モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

早春の雪景色の茶臼山で地名考(妻女山里山通信)

2010-02-23 | 歴史・地理・雑学
にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 写真ブログへ
ブログランキング・にほんブログ村へ

 久しぶりに晴れ渡り気温もあがった日曜日、歴史館の帰りに茶臼山へ登ってみました。妻女山と違って残雪が多いので驚きました。けれども登山道は踏み固められていて問題なく歩けましたが、展望台のベンチの雪がそのままでした。雪をどけて敷物を敷いて北アルプスを見ながらやや遅めの昼食。鹿島槍ヶ岳や白馬三山は雲もかかっていましたが、きれいに見えました。やはりここからの眺めは格別です。眼下に山里の風景が広がり都市が見えないのも好ましい。

 帰りは山布施の棚田に下りてみましたが、棚田は残雪の下で、猪や小動物の足跡だけが模様を描いていました。花は皆無のように見えますが、よく見ると足元にオオイヌノフグリが咲いています。カラコギカエデやハウチワカエデなどの冬芽もかなり膨らんでいます。棚田の遠くには神話の山、虫倉山がそびえています。帰りの登りの急坂で滑って転倒。泥だらけになってしまいました。この山は滑りやすいのです。急傾斜路にはステップを作って欲しいですね。

 茶臼山のあるこの辺りの山域は、千曲川の西にあることから西山と呼ばれています。妻女山や一重山のある東山とは成り立ちが異なり、山と谷や小さな盆地が入り組んだ複雑な地形をしています。そして、古くは小さな村がたくさんあったためか、山名も複雑です。

 研究者によると、日本の山名は沢名からとられることが多く、そのため山の反対側の集落で山の呼称が異なるという例が多いのだそうです。つまり、山名が複数あるということは普通にあることなのです。どれが間違いということではなく、どれも正しいのです。ただ地形図にする際にはそのうちのひとつにされたため、残りは自然消滅して人々の記憶からも消えていったという事例が多いのだそうです。

 地形図は、明治時代に陸軍参謀本部陸地測量部が作ったのが初めですが、複数ある山名をひとつに絞るのには、軍事的、政治的、経済的な力関係が働いたのでしょう。力の強い方が命名権を持ったということだと思います。加えて、測量技術の未熟さや確認作業の甘さから標高が違ったり、山を取り違えたり、中には妻女山のように軍部によってありもしない山が捏造される?ということも起きました。また、信州はアルプスの名峰があり、そちらに関心がいくためか地形図に里山の名称の記載が少ないのが残念です。鏡台山から妻女山までの戸神山脈には間に山名の記載がひとつもないという嘆かわしい状況です。

 山名沢名など自然地名は文化遺産なのですが、里山への関心が薄れるに連れて、自宅から見える山名をほとんど知らない人が多いのも現実です。知っていても由来や、別名は知らない人がほとんどです。里山は本来の名称(本名)があっても、後の俗名が定着して本名が忘れ去られるということもあります。本名が忌み嫌われて、斎場山が松代藩により妻女山へ、里人により祭場山へと二種類になったのも、その一例かもしれません。妻女山はその後、赤坂山へと名称が移動するというおまけまで付きました。

 この茶臼山ですが、明治45年の『更級郡誌』には、茶臼山691m云々。茶臼山の東北なる灰白色の山を中尾山とし、その北なるを光林寺山とし、その北西を高松山とす。と書かれています。また周囲の村によって微妙に記述が異なるのも興味深いところです。下記はその記述ですが、カッコ内は筆者のコメントです。また旧字は新字に直してあります。興味の有る方は図書館で原本をご覧下さい。それぞれが、どこの山頂を指すのかは、地元の人に聞いてみたいと思います。

 岡田村【茶磨山】高四十八丈(145m・標高ではなく村からの比高か)、周囲まだ実測を経ず。村の酉(西)の方にあり。嶺上より東方低下する所より本村に属す。余りは山布施に属す。山脈子丑の方長塚山に連なる。樹木なし、草生なり。登路一條、村の西の方山新田組より上る。高二十町(2182m)ばかり険路なり。(臼ではなく磨をあてたところが拘りか。磨の旧字に石臼の意味あり。後の高二十町は、村からの距離。山新田組からの登山道は、現在廃道)

 山布施村【茶臼山】高六十丈(182m)ばかり、周囲諸山連接して測り難し。村の巳午(南南東)の方にあり。全山本村に属す。(全山と言い切っています)山脈、北は中尾山に連なり、樹木なし。登路一條、村の辰(東南東)の方字北原より上る。高三百間(546m)ばかり、険路なり。(明治時代には、茶臼山には樹木が無く草原、たぶん屋根を葺く茅原だったということです)

 中尾山(古名:郷内山という記述もあり)に関しては、山塊のことで山頂はないと地元の人はいうのですが、明治の村誌を見ると標高が書いてあります。つまり山頂はあるということですか。岡田村では、高四十丈(121m)と。山の反対側の山布施村では、高二十丈(61m)と、倍も開きがあります。しかも、これは前記のように茶臼山同様、海抜標高ではなく村からの比高のようですが、それでも変です。低すぎます。郷内山は、共和村地図で664.5m(現地形図で668mのことか)と記されています。

 全体を集約すると、茶臼山の北に長塚山、その北ないしは北東に中尾山。その北に光林寺山、その北西に高松山。同じくその辺りに笹ケ峯、郷内山があるわけです。いずれかの山は同じ山の異称かもしれません。山名とか沢名などの自然地名は、郷土の歴史を知る上で重要な文化遺産です。登山道整備と共にこの山域の山名沢名を詳細に調査して地図を作ってくださいと、N君に頼んでおきましょう。

★茶臼山・中尾山のトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】の●09年4月16日●5月2日●10月31日のルポをご覧下さい。北アルプスや鏡台山のパノラマ写真があります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする