モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

続 武田別働隊はいずこへ、三滝山と戸神山の謎!(妻女山里山通信)

2009-03-27 | 歴史・地理・雑学
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『埴科郡誌』より31年前の明治12年に倉科村から長野県に提出された資料(『長野県町村誌』)によると。
●三滝山については、下記の通り。(句読点は読みやすく修正)
 --【三瀧山】高四百三間、周囲一里五町、村の辰の三分にあり。山嶺を四分し、東は小県郡傍陽村の山脈に連なり、南は当郡森村鏡台山に接し、北は本郡西條村と山峯を界して御姫山に接す。西は本村大峯まで山脈相続す。渓水九條(下流三瀧川に合す)登路一條、村の本標より山上まで一里十一町五間。--

 戸神山については、『埴科郡誌』で規定した山なので記載はありません。
 前回、「そもそも創作の疑いもある戸神山脈を実際の地理に当てはめようとした『埴科郡誌』自体に問題があるのかもしれません。」と書きましたが、山脈名や山名については、付記で、こう説明しています。

 --付記 本章に於いて鏡台山脈、奇妙山脈、五里ケ峯山脈と云ふものは古来よりこの称ありたるに非ず。戸神山脈亦然り。前者は其の山脈中著名なる高峰の名に因り、後者は甲越戦記に見えて著名なるを以て新たに命名したるものに係る。(中略)此の如く新名称を附したるは、地理文理の説明上及び古史沿革の研究上便利なるが為にして実に止むを得ざるに出づ観者之を諒せよ。--

 便宜上勝手に命名しちゃうけど了解してね。というわけです。写真は前回のものを参照してください。

 『埴科郡誌』では、「戸神山脈は高遠山三瀧山の中間より出でて北に走り」とあるので、戸神山と三瀧山は、別の山ということですね。

 続いて、「戸神山は倉科村に在りては三瀧山の東部とし、西條村に在りては之を森野と呼ぶ貴船の神祠あるのみ。戸神山の称なし。」ということで、西条の字森野の最高地点というのは、1185mになるわけです。しかし、三角の山ではない。森野の頂上といえば、1042mがもうひとつあり、これは海津城から見ると三角に見えるので、これが戸神山かと前回書きました。

 すると、三瀧山は、上の文章では、戸神山の西ということになります。では明治12年の倉科村村誌附図ではどうなのかといいますと、三瀧山は頂上ではなく、三瀧の谷の最上部に三瀧山と書かれています。つまり船ケ入というところです。現在だとサワグルミの木がある辺りの山一帯ということになります。鏡台山は、坂城の分になるので、昔の倉科村の村界は鏡台山北峯の北、1230m位の辺り、現在三滝山と呼ばれている1185mの尾根を南へ登って倉科コースの登山道に出た辺りが最高地点ということになります。鏡台山北峯が北に延びて大峯山と杉山(大嵐山)に尾根が分かれるところです。昔は、なになに山というときに必ずしも山頂を指すのではないこともままありました。茶臼山北の中尾山などもそうです。姥捨山も現在は、冠着山となっていますが、江戸時代の『信濃奇勝録』では、現在の三峯山辺りになっています。山名は、山の反対側で呼び方が違うこともよくありますし、調査の際に間違って伝わってしまうこともあったようです。

 では、戸神山はというと、『埴科郡誌』では、「本誌編纂に当り、山寺常山の『河中嶋合戦地理記』、高野莠叟の『古城考』明治三十五年五月廿一日松代町役場より、東宮殿下に献じたる川中嶋古戦場絵図写等により、永禄四年九月九日の夜甲軍一万二千西條村より倉科村に出でんとし迷ふて道を失ひたる戸神山は森野の頂上なりと決定し、尚当地を踏査して命名したるものなり。」と記して、現在三滝山と呼ばれている1185mを戸神山と規定しているわけですが、この東宮殿下に献じたる川中嶋古戦場絵図というのが、実に大雑把な絵で、「戸神山は森野の頂上なりと決定」と書いてありますが、実際は鏡台山を指しているようにも見えるのです。

 前回書いたように、戸神とは三角の尖った山をいいます。すると、『埴科郡誌』の1185mは、相応しくないのですよ。敢えていえば、1042mか前回書いたように鏡台山ということにならざるを得ません。戸神山脈は、鏡台山から薬師山までということになります。戸神山脈はともかく、『埴科郡誌』の戸神山自体はかなり怪しいといわざるを得ません。そもそも戸神山は、上杉景勝の家臣清野長範が書いたとされていますが、実際に現地に登ってみたり、取材(笑)をしたのか怪しいものです。むしろ、旧更埴市が1185mを三滝山としている方が、妥当性があります。ただ、『埴科郡誌』にも一応敬意を表して、これからもMORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)では、1042mを戸神山と表記することとします。戸神山は、三滝山の東という記述が誤記という前提でですが。

 ちなみに、『埴科郡誌』で規定した鏡台山脈は、保基谷岳を起点として鏡台山までと、鏡台山から太郎山までの、仮名のくの字状の山脈のことです。また、鏡台山から五里ケ峯、葛尾山から千曲川へ落ちる山脈を五里ケ峯山脈とし、保基谷岳から奇妙山、旧埴科郡大室と旧上高井郡川田の境の山脈を奇妙山脈としています。

★武田別働隊のルートを訪ねて三滝山(戸神山?)から鏡台山、鏡台山から戸神山脈を妻女山まで辿ったトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】をご覧ください。
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武田別働隊はいずこへ、三滝山と戸神山の謎!(妻女山里山通信)

2009-03-24 | 歴史・地理・雑学
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 第四次川中島合戦を描いた、『川中島五箇度合戦之次第』(江戸時代に米沢藩が幕府に献上した上杉方のバイアスがかかった史料・作者は上杉景勝に仕えた清野長範とされる。)には、「信玄は、戸神山中から信濃勢を忍ばせて、謙信陣の背後を突かせようとする。」と記されています。事実かはともかく、戸神山脈は武田別働隊が越えたとされる、鏡台山から象山、または妻女山(赤坂山)、薬師山(笹崎山)までの長い山脈ですが、その戸神山を三滝山(1185m)の別称であるとMORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)で、幾度となく書いてきたのですが、今回『埴科郡志(埴科郡史)』(明治43年刊)を改めて紐解いてみて、事実誤認があったと分かりました。さらによく読んでみると、この『埴科郡志』自体も間違っているのではないかと思うようになってきたのです。今回は、地理的な問題を解明しようと試みてみました。

『埴科郡志』より。
●三滝山については、下記の通り。(句読点は読みやすく修正)
 --三瀧山は高遠山の西北に連りて倉科村に在り、頂上を船ヶ入と云ふ。船ヶ入、西高遠二峰の中間に於て山脈屈折し、此屈折点より戸神山脈は北方に延ぶ。三瀧山は船ヶ入を除くの外林相をなせり方、今県有林及び村有林に属す。--

●上の文中の西高遠については、下記の通り。
 --高遠山は西條村に在りて地蔵峠の西に連る。山上樹木なく頂上二峰をなす。東高遠、西高遠の称あり。西條村の森野より此山に登り、倉科村の船ヶ入、森村の張合(坂城にては大洞と呼ぶ)を経て、坂城の日名に達する小径あり。之を猿飛越と云ふ。--

●肝心の戸神山脈については、下記の通り。
 --戸神山脈は高遠山三瀧山の中間より出でて北に走り、屈曲して西し、笹崎に至り千曲川に迫りて尽く。 一、戸神山は倉科村に在りては三瀧山の東部とし、西條村に在りては之を森野と呼ぶ貴船の神祠あるのみ。戸神山の称なし。本誌編纂に当り、山寺常山の『河中嶋合戦地理記』、高野莠叟の『古城考』明治三十五年五月廿一日松代町役場より、東宮殿下に献じたる川中嶋古戦場絵図写等により、永禄四年九月九日の夜甲軍一万二千西條村より倉科村に出でんとし迷ふて道を失ひたる戸神山は森野の頂上なりと決定し、尚当地を踏査して命名したるものなり。(以下、大嵐山・御姫山・鞍骨山・坂山(天城山・手城山)・入山(月夜平・陣場平)・妻女山・赤坂山・笹崎と続く)--

