妻女山支脈の西端・笹崎山にある土口将軍塚古墳が、平成19年2月7日に「国指定史跡」になりました。この古墳は、埴科古墳群のひとつですが、今回の指定は、森将軍塚古墳・倉科将軍塚古墳とともに「信濃の国」の起源とされる「科濃の国」の史跡としての重要性が認められたということだと思われます。つまり、このことで、一層斎場山の山名記載が重要なものとなってきたわけです。
原初科野は、シナノ・シナヌといい、その範囲は埴科であったといいます。斎場山は、その中心にあるわけです。長野県考古学会長であられた故藤森栄一氏は、『古墳の時代』の中において、「四世紀頃、川中島を中心に、大和朝廷の勢力が到来して、弥生式後期の祭政共同体の上にのっかって、東国支配の一大前線基地となっていたことは事実である。」と記しておられます。その痕跡は、森将軍塚古墳・石川将軍塚古墳・土口将軍塚古墳などに見ることができというわけです。また、屋代遺跡群からは、大和王朝との深い関係を示す7世紀の国司や郡司の命令が書かれた木簡が出土しています。
斎場山(本来の妻女山)は、古代科野国造(しなののくにのみやつこ)がお祀りしたところと云われており、歴史的に重要なところです。その科野国造というのは、第十代・崇神天皇の代に、大和朝廷より科野国の国造に任命された、神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔の建五百建命(タケイオタツノミコト)であるといわれています。
国府が8世紀に小県に移る以前には、雨宮辺りにあったという説もあるのです。森将軍塚を中心として、雨宮一円に古代科濃の国が広がっていたというわけです。
昭和4年発刊の松代町史には、森将軍塚古墳が建五百建命の墳墓であるという説が記されています。妻女山の麓にある会津比売神社の祭神・会津比売は、建五百建命の后であるといいます。
1996(平成8)年、会津比売神社新社殿建立の折りに「妻女権現」と記された木札が確認されており、斎場山(妻女山)と会津比売命の関係を示すものとして非常に興味深いものです。会津比売命の父は、皆神神社の祭神の出速雄命。その父は諏訪大社の祭神の建御名方富命。その父は大国主命。つまり出雲系です。建五百建命(武五百建命)は神武天皇の子孫ですから大和系。古代科野国は、大和系と出雲系が結ばれて祖となったというわけです。また、崇神天皇の命で東征した大彦命は、息子と福島の会津(相津)で出会ったといいます。その後茶臼山の麓の長者窪で暮らしたといわれています。その会津を出速雄命が娘に名付けたといわれています。
建五百建命には二人の息子がいました。兄は速瓶玉命(ヤミカタマノミコト)といい、阿蘇の地にくだり、崇神天皇の代に阿蘇国造を賜ります。弟の健稲背命(タケイイナセノミコト)は科野国造を賜ったといわれています。健稲背命の系図は、科野国造、舎人、諏訪評督、郡領、さらに諏訪神社を祭る金刺、神氏という信濃の名門へと続くものです。
雨宮坐日吉神社近くには、それより古い雨宮廃寺の跡もあります。8世紀頃雨宮在の埴科郡領・金刺氏が雨宮の斎場橋を渡り、土口から斎場山へ詣でて郡中一般が袷祭(祖先を会わせ祭る)したといわれています。
妻女山を語る時に、戦国時代のみを注視していてはいけないんです。古代より全時代を通して俯瞰する必要があるんですね。妻女山は、諏訪大社とも深い関係にあって、戦国時代「1488年(長享二)清野氏(正衡の頃か)諏訪社の下社秋宮宝殿造営の郷と定められている。」とあるんですが、諏訪と清野は、かなり距離があるのですが、この地はかつて科野国の斎場(単なる葬儀場ではなく祭祀を執り行う神聖な場所)の中心であり、太古の昔から諏訪や大和朝廷とは深い関係にあって、その歴史と伝統は戦国の世までも継承されていたということではないでしょうか。各時代における斎場山(本来の妻女山)の山名の変遷を抜きにしては、この地の歴史は語れないのです。
風林火山で再び注目される妻女山ですが、要は、戦国時代の妻女山を語るに於いては、赤坂山を妻女山としてはいけないということなんです。赤坂山がはっきりと妻女山といわれるようになったのは、明治以降だからです。
1982~1986年にかけて、長野市と更埴市(現千曲市)の教育委員会による土口将軍塚古墳の合同調査がされましたが、その報告書には、土口将軍塚は岩野と土口の境にある妻女山から西方に張り出した支脈の突端にあると記してあります。つまり、円墳のある頂が、往古の妻女山であり斎場山なんです。それ以外に本来の妻女山はないということですね。現妻女山は、昔は赤坂山、あるいは単に赤坂といいました。
土口将軍塚が、埴科古墳群のひとつとして国指定史跡となったわけですから、今後、土口将軍塚、斎場山古墳や坂山古墳、堂平古墳群なども、いずれ詳細な調査研究が為されるとを期待します。
また、斎場山は、国蝶オオムラサキが舞う、自然豊かな貴重な里山であることも記しておきたいと思います。
