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中国正史から古代日本を見る。『中国正史 倭人・倭国伝全釈』鳥越憲三郎。『史記』『後漢書』『魏志倭人伝』『晋書』(妻女山里山通信)

2025-07-05 | 歴史・地理・雑学
『中国正史 倭人・倭国伝全釈』鳥越憲三郎(1914年 - 2007年)中央公論社2004年刊。大阪教育大学名誉教授、日本生活文化史学会会長。専攻、文化人類学・古代史。以前、中国正史の記事で取り上げましたが、今回は更に深く掘り下げてみたいと思います。とはいえ全てを紹介するのは無理なので、興味を持たれたら本書(古書)を買い求めることをお勧めします。この書以外に中国正史そのものを和訳されているものや中国の博物館のサイトや中国版ウィキも参照しました。この記事は、中国正史から古代日本を見る入り口という感じです。
※画像は下にまとめて掲載。

■中国正史とはー
『漢書』から『旧唐書』までの11の史書のこと。本書はその全てを日本語で読み下し、語句の注釈、詳細な解説をした初めての本。日本の古代史を紐解くには中国正史は必須。これ以降たくさんの研究者により関連図書がたくさん出ています。

■倭人とはー
 著者がいう「倭人」とは日本人だけのことではない。中国南部の長江流域に発祥し、稲作と高床式住居を特質とし東南アジアからインドネシア、朝鮮半島南部から日本列島まで移動分布した民族のこと。
 ここでいう倭人とは、中国古代における春秋時代の呉越の民のこと。まず呉が滅び、後に越が滅んだ。そのエリートたちが大挙日本へ移住したということ。呉という国名は、春秋時代と三国志時代があるが、ここで扱うのは前者である。

■縄文人と共に日本人の祖といわれる呉越の倭人ー
 呉越の興亡は、後漢初期の趙曄(ちょうよう)による『呉越春秋』や『春秋左氏伝』『国語』『史記』に綴られている。
 呉(ご:BC585年頃〜BC473年)の痕跡は地名や言葉で残る。広島の呉(くれ)、着物を売る店は呉服屋、呉織、呉布、呉汁。呉服の語源は、古代中国の呉の国から絹織物の技術や生地が日本に伝わったことに由来する。呉服は「くれはとり」といい元は絹織物を作る職人のこと。
 越(えつ:BC600年頃〜BC306年)は越国(こしのくに)、越前、越中、越後などで残る。ベトナムは越南と書くが、越は春秋戦国時代に楚(そ)に滅ぼされ、一部はベトナムに、一部は日本に移住したという。
 ゲノム解析により、縄文人のDNAはアイヌの人々で70%、沖縄の人々で30%。それ以外の人々で10〜20%であるといわれている。つまり日本人のほとんどのルーツは大陸から来た倭人(弥生人)であるということ。

■呉の太伯とはー
 前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された『史記』には、呉の始祖太伯について記されている。BC1000年頃、太伯は周の王家の三人兄弟の長男であったが、三男の季歴に王位を譲り、次男の虞仲と共に南蛮の地といわれた呉に下り周の王家の子ということで首長となる。後に季歴に呼び戻されるが断り、断髪し黥面文身(全身に入れ墨)となる。当時、入れ墨は蛮族の証であった。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(こうご)とする(後の呉)。
 BC480年頃より、呉は越による激しい攻撃を受け、BC473年、ついに呉の首都姑蘇が陥落、呉王夫差は自害し滅亡した。『史記』には「周の元王三年、越は呉を亡し、その庶(親族)とともに海に入りて倭となる」と記されている。「臥薪嘗胆」という言葉は夫差の攻防から生まれた。熊本菊池の松野家に伝わる「松野連系図」では、夫差の子「忌」が江南を離れ日本に渡り国を造ったとされる。それが後の狗奴(くぬ)国であるという。狗奴国は、飛騨(斐太)王朝とも与せず。縄文人とも交わることをしなかったという。
 BC1000年頃から入ってきた渡来人は家族単位や村単位であったが(縄文人との融合もあった)、滅亡した呉の一派は王家の系統で人数が多かったと思われる。その後に滅亡した越の人々も渡来し弥生時代を作った。

■日本の倭人とはー
『後漢書』倭伝に「会稽(かいけい)の海外に東鯷人(とうていじん)あり。分かれて二十余国を為す。」とある。鯷とは大鯰(大なまず)のこと。呉人の風俗を「提冠提縫」といい大鯰の冠を被っていたとされる。そして黥面文身(全身入れ墨)であった。『史記』には徐福の東渡が、『後漢書』には5-6世紀の日本について、倭国、扶桑国、文身国、女国、大漢国があるとの記述がある。会稽郡は、秦代から唐代にかけて設置された郡で呉越辺りをいう。「会稽」という言葉は、中国の春秋時代、越王勾践が呉王夫差に敗れ、会稽山で屈辱的な講和を結んだ故事に由来する。

■徐福伝説とはー
 BC210年頃、秦の始皇帝の命を受け、不老不死の薬を求めて日本に渡来した人物で、その伝説は日本中に残る。少年少女3000人(『神皇紀』では558人)と多くの百工(技術者)、武士とともに、五穀の種と繭を持って大船85隻で来訪。結局帰らず全国に散らばり、稲作、製鉄、養蚕を伝え、クニをつくり王となり弥生時代を拓いた。全国各地に徐福伝説が残っている。徐福の村は古代に失われた10のユダヤ部族のひとつの末裔ともいわれている。帰らなかった理由は、不老不死の薬が見つからなかったというものと、最初から秦の始皇帝を騙して帰るつもりはなかったというものがある。程なく秦は滅び、徐福集団は完全に定着したと思われる。徐福や子孫が残したという『神皇紀(富士古文書)』に注目したい。『記紀』の様な神話的要素がなく史実の様に記されている。
 徐福は江戸時代でも相当に知られていた様で、かの葛飾北斎も徐福の肉筆画を描いている。徐福は伝説上の人物とされてきたが、1982年に中国江蘇省の徐阜村が古くから徐福村と呼ばれ、徐福に関する遺跡や伝承があることが分かり、実在の人物であることが証明された。徐福については、『阿曇族と徐福 弥生時代を創りあげた人たち』亀山勝著もおすすめ。ヤマト王権や天皇が尊崇した伊勢神宮の灯篭に六芒星(ダビデの星)があるのは有名だが、そのヤマト王権は先に渡来し定着した出雲を恐れたといわれている。
 科野のクニの崇神天皇に初代科野國造に任命された神武天皇の後裔の武五百建命(たけいおたつのみこと)の妻は、妻女山麓の会津比売神社の祭神の会津比売命(あいづひめのみこと)だが、曽祖父は大国主命で出雲系。古代科野のクニはヤマト系と出雲系が結婚してできたといえる。ヤマト王権が出雲を取り込もうとする政略結婚だったのだろうか。武五百建命は、東日本最大の前方後円墳、森将軍家古墳に埋葬されていると思われる。

■邪馬台国ー
 畿内説、九州説、東遷説、阿波説などがあるが、私はそのことにあまり拘泥しない。呉人、越人、徐福一派、高句麗人などの渡来人と関連付けて時間軸を遡っていく方が史実に近づけるのではないかと考えている。『魏志倭人伝』の著者の陳寿は倭国に来たことがない。全て伝聞で記している。距離とか方向をまともに研究してもあまり意味がないと思う。ずっと後世の「川中島の戦い」の江戸時代に描かれた絵図を取り上げて記事にしたが、伝聞で描かれた絵図は皆山の位置や方向が間違っていた。伝聞の精度はあまり信用できない。
 本書では、各正史に記された邪馬台国について検証されている。『三国志』は、魏呉蜀の三国があったAD220〜280年の歴史を陳寿が記したもの。原本は失われ南宋の刻本が考察の対象となっている。そのうちのひとつが『魏志倭人伝』。60ページ近くにわたり検証されているが、あまりに大量で複雑。これは本書を買い求めていただくしかない。対馬、壱岐、糸島などについて図示しながらの詳細な解説もある。

■『魏志倭人伝』ー
『魏志倭人伝』は、『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。卑弥呼は247年に中国に使いを送り、その後亡くなったという。『古事記』は和銅5年(712年)に、『日本書紀』は養老4年(720年)いずれも奈良時代に完成したという。合わせて『記紀』という。『日本書紀』には卑弥呼の記述がない。そのことが邪馬台国九州説を裏付ける根拠のひとつとなっている。『魏志倭人伝』によると、邪馬台国は三十余のクニからなる倭国の頂点で女王卑弥呼が支配していた。倭国は元々男王が治めていたが、倭国大乱が起き卑弥呼を共立し倭国連合が成立した。上越市の斐太遺跡は、その倭国大乱の時に緊急避難的に作られたという弥生時代の集落の遺跡である。

■『晋書』の『魏志倭人伝』ー
 晋の初代皇帝の武帝が即位したのがAD265年。266年に倭国から使者が来て貢物を献上したとある。ただこの倭国が邪馬台国か狗奴国だったのかは不明だが、両国の紛争の際に魏の軍使一行が邪馬台国の応援に来たとあるので邪馬台国であろうとの見解。その間に卑弥呼が亡くなり13歳の台与(とよ)が女王となる。武帝の即位の献上は台与によるものという。邪馬台国は物部王朝、狗奴国は葛城(かつらぎ)王朝と筆者は解く。
 物部王朝は、娘三人を葛城王朝の第八代孝元帝に献上している。そのことは邪馬台国の滅亡を意味するという。その後、約150年間、我が国は中国との国交を断絶した。いわゆる「幻の4世紀」または「空白の4世紀」である。この時期は前方後円墳が全国に広まった時代と重なる。邪馬台国から大和王権へ移行する時代とも重なる。呉を祖とする葛城王朝は、崇神天皇の三輪王朝によって滅ぼされる。崇神天皇は徐福の後裔か。

■高句麗と東国ー
 BC1世紀頃から668年まで満州から韓国北部まで存在したツングース系の騎馬民族の国。5世紀には最盛期を迎えたが、589年に中国が統一され南北朝時代が終焉を迎えると、統一王朝の隋・唐から繰り返し攻撃を受け、660年には百済が唐に滅ぼされ、668年に唐と新羅により滅ぼされた。高句麗の遺民の一部には倭国へ逃れた者もいた。
 4世紀後半、朝鮮半島を南下する高句麗と百済・新羅へ勢力を拡張する倭国との間で大戦があり倭国を駆逐する。敵対していたが、413年に高句麗の使者が倭人を伴って東晋に入朝したという記録がある。570年に高句麗からの遣使が倭国を訪れ外交を結ぶ(『日本書紀』)。主に東国(関東一円と信州)に多くの高句麗人が移住する。
 高句麗初期・中期の墓制は積石塚に代表される。長野市の大室古墳群がそれである。全国では、積石塚古墳は1%ぐらいだが、信州では25%もある。長野市の篠ノ井は、高句麗の前部秋足(ぜんぶのあきたり)が外従六位下の位と篠井性を下賜されたもので、それが篠山や篠ノ井の元となった。茶臼山近くに篠井神社がある。高句麗の人々は、埼玉や東京など関東にも移住し、狛川や狛江市の地名で残っている。かなりの数の高句麗人が帰化したのだろう。古墳時代中期から古墳から馬具が出土する。その頃に馬産がもたらされた。

■渡来した呉越の人々は文字を持っていた。『呉越文字彙編』ー
 漢字は欽明天皇(539-571年)の時代に百済から仏教がもたらされて伝わった。それ以前に日本に文字はなかったとされているが、弥生人の祖といわれる高度な文明を持っていた呉越の人々が文字を持っていなかったのは考えられないと筆者の鳥越氏は記している。
 そこで調べると『呉越文字彙編』施謝捷編著 江蘇教育出版社 1998年刊(入手困難)という書を発見した。漢字の歴史は象形文字でBC1500年の殷王朝に生まれ周王朝の頃に漢字に変化していくが、春秋戦国時代になると各地でバラバラな文字が使われる様になった。その統一を試みたのが秦の始皇帝であった。
 その呉越の人々が持ち込んだ文字が、神代文字(じんだいもじ・かみよもじ)の元になったと思われる。弥生時代の遺跡からは、この呉越文字が金印に刻まれたり、土器に墨で書かれたりして発見されている。現存する日本最古の家系と言われる信州伊那の小町谷家が社家の大御食神社には神代文字(阿比留草文字)で書かれた社伝記が伝えられている。神代文字には、縄文時代から使われていたというヲシテ文字もある。更に古くには、カタカムナ文字(約5500年前)や龍体文字(約5600年前)もあった。


↑日中韓とエジプト、ローマの歴史年表

↑呉の大翼戦船(中国航海博物館)。日本まで航行できる大きさの船。鉄の武器がある。中国の鉄器生産は、BC700年頃からで、農具や武器に使われた。たたら製鉄は古墳時代に入ったが、それ以前に鉄バクテリアの作用によりできる褐鉄鉱の団塊(高師小僧)から、鉄を製錬する技術が弥生時代に存在した。信濃の国の枕詞「みすずかる」は、製鉄のために葦についた褐鉄鉱の固まり(これをすず:鈴という)を刈ることを言う。方言の「ずく」は、銑鉄(ずくてつ)のことであり、製鉄の大変さを物語る言葉である。神事で巫女が鈴を持って踊るのは製鉄を表している。

↑春秋時代の呉と越。越人の風貌。海に潜るため短髪で全身に入れ墨をしていた。越は帆船を建造しベトナムと交易していた。

↑『富嶽と徐福』藤原祐則筆(葛飾北斎)北斎館所蔵。富嶽は富士山(不二山)で、徐福が目指した蓬莱山である。

↑『中国正史 倭人・倭国伝全釈』鳥越憲三郎・『中国正史の倭国九州説 扶桑国は関西にあった』いき一郎

↑『邪馬台国 人口論』安本美典編著。人口学から日本の古代史を探る。7人による共同執筆。
 『もう一人のスサノオ 古事記発掘第二巻』中西信伍。中国から渡来した人が神になり国造りをした。その歴史。
 『謎の渡来人 秦氏』水谷千秋。古代最大の人口を誇る秦氏。秦の始皇帝の子孫ともいわれる徐福一派か、百済や新羅から来た豪族か。
 『発見! ユダヤ人埴輪の謎を解く』田中英道。高い墓雄牛、伸びたヒ髭、豊かなもみあげをつけたユダヤ人埴輪が多数出土している。それは秦氏一族である。

↑『呉越文字彙編』(ごえつもじいへん)施謝捷編著 江蘇教育出版社 1998年刊。漢字は象形文字から楷書へと長い時を経て変化していった。現在使われている漢字の書体には篆書・隷書・草書・行書・楷書の5つがある。
↓『呉越文字彙編』の部分。かなり象形文字に近いものから漢字の様になっているものと色々見られる。「不」は名詞ではなく、…ではない。…しない。否定の意味の助詞。左に見られる様に、元は象形文字で花の萼(がく)の形を模したという説と、女性の月経を表すという説があるがどちらもあまり説得力がない。


中国正史の書を読む梅雨空の好日。『中国正史 倭人・倭国伝全釈』『中国正史の倭国九州説 扶桑国は関西にあった』『西暦535年の大噴火』(妻女山里山通信)


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愛と魑魅魍魎の漢和辞典『新字鑑』塩谷温。言葉・言の葉。『百年の孤独』と「構造主義」(妻女山里山通信)

2025-06-21 | 歴史・地理・雑学
 海外で色々受賞した話題のドラマ『舟を編む 〜私、辞書つくります』(原作:三浦しをんによる大ベストセラー小説)で辞書に注目が集まっています。「広辞苑」は仕事ではよく使いましたが個人的には持っていません。持っている辞書で古文書などを読むときには必須と思うのが『新字鑑』です。二冊持っています。一冊は写真のようにボロボロです。以前、下のような記事をアップしましたが、結構人気でアクセスがあります。

愛と魑魅魍魎の『新字鑑』
昭和24年12月21日、「朝日新聞」夕刊に次のような見出しの記事が掲載されました。「“古希の恋”実る塩谷温博士」「年齢こえた愛情で薄幸な元芸者と再婚」しかし、古希の恋には哀しい顛末が待っていました。


↑写真右のものは、1942(昭和17)年3月30日発行。第165版。たった3年で165版。いかに売れたかが分かります。おそらく村会議員をしていた祖父が使っていたものでしょう。定価4円50銭のところ特価3円90銭で販売されています(現在の価値にすると約15000円)。痛み具合から相当使い込んだことが分かります。父や叔父叔母も使ったのでしょう。
 写真左のものは、1980(昭和55)年に国書刊行会から発行された3訂増補版で431版になります。私がネットの「日本の古本屋」である古書店から買い求めたものです。これが今のところ最終版になります。非常に息の長い漢和辞典でした。



 編者の塩谷温(しおのやおん)(1878~1962)は、東京都生まれの中国文学者。東京帝国大学文学部教授を経て名誉教授に。号は節山。著書には、他に『支那文学概論講話』『国訳元曲選』『作詩便覧』『唐詩三百首新釈』『漢文講座』『朗吟詩選』『詩経講話』『興国詩選』『王道は東より』などがあり、中国近世の戯曲、小説を研究し、日本に紹介した人です。
 塩谷温が『新字鑑』の編集を始めたのは、関東大震災直後、1923(大正12)年。作業の中心を担ったのは中国学者の坂井喚三、佐久節、頼成一で、苦節17年を経て1939(昭和14)年2月25日発行されました。四六判(128ミリ×189ミリ)、本文2151ページ【親字数】11912【熟語数】80118。【発行所】弘道館、【印刷】共同印刷。