 上の三つの文章で分かるように、三滝山と戸神山は別の山です。三滝山は、三滝の谷の最上部にあたり、サワグルミの木のある谷の上の山ですが、山頂といえるような頂上はなく、鏡台山北峯を北西に下りた肩といえる場所です。戸神山は、この三滝山と西高遠山(これは現在の高遠山が東峰で、その西にある1205mほどのピークが西高遠山と思われます)の間の山というと、更埴市史で三滝山と書かれた1185m峰が、戸神山ということになります。

 しかし、ここに疑問があります。戸神山とは三角の尖った山という意味です。1185mは丸く尾根の肩であって三角のピークではありません。つまり、このことから『埴科郡志』による戸神山の推定位置が間違っているのではという疑念が涌いてくるのです。では、この近くで三角の山とは、どの山でしょうか。

 ところが、この近辺に三角の尖った山というものがないのです。確かに高野莠叟が東宮殿下に献上したという絵図には、三滝川の源流の先に戸神山の記載があり、「戸神山ハ後役の時甲ノ十将ガ夜間越エタル所 倉科生萱土口ヨリ妻女山ヲ襲フ為メ」と書かれています。戸神山脈の尾根づたいに妻女山まで行ったのではなく、戸神山を超えて倉科に下りて生萱、土口から妻女山を攻めたと解釈できますが、図では位置的には鏡台山を指しているようにも見えますし、越えるということでは、1185mを指しているようにも見えます。絵図なので位置が大雑把ですから確定はできません。

 三角の山ですが、海津城から見ると鏡台山は見えず、1185mは三角に見えません。その北にある1042mがかろうじて三角に見えます。これが戸神山でしょうか。鏡台山は西の姥捨山から見ると頂上が弓状にたわんだ双耳峰なので曲出(まがりだし)、張出(はりだし)とか呼ばれますが、より北の篠ノ井の方から見ると北峯と南峯が重なって三角の山に見えるのです。そうすると、戸神山とは鏡台山の別名でしょうか。字森野の頂上と『埴科郡志(埴科郡史)』には記されているのですから、これは当てはまりません。そうすると、やはり1042mしかないということになります。

 「信玄は、戸神山中から信濃勢を忍ばせて、謙信陣の背後を突かせようとする。」というのですから、結構範囲が広くて曖昧です。鏡台山塊の山中と考えればたいていの所は入ってしまいます。しかし、米沢藩の清野長範が鏡台山周辺の地理にどの程度詳しかったかも不明です。清野長範は、別に信濃の清野から移封に付いていった侍ではありません。景勝に名前をもらっただけです。ちなみに米沢藩には、戸神山という三角の山があります。

 西條の森野の最高地点は、1185mの山頂です。戸神山が三瀧山の東部ということであれば、この山が戸神山ということになるのですが、どこから見ても三角どころか山頂と呼ぶのもおこがましいような、鏡台山の単なる肩です。「戸神山は森野の頂上なりと決定し」と『埴科郡志』にはあるのですが、どうにも無理があるような気がしてなりません。実際に登ってみましたが、どこが山頂?というような山でした。前述したように森野の頂上で三角に見える山は、1042mしかありません。それも松代から見た場合に限るのですが。

 三角といえば、戸神山脈東の狼煙山が海津城から見ると三角に尖っていてピッタリなのですが、戸神山脈ではありません。向かいの山です。東西を間違えて最初に狼煙山に登ってしまったでは、あまりに間抜けな話で笑い話になってしまいます。
 だいたい、そもそも創作の疑いもある戸神山脈を実際の地理に当てはめようとした『埴科郡志』自体に問題があるのかもしれません。