詳しくは、ブログ内検索で妻女山を。本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。また、現地の地図はこちらをご覧ください。
原初科野は、シナノ・シナヌといい、その範囲は埴科であったといいます。斎場山は、その中心にあるわけです。長野県考古学会長であられた故藤森栄一氏は、『古墳の時代』の中において、「四世紀頃、川中島を中心に、大和朝廷の勢力が到来して、弥生式後期の祭政共同体の上にのっかって、東国支配の一大前線基地となっていたことは事実である。」と記しておられます。その痕跡は、森将軍塚古墳・石川将軍塚古墳・土口将軍塚古墳などに見ることができというわけです。また、屋代遺跡群からは、大和王朝との深い関係を示す7世紀の国司や郡司の命令が書かれた木簡が出土しています。
斎場山(本来の妻女山)は、古代科野国造(しなののくにのみやつこ)がお祀りしたところと云われており、歴史的に重要なところです。その科野国造というのは、第十代・崇神天皇の代に、大和朝廷より科野国の国造に任命された、神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔の建五百建命(タケイオタツノミコト)であるといわれています。
国府が8世紀に小県に移る以前には、雨宮辺りにあったという説もあるのです。森将軍塚を中心として、雨宮一円に古代科濃の国が広がっていたというわけです。
昭和4年発刊の松代町史には、森将軍塚古墳が建五百建命の墳墓であるという説が記されています。妻女山の麓にある会津比売神社の祭神・会津比売は、建五百建命の后であるといいます。
1996(平成8)年、会津比売神社新社殿建立の折りに「妻女権現」と記された木札が確認されており、斎場山(妻女山)と会津比売命の関係を示すものとして非常に興味深いものです。会津比売命の父は、皆神神社の祭神の出速雄命。その父は諏訪大社の祭神の建御名方富命。その父は大国主命。つまり出雲系です。建五百建命(武五百建命)は神武天皇の子孫ですから大和系。古代科野国は、大和系と出雲系が結ばれて祖となったというわけです。また、崇神天皇の命で東征した大彦命は、息子と福島の会津(相津)で出会ったといいます。その後茶臼山の麓の長者窪で暮らしたといわれています。その会津を出速雄命が娘に名付けたといわれています。
建五百建命には二人の息子がいました。兄は速瓶玉命(ヤミカタマノミコト)といい、阿蘇の地にくだり、崇神天皇の代に阿蘇国造を賜ります。弟の健稲背命(タケイイナセノミコト)は科野国造を賜ったといわれています。健稲背命の系図は、科野国造、舎人、諏訪評督、郡領、さらに諏訪神社を祭る金刺、神氏という信濃の名門へと続くものです。
雨宮坐日吉神社近くには、それより古い雨宮廃寺の跡もあります。8世紀頃雨宮在の埴科郡領・金刺氏が雨宮の斎場橋を渡り、土口から斎場山へ詣でて郡中一般が袷祭(祖先を会わせ祭る)したといわれています。
妻女山を語る時に、戦国時代のみを注視していてはいけないんです。古代より全時代を通して俯瞰する必要があるんですね。妻女山は、諏訪大社とも深い関係にあって、戦国時代「1488年(長享二)清野氏(正衡の頃か)諏訪社の下社秋宮宝殿造営の郷と定められている。」とあるんですが、諏訪と清野は、かなり距離があるのですが、この地はかつて科野国の斎場(単なる葬儀場ではなく祭祀を執り行う神聖な場所)の中心であり、太古の昔から諏訪や大和朝廷とは深い関係にあって、その歴史と伝統は戦国の世までも継承されていたということではないでしょうか。各時代における斎場山(本来の妻女山)の山名の変遷を抜きにしては、この地の歴史は語れないのです。
風林火山で再び注目される妻女山ですが、要は、戦国時代の妻女山を語るに於いては、赤坂山を妻女山としてはいけないということなんです。赤坂山がはっきりと妻女山といわれるようになったのは、明治以降だからです。
1982~1986年にかけて、長野市と更埴市(現千曲市)の教育委員会による土口将軍塚古墳の合同調査がされましたが、その報告書には、土口将軍塚は岩野と土口の境にある妻女山から西方に張り出した支脈の突端にあると記してあります。つまり、円墳のある頂が、往古の妻女山であり斎場山なんです。それ以外に本来の妻女山はないということですね。現妻女山は、昔は赤坂山、あるいは単に赤坂といいました。
土口将軍塚が、埴科古墳群のひとつとして国指定史跡となったわけですから、今後、土口将軍塚、斎場山古墳や坂山古墳、堂平古墳群なども、いずれ詳細な調査研究が為されるとを期待します。
また、斎場山は、国蝶オオムラサキが舞う、自然豊かな貴重な里山であることも記しておきたいと思います。
詳しくは、ブログ内検索で妻女山を。本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。また、現地の地図はこちらをご覧ください。