『新字鑑』刊行の前々年、1937(昭和12)年7月7日、盧溝橋事件により日中戦争が始まりました。国民の目が中国に向けられることになります。国民精神総動員運動や国家総動員法といった、国民生活への統制も強まっていきました。巻頭扉に総理大臣の近衛文麿の「温故知新」の文字があるのもそういう時代背景があったからです。朝ドラの『あんぱん』がまさにその時代を描いています。つまり、『新字鑑』は、国策を背負った漢和辞典だったとも言えるわけです。3月8日に東京の学士会館で200名を集めて開催された発刊記念会で満州国皇帝の弟、愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)が祝辞を述べたということです。
 そういう時代背景から、当時の現代中国語の熟語がたくさん収録されており、カタカナとローマ字で発音が書かれています。また巻末付録に中国語の慣用句や、公用文の用語、外国の人名地名の中国語での表記まで載せています。その「支那語便覧」では、人名の部では【勺旁】ショパン、地名の部では【亞馬孫】アマゾンなどが。これも役に立つし面白い。
 古文書を読むときは必ず旧字が出てきます。塩谷温の塩の旧字なんて読めません。ただ旧字は、新字になって分からなくなったその漢字の元の意味や成り立ちが分かります。この「分かります」も「わかります」と開くか迷うのではないでしょうか。ほかに常用外漢字で「判る」「解る」もあるので。公用文においては、「動詞は漢字で書く」という原則があるので「分かる」ですが、一般的にはひらいても問題はありません。



言葉・言の葉
 言葉という語が生まれたのは奈良時代。それ以前は言(=事)でした。それが言の端となり言の葉になり言葉となった。言の端とは、ちょっとした言葉や言葉尻をいいますが、端ははしっこに加えて「まっすぐでかたよらない。きちんとしてただしい。ただす」という意味があります。言=事というのは有限で儚いものですが、それを顕在化し正す意味があるのでしょう。
 何気ない言葉の意味や用法の多様さ複雑さは、『舟を編む』の初回で主人公を演じる池田エライザが突きつけられた 副詞の「なんて」という言葉。「ある事物を例示して、それを軽んじたり、婉曲(えんきょく)に言ったりする意を表す」とか「事物・事態が基準を逸脱しているという評価」があります。感嘆詞で使う場合は、「なんて美しい」とかですが。卑下したり見下す場合は、「私なんて」とか「サッカーなんて」とか悪い意味になります。言葉というものは生き物で、寿命もあるし使い方で正反対の意味にもなると分かります。
 万葉仮名は、古代日本語を表記するために漢字の音を借用したもの。そういう意味では、言葉は言晴、言羽、言華、言春、言生、言刃などでもよかったわけですが。葉は、たとえば双葉は成長して枝葉を付け花を咲かせ実がなるわけで、成長と繁栄を感じさせます。古代の人はそういう意味を内包した漢字が好ましいと葉を選んだのかも知れません。『万葉集』は、「万(よろず)の言の葉の歌集」あるいは「万世(よろずよ)にまで末永く伝えられるべき歌集」として万人の言の葉を集めたものといえます。



『百年の孤独』と「構造主義」
 ノーベル文学賞作家、ガブリエル・ガルシア・マルケスの『百年の孤独』の冒頭部分。「ようやく開けそめた新天地だったから、まだ名前のない物がたくさんあって、そういう物がたがいの話のなかに出てくると、みんなは、いちいちそれを指ささなければならなかった。」
 文明人と称する我々の社会は「共同幻想」によって成り立っているといえます。全てのものは等価である。それを崩しているのがシニフィエ*という「共同幻想」なのです。
「構造主義」というのは、1960年代に登場し主にフランスで発展していった20世紀の現代思想のひとつ。「あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す語である。」(Wikipedia)
「構造主義」の考え方は、「価値は所与のものではない。視点を相対化せよ」「意味や価値は所与のものではなく、要素間の関係において生成する」というもの。具体的に言うと、物の名前は物そのものではないということ。
「構造主義」の代表的な思想家としてクロード・レヴィ=ストロース、ルイ・アルチュセール、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルトなど。これらの考え方は、ソシュール言語学と結びついて、シニフィアン(意味するもの)・*シニフィエ(意味されるもの)という構造を見る。「言葉は『ものの名前』ではない」。構造主義の祖といわれる言語学者ソシュールの言葉です。例えばピザという時にピザそのものはシニフィアンですが、ピザから連想されるものはシニフィエです。我々は、むしシニフィエに縛られているといえます。文明人と称する我々の社会は「共同幻想」によって成り立っているといえます。全てのものは等価である。それを崩しているのがシニフィエという「共同幻想」なのです。



辞書を作るのは本当に大変
 私自身大手新聞社のPR誌の編集アートディレクターをしていたことがあるので、校正の大変さは知っています。主人公が雑誌は二校までなのに五校に加えて念校も二度あるのですかと驚いていますが、新聞社は雑誌でもそれぐらいの校正をしていました。それでも間違いが出るときは出るのです。新聞社のプロの校正士も入っているのですが。ある電話番号が間違っていて、右翼の大物の家になってしまい、社長と重役が二人で最高級のフルーツの盛り合わせを持って指を詰める覚悟で謝罪に行ったことがあります。抗議の電話をしてきた若いのは殺すぞ的な勢いでしたが、大物の方はまあまあという感じで受け流してくれたそうです。また、ある商品の価格が一桁少なかったためにとあるデパートの電話がパンクしたことがありました。
 そんな間違いが絶対に許されない辞書作りは本当に大変なのです。受験勉強の時に英和辞書とかを赤鉛筆で真っ赤にしたなんて方もいるのではないでしょうか。覚えたら破って食べるという山羊みたいな人もいたという都市伝説もあります。梅雨の鬱陶しい日には、好きな辞書を読んでみるというのもいいかも知れません。

「ブラジルへの郷愁」レヴィ=ストロース 川田順造訳 みすず書房。文化人類学、また構造主義におけるバイブルのひとつ(妻女山里山通信)

池田エライザ。彼女を初めて知ったのはいつだったかな。女優としてはもちろん歌手としての彼女に惹き込まれて久しい。凄いです(妻女山里山通信)



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■私を南米放浪の旅へ誘った70・80年代の雑誌ブームとバックパッカーのガイドブックと地図

2025-06-12 | 歴史・地理・雑学
 70年代中頃から80年代中頃は雑誌ブームで、それまで無かったコラムマガジンやカタログ雑誌、ファッション雑誌が次々と創刊された。そんな中から、私を南米放浪の旅へ誘(いざな)った70・80年代の雑誌と南米のガイドブックや地図を紹介します。



『Made in U.S.A.』読売新聞社 1975年刊。銭湯が100円、昼飯が250〜350円で食べられた時代に1300円の豪華本。しかも、この本の出版は読売新聞社である。さらに、後援がアメリカ大使館経済商務部。読売新聞社といえ ば、「ポダム」というコードネームでCIAのスパイだった正力松太郎が社主だった。この本は、まさに米と日本の官民ぐるみで、若者にアメリカブームを起こし、アメリカ製品を売ろうという大プロジェクトのひとつだった。戦後、GHQが日本を占領するにあたり、3R・5D・3S政策(愚民化政策)を推進したが、その一環だった。
 このムックは大好評で一週間で売り切れ増刷された。所ジョージはじめ我らの世代はアメリカ大好きおじさんが多いが、その先鞭をつける雑誌となった。皆がハワイやカリフォルニアに旅行する時代だったが、私は美大生時代にロンドンへ旅立ちフラットを借りて5週間暮らした。詳細は『国分寺・国立70sグラフィティ』を。
 上の一番右下はレッドウィングのワークブーツの人気商品アイリッシュセッターNo.875。当時は3万弱、現在は51150円。美大生の頃は買えなかったが、83年に南米に旅立つ前に買った。アマゾンやアンデスを歩いた忘れられない靴。今も履けるが大事にとってある。バーボンは、村上春樹さんの国分寺「ピーター・キャット」で初めて飲んではまった。好きだったのは4つの薔薇の素敵なエピソードのフォアローゼス。ナイフはカスタムナイフを制作した。南米から戻って原宿の編集デザイン事務所で働き始めたが、誘われてフライフィッシングを始めた。一番右下は、そのタックルボックス。渓流釣りは朝夕の薄暗い時にやるが、DTP作業が当時はブラウン管ディスプレイだったため目を悪くして止めざるを得なかった。



『Made in U.S.A-2.』読売新聞社 1976年刊。評判がよかったので翌年続きが出た。バックパッカーやヒッチハイク、ヘビー・デューティー、アース・ムーブメント、ニュー・ライフスタイルなど、当時を表す言葉があちこちに見られる。リーバイス501ジーンズやレッド・ウィングの アイリッシュ・セッター、ダウンジャケット、ケッズやコンバースのスニーカーなどは、ここからブームが広まった。私も南米の旅に備えてプジョーのロードレーサーを買った。初めて買ったダウンジャケットはL.L.BEENだった。アウトドアファッションにも火が付き、やがて全盛期を迎えることになる。アウトドアファッションにも火が付き、やがて全盛期を迎えることになる。
 友人の車に流れていたのはいつもVOA(Voice of America)だった。QUEENとかABBAとかが流れていた。福生の米軍基地で輸送機から戦死者の棺が降ろされるのも目撃した。米兵が起こす事件も多く、立川の街にはMPのパトカーがサイレンをけたたましく鳴らして走り回っていた。沖縄とそう変わらない光景が東京にもあった。
 当時は、まだ米軍立川基地があった。村上春樹さんの国分寺「ピーター・キャット」にも米軍の若い兵士が来たことが何度もあった。ある客の少ない昼間、バイトの女の子と二人でやっていた時だった。若い黒人が来た。珈琲を頼むと、しばらくしてサラヴォーンのあるアルバムをリクエストした。カウンター内で作業をしながら、ふと彼を見ると涙ぐんでいた。かあちゃんを思い出したのかな、と思った。ベトナム戦争のサイゴン陥落が、1975年の4月だから、まだ戦争真っ最中だった。



『DO CATALOG.』サンケイ新聞出版局 1976年刊。グッズカタログではなくアメリカのライフスタイルに焦点を当てたムック。ナチュラルライフ、インドアプランツ、DIY、キルト、ハーブ、ビンテージジーンズなど、現在に通じるブームはこの頃生まれた。下の中央の右にケーブル・リール・テーブルがある。村上春樹さんの国分寺「ピーター・キャット」にまさにこれと同じものがあった。米軍の払い下げ家具やウェアが流行り始めたのもこの頃。福生や立川の米軍ハウスに住んでいる友人の家に美大の皆でよく集まった。
 自然指向が高まった時代であることが分かるが、実際は商業主義の大量消費社会へと日本は邁進していく。実は、後年私はこのムックを手がけた編集アダルトプロダクションに入り、デザイナーからアートディレクター、企画編集にまで手を染めるようになった。初めの頃は、事務所にVANの石津健介さんも度々遊びに来られた。



『POPEYE』創刊第2号 平凡出版 1976年刊。創刊号は、都内重点配本で限定部数販売だったため、国分寺の小さな書店では手に入らなかった。サブタイトルは、「Magazine for City Boys」で、ライフ・スタイル・マガジン、あるいは、コラム・マガジンと名乗っていた。記事は、アメリカ西海岸のものが多く、所謂、ロサンゼルスやサンフランシスコを中心とした西海岸ブームを作った。但し、その先駆けを作ったのは、植草甚一氏の『宝島』だったわけだが・・。
 記事には、スノビズム、ホット・クラシック、チープ・シック、ジョガー、サイクリスト等の言葉が見られる。そして、シティボーイ達がみな憧れたアグネス・ラムの広告。
 出初めだった情報誌『ぴあ』も、映画を観に行く時やコンサートの情報を得るために買う、デートの必須ツールだった。『ビックリハウス』が 出たのも、ちょうどその頃。所謂、サブカル雑誌といわれるものだ。買ったことのある雑誌を列挙する。『ガロ』、『宝島』、『STUDIO VOICE』、『ロッキングオン』、『ローリングストーン』、『ウィークエンド・スーパー』、『UFO』、『面白半分』、『話の特集』、『噂の真相』、 『本の雑誌』、『遊』、『現代思想』、『ユリイカ』、『カイエ』、『批評空間』、『Switch』、『芸術倶楽部』、『美術手帳』、『新宿 PLAYMAP』、『FMレコパル』、『GORO』、陰部に墨が塗られた『月刊プレイボーイ』等々。その前に『you』という『面白半分』を過激にした雑誌があったのだが、覚えている人がほとんどいない。



『BRUTUS』創刊号 平凡出版 1980年刊。『POPEYE』卒業生のビジネスマン向けの雑誌。ヘリで登場するなんとかクリニックみたいなイキった写真だが、実際はエコノミックアニマルと言われ「24時間働けますか」なんてCMが流れていた猛烈社員全盛時代。過労死も多かった。時代は日航123便、プラザ合意、バブル、バブル崩壊、30年に渡る不景気の時代へと進んでいく。その背後にはアメリカのジャパンハンドラーズの影が常にあった。
 編集デザイン事務所の近くにBEAMSがあったのでウェアはそこで買うことが多かったが、デッドストックの店もあり利用した。スーツはワイズ・フォーメンを愛用していた。グルメの仕事も多く1年で2キロずつ太っていき最終的には15キロ太り色々なダイエットに失敗した最後にブックスダイエットでやっと痩せた。ダイエットも大変だったが、十数年後に発症した化学物質過敏症の方が致命的に大変だった。現在でも洗剤、シャンプー、石鹸、歯磨き、化粧品などは決まったものがありそれ以外は使えない。



『HOT-DOG PRESS』創刊号 講談社 1979年刊。『POPEYE』に続けと講談社から出たコラムマガジン。微妙にテイストが違うのが面白い。ゼロハン特集など少し田舎臭いところが『POPEYE』について行けない若者の心を掴んだ。アンデスのインカ文明の特集が目を引く。バックパッカーの中にはアンデスに興味を持つものが少なからずいた。私もそのひとりだった。アメリカのハイスクール特集など、『POPEYE』より対象年齢が少し若いのも特徴。



『BE-PAL』創刊号 小学館 1981年刊。それまで『山渓』、『岳人』などガチの登山雑誌しかなかったところに初めて出たアウトドア雑誌。アウトドアライフ・マガジンとある。本格的登山ではないトレッキングやハイキング、キャンプなどの特集が目新しかった。所謂アウトドアブームの先駆けとなった雑誌。野田知佑さんのコラムは好きだったが、電通社員とつるんで傍若無人のアウトドアもどきをする椎名誠はあまり好きではなかった。私がよく通った店だが、『さらば国分寺書店のオババ』は面白かったが。彼の様な目にあったことはなく、みすず書房とかのレアな本が手に入る私にとっては貴重な書店だった。



『Olive』創刊号 平凡出版 1982年刊。なぜ女性誌と思われるかも知れないが、当時の私はビブリオマニア(bibliomania)だった。強迫神性障害の一種で、社会生活もしくは当人の健康に悪影響を及ぼすほどの書籍収集ないし本の強迫的ホーディングをおこなうもの。 蔵書癖、書籍狂、蔵書狂、愛書狂などといわれる。まあほどなく覚めたが。『anan』の読者より若い層向けの雑誌。ライターは女性だが、編集長はじめ編集者が男ばかりだからからかなんとなく男目線の記事が多い。男が知っていてとか男が喜ぶとか今ならボツになること間違いない気持ち悪い言葉が出てくる。ただ10代女子のコラム・マガジンはなかったので次第にファッションやライフスタイルの道筋をつけたことは間違いない。80年代後半に、私は女子大生起業家と女子高生を集めてシンクタンクを作ったことがあった。そう、当時のティーンの雑誌や流行を作っていたのは、30代のおじさんが主だった。



『anan』さよならアンアン号 平凡出版 1982年刊。創刊は1970年。廃刊ではなくテンデイズ・マガジンとして1日11日21日と月3回発刊される雑誌に変わるというお知らせの号。金子リサ、大橋 歩、原田 治、堀切ミロ、マギー・ミネンコ、秋川リサ、結城アンナとか懐かしい。対象読者は今でも20、30代だろうけど最初の読者達はもう70、80代。今と違いモデルは皆外国人。
 美大生時代に私は友人たちと集英社の『non-no』でアルバイトをしていた。スタジオにA子さんの部屋を作る作業。雑誌ブーム時代で時給は良かった。深夜まで作業が続くと国立までのタクシー代が出た。作業の終わりに編集長が編集者やスタイリストだけでなくアルバイトの我々も呼ばれて高級中華料理屋で打ち上げをした。いい時代だった。



『MORE』創刊号 集英社 1977年刊。フランソワーズ・サガンのインタビューが巻頭に来るなど単なるファッション誌ではなく読み物も多かった。読者は、お洒落で知的好奇心が強い大人の女性というイメージ。ファッションページのモデルは皆外国人なのはこの時代の特徴。15ページに及ぶモロッコ特集も充実している。五木寛之と渡辺淳一の連載小説など相当力が入っている。後年、妻がイラストの打ち合わせで集英社に4歳の息子を連れて行ったら、紅茶とケーキを出してくれたそうだ。林真理子の子連れ出勤反対のアグネス論争なんてのもあった時代。この頃に比べればずいぶん良くなったが、それでも日本の女性の地位はまだまだ低い。



