モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

安曇野へ。穂高神社の御船祭。安曇族と徐福。シンビズム3の展覧会。天然舞茸をゲット(妻女山里山通信)

2019-09-29 | アウトドア・ネイチャーフォト
 週末は所用で安曇野へ。翌日は長男に手伝ってもらいバンパーの修理。穂高神社の御船祭の山車を見学し参拝。安曇野高橋節郎記念美術館内で開催の「シンビズム3」の展覧会へ。ゆるゆると秋めく403号を善光寺平に戻り、入浴して無事に帰還しました。翌日は曇りの予報が晴れ。キノコ狩りで天然舞茸をゲット。3年ぶりです。

(左)長男に手伝ってもらいバンパーの凹みを修理。取り外すのが大変でした。(中)バンパーの中で息絶えていたモンキチョウ。どうしてこんなところに入り込んだのでしょうか。(右)やっと外れました。硬質発泡スチロールがありました。なんじゃこりゃです。熱湯をかけてバンパーの変形を修理してバンパーをセットしました。やれやれ。撮影や里山保全で狭い林道を走るのであちこちボコボコ(凹凹)です。ずっと前ですが、リアドアも壊して取り替えました。

 昼は行雲流水というラーメン屋へ。私は辛味噌ラーメン。息子は担々麺の肉盛り。スープが野菜ポタージュなのでとろっとろ。美味でした。手伝ってもらったので私のおごりです(笑)。

 穂高神社へ。昨日行われた御船祭の山車を観に行きました。2艘の船をぶつけて競い合います。海人安曇族の祭りです。境内にはその山車が走り回った痕跡がありました。

 実際の祭りの様子です。幕の色がフランス国旗と同じトリコロールなのが面白いですね。フランスとは無関係でしょうが。山国の信州で御船祭。海人の安曇族との関係があります。さらに安曇族と徐福との関係も。秦の始皇帝の時代に、秦の始皇帝を日本に不老不死の薬を探しに行くと欺き、結局村人全員が日本に帰化した失われたユダヤ11部族のひとつといわれる人々。大和朝廷の元祖とも、諏訪大社の元祖とも。伊勢神宮に残るユダヤの印。日本人のルーツや古代史がそこに秘められています。私が研究しているのもそれなのです。

(左)穂高神社の手水舎。(右)近年再建された拝殿。本殿はその背後にあります。穂高神社は式内社(名神大社)、信濃国三宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。 安曇野市穂高の本宮(里宮)のほか、松本市安曇の上高地に奥宮、奥穂高岳山頂に嶺宮があります。安曇族は、福岡県志賀島の志賀海神社が発祥地とされ、古代中国からの帰化人といわれています。古くは諏訪大社の影響もあり、『定日記』によれば境内には諏訪神を祀る南宮があり、御柱を立てる習慣もあったといいます。
穂高神社公式サイト

(左)結婚式が行われていました。お嫁さんは美しい方で、幸せそうに微笑んでいました。現在結婚するカップルの半分が披露宴をしていません。近所でもそうです。貧困だけだはなく、財力があってもしない人も。家族や結婚の価値観が激変していると思います。(右)拝殿内部。

(左)穂高神社に奉納された安曇野の銘酒。信州は酒造メーカーが各地にあり、四つの平では居酒屋で置いてある日本酒がまったく違うのです。銘酒がたくさんあり、個性的です。(右)次に安曇野高橋節郎記念美術館内で開催の「シンビズム3」の展覧会へ向かいました。シンビズムは、今後、長野県の中野市や上田市、茅野市で異なる展覧会が行われます。ぜひ検索を。

(左)大曽根俊輔氏の作品。乾漆造の仏像にヒントを得て制作された乾漆彫刻のカバ。いいですね。思わずすりすりしたくなりますが、触るのはだめです。土蔵に展示されています。(右)高橋節郎氏の本宅だった建物も美術館です。

(左)眞板雅文(まいたまさふみ)氏の作品。故人ですが、学芸員の方が教えてくれましたが、奥様が来館されていました。日本の伝統工芸や暮らし、風景を想起させる温かい作品だと思いました。(右)米林雄一氏の作品。JAXAとも関係があるようで、宇宙を連想させる作品です。

