長野県千曲市森大穴山(善光寺平南端)にある森将軍塚古墳は、今からおよそ1,600年ほど昔(4世紀)に造られた、全長 約100mの前方後円墳です。左右対称ではなく、やや曲がっているのが特徴。古代科野国の王の墓といわれています。竪穴式石室は日本最大級で、三角縁神獣鏡を初め、多くの副葬品が発掘されています。この山は大穴山といい、この辺りは大穴郷(おうなごう)といわれました。まさにここは古代科野国の王家の谷なのです。森の古清水神社には、「信濃国縣庄大穴郷清水里森村鎮座」と記された木札が現存しています。
古墳の様式は前方後円墳で、長さ:100m。後円部径:43~ 50m、高さ:11m、後円部頂部径:15~29m。前方部幅:30m、長さ:41m、高さ:4m。くびれ部幅:15m。方位:N120E。後円部頂に竪穴式石室(長さ:7.6m、幅:2m、高さ:2.3m、推定割竹形木棺・組合式木棺)。前方部に竪穴式石室2基。墳裾に小型埋葬施設多数(組合式箱形石棺64・埴輪棺12・土壙墓2)。葺石の材質:大穴山産石英斑岩。総数:約8万個。前方後円部頂部敷石:千曲川川原石。石室:板石積み・ベンガラ朱彩。
出土品:埴輪(壷形・朝顔形・円筒形・合子形・家形)・鏡片(長野県唯一の三角縁神獣:鏡径22.6cm)・土師器・玉類(翡翠製勾玉1・碧玉管玉5)・鉄剣3・鉄刀2・鉄槍2・鉄鏃・鎌1
【国指定史跡】築造:推定4世紀中~末。標高490mの大穴山山頂、位置:東経138度8分25秒、北緯36度31分42秒。自然地形を利用したため楕円形に近い後円部と前方部がやや屈曲したアシンメトリーな形状。後円部2段築成。後円部三方裾下に貼石帯あり。
発掘保存の経緯:1965年発掘調査。1981年から全体発掘調査。1992年復原完成。墳丘・葺石・埴輪列を復原。平成19 年2 月6 日埴科古墳群として国指定史跡。
後円部頂は、盗掘のため埴輪の配列が不明で再現されていませんが、家型埴輪の破片などが出土しているそうです。
1923年刊行の『長野縣史蹟名勝天然記念物 調査報告書』で森将軍塚と記されたのがこの名称の始まりということです。ただ、もっと古くから将軍塚と呼ばれていたようで、その俗称が正式名称になったということでしょう。
もちろん、古墳時代に将軍という呼称はありません。おそらく江戸時代の当地(松代藩)の御用学者が将軍塚と呼んだのではないでしょうか。全国各地にも将軍塚があるので、江戸時代の大きな古墳の一般的な呼び方だったようです。基本的に古墳の名称は、字名(地名)で呼ばれます。また、大きな古墳に関しては旧村名や町名で呼ばれることもあります。
では、将軍でないとしても、この古墳の最初の埋葬者は誰でしょう。当時はまだ漢字で歴史を残すということがなかったため、後の古文書の記述や口伝を頼りに推測するしか方法はないわけですが。(神代文字というものがあったという説があります。
大御食神社例大祭と日本最古の家系小町谷氏。立川音四郎種清の木彫。光前寺と熱田神社(妻女山里山通信)を)
ヤマト王権と関係のある信濃国になる前の科野国の初代大王の墓という説が最も一般的なようです。
崇神天皇の代に、ヤマト王権より科野国の国造(こくぞう・くにのみやつこ)に任命された、神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔の建五百建命(タケイオタツノミコト)が埋葬されているといわれています。また、妻女山の麓にある会津比売神社の祭神・会津比売命(アイヅヒメノミコト)は、建五百建命の后であると伝わっています〔埴科郡誌・會津比賣神社御由緒・里俗伝など。さらに、他の記述では、会津比売命は皆神山にある皆神神社(熊野出速雄神社)の祭神で、諏訪の健御名方命(タケミナカタノミコト)の子・出速雄命(イズハヤオノミコト・伊豆早雄)の御子であり、両神はこの地の産土神(うぶすながみ)といわれています。(松代町史)〕さらに、出速雄命の出(いず)、会津比売命の会津(あいづ)は、松代の古名・海津(かいづ)に繋がるものとも記されています。
延喜元年(901年)に成立した日本三代実録には、貞観二年(860年)に出速雄神に従五位下、貞観八年(866年)に會津比売神に従四位下を授くとなっています。その後、出速雄神は、貞観十四年(872年)に従五位上に、元慶二年(878年)に正五位下を授くとなっています。当時の埴科郡の大領は、諏訪系統の流れを汲む金刺舎人正長*であったため、産土神としての両神社の叙位を申請したものと思われるということです。[松代町史]
*貞観4年(862)、埴科郡大領外従7位金刺舎人正長。[信濃史料]
これらの史料を考慮すると、諏訪大社の祭神で大国主命の子息・健御名方命の子・出速雄命とその子・会津比売命と、崇神天皇の時代に科野国造に任命された建五百建命との関係やいかにということです。夫婦とすると天皇家の家系に属する建五百建命と結婚した会津比売が、父の出速雄命よりも官位が高いというのも頷けます。つまり、大和系の建五百建命と、それ以前に渡来した出雲系の会津比売命が夫婦になり、古代科野国を造ったということなのです。
