ある冬の寒い午後のことです。森の中で作業をしているところへ日本羚羊がゆっくりと現れました。こちらを見てジッと立っています。これを「寒立ち」といいます。いつもならカメラを構えて近づくのですが、作業の途中なのでそのまま続けました。時折横目で見ると首を傾げてこちらを窺っています。それでも構わず作業をしていると、興味を失ったのか傍らの何かを食べ始めました。これには少々驚きました。顔馴染みなので気を許したのでしょうか。
手を休めて見入ると、視線に気が付いたのかこちらを見ました。食餌の邪魔をしてはいけないと、再び作業を始めるとまた食べ始めました。なんだか不思議な感じでした。日本羚羊と私の間に、妙な信頼関係というか、そのようなものがそのときあったからです。まあお互い食べる食べられるの関係ではないし、干渉しあわないというところでしょうか。
しばらくすると、日本羚羊はゆっくりと森の奥へと帰っていきました。なにを食べていたのだろうとその場所に行ってみると、それは青々とした杉の葉でした。葉先だけをついばんでいました。冬は彼らにとって餌が乏しい厳しい季節です。リョウブやヤマナラシ、ブナなどの樹皮も餌になります。アオキなどの常緑樹も餌になります。そして、檜や杉の苗木や幼木も恰好の餌になるのです。
そのため、植林地の食害が問題となることもあります。ただ集団で行動せず単独なので、その被害は集団で行動する日本鹿のように甚大ではないようです。日本羚羊は、一種類のものだけを食べるという採食歩行はしません。色々なものを少しずつ食べるということを、以前追跡して確認したことがあります。それが、氷河期から生き延びてきた理由のひとつかもしれません。また、山菜はもちろんのこと野菜も食べるので、里山では農業被害もあるそうです。間伐や除伐のされない放置林が増えて林床まで陽が差さない森が増えると、植生が貧しくなり食害も増えます。
日本羚羊は、好奇心が強く簡単に仕留められるため、「肉馬鹿」とか「あほ」、「肉」などと呼ばれることもありました。一人が踊りを踊って気をひきつけ、もう一人が背後から仕留めることから「踊りじし」などとも呼ばれました。しかし、一方では岩場に悠然と立ちつくす姿から「森の哲学者」などとも呼ばれます。好奇心が強いのは、別に自分たちが特別天然記念物で絶対に撃たれないと知っているからではなく、牛科なので好奇心が強いのでしょう。牛も好奇心が旺盛です。昔、好奇心が旺盛な牛にアマゾンの牧場で数十頭の大きな瘤牛に取り囲まれたことがあります。危うく角で突かれるところでした。日本羚羊も襲ってくることはまずありませんが、希に襲われたケースもあります。近づきすぎたり刺激することは禁物です。親子連れの場合は特に要注意です。
「森の哲学者」といわれる日本羚羊。確かに森で出会う彼らは、他の野生動物もそうですが、森の一部と化しています。岩の高見から人間界を見下ろしていることもよくあります。家の窓からは、斎場山の急斜面を横切っていき、立ち止まってこちらをジッと見ている日本羚羊を見ることがあります。なにを感じているのかなと知りたくなります。
森は深層心理のメタファー(隠喩)に使われます。シニフィエ(意味されるもの・パン屋じゃないですよ)としての森は、民族によっても違います。『ノルウェーの森』(村上春樹ではなくビートルズ)は、“Norwegian Wood”が、“Isn't It Good, Knowing She Would?”(彼女がやらせてくれると分かっているのはステキだろ?)の意図的な転訛だとはあちこちで書かれている説ですが、友人の四歳になる娘と歩いたノルウェーの森は、トロール伝説やイングマール・ベルイマンの映画に描かれるような人間の深層心理に潜む恐怖の森でありながら、究極の癒しの場でもあることを想起させてくれました。人は森を恐れつつ森に癒されるのです。
森が重要なファクターとなっている映画が、最近静かに評判になっています。『ユキとニナ』公式サイト・『ユキとニナ』オフィシャルブログ・『ユキとニナ』予告編。岩波ホールにせっせと足繁く通った日々を思い出し、ベルイマンの映画をまた観たいなと思いました。私の横で日本羚羊がゆっくりと杉の葉を食べていた森でそんなことを思う午後でした。
★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
★妻女山については、本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。