 『埴科郡志』では、他に鏡台山脈、奇妙山脈、五里ケ峯山脈などを規定しています。

★武田別働隊のルートを訪ねて三滝山(戸神山?)から鏡台山、鏡台山から戸神山脈を妻女山まで辿ったトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】をご覧ください。

★妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。武田別働隊の経路図、きつつき戦法の検証、上杉謙信斎場山布陣図などもご覧いただけます。
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妻女山に梅、壇香梅、木五倍子が咲きました。(妻女山里山通信)

2009-03-22 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 春雨の舞うはっきりしない午後、妻女山から天城山の奥へと、最後の山蕗を採りに登りました。妻女山松代招魂社の裏手の斜面では梅が満開です。尾根に出るとあちこちでダンコバイの黄色い花が満開でした。春遅い北信濃の冬枯れの山にも、やっと花の季節が訪れました。そして、林道沿いにはキブシの花が鈴生り。早くも芽吹いている木々もあります。

 山蕗は、最後の収穫期。花開いているものもたくさんありましたが、小一時間で袋がいっぱいになりました。今夜は手打ちで埴科・更級名物「おしぼりうどん」に、蕗の天ぷらです。残りは、定番蕗味噌やつくねやしんじょ、煮ものなどに。

 さらに、山奥で春のきのこ、椎茸を採取。しっかりとひび割れてドンコになっていました。これも天ぷらにします。今年は春が早いので、月が開けると上旬には杏、桜、桃の順番で花が咲くでしょう。あんずの里、千曲市の森、倉科、松代町の東条は、杏の花の甘い香りで包まれます。高校の頃、教室の窓から一目十万本といわれる森の杏のコーラルピンクの花が見えました。授業そっちのけで見とれたこともありました。

 蕗を取り終えて妻女山展望台に上がると、春休みなので県外からも観光客がたくさん訪れていました。眼下では、新赤坂橋の開通式が開催中。小学生の打つ真田太鼓の響きが山上まで聞こえてきました。長芋畑では春掘りの長芋の収穫が最盛期です。千曲川の河川敷で雲雀が鳴き出すと、いよいよ山菜の季節が本格的に到来します。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
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五量眼塚古墳は間違い!斎場山古墳です!(妻女山里山通信)

2009-03-16 | 歴史・地理・雑学
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 雨後の暖かさに誘われて妻女山へ。たまたま訪れていた神奈川の方達に妻女山展望台は、戦国時代は赤坂といい、本当の妻女山は斎場山といってあそこですと、展望台から西南西に見える斎場山を教えてあげました。なかなか歴史に詳しい方々でしたので、武田別働隊の経路や妻女山から斎場山、陣場平辺りの江戸時代から伝わる第四次川中島合戦の概要を説明させていただきました。史実かどうかはさらなる検証が必要ですが、『甲陽軍鑑』に記された、あるいは、江戸後期の『甲越信戦録』に記された上杉軍の布陣や斎場山周辺の詳細な地名は、地元ならではの解説ができるというものです。

 その後、林道倉科坂線を歩き、途中から二本松峠(坂山峠)への山道、倉科坂を登りました。昔は倉科へ越える重要な交通路で、幅6尺の街道があったとされるところです。現在は、上部と下部に広い街道の名残がありますが、途中は沢になったり藪になったりで不明朗な箇所もあります。それでもなんとか二本松峠にたどり着きました。ここから倉科へ下りる道の方が、あんずの里ハイキングコースなので整備されています。

 今日はピークハントをしないと決めてきたので、天城山(てしろやま)へは登らずに、南面の巻き道を辿り、唐崎城跡へ続く岩場に出ました。鞍部のダンコウバイは、かなり膨らんだもののまだ蕾でした。恐らく今週の暖かさで開花するでしょう。そして、秘密の山蕗の群生地へ。この雨と暖かさでたくさん出ていました。食べる分だけを採取。その後、近道をして斎場山へと向かいました。

