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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

風林火山・妻女山支脈にある土口将軍塚古墳が…。【妻女山里山通信】

2007-11-28 | 歴史・地理・雑学
 妻女山支脈の西端・笹崎山にある土口将軍塚古墳が、平成19年2月7日に「国指定史跡」になりました。この古墳は、埴科古墳群のひとつですが、今回の指定は、森将軍塚古墳・倉科将軍塚古墳とともに「信濃の国」の起源とされる「科濃の国」の史跡としての重要性が認められたということだと思われます。つまり、このことで、一層斎場山の山名記載が重要なものとなってきたわけです。

 原初科野は、シナノ・シナヌといい、その範囲は埴科であったといいます。斎場山は、その中心にあるわけです。長野県考古学会長であられた故藤森栄一氏は、『古墳の時代』の中において、「四世紀頃、川中島を中心に、大和朝廷の勢力が到来して、弥生式後期の祭政共同体の上にのっかって、東国支配の一大前線基地となっていたことは事実である。」と記しておられます。その痕跡は、森将軍塚古墳・石川将軍塚古墳・土口将軍塚古墳などに見ることができというわけです。また、屋代遺跡群からは、大和王朝との深い関係を示す7世紀の国司や郡司の命令が書かれた木簡が出土しています。

 斎場山(本来の妻女山)は、古代科野国造(しなののくにのみやつこ)がお祀りしたところと云われており、歴史的に重要なところです。その科野国造というのは、第十代・崇神天皇の代に、大和朝廷より科野国の国造に任命された、神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔の建五百建命(タケイオタツノミコト)であるといわれています。
 国府が8世紀に小県に移る以前には、雨宮辺りにあったという説もあるのです。森将軍塚を中心として、雨宮一円に古代科濃の国が広がっていたというわけです。

 昭和4年発刊の松代町史には、森将軍塚古墳が建五百建命の墳墓であるという説が記されています。妻女山の麓にある会津比売神社の祭神・会津比売は、建五百建命の后であるといいます。
 1996(平成8)年、会津比売神社新社殿建立の折りに「妻女権現」と記された木札が確認されており、斎場山(妻女山)と会津比売命の関係を示すものとして非常に興味深いものです。会津比売命の父は、皆神神社の祭神の出速雄命。その父は諏訪大社の祭神の建御名方富命。その父は大国主命。つまり出雲系です。建五百建命(武五百建命)は神武天皇の子孫ですから大和系。古代科野国は、大和系と出雲系が結ばれて祖となったというわけです。また、崇神天皇の命で東征した大彦命は、息子と福島の会津(相津)で出会ったといいます。その後茶臼山の麓の長者窪で暮らしたといわれています。その会津を出速雄命が娘に名付けたといわれています。

 建五百建命には二人の息子がいました。兄は速瓶玉命(ヤミカタマノミコト)といい、阿蘇の地にくだり、崇神天皇の代に阿蘇国造を賜ります。弟の健稲背命(タケイイナセノミコト)は科野国造を賜ったといわれています。健稲背命の系図は、科野国造、舎人、諏訪評督、郡領、さらに諏訪神社を祭る金刺、神氏という信濃の名門へと続くものです。

 雨宮坐日吉神社近くには、それより古い雨宮廃寺の跡もあります。8世紀頃雨宮在の埴科郡領・金刺氏が雨宮の斎場橋を渡り、土口から斎場山へ詣でて郡中一般が袷祭(祖先を会わせ祭る)したといわれています。

 妻女山を語る時に、戦国時代のみを注視していてはいけないんです。古代より全時代を通して俯瞰する必要があるんですね。妻女山は、諏訪大社とも深い関係にあって、戦国時代「1488年(長享二)清野氏(正衡の頃か)諏訪社の下社秋宮宝殿造営の郷と定められている。」とあるんですが、諏訪と清野は、かなり距離があるのですが、この地はかつて科野国の斎場(単なる葬儀場ではなく祭祀を執り行う神聖な場所)の中心であり、太古の昔から諏訪や大和朝廷とは深い関係にあって、その歴史と伝統は戦国の世までも継承されていたということではないでしょうか。各時代における斎場山(本来の妻女山)の山名の変遷を抜きにしては、この地の歴史は語れないのです。

