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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

クリスマス・イブにめぐる信濃国分寺と資料館、信濃国分寺跡。アリオ上田でエスカルゴと天狗舞山廃純米を(妻女山里山通信)

2017-12-27 | 歴史・地理・雑学
 在京時代から帰省の度にここを通っていたのですが、一度も立ち寄ったことがなく、よし行こうとクリスマス・イブの午後に車を走らせました。

 その前に妻女山で仲間とやっている椎茸のホダ木栽培を点検。その後で妻女山展望台へ。仁科三山。善光寺平は積雪のないクリスマスイブです。夕方から雨からみぞれの予報ですが、雨は夜更け過ぎに雪へと変わるのでしょうか。この記事をアップした27日は、大雪となりました。明朝はマイナス8.5度の予報。凍結が心配です。

(左)信濃国分寺の前にまず信濃国分寺資料館へ。(中)入館者は私一人でした。コンパクトですが非常によくまとまっています。撮影禁止の表示も見られなかったので撮影しました。ホームページでも展示物が見られます。縄文時代の土器。中期中頃。(右)中期の後期。縄文式土器は岡本太郎が絶賛しましたが、確かに生命の大らかで前向きな息吹きを感じます。縄文というのは縄で文様をつけたから。

(左)縄文時代の遺跡の説明写真と縄文時代の女性の想像画。しかし、縄文人は入れ墨をしていたという説もあります。(中)弥生時代に始まった米作の様子のジオラマ。(右)弥生時代の土器。左の人形が可愛い。

(左)古墳時代になると鉄器が出てきます。馬具ですね。実は縄文末期や弥生時代の遺跡からも出ているのですが、それは輸入されたものだといわれてきました。ところが弥生式土器を焼く温度で鉄が生産できることが分かったのです。砂鉄を使うたたら製鉄の前に鈴石や鳴石(鉄バクテリアの死骸)を使って製鉄する技術が大陸からもたらされていたのです。その歴史は、信州の方言で「ずく」として残っています。拙書のコラムで記した「みすずかる信濃の国の鉄バクテリアがずくを出す」をぜひお読みください。

(左)馬具ですが、これは金箔が貼られた豪華なものです。大陸から騎馬民族が来た事実が証明されます。(中)信濃の国造(こくぞう・くにのみやつこ)。初代科野國造は、『古事記』も記されている崇神天皇に任命された大和系の建五百建命(たけいおたつのみこと)。森将軍塚古墳がその墳墓といわれています。妻は斎場山の麓にある会津比売神社の祭神、会津比売命(あいづひめのみこと)。出雲系です。阿蘇氏系図に関しては、色々な説があるようです。古代科野国は、大和系と出雲系が結婚してできたのです。いずれも春秋戦国時代に古代中国から渡ってきた人々が縄文人と融合して新しい国造りをしたのでしょう。(右)弥生式土器の流れを汲む土師器(はじき)。より薄く、繊細になってきます。
古代科野国の初代大王の墓といわれる森将軍塚古墳の歴史検証(妻女山里山通信)

(左)現在の善光寺の手前に旧善光寺がありました。その本堂周辺から出土した軒丸瓦(レプリカ)。凸鋸歯文縁八葉弁連華文と線鋸歯文縁八葉弁連華文があり、白鳳時代(7世紀後半)創建のナラ県明日香村の川原寺出土の瓦によく似ているそうです。軒平瓦は、偏行忍冬唐草文。(中)金光明最勝王経・妙法蓮華経。聖武天皇は、天平9年(737)に国ごとに釈迦像と脇侍菩薩像を祀る詔(みことのり)、12年に七重塔建立の詔、13年に国分寺建立の詔を発しました。(右)僧寺と尼寺のジオラマ。

(左)別所温泉にある曹洞宗崇福山安楽寺の国宝の三重塔の構造模型。木造の八角塔としては全国で一つしかないという貴重な建築です。(中)銅製御正体(上田市真田町三島神社)。十一面観音坐像のレリーフ。平安時代後期(12世紀後半)の作で、白山信仰の本地仏として、山家神社内にあった白山寺に伝来したものと考えられています。(右)昭和7年(1932)に解体修理される以前の三重塔[左]と解体修理後の三重塔[右]。

(左)そんな奈良時代の庶民の家は竪穴式住居。狭い家に竈があり煙が充満するため眼病が蔓延しました。そのため目の神様・薬師如来を祀る寺院が各地に建立されました。(中)資料館の裏手の旧国分寺跡へ。僧寺金堂跡。敷地は約180m四方と大きなものです。敷地はしなの鉄道で分断されていますが、トンネルで行き来できます。(右)尼寺北門跡。

(左)歩道橋を渡って現在の国分寺へ。仁王門。(中)手水舎で身を清めます。(右)真田 徳川会見之地。脇の説明文を読むと、かなり具体的に書かれていましたが、終わりの方にそういうことがこの地であったとしても不思議ではないみたいな自信なさげな書き方をしていて思わず笑いました。

 信濃国分寺本堂。1月7日-8日に行われる「八日堂縁日」が有名で「八日堂」とも呼ばれます。現在は山号・院号はないのですが、江戸時代には「浄瑠璃山真言院国分寺」と号したそうです。現在の本堂は、文政12年(1829年)の発願で、天保11年(1840年)に起工、万延元年(1860年)に竣工されたものです。今回は、その造営に携わった宮彫師・竹内八十吉の木彫を撮影しました。---竹内八十吉は、文化12年(1815)生まれで、山嵜儀作の16歳年長になる。太郎山神社本殿正面八十吉は明治6年に上田市太郎山神社(太郎山の頂上付近)の彫工として参加した。棟札によると彫工の最初に竹内八十吉、善光寺妻科村彫工山崎儀三久、花岡巽、彫工後藤辰蔵とある。---(北信濃寺社彫刻と宮彫師より)

 木鼻の左右の木彫。獅子と象。思ったよりもずっと大きなものでした。ほぼ左右対称なのですが、よく見ると獅子の舌とか象の耳周りとか、左右で造作が少し異なります。日本人がシンメトリーを嫌うことについては、村上春樹さんの国分寺のジャズ喫茶ピーター・キャットでアルバイトをしていたことを綴った「国分寺・国立70sグラフィティ』の「ラプソディ・イン・国立。雨上がりの夜空に・・・」に考察を記しています。

 中央の鳳凰象。前後の羽も一本の欅材から彫り出しているわけで、超絶技巧です。

 その下の龍。圧巻です。

(左)本堂内部の額。なんて書いてあるのでしょう。(中)本堂の神鏡。(右)象の張りぼて。木鼻に日本にはいない獅子(ライオン)や象や貘をあしらうのが伝統です。

 三重塔。平安時代に国風化された正規の形式とされています。

 クリスマスイブの買い物にアリオ上田へ。好きなエスカルゴと正月に息子達と飲もうと、私が一番好きな日本酒・天狗舞山廃純米を買いました。屋上の駐車場から太郎山。太郎山神社の覆屋の中にある本殿の木彫も竹内八十吉作です。

 駐車場から見る塩田平の里山の夕日。左の三角は夫神岳(おがみだけ)。右の台形の山は、拙書の表紙にもなっている子檀嶺岳(こまゆみだけ)。なんでこんな山名になったかは、拙書を読んでいただくと分かります。寒くなって来たので温泉に入って帰宅しました。ロンリークリスマスは、タンシチューとエスカルゴとフライドチキンのハラペーニョソースにカベルネ・ソービニヨンのチリワインでした。クリスマスジャズを聴きまくりました(笑)。
 さて、今年のブログ更新はこれが最後かもしれません。この一年、ご高覧ありがとうございました。皆様よいお年を。新年はゆるゆると5日頃にアップするかもしれません。

上田市立信濃国分寺資料館
八日堂 信濃国分寺ホームページ
信濃国分寺wikipedia
信濃国分寺初詣でライブカメラ

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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松代の祝神社と皆神山の皆神神社(熊野出速雄神社)へ参拝と撮影に行った小春日和の好日(妻女山里山通信)

2017-12-07 | 歴史・地理・雑学
 小春日和の日曜日、真田十万石・松代のお諏訪さんと親しまれている祝(ほうり)神社と皆神山の皆神神社(正式名称は熊野出速雄神社)へ行きました。祝神社は、延喜式内社埴科郡五社の一つで千年以上の歴史があります。『埴科郡誌』によると、元々は屋代の須々岐水神社が本来の式内社・祝神社であったそうですが、諏訪大明神と呼ばれていた現在の祝神社は、宝暦元年(1751)に祝神社と改称されました。松代城のお膝元ですしね。

(左)真田宝物館に駐車して歩いて祝神社へ。10分足らずです。神社の大鳥居。抜けるような青空。中学校のときに友人たちとお祭りの時に来た以来の参拝です。型抜きをしましたね。双頭の蛇の見世物では、いつまでたっても出てこないので餓鬼共が騒ぎ出して親父が困っていました。ガマの油売りも来ていた記憶。(右)これは本殿の左脇にある八幡社(應神天皇)・天神社(菅原道真公)・伊勢社(天照大御神・豊受大御神)の合社の木彫。本殿の看板によると諏訪立川流のものらしいのですが、作者は不明です。モチーフは獅子と牡丹でしょうか。見事です。