限りなく神話の世界の話なので、濃霧の彼方にありますが、科学的歴史考証は無理としても、色々と想像力をかき立てる話ではあります。皆神山の子丸山古墳は出速雄の、斎場山の斎場山古墳は会津比売のそれぞれ墳墓という説もあります。いずれも北信濃屈指の規模を誇る円墳なのですが、埴科古墳群の前方後円墳の陰に隠れて注目されることがないのが残念です。
また、この頃は現在と似ていて、貞観6年(864年)には富士山噴火。貞観11年(869年)には貞観地震と大津波。仁和3年(887年)には、仁和地震で八ヶ岳が崩壊して大海(南牧湖)と小海湖出現。翌年大決壊と大変な時期でした。
森将軍塚古墳を始め、薬師山(笹崎山)の土口将軍塚などの埴科古墳群や、川柳将軍塚古墳は、信濃国造や信濃の豪族と深い関係にあることが知られています。そこで、信濃豪族の系譜を探ってみましょう。信濃の古墳研究の第一人者であった元長野県考古学会長・故藤森栄一氏の全集第11巻「古墳の時代」の「信濃の古墳文化」>「将軍塚と信濃国造」より引用の文章を挙げてみます。
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【信濃豪族の系譜】
古代史に登場してくる信濃の豪族としては、信濃豪族の系譜『古事記』上巻と『先代旧事本紀』三に出てくる国譲神話の建御名方神と、『日本書紀』五の崇神天皇と、『国造本紀』に出てくる科野国造建五百建命よりない。
タケミナカタははっきり南信濃諏訪のかみとわかっていて、諸種の条件もそなわっている。とすれば、この更埴方面の大勢力に擬せられるのほタケイホタテ*よりないわけである。
『紀(日本書紀のことですよ)』によればタケイホタテは神八井耳命(かむやいみみのみこと)の孫となっているが、『古事記』五にはその神八井耳命の子孫たちについてかなりくわしい記述である。すなわち、意富(いほ)臣、小子部(ちいさこべ)連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家(みやけ)連、雀部(ささき)連、雀部臣、小長谷(おばせ)造、都祁(つげ)直、伊余国造、科濃国造、道奥の石城国造、常道(ひたじ)の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹波(には)臣、嶋田臣などがそれで、この皇兄は、大和朝廷創始の伝承につらなる神武天皇が、大和に入って后とした媛踏鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)の長子である。第二代の緩靖天皇となる神淳名川耳命(かむぬなかわみみのみこと)はその末弟であるとされているところからすると、科野国造の毛並みというものは並大抵なものではないといえる。この点、太田亮**は信濃国造の設置を、国造中最古の一つにおいている。
「神武紀」はとにかくとしても、信濃国造が大和朝廷の力を背景に勢力を張りめぐらした古代天皇家に連らなる大家族の一つであったことは確かである。
注(筆者):*ここでいうタケイホタテとは、崇神天皇の御代、信濃国造であった、神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔と云われる建五百建命(タケイオタツノミコト)。森将軍塚古墳の埋葬者ではないかといわれるが、科学的に証明はされていない。
**太田亮(1184~1956):系譜学者、『姓氏家系大辞典』『日本古代史新研究』等。
***国造(くにのみやつこ・こくぞう)とは、大和朝廷の行政区分の1つである国の長。(まあ県知事みたいなもの。大化の改新以降は単なる名誉職へ変貌)
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会津比売神社御由緒には、会津比売命は、建五百建命の妻とされ、妻女山という山名の(松代藩による)命名の由来とされています。また、その墳墓は、土口将軍塚とも斎場山古墳とも云われています。私は妻なら同じ古墳に埋葬されたのではないかと思いますが。土口将軍塚は、森将軍塚以降の王の墓なのではないでしょうか。八世紀に入り、国府が上田付近に置かれる以前、科濃国造の所在は、埴科であった可能性もあるといいます。「石川将軍塚が豊城命の墳墓であるとか、森将軍塚古墳が建五百建命の墳墓であるという明快な解答は考古学ではできない。」と、藤森栄一氏は述べています。「あらゆる諸学の知識を動員しても、それは永久に不可能である。」と。しかし、一方で、「たぶん四世紀頃、川中島を中心に、大和朝廷の勢力が到来して、弥生式後期の祭政共同体の上にのっかって、東国支配の一大前線基地となっていたことは事実である。」とも記しています。
そして、五世紀には、大陸から渡来人(唐と新羅に滅ぼされた高句麗人)と共に馬が到来し、六世紀から十一世紀にかけて信濃は牧馬の中心地となったのです。その機動力により、ヤマト朝廷の権力が地方にも早く確実に届くようになり、次第に古い国造の治外法権を奪っていきました。そして、律令管制が布かれ、諸国に国司・郡司が置かれるに至っては、祭礼のみを司る象徴的な役目へと変貌したと云われています。この古墳上は、北アルプスや北信五岳も望め、高さ以上に展望がいいのでおすすめです。この上から古代科野の国へ思いを馳せてみるのもいいと思います。