『クロワッサン』anan famille 創刊号 平凡出版 1977年刊。ふたりで読むニュー・ファミリーの雑誌とある。ファッション雑誌やカタログ雑誌ではなく、ライフスタイル雑誌。読むところが多い。「ファッションショーに挑戦してみました」とか「男のための育児学」とか。読者目線の記事が多い。「クロワッサンとは?」というのが巻頭記事になるほどクロワッサンが一般的ではなかった。



『South America on a Shoestring』lonely planet 1983年版。オーストラリアのバックパッカーのカップルが書いたガイドブック。1983年当時、南米の詳細なガイドブックは日本には無かった。銀座のイエナ書店だったか神保町の古書店だったか忘れたが見つけて買った。右4ページはアマゾンのマナウスのガイド。ホテルや旅行代理店の位置を書き込んだ。インターネットもない時代にこれは貴重な情報源だった。しかし、フレンドリーな宿主とあって行くととんでもない人種差別主義者で、中国人と間違われて追い出された。グリンゴの書いたガイドブックにはたまにこういうことがある。欧州だろうが南米だろうが一人旅をしていて人種差別に一度も遭わないということはまず無い。ただ南米の場合は、特にブラジルの場合は日系人のお陰で良く見られることの方が多い。



『RIO DE JANEIRO』 観光案内所に行くと無料有料で色々なガイドブックや地図がある。この地図はジャバラ式になっていて、見たいところを下に折るとその地域だけ見ることができるという優れもの。凡例も直感的で分かり易い。右は投宿した高層アパートのあるコパカバーナ海岸と上にイパネマ海岸の地図。リオでの最大の思い出は、フラメンゴとサントスの試合をマラカナン・スタジアムに見に行ったこと。
 1983年当時ブラジルは軍事政権だった。そこにおいて詳細な地図というのは軍事機密。詳細な天気予報もそう。テレビの天気予報が広大な国なのに実に大雑把だった。そのためアマゾンの詳しい地図を探して私が買ったのはアメリカの空軍のものだった。ガイドブックはブラジルに『GUIA QUATRO RODAS』というメジャーなものがあり買い求めた。現在は超高解像度のカメラが人工衛星に搭載されているので地図が機密情報とはいえなくなった。



『São Paulo』 サンパウロはブラジル最大の都市で人口1200万人。セントロだけでも山手線の内側ぐらいあるので全体を把握するのは難しいが、ガルボンブエノ通りの東洋人街(旧日本人街)を中心に覚えるといい。ピンク色に塗ってあるのがそれ。投宿したペンション荒木もそこにあった。リオ同様に大都市は治安が非常に悪い。大通りの一本裏へ行くとストリートギャングがたむろしている。書き込みはホテルやペンション、ボアッチなど。旅行記に書いたがビエンナーレ美術展は非常に面白かった。



『オーパ』日伯毎日新聞社 サンパウロのレジャー誌。イベント、ホテル、レストラン、ディスコ、ボアッチ(ボワッチ)、サッカークラブ、アウトドアなどの情報が掲載。ボアッチは自由恋愛ができるナイトクラブ。記事に「最近は働く女性に昼はセクレタリーや学生といった人達が増えているが、彼女達は実に明るく割り切っていて、すれていない」とある。「モーテル繁盛記」とあるがブラジルのモーテルは日本と同じ。友人がサンパウロに着いてタクシーの運転手に安いホテルを紹介してくれと。着いて部屋に入ったらシャンデリアと丸いベッドと大きな鏡が四方にあったという。ベッドはスイッチを押すとミラーランプと一緒に回ったそうだ。そこはモーテルだった。回転ベッドは日本製だったという。



『アドベンチャー アマゾン』松坂 実 マリン企画 1983年刊。ナマズや熱帯魚の研究者でナマズ博士と呼ばれる。アマゾン探検家。本書はおそらく初めてのアマゾンのガイドブック。熱帯魚の専門家なので内容や写真はナマズなどが中心。熱帯の巨大魚を狙うアングラーにとっては待望の書であった。氏とは最初の南米帰国後にあるアウトドアライターを介して知り合った。あるプロジェクトのために人が集められ何度か会合を持った。残念ながらそれは実現しなかったが。今は天国の大河で巨大ナマズと闘っているだろう。
  上の段の写真はアマゾンやパンタナルで捕れる大ナマズ。大ナマズは30センチのナマズを餌に釣る。1000種類以上のナマズがいる。下段はアマゾンの船旅と美しい小都市サンタレン。右は記事ではなくベレンの店の広告。私も全て訪れたことがある。ナイトクラブ赤坂には知っている顔がいて驚いた。



 南米だけではないが様々な紀行書など。色々な意味でアマゾンに魅せられた人は少なくない。紀行文は古くても面白いし、ガイドブックは古くなると歴史の記録にもなる。住んでいる人住んでいた人の書籍では、旅人では経験できない現地の生々しい情報が盛りだくさん。民俗学的にも文化人類学的にも興味が尽きない。

この記事は、モリモリキッズ・スペシャルからの抜粋です

★​30数年前のアマゾン新婚旅行​。妻が描いた某大手新聞の小学生新聞の記事画像。Saudade de meu amor.(妻女山里山通信):イラストルポ。スラップスティック・ハネムーン。

■​​モリモリキッズ メインブログ​ ー信州妻女山里山通信ー​。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』:メッセージはこちらから。

■​「国分寺・国立70sグラフィティ」​ムサビの美大生時代に村上春樹さんのジャズ喫茶でアルバイトしていた当時のフォトエッセイ。世界中からアクセスがあります。ロンドンに5週間住んでいて、Queenのフレデイ・マーキュリーの恋人のメアリー・オースチンが勤めていたBIBAの店で当時の私の恋人が彼女からジャケットを買った話。70年代の美大生の赤裸々な生活が読めます。

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初詣は小布施。北斎の「八方睨み鳳凰図」のある岩松院へ。高梨氏に由来する雁田城の小城に登る(妻女山里山通信)

2025-01-02 | 歴史・地理・雑学
 豪雪警報が出ていますが、長野市の善光寺平は曇で積雪もありません。三連休は上雪になる予報なので積雪があるかも知れません。スキーや温泉旅行などで来られる方は、スタッドレスタイヤはもちろん、チェーン規制のためにチェーンやスコップ、融雪剤、毛布、非常食などの携行をおすすめします。
モリモリキッズ・スペシャル」でブラジル料理のレシピを4回に渡り紹介します。旅行記も掲載中。

 昨年とは異なり穏やかに明けた2015年。初詣は小布施へ。北斎の「八方睨み鳳凰図」のある岩松院に初詣。その後背には拙書でも紹介の雁田山があります。その支尾根にある小城に登りました。

 曹洞宗「梅洞山 岩松院」。文明4年(1472)に開山された曹洞宗の古刹です。奥に見えるのが小城。右に少し見えるのが大城です。

 山門へ。大勢の善男善女が参拝に訪れていました。インバウンドで海外の方も。北斎は最も有名な日本人のひとりです。

 山門。「金剛窟」の額。

 山門の仁王像。仁王像は、明治の廃仏毀釈の煽りを受けて戸隠の中社から移譲されたもの。移譲の際には、戸隠の人々が涙を流して見送ったとか。英仏の傀儡クーデター政権の明治政府がなぜ文化否定の廃仏毀釈までして天皇制を制定維持しなけらばならなかったのか。

 仁王像の裏側。大黒天は、元々はヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラですが、日本では神道の大国主命と神仏習合した日本独自の神へと変容しています。七福神の一柱としても知られています。右の仏像は不詳。

 山門の手前に一輪だけ蒲公英(タンポポ)が咲いていました。北斎の「八方睨み鳳凰図」の天井絵は、混んでいたのと何度も観ているので今回はスルー。

 小城登山口。熊出没注意の看板。冬なので大丈夫でしょう。

 約100m、10分足らずで小城。さらに上に大城があり、雁田城といいます。岩松院は、以前は土豪・荻野氏の居館であったと伝えられ、この城はその詰め城であったといわれています。かなり粗雑な野面積みの石垣。

 小城の上から北西方面の眺望。富士ノ塔山、地附山、三登山、髻山などが見えます。

 西方の眺め。一番右奥に薄っすらと冠着山(姨捨山)。手前に妻女山から天城山。その手前に象山から鏡台山の山脈。手前に金井山から奇妙山。さらに手前に井上山から妙徳山の山脈。

 城主になった気分で一枚。少し寒風が吹いています。

 小城の説明。高梨氏には上杉謙信の姉が嫁いでいます。第四次川中島合戦の際には、上杉軍はここで補給をしたといわれています。

 残雪があって枯れ葉が滑るので下りは気を使います。朝、腰まで雪のある飯縄山に登り、登りたりなかったのか雁田山に登りに来たという元気なおじさんとすれ違いました。

 福島正則の霊廟。奥の谷には、ミスミソウ(雪割草)が咲きますが、大きな群生地ではないので探すのは難しいかも。

 岩松院から小城と大城と奥に千僧坊(785m)。尾根を右へたどると雁田山。拙書ではループコースを紹介しています。

R-3「巨大天井絵デジタル化」~Digital×北斎特別展「大鳳凰図転生物語」動画

 実は未完成のまま設置されたという。パトロンの高井鴻山が、飢饉や善光寺地震の災害復旧に私財を投入したため、金箔を貼るお金がなくなったのだとか。天井絵は北斎が原図を描き、監修し、描画は高井鴻山と娘の葛飾応為の作ともいわれています。


 東町祭屋台。龍と鳳凰。『八方睨鳳凰図』は岩松院の天井絵に近いが、こちらが北斎の肉筆画。精緻さと完成度の高さが、天井絵とはまったくレベルが違います。文化三年(1806)北斎85歳作。長野県宝。

NTT東日本『「Digital×北斎【急章】その1」展 「生きるが如く描く」解説動画』

 画狂人北斎の生き様がよく分かります。


 大晦日は鯛の刺身に鯛しゃぶ。もつ煮、塩辛、長芋の梅肉胡麻油和え、自家製野沢菜漬け、ナメコ豆腐、木曽の赤カブの酢漬け、腸詰め。酒は上田の岡崎酒造の亀齢(きれい)蔵元限定の純米吟醸。切れの良い非常に美味しい日本酒です。

 今年の松飾りは、いただいた大王松に我が家の南天。御幣は障子紙で作りました。大王松は、南カルフォルニアとメキシコ原産の松で、三本松で葉が長いのが特徴の目出度い松です。

「ブラジルへの郷愁」レヴィ=ストロース 川田順造訳 みすず書房。文化人類学、また構造主義におけるバイブルのひとつ(妻女山里山通信)
 引き続き『アマゾンひとり旅』を順次掲載中。■ブラジル料理を2回に渡って掲載します。■モリモリキッズ・スペシャル をクリック!!!

「村上春樹さんのピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクル」というムサビの美大生時代に彼のジャズ喫茶でアルバイトしていた当時のブログは世界中からアクセスがあります。この文章をクリックで見られます。ロンドンに5週間住んでいて、Queenのフレデイ・マーキュリーの恋人のメアリー・オースチンが勤めていたBIBAの店で当時の私の恋人が彼女からジャケットを買った話。70年代の美大生の赤裸々な日々が見られます。

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『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、
『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。掲載の写真は有料でお貸しします。他のカットも豊富にあります。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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燃える秋。千曲市稲荷山の桑原山 龍洞院。登録有形文化財の龍洞院架道橋と滝沢川橋梁(妻女山里山通信)

2024-11-14 | 歴史・地理・雑学
 暖秋のため紅葉が遅れています。また冷え込みが浅いため色づきもいまいち。それでも妻女山もかなり色付いてきたので千曲市の古刹、桑原山 龍洞院へ2年ぶりに撮影に出かけました。

 色づきがよくない紅葉は逆光で撮影するのがポイント。あとは構図と色ですね。とにかく歩いて探します。やっと見つけた鮮やかな燃える紅葉。

 楓と右奥の丸い緑の葉は、モチノキ科の常緑高木の多羅葉(たらよう)。葉に傷をつけるとあとが黒くなるので、インドで写経をしたタラジュの葉にちなんでの命名。俗には葉書の木といわれます。

 山門の下にある6体の石仏から見上げる紅葉。黄葉や緑の葉も見られます。

 山門の紅葉。

 振り返って登録有形文化財の龍洞院架道橋。少し前にワイドビューしなのが通過して行きました。

 龍洞院架道橋は、明治33年に作られたもので、旧国鉄(現JR東日本)の篠ノ井線が上を通っています。橋の長さは7.4m。幅員21m。煉瓦造単のアーチ橋です鉄道マニア必見の歴史的構造物といえます。

 トンネル内から見る紅葉。最高気温は19度。トンネル内の冷気が心地よいほど。

 総門の下に駐車場があります。近くには信濃二之宮の武水別神社があります。武田信玄の願文が有名。手前の尾根は一重山から五里ヶ峯に続く五一山脈。右奥は、姨捨の田毎の月で有名な鏡台山。

 紅葉越しに揺れるススキの穂。

 撮り鉄の男性がもうすぐ列車が来るというので。篠ノ井線の普通列車が通過していきました。

 輝く逆光の紅葉を見つけました。丸に月の家紋が光っています。

 赤、橙、黄、緑と色とりどり。

 真っ赤な紅葉。

 滝沢川橋梁。滝沢川の水を流すための立派な橋梁。

 手前のまだ緑のシルエットの葉と輝く紅葉の対比が美しい。

 ピラカンサでしょうか。バラ科トキワサンザシ属の種類の総称で、日本で はトキワサンザシ、タチバナモドキ、カザンデマリの3種類があるそうです。青酸系の毒があるので、それが熟して消える2月頃まで鳥は食べないそうです。

 観音堂と鐘楼。曹洞宗は、中国の禅宗五家の1つで、中国禅宗の祖である達磨から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能の弟子の1人である青原行思から、石頭希遷、薬山惟儼、雲巌曇晟と4代下った洞山良价によって創宗されました。日本には鎌倉時代に宋から伝えられ、臨済宗・黄檗宗とともに日本三大禅宗の一つです。後背の山には、越将軍塚古墳、塚穴古墳、遠見塚古墳があります。

 ここに来る前に、稲荷山の「わきゅう」で新蕎麦のくるみ蕎麦をいただいてきました。信州産のくるみです。信州でも旧埴科郡と更級郡でした食べられない辛味大根を使ったおしぼり蕎麦もお勧めです。テレビやSNSで有名になって満席。少し待ちました。香りと腰のある美味しい新蕎麦でした。

好評だったブログ記事:「ブラジルへの郷愁」レヴィ=ストロース 川田順造訳 みすず書房。文化人類学、また構造主義におけるバイブルのひとつ(妻女山里山通信)は、都合によりリンク先の楽天ブログに移転しました。引き続き『アマゾンひとり旅』を順次掲載中。■大河アマゾン・哀愁のサンタレン [Santarem] 絶品ピラルクーのフライ。開高健や向田邦子も絶賛したトゥクナレのスープ。私のために牛一頭をつぶす。熱帯雨林破壊の現場 アップ。

「村上春樹さんのピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクル」というムサビの美大生時代に彼のジャズ喫茶でアルバイトしていた当時のブログは世界中からアクセスがあります。この文章をクリックで見られます。ロンドンに5週間住んでいて、Queenのフレデイ・マーキュリーの恋人のメアリー・オースチンが勤めていたBIBAの店で当時の私の恋人が彼女からジャケットを買った話。70年代の美大生の赤裸々な日々が見られます。

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『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、
『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
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斎場山と妻女山を中心とした旧岩野村と旧清野村の字と小字名。「川中島の戦い」と「古代科野のクニ」(妻女山里山通信)

2024-05-28 | 歴史・地理・雑学
 斎場山(旧妻女山)と妻女山(旧赤坂山)を中心とした旧岩野村と旧清野村の字と小字名をまとめてみました。斎場山は川中島の戦いで上杉謙信が最初に本陣とした山頂で古墳(円墳)です。また古代科野のクニの遺跡です。かなりローカルでマニアックな内容ですが、「川中島の戦い」や「古代科野のクニ」を知る上では極めて重要なことなのです。

 長野電鉄河東線の記述があるので1922年(大正11年)以降の地図です。妻女山と招魂社は清野村に属することが分かります。次の地図では岩野に属する様に変わっています。陣場平は岩野ですが、これも清野に変わっています。岩野側の字名が妻女で、清野側の字名が妻女山。これも地名の混乱の元となっています。御陵願平(ごりょうがんだいら)は竜眼平(りゅうがんだいら)と記されていますがこれは御陵願平の陵願が竜眼に転訛した俗称です。また天城山(てしろやま)に倉科坂とありますが、反対側の倉科へ行く時に登る坂という意味です。地図中央やや左の堤防に川式(敷)という字名がありますが、これは旧千曲川の河道の跡で妻女山にぶつかっていました。高速でなくなりましたが、昔はそれを示すヒビ池(蛇池)という池がありました。御陵願平の南側の斜面に字名の記載がありませんが、土口村誌には字北山とあります。

 1986年(昭和61年)のゼンリンの地図。妻女山と招魂社は岩野側だと分かります。会津比売神社は合津と間違えています。斎場山は記載がありません。ということで私は斎場山の名前復活の活動を始めました。グーグル・マップにも記載されるよう申請して現在はあります。高速道路がまだ無いので、会津比売神社の横から東へ道が続いていました。現在は高速をくぐるトンネルがあります。岩野村の妻女のノケダンは野毛壇。崖と平らな壇という意味です。