(左)左の木鼻の象と獅子の木彫。(右)獅子を別角度から。獅子の方が風雨に当たるので風化が進んでいます。

(左)右の(木鼻の象と獅子の木彫。右)獅子を別角度から。諏訪大社とは異なり、眼に銅板ははめ込まれていません。

 本殿の拝殿。鬼瓦などに六文銭が見えます。今もお諏訪さんと呼ばれています。祭神は、生魂命(いくたまのみこと)健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)八坂斗売命(やさかとめのみこと)。慶長3年(1598)に、生魂命は東条から、健御名方富命八坂斗売命の諏訪二神は海津城二の丸から合祀されました。二度の大火に遭っていて、現在の社は、文化9〜12年(1812〜15)の造営です。入母屋造、桟瓦葺、妻入、正面向拝は唐破風。諏訪社なので後方に二本の御柱が見えます。

(左)龍ですね。(中)木鼻には獅子。(右)雲流ですかね水流ですかね。

(左)本殿。銅板葺きの二間社流造り。(中)遠くて見にくかったのですが正面は龍。木鼻には外向きに象、内向きに唐獅子。(右)脇障子は梅に鷹かと思いましたが、拡大するとこれは梅ではないですね。なんでしょう。鷹と松でしょうか。

(左)宗方社。祭神は、宗像三女神・国家鎮護の神・治水水運の神・漁業守護の神。(中)覆屋の内部の本殿。なんか新しい。塗り直したのでしょうか。(右)境内の図。他に稲荷社、西宮神社(恵比須神社)、猿田彦社など。

(左)真田宝物館に戻りました。公園の南に象山と戸神山脈。小春日和の公園で幼女が隠れんぼをしていました。皆神山に向かいます。(中)南の平林から登っていくと岩戸神社。円墳です。(右)皆神山の南の豊栄を治めた大王の墓でしょう。皆神山を拙書に載せなかったのは、平林の登山口に駐車場がないからです。大日池には3台ほど駐車できますが、そこまで行く道が狭く標識もないのです。ここはなんとか改善して欲しい。

 皆神神社の広場から望む仁科三山。うららかな日で大勢のハイカーや歴史好きが訪れていました。釧路産の焼き鯖寿司と豚汁で昼餉。寒風もなく、なんともゆるゆるとした贅沢なお昼でした。皆神山は、標高659メートルの30~35万年前にできた溶岩ドームです。ピラミッドなんかじゃありません。麓からの比高は280mほど。合祀されて神様の集合体ですが、別に特別なパワースポットでもなんでもありません。神聖な場所ではありますが。
 皆神山については、以前も記しましたが、1965年(昭和40 年)8月3日から約5年半もの間続いた、世界的にも稀な長期間にわたる松代群発地震の震源地のほぼ中心でした。有感地震は6万2826回、あまりに長期に渡ったためノイローゼになる住民も出たほどです。幸い死者は出ませんでしたが、怪我人や家屋の倒壊はありました。近所の古民家の屋根瓦が全て落ちたり、土塀が倒れたりしました。震度5の時に太い梁が抜けて白い部分が見え、あと5センチずれたら家が壊れるという状況がありました。
 私も目撃しましたが、地震時の宏観現象として皆神山や妻女山などの発光現象があり、大きな話題になりました。このような目撃例は安政の大地震など古くから目撃例があり、岩盤の崩壊による放電が原因のようで特に珍しいことではないそうです。また、この群発地震で山は1m高くなったということです。
 皆神山付近には低重力域があり、地下には、縦800m、横1500m、高さ200mのマグマ溜りが起源と考えられる空洞があって、地下に巨大な貯水池があると推定されています。皆神山溶岩は150m程度の厚さがあることが確認されていて、その下に湖水堆積物が見つかっています。また、山頂には川の跡の河床礫が見られます。
 つまり溶岩がまだ地上に出る前は、ここは池や川があったということです。地蔵峠から流れ出る蛭川と藤沢川が、現在山のある一帯で合流していたのでしょう。山頂に泉があるのも豊富な地下水脈があるからと理解できます。皆神山を形成した溶岩は極めて粘性が強く噴火したり流れ出したりせずに、そのままプリン状に固まったと考えられています。
 ノイローゼ患者が出るほど長期に渡った松代群発地震は、最終的に大量の深層地下水湧出という事態になり、火山性群発地震という当初の想定が、水噴火群発地震であったとの考えに変わりました。しかし、最新の学説では地殻の継続的な変形による応力速度の上昇によって説明できることが分かったということです。

 魚眼レンズで撮影するとこんなです。真上の空は宇宙を感じるほどの深い群青色でした。プルシアンブルーと言ってもいいかな。左向こうの山脈は。妻女山から鏡台山へ続く戸神山脈。下の舗装路の上から二番目の道を右へ10分ほど下ると、後述の小丸山古墳です。

(左)皆神神社の山門。(中)右脇の長野市指定の天然記念物クロサンショウウオが生息する池。(右)菅原道真公を祀った天満宮。

 皆神神社。正式名称は、熊野出速雄神社。本殿は、天保14年(1843)起工、弘化3年(1846)に竣工。木鼻と懸魚(げぎょ)は消失しています。盗まれたのでしょう。会津比売神社や妻女山松代招魂社の木鼻も、韓国人の窃盗団によって盗まれたといわれています。
以前書いた記事をリライトして再掲します。
 皆神神社は、大国主命の子で諏訪大社の祭神・健御名方命(たけみなかたのみこと)の子・出速雄命(いずはやおのみこと)が祭神で、熊野出速雄神社ともいいます。(本殿は室町時代のもので長野県指定県宝)本来は出速雄神社で、熊野信仰は中世に加えられたものです。
 出速雄神は、貞観二年(860)二月に信濃国従五位下の位を授かっており、斎場山(旧妻女山)の麓にある會津比賣神社の祭神・會津比賣命(あいづひめのみこと)が御子といわれています。會津比賣神は、貞観八年六月に妹の草奈井比売命と共に従四位下を授かっています。これは上から八番目の非常に高い位です。
 その後、出速雄神は、貞観十四年(872年)四月に従五位上に、元慶二年(878年)二月に正五位下を授くとなっています。『日本三代實錄』

 出速雄命の父、健御名方命は、大国主命の子ですから出雲系。出速雄の出は、出雲の出。出雲=伊豆毛(日本書紀)=伊都・伊豆志=伊豆。イヅ=厳で、斎み清めること。『古事記』のみに記されている伊邪那岐命の禊(みそぎ)によって生まれた神々のひとり、伊豆能売(いづのめ)神が元でしょうか。伊豆能売を祀る神社は現存しないため「埋没神」ともいわれています。
 会津とは、崇神天皇10年9月9日、崇神天皇の伯父大彦命(おおひこのみこと)を北陸道へ、その子武淳川別命(たけぬなかわ わけのみこと)を東海道へ遣わせた。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れた。二人の出会った所を相津(會津、会津)という。『日本書紀』
 相津と想定される会津坂下町青津。能登南部からの移住者を想定される弥生時代終末期の男壇遺跡・宮東遺跡があり、亀ヶ森古墳等がある。(会津学研究会サイトより引用)
 この会津と、会津比売命の関係やいかに・・。大彦命は東征の後で、長野市篠ノ井の茶臼山動物園の下の長者窪という所に住み、薨去したと伝えられています。彼の功績を讃えて父出速雄命は娘に会津比売とつけたのではないでしょうか。

 皆神山の小丸山古墳が出速雄命の、斎場山古墳が會津比賣命の墳墓ではないかという説があるのです。しかし、古墳様式から推察される年代、及び発掘調査から、古墳は5世紀のものといわれているので、両命の墓ではないかもしれない。あるとすれば、もっと古い年代の前方後円墳などではないでしょうか。古墳の推定年代は、かなり曖昧だと思いますが・・。
 小丸山古墳は、ずっと下って飛鳥時代の第三十四代舒明天皇(在位:629-641)の皇子・古人大兄命(ふるひとおおえのみこと)の墳墓ともいわれており、大化の改新に至る皇位継承争いの末に吉野を逃れてこの地に落ち延び、皆神山を開いたという里俗伝もあります。
 そうなると、積石塚古墳群と同様に古墳時代後期のものということになります。実際は吉野で殺害されたといわれていますが。小丸山古墳の側には、古人大兄命の子の墓といわれる大輪王墳墓があります。古人大兄命は、大化の改新の首謀者?である中大兄皇子(後の天智天皇)の異母兄です。古墳の築造年代とも合致するのでありえない話ではないということになります。ま、火の無い所に煙りはたたない程度の話ですが・・。
 ちなみに皆神神社の祭神は、伊邪那岐尊(いざなきのみこと)、伊邪那美尊(いざなみのみこと)、出速雄命、熊野速玉男命(くまのはやたまおのみこと)、予母都事解之男命(よもつことさかのおみこと)、(配祀神)舒明天皇(じょめいてんのう)、古人大兄命で、まさに皆神様です。熊野信仰は、中世以降に流行り付加されたものです。修験地は主に近くの尼巌山と奇妙山(帰命山・仏師岳)の岩山や岩窟だったと思われます。

(左)神社の木彫。右は中国の伝説の女性、太真王夫人の玉巵弾琴(ぎょくしだんきん)だそうです。左は笛を吹く仙人。それと龍。友人の宮彫り研究家の話では、作者は不明だが諏訪立川流のものかもしれないと。(中)拝殿の内部。日如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩が安置されています。製作年代は1507年。3体の仏像は、皆藤山修験道場としての熊野出速雄神社の本尊として歴史的に重要且つ、製作年代、作者、願主が銘文で明らかなのが素晴らしい。拝殿の右奥には、小さな旧本殿があります。棟札により、天明元年(1781)に作られたことが分かっています。棟梁は松代の谷源内雅(立川小兵衛、立川与市より秘事を習う)とあります。(右)熊野出速雄神社本殿。康応元年(1389)再建の撞木造(しゅもくづくり) 。屋根の形がT字型となっており独特のもので、善光寺本堂がそれです。

(左)一番高いところにある富士浅間神社。(中)なんとなく予感がして後ろに回ってみると、謎の穴。(右)百躰ノ定所。なんですかねえ。左の墓石は、戦国時代ぐらいの古い様式の五輪塔ですが、里俗伝では村上義清の娘、鶴姫の墓といわれています。

(左)小丸山古墳へ向かいます。大日池へ下る登山道を10分ほど歩くと着きます。(中)小丸山古墳。(右)古墳の上の石祠。歴史考証は上の記事をお読みください。

 松代城北の駐車場から望む皆神山。噴火し損なったコニーデ型の火山です。繰り返していいますがピラミッドではありません。それにしても長閑で暖かい小春日和の好日でした。まあこの3日後には初雪が降ったのですが。信州の長い冬が始まります。どうか豪雪だけは勘弁して欲しいです。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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里山初冠雪の善光寺平、霧の川中島、松代城、長野えびす講煙火大会、新蕎麦(妻女山里山通信)

2017-11-25 | 歴史・地理・雑学
 11月20日の夜から21日朝にかけて善光寺平(長野盆地)周辺の里山にも雪が積もりました。初冬のこの時期が長野盆地の東西南北で最もその違いが分かるのです。やはり北部の山は積雪が多い。東山より西山の方が雪が多いのです。長い冬の訪れです。

 妻女山展望台から松代方面の眺め。中央奥に見えるはずの根子岳と四阿山は雪雲の中。仲間が菅平のスキー場へスキーのインストラクターをしに行っているかもしれません。日差しも出てきて、翌日は10度以上になったので消えました。尼厳山は、土豪東条氏の山城。真田幸隆に攻略されました。奇妙山は、拙書で名前の由来や歴史を詳しく書いていますが、これも山頂は古い山城です。

 千曲川の赤坂橋左岸からの鞍骨山(鞍骨城跡)。手前は上信越自動車道で、すぐ左に松代パーキングエリアがあります。中央の深いコルは、鞍骨城の防御のために窪んでいた尾根をさらに深く掘り下げたものの様で。昔は石段があったという話を聞いたことがあります。
 先日、BS-TBSで放送された「諸説あり#24 川中島の戦い』の撮影で、スタッフと歴史作家の三池先生をガイドしたのは、この山脈です。象山から登り、深山、鞍骨城跡、天城山、陣馬平、斎場山、妻女山と案内しました。放送日は急用ができて見られませんでしたが、後日DVDが送られてきました。非常に面白い番組でした。

 上のカットの鞍骨城跡から右(西)へ1キロちょっと行くと天城山(てしろやま)。山頂は円墳で、鞍骨城の支城の天城城跡です。右手前の山頂は天城山から妻女山へ伸びる尾根で、清野古墳があります。一番右の陣馬平は、第四次川中島合戦の際に、上杉謙信が七棟の陣城を建てたという広い台地です。妻女山里山デザイン・プロジェクトは、ここの貝母(ばいも・編笠百合)の保護活動をしています。4月の茶花で薬草ですが、かなり強い毒草です。百合根に似た球根を誤って食べると、死亡する場合もあります。美しいから家に植えたいと思って持ち帰るのは厳禁です。

 引きのカットです。上杉軍は、左の月夜柵から陣馬平、斎場山、妻女山(当時は赤坂山)、御陵願平から右の薬師山と手前の平地の斎場原にかけて広域に布陣したと伝わっています。千曲川の流れは、江戸時代の大洪水『戌の満水』の後で松代藩が大規模な瀬直しをして変えました。昔は堤防も無く好き勝手に流れ、千曲川の名前の通りグニャグニャに蛇行していました。赤坂橋のすぐ上流に、十二ケ瀬(十二河原)という地名がありますが、それだけ分流していたということです。猫ケ瀬、戌ケ瀬という地名もある様に渇水期には、猫や犬でも渡れるほどの浅い瀬もあったということです。

 妻女山展望台からの茶臼山。滋野御三家の望月氏の後裔の布施氏の山城です。信玄の茶臼山布陣は、江戸時代後期の創作だろうというのが定説です。左の有旅茶臼山は、右と同じくらいの高さがあり双耳峰でしたが、度々の地滑りで崩壊し山頂がなくなってしまいました。地滑り地域は、動物園や自然植物園、恐竜公園として市民に親しまれています。手前の街は篠ノ井。名前は、高句麗から来た豪族に篠井という性を下賜したことに由来します。手前の長芋畑もほぼ収穫が終わっています。
 妻女山展望台へは積雪が10センチぐらいならスタッドレスで登れますが、それ以上になるとスタックします。また、一度溶けて凍った場合はスタッドレスでも登れません。毎年JAFの世話になる車がいます。高速のトンネル前に止めて徒歩で登ってください。

(左)勤労感謝の日に用事で松代に行ったついでに松代城址に立ち寄りました。櫓台です。(中)櫓台から妻女山や鞍骨城を見たところ。霧に覆われています。(右)櫓台から妻女山。右の低いところです。晴れていれば電柱の向こうに謙信が本陣としたと伝わる斎場山(旧妻女山・斎場山古墳)が見えます。

(左)城内にある海津城址の石碑。大正10年といえば、まだ幕末や明治初期生まれの人がいた時代。松代藩の財政を破綻させた真田氏への反感も大きかったのでしょう。詳しくは、下の松代城の歴史その1その2をお読みください。(中)太鼓門から象山。奥の鞍骨山は霧の中。(右)お堀の水では鴨が泳いでいました。
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信) その2

 江戸時代末期の松代城のイメージ図。外堀や三ヶ月堀などが残っていたら、いい観光名所になったでしょうね。花の丸御殿は放火で焼失しました。

 妻女山展望台から松代城方面の眺め。霧に巻かれていますが、実はこれは雨上がりの霧で、前夜の放射冷却で発生した川霧と山霧ではありません。川中島の戦いで発生した霧とはでき方が違います。川霧と山霧が合わさると10m先も見えなくなります。ホワイトアウトしてフォグランプも効きません。

 23日の夜は、長野のえびす講の煙火大会でした。厚着をして妻女山展望台へ撮影に行きました。先客が二人、あとから若者が二人、拙書のパンフを渡しました。音が遅れてくる遠花火は趣がありますが、寒い。1時間が限度でした。昨年同様に地味でした。アベノ糞ミクスのせいで不景気なんですね。この花火大会が終わると、善光寺平は長い本格的な冬に入ります。21日の早朝には赤坂橋の上で自損事故。積雪がなくても橋の上などは凍結しています。スタッドレスに履き替えていない人は早く! 
「しずかさや 外山の花火 水をとぶ」小林一茶
「大名の 花火そしるや 江戸の口」小林一茶
「音もなし 松の梢の 遠花火」正岡子規
「死にし人 別れし人や 遠花火」鈴木真砂女
「遠花火 人妻の手が わが肩に」寺山修司

「遠花火 歓声もなく 温(ぬく)もなく」
「遠花火 記憶の底に 散る夜かな」
「君の名を 呟いてみる 遠花火」 林風
 色々な想いが交錯する遠花火です。

 信州では、祭りやイベントや運動会の合図に盛んに花火が打ち上げられます。これは東京から来た人には信じられないことなのですが、当の信州人は子供のころからそれが当たり前に思っているので、不思議には思いません。春秋にはあちこちで花火が打ち上がるのですが、地元の人はなんの合図か分かるのです。妻女山にも麓の小学校の校庭で打ち上げた花火の丸い殻がよく落ちているのですが、この「音花火」は非常に危険なんだそうです。
「花火情報館」の「花火の威力と危険度」に詳しく書かれています。火薬がたくさん詰まった花火が、こんなにたくさん一般商店で売られているのは、中国と日本ぐらいじゃないでしょうか。欧米ではあり得ないことです。武器が作れますからね。昔ノルウェーの友人を夏に訪れた時に花火を持っていったのですが、新年になる時でないとできないのよと言われた想い出。子供の花火だって実は危険なんです。手持ち花火の温度は1200~1500度だそうです。昔、よく花火を分解しましたが、絶対やってはいけないと言われていた意味が、これを読むとよく分かります。

 用事ついでに寄った東福寺の385号沿いの「安心 そば処」でBランチを。二八の新蕎麦に蒸鶏飯、煮物に天ぷら。蒸鶏飯は山葵醤油をかけて、天ぷらは抹茶塩でいただきます。念願の新蕎麦を食べることができました。最後に濃厚な蕎麦湯を飲んで満足でした。十割蕎麦や胡桃蕎麦もお勧めです。これからは辛味大根の絞り汁に信州味噌を溶いていただく「おしぼりうどん」の季節です。信州でも旧埴科と更科にしかない古い郷土料理です。あまもっくらといわれるその甘さと辛さは、一度食べたら病みつきになります。うどんや蕎麦を食べる原点ともいわれています。これを食べずしてうどん通を名乗るなかれ。冬の、村上義清の坂城町、千曲市の戸倉上山田温泉や、茶臼山動物園のある篠ノ井に来られたらぜひ召し上がってみてください。
おしぼりうどんのレシピ:オリジナルレシピ