(左)古民家を展覧会場にするのはいいですね。庭には赤松や山紅葉、信濃柿などが。(右)眞板雅文氏の「水鏡」という作品。水面に映る秋の移ろい。盛者必衰会者定離。移ろう時の儚さと美しさ。落ち葉もまた作品の一部。

 美術館は安曇野の田んぼの真ん中にあります。多くは稲刈りが済んでいましたが、まだ黄金色に輝く田んぼも。向こうに長峰山。美しい黄金色の景色。都心の美術館とは全く異なる素敵な佇まいと趣があります。

 帰路は403号をのんびりと帰ります。聖湖では、太公望がへらぶな釣りに興じていました。あれ!正面にあった廃墟のホテルが取り壊されています。

 翌日はキノコ狩りへ。道もない藪山を歩いて急斜面を下り登り目当てのシロへ。ありました。3年ぶりの天然舞茸を三ヵ所で採りました。天然物は、味も香りも段違いに強く旨味も濃厚です。小さなものは残しました。それでも袋いっぱい採れました。雨が降ったらまた採りにいきます。今年はあるはずと予測していたので踊りませんでしたが、踊りたくなる気持ちは凄く分かります。

(左)山椒の赤い実。(右)ノコンギク。

 長い山行を終えて陣馬平へ。川中島の戦いで上杉謙信が七棟の陣小屋を建てたと伝わる平地です。ミズヒキが咲いています。まだミンミンゼミとヒグラシが鳴いています。夏の名残と秋の気配。里では金木犀の香りも漂いはじめました。郷愁と一抹の寂しさを感じる風景です。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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上杉謙信が築城し、景勝と景虎が争った「御館の乱」で有名な鮫ヶ尾城へ。「倭国大乱」の頃からの斐太遺跡。秋桜(妻女山里山通信)

2019-09-19 | 歴史・地理・雑学
 二泊三日、日本海へ車中泊の旅の二日目です。前日は暑くて汗だくでした。夕方になっても27度からなかなか下がらず参りましたが、日没後は海風も吹いてしのぎやすくなりました。翌朝は、8時頃に出発。国道8号を東へ向かいました。6月には春日山城跡へ行きましたが、今回は「御館の乱」でも有名な鮫ヶ尾城(さめがおじょう)へ。

(左)道の駅・マリンドリーム能生の朝。連休なので車中泊の車もたくさんいました。キャンピングカーも数台。(中)散歩をしていると息絶えたオニヤンマがいました。餌の羽虫を抱えています。尾部に産卵弁が見えるのでメスでしょう。成虫の寿命は2ヶ月ぐらいなので、命を全うしたのかもしれません。(右)ピンぼけですが、富山といえば鱒の寿司。朝日町の道の駅で買いました。夕食です。これに信濃町で焼きとうもろこしを2本とツマミを買いました。ビールと赤ワインで晩酌です。

(左)国道8号から63号を南下し、鮫ヶ尾城跡へ。駐車場脇に鎮座する延喜式内社の斐太神社(ひだじんじゃ)。周辺には弥生時代後期後半の「倭国大乱」の頃からの斐太遺跡があります。北方に観音平古墳群、南方に天神堂古墳群があります。200軒を上回る竪穴建物跡を有する東北日本最大規模の遺跡です。越の国からの渡来人と関係があるのでしょうか。
 呉越というときには、春秋時代、呉(ご…BC585~BC473 春秋時代に存在した国。現在の蘇州周辺を支配した。紀元前478年に越王勾践によって滅ぼされた)と越(えつ…BC600~BC334 春秋時代に浙江省のあたりにあった国)と、紀元後の五代十国時代に呉越という国があったので混同しないよう注意が必要です。「呉越同舟」は、前者の話です。もし、両者が渡来したのなら、倭国大乱が起きても全く不思議はありません。また別の説では、高句麗の襲来によって倭国大乱が引き起こされたというものもあります。(右)数分登って鮫ヶ尾城跡へ。斐太遺跡の古墳時代の竪穴式住居の再現が見られます。奥に案内所。係の女性に行き方を教わりました。

