平安時代に布施氏の荘園があった場所です。大麻を栽培し麻布を朝廷に献上もしていました。布施がつく地名は布施五明、布施高田、上布施、下布施、山布施などたくさん残っています。葛飾北斎と栗で有名な小布施は、鎌倉、室町時代にその名が登場するそうですが、ここも布施氏と関係があるのかもしれません。

 最後に妻女山展望台からの茶臼山。今まで記してきたことは、調べればだいたい分かることなのですが、この妻女山麓の会津比売神社の祭神、会津比売命(あいづひめのみこと)の会津が気になります。
 崇神天皇の命で東征から戻った出雲系の大彦命がこの地に暮らしたとありますが、同じ頃、『古事記』によると崇神天皇は大和系の武五百建命(たけいおたつのみこと)を科野国造に任命しており、森将軍塚古墳がその御陵ではないかといわれています。そして、その妻が出雲系の会津比売命と神社御由緒には記されています。会津比売命の父は皆神神社の祭神、出速雄命(いずはやおのみこと)で、その父は諏訪大社の祭神、建御名方命(たけみなかたのみこと)、その父は大国主命です。出速雄命が大彦命に敬意を評して娘に会津比売と名付けたということは考えられないでしょうか。果てしない妄想ですが、古代科野国は大和系と出雲系が結ばれて造られたといえるのです。

 この会津比売神社は、特異な社で同名の社が他に全くありません。往古は山上にあったが上杉謙信が庇護していたため武田の兵火に焼かれて山陰にひっそりと再建されたと伝わっています。
 延喜元年(901年)に成立した『日本三代実録』には、貞観二年(860年)に出速雄神に従五位下、貞観八年(866年)に会津比売神と妹の草奈井比売命に従四位下を授くとなっています。その後、出速雄神は、貞観十四年(872年)に従五位上に、元慶二年(878年)に正五位下を授くとなっています。当時の埴科郡の大領は、諏訪系統の金刺舎人正長であったため、産土神(うぶすながみ)としての両神社の叙位を申請したものと思われるということです。金刺舎人正長 は、貞観4年(862)に埴科郡大領外従7位に任命されています。
 金刺氏は、欽明(きんめい)天皇( 539 ~ 571年在位)に仕え、大和国磯城島の金刺宮に由来するものです。金刺氏は諏訪下社の大祝(おおほうり・シャーマン)であり、中世に諏訪大社上社大祝によって追放されるまで存続しました。屋代遺跡群出土木簡には「他田舎人」や「金刺舎人」の名が見られます。舎人(とねり)とは、皇族や貴族の警護や雑務をしていた役職。会津比売神社が歴史から消えていったのも、金刺氏の衰退と関係があるのかも知れません。
 また、『松代町史』(上巻)第二節には、この地の産土神(うぶすながみ)と伝わる皆神山にある皆神神社(熊野出速雄神社)の祭神で、諏訪の健御名方命の子でこの地の開拓を任じられた出速雄命(伊豆早雄)と、その御子である斎場山(旧妻女山)の麓にある会津比売神社の祭神・会津比売命(出速姫神)の、会津(あいづ)または出(いづ)が転訛して松代の古名である海津となったという説が記されています。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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コメント (2)
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