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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小春日和の勘助宮と牛に引かれて善光寺参り(妻女山里山通信)

2017-11-20 | 歴史・地理・雑学
 所要で近くに行ったので、長男と善光寺に参拝しました。いつでも行けるという思いもあってか、帰郷してから一度も行っていませんでした。前の記事のK氏とメールのやり取りをしていて、彼が善光寺の起源について調べているというので、久しぶりに寄ってみようかなと思いました。
 実は長野県立歴史館で、調べ物をしていて、『信濃古代史考』大和岩雄著(大和書房)という厚い本を見つけました。非常に高度で専門的な内容で、「信濃と古代ヤマト王権」「信濃と渡来人」「信濃の神と神社」 の三つの視点から、現代の長野県人の原点である“古代の信濃”を俯瞰し、探求する。とありますが、前知識がないと全くちんぷんかんぷんだと思います。脇に歴史辞書を置いて、検索しながら読みますか。善光寺の起源についても触れられていたので、帰ってAmazonで中古本を注文しました。届くのが楽しみです。『信濃が語る古代氏族と天皇 善光寺と諏訪大社の謎』関裕二著(祥伝社新書)も。加えて『善光寺コード–––諏訪御柱の守護秘術』長尾 晃著(鳥影社)も。ただ古代史というのは、実証歴史主義で証明できる要素が少ないので、記紀の記述にしても完全に史実と思うのは危険ですが。

(左)南長野運動公園の南西の端にある勘助宮の石碑。山本勘助がこの辺りで戦死したと伝わる場所です。小春日和の温かい日でした。(中)昔は北小森集落の建御名方神(タケミナカタノカミ)を祀る諏訪社だったそうです。それを地元の人がいつしか勘助宮と呼ぶようになったとか。(右)勘助宮から南を見ると、上杉軍が布陣したという妻女山が見えます。手前左が赤坂山(現在の妻女山)、軽自動車の上の手前の山が斎場山(旧妻女山・本陣)、右へ薬師山(笹崎山)。中央奥の三角は天城山(てしろやま)。左奥は、武田別働隊が越えたという大嵐の峯。最期の勘助は、ここでどんな景色を見たのでしょうか。
『第四次川中島合戦』啄木鳥戦法の検証【妻女山里山通信】(勘助の発案といわれるが、当時軍師という職はなかった)

(左)参拝の前に、安茂里の19号沿いにある女性三人が切り盛りする「やばね食堂」へ。(中)私はA定食700円を。豚鶏スープの優しい味の醤油ラーメン。塩辛くはありません。無化調でしょう。半カレー付きですが、充分に一人前あります。小麦粉とカレー粉を炒めた様なこれも辛くはない優しい味。ポテトサラダ、ゴーヤの漬物、沢庵、鮭とデザートに熟れ熟れの柿。(右)息子の鍋焼きうどん700円。熱々で非常にボリュームがあります。これも優しい味。結局カレーはほとんど彼に食べてもらいました。一番高い定食が、ジンギスカン定食850円。安いのが目玉焼き定食400円。手作りの餃子やもつ煮も美味しそうです。

(左)店内は昭和レトロな感じ。小上がりもあります。(中)メニュー。半カレーであの量ですからカツカレー750円て相当なボリュームだと思います。(右)お店は高台にあり、鏡台山や五里ヶ峯や斎場山、妻女山も見えます。お勧めです。さて、午後は牛に引かれてではなく、車に乗せられて善光寺参り。

(左)善光寺事務局の横にひっそりとある地震塚。善光寺地震の慰霊碑。1847年5月8日(弘化4年3月24日)に発生した大地震で、犠牲者は死者総数8,600人強。善光寺御開帳の期間で、全国からの参拝者も犠牲になったと思われます。(中)仲見世通りから見る仁王門。寒いので、帰りに仁王門手前の左の店に女将さん手作りの甘酒200円とあったので飲みました。もちろん砂糖は無添加で麹のコクの有る甘さが美味でした。おやきも売っています。(右)山門方向。七五三の家族がたくさん参拝に来ていました。ホテルオークラ東京でやった息子達の七五三のお祝いが昨日の様に思えるのですが…。23日はえびす講の煙火大会です。

(左)非常に大きな山門。拝観料は500円ですが、<三堂拝観(本堂お戒壇巡り/史料館・山門・経蔵)大人1000円・高校生400円・小中学生100円>なので、こちらを利用されるといいと思います。(中)境内案内図。非常に広いのでもらうべきですね。(右)大勧進。この日は結婚式が行われていました。宝物館は一見の価値があります。

 外国人も含め大勢の参拝客が訪れていました。冬にはオーストラリア人、春節の頃は中国人で溢れます。内部は撮影禁止です。健康の神様賓頭盧(びんずる)尊者の周りは人でいっぱい。閻魔大王の周りは閑散。お戒壇めぐりは何度もして極楽の錠前にも触っているので今回はパス。内部は真っ暗ですが、触れるコツは、右の壁を上下に大きくこすりながら進むことです。必ず触れます。前の人がガチャガチャ音を鳴らすとだいたいの場所の見当がつきます。お戒壇めぐりは東から入って北へ曲がり東へまがって南に戻る四角いコースですが、鍵は北の面にあり、それはある小部屋の鍵です。実は鍵の写真を見たことがあるのですが、小部屋の中に何があるのかは分かりません。御本尊でしょうか。
信州 善光寺 公式サイト ©善光寺

 大きな本堂ですが、実は奥行きがもの凄いのです。最後の写真で分かります。林業関係の息子が、これだけの太い材を何百本も集めるのは現代では不可能と言っていました(太柱は煩悩と同じ108本)。丸い柱を見ると木目がねじれているのが分かると思います。これはスパイラルグレインといって樹木の特性です。内側と外側が逆巻きになるものが多いのです。それで強度を増すわけです。正面の四角い柱はねじれていますが、これはその特性を活かしたものか、乾燥が足りなかったか、予測ミスか。私には分かりません。
 巨樹伐採が問題視されていますが難しい問題です。善光寺の回向柱を今探していますが、かなり困難だと思います。諏訪系神社の御柱も大木が沢山必要です。平城京平安京の時代には寺社建築で近隣の巨木が切り尽くされ、拙書にも記しましたが、江戸時代後期に書かれた『遠山奇談』では大火で炎上した東本願寺の再建のため信州中を歩いたことが綴られています。大木を育てるには世代を超えた育成が必要です。すぐに結果を求める現代人には最も苦手な事案かもしれませんが、それは必要なことだと思います。人は刹那にしか生きられないからこそ永遠を願う想いが必要なのです。それが次世代に繋がるのです。アマゾンのある部族は、ジャングルは子孫から預かったものとして大切にしたそうです。彼らを未開人などという資格は我々にはありません。
 本堂は間口23.89m、高さ25.82m、奥行き53.67mの規模を持つ江戸中期建築。敷地面積でいうと東大寺大仏殿、三十三間堂に次ぐ日本で3番目の大きさです。これだけ大きなお寺が、奈良や京都でなく信州にあるという事実が凄いと思います。
 実は江戸時代に、善光寺に五重塔を建てようという計画がありました。千曲市の森の岡地にある「岡地天満大自在神社」(岡地天満宮)には、幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」があります。また、正和2年(1313)3月に焼失した善光寺、金堂以下の諸堂再建工事の折、用材を伐採、「長さ十丈ばかりの材木が空中を飛翔して、その工事を助けた、という「飛柱の異」という言い伝えがあります。五重塔は結局、幕府の許可がおりずに幻となりました。これから建てられないものでしょうか。
 善光寺は、不思議な歴史をもった寺院です。諏訪社と深い関係があり、大祝の金刺氏とも。善光寺・本堂の最奥、内々陣には「守屋柱」という柱があります。「物部氏 守屋氏 善光寺」で検索すると色々出てきます。善光寺は、聖徳太子と蘇我氏により滅ぼされた物部守屋の鎮魂の寺という人もいます。ミシャグジ神、アラハバキとの関係は? 調べるほど謎が深まる古刹です。出雲系ともいわれる物部氏はどこから来たのか。後から入った大和系は。私は古代中国の呉と越に関係するのではと色々研究をしています。秦の始皇帝を結局は欺いた日本中にある古代ユダヤ人ともいわれる徐福伝説も考慮すべきと思います。世界史と日本史を分けて学んではいけないのです。
まぼろしの善光寺五重塔
佐久間象山大砲試射地から諏訪立川流山門の興正寺。象山の定宿だった伴月楼へ。象山神社と松代城(妻女山里山通信)
藤森照信氏の神長官守矢史料館・高過庵・空飛ぶ泥舟と、諏訪大社上社前宮と本宮へ(妻女山里山通信):善光寺の起源を調べると諏訪社は欠かせない。神長官守矢史料館は必見!