 旧岩野村、清野村、西条村の字名と小字名です。〔〕内が小字名。明らかな間違いもあります。清野山の妻女山にチゲ窪とありますが、千ゲ窪が正しい。千ガ窪、千人ガ窪ともいいます。上杉軍が千人の兵を隠したという故事からの命名です。笹崎の御陵安平は御陵願平が正しい名称。転訛して龍眼平とか両眼平とか。長野市は中心部でも字や小字が残っていますが、使わないところは廃れてしまっているでしょう。畑の名前で残っている場合もあります。ケカチは飢渇(きかつ)が元で、痩せた土地を意味します。カタカナで書かれているものは、漢字が想像できるものもありますが、これはなんだろうと思わせるものも。地名には歴史が詰まっているので面白い。安直にディベロッパーが希望ケ丘とか名付ける愚かさが分かります。

 明治13年の埴科郡誌から岩野村。岩野は昔、斎野であった。それは斎場山に由来すると記されています。それが上野(うわの)村となり、江戸時代に岩野村へ。岩など無く砂地なのになんとセンスのない命名かと。せめて本来の意味をとって祝野村とすれば良かったのに。妻女山といい松代藩にネーミングのセンスが無かったのが悔やまれます。土口村誌には、斎場山(さいじょうざん)について、「また作祭場山、古志作西條山誤、近俗作妻女山尤も非なり。」とあります妻女山(さいじょざん)では読みが違ってしまうためでしょう。

 岩野村の続き。斎場山について記しています。斎場山一帯が上杉謙信の陣営跡であるということも。物産の動物の繭は養蚕が盛んだったから。植物に米が無いのは砂地で水田が無かったから。サツマイモを大量に栽培していたことが分かります。ブドウも。我が家の祖先は酒造免許を持っていて、葡萄酒を作って売っていたそうです。

 清野村。土豪の清野氏は源氏村上の系統で、川中島の戦いでは親子で敵味方に分かれて一族の存続を図りました。清野氏の鞍骨城跡は山城マニアに人気の山で全国から訪れます。12月の積雪前か4月の芽吹き前に登ることをお勧めします。当ブログでも何度か紹介しています。豊臣秀吉の国替えにより、清野氏を含め善光寺平の土豪は家族家来を含め全員が会津へ行きました。海津城は、もともと清野氏の清野屋敷・禽(とり)の倉屋敷があったところです。
 『埴科郡誌』や『更科郡誌』などの明治の地方史誌は、もっと注目されていいものです。明治34年発刊の『信濃寶鑑』全3巻や、大正元年(1912年)から同3年(1914年)にかけて全5巻に別けて刊行し、『新編信濃史料叢書』全25巻として再編され、昭和45年(1970年)から同54年(1979年)にかけて刊行された『信濃史料叢書』も後の『長野県史』につながるものであり重要です。また、松代藩の『真武内伝』や松本藩の『信府統記』、俳人の瀬下敬忠が宝暦3年(1753年)に完稿した信濃国の地誌『千曲之真砂』なども長野県の歴史を知る上で欠かせないものです。

 地形図において妻女山の名称が指す山が移動してしまったことが分かる地図2枚。左は昭和43年(1968年)発行のもの。妻女山は斎場山の場所を指しています。右は昭和58年(1983年)発行のもの。妻女山は現在の地形図と同じく旧赤坂山を指しています。この一件で赤坂山が妻女山となり、斎場山は名無しになってしまったのです。そこで、斎場山という本名を復活させるべく活動を始めました。長野郷土史研究会の会誌に「妻女山の真実」という小論文を載せてもらったり、ブログで何度も発信し、拙書にも斎場山を入れました。またグーグル・マップにも掲載を申請し記入されました。斎場山という名が徐々に知れ渡る様になり今に至ります。自然地名というのは重要な文化遺産なので大事にしなければならないのです。

「河中島合戰圖」小幡景憲彩色。武田の軍学書『甲陽軍鑑』の編者。斎場山南の陣場平に陣小屋が七棟建てられた図が描かれています。合戦後50年位(1610年頃:江戸時代初期)に描かれた絵ですから布陣の位置の正確な描写は無理としても、その内容はかなり正確かも知れません。小幡景憲の祖父虎盛と叔父光盛は、海津城で春日虎綱の副将を務めました。そういう経緯から景憲は『甲陽軍鑑』原本を入手しやすい立場にいたということでもあり、実際に合戦当時の話を聞いていたのではないかと思われます。数ある川中島合戦戦国絵図の中でも最も信憑性の高い一点だと思います。この絵図は、東北大学狩野文庫に所蔵されているもので掲載の許可を得ています。

「川中島謙信陳捕ノ圖」一鋪 寫本 榎田良長彩色。南が上です。妻女山という名は戦国時代にはありません。斎場山です(誤って西条山と)。妻女山は江戸幕府の命令で作られた正保4年(1647)年の「正保御国絵図」には妻女山と記されています。慶長9年(1604)の「慶長国絵図」では信州は現存しません。赤坂山の下に蛇池がありますが、千曲川旧流の跡です。戦国時代はここにぶつかって流れていたのです。そのため斎場山は天然の要害に囲まれていたというわけです。蛇池は、高速道路ができるまでありました。

妻女山の真実 ー妻女山は往古赤坂山であった。本当の妻女山は斎場山である。ー
岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈。明治政府の愚挙(妻女山里山通信)

真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信)
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その2(妻女山里山通信)

NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

好評だったブログ記事:「ブラジルへの郷愁」レヴィ=ストロース 川田順造訳 みすず書房。文化人類学、また構造主義におけるバイブルのひとつ(妻女山里山通信)は、都合によりリンク先の楽天ブログに移転しました。

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2024年の新年会は吹雪の中を戸倉上山田温泉へ。國楽館戸倉ホテル、やきとり安兵衛、タイスナック響などなど(妻女山里山通信)

2024-01-14 | 歴史・地理・雑学
 2024年の新年会は大荒れの吹雪の中を運転して恒例の國楽館戸倉ホテルに集まりました。道路は結構混んでいました。スピードは30キロで車間距離はいつもの二倍。道路は凍結していてちょっとブレーキを強めに踏むとABSが効いてガガッと滑ります。スタッドレスも万能ではありません。地元の人ほど慎重な運転をします。溶けて翌朝凍結してブラックアイスバーンになったらスタッドレスでも酷くスリップしコントロールを失います。

 全員が揃ってまず持ち寄った日本酒や焼酎、ワインなどをでメンバー自家製の野沢菜漬けや大根漬けなどで一献。高校の同級生のホテルなのでこういうワガママもできるのです。ではぼちぼち出かけようかと。今年は夕食をキャンセルしてやきとり安兵衛に向かいます。幸い雪は止みました。

 戸倉ホテルのロビー。古いというかもうボロボロです。ただ造作はしっかりしていて天井の細工などは見事なものです。各部屋の組子指物なども今ならうん十万円するかなというものもあります。何気なく飾ってある書や絵画、流木の置物なども要チェック。ホテルというよりどう見てもボロ旅館ですけが、ボロっていうのには理由があります。最後に出てきます。このレトロ感が若い人に受けていて、この日も若い人が二グループほど宿泊していました。我々も数年前に知ったのですが、右の階段の裏には地下室へ行く階段があり卓球台があります。

 スナックやクラブが並ぶ新世界通りへ。80店ほどあるそうですがどうでしょう。ずいぶん閉店した店もある様ですが。知り合いのスナックをやっていたタイの夫婦は帰国した様ですし。一般の客が旅館やホテルから出てくるのは8〜9時ぐらいですね。射的も開店します。

 雪道を繁華街の外れに向かって歩きます。知る人ぞ知るやきとり安兵衛。2年ぐらい前にタイやフィリピン、日本人のお姉さん達を集めて私が幹事をしてして飲み会を開いたことがあります。

 枝豆のお通しにこれはアワビの肝。そして焼き鳥6種類を頼みました。ここの焼鳥は本当に美味しい。鶏肉がまず美味しいのです。

 砂肝に梅しそ巻きですかしら。基本塩なんですが別に壺に入っったタレがでてきます。これがまた美味しい。

 トマト巻き。他に海老の塩焼き、あん肝酢など色々頼みました。瓶ビール大瓶を三本飲んだ後で、二階堂の焼酎の一升瓶を頼みお湯割りでいただきました。店内はこんな感じ。我々は小上がりの座敷で。以前は座卓だったのですがテーブル席に改修されていました。こちらの方が腰が痛くならなくていいですね。

 ご主人と女将さん。他に若旦那と奥さんがいます。家庭的で暖かい居酒屋です。地元の人がほとんどですが、観光客も調べて評判を知って来る様です。おいおい何してるのよ。黒板に書かれたメニューです。安くて何を食べても美味です。

 9時で閉店なので、次にタイのスナックへ。知り合いのタイの女性がやっているスナックは休みでした。そこで客引きのおばさんに進められて響というスナックへ。戸倉上山田温泉のタイのスナックのシステムは、1時間で、まずハイボールなど飲み放題で3000円。女性が飲むドリンクが1000円。カラオケが1000円で3曲歌えます。というわけで一人5000円でした。明朗会計です。日本人のホステスがいるスナックは行ったことがないので分かりません。ディープナイトライフは自分で調べてください。

 さて帰ります。この三人は飲み足りないのか落語家がやっている居酒屋へ。Vサインを出しているK君のYou Tube「小山少年」で盛り上がったとか。先にラーメンを食べて帰ると行った二人を追って私も帰りました。で、また飲み直し。

 翌朝はピーカン。まず朝風呂にゆるゆると入りました。冬なのでやや温めでしたが泉質は美人の湯といわれる様に最高です。日帰り入浴も500円でできます。温泉のパイプの上を猫?いや違いますね足跡が大きい、タヌキかハクビシンでしょう。山に近いのでいても不思議はありません。
 実は昨年からここだけでなく近隣の温泉でも湯量の激減が問題になっています。昨年の少雨による渇水が原因といわれています。梅雨の豪雨も台風での洪水もなく千曲川の水位はいまだかつて無いほどに低いのです。温泉も地下水ですからそのために減少しているのかも知れません。暖冬で雪も少ないし。2022年1月のトンガの海底火山の大噴火で大気中の水蒸気の10%が放出されたことで、世界中で大洪水や大旱魃、暖冬や厳寒が起きています。その水蒸気が海に帰るまで世界中で異常気象は続くと世界的に高名な気象学者は言っています。

 旅館の中はあちこちに昭和レトロが見られます。昔は動いていたジュークボックス。「いとしのエリー」「ダンシング・オールナイト」「ダンスはうまく踊れない」「真夜中のドア」「北酒場」とか懐かしい名曲の数々。そういえばスナックでも80年代ポップスを仲間が歌っていました。今世界的に人気があります。
                   石川セリ SERI ISHIKAWA ダンスはうまく踊れない 「 八月の濡れた砂」も名曲。



 2018年にテレビ東京で「日本ボロ宿紀行」というドラマのロケがありました。もう公式にボロ宿認定されたわけです。ポスター。ここに書かれたスナックは皆ママやホステスが日本人のスナックです。若い女性も気軽に飲めるお店です。戸倉上山田温泉は歴史が浅く、湯治場ではなく公務員や会社員の遊興温泉として栄えてきたので隆盛期には芸者が400人もいました。ストリップ劇場も二軒ありました。現在は家族やグループ向けに転換してすっかり様変わりしています。
 インバウンド需要も掘り起こしたいところでしょうけどスキー場などのアクティビティが無いんですね。千曲川でカヤックツーリングとか堤防道路を整備して塩田平へ歴史サイクリングとか、姨捨や五里ヶ峯などの里山を活かして拙書で紹介のトレッキングやトレランもありだと思うのですが、官民協力して相当頑張らないといけませんね。
ドラマ25 「日本ボロ宿紀行」テレビ東京 :売れない歌手とマネージャーの旅。出演:深川麻衣、高橋和也
●テレ東のドラマを忠実にたどったルポです。
【ボロ宿】長野県千曲市『戸倉ホテル』に泊まる。ジュークボックスがあるレトロな宿。【日本ボロ宿紀行】【前編】
【ボロ宿】長野県千曲市『戸倉ホテル』に泊まる。ほろよい銀座で呑んだ後に露天風呂で一息つける宿。【日本ボロ宿紀行】【後編】

 戸倉ホテルの入口には立派な木彫りが。鬼瓦もなかなか凝ったものです。近くには大隅流の見事な宮彫りのある神社もありますがこれの彫師の名は不明です。

 斜向かいにある笹屋ホテル。戸倉上山田温泉の始祖の由緒あるホテルです。うん十年前にここで披露宴をしました。料理は陳建民の愛弟子が作る中華料理で、出席した友人たちも絶賛していました。別棟の「豊年虫」は登録有形文化財。後ろは八王子山。ここからロングコースで冠着山(姨捨山)への登山コースがあり拙書で紹介しています。春のカタクリの季節がお勧めです。旅館に一泊して山登りもいいものです。

 お土産に辰年のタオルと六文銭まんぢうを頂いて帰ります。車がガチガチに凍っていたので暖機運転をする間に裏手の堤防へ。千曲川と、これも拙書で載せている五里ヶ峯。展望の素晴らしい里山です。
 当地は、映画「ペルセポネーの泪」のロケ地にもなりました。主演は渡辺秀・剛力彩芽。下のリンクはその記事です。
信州の千曲市が舞台の映画『ペルセポネーの泪』を観に行きました(妻女山里山通信)

 帰りに千曲川の堤防上から戸隠連峰と飯縄山。それにしてもなんという美しい青空でしょう。

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『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、
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お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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妻女山の真実 ー妻女山は往古赤坂山であった。本当の妻女山は斎場山である。ー

2023-12-15 | 歴史・地理・雑学
■この記事は、2008年の長野郷土史研究会会誌『長野』第259号に掲載された私の小論文です。
 斎場山が妻女山と改名され、後に別の山に移ってしまうという数奇な運命に翻弄された歴史ある里山の話。
 川中島の戦いや古代科野のクニに興味がある方はぜひご一読を。



はじめに
 妻女山は、第四次川中島合戦で有名になった山であるが、麓の岩野や土口では、古来より本当の妻女山というものが言い伝えられており、往古は斎場山といった。しかし、現在その山は、国土地理院の地形図において測量もされず名無しという誠に憂うべき状況にある。地元では、そのことに長い間危惧の念を抱いてきた。
 本来の妻女山が誤解された理由については、大きく四つある。ひとつ目は、軍学書であるが故に誤記も多いとされる『甲陽軍鑑』に、妻女山を西條山と記され、それが広まってしまったこと。この書には、「年号万次第不同みだり候へども、それを許し給いて」とか「人の雑談にて書記候へば、定て相違なる事ばかり多きは必定なれども」とか断り書きがあるように口述筆記のためか誤記が多い。二つ目は、江戸時代中期後半の歌舞伎や浮世絵による川中島ブームで、本来の斎場山という名称が、妻女山という俗名に置き換えられてしまったこと。三つ目は、明治2年に戊辰戦争の英霊を祀るために建立された赤坂山の招魂社が、「妻女山松代招魂社」と命名され、妻女山の名称が、本来の山から赤坂山に移ってしまったこと。四つ目は、昭和47年の国土地理院の地形図改訂の折に赤坂山の位置を妻女山と記載され、それが全国的に定着してしまったということ。
 ここでは、妻女山の位置と名称の変遷を、史料や地元の伝承等を元に解き明かしてみたい。
 