 いつものように斎場山の墳丘裾を登っていくと、この辺りの千曲市の低山でよく見られる茶色の木の標識が立っています(写真)。あれ、ここは長野市なのにこんなところにもと思って見ると、「斎場山・妻女山 標高512,8M 上杉謙信陣営跡」 とあります。512,8ではなく、512.8が正しいはず。日本や英語圏の国は、小数点にピリオドを使います。これを書いた人はフランス人なのでしょうか(笑)。加えて、メートルは、Mではなく小文字のmでなければなりません。 

 それ以上に困った表記が、一番上の「五量眼塚古墳」という表記です。この表記の根拠は、恐らく千曲市が更埴市だった頃の『更埴市史』第一巻 古代・中世編(平成六年発行)の350頁上段、北山古墳群の文中にある「妻女山の山頂にある五量眼古墳は、」という記述に基づいているものと思われます。未調査でやや古手の古墳と思われるという記述もありますが、既に調査はされていますし、土口将軍塚古墳より新しいともいわれています。

 しかし、この五量眼という記述そのものが誤りなのです。そもそも五量眼というのは、斎場山から西方へ100m弱下ったところにある御陵願平(ごりょうがんだいら)が、その名称の発祥地です。長野県地名研究所の『長野縣町村字地名大鑑』によると御陵願平ではなく、御陵安平と記されていますが、これは聞き取り調査の際に誤記されたものではないかと思われます。

 その御陵願平は、古代斎場山古墳や天城山(手城山・てしろやま)の坂山古墳を拝むための場所だったといわれています。また、現在麓にあるこの地の産土神・古代科野国国造の妻、会津比売命を祀る会津比売神社が、往古はここにあったという説もあります。その陵願平が転訛して、龍眼平、竜眼平、両眼平などと記されるようになりました。これらはすべて俗称です。そこから拝んだことで、斎場山古墳が、陵願塚、龍眼塚、両眼塚などと呼ばれるようになったわけです。

 他には上杉謙信が第四次川中島合戦で本陣としたという伝説から、床几塚とか謙信台などとも呼ばれますが、これらもすべて俗称です。その俗称の中でも、五量眼塚というのは、最も下位に属するもので、私の周りではこの表記を知る人は皆無です。その『更埴市史』に一カ所見られるだけです。
 『更埴市史』は、その他にも陣場平のコブの写真に斎場山とキャプションをつける誤りがあります。あそこは旧清野村の字妻女山の最高地点で、斎場山ではありません。

 古墳というのは通常、森将軍塚古墳や土口将軍塚古墳のように大きなものは村名で呼ばれますが、一般的にそれ以外の古墳の場合は、立地する小字名をもって呼ばれます。ですからそれに従えば、斎場山古墳の場合は、旧岩野村字妻女、または松代町字岩野小字妻女ですから、「妻女古墳」か「妻女山古墳」とすべきなのですが、これには問題があります。

 なぜなら、現在、国土地理院の地形図において、妻女山と記されているのは、斎場山のことではなく、妻女山松代招魂社のある旧赤坂山のことだからです。そして、ここにも古墳があり(明治村誌では赤坂山古墳)、妻女山古墳となると重複してしまい混乱が生じます。

 ですから、この古墳の名称は、往古の山名、斎場山から「斎場山古墳」とするのが最も相応しいということになるのです。いずれにしても、私のサイトを見た人が斎場山まで足を伸ばすこともあると思います。インターネットの時代ですからブログなどで、この標識や名称が紹介されることの影響を考えると、このままでいいわけがありません。標識設置の責任者名が書いてないのも問題です。なるべく早く対策を講じなければと考えています。
参考資料:『岩野村誌』(明治13年調査)、『神話の舞台は北信濃』安藤光彦他、及び里俗伝による

★妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
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倉科の里へ節分草再び(妻女山里山通信)