(左)ワインやジャムのサンクゼール: St.Cousair門前店。飯綱高原にはレストランも。その向こうは、七味唐辛子で有名な八幡屋礒五郎本店。亡父は生前、若い頃に先々代だと思うのですが、ご主人にわざわざ作り方を習いに行き、毎冬に薬研で七味唐辛子を作っていました。子供の頃に手伝ったことがあるのですが、くしゃみが止まらなくなって無理でした。(中)その右隣にある藤屋御本陳。昔は旅館だったのですが、現在は結婚式場やレストランなど。この三店はお勧めです。(右)帰りは武井神社に寄りました。以前木彫の保全作業をしました。そして息子の案内で、アウトドアショップの「NATURAL ANCHORS(ナチュラル アンカーズ)」へ。息子に店主の戸谷さんを紹介してもらい話をしました。拙書やブログの紹介も。分かりにくいところですが、レアなものが置いてある興味深いお店です。
NATURAL ANCHORSってどんなところ? 編集者・ライターの小久保よしのさんの非常にいいルポです。
妻女山の貝母が満開。ベニヤマザクラにクサボケも。善光寺三社の武井神社で保全作業(妻女山里山通信)

(左)そこから小径をたどって城山公園へ戻ります。途中の非常に古い橋。鉄板を巻いて補強してあります。脇の石碑には、城山懸社新道開設者 田島式左衛門の石碑が。明治廿年十一月十九日と。懸社とは、この上の横山城跡に鎮座する健御名方富命彦神別神社のことで、善光寺の守護神です。(中)萬佳亭の前を通って城山公民館への途中右手に、息子がとんでもないものを発見してしまいました。この塔の所有者は市に連絡してくださいって書いてあるのです。灯台でしょうか。そんなに古そうでもないし、明治か大正のものですかね。近所の古老で知っている人はいないのでしょうか。普通は銘板があるのにそれもないですし、不思議です。(右)城山小学校の上の道から善光寺。奥行きが非常に長いのが分かります。葛山の黄葉も盛りを過ぎました。翌日は長野市北部や里山の頂上には初雪が降りました。拙書でも紹介の冠着山(姨捨山)や聖山の山頂は真っ白です。
 今回久しぶりに長野の中心街を歩いたのですが、観光拠点としてそれなりに充実している善光寺界隈はともかく、それ以外が酷い。特に長野駅周辺は県庁所在地の駅前とは思えないほど酷い。古いビルばかり。他の県と比べると目を覆いたくなります。駅前にドンキではねえ。駅前のホテルも古いし施設や規模やサービスも国際的には通用しないレベルです。デパートもひとつしかないし。個々には素敵なお店やゲストハウスなどもあるのですが。再開発が進む松本にどんどん引き離されている感じ。街造りのコンセプトが全く見えませんね。どうするつもりなんでしょうか。同じ北陸新幹線の金沢駅と比べると凍りつきます。あちらは世界一美しい駅なんていわれてますが。今では私よりこの辺りを知る東京育ちの息子も苦笑いしていました。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。在京中は、エディトリアル・アートディレクターやデザイン・プロデューサーをしていた経験の集大成でもあります。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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長野市新諏訪町にある諏訪神社の太々神楽(神楽屋台)(妻女山里山通信)

2017-11-14 | 歴史・地理・雑学
 妻女山里山デザイン・プロジェクトのメンバーでもあり、寺社彫刻と宮彫師の研究家であるK氏から、長野市新諏訪町の諏訪神社にある、石川流の宮彫師 山嵜儀作(やまざきぎさく)が明治17年に作ったという神楽屋台が5年ぶりに公開され、その解説講演をするのですが来ませんかと連絡をもらいました。彼が本当に木彫が細かくて素晴らしいのですというので興味津々、長男を誘って出かけました。ところでこの新諏訪町なんですが、国土地理院の地図には諏の字にわざわざ「ず」とルビを振ってあるのです。本家の諏訪に配慮してのことなのでしょうか。

(左)想像以上に細かな木彫が散りばめられた総欅造りの見事な神楽です。(中)K氏の解説講演が始まりました。地区の人が大勢集まりました。彼を研究家への道へのきっかけを作った私も紹介していただきました。(右)手作りのパネルも非常に分かり易いものでした。

(左)各部分の木彫について、何が彫られているのか、また時代的な意味なども話してくれました。全ての意匠には込められた意味があるのです。少し難しくなりますが、後の構造主義に影響を与えたソシュール言語学でいうシニフィアン(意味するもの・記号表現)とシニフィエ(意味されるもの・記号内容)。昔の人も言語学などの知識はなくても、それを意識して表現する知恵や技術は持っていたのです。(中)右側面。とにかく造作の細かさと精緻さに驚かされます。まさに超絶技巧。(右)松に鶴。元は中国の「松鶴長春」の様ですが、夫婦の不老長春を願う目出度い図案です。

 左側面の木彫。上の勇ましい男の木彫は、「力神」といい古代中国の天と地を分けた神(盤古)に由来すると説明がありました。日本では天手力男神『古事記』や天手力雄神『日本書紀』というアメノタヂカラオ神のことでしょうね。天照大神を天岩戸から引きずり出した神です。神楽各部の名称は、手挟(たばさみ)虹梁(こうりょう)木鼻(きばな)蟇股(かえるまた)妻飾(つまかざり)懸魚(げぎょ)等、色々あって難しいのですが、興味のある方は調べてみるといいと思います。
 左右には「七難即滅、七福即生」の七福神が彫られています。大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、恵比寿天(えびすてん)、寿老人(じゅろうじん)、福禄寿(ふくろくじゅ)、弁財天(べんざいてん)、布袋尊(ほていそん)ですね。

 右側面。三脚を持っていかなかったので少し手ブレしていますが、扉の周囲にも右には鷹、左には鶴があしらわれています。

(左)鬼板には諏訪大社の御神紋である梶葉紋が。諏訪大社上社の梶紋は「諏訪梶」といい、木の根に当たる部分が4本、これに対して下社の梶紋は「明神梶」といい、根に当たる部分が5本なのですが、庶家や氏子はこの様に根のないものを使用したということです。(中)四隅にある木鼻には獅子の木彫。口の中のみ丹塗(にぬり)で紅く彩色されています。(右)布袋尊の広げる巻物に明治十七年と記されています。K氏によると、明治十六年の九月に受注し制作を始めた様です。

(左)精緻な彫金があちこちに見られます。(中)彫金も非常に細かな細工です。私は彫金もかじったことがあるのですが、非常に難しいです。木彫もですが、失敗したらやり直しができないですから。今ならコンピューター制御のルーターでできますけどね。でも全て同じ様にはできないと思います。(右)制作費は50円だとか。明治16年に政府が決めた基準では、『1家3人で年収70円、4~5人で年収120円 … が中等、それ以上が上等、それ以下が下等と区分する。』とありますが、仏像を彫る仏師とは異なり、宮彫師は職人扱いだったため社会的地位も高くはなかった様です。

 スサノオノミコト(素戔嗚尊・須佐之男命)のヤマタノオロチ(八岐大蛇・八俣遠呂智)退治の木彫。生贄にされそうになっていた櫛名田比売(奇稲田姫・くしなだひめ)を助け、妻とします。大国主命はその後裔になります。垂木の先端にも細かな彫金のカバーがされています。
 この頃は、明治政府が天皇制を堅固なものにするため、廃仏毀釈をしたり、南方熊楠が猛反対した合祀令を発布したりしています。長野市では400のお堂が次々に廃止され、残ったのはわずか16でした。現在復活したものを入れても40だそうです。これは大規模な文化破壊で、多くの貴重な仏像や仏具などが破壊されたり海外へ流出しました。明治維新は、欧米の巨大な金融勢力が薩長の田舎侍を使って傀儡政権を作ったクーデターでした。興味のある方は、田布施システムで検索を。
【民俗学】岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈。明治政府の愚挙(妻女山里山通信):講の歴史と意味。
 信州『松代里めぐり 清野』発刊と戌の満水など千曲川洪水の歴史 (妻女山里山通信):洪水と大地震に翻弄された歴史。

 保存方法などの質問なども受けて4時過ぎにお開きになりました。K氏は、長野にあるこういう見事な神楽を集めて長野駅に展示したら、非常にいい観光の目玉になると思いますと言っていました。外国人観光客にも受けるでしょうね。もちろん湿度が一定に保たれた丈夫なケースが必要ですが。(左)長男が富士ノ塔山へ登って帰らない?と。この時間では無理だろうと言うと、ほとんど山頂まで車で行けるからというので連れて行ってもらいました。途中の小田切の国見のイチイの大木。相当古いと思います。この先から狭い林道に入りクネクネと登ります。(中)山頂直下にある四阿は、元小田切村立尋常小学校の玄関の一部を移転したものだそうです。(右)山頂への入り口にある「小田切八景」の碑。

 暮れる善光寺平。ちょうど雲がかかった中央が鏡台山で、その一番手前が妻女山や斎場山、薬師山になります。いつもはあちら側から見ているので、新鮮な風景です。右は茶臼山。そのずっと奥は冠着山(姨捨山)。

 望遠で撮ってみました。左に雲がかかった鏡台山。一番手前が妻女山や斎場山、薬師山。中央奥は五里ヶ峯。その左奥に霞むのは蓼科山。ずっと右は美ヶ原。盆地に見える斜めの直線は北陸新幹線。街の明かりが灯り始めました。さむいです。