 鮫ヶ尾城の図(上越マイスターと呼ばれた大塚直吉氏作)。分かりやすく非常に美しい図絵ですね。これを頭に叩き込んで出発です。
 鮫ヶ尾城は、武田信玄の北上に備えて上杉謙信が築城したものです。拙書でも紹介の信州の北国街道沿いの髻山城は、善光寺平を見張る橋頭堡の様な山城でした。この鮫ヶ尾城
は謙信の死後、二人の養子の景勝と景虎が争った「御館の乱」で、敗走した景虎が自刃した悲劇の城としても有名です。

(左)池の周りを歩いて向こう側の城跡へ。(右)斐太遺跡の図。奴国大乱で軍事的緊張が高まった時期に、短期間に使われた一過性の集落だそうです。その後、人々はどこへ行ったのでしょうか。信州へ逃れた人もいるのではないでしょうか。春秋時代の紀元前480年頃に越により滅びた呉のエリートが渡来。紀元前330年頃に滅びた越が渡来とすると、日本全体で60万人といえども渡来した地域は近かったはずで、奴国大乱が起きても不思議はないと考えます。5月に鳥取で弥生時代の110体におよぶ人骨が発掘されましたが、皆頭や体に襲われた大きな穴が開いていました。奴国大乱の証拠かもしれません。先に渡来した呉の民が越の民を襲ったのか。逃れた人々が斐太遺跡に隠れ住んだとはいえないでしょうか。
 後の古墳時代初期。古代科野国の崇神天皇に任命された初代科野國造の武五百建命は大和系。その妻の會津比賣命は出雲系。政略結婚かもしれませんが、大国主命に略奪結婚をさせられた奴奈川姫のような悲劇性は感じられません。もしかしたら、奴奈川姫は越の末裔かと。大国主命は呉の末裔かと。
 そしてその後中国を統一した秦の始皇帝。その皇帝に上申し、不老不死の薬を探すと村人一同と渡来し戻らなかった徐福。中国では歴史家が、神武天皇は徐福であり、大和朝廷の元祖である(後の葛城氏)という説も唱えています。徐福は、古代ユダヤのいなくなった11部族のひとつとも。伊勢神宮などに残るユダヤの印。八咫烏や烏天狗。古代史の謎は深海の様に深く神秘的です。

(左)城跡の尾根に乗ります。広くなだらかな斜面です。(右)やがて急になり、郭跡と思われる平地も出現します。前夜雨が降ったために湿度100パーセント。立ち止まるとヤブ蚊に襲われるので、立ち止まることもできません。

(左)シロオニタケの幼菌。毒キノコです。テングタケ科のキノコは猛毒のものがあるので要注意です。一度は食べられますが、二度目はありません。(右)堀切が各所に見られます。

 城跡の等高線地図。下から尾根を登ってきました。本来の正面は左の尾根で、虎口もそちらにあります。帰りは右の谷筋の道を下ります。等高線が詰まったところは崖といっていいほどの急斜面で、敵の攻撃を防ぎます。

(左)本郭。キアゲハが舞っていました。(右)本郭からの眺め。四阿のベンチに座ってしばらく沈思黙考。兵どもが夢の跡。

(左)下ってすぐに咲いていたセンニンソウ(仙人草)。キンポウゲ科の毒草ですが、いい香りがします。(右)フジバカマ(藤袴)と似ていますが、葉が三裂していないので、ヒヨドリバナ(鵯花)でしょう。妻女山のヒヨドリバナでは、アサギマダラが吸蜜する姿が見られます。

(左)たぶんシシウド(猪独活)。セリ科シシウド属の多年草は、似たものが多く、なかなか見分けが難しいのです。花火の様な美しい花です。(右)ツリフネソウ(釣舟草)。色といい形といい艶めかしい花です。こんな風に濡れると余計に。