一 妻女山は、往古斎場山であった
 まず、史料や地元の村誌に記されている妻女山について記したい。
 現在、国土地理院の地形図に記載されている標高411メートルの妻女山は、本来は赤坂山といい、本当の妻女山の支尾根にある頂である。本当の妻女山は、それより20分ほど南西に登った、標高513メートルの円墳(斎場山古墳)のある頂である。地名は天上といい、西の支尾根に標高437.7メートルの薬師山(笹崎山)をもち、頂上から東西に伸びる尾根を含めて斎場(妻女)山脈という。妻女山は、往古斎場山といい、祭場山となり、妻女山となる。
 妻女山の位置と名称については、諸説あるわけではない。江戸時代以前まで妻女山とよばれていた本来の妻女山(本名は斎場山、妻女山は俗名)513メートルと、江戸時代初期以前は、赤坂山、または単に赤坂と呼ばれ、明治2年松代招魂社建立後から妻女山と呼ばれるようになった現妻女山、411メートルがあるだけである。それ以外に地元で妻女山と呼ばれた山は存在しない。
『信濃宝鑑』中巻によると、「【妻女山】まことは斎場山なるべし、上古県主及び郡司(或は田村将軍東夷征伐の際とも云ふ)などの天神地祗を祭れる壇上の意ならん。今岩野・清野・土ロの三村に跨りて峠立せり、即ち、岩野は、斎野(いはひの)・清野は須賀野にて清く須賀須賀しき野の意なるべし、然して土ロは祭壇への登りロの意ならん。現今、古墳やうのもの多きは、皆祭壇にてこれ穿てば祭器古鏃を出だすを以ても上古の斎場たる事知る可きなり、後永禄年中甲越合戦の際上杉謙信の陣を張れる処たり。」とある。
 また、『信濃史料叢書』第四巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺においては、「上杉謙信は村上が頼に依て、武田家と鋒を争う事数度、斯て永禄四年八月十六日、上杉が軍中山八宿を越え、海津城西妻女山へ人数を引揚げ備を立て、武田家の変易を待つ、其備立記、一、赤坂の上、甘粕近江守陣場也。一、伊勢宮の上、柿崎和泉守陣場也。一、月夜平、謙信が従臣多く是に陣す。一、千ヶ窪の上の方、柴田道壽軒が陣也。一、笹崎の上薬師の宮、謙信本陣也。此下東風越と云う所あり、其下北にをりて十四五間行て水あり。」とある。赤坂の上とは、現妻女山のことであり、伊勢宮とは岩野字西幅下に伊勢宮があったと祖母の伝聞あり。月夜平とは、清野の会田集落の上の字名。千ヶ窪の上の方とは、清野小学校の南の奥まった所の上ということで、地元で陣場平と称する標高520メートルの高原を指す。笹崎の上とは、薬師山から斎場山までの長尾根をいいう。東風越とは、岩野と土口の間にある斎場山東の峠のこと。北に下りると謙信槍尻之泉がある。
 備立覺の続きには、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」と記されているが、その前記には、「同九月九日の夜、信玄公の先鋒潜に西條山の西山陰に陣す。」とある。西條山とは狼煙山のことであり、西條山が本来の名称で、狼煙山は信玄由来の俗名であろう。甲陽軍鑑の誤記は、ひとつの推理を生む。それは、戦国当時「さいじょざん」ではなく「さいじょうざん」と呼んでいたのではないかということだ。「さいじょ」ならば、西條という文字は浮かばない。然るに、妻女山は近世の創作による呼び名であろうと推測できるのである。
『長野県町村誌』第二巻東信篇の【岩野】では、「本村古時磯部郷(和名抄にあり)に属す。里俗傳に斎野村たり(斎場山は本村起源の地ならんか)延徳の頃(1489~1491)上野村と名す。寛文六年(1666)岩野村と改称す。附言、里俗傳に、往古斎場山に會津比賣神社あり。土地創々神にして土人の古書にも當郷に深き由縁ある神にて、貞観中(859~877)埴科大領、外従五位下金刺貞長の領地たり。蓋其際官祭の社にして、郡中一般祭典を施行せしものか、今に至り斎場山の麓に斎場原と称する地あり。此地字を以て村名を斎野村と称せしなるべし。」とある。
 また、妻女山については、「山【妻女山】高及び周囲未だ実測を経ず。村の南の方にあり。嶺上より界し、東は清野村に属し、西南は土口村に属し、北は本村に属す。山脈、南は西條山に連り、西は生萱村の山に接す。樹木鬱蒼。登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。渓水一條、中間より発す。細流にして本村に至りて湧く。」とある。「樹木鬱蒼。登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。」とは、外部の人には、まずどこか分からない記述であるが、これは岩野駅南の山裏(山浦)から前坂を登って韮崎からの尾根に乗り、斎場山(妻女山)へ登る急な山道のことである。養蚕が盛んな時代は、数十キロの肥料を背負ってこの道を登ったという。現在はほとんど登る人はいないが、この記述により妻女山は斎場山であったということが分かる。西南は土口という記述からも明白である。「渓水一條」とは、もちろん上杉謙信槍尻の泉のことである。
 また、「古跡【斎場山】本村の南より東に連り、祭祀壇凡四十九箇あり。故に里俗傳に、此地は古昔国造の始より続き、埴科郡領の斎場斎壇を設けて、郡中一般袷祭したる所にして、旧蹟多く遺る所の地なり、確乎たらず。」とあり、(注=斎場山から御陵願平、土口将軍塚古墳にかけての記述)古跡の続きでは、「【上杉謙信陣営跡】 本村南斎場山に属す。永禄四年(1561年9月此処に陣すること数日、海津陣営の炊烟を観、敵軍の機を察し、夜中千曲川を渡り、翌日大に川中島に戦うこと、世の知る所なり。山の中央南部に高原あり、陣場平と称す。此西北の隅を本陣となし、謙信床几場と云あり、今誤って荘厳塚と云う。」とある。(注=陣場平から斎場山にかけての記述・南より東に連なりとは、字妻女・妻女山のこと。)
 以後町誌市誌県誌のほとんどは、この報告を元に記されているようだ。[山]妻女山と[古跡]斎場山と記載があるが、同じ山頂のことである。妻女山が赤坂山のことであれば、土口とは境を接しない。[古跡]上杉謙信陣営跡も同じ山頂であり、床几塚のことである。謙信台ともいう。斎場山の地名は、天上であり、地元では御天上という。謙信陣営跡の記載で「本村南斎場山に属す。」とあるが、「本村、南斎場山に属す。」ではない。「本村南、斎場山に属す。」である。南斎場山などという地名はない。また、「誤って荘厳塚という。」とあるが、荘厳塚は正しくは土口将軍塚古墳のことである。「山の中央南部に高原あり、陣場平と称す。」という記述により、斎場山を起点として南に陣場平があるということが分かる。「西北の隅」は、もちろん斎場山である。
 本来の妻女山については、小林計一郎先生の『川中島の戦』甲信越戦国史の記載を外すわけにはいかない。「妻女山(松代町長野電鉄又はバス岩野下車)松代と屋代との間、長野電鉄岩野駅の南にそぴえる山である。山上に古墳があり、また旗塚と称せられる小円墳がたくさんある。永禄四年謙信が本陣をすえた所であるという。妻女山の支山赤坂山には招魂社があり、ふつうこの赤坂山を妻女山と言っているが、本当の妻女山は地図に見えるとおり赤坂山より高い山であり、赤坂山と笹崎山はその支山である。」と記されておられる。同書116頁の「川中島の戦のようす<五 永禄四年の激戦>妻女山・海津城の対陣」の写真に「海津城から見た妻女山(○印)」とあるが、○印は、本来の妻女山(斎場山)の上にある。但し、この海津城から見た妻女山が、大正元年陸軍参謀本部陸地測量部測量の五万分の一「長野」の誤記載を生んだのではとも考えている。海津城から見ると、妻女山は天城山(てしろやま)から現妻女山(赤坂山)への尾根上にあるように見える。しかし、実際は尾根の向こうの東風越を挟んで400メートルほど西にあるのである。この見え方が、大正時代の地形図にあるはずもない546メートルの山頂を誤って作らせたのではと考えている。実際は、その場所にはピークは昔も今も存在しない。しかも、546は、単なる標高点であり山頂の印ではない。昭和35年の改訂版では、山頂の閉じた等高線は誤記載のままだが、標高点の記載は無くなっている。現地系図では、その山さえない。
 現妻女山については、『真田史料集』に、「松代招魂社を祀る 長野県信濃国埴科郡清野村字妻女山鎮座 官祭 松代招魂社『明治2年己巳4月17日藩戦死者の英魂を妻女山頭に鎮祭して松代招魂社と称す』」とある。妻女山頭であり、字妻女山なのである。頭(かしら)とは山頂ではなく、山頂に至る尾根の出っ張った所をいう。招魂社の裏を境に、清野側を字妻女山、岩野側を字妻女という。本来の妻女山は、字妻女にあり、清野側の字妻女山にはない。招魂社の場所の地名は、赤坂山である。ところが、妻女という地名は、岩野の山裏や清野の字妻女山にもある。実にややこしく、地元でも全てを把握している人は、地権者を除けばほとんどいないであろう。地元の人も現妻女山を赤坂山とは呼ばずに、妻女山と呼んで久しい。それは、字妻女山をもって妻女山と呼んでいるのである。本来の妻女山は、子供の頃より「本当の妻女山」という呼び方で上級生や親から教えられてきた。


 
二 斎場山について
 大きな誤解の元は、江戸時代から現代まで、戦国時代の妻女山にばかり興味のスポットライトが当てられてしまった事である。
 斎場山は、古代科野国造(しなののくにのみやつこ)がお祀りしたところといわれており、歴史的に重要なところといわれる。その科野国造が、崇神天皇の代に、大和朝廷より科野国の国造に任命された、神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔の建五百建命(タケイオタツノミコト)であるといわれている。国府が小県に移る以前には、屋代、或いは雨宮辺りにあったという説もある。
 昭和四年発刊の松代町史には、森将軍塚古墳が建五百建命の墳墓であるという説が記されている。妻女山の麓にある會津比売神社の祭神・會津比売は、建五百建命の后であるという。よって信濃国造がお祀りした斎場山の麓(往古は山上にあったという)に神社を建立したといわれている。
 建五百建命には二人の息子がいたといわれる。兄は速瓶玉命(ヤミカタマノミコト)といい、阿蘇の地にくだり、崇神天皇の代に阿蘇国造を賜る。弟の健稲背命(タケイイナセノミコト)は科野国造を賜ったという。健稲背命の系図は、科野国造、舎人、諏訪評督、郡領、さらに諏訪神社を祭る金刺、神氏という信濃の名門へと続くものである。いずれも未だ神話の域を完全には出ないものであるが、記しておきたい。
 原初科野は、埴科と更級辺りであったといわれる。斎場山は、森将軍塚古墳のある大穴山と共にその中心にある。長野県考古学会長であられた故藤森栄一氏は、『古墳の時代』の中において、「四世紀頃、川中島を中心に、大和朝廷の勢力が到来して、弥生式後期の祭政共同体の上にのっかって、東国支配の一大前線基地となっていたことは事実である。」と記しておられる。その痕跡は、森将軍塚古墳・川柳将軍塚古墳・土口将軍塚古墳などに見ることができる。
 そして、5世紀には、大陸から渡来人と共に馬が到来し、6世紀から11世紀にかけて信濃は牧馬の中心地となる。その機動力により、朝廷の権力が地方にも早く確実に届くようになり、次第に古い国造の治外法権を奪っていき、国造は、大化改新を経て、後に律令管制が布かれ、諸国に国司・郡司が置かれるに至っては、祭礼のみを司る象徴的な役目へと変貌したといわれている。
 その中で、雨宮廃寺と雨宮坐日吉神社、笹崎山(一名薬王山)政源密寺と會津比賣(会津比売)神社の関係など、仏教が伝来し、盛んになった大和・奈良時代から、平安時代における菅原道真の建議による遣唐使の廃止により神道の隆盛と国風回帰、それに伴う寺社の盛衰等が、此の地でもあったと思われる。
 1996(平成8)年、會津比賣神社新社殿建立の折りに「妻女権現」と記された木札が確認されている。斎場山(妻女山)古墳と會津比賣命の関係を示すものとして興味深い。往古會津比賣神社が斎場山の山上にあり、斎場山古墳は會津比賣命の墳墓であるという伝説もある(土口将軍塚という説もある)。
 昭和59年12月20日に記された『會津比賣神社御由緒』には、會津比賣は、「信濃国造・建五百建命の妻であり、現神社より三丁余り南の山腹に二神の住居があったと伝えられる。」と記している。また、雨宮坐日吉神社(あめのみやにいますひえじんじゃ)の三年に一度の春季大祭(御神事)においては、清野氏の屋敷があったとされる海津城内へ移動して踊る「城踊り」が奉納された。その際、周辺の寺々を巡り、清野の「倉やしき」、岩野・土口などといった旧家で踊りも奉納していたという。雨宮の御神事の「橋がかりの踊り」は、沢山川(生仁川)の「斎場橋」で行われるが、斎場橋は、「郡司」が雨宮から斎場山へ参る際に渡る橋としての命名かと思われる。往古斎場山の表参道は南であり、そのため祭壇への登り口の意味で土口という地名があるという。會津比賣命の墓については、「神社の上、斎場山脈の頂上の西方にある、荘厳塚と称する所の御車形山稜が命の墓なり」と記されている。「郡司」については、『日本三代実録』貞観四年(862)三月の項に「三月戊子(廿日)信濃国埴科郡大領金刺舎人正長(かなさしのとねりまさなが)・小県郡権少領外正八位下 他国舎人藤雄等並授、借外従五位下」とある。里俗伝によると、埴科郡の郡司の筆頭・大領の金刺舎人正長が大穴郷(森・雨宮・土口)にいたということである。
 1982~1986年にかけて、長野市と更埴市(現千曲市)の教育委員会による土口将軍塚古墳の合同調査がなされたが、その報告書には、土口将軍塚は岩野と土口の境にある妻女山から西方に張り出した支脈の突端にあると記してある。つまり、円墳のある頂が、往古の妻女山であり斎場山なのである。それ以外に本来の妻女山はない。尚、前記したように、斎場山が本来の名称であり、妻女山は後世の俗名である。
 平成19年2月7日に、土口将軍塚は、埴科古墳群のひとつとして国指定史跡となった。信濃の国の起源とされる科野の国の史跡としての重要性が認められたのであろう。つまり、現在名無しである斎場山の地形図への山名記載が一層重要なものとなってきたわけである。土口将軍塚、斎場山古墳や天城山(てしろやま)の坂山古墳、堂平古墳群などもいずれ詳細な学術調査研究が為されることを期待したい。尚、『長野県町村字地名大鑑』の字図には、斎場山(円墳)の場所に妻女山とはっきりと明記されている。
 
三 妻女山(斎場山)への想い
 岩野は、古代科野の国の起源の地のひとつとして重要な場所であったが、その後、岩野村誌には、「養和元年(1181)6月、木曽義仲が平家方の城資茂の大軍と横田川原に戦う時に、ここ笹崎山に陣を取り、大勝の後、戦死者のために守本尊『袖振先手観音』を安置。(源平盛衰記)その後里俗、石像薬師仏建立する。」とある。また、応永七年(1400)には、信濃の新守護(婆娑羅大名)小笠原長秀と村上満信、仁科氏ら国人衆たちの大文字一揆党が戦った大塔合戦もあった。そして村上氏が勝利し、善光寺平を支配した。
 その後は、周知のように川中島合戦の激戦地となった訳である。また、『類聚三代格』一七赦除事・仁和四年五月廿八日詔によると、仁和四年頃(888)には、千曲川の大洪水に見舞われている。その後も度々洪水に襲われ、近世においては、寛保二年(1742)に有名な大洪水「戌の満水」が起きている。千曲川流域で2800人の死者、岩野でも160人が亡くなっている。その際に、全ての古文書、家系図、付宝のほぼ全てが流失してしまったという。その約百年後、弘化四年(1847)には、善光寺大地震があった。今ある人々は、その惨禍を生き抜いてきた人々の子孫なのである。
『會津比賣神社御由緒』のむすびには、こう記されている。「此の地に生まれ育ちて、地についた神格たる産土神(うぶすながみ)を、朝な夕な尊崇し奉る人々の幸を、ひしひしと身に覚ゆる次第なり。」と。妻女山(斎場山)の真実が、未知なる科野の国の古代史と共に更に解明され、広く人々に知れ渡ることを祈るのみである。

(注)細部で追記が必要な記述もありますが、大意に影響がないため未修正で載せました。文字数の制限があり記したいことの全ては書けませんでした。例えば妻女山の初出は幕府が作らせた天保国絵図です。慶長国絵図は現存しないので確認不可。松代藩がなぜ斎場山を妻女山と改称して申請したかなど書きたかったのですが。別のブログ記事では既に書いていると思います。

参考文献:『信濃宝鑑』中巻 (株)歴史図書社 昭和49年8月30日刊
     『信濃史料叢書』第四巻 1913(大正二)年編纂全五巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺
     『長野県町村誌』第二巻東信篇 昭和11年発行 調査=明治13年 岩野戸長窪田金作氏への聞き取り調査より
     『長野県町村字地名大鑑』長野県地名研究所 昭和62年11月3日刊
     『真田史料集』天保一四(1843)年 信濃国松代城主真田氏編集 重臣河原綱徳編集主任
     『川中島の戦』甲信越戦国史 小林計一郎著 長野郷土史研究会発行
     『會津比賣神社御由緒』考古学者柳沢和恵先生監修 雨宮坐日吉神社及び會津比賣神社片岡三郎宮司監修 岩野編纂
     「藤森栄一全集第11巻」『古墳の時代』

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「河中島合戰圖」武田の軍学書『甲陽軍鑑』編者、小幡景憲彩色。江戸時代に描かれた川中島合戦図色々。『長野電鉄沿線温泉名所案内』吉田初三郎(妻女山里山通信)

2023-12-02 | 歴史・地理・雑学
 川中島の戦い以降、江戸時代になってたくさんの絵図が描かれました。その多くは第四次川中島合戦の上杉軍と武田軍の布陣図です。それらを紹介します。歴史を年号や小難しい文章でなく、絵図という分かりやすいビジュアルで見るということの楽しさを知って欲しいと思います。そして興味を持ったら、歴史書や史料を読むといいと思います。特に川中島の戦いは第一級史料がなく、幕府奪取とも無関係だったのでまともな歴史家は研究対象としないとまでいわれていました。第一級史料がないのは、ひとつには豊臣秀吉の国替えで善光寺平の土豪が全ていなくなったことや、松代藩が支配するまで多くの藩主が変わり移住者も多く歴史資料の保存がなされなかったということがあります。善光寺平の人は日本のギリシャ人とかいわれて議論好きですが、あちこちから集まった人々が意思疎通するには話し合うしかなかったのでしょう。
まあそれが行き過ぎて「俺に言わせりゃあ〜」とか、誰も聞いてないよの自説語りの人が増えたのも事実ですが(笑)。

