上杉謙信の陣営跡として展望台のある妻女山(411m)は、川中島合戦の伝説の地として多くの歴史マニアが訪れますが、ここは本来は赤坂山といい、地元で謙信の本陣と伝わる旧妻女山は、ここより100m高い南西にある山頂で、本名を斎場山といいます。『甲陽軍鑑』西条山と誤記されたためにそれが広まり、江戸時代に松代藩が妻女山と改名しました。更に昭和時代に国土地理院が赤坂山に三角点を設置した際に、妻女山の名称を赤坂山につけてしまったために、誤った説が一般的になってしまったという経緯があります。古くから地元で妻女山と呼んでいたのは赤坂山ではなく斎場山のことです。
そのためか現妻女山の展望台の南にある招魂社を川中島合戦の史跡のひとつとして勘違いされて帰るひとも少なくありません。通称招魂社と呼ばれている神社は、正式名称を「妻女山松代招魂社」といい、瓦には真田の六文戦の紋が記されていますが、武田方についた真田幸隆とは全く関係ありません。
第四次川中島合戦より307年後の1868(明治元)年。戊辰戦争において松代藩(藩主真田幸民)が、明治政府軍として幕軍と戦ったときの戦没者を祭った社で、明治2年建立です。その功績を受けて、松代藩からは、多くの人が新政府に重用されました。戊辰戦争以前は、どうやら松代藩の射撃練習場があったようで、招魂社南の山腹からは大量の鉄砲の弾が出土しました(実はわが家の山で、亡父がたくさんの銃弾を掘り起こしました。その後友人のフランス人に金属探知機で捜索してもらったときにも銃弾が出土しました)。現妻女山の小字名は岩野の妻女、地名は赤坂山です。
つまり、新選組の殲滅に加わり、会津若松城を大砲で破壊したのは松代藩だったのです。豊臣秀吉の命により、上杉景勝は会津へ転封となりましたが、善光寺平の土豪たちは皆景勝とともに家族家来を連れて会津へ移ったのです。この命は非常に厳しく、家族家来が全員移りました。善光寺平からエリートがいなくなったのです。地名を名乗る土豪が全員いなくなりました。清野に清野氏なし、東条に東條氏なし、寺尾に寺尾氏なしなどといわれます。茶臼山西の夜交集落は、高社山麓の夜間瀬氏の一族が、転封を嫌って隠れ移り住んだ集落ではと私は考えています。
さらに江戸時代前期に、保科正之(第二代将軍秀忠の四男・第四代将軍家綱の後見人)が第三代将軍の異母兄家光により信濃国高遠藩3万石から会津23万石に転封になり会津藩を隆盛させました。その時、信濃から家臣も会津にたくさん移っています。わが家のある祖先も同行し、後に子孫は豪商(林正光)となって会津藩を支えました。それ故、会津は信州人が造った町といえるのです。幕末の戊辰戦争の会津戦争は、ある面信州人同士の戦いでもあったのです。会津若松城をメリケン砲で破壊し、白虎隊を殲滅したことにも松代藩は関わっていたでしょう。これ以上ない歴上の悲劇です。
戊辰戦争以降の経緯は下記の通りです。
●明治元年戊辰2月、朝命により信濃十藩の触頭を命ぜられ、2月東山道総督より大隊旗、錦の袖章を賜る。
●4月、関東脱走の幕軍林昌之助・近藤勇ら新選組・甲陽鎮撫隊が甲斐に侵攻を図る。真田幸民・大熊藩士を総隊長として兵750人で甲府を守らせた。
●4月24日、幕軍の将古屋作左衛門が、長岡より信濃に入り、飯山城を囲む。幸民は、河原左京を総隊長として、兵10,300で進撃させる。
●4月25日、幕軍は大敗して敗走。後にこの日を戦勝の日として松代招魂社の大祭が行われた。
●9月24日、会津城が降伏。
●10月29日、松代に凱旋帰国。各地に転戦すること90回以上、戦死者52人負傷者85人を出す。
●明治2年4月17日、真田幸民は藩戦死者の英魂を、妻女山頭(赤坂山)に祀る招魂祭を執行。石の玉垣をめぐらした戦没者の石碑を建立、「松代招魂社」と称す。
●6月、戊辰戦争の功績をたたえられ、松代藩は賞典録三万石を賜る。
●明治3年、松代藩知事・真田幸民により「妻女山頭鎮座松代招魂社」建立。しかし、同年幸民は、戊辰戦争による大出費を埋めるべく「商法社」設立。生糸・蚕種の生産・販売等始めるも殿様商売は大失敗。増税に民衆が決起し翌年「松代騒動(午札騒動)」勃発。幸民は謹慎処分になる。
●明治4年7月、廃藩置県で松代県に、11月には長野県となり、松代県は解体され幸民は解任。真田の松代支配は終わり、松代は政治の中心地でなくなる。本来の地名・赤坂山を使わず妻女山としたのは、ここの小字名が妻女山(本来の妻女山の中腹)だったから。また、赤坂山より妻女山の方が有名だったからと思われる。
●明治5年4月26日、妻女山松代招魂社祭を毎年4月24・25日執行と決定。
●明治6年には、松代騒動を引き起こした失政のためか、放火により松代城は焼失。一説には花街に建物が売られるのを嫌った元藩士が放火したともいわれるが、定かではない。
●明治13年、拝殿を修繕。
●明治14年、一町六か村立妻女山松代招魂社建立。
●明治29年、社殿の傍らに山縣有朋による一大石碑を建立。
●明治44年5月18日、社務所を建立。合わせて松代、寺尾、東条、西条、清野、雨宮の一町六ケ村により日清・日露の戦没者を祀る乃木将軍筆による忠魂碑建立。
忠魂碑を建立。盛大に除幕式が行われた。
●昭和22、23年頃、玉垣の上に小さな本殿を建立、石碑を現在のように並べ替える。
明治時代は、毎年4月25日(飯山に於いて戦勝の日)に、松代及び五ケ村の大祭が行われ、煙火、相撲、大神楽等が催された。在郷軍人の演習も行われたが、その後まもなく廃止された。現在は、秋の好日に奉参会を中心に遺族会や麓の各役の長が参加し、奉納花火や演奏、剣道の演舞、神楽などが行われているが、多くの町民は祭のあることさえ知らないと思われる。
◆妻女山がいかに政治的軍事的に利用されてきたかを知るには、「妻女山:有名人訪問年表」をご覧ください。明治以降、実に多くの皇族、軍関係者(「坂の上の雲」にも登場する伊藤博文、東郷平八郎や、後には後藤新平なども。わが家にはその時彼が残した定慧と書かれた書があります。)、戦後は自衛隊などが訪れています。桜と夕日の名所で、春は近隣の小学生の遠足の目的地でもあります。