 案内所に戻って係のおばさまにお茶とふかしたサツマイモをいただきながら談笑。撮ってきた植物やキノコの写真を見てもらうと興味を示してくれました。ではと、拙書を出して上杉謙信が布陣した本当の妻女山(斎場山)の話も。
 すると、ここはカタクリで有名だけれど、アケボノシュスラン(曙繻子蘭)の群生地があるので行ってみませんかと。花は見られませんでしたが、右は蕾(つぼみ)でしょうね。花期はこれからの様です。新潟では普通の山野草ですが、長野県では準絶滅危惧種です。咲き終わって種になったキンラン(金襴)も見せていただきました。色々楽しい話をさせていただいて出発。開花期にまた来られるといいのですが。早春のコシノコバイモ(越の小貝母)も見たいですね。

 お腹が空いてたどり着いた道の駅あらいのきときと寿し。連休ですから大混雑。それでも30分でカウンターへ。今回はおすすめメニューをいただきました。ホウボウ・松かれい・かわはぎ・活ばい貝・しまあじ。そして締めは高級魚ののどぐろ。アサリの味噌汁を添えて。他に三皿食べたのですが忘れました(笑)。小雨降る中を関山神社へ向かいました。

 関山神社。 妙高山岳信仰の神社。妙高山は奈良時代の和銅元年(708年)に裸行上人が開山したと伝えられています。平安時代後期に木曽義仲、戦国時代には上杉謙信も戦勝祈願をしています。現存する火祭りは修験道の証。

(左)木鼻の唐獅子と貘。(右)関山三社権現の本尊仏。中央に聖観世音菩薩。左右に十一面観世音菩薩と文殊菩薩。

(左)荘厳な神輿。(右)近くにある仏足石。中央に釈迦の左足形。右に華判(釈迦の実印)、左に舎利塔が彫刻されています。奈良の薬師寺の仏足石に次いで二番目に古い南北朝時代の作と考えられています。

 結局この日も汗だくだったので信濃町の苗名の湯に入り、道の駅しなのへ向かう途中で道路脇にコスモス(秋桜)が咲いていました。しばし車を止めて鑑賞。脳内を山口百恵の「秋桜」が流れていきました。
秋桜 山口百恵 コスモス



 道の駅しなのの夜。夜半に霧雨が降り出しました。FM長野のユキ・ラインハートのA・O・Rの8時からの特集は、映画『ロケットマン』が上映中のエルトンジョンの特集でした。次の三連休には必ず観に行きます。バニー・トーピンとの逸話など素晴らしい番組でした。微かな雨音を子守唄に眠りにつきました。

(左)翌朝は6時に起床。秋桜の向こうに黒姫山。6時半に斑尾高原に向けて出発。斑尾高原は雨でした。(右)今回買い求めたお土産の一部。マリンドリーム能生で買った鮫の歯のお守り。翡翠のお守り。店の女性が一緒に選んでくれました。一番透明度が高いものを購入。関山神社で求めたキャッツアイの御神籤。御神籤はともかく、地球の歴史を語る宝石というか鉱物が好きなのです。マリンドリーム能生では、カニ味噌の瓶詰めを。道の駅しなのでは、前回も買ったお気に入りのヨーグルトのお酒「信乃大地」と妙高高原ビール一番人気のダークラガーを買いました。

 斑尾高原から飯山に下りました。千曲川の上に雲がたなびいています。左には信越トレイルの山並み。飯山から木島平へ、中野から小布施へ。松代から戸倉上山田温泉へ。入湯して帰りました。いい旅でした。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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白馬・小谷・糸魚川経由で親不知。芭蕉も歩いた海岸へ。翡翠と奴奈川姫。ヒスイテラス。マリンドリーム能生(妻女山里山通信)

2019-09-17 | アウトドア・ネイチャーフォト
 三連休+1は、二泊三日で日本海へ車中泊の旅にでかけました。初日は車の修理に追われ、慌ただしく準備して、翌朝出発。まず白馬に向かいました。夏バテやら過労気味なので初日はあちこち寄らずに、親不知へ直行。行ったことのない海岸へ下りました。