「河中島合戰圖」小幡景憲彩色。武田の軍学書『甲陽軍鑑』の編者。斎場山南の陣場平に陣小屋が七棟建てられた図が描かれています。かなり大雑把な絵ですが、それでも大体の地名は当てはめることができます。陣場平の北に赤坂山(現妻女山)、左に斎場山(旧妻女山)の尾根。上杉軍は赤で、武田軍は白で描かれています。上杉謙信は、短い布陣でも必ず陣城を構築したといわれています。築城前には、「乱取り」といって麓の寺社や家屋を壊して建築材料や食料を得ていました。
 合戦後50年位(1610年頃:江戸時代初期)に描かれた絵ですから布陣の位置の正確な描写は無理としても、その内容はかなり正確かも知れません。小幡景憲の祖父虎盛と叔父光盛は、海津城で春日虎綱の副将を務めました。そういう経緯から景憲は『甲陽軍鑑』原本を入手しやすい立場にいたということでもあり、実際に合戦当時の話を聞いていたのではないかと思われます。数ある川中島合戦戦国絵図の中でも最も信憑性の高い一点だと思います。この絵図は、東北大学狩野文庫に所蔵されているもので掲載の許可を得ています。
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 ここからは江戸時代に描かれた主に土産物の川中島合戦図を紹介します。時代は滑稽本『東海道中膝栗毛』十返舎一九が出版され大好評を博し(1802〜1814年)、一般庶民にも旅ブームが起きました。善光寺参りも盛んになり、川中島合戦絵図が土産物として飛ぶように売れた時代です。この中にもそういう絵図が含まれていると思います。土産物の絵図のサイズは意外と大きく、わら半紙の2倍、B2ぐらいあります。掲載は順不同です。

「河中島古戰場圖」一鋪 寫本 榎田良長彩色。どういう人物か不明。南が上になっているので180度回転させると地形図と同じになります。ということで回転してみました。北に飯縄山。犀川、南へ千曲川、斎場山(妻女山)と右の千曲川脇の黄色い海津城が分かると思います。茶臼山に武田軍が描かれていることから物語性の非常に高い絵図です。左下の赤い線は、武田軍が下りてきたという猿ヶ馬場峠からの善光寺道。この道は、武田信玄の命で配下の馬場美濃守によって開発整備されたものです。第四次川中島の戦いではここを下り、塩崎城や長谷観音に布陣したと考えられます。そして、信玄は間者を斎場山へ送り対岸の横田城を本陣とし、雨の宮の渡しから広瀬の渡しまでずらっと兵を並べたと伝わっています。ただ下から攻めるわけにもいかず作戦を練り直すために全軍を海津城に入れてしまいました。
 この海津城の形は大坂冬の陣の真田丸に非常によく似ています。突出した曲輪(郭)が丸いことから真田丸と呼ばれ色々な絵図でも半円形に描かれているのですが、発掘調査やレーダーによる探索で実際は台形であると判明しました。

 斎場山への上杉謙信布陣図が別にあります。「川中島謙信陳捕ノ圖」これは南が上です。分かる限りの地名を書き込んでみました。わりと正確な描写であることが分かります。妻女山という名は戦国時代にはありません。斎場山です(誤って西条山と)。妻女山は江戸幕府の命令で作られた正保4年(1647)年の「正保御国絵図」には妻女山と記されています。慶長9年(1604)の「慶長国絵図」では信州は現存しません。赤坂山の下に蛇池がありますが、千曲川旧流の跡です。戦国時代はここにぶつかって流れていたのです。そのため斎場山は天然の要害に囲まれていたというわけです。蛇池は、高速ができるまでありました。

 千曲川の堤防上から斎場山を撮影したパノラマカット。上の絵図と当てはめて見比べると分かると思います。鳥が翼を広げた様な山域や麓にたくさんの兵が布陣していたわけです。陣場平は長坂峠の300mほど向こう側なので見えません。

「川中島圖」折 一枚 寫本 島津定桓 原本 弘化三年圖(1846年)(彩色本):狩野文庫。これも上が南です。地図は上が北という決まりはこの頃はありませんでした。非常に稚拙な絵ですが、千曲川の旧河道が点線で妻女山や松代城の脇に描かれています。

「信州河中島合戰圖」信州河中島合戰圖 一鋪 寫本 明和九年(1772年)片岡長候寫(彩色):狩野文庫。赤が上杉軍で黒が武田軍です。赤備えといったら武田、真田だと思うのですが、小幡景憲の絵図といいそういうことに無頓着なのが笑えます。川中島での両軍の布陣や妻女山への武田軍の布陣が詳しく書かれています。斎場山は西条山と書かれています。古城清野は鞍骨城のことなので、西条山(斎場山)がその東に描かれているので間違っています。斎場山と西条山を取り違えています。こういう間違いは江戸時代からあったという証明です。片岡長候寫は土地勘が無い人なのでしょう。

「信州川中島古戰場」 一鋪 寫本 杉山憲長寫(彩色):狩野文庫。これはまた本当に下手な絵図ですね。これも斎場山と西条山を間違えています。戦国時代は口述筆記も多いので音が合っていれば漢字はどうでもよかったのです。ただ当地には西条山(にしじょうやま)と呼ばれる山域があったことで、とんでもない間違いがいくつも生まれました。真田家の史書「*眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺」には、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」と書かれています。
 *「眞武内傳」竹内軌定著。松代藩主真田家歴代の系譜および事績を記載。正編5巻が享保 16 (1731) 年に、付録4巻がのちにでき異本もある。幸隆・昌幸・信之・幸村などの記述が詳細。

「信州川中島合戰之圖」(合戰圖叢三五枚之内) 六鋪 寫本:狩野文庫。この絵図に至ってはもう方角も滅茶苦茶です。上の東と書いてある方が南です。合戦絵図の中でもかなり粗悪なものです。斎場山麓の岩野村は上野村、土口村は出口村、屋代は八代と書かれていますが、こう書いたことがあったのは事実です。斎野(いわいの)村→上野(うわの)村→岩野村と変遷して行きました。斎野は「信濃宝鑑」などに記載がありますが、斎場山が元です。

「信州川中島合戰圖」一鋪 寫本:狩野文庫。これも上が南です。あちこちにびっしりと物語が書かれています。茶磨山(茶臼山)布陣が出てくるので、江戸時代後期の『甲越信戦録』を元にした話かと思われます。拡大してひとつひとつ読み解くと面白いと思います。

「甲越 川中島合戦陣取地理細見図」仁龍堂花川真助 信濃善光寺。善光寺参り土産として売られたもの。出典:「川中島の戦」小林計一郎著。地元で作られたものなので赤坂山(現妻女山)と斎場山(旧妻女山)がきちんと区別されて描かれています。川中島の布陣は、上杉軍が黒、武田軍が白枠で描かれています。千曲川の犬ケ瀬、十二ケ瀬、猫ケ瀬が描かれているのも地元ならでは。右下にちゃんと凡例があります。

「信州川中島合戰陣取畧繪圖」:臨江齋画 更級郡北原村(長野市川中島町):松屋栄助 妙高の関山神社拝殿に奉納されたものを撮影。善光寺参りの土産として買ったものを奉納したのでしょう。
「信州川中島合戰陣取畧繪圖」:南喬画 更級郡北原村:松屋栄助再板 手持ちの資料より。
 これらも上と同じ様に土産物と思われます。川中島の戦いは、歌舞伎や人形浄瑠璃の演目となり大人気を博しました。絵巻や浮世絵も数々。善光寺参りの際には八幡原や妻女山、海津城のある松代を訪れる旅人も多かったのでしょう。

『長野電鉄沿線温泉名所案内(部分)』吉田初三郎 長野電鉄(株)昭和5年発行。「大正広重」と呼ばれた鳥瞰図で有名な画家。昭和5年の長野駅や川中島古戦場の八幡原など当時の様子が興味深い。海津城址に噴水があったことが描かれています。遠く下関まで描かれていますが、この手法は葛飾北斎が江戸時代に既に確立しています。長野県立歴史館で吉田初三郎展が開かれた折に買い求めました。長野電鉄の屋代駅・長野駅から木島駅・湯田中駅までの路線が描かれ、沿線の旧所名跡や温泉・スキー場などの観光地が記されています。

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『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、
『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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「自然へのまなざし 〜江戸時代の自然観〜」川中島古戦場の長野市立博物館へ。戌の満水と善光寺地震(妻女山里山通信)

2023-10-28 | 歴史・地理・雑学
「江戸時代は、西洋科学の影響を受けて、自然の見方や世界観が変わっていく時期です。西洋からの技術や知識の影響により、自然の描写は写実的になり、宇宙観や自然観も大きく変化しました。」とパンフレットにあります。入館料は常設展と合わせて300円。11月3日は無料です。常設展の川中島の戦いの展示や動画が人気で県外者も多く訪れます。

 こじんまりとした展示ですが、なかなか充実した内容でした。撮影禁止以外は撮影が可能です。

「旧松代藩領明細地図」信濃教育会蔵。上が南です。割りと正確な絵図なので、地名を入れてみました。妻女山と記してあるのは展望台のある現在の妻女山(旧赤坂山)ではなく旧妻女山で本名は斎場山です。上杉謙信公御床几場と書いてあります。川中島の戦いの本陣ということです。旧松代藩領ということから明治時代に作られたものでしょう。松代城内は更地になっています。

 現在の川中島は、集落や街が連続していて境界が分かりづらいのですが、当時ははっきりと分かります。赤い線は道路ですが、山の周囲や川沿いに引かれた黒い直線はなんでしょう。測量のポイントでしょうか。左上に丸く描かれた皆神山。その下に尼厳山(あまかざりやま)。灰色に描かれた旧千曲川の河道が松代城のすぐ脇を流れていたことが分かります。戌の満水の時に殿様が船で逃げたという話も納得できます。

 寛保2年(1742)の戌の満水の被害を記した絵図。上が北です。濃いグレーに白い点々があるところが、洪水や山崩れの被害が出た場所です。被害の大きさが痛いほど分かります。善光寺と松代の文字は読めると思います。上が犀川、下が千曲川。新潟に入ると信濃川になります。

 妻女山付近の被害の様子。岩野村では村人の約3分の1にあたる160人(男58人、女102人、馬2頭)が亡くなり、家屋144戸が流出という未曾有の被害を出しました。松代藩最大の犠牲者を出したのです。我が一族も二人が犠牲になり、助かった娘が岸に上がると着物のたもとの中に蛇がたくさん入っていたという話が残っています。この絵図は左が北、右が南、上が東、下が西です。
信州『松代里めぐり 清野』発刊と戌の満水など千曲川洪水の歴史(妻女山里山通信)

「於桜村土肥坂望*鑪村震災山崩跡之図」(長野市芋井)。松代藩の御抱絵師、青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3〜1903明治36/1804〜1901の説も)の絵。雪卿は、松代藩が壊滅的な被害を受けた弘化4年(1847)に起きた善光寺地震から3年後の嘉永3年(1850)、藩主真田幸貫公(感応公)の藩内巡視に同行し、120日間をかけて「伊折(よーり)村太田組震災山崩れ跡の図」(真田宝物館蔵)などを描き上げました。雪卿は我が家の近所にあり名主をやった先祖とは幼馴染で親友だったそうです。虫倉山は、上部が硬い凝灰角礫岩(荒倉山火砕岩層)で、下部が柔らかい砂岩など。その境界部辺りの岩石が大崩落し、大田の集落を全滅させました。
*鑪村はたたらむらと読むのですが、この村はたたら製鉄と関係があったのでしょう。鑪(たたら・ろ)。

「鑪村震災大岩崩跡之図」(長野市芋井)あちこちで山体崩壊が起きた様です。善光寺地震では死者総数8,600人強、全壊家屋21,000軒、焼失家屋は約3,400軒を数えました。折しも善光寺御開帳の真っ最中で死者が増えました。参拝者の生存率は1割ぐらいとか。松代藩の立てた慰霊碑が、妻女山展望台の裏にあります。
青木雪卿が描いた善光寺地震絵図 現在との対比:現在の場所の写真との対比が凄い。雪卿の正確な描写が光ります。

「須弥山儀」嘉永3年(1850)田中久重作。世界は須弥山を中心に広がっているという古代インドの宇宙観が仏教とともに伝来。太陽と月が時計仕掛けで動くようになっています。北信五岳の妙高山はそれが元の命名です。

 伊能忠敬と交流があったという三重県津市稲垣家の定穀作の「地球儀」。オランダ製の地図を参考に製作したと考えられていますが、当時はもっと正確な世界地図があったので、かなりいい加減な地図しかなかったのでしょう。

「天球図」司馬江漢作。天の赤道の北側と南側の星図が描かれています。中国星座の上に西洋星座が描かれている珍しい天球図です。それぞれが何座か分かるでしょうか。

「北斎漫画」。観察力と描写力が凄い。小布施の北斎館は何度も訪れてブログ記事にもしていますがおすすめです。

「異国写鳥図」。孔雀。技法的に稚拙だなと思ったら、これは写本で、元になった絵がある様です。

 明治40年(1907)に牧野富太郎氏が贈呈した「草木図説」。

「人面魚の図」。文化2年(1805)に越中国(富山県)に出現したという人面魚。各地に瓦版や古文書が残っているそうです。ここには人面魚を殺したために金沢城下に火事が出たと伝えています。実際はなんだったのでしょう。左に書いてあるサイズを見るとかなり大きい。

「百鬼夜行絵巻」。夜更けに京の大路を異形のものが練り歩く様。後の水木しげるの「妖怪事典」に通じるものがあります。

「羽毛図巻」。松代藩の御抱絵師である山田島寅(とういん)作。狩野派の系譜なのでしょうか。見事な作品です。

 特別展の後で以前紹介した常設展を観て出ました。川中島古戦場公園(八幡原)は紅葉が美しい。古戦場祭りが開催中で週末には花火大会も。この先に駐車場や土産物屋、蕎麦屋などがあります。なんだか八幡原というより、美大生時代に訪れたパリのブローニュの森みたいだなと思いながら歩きました。

 八幡社の前にある武田信玄と上杉謙信一騎打ちの像。限りなく江戸時代に作られた物語なのでしょうけど、庶民の旅が盛んになり始めた江戸時代中期以降では、善光寺参りの土産物として川中島合戦絵図がたくさん作られ人気だった様です。ちなみに祖先は真田昌幸に仕えた足軽大将で、その長男は真田信繁(幸村)の影武者の一人で大阪夏の陣で討ち死に。もう一人、武田四天王のひとりの山縣三郎の家来で桔梗ヶ原の戦いで手柄を立てて感状と褒美をもらったものが。さらにずっと前に敵方の上杉方の小笠原長時に仕えて武田軍に敗退し村上義清の系統の清野氏を頼って妻女山の麓に定着したものがいます。詳細は不明ですが、戦国時代を生き延びるというのは非常に大変だったことが分かります。

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『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、
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中国正史の書を読む梅雨空の好日。『中国正史 倭人・倭国伝全釈』『中国正史の倭国九州説 扶桑国は関西にあった』『西暦535年の大噴火』(妻女山里山通信)

2023-06-13 | 歴史・地理・雑学
 梅雨空で撮影に行かれない日々が続いています。普段できない部屋の掃除やデータの整理整頓、少し手の込んだ料理をしたりしていますが、積読でなかなか読めない本やもう一度読みたい本を少しずつ読むようにしています。古代科野のクニは、ハイキングのガイドの時にも話しますが、出雲や倭国大乱などに触れると、やはり中国の古代史に触れざるを得ません。そんなわけで中国正史の本を二冊。さらに世界史の本を一冊読んでいます。とはいえ中国は広いし歴史は複雑でとても全部は覚えきれません。ただざっくりと紀元前1000年の西周から春秋戦国時代の呉越、秦の始皇帝、前漢、後漢、魏呉蜀、色々あって随、618年の唐までを覚えておけばなんとかなります。あとは300年以降の朝鮮半島の高句麗、百済、新羅、任那も。さらに世界史対照象年表をディスプレイに出しておくといいですね。

■『中国正史 倭人・倭国伝全釈』鳥越憲三郎
 最近吉野ヶ里遺跡から大きな石棺が発見され、卑弥呼のものではないかと話題になっています。これは倭人とはなにかということに新しい解釈を持ち込んだ書。『魏志倭人伝』にあるように、倭人とは当時の日本人のことですが、『晋書』には「自ら太伯の後(すえ)なり」とあります。太伯とは呉の始祖といわれる人物。つまり、日本からの使者は我々は呉の国の末裔であると言っているわけです。そして、各史書に書かれた倭人や倭国について記しています。越に滅ぼされた呉のエリートたちが日本に渡ってきた。そして後に滅びた越の人々も日本にやってきた。その後の秦の始皇帝の時代には、徐福の集団が大挙してやってきたというわけです。しかし、弥生時代の痕跡は1000年前からあるわけで、呉の滅亡以前から大陸から弥生の文化をもたらした人々がやって来ていたということも分かってきました。更に後には唐に滅ぼされた高句麗の人々も馬産と石の文化を持って主に信州に渡ってきたわけです。各史書の分析は非常に緻密で解説も分かりやすい。おすすめの一冊です。
漢字の歴史:文字として使用できる漢字ができあがったのは紀元前1500年ごろのことといわれています。象形文字ですね。弥生時代に渡来した人々が使っていたのが神代文字と思われます。吉野ヶ里遺跡の文様の様なものも、それだろうと思われます。さらに知りたい方は「漢字」で検索を。
人口の超長期推移:縄文時代の人口のピークは26万人。末期に8万に減少。弥生時代になると60万人にまで増加。さらに古墳時代には400万人へ。奈良時代には600万人を超えます。自然増に加えて渡来人の大量移入、稲作の伝来などで爆発的に人口が増えたものと考えられます。

■『中国正史の倭国九州説 扶桑国は関西にあった』いき一郎
 扶桑国という実は史実から永らく失われた日本のあるクニを紹介した書。「中国正史に記録されながら、いまなお日本正史から黙殺されつづける謎の国と大和皇国史観の作為に迫る」と帯にはあります。さらに「扶桑国は決して謎の国ではなかった。この国は九州倭国の東にあり、むしろ。中国との交流を遮られていたというべきである。九州倭国は委奴国王の金印以来、唯一の列島における正当政権を名乗り、誇っていたはずであり、外国の国々の中国への渡航を妨害していたとも考えられる。関西扶桑国説は九州倭国説を補うとともに、”近畿天皇家”の定説に再考を迫るだろう。」とあります。これも中国の史書からの引用が多く、緻密。中国から見た日本の記述が主で、史記には徐福の東渡が、後漢書には5-6世紀の日本について、倭国、扶桑国、文身国、女国、大漢国があるとの記述があります。序文とあとがきを読んでから本文に入るといいかと思います。

■『西暦535年の大噴火』人類滅亡の危機をどう切り抜けたか デイヴィッド・キーズ
 火山の本ではなく歴史書です。空前絶後の大噴火が世界の気候をドラスティックに変え、その結果、文明や文化がどう影響を受けたか、歴史がどう変わったかを検証しています。目次から抜粋すると、ペストの猛威、東ローマ帝国の動揺、イスラムの剣、東洋の悲劇、アメリカ大陸の変貌、人類の未来・九つの「時限爆弾」など。大地震や大洪水など大規模な自然現象から人類は絶対に逃げることはできない。そして打ちのめされ戦い立ち上がり生き抜いてきた。その壮絶な歴史が分かります。そして、我々も現在その真っ只中にあるのだと思い知らされます。

 もちろんこれらの書にかいてあることが全て正しいとか真実であるとはいえませんが、日本の古代史を探求する上で中国はじめ海外の古代史を学ぶことは、実は長年タブーでした。日本史と世界史を分けて教えるという奇妙な教育もそれ。特に明治政府の天皇制を強固に確立するために弥生時代以前はまるで原始時代だったかの様に貶められた感があります。そのタブーが無くなりましたが、一部ではまだ記紀一辺倒の人々もいます。弥生時代といえば古代ローマ帝国とも重なります。その高度な文明がシルクロードを伝って伝播したと考えるのが普通です。人類は旧石器時代から世界を大きく動いていたわけで、日本の旧石器時代人はオーストラリアやニューギニア高地人の様な骨格をしていたといいます。縄文人はどこから来たのかなど。歴史観というものも新たな見方を求められているのだと考えます。
「全盛期の縄文土器」ー圧倒する褶曲文ー 長野県立歴史館:尽きない縄文の魅力(妻女山里山通信):2021年に行われた展示のレポート。非常に感動的で興味深い展示でした。空前の縄文ブームで来場者も大勢でした。写真をたくさん載せています。


『富嶽と徐福』藤原祐則筆(北斎)北斎館所蔵
 大和王権の祖ともいわれる徐福集団の渡来。徐福は江戸時代でも相当に知られていた様で、かの葛飾北斎も徐福の肉筆画を描いています。徐福は伝説上の人物とされてきましたが、1982年に中国江蘇省の徐阜村が古くから徐福村と呼ばれ、徐福に関する遺跡や伝承があることが分かり、実在の人物であることが証明されました。徐福については、『阿曇族と徐福 弥生時代を創りあげた人たち』亀山 勝著もおすすめです。ヤマト王権や天皇が尊崇した伊勢神宮の灯篭に六芒星(ダビデの星)があるのは有名ですが、そのヤマト王権は先に渡来し定着した出雲を恐れたといわれています。科野のクニの崇神天皇に初代科野國造に任命された神武天皇の後裔の武五百建命(たけいおたつのみこと)の妻は、妻女山麓の会津比売神社の祭神の会津比売命(あいづひめのみこと)ですが、曽祖父は大国主命で出雲系。古代科野のクニはヤマト系と出雲系が結婚してできたといえます。ヤマト王権が出雲を取り込もうとする政略結婚だったのでしょうか。武五百建命は、森将軍家古墳に埋葬されていると思われます。
中国の歴史:見応え読み応えのあるサイトです。
徐福:ウィキペディア:秦の始皇帝に不老不死の薬を探すと少年少女3000人と多くの百工(技術者)、武士とともに、五穀の種と繭を持って来訪。結局帰らず全国に散らばり、稲作、製鉄、養蚕を伝え、クニをつくり王となり弥生時代を拓きました。全国各地に徐福伝説が残っています。徐福の村は古代に失われた10のユダヤ部族のひとつの末裔ともいわれています。帰らなかった理由は、不老不死の薬が見つからなかったというものと、最初から秦の始皇帝を騙して帰るつもりはなかったというものがあります。程なく秦は滅び、徐福集団は完全に定着したと思われます。
扶桑国の歴史的地理的な位置づけ


 春秋戦国時代の呉と越。越の人物。髪は結わず散切りで体には入れ墨。入れ墨を除いては、まるで現代のその辺にいる青年の様です。造船技術の高さがうかがえる外洋も航海可能な船。ベトナムまで交易をしていたそうです。まず滅びた呉の人々が出雲族として、ついでやはり滅びた越の人々が渡来し、徐福集団が渡来して定着し弥生時代の基礎を作ったとされる。さらに後には唐と新羅に滅ぼされた高句麗の人々もたくさん渡来しました。信州には彼らがもたらした馬産の証の馬具と石の文化を象徴する積石塚古墳がたくさん残っています。旧石器時代から1万年続いた縄文時代へ。琉球人とアイヌ民族。そして渡来人の弥生時代へと。日本は単一民族どころか多種多様な民族の集合体といえるのではないでしょうか。日本人はハーフどころか複数の民族の混血児なのです。縄文人に加えて敗残者の集団がひとつになってバイタリティのある世界でも稀に見る特徴のある日本文化を生み出したのです。ゲノム解析により、縄文人のDNAはアイヌの人々で70%、沖縄の人々で30%。それ以外の人々で10〜20%あるといわれています。つまり日本人のほとんどのルーツは大陸から来た弥生人であるということです。神話というのは、敗残者のトラウマを払拭するために作られたと私は考えています。シンメトリーを嫌うという他の民族にはない不思議な趣向も敗残者のトラウマと関係があるのかも知れません。


 古代史は専門書が多くとっつきにくいのですが、これは2019年宝島社のムックです。書店にはもう無いかもしれませんが、ネットの古書店では見つかるかも知れません。この手の本では比較的新しいのがいいですね。旧石器時代や縄文時代のページも多く写真が多いのも分かりやすい。入門書としてお勧めです。


「淡竹と新玉葱と牛豚合いびき肉のおやき」味付けは、手作り信州麹味噌、鰹出汁粉、貝出汁、牡蠣ソース、花椒辣醤、胡麻油。皮は、夢力と幻の小麦・伊賀筑後オレゴンにとろろ。両面に胡麻油で焼き目をつけてから20分蒸してできあがり。想像以上の旨さ。手が止まりません。おやきの原型は中国の餅(びん)です。餅は日本では米粉ですが、中国では小麦。古代からある食べ物です。小麦は紀元前7000年ぐらいからメソポタミアで栽培されていてシルクロードを通って広まった様ですが、紀元前400年頃の戦国時代の中国から石臼が発見されています。日本では縄文時代後期には稲作が始まっており、弥生時代中期には小麦の栽培も盛んになった様です。おやきは古代食といえるでしょう。
「馬柵越し 麦食む駒のはつはつに 新肌触れし 子ろし愛しも」万葉集 東歌 巻14-3537
(馬の柵越しに少しずつ麦を食べる小馬のような、ほんのわずかだけ肌に触れたあの娘のことが愛おしい)


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『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。地形図掲載は本書だけ。山の歴史や立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。10本のエッセイが好評。掲載の写真やこのブログの写真は、商用利用の場合、有料でお使いいただけます。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
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偽造の感状書。真田幸村の影武者として討ち死にした先祖。保科正之に仕えた先祖。林采女(妻女山里山通信)

2023-02-16 | 歴史・地理・雑学
 我が家に古くから伝わる感状があります(下の写真)。父から見せられた時に、これは偽物だなと思いました。私は出版関係のプロなので、紙質がどう考えても戦国時代のものではないと思ったからです。そこで長野県立歴史館へ持っていって鑑定をお願いしました。内容は・・・
「天文21(1552)年 10 月 15 日、林織部が桔梗ヶ原の戦いで手柄をたて、山縣三郎(武田四天王のひとり)より感状と褒美をもらうとあります。」
『甲陽軍鑑』に拠れば、山縣昌景ははじめ武田信玄の近習として 仕え、続いて使番となる。『甲陽軍鑑』では晴信期の信濃侵攻における伊奈攻めにおいて初陣を果たし、神之峰城攻 めで一番乗りの功名を立てたとし、天文 21(1552)年、信濃攻めの功績により騎馬 150 持の侍大将に抜擢される。 林織部は、その信濃攻めの際に手柄を立てたと思われる。ということなのですが・・・。
 歴史館の方によると、感状は、江戸時代以降の偽造。戦国時代の感状書に感状という文字は入らない。また、 書体も江戸のもので戦国時代のものではないとのこと。ただ、何か本来あったものの写しではないかということ。 戌の満水(1742年)で流失したものを記憶を頼りに再現したものではと言われました。よって、記載に記憶違いがあり誤記があるのではということです。今回のトルコ大地震や東北大震災、阪神淡路大震災でも、尊い命がたくさん失われましたが、同時にかけがえのない歴史遺産や古文書なども失われてしまうのです。

 では、ほぼ確実な先祖の話を。林一族の祖先は真田の臣(しん・けらい)なりという言い伝えがあります。その中に真田幸村の影武者として討ち死にした先祖がいました。

 林太郎左衛門(1543〜1582 年)。林勘左衛門ともいう。真田幸隆の代から真田家に仕え、真田昌幸に仕える。東松本郷内の足軽衆。 足軽頭として主に吾妻一帯を守衛したとされ、真田昌幸の上州攻略の陣立てで後備(約50 騎:全体で約500騎)を務めた。真田家の個々の家臣団編成の仕方に関して、天正13年6月21日に矢沢頼綱の長男矢沢頼康に与えた真田昌幸朱印状によると、乗馬衆として鵤甚九郎ほか4名と足軽衆として林勘左衛門尉ほか11名が記載されており、いずれも有姓の者たちで、「右の衆同心に申し付け候間、向後は人衆を催され一手役の奉公肝要たるべき者なり」とあり、いわゆる寄親、寄子制に基いた同心衆、足軽衆が付与され、軍団編成が進められていたことが明らかであると記されています。

 林源次郎寛高(1563 ~ 1615 年)。林弾左衛門ともいう。林太郎左衛門の長男。
●林源次郎寛高
天正6年 (1578年 ) 真田昌幸の上州攻略の陣立てで父林太郎左衛門に従い参戦。殿を務める。林寛高にとっては初陣となる。
天正7年 (1579年 ) 矢沢頼綱に従い中山城と尻高城攻略に大きく貢献。戦功を立てる。
天正8年 (1580年 ) 真田昌幸に従い小川城と名胡桃城攻略に参戦。その後は真田信幸に従い、上野国で転戦する。
天正13年 (1585年 ) 真田昌幸が上杉景勝に真田幸村を人質として海津城に送り援軍を要請した際、矢沢頼康の配下として真田幸村に随行する。このとき真田信幸が、鵤幸右衛門、吉沢ら乗馬衆5名と、林寛高、坂本らの足軽 衆12名を矢沢頼康の配下につけ、真田幸村を守らせたという。 矢沢頼康とともに上田に戻り、上田合戦に参戦し、戦功をあげる。以後は真田幸村と行動を供にする。
天正17年 (1589年 ) 真田幸村の足軽隊将として小田原攻めに従軍。
天正18年 (1590年 ) 真田幸村が人質として大阪へ赴く際、それに従う。その後も真田幸村とは行動を供にする。
慶長5年 (1600年 ) 関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。真田家の足軽隊将として徳川軍撃退に大きく貢献し、戦功をあげる。関ヶ原合戦での敗戦後は、真田昌幸・真田幸村父子に伴い一時は九度 山に赴くが、上田に戻り帰農する。
慶長19年 (1614年 ) 大阪の陣では真田幸村のもとに馳せ参じる。林寛高51歳である。
元和元年 (1615年 ) 大阪夏の陣では、真田幸村の影武者として徳川家康の本陣に斬り込み、本陣を突き崩す働きを示した後、真田幸村に成りすまして奮戦したが討死する。
* 信繁(幸村)には、三浦新兵衛国英、山田舎人友宗、木村助五郎公守、伊藤団右衛門継基、林源次郎寛高、斑鳩(鵤) 幸右衛門祐貞、望月六郎兵衛村雄の7人の影武者が存在したといわれている。
* その後、生き残った 7 人で林村を作ったという伝説が残っているがどこかは不明。松本里山辺の林村か、岩野村のことなのか。里山辺の林村は古くからあるので違うとは思います。ただ林太郎左衛門が東松本郷内の足軽衆とあるので、林城の小笠原長時に仕えた采女が里山辺の林城麓の林村にいた可能性はあります。東松本郷内というと里山辺しか思い当たりません。
 歴史マニアや幸村マニアの歴女の方々などに関心を持っていただける話はここまでしょうか。

 そして江戸時代になり、先祖のひとりが高遠藩の保科正之に仕えました。正之が家光の腹違いの弟ということが分かり会津に加増転封されます。そこにも付いていきました。後に商人となり林光正などは豪商となり会津藩を支えました。その前に秀吉の国替えで上杉景勝が会津へ。善光寺平の土豪は家族家来すべてを連れて会津へ。その後高遠藩もまた会津へ。会津は信州人が作った街なのです。以前福島から来た方と妻女山展望台で話した時にそう言っていました。戊辰戦争で会津若松城をメリケン砲でボコボコにしたのは松代藩でした。しかし、薩長はボロカスに言っても松代藩を攻めることはしません。同根だと知っているからです。歴史の皮肉、悲劇です。
 会津若松の林家の先祖は、保科正之候が高遠から山形・会津に入られたときに200石で随身した林太左衛門 光仁。その何代か前の祖先は、林采女(林齋:はやしいつき)と言い小笠原一族に仕え、小笠原長時が1548年(天文 17)塩尻峠の合戦で武田軍に大敗し村上義清を頼って落ち延びた際に、林采女は信州松代に入り土着したと伝わっています。
 林采女は、村上義清の系統の清野氏を頼って岩野に土着したのかも知れません。墓は幕末に再建され土口トンネルの上にあります。当時、武田と真田は味方同士でしたが、村上義清と小笠原長時は敵です。林一族は、戦国時代にはよくあることですが、小笠原長時、村上義清と、敵対する武田信玄や真田昌幸に敵味方に分かれてついていた可能性もあります。つまり、林織部と林采女は同族ながら敵味方に別れて戦ったということになります。その4年後には第一次川中島の戦いがあるわけで、もっとも激しかった第四次川中島の戦いもあり、その時はどうしていたのか。全く不明です。下剋上の世の中で一夜にして寝返ることもあり、親子で敵味方に分かれることも普通でしたから、真相究明は困難です。そもそも林采女の末裔とされる岩野林家になぜ敵だった林織部の感状があったのか。真田昌幸に使えた林太郎左衛門に関する口伝がなぜ残っていたのか。私の盛幸という名は、真田信幸(後に信之)、昌幸、幸村の幸をとったと子供の頃に父から聞いた記憶がかすかにあります。

 これ以外にも色々伝承があるのですが、幕末の嘉永六年(1853・ペリー浦賀来航)に業者に頼んだと思われる「林家譜説」などは非常に如何わしいものです。これも歴史館の方に見ていただきました。今もそういう会社はありますが、幕末頃に家系図を調べますという商売があり、大本家から分家で出た堀田重蔵が頼んだ様ですが、ツッコミどころ満載の実にいい加減なものです。なぜ堀田で林ではないのかというと、幕末に堀田という侍株を買ったからなのです。堀田家は跡目相続で争った末に屋敷を売却し一家離散しました。ただこのいい加減な「林家譜説」にその後の我が一族がどうも振り回された様で、林一族は小笠原の末裔であるとか、とんでもない勘違いが広まってしまいました。小笠原は三階菱で甲斐源氏(林城城主の林藤助はもとは小笠原氏。この林で勘違いしたらしい)、林家は上り藤で藤原系の分家筋。先祖は中大兄皇子と組んで蘇我入鹿を倒して大化の改新をした藤原鎌足。また、林城が伊奈郡とか記述に誤りがあります。伊奈郡は埼玉ですし、もちろん伊那郡でもありません。しかし、先祖の聞き取りの部分はおそらく当時のそのままで、検証の価値はあると思っています。そこで、私が色々ある伝承や物証などから、複雑に絡み合う事実を検証してみたのです。ただ、混沌とした戦国時代の話ですから、不明な点も多く非常に難儀しています。なにより戌の満水の大水害で貴重な史料が失われたのがもっとも大きな痛手でした。ただ、真田氏の史料などを調べていくと、あらたな事実が判明するかも知れません。

『林家譜説』(1853嘉永六年)に記された当時の聞き取りから抜粋(編集)。
「(太左衛門光仁)には*豊後国紀乃行平(紀新大夫行平)の太刀、その他の重器もあったが岩野村で流失」
「采女所持の脇差しには*駿河嶋田広助の銘があるが、七代太兵衛の子、貞右衛門の弟三郎右衛門が更級郡戸部村へ養子に来た節に持参したもの」
「重右衛門方に流失残りの品、*実如上人の筆九字の名号を所持」
「太左衛門持参の脇差は、豊後国紀乃行平と重右衛門から聞いた」
「和右衛門に筆には元は真田に仕えたと口伝。信濃守家に士官というが不明」
「太左衛門光仁は、1616年岩野生まれ。兄の太兵衛から帰農。武者修行に出、奥州山形に士官。その後、高遠の保科正之に仕え正之の会津転封に随従」
*豊後国紀乃行平:鎌倉初期の名工。「後鳥羽上皇」の御番鍛冶。作刀は国宝や重要文化財。
*駿河嶋田広助:広助は戦国時代の駿河の刀工で、今川氏や今川氏と同盟関係のあった武田氏に仕えた。
*実如上人:室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第9世宗主・真宗大谷派第9代門首。
 長時に仕えた采女が、なぜ敵対する武田の刀工の脇差を持っていたのか。武田の家臣、林織部との関係か。
 太左衛門光仁の豊後国紀乃行平は、采女から引き継いだものと思われる。それほどの名刀を持つ采女とはいかなる武将だったのか。