 右手を見ると茶臼山の尾根が南北に伸びています。茶臼山の自然植物園が見えます。その向こうに千曲川の流れが光っています。その奥は姨捨駅辺り。

(左)富士ノ塔の案内。一名を浅間山、国見山というそうです。(中)標高は998mなんですが、この様に2mの台が設置してあり、1000mと記してあります。う〜むちょっといじましいかな。山頂は滋野御三家の流れをくむ土豪小田切氏の砦だった様です。(右)詩吟「川中島懐古」。戸隠方面は雪雲の中でした。
 麓からの登山道は、南面の志奈埜市神社(しなのいちじんじゃ)手前の松ヶ丘小学校裏からがお勧めです。山頂までは2時間ぐらい。

 妻女山展望台から見た富士ノ塔山と善光寺平(川中島)。すっかり晩秋の風景です。この週末は、雪マークがつきました。慌ててスタッドレスに履き替えている人も多いでしょう。

K氏のブログです。
『北信濃寺社彫刻と宮彫師』―天賦の才でケヤキに命を吹き込んだ名人がいた―

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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中尾山ハイキング2017 里山のリンゴ畑と史跡めぐり(妻女山里山通信)

2017-11-04 | 歴史・地理・雑学
 毎年行われている中尾山ハイキングですが、今年は趣向を変えて茶臼山登山ではなく、中腹の古刹や古墳をめぐる歴史ハイキングとなりました。今回も私はインストラクターをしました。長雨だったり台風が二度も来たりと不安定な天候が続きましたが、当日は雲一つない晴天に恵まれました。

(左)妻女山展望台から。正面がこれから向かう茶臼山と中尾山です。駐車場にキノコ狩りの車が入っていましたが、まず採れないと思います。(中)コースの概要や注意点などを聞いて、インストラクターの挨拶。私が軽い動的ストレッチを皆さんとしてから出発です。(右)まず向かったのは嘉元元年(1303)広阿大喜和尚の創立と伝わる浄土宗の亀見山光林寺。阿弥陀如来像は武田信玄が寄進したと伝えられています。

(左)天保年間の建立とされる薬医門。(中)5本爪一本角の珍しい龍の木彫。江戸後期の大隅流や諏訪立川流の完成されたものと比べると造形がやはり甘いですが、時代を考えるとやはり最高レベルのものだと思います。しかし、宮彫りは神社にあるものと思っていましたが、寺院にもあるんですね。唐彫りというそうです。(右)樹齢300年を越えるといわれる枝垂れ桜。春に是非。

 本堂の木彫。左右2m80cmあるという真ん中の大きな鳳凰像が圧倒的。両側にある獅子と貘の彫り物は、どこか諏訪立川流を思わせるのですが、再建が文政年間(1818〜1830)とあるので、諏訪立川流が全盛期を迎える前の時代のものですね。左の貘は象の場合もあるのですが、見分け方は両者とも鼻は長いのですが、象は大きな耳が垂れています。貘は毛が荒ぶっています。山布施にある布施神社の象は、山嵜儀作(やまざきぎさく)のものですが、それは立派なものです。

(左)経蔵の中の輪蔵。「龍王蔵」と書かれた倉の中にあり、今回特別に開示していただきました。高さ5m。非常に立派なものです。(中)経典類が収められています。現在は壊れていて回すことはできませんが、修復を考えておられるそうです。(右)ここからリンゴ畑の道を歩いて岡田観音へと向かいます。正面に茶臼山、左手前に修那羅山。いずれも布施氏の山城です。

(左)真っ赤なリンゴが美味しそう。1日一個のリンゴは医者いらずといいます。(中)常光寺。別名岡田観音。信濃二十一番札所です。驚いたことにこれは個人の所有なんです。元々は、中山道木曽路の入口である、本山宿の小沢山常光寺だったそうですが廃寺に。(右)観音像。明治政府の愚挙である廃仏毀釈で一時紛失した観音像を岡沢彦治郎が見つけ買い戻したそうです。廃仏毀釈の際に、長野市には400のお堂がありましたが、残ったのはわずか16。現在再建されたのはたった40。偽物の天皇を神格化するために行われた廃仏毀釈はそれほど酷い文化破壊だったわけです。その凄まじさと戦った民衆の話は下記の記事をお読みください。
岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈。明治政府の愚挙(妻女山里山通信)

(左)曹洞宗の雪厳山玄峰院。今回のハイライトとも言っていいでしょう。この地を治めた布施氏の菩提寺です。正安年間(1299~1302)に、布施冠者頼直によって創建され、大興山長禅寺と称したと伝わっています。(中)飲酒して入るべからず。(右}紅葉を映す池。この向こうは段差があり、善光寺地震でできたものともいわれています。茶臼山の山沿いに活断層があります。

 まるで京都の古刹の様な趣です。微風で滲む池に映る紅葉が儚げで美しい。

(左)山門。本来は三門といい三解脱門(さんげだつもん)とも呼びます(三門は空門・無相門・無願門の三境地を経て仏国土に至る門)。これは寺院の多くが山林にあり山号を持つからといわれています。(中)山門の形式には色々あるそうで、これは…歴史会の方に聞いたのですが失念しました。(右)魚籃(ぎょらん)観世音菩薩。この地には行基作という仏像が数多く残るのですが、その時代に行基が東国に来たという記述はありません。しかし、弟子の伴 国道(ともの くにみち)を鎮東按察使として陸奥・出羽の東国へ赴任させている〔天長5年(828年)頃か〕のです。それが伝承として残っているのかも知れません。

(左)獅子の木彫。これも諏訪立川流の匂いを感じますが、友人の宮堀研究家に聞いてみましょう。(中)鐘楼。柱が内側に傾いています。何気ないですが、建築技法としてはかなり高度なものです。これは建築の構造計算の専門家である次男に聞いてみましょう。(右)寛政6年(1794)に諸堂全てを焼失し、弘化4年の震災にも遭い、嘉永6年(1853)十八世僧仁応が再建したそうですが、これは元禄12年に布施氏の末裔が再建した旨が書かれている石碑。その前に何があったのかは不明です。もう少し調べてみたいと思います。

(左)玄峰院の紅葉。(中)次に伊勢社へ。元々は400mほど下にあったそうです。千曲川流域には伊勢社や伊勢宮が各地にありますが、皆水難避け、洪水避けの神様として祀られています。ここもそうだった様ですが、元の場所が度々水害に遭いここに移された様です。(右)そこから植物園・恐竜公園の方へ。オオムラサキの保護地。私も仲間と妻女山山系でオオムラサキの保護活動をしています。

 リンゴ畑と川中島(善光寺平)。左に根子岳と四阿山。中央手前は妻女山と斎場山。右奥は鏡台山。あちこちで剪定したえだや草木を燃やす煙が立ち上っています。気温は20度を越えたでしょうか。暑さを感じるほどの穏やかな晩秋の1日です。

(左)宴ノ城跡。といってもリンゴ畑なんですが。(中)新田横穴式古墳。古墳時代の後期のもので、リユースができるのです。この古墳は覆われていた土が取り除かれていますね。同じ形式の古墳は、土口の堂平大塚古墳で見られます。(右)交流会の会場でお昼です。美味しいきのこ汁や長野牛乳が配られました。出発時にはシナノゴールドも。

(左)篠ノ井歴史の会と私のミニ講演がありました。川辺書林の方がいらして拙書の販売もありました。ゆるゆると時は過ぎて行きます。(中)全行程は10キロぐらいあったのですが、こんな可愛いちびっこも歩き通しました。お昼の後大きなリンゴにかぶりついていました。頼もしい。うちの息子たちも保育園時代に飯縄山にも登りましたが、幼児の登山には気をつけないといけないことがあります。これは絶対に守ってください。
「キッズ・トレッキング」のアドバイス。(信州妻女山里山通信)
(右)食後は歌の時間。今回ハンドベルをたくさん配って皆で演奏するというイベントがありました。私もひとつ渡されましたが、これは面白い。動画もアップしたのでご覧ください。


(左・中)これは前日に取材した篠ノ井駅近くの鼻顔稲荷です。一説には、布施氏の居館がここにあったといわれているのです。(右)篠ノ井駅西口のロータリーにある第一次川中島合戦の布施の戦いの石碑。これは地元でも意外に知らない人が多いのです。布施氏に関しては、このブログの右上の検索に「布施氏」と入れて、ウェブではなくプルダウンして、このブログ内でを選ぶと当該記事がズラッと出てきます。

中尾山ハイキング 2017


『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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BS-TBSの歴史番組のガイドで鞍骨城跡へ。秋めいてきた妻女山山系(妻女山里山通信)

2017-09-24 | 歴史・地理・雑学
 まず妻女山展望台で撮影。その後、私の車を駐車場にデポして撮影スタッフのワゴンで象山の駐車場へ向かいました。今回のコースは、拙書でも紹介していますが、象山--母袋城跡--825m深山最高地点--展望岩--鞍骨城跡--二本松峠--陣馬平--斎場山--妻女山でした。
 メンバーは、歴史作家の三池先生、TBSのディレクター、地元のカメラマンとミキサー、そして私の5人です。電話で打ち合わせの際に、ディレクターから、三池さんは謙信の妻女山布陣はなかったという説で、林さんとは異なるのですが大丈夫ですかと聞かれたのですが、当時生きていたひとは現在誰もいないので、色々な説があって当然ですと。話を聞くと、三池さんもガチガチの凝り固まった方ではないとのことで、これは面白い山行になるかなと思いました。今回のガイドの依頼は、長野コンベンションビューローと松代夢空間です。
それから私がガイドしたBS-TBS「諸説あり!」川中島の戦い(仮)の放送時間です。
11月11日(土)夜10:00〜10:54 興味があったら観てください。私も少し映るかもしれません。
BS-TBSの歴史番組のガイドで鞍骨城跡へ。秋めいてきた妻女山山系(妻女山里山通信)