 中条、小川、美麻を経て景色が開けると白馬三山が姿を現します。県外ナンバーの車がたくさん。ここから小川村から糸魚川までは、長いトンネルや洞門がいくつも続きます。けっこう神経を使います。昔は塩の道で山を超えて行ったと思うと絶句します。

(左)小谷村の小さな集落。稲刈りも間近です。(右)昨年の8月にオートキャンプで訪れた大久保のキャンプ場。ひとり男性がキャンプしていました。戸土の廃村へ行こうと思いましたが工事中で断念。
糸魚川市しろ池の森でキャンプ・紅ズワイガニ・天津神社奴奈川神社・フォッサマグナミュージアム(妻女山里山通信):出雲系諏訪系の歴史と海鮮三昧
糸魚川市しろ池の森でキャンプ・薙鎌神事の廃村戸土・栂海新道登山口・親不知・再び海鮮三昧・帰路(妻女山里山通信):とどのつまり

(左)日本の近代化を支えた親不知隧道。今回は左の地図の右側へ初めて下りました。(右)トンネル内部から東側の入り口と沢向こうの遺構。

 そこから下りると、松尾芭蕉も歩いたという親不知の海岸へ。昔はどんな海岸だったのでしょう。波もほとんどなく日本海は静かですが、砂利浜は途切れていて、現在はとても歩けません。正式には親不知・子不知といいます。親子でも人のことは構っていられないという交通の難所だったのです。
歌川広重の「親不知」:これは干潮時でしょうね。加賀藩は、参勤交代のときに人の盾で守ったとか。

 戻って親不知の展望台へ。暑くてもう汗びっしょりです。高速道路は海の上。右の洞門はアップダウンがありカーブの連続で、運転は慎重さが求められます。必ず点灯を。

(左)道の駅「親不知ピアパーク」の海岸から見る親不知。(右)ピアパークにある「翡翠ふるさと館」の、世界最大級の102トンの翡翠の原石。

 翡翠といえば、大国主の命が略奪婚をしたという奴奈川姫(ぬなかわひめ)。もとは土豪の妻で、翡翠に象徴される姫だったという言い伝えも。大国主の命との間に諏訪大社の祭神の建御名方命を授かったが、夫婦生活は不遇だったのか、この地に戻り自死したと伝えられています。来年は、信州に多い諏訪系の神社のルーツを求めて出雲大社に向けて放浪しようと思います。
 大和系より早く渡来した出雲系。私は紀元前480年頃(縄文から弥生に移る頃)、春秋戦国時代の中国大乱の時代に滅びた呉のエリートが渡来したと考えています。呉(くれ)という地名、和服を売る店を今でも呉服屋といったり、呉織や呉布という言葉が現在まで残っているという事実。その後渡来したと思われる越の人々。越前、越後に残る足跡。鮫ヶ尾城跡の中腹に残る、倭国大乱の時期にだけ作られたという集落。縄文末期の8万人の人口が弥生に60万人に増えたという事実。弥生末期でも弥生人に縄文人のDNAは2%しかなかったという事実。縄文人を北(アイヌ)と沖縄に追いやったのか。魏志倭人伝に書かれた、卑弥呼が平定するまで倭国大乱があったということ。秦の始皇帝に上申して渡来し全国に散らばったた大和王権の祖といわれる失われた古代ユダヤの一部族の徐福と村人たち。伊勢神宮などに残るユダヤの印がその証拠か。我々が思う以上に古代の人々は高度な文明を持ち、流動的だったのです。
*秦とは中国古代の王朝で、周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。

(左)昼は富山県の朝日町まで足を伸ばしてドライブイン森金へ。たら汁が名物で美味しいのも分かっていますが、とにかく暑いのでたらの煮付けとバイ貝の煮付け、ヒラマサの刺身など。美味でした。(右)日本海ヒスイラインを渡ってヒスイ海岸へ。

(左)ヒスイ海岸にある観光交流拠点施設「ヒスイテラス」。昨年にオープン仕立てで、イベントも開かれます。(右)翡翠の展示。

(左)ヒスイ海岸から望む親不知。たくさんの人が翡翠を探していました。(右)糸魚川へ戻ってマリンドリーム能生へ行く前に「長者温泉」で汗を流しました。宿泊施設もあります。おそらく左の茅葺屋根がそうかと。