 下の年表を見ると、林織部、林采女、林太郎左衛門、林源次郎寛高がほぼ同時代にいたことが分かります。4人共同族であることから当然付き合いもあったでしょう。林太郎左衛門が東松本郷内の出ということで、元は4人共同じ集落にいたのかも知れません。同族や家族で敵味方に分かれるということも当時は普通にあったことで、どちらかが破れても一族が続くようにという意味もあれば、親子兄弟が仲が悪く別れたということもあった様です。ただ、敵味方だった林采女の家系に林織部の感状が残っていたということは、喧嘩別れではなさそうです。林采女の子孫が続いたので、林一族の歴史が分かりましたが、もしかしたら林織部とかほかにも林一族の末裔がどこかにいるかも知れません。下剋上が当たり前。魑魅魍魎が跋扈する乱世に生まれ、生き、死んだ先祖がいたからこそ現在があり我々がいるわけで、連綿と繋がっている命の糸を感じます。

■林采女墓石
●右側の墓石
右側面
天正十六戌子(つちのえね)年(1588年)三月二日
正面
繹林齋(釈林斎)之墓
左側面
俗名 林 采女(うねめ:女官を束ねる長の官名)武士が勝手に官名をつけるのが流行った。

●左側の墓石
右側面
未記入
正面
殊勝院繹林齋寂靜居士
歸命盡十方旡●光如来
勝善院繹林齋証大●
左側面
未記入
 采女の墓石は、江戸末期の仕様。当時岩野村の名主を務めていた林逸作が建立したものと思われる。林逸作については、下記の記事を参照。
斎場山から天狗山へ。上杉謙信斎場山布陣想像図。古書の虫干しで大発見(妻女山里山通信)
真田宝物館へ。戦国時代の英雄史観について(妻女山里山通信)
『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信)

■林家の先祖歴史年表:年表を修正しました。
 林織部、林太郎左衛門、林源次郎寛高、林采女の関係について、判明次第、随時上の文章を書き直します。


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本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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14日は屋代高校美術班+1の新年会は昭和レトロが人気の「國楽館戸倉ホテル」で。(妻女山里山通信)

2023-01-16 | 歴史・地理・雑学
 14日は屋代高校美術班+1の新年会は昭和レトロが人気の「國楽館戸倉ホテル」で。温泉街は閑散としています。

 一眼レフを持っていったのですが、オリンパスの手ブレ補正が効かないレンズを付けていってしまいました。そんなわけでブレまくりのカットばかりですが、ご容赦を。正面はおそらく一番格式が高いと思われる「笹屋ホテル」。私達の結婚披露宴は、遥か昔にここで行われました。

「國楽館戸倉ホテル」の正面玄関。

 5時頃から集まり始め、全員が揃ったところで二階の宴会場へ。まずは乾杯です。むさいおじさん達ですが、高校時代は、かなり個性的な油絵を描いていました。なかなか愉快な話題は少なかったですね。特にワクチン接種後二人の知人が突然死した話は衝撃的。私の従兄弟も接種後脳梗塞で倒れ現在も入院中。一族の高齢の男性も脳梗塞で倒れ退院はしましたが寝たきりに。コロナにかかりイベルメクチンやらで治ったはずが気を失い倒れ入院。目まいのたぐいでしょうと。原因は不明。他にも接種後脳梗塞になったひとを三人知っています。皆退院しましたが。他には今年の農作業の予定や妻女山里山デザイン・プロジェクトの作業予定の話なども。偏西風が強く蛇行して世界各地で異常気象をもたらしているので、今年は昨年以上に気をつけないとねとか。

 食べ散らかした左が夕食で、右が朝食です。若い頃はペロッと食べたのですが、皆多すぎると。大きなブリカマ焼きは、お持ち帰りにしてもらいました。皆酒量もかなり落ちました。ビールで乾杯。純米酒、焼酎の黒霧島と続きます。ご飯は夜食用におにぎりにしてもらいました。

 レトロなロビー。左に地下に下りる階段があるのですが卓球場があります。40年以上通っているのに知らなかった仲間も。

(左)は仲間が醸造してきたメルローの赤ワイン。かなり渋みもあって濃厚でした。(右)ロビーにあるジュークボックス。「いとしのエリー」とか。その頃は動いたのですが。今は化石です。

 帰りに毎年いただく「六文銭まんぢう」10個入り。これが楽しみです。温泉街の土産物屋でも買えます。

 帰ります。坂城と上田方面。黒雲が怪しい。雨が降ったので湿度があって暖かい。気になることといえば、温泉の湯量が激減していました。結果湯船が温まらず入ったら出られない状態。あとで別の旅館に泊まった知人に聞いたら同じだったと。井戸は別なんですが湯脈はつながっているのでしょう。近くの温泉施設は湯が出なくなり閉館状態です。全国で温泉の温度低下や湯量の減少がいわれています。不気味です。何かの前兆でしょうか。たとえば東南海大地震とか。

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紅葉の古刹・千曲市稲荷山の桑原山 龍洞院で燃える秋に酔う。登録有形文化財の龍洞院架道橋(妻女山里山通信)

2022-11-10 | 歴史・地理・雑学
 毎年、里山の紅葉だけでなく紅葉が綺麗な古刹を訪れています。2019年には長野市保科の阿彌陀山清水寺を訪れました。それは見事でした。2020年は息子達と小諸懐古園へ。昨年はあんずの里、森の観龍寺、禅透院、興正寺、岡地天満宮を訪れました。さて今年はと考えて、千曲市稲荷山の龍洞院へはまだ行っていないことに気が付きました。しかも、信州は今新蕎麦の季節。信州ならではの胡桃蕎麦もいただきたいと出かけました。観光客は来ない地元民に大人気のお店です。

 龍洞院(りゅうどういん)は、1504年に建立された曹洞宗の名刹です。山号は桑原山。週末は混雑すること間違いないので平日に。見頃でした。燃える秋に酔う。そんなひと時でした。

 上まで急坂を登って車で行けますが、下の広い駐車場から登ることをお勧めします。右上が桑原山なのでしょうか。この奥にはブログで紅葉を紹介した篠山がそびえています。また近くには、越将軍塚古墳、塚穴古墳、遠見塚古墳などがある歴史ある地籍です。

 総門。曹洞宗は、中国の禅宗五家の1つで、中国禅宗の祖である達磨から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能の弟子の1人である青原行思から、石頭希遷、薬山惟儼、雲巌曇晟と4代下った洞山良价によって創宗されました。日本には鎌倉時代に宋から伝えられ、臨済宗・黄檗宗とともに日本三大禅宗の一つです。

 参道を登ります。両側は畑だったり民家があったり。期待が高まります。

 そして、紅葉に加えて見どころなのがこのトンネル。登録有形文化財の龍洞院架道橋です。明治33年に作られたもので、旧国鉄(現JR東日本)の篠ノ井線が上を通っています。橋の長さは7.4m。幅員21m。煉瓦造単のアーチ橋です鉄道マニア必見の歴史的構造物といえるでしょう。

 振り返ると紅葉越しに千曲市稲荷山の街。蔵の街です。近くに武水別神社があります。手前の尾根は一重山から五里ヶ峯に続く五一山脈。もちろん拙書でも紹介しています。

 トンネル内で振り返って見る紅葉。上を列車が通過して行きました。

 トンネルの出口での光景。思わずウッホーとつぶやきました。

 架道橋を見下ろしたところ。線路の手前に後で造られたと思われる道路があります。

 山門へ向かいます。六体の石仏。

 山門脇の紅葉と黄葉。イロハモミジとヤマモミジでしょうか。アントシアニンの生成に違いが出るのでしょうか。面白いですね。

 山門から振り返った景色。楓の紅葉と杉の緑の補色の対比が美しい。

 山門の山号が書かれた額。額は古そうですが、山門は装飾含めそう古くはなさそうです。

 銅葺きの本堂。中は隙間から少し見えました。中が見たかったのですが、ちょうど昼時なのでご住職に問い合わせは遠慮しました。

 右はモチノキ科の常緑高木の多羅葉(たらよう)。葉に傷をつけるとあとが黒くなるので、インドで写経をしたタラジュの葉にちなんでの命名。俗には葉書の木といわれます。これも紅葉との補色の対比が際立ちます。

 鐘楼と観音堂。観音堂は割と新しい様です。手入れされた庭園が美しい。

 観音堂には千手観音が。千手観音は正式名称を「千手千眼観自在菩薩」といい、観音の持つ慈悲の力を最大限に表したもの。「サハスラブジャ」とは「千の手」あるいは「千の手を持つもの」の意味で、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神やシヴァ神、女神ドゥルガーといった神々の異名でもあり、ヒンドゥー教の影響を受けて成立した観音菩薩の変化身と考えられています。三十三間堂の千手観音は国宝。

 参拝していると後ろで列車の音が。振り返るとワイドビューしなのが通過していきました。これは最後尾です。

 脇道をたどって見上げると燃える秋。紅葉と黄葉が、まるで燃え上がる炎の様です。紅葉のメカニズムをざっくりと説明すると下記の様になります。
・緑色→葉緑素の色
・赤色→葉緑素が壊れてアントシアニンが生成した色(アントシアニンは、植物が紫外線など有害な光から実を守るために蓄えられる青紫色の天然色素。 ポリフェノールの一種で、ブルーベリー、ナス、紫芋などに多く含まれている。 視力・視覚機能の改善や眼精疲労の予防に効果があるとされている)
・黄色→葉緑素が壊れて、元々あった地の色(カロチン系)が出た。ただ冷え込みが緩いと同じ樹種でもアントシアニンが生成されにくく紅葉ではなく黄葉になることもある
・茶色→葉緑素が壊れてタンニンが生成した色

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。地形図掲載は本書だけ。山の歴史や立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。10本のエッセイが好評。掲載の写真やこのブログの写真は、有料でお使いいただけます。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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「真田信之 - 十万石の礎を築いた男 -」真田信之松代入部400年記念 真田宝物館特別展へ(妻女山里山通信)

2022-10-29 | 歴史・地理・雑学
 12月19日(月)まで開催中の、「真田信之 - 十万石の礎を築いた男 -」真田信之松代入部400年記念 真田宝物館特別展に行ってきました。非常に見応えのある展示で、県外ナンバーの車もたくさん見られました。撮影禁止のものもありますが、撮影可能なものも非常に重要です。それらをアップします。信之や幸村の書状とか、真田マニアなら絶対に見逃せないものばかり。
真田宝物館公式サイト

 真田家の歴史から始まります。赤備えのイメージのディスプレイにワクワクします。

「真田昌幸 昇梯子の具足」天衝(てんつく)という大きな前立てと胴の四段梯子が特徴。軽量かつ実用的な仕様だそうですが、この兜の前立ては重くないのでしょうか。兜は何種類か持っていたそうなので、実戦用とかもあったのでしょうか。(左の掛け軸は撮影禁止なので消してあります)

「海津大絵図」で、床にレプリカが敷いてあり、くつのままお上がり下さいとあるのですが、皆さん無関心で見ていかないのです。私は地図フェチなのでじっくりと観察します。松代城を中心に、北は善光寺から南は狼煙山まで。東は奇妙山、西は西山地域まで描かれています。松代城の北に細い古川が描かれていることから、戌の満水の後で大規模な瀬直しが行われた後の地図だと思われます。川中島の集落もそれぞれ分かれていますが、現在は全部つながってしまってどこがどこやら境が分かりません。

 妻女山は、斎場山の場所に記されています。現在の妻女山は赤坂と。倉骨城(鞍骨城)もあります。斎場山と妻女山、赤坂山の混同の入れ違いの歴史については、拙書やこのブログでも何度も記事にしています。BS・TBSの歴史番組で歴史研究家の三池純正さんをガイドをしたこともあります。「真説・川中島合戦」洋泉社新書は一読の価値があると思います。

 皆神山。右奥の三角は狼煙山。武田の狼煙を上げる山城がありました。左奥に地蔵峠も見えます。

 真田家の墓や御霊屋がある長国寺。その奥にそびえる瀧山は奇妙山のこと。清滝も描かれています。左手前に真田幸隆に攻略された尼厳山。拙書でも記していますが、奇妙山は本来は帰命山であり、本名は仏師岳、仏師ケ岳といいます。

 善光寺。越後に通じる北国街道も。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が出版された頃は庶民の旅行も盛んになり、善光寺御開帳には全国から参拝者が集まり、川中島の戦いの絵図がたくさん刷られ飛ぶように売れたということです。幕末頃には、妻女山で上杉謙信槍尻の泉を巡って「霊水騒動」なるものが起きています。槍尻の泉が霊水で万病に効くと噂が広まり、城下や遠く越後からも霊水を求めて人が集まったとか。実は、この騒動を起こしたのは、当時名主をやっていた我が祖先の林逸作ではないかと思っています。おそらく村おこしのために。
上杉謙信槍尻之泉の新事実発見!妻女山湧き水ブームとは・・(妻女山里山通信)

 真田昌幸が信幸にあてた書状。

「大阪落城絵巻」大坂の陣。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣。我が家の祖先は、豊臣方についた真田昌幸の家臣で、足軽大将の林太郎左衛門といわれています。息子は林源次郎寛高といい真田信繁(幸村)の7人の影武者のひとりで大阪夏の陣で討ち死にしたと伝えられています。その後生き残った7人で某所に林村を作ったとか。そのうちのひとり、林采女(林織部?)が松代に移り住み帰農したと伝わっています。激動の戦乱を生き延びたということです。川中島には、「七度の飢饉より一度の戦(いくさ)」という言葉が残っています。度重なる飢饉よりもたった一度の戦の方が嫌だという重い言葉です。

 従四位の下侍従以上の者の冠。該当者は8代藩主・真田幸貫のみとか。彼は白河藩松平家から養子入りし、幕府の老中も務めました。我が家には、その後に老中を務めた松平乗全が描いた『庚辰春日』という白い牡丹を描いた一幅の掛け軸があります。岩野村の名主を務めた先祖が賜ったと思われます。近所には、幼馴染で松代藩の御用絵師の青木雪卿(せっけい)重明が住んでいました。

 黒船来航の際に、松代藩と小倉藩が横浜の警備につきました。その際に横須賀沖に停泊する蒸気船を描いた巻物。当時の横浜は、貧しい漁村でした。今の横浜の元を作ったのが松代藩というわけです。

 特別展示でないと見られない様なものが並んでいます。真田ファンにはお勧めの展示ばかりです。特に書状は、信之や信繁などの心情が見えて興味深いものがあります。

 信之の時代に幕府から問い合わせがあった系図の問い合わせへの返答。滋野天皇から始まっていますね。滋野、海野、根津、望月、真田は同系氏族といわれています。信濃には他に源氏村上がいます。出雲系の諏訪氏や金刺氏、信濃國造になった大和系の子孫や高句麗の帰化人の子孫達は、今にどうつながっているのでしょう。
滋野氏

 高野山での信繁(幸村)の書状。信之が江戸で二代将軍・秀忠のもとでの活躍を目出度いとしつつも、今年の冬は不自由で察して欲しいと。慰みに連歌を勧められたが老いの学問で難しいと言っています。戦の日々で教養を高める時間など無かったのでしょう。

 真田信之が、初代小野お通に宛てた松代移封を伝える書状。倉科の里や田毎の月、朝日山や善光寺などの名所が多くあり、都にも劣らないと。しかし、長生きしたため親しい人もいなくなり、朝夕は涙ばかりだと吐露しています。

 松代城と城下の地図。よく見ると現在の道と同じ通りがけっこうあるのが分かります。千曲川が城のすぐ横を流れているので戌の満水の前の地図だと分かります。

 5代藩主・真田信安が描いたもの。狩野派に師事したのでしょうか。見事な描写力です。

 6代藩主・真田幸弘所要の筆。馬、羊、鹿、狸、猫などの動物の毛だそうです。

 閉じても開いている様に作られた扇子。鮮やかです。

 8代藩主・真田幸貫の子・幸良の性質の貞松院の住居・新御殿の庭。庭園の面影は今も残っています。左奥は狼煙山、右は象山から鏡台山まで続く戸神山脈。武田別働隊が超えたと伝わる山脈です。当ブログでは、古文書に残る地名からそのルートを推測して記事にしています。

 帰りに松代城に寄りました。観光客もちらほらと。中にある大正時代の大きな石碑が松代城ではなく海津城と書いてあるのですが、なぜでしょう。幕末から明治初期の松代藩のことを調べれば分かります。

 松代城(海津城)から見る上杉謙信が最初本陣とした斎場山(妻女山)と、七棟の陣小屋を建てたという陣場平。海津城との距離感が分かると思います。近いです。間者もいたでしょうし、炊飯の煙とか大勢での移動とか丸見えだったと思います。

『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信)

斎場山から天狗山へ。上杉謙信斎場山布陣想像図。古書の虫干しで大発見(妻女山里山通信)

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。地形図掲載は本書だけ。山の歴史や立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。10本のエッセイが好評。掲載の写真やこのブログの写真は、有料でお使いいただけます。

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