夢空間松代主催の「妻女山 紅葉と歴史のハイキング」 10月29日(日)。インタープリターをします。お問い合わせ・お申込みは松代夢空間へ。 026-278-1277 リンクは昨年の様子です。 今年は「はなや」での昼食がないので各自用意してください。昨年はたくさんキノコが採れましたが、今年はどうでしょう。前日に下見をしてお連れしますが、こればっかりは自然が相手なのでなんともいえませんね。幸運を祈りましょう。

 妻女山展望台から合戦の舞台となった川中島のパノラマ。千曲川の堤防の両側に広がるのは長芋畑。葉が枯れると掘り始めます。晩秋の葉を焼く煙は風物詩。向こう側の堤防の向こうには、長野冬季オリンピックの開閉会式場だった野球場やサッカースタジアムがあり、公園の南西の端には、山本勘助が討ち死にしたと伝わる「勘助宮(かんすけのみや)」があります。

(左)展望台から松代城方面。戦国当時は海津城。(中)象山神社を抜けて登山開始。象山の山頂手前の広場で撮影。ここは竹山城跡の郭です。(右)象山から今回の最高地点825mまでは急登続き。重い撮影機材もあるし、先生は高齢だし、正直大丈夫かなと思いました。11時半ごろから登り始めたのですが、825mに着いたのはなんと3時近く。私がひとりで登る時間の倍以上かかりました。ここでやっと昼食です。

(左)鞍骨城跡手前に二つある展望岩。9月は一年で最も葉が生い茂っているので、展望が効きません。残念。(中)鞍骨城跡の本郭に着いたのは3時45分ごろ。ポイントで撮影しながらなので時間がかかります。(右)本郭から見下ろす松代城址方面。鞍骨城跡探訪は、冬枯れの季節か4月上旬の芽吹き前がおすすめです。

(左)本郭の石垣。(中)清野氏ではなく、その後に布陣した上杉景勝時代のものといわれています。(右)天城山(てしろやま)は巻き、謙信の陣城跡と伝わる陣馬平を経て、最初の本陣の場と伝わる斎場山(旧妻女山)へ着いたのは、6時少し前。日没となり、妻女山駐車場へ下る途中で真っ暗になり、善光寺平の夜景が瞬き始めました。先生が駒止で転落とかスタッフが両足痙攣とかトラブル連続でしたが、皆無事下山できました。
 説はともかく、三池先生の山城の解説などは非常に面白いものでした。また地元ならではの私の解説にも非常に興味を示していただきました。私にとっても非常に有意義な山行となりました。放映時間など詳細が分かりましたら、こちらで発表します。私も少し出るかもしれません。

(左)そして、週末は久しぶりに妻女山山系の奥を歩きました。渡来人のものといわれる積石塚古墳。左下に制癌作用が高いといわれるカワラタケ。(中)全草が猛毒のヤマトリカブト。(右)こんな登山道も獣道もないところを歩きます。もちろん私はどこにいるか、どこへ行けばいいのか全部分かっています。

(左)キノコは皆無だったので、もう終わりの山栗を少し拾いました。ほとんどはリスやタヌキなどによって食べられていました。(中)ノコンギクも終わりに近づいています。(右)ノコンギクで花粉を食べるハナムグリ。

(左)帰化植物のマルバフジバカマ。群生地が減った様な気がします。(中)シソ科のヤマハッカ。(右)飯山の富倉蕎麦で有名なオヤマボクチ。

(左)帰りに亡き山仲間のログハウスがある堂平大塚古墳へ。久しぶりに彼の慰霊碑に参拝しました。(中)そこから西の風景。北アルプスは雲の中。左に前回登った聖山が見えます。(右)クマノミズキの小枝が赤く染まり始めました。秋が深まると真っ赤になります。森の珊瑚。

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遠山郷、大鹿村、伊那谷、下諏訪。中央構造線を巡る旅 その1(妻女山里山通信)

2017-05-11 | 歴史・地理・雑学
 ゴールデン・ウィークの後半は、長男と一泊二日で、信州の南端近くの秘境、遠山郷と大鹿村へ。そして伊那谷から下諏訪へと、中央構造線を巡る旅をしてきました。

(左)中央自動車道松川インターを下り、飯田方面へ。喬木村から県道251号を一路遠山号へ。すると山中で突然現れる自動車専用道路のループ橋。国道474号小川路峠道路です。未完成の三遠南信自動車道の一部。奥に見える直線の道路は、左の山際で突然終わっています。(中)上村川に沿って秋葉街道152号を南下。南アルプス ジオパーク・エコパークの看板。全体像をここで掴んでおきます。(右)遠山郷下栗の拾五社大明神(正八幡宮)。応神天皇を主祭神として八幡社を祀り木火土金水の五神が合祀。さらに元和元年に遠山氏滅亡後その霊を慰めるため八社の神として祀られる。諏訪大社の祭神、建御名方神その御子神十三神が祀られていることから拾五社大明神と呼ばれている。(神社の看板から抜粋)。湯立神楽行事で有名な霜月祭も行われます。

(左)神社の参道脇に咲くニリンソウ。(中)下栗の里をジグザグに登っていきます。花桃や菜の花が咲いていました。ロードバイクで登る人もいます。(右)下栗の里の最上部にある駐車場。レストランや売店なども。ここから30分ほど歩いて下栗の里が一望できる展望台へ向かいます。

 展望台からの下栗の里。信州三大秘境や、日本の秘境100選のひとつに数えられている秘境です。

(左)山を下って遠山郷の中心地の和田へ。ジンギスの肉のスズキヤのある秋葉街道。(中)昼は道の駅の横の食楽工房屋で。私はゆず塩ラーメンとビール。化学調味料臭くないあっさりラーメンも美味。クラシックラガーは珍しい。(右)息子は鹿肉のメンチ定食。非常に美味しかったそうです。

(左)遠山郷土館のある和田城跡へ。(中)霜月祭の展示がたくさんあり非常に興味深く鑑賞しました。(右)和田城跡からの展望。

(左)和田城跡の裏手にある曹洞宗盛平山龍渕寺。春の花まつり。万国旗が…。(中)神社の木彫。(右)遠山氏の墓。後ろの四本の杉の大木は、根本で全て繋がっていました。

(左)旧木沢小学校へ。(中)校長先生です。(右)懐かしい机。蓋をひっくり返して粘土細工をしました。

(左)展示はプロの学芸員ではなく地元の老人達がやっている様で、雑然としていますが、面白いです。(中)亡き父が冬になると使っていた縄綯い機。(右)遠山郷の森林鉄道の写真は非常に興味深いものでした。

(左)なんとテクニクスのアナログプレーヤー。(中)職員室。6つの机と右に校長先生の机。(右)懐かしい謄写版。中学時代に編集長だったので、これで速報新聞を作りました。古いハモンドオルガンがたくさんあり、懐かしくてちょっと弾いてみました。私が通っていた小学校や中学には、理科準備室に人体の内蔵模型やホルマリン漬けの色々な生物がいて結構恐怖でした。

(左)遠山森林鉄道の牽引車。(中)索道を利用した伐採現場。(右)崩壊した山林に植樹。色々な広葉樹が植えられていました。

(左)北上して大鹿村へ。今夜の宿の「美野鹿」へ向かいます。(中)「横須賀カレーフェスティバル2015」で鹿肉カレーがグランプリを受賞,そのカレーが食べられるレストラン。(右)宿の「美野鹿」からの眺め。これは写真では伝わらないと思います。北信では見られないダイナミックな風景です。

(左)民宿の夕食。これに山菜の天ぷらが追加。地元の食材が使われとても美味でした。裏の斜面に咲いていたショカッサイがちらし寿司に。お洒落です。瓶ビールを2本いただきました。宿泊者は名古屋からのご夫婦と、やはり名古屋からのライダー。拙書を紹介しましたが、色々質問もしてくださり、持っていた見本誌を興味深く読んでくださいました。(中)民宿の部屋からの夕暮れ。(右)朝食。ウコギ飯を初めて頂きました。茹でて塩もみしたウコギが大層美味。

 次回はその2で、大鹿村の中央構造線博物館から伊那へ、更に北上して下諏訪へ。中央構造線の旅は続きます

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その美しさから「見返りの塔」と呼ばれる大法寺の国宝三重塔へ(妻女山里山通信)

2017-04-02 | 歴史・地理・雑学
 昨年の5月に妻女山里山デザイン・プロジェクトのメンバーと子檀嶺岳に登った帰りに参拝した天台宗一乗山大法寺の国宝三重塔を訪ねました。ちょうど三重塔の裏手の梅園が咲いているのではと思ったからです。塩田平は平安時代までに新田開発が進み、鎌倉時代には米と麦の二毛作が行われ、相当に豊かだったようです。そして、北条氏の庇護を得てたくさんの寺院や塔が建立されました。今回訪れた「国宝大法寺三重塔」は、そんな鎌倉時代の栄華を残す名塔です。そのあまりの美しさに、誰もが思わず振り返ることから「見返りの塔」と呼ばれています。