(左)さっぱりして「マリンドリーム能生」へ。ベニズワイガニは、今年たくさん食べたので、鮮魚センターへ。(右)おそらく今年最後の生牡蠣を堪能。

(左)カモメと夕焼け。(右)旧北陸線を利用した「久比岐(くびき)自転車道」のキャラクター・久比岐 凛。今回も走っている人を何人も見かけました。

 マリンドリーム能生に日が沈みます。釣りをする人たちも。

 日没間近。大勢の人たちがこの夕日をスマホで撮影していました。明日は上越市の上杉家の内乱「御館の乱」で有名な鮫ヶ尾城跡へ向かいます。

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約2ヶ月ぶりに妻女山の陣場平(上杉謙信陣城跡)へ。甘い香りの仙人草を求めて(妻女山里山通信)

2019-09-07 | アウトドア・ネイチャーフォト
 この夏の多雨で里山はグズグズ。林道や登山道は酷い泥濘状態でとても登る気にはなれませんでした。加えて仕事が忙しく過労気味。ようやく晴れが続いたので山仕事の道具を積んで陣馬平へ、ミンミンゼミが煩いほど鳴いています。車を降りるとコバエの攻撃。歩けば引っ付き虫だらけ。夏でも秋でもなく、9月の里山は一年で最も魅力のない季節かもしれません。しかし、わざわざ来たのにはわけがあります。

 妻女山松代招魂社。左に慰霊碑ができました。オオムラサキは姿を消しました。

(左)戊辰戦争から第二次世界大戦までの戦没者の慰霊碑。(右)車で陣場平へ。落枝はありましたが倒木はなく安心しました。枯れた山桜を伐倒した跡がありました、どなたでしょうか。ありがとうございます。陣場平は草が生い茂っています。目立った昆虫は見られません。

(左)ミズヒキ(水引)。タデ科イヌタデ属。初秋を彩る野草です。(右)つゆくさ(露草)。藍花(あいばな)、 月草(つきくさ)、 蛍草(ほたるぐさ)、大帽子花(おおぼうしばな)など。
「つき草のうつろいやすく思へかも我(あ)が思(も)ふ人の言(こと)も告げ来(こ)ぬ」(万葉集巻4 583)
 月草之 徒安久 念可母 我念人之 事毛告不来
「つき草に衣(ころも)ぞ染(し)むる君がためしみ色(或 まだらの)ごろもすらむと思(も)ひて」(万葉集巻7 1255)
 月草尓 衣曽染流 君之為 綵色衣 将摺跡念而

 ジョロウグモ(女郎蜘蛛)。夏から秋に見られる普通の蜘蛛。これはメスでオスはすごく小さい。

 堂平大塚古墳へ。友人だった亡きKさんの慰霊碑に久しぶりにお参りしました。閑さや岩にしみ入る蝉の声。

 千曲川越しに望む鹿島槍ヶ岳。9月は残雪が最も少なくなる季節です。黒富士も9月。

 陣場平下のギャップへ。このセンニンソウが目当てで登ってきました。ブライダルブーケの様に咲き乱れるこの花は、野草の中ではトップクラスのいい香りがします。

 美しい花ですが、キンポウゲ科センニンソウ属のかなり強い毒草です。

仙人草の毒と薬用成分

(左)センニンソウにシロテンハナムグリ。(右)キツリフネ(黄釣船)。ツリフネソウは咲き終わっています。

 妻女山展望台に戻って北に飯縄山。AC長野パルセイロのホームスタジアム。手前は名産の長芋畑。

 東は松代方面。左に拙書でも紹介の奇妙山。右奥にこれも拙書に掲載の根子岳と百名山の四阿山。

 西には手前に茶臼山と右後ろに虫倉山。左奥に白馬三山。

 温泉に行く途中に土口水門からの千曲川と仁科三山。左から爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、山頂だけ見える五竜岳。青い千曲川の流れが美しい。温泉に入って帰ってビールを飲んで昼寝。本当に久しぶりの休息です。

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