 風林火山で再び注目される妻女山ですが、要は、戦国時代の妻女山を語るに於いては、赤坂山を妻女山としてはいけないということなんです。赤坂山がはっきりと妻女山といわれるようになったのは、明治以降だからです。
 1982~1986年にかけて、長野市と更埴市(現千曲市)の教育委員会による土口将軍塚古墳の合同調査がされましたが、その報告書には、土口将軍塚は岩野と土口の境にある妻女山から西方に張り出した支脈の突端にあると記してあります。つまり、円墳のある頂が、往古の妻女山であり斎場山なんです。それ以外に本来の妻女山はないということですね。現妻女山は、昔は赤坂山、あるいは単に赤坂といいました。

 土口将軍塚が、埴科古墳群のひとつとして国指定史跡となったわけですから、今後、土口将軍塚、斎場山古墳や坂山古墳、堂平古墳群なども、いずれ詳細な調査研究が為されるとを期待します。
 また、斎場山は、国蝶オオムラサキが舞う、自然豊かな貴重な里山であることも記しておきたいと思います。

詳しくは、ブログ内検索で妻女山を。本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。また、現地の地図はこちらをご覧ください。
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錦秋の静かなサルギ尾根から御岳山へ

2007-11-26 | アウトドア・ネイチャーフォト
サッカーで忙しい次男とは、夏以来の山歩き。今回は、御岳山に通じる、昔は大岳山の参拝登山道のひとつだったといわれる静かなサルギ尾根を登りました。本来は、高岩尾根というようですが、俗称サルギ尾根が一般には知られているようです。高岩山の名前の通りヤセ尾根の岩場が多く、滑落には要注意ですが、特に危険なところはありません。

この尾根を最初に次男と登ったのが、4年前の秋でした。それより10年以上前から、この養沢にはフライフィッシングで度々訪れ、増水した御岳沢や大岳沢で尺ヤマメを釣り上げたこともあります。その頃から、この尾根の存在が気になっており、いつか登ってみたいと思っていました。また、「関東ふれあいの道」でもある渓相の良い大岳沢も辿ってみたいと思っていました。

4年前に登ったときは、サルギ尾根の情報があまり無く、ネットで検索しても、ほとんど出てこず手探りで登ったのですが、今ではバリエーションルートのひとつとして、静かな山歩きが好きな人達に愛されているようです。昔は大岳山の参拝道だったそうですが、今も割と明瞭な作業道がついています。途中、岩場の急斜面で踏み跡が消えるところもありますが、全体にヤセ尾根なので、稜線を外さなければ迷うようなところはありません。作業道も枝道はなく、そのまま辿ればOKです。

取り付きは、養沢神社の右手裏の竹やぶですが、五日市からのワンマンバスの終点の向かいの石垣の階段を登って、畑道を真っ直ぐ辿り、尾根に乗ることもできます。むしろこちらの方が、昔の参道の登り口だったのかもしれません。

今秋は、寒暖の差が少ないためか、紅葉の色付きはもうひとつでしたが、静かなサルギ尾根は、いつ歩いても気持ちの良いコースです。今回は、初めて芥場峠経由でなく、上高岩山の分岐から岩石園(ロックガーデン)へと下りました。鎖場が多くハシゴ場もあり、かなりの急斜面を下りるので気は抜けませんが、楽しいコースでした。

御岳山は、三連休の最後とあって大賑わい。それでも星三つの高尾山に比べると三連休の割には人が少ないように感じました。まあ、納豆やもずくが食べられないような、調査員の舌など信用できませんし、星三つでも星無しでも、ほとんどの人には全く関係ないと思うのですが…。高尾山は、明らかに人員オーバーで環境への負荷は、許容量を超えていると思います。御岳山も結構危険な天狗岩や七代の滝などに、無防備な観光客が溢れているのを見ると危惧を感じます。ハイヒールで山登りはないでしょう。