2009-03-14 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 雨上がりの午後、所用の帰りに先日訪れた倉科の節分草群生地に再び立ち寄りました。前回とは異なり既に数代の車がありました。ニュースやネットで開花の情報が流れ始めたからでしょう。現地を訪れると男性がひとり撮影中でした。以外と静かです。

 雨上がりなので、花びら(本当は萼)に雨露がたまっているのを撮影したかったのですが、以外に陽射しが強かったせいか、思ったほど水滴がついていませんでした。それでも濡れた花びらから葉が透けて見えたりして、それなりの風情がありました。

 群生地全体に花が咲き誇るのは、もう少し先になりそうです。帰りに林道脇で蕗をいくつか見つけたので採りました。帰って蕗味噌を作り、酒の肴にしながら節分草の写真を加工しました。カタクリやキクザキイチゲなどもまもなく咲き始める信州の春です。また、倉科は森と並んで杏の里でもあります。4月上旬には杏のコーラルピンクの花が咲き誇るでしょう。

 最後の森のカットは、節分草群生地。上の山は杉山(大嵐山)。3月1日に、すぐ近くの三滝から鏡台山に登り、この杉山経由で戸神山脈を妻女山まで歩きました。その尾根が真上に見えています。そのフォトルポは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】でご覧ください。

 信州は、里にも心にも春の訪れを待つ今日この頃です。

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武田別働隊の経路を辿る鏡台山-妻女山縦走トレッキングアップ!(妻女山里山通信)

2009-03-06 | 歴史・地理・雑学
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 武田別働隊が辿ったとされる経路のひとつ、唐木堂越から妻女山への長~い長~い尾根を鏡台山から歩いたトレッキング・フォトルポアップしました。フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】の記事をご覧ください。

 倉科の節分草ルポもあります。
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節分草を求めて倉科の里へ(妻女山里山通信)

2009-03-02 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 早春に咲き、2、3ヵ月でその年の生活サイクルを終え消えてしまう植物は、スプリング・エフェメラル(Spring Ephemeral、春の妖精、春のはかない命)と呼ばれますが、カタクリと共にその代表的な花といえるでしょう。条件が整うところでは、広い林床を埋め尽くすように咲くようですが、心ない人の盗掘や環境の悪化で各地で絶滅が心配されている植物でもあります。(絶滅危惧植物II類)

 前日、三滝から鏡台山へ登る際に、節分草が数輪咲き始めましたという2月24日付けの案内を見ました。また、途中で出合った地元の人にも花を見に来たの?と聞かれたのですが、その時は、方向が違うので後ろ髪を引かれる思いで三滝へ向かいました。

 午後時間が空いたので、節分草を愛でに出かけました。信州の北限の自生地といわれるのが、この倉科の節分草です。自生地としては、やや南の戸倉の方が規模も大きく有名なのですが、こちらの方が自然の環境が保たれています。

 3月19日まで林道が通行止めなので、旧村長石碑の空き地に駐車して林道を登ること約15分。谷の西向きの斜面にその群生地はあります。群生地は、以前はただの林だったのですが、現在は遊歩道があります。満開になっても花が小さく地味なので、華やかさはありません。しかし、その北欧的ともいえる清楚な色合いは、見る人の心を癒してくれます。

 セツブンソウ(節分草)は、キンポウゲ科セツブンソウ属で、本州の関東地方以西に分布する、高さ10センチほどの小さな多年生草本。花の直径は約2センチ。花びらに見えるのは萼です。先が黄色く見えるのが退化して蜜腺になった花びらです。

 山地の落葉広葉樹林の林床に生え、石灰岩地を好む傾向があります。関東では節分の頃に咲くのでこの名がありますが、東京では暖冬には1月に咲くこともあります。信州では3月下旬の花でしたが、今年は暖冬のためかかなり早いようです。