神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
大国主命--建御名方富命--出速雄命(伊豆早雄)--八縣宿禰命(佐和惠多良六老彦神)、出速姫神(會津比賣命)、草奈井姫神、可毛羽神、若木姫神
縄文時代から古墳時代にかけての人口の変動と、大陸からの移住者の増大と、それに伴う文化人類学的な変化を検証しましょう。
歴史人口学の研究者、鬼頭宏氏の推計によると、-----縄文時代の人口は約10万人~約26万人であり、弥生時代は約60万人だった。奈良時代は約450万人、平安時代(900年)には約550万人となり、慶長時代(1600年=関ケ原の合戦のころ)には約1220万人となった。-----
-----縄文時代前半に人口が増えたのは、このころ気温が上昇、日本列島に食料資源がふんだんに用意されたからだ。縄文人はクリなどの木の実やサケ、マスなどの 魚類を食べた。ところが、縄文時代中期から気温が下がり始め、落葉樹林の生産力が落ちる一方、西日本では照葉樹林が広がった。これが食料を減らし、人口を 減少させる原因になった。縄文時代の人口はピーク時26万人だったが、末期には8万人にまで減少したとみられている。
弥生時代に入ると再び増加に転じ、約60万人になる。大陸からの渡来人が持ち込んだ稲作の普及が主な原因だ。渡来人自体が人口増に貢献するとともに、稲作により食料が確保され、大量の労働力が必要になったことが増加の圧力になった。-----
大陸から新たな文化がもたらされたのは事実ですが、それは稲作や鉄生産の技術を携えて大量の渡来人が流入したことを意味すると考えられます。生物学的な自然の人口増の範囲を遥かに超えています。そこで必要なのは、どこの誰が入ってきたのかということです。
私は三国志に登場する呉がその鍵を握っていると考えます。呉は水運が発達していてベトナムも治めていました。発掘された船の埴輪を見ると、相当の航海術を持っていたと思われます。滅びた呉のエリート達が大量に日本に来たことが考えられるのです。広島県に呉市がありますが、まさにそれかと。また、和服を売る店を現在でも呉服店といいます。呉布、呉織という名で残っています。高度な文明が日本にもたらされたのではないでしょうか。紀元前480年頃のことです。それが出雲一族かもしれません。
その後、紀元前230年頃に越のエリート達が来訪した思われます。越中、越後にその地名が残っています。高志(越)の国ともいいました。それが大和一族かも。更に、三国志の魏呉蜀の魏が元になったともいわれる秦に失われた古代ユダヤの一族といわれる、徐福を長とした3000人ほどの集落がありました。彼は秦の始皇帝に、日本へ不老不死の薬を探しに行くと言って毎年村人を渡らせ、最終的には全員が日本へ行きました。そして誰も戻りませんでした。秦の始皇帝を騙したのです。しかし、一箇所にいては秦の始皇帝に滅ぼされる危険があるので全国に散らばりました。徐福伝説が全国にある所以です。飯縄権現の祭神は白狐に乗った烏天狗ですが、それがユダヤ人ともいわれます。秦氏、羽田氏、本多氏、本田氏などは、その系列ともいわれています。大和王権の祖ともいわれます。
諏訪氏や諏訪大社、善光寺にある守屋柱など、古代ユダヤとの関連を思わせる名前や建築物、祭祀がたくさんあります。ユダヤ教にのシンボル、ダビデの星(六芒星)を記した神社(例えば伊勢神宮)がなぜ存在するのか。古代科野国の始まりは、崇神天皇に初代信濃國造に任命された大和系の武五百建命で、妻は出雲系の会津姫命(會津比賣命)です。会津は、福島の会津とも深い関係があります。古代科野のクニは、大和系と出雲系が結婚してできたといえるでしょう。これらは、真剣に研究する対象になる事案だと思われます。
■科野国造 武五百建命と妻 会津比売命の家系図(諸説あり)
神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命(出速姫神)
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森将軍塚古墳・大室古墳群トレッキング・ルポ最寄り駅はしなの鉄道屋代駅か篠ノ井駅。車は更埴ICから南へ約5分。古墳上へシャトルバスあり。
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森将軍塚古墳館石室再現他。おすすめ。
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★信州のトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【
MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】をご覧ください。古墳巡りもあります。