そんな訳で、やかましい団体さんが訪れていたので七代の滝はパスしました。馴染みの蕎麦屋も、連休の忙しさのせいか、物価高騰のせいか、蕎麦の味がひどく落ちてがっかりだとは、これが目当てだった次男の言葉。客商売というものは、なかなか難しいものです。

帰りは静かな御岳沢へ。台風の影響で林道が2箇所で土砂崩れ、当分復旧しそうにありません。また、関東ふれあいの道のある、大岳沢は、大滝手前から馬頭刈尾根までが通行止めになっています。高速が混みそうなので、今回は短めのコースでしたが、長尾平園地の高岩連山を眺めながらの日溜まりの昼食は、本当にのんびりできました。

今回のトレッキングのフォトレポは、モリモリキッズでいずれアップしました。最初に次男と登ったルポは、2003年の11月24日です。他にも2004年にも春と秋に、それぞれコースの違うルポがあります。
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きのこ三昧

2007-11-04 | アウトドア・ネイチャーフォト
早朝5時起きで山梨県のとある山へ、長男ときのこ狩りに出かけました。7時、気温7度、鶏南蛮蕎麦で体を温めて出発。今回登った鶴寝山北尾根は、小菅村の南に連なる牛ノ寝通りにあります。登山地図にも載っていないし、登山道もなく、下半分に作業道はあるものの、標識などは全くない尾根です。そこを2時間半ほどかけてきのこ狩りをしながら登るわけです。

まず、行きたい場所にたどり着くために、取り付きを探すのに苦労しました。しかし、なんとか探し当て、登り始めると、思った通り次々とキノコがあるではありませんか。嬉々としてきのこ狩りに精を出す二人でありました。

ところが中腹辺りまで登ると濃霧にまかれ始めました。気温は下がって5度。神経痛で膝が痛み始めたのにはまいりました。おまけにすぐ下で、犬のうめき声のような、獣の鳴くような声がするのです。二人で顔を見合わせて「なんだろう…」
熊だとえらいことです。しばらく登るとまたその鳴き声が…。不気味です。辺りは一面霧に巻かれて10mも視界はききません。

冷静に聞くと、声はやや下の方ですが、樹上の方から聞こえるようです。どうやら正体は烏のようです。我々の熊よけの鈴の音や笛の音に反応したようです。烏は知能が高く九官鳥の仲間なので、他の動物の真似をする個体がいるのです。わが家の近所には、犬の鳴き声を真似する烏がいます。

というわけで、安心してまた登ります。ようやっと尾根について、こんどは1300~1500mの尾根を辿ります。ここは登山道があるので、よく登山者に出合うのですが、こんな濃霧では人も少ないでしょう。きのこ狩りも先週がピークだったはずです。

標高1500m近くのピークに着いた頃に突然霧が晴れ初め青空になりました。500円札の富士山を撮影した山として知られる雁ケ腹摺山を眺めながらお昼にしました。今回は舞茸味噌にぎりがヒットでした。

初めは大トチから山沢を下る予定でしたが、台風9号の影響で崖崩れや橋が崩壊して通行止めということで、大ダワからモロクボ平経由で下ることにしました。モロクボ平は、二年前の夏に熱中症になったことと、目の前を小熊が谷に転げ落ちて行き、断末魔の叫び声を聞いたところなので、気が進まなかったのですが、結果的にこれが怪我の功名で、さらに収穫を増やすことができました。久しぶりの山行で、膝は痛めるは、腰はガクガクだは、さんざんでしたが、大量のキノコでそれも帳消しになりました。

その夜は、きのこ汁にきのこうどんとキノコ三昧。家族で野趣豊かな自然の恵みを堪能しました。採れたキノコは、ムラサキシメジ、クリタケ、チャナメツムタケ、ムキタケ、アカモミタケ、ブナハリタケです。
今回のトレッキングのフォトレポは、モリモリキッズでアップしました。錦秋の森をご覧ください。

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