 雌しべは5月の中ごろに熟し、種子を蒔いた後で地上部は枯れてしまいます。種子から開花まで3年以上かかるわけですから、林床の環境が良い状態で続かないと生育できないわけです。セツブンソウの種は、黄色い蜜と一緒にアリが巣に運んで発芽するのだそうです。昔は雑木林に入って草刈りをしたので、明るい林床にセツブンソウがたくさん咲いたのだとか。カタクリも同様、人の暮らしと密接な関係にある植物だったのですね。ですから、自生地の環境が破壊されると真っ先に消える植物です。

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武田別働隊の経路を辿って鏡台山から妻女山へ(妻女山里山通信)

2009-03-01 | 歴史・地理・雑学
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 江戸後期の『甲越信戦録』には、武田別働隊の動きをこう記してあります。
「武田方の妻女山夜討の面々は、子の刻に兵糧を遣い、子の半刻(月が隠れる午前1時頃)に海津を出べし。経路は西条の入より、唐木堂越(坂城日名の方へ出る道なり)に廻るべし。これより右手の森の平にかかり、大嵐の峰を通り、山を越えて妻女山の脇より攻め懸かるなり。この道は、甚だ難所なれども、ひそひそ声にて忍び松明を持ち、峰にかかり、谷に下り、あるいは山腹を横切り、次第に並ぶ軍勢これぞひとえに三上山を七巻き纏いしむかで(滋賀の伝説)の足卒苦して打ち通る。」

 というわけで、武田別働隊が辿ったとされる経路のひとつ、唐木堂越から妻女山への長~い長~い尾根を鏡台山から歩いてみました。 先日の雨が鏡台山では雪だったようで、前回のように三滝から沢を登りましたが、積雪が思いの外多く、三滝山から上は40センチの。笹藪上のラッセルを強いられました。三滝山は登山道もなく、林道から作業道へあがり笹藪を山頂目指してひたすら登りました。なんとなくぼんやりした山頂から、倉科コース目指してまたまたラッセル。やっと登山道に出たと思ったら、踏み跡がまったくなく、やはりバージンスノー。

 転げるように北峯を下り、鏡台山に着くと御婦人方がたくさん。お昼もそこそこに戻ると、また三滝山へ。尾根通しを強引に下り、大嵐山(杉山)への林道へ。林道が切れたらヤブ山を登って大嵐山、御姫山、母袋(深)山、鞍骨山、天城山、斎場山(妻女山)へと攻め込みましたが蛻の殻。すごすごと妻女山(赤坂山)展望台へ。長い一日が終わりました。

 海津城を出発し、西条の唐木堂から坂城日名の方へ出る街道は、戸神山(三瀧山)で倉科へ下る傍陽(そえひ)街道とも繋がっています。尾根づたいもありますが、倉科に下れば、倉科坂を二本松峠から天城山へ登り、堂平から上杉の陣城があったといわれる陣場平へ攻め込むことも可能。倉科尾根に登って天城山西の鞍部から堂平経由で陣場平へ攻め込むことも可能です。倉科から生萱の山裾を巡り、土口笹崎から攻め上がることもできます。斎場山(妻女山)の上杉軍も各所に分かれて布陣しているわけですから、それに見合う部隊を各所へ攻撃に充てればいいわけです。ゲリラ戦ですね。

 史実がどうかはともかく、父も子供の頃に妻女山から鏡台山へ遠足に行き、帰りは西条へ下りて松代経由で帰ってきたといってました。戦国時代の侍が歩けないわけがないですね。ただ、やはり人数の多さを考えると、複数のルートを使ったと考えるのが妥当かと思われます。それにしても長いコースです。1/10000の地形図とコンパス、土地勘、体力が必須のコースです。途中の鞍骨城跡で、遠くなった鏡台山を眺めながら、やはり遠い戦国時代に想いをはせました。人間はなぜ争い続けるのでしょうか。七度の飢饉よりも一度の戦の方がいやだと、当時の人も記しているのにです。戦争は人が死ぬだけでなく、生きながらえても多くの心の病も引き起こします。

 倉科の節分草が数輪咲き始めたそうです。


このトレッキングを、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしましました。ご覧ください。
「鏡台山-妻女山」←クリック!


★妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
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