 その前にまず妻女山奥の拙書でも満開の写真を紹介している上杉謙信の陣城跡と伝わる陣馬平へ。女山里山デザイン・プロジェクトのメンバーと保護活動を行っている貝母(編笠百合)の生育状況を見に行きました。2週間も早かった昨年とは違い、今年は平年並み。蕾もたくさん見られます。ヨシやノイバラの根を除去した場所に、種や球根を植えたのですが、それも芽生えていました。昔畑だったところは周囲と土質が異なるので、そのエリアにだけ増えていくのです。数年後には今の倍ぐらいに群生地が広がると思われます。満開は20日頃からゴールデン・ウィークの前半まででしょう。4月の茶花であり慎ましやかな美しい花ですが、かなり強い毒草です。決して持ち帰らないようにお願いします。

 「信州の鎌倉」といわれる塩田平は、平安時代までに新田開発が進み、鎌倉時代には米と麦の二毛作が行われ、相当に豊かでした。そして、北条氏の庇護を得てたくさんの寺院や塔が建立されました。子檀嶺岳の山麓にある国保大法寺三重塔は、そんな鎌倉時代の栄華を残す名塔であり、地元の宝です。
 塔は、大正9年の解体修理の際に発見された墨書により、鎌倉幕府滅亡の年である1333年(正慶二年)に建立されたことが分かっています。塔のある大法寺は、大宝年間(701~704)藤原鎌足の子上恵が開基し大宝寺と称したといわれ、平安初期の大同年間(801~810)に坂上田村麻呂の祈願で僧義真(初代天台座主)により再興されたと伝わっています。
 ここにこのような壮麗な塔が建ったのは、北条氏の庇護とともに、この麓を東山道が通り、浦野駅(うらのうまや)(古代に30里毎に置かれた人馬の施設)があったからなのです。大法寺はその駅寺(うまやでら)でした。
 三重塔の構造は、天王寺から来た工匠により造営が行われたということで、当時の都の洗練された美しさを今に伝えています。三層の屋根は桧皮葺で、高さは18.56m。相輪を備え、天頂部には美しい水煙があります。初重の組物は二手先とし、裳階【もこし】(ひさしようなもの。あると四重の塔のように見える)がありません。裳階をつけずに初重内部を広くとるためだそうですが、そのため初層が大きく非常に安定感があり荘重、重厚な感じがあります。また、裳階がないためシルエットがシンプルで軽快感もあります。この造りは、他に奈良の興福寺三重塔(鎌倉時代初期)と石川県の那谷寺(なたでら)三重塔(江戸時代)だけといいます。内部には、金剛界大日如来坐像を安置しています。また、文化庁の調査の結果、国宝大法寺三重塔の一層内壁に壁画が描かれていたことが判明したそうです。これは興福寺の三重塔と同じです。

(左)大法寺の駐車場から望む夫神岳。初夏の妻女山SDPのトレッキングで登る予定です。(中)三重塔の初層にある「庭照」の額。「庭を照らす」という意。「我々は仏の子であり、皆仏の庭で遊んでいる。その庭を照らしているのが仏の慈悲である」というようなことなのでしょうか。この額は後世にかけられたものの様です。
(右)大正9年の解体修理の際には、これらの複雑な木組みを全て解体して元に戻したのでしょう。今現在その様なことができる宮大工はどれほどいるのでしょうか。

 三重塔後背の梅園は咲き始めでした。4月の中旬過ぎからは桜も咲くでしょう。

 美しいシルエットの屋根の向こうにそびえる夫神岳。遠い鎌倉時代の北条氏の栄華が想い起こされます。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)です。檜の樹皮を何層にも竹釘で止めていく非常に重厚で耐久性のある屋根です。檜皮を採取する技術者を『原皮師(もとかわし)』といい、樹齢50~60年の檜の樹皮を剥いで使います。その樹木を枯らさないように剥ぐのが高度な技術です。剥がれた樹皮は、8~10年で再生します。

(左)軒を支える肘木(ひじき)には 丹塗(にぬり)の赤い顔料が残っています。いずれも創建当時のものです(右上に見える)。つまり往時は、朱色の壮麗豪華な三重塔だったわけです。(中)塔の九輪とその上にある水煙。合わせて相輪といいます。釈迦が荼毘に付された際に残された仏舎利を納めた塚であるストゥーパの上に重ねられた傘が起源とされます。(右)軒下には地塗りに用いられた白い胡粉(ごふん)の顔料が見られます。

 独特の鋭い曲線を描く屋根のライン。この反りについて、『日本美の特質』(鹿島出版会)の書の中で吉村卓司氏は、日本刀の反りと共通する日本人の独特な美意識について非常に深い洞察を述べておられる。

(左)大正9年の解体修理の大正9年の解体修理の石碑。(中)満開の白梅。(右)路傍の水仙。

 参道にある羅漢石像。(左)酒を酌み交わす二人。(中)赤子をあやす母。(右)誰かな口の中にお賽銭入れたのは。他にもたくさん並んでいます。

(左・中)根元から株立ちした大きな榧(カヤ)の巨樹。古名はカエで、転訛してカヤとなったとか。榧の実は灰汁抜きして炒って食べられます。寺社に植えられているのも飢饉の備えという意味があったのかもしれません。また、碁盤や将棋盤といえば、榧材といわれるほど珍重されます。(右)桜が満開の頃や紅葉の秋にも訪れたいと思います。

 「道の駅あおき」へ。拙書の表紙は、ここから撮影したものです。子檀嶺岳という山名は、ルビがふってなければ読めないでしょう。その山名の由来も拙書では紹介しています。山頂は真田関連の山城で、空堀なども見られます。
大法寺ホームページ
青木村の国宝大法寺三重塔のページ
大法寺ウィキペディア

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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出雲大社の系譜。諏訪立川流の諏訪大社秋宮と大隅流の春宮の宮彫探訪(妻女山里山通信)

2017-03-20 | 歴史・地理・雑学
 当ブログでは、諏訪立川流や大隅流の宮彫がある神社を紹介してきましたが、その代表作ともいえる諏訪大社下社の春宮と秋宮を載せていないということに気付き撮影にでかけました。三連休で参拝者も多いと思い9時半頃には秋宮に到着。参拝と撮影に勤しみました。諏訪大社下社は、春宮と秋宮の2社があり、秋と春に祭神を秋宮、春宮へ遷座することが通例となっています。
「諏訪藩主は大隈、立川の両者をよび、腕を競わせることになった。諏訪大社の下社を同じ規模、同じ期間で同時に二つの社を作るよう命じた。どちらも全力を注ぎ見事に完成した。大隅流の作った社を「春宮」、立川流の作った社を「秋宮」といい、現在もその当時の姿で下諏訪町に存在している。結果は立川流の評判が勝り、立川和四郎富棟の出世作となり、以後立川流は大隅流を圧倒し発展していった。」:立川流彫刻のサイトより引用。

(左)秋宮の鳥居前の手水舎。皆さんちゃんと作法を知っているのですね。彼女が彼氏にこうやるのよと教えているのも微笑ましい光景でした。「諏訪大社下社秋宮 境内ガイド」。(中)石造りの神橋を渡り境内へ。(右)神楽殿からは御祈祷(おはらい)の太鼓が。諏訪立川流の木彫が施された幣拝殿はこの後ろにあります。

 諏訪立川流和四郎富棟の名声を世に広めた幣拝殿。1781年(安永10年)建立。屋根が大きく下が小さな逆三角形の構図は、空(宇宙)に向かって飛び立つかの様な軽快感を覚えます。

 木彫は全体に施されていますが、目を引くのは幣拝殿最前部の柱に施された獅子と象の木彫です。立川流の特徴が凝縮された造作ともいえるものです。後に息子の富昌へとその技法は進化してゆき更に洗練されてゆきます。

 獅子のアップ。眼は翡翠がはめられているのでしょう。諏訪大社の祭神、建御名方命(たけみなかたのみこと)の母神である高志沼河姫の象徴。
『『万葉集』に詠まれた「渟名河(ぬなかは)の 底なる玉  求めて 得まし玉かも  拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」(巻十三 三二四七 作者未詳) の歌において、「渟名河」は現在の姫川で、その名は奴奈川姫に由来し、「底なる玉」はヒスイ(翡翠)を指していると考えられ、沼河比売はこの地のヒスイを支配する祭祀女王であるとみられる[1]。天沼矛の名に見られるように古語の「ぬ」には宝玉の意味があり、「ぬなかわ」とは「玉の川」となる。』by ウィキペディア
 と書いたのですが、友人の宮彫研究家から、あれは銅板ですとのメールが来ました。緑色は緑青の様です。残念ですね。翡翠なら古代へのロマンへと繋がったのですが。

 獅子と対をなす象の木彫。獅子が怒りの象徴であるとすれば、象は喜びや笑いの象徴だったのでしょうか。象は貘である場合もあります。貘は鼻が同じ様に長いのですが、耳が立っていて体毛があります。

 同時代の葛飾北斎に影響されたという波の木彫。激流をものともせず遡る鯉が彫られている見事な木彫です。

 幣拝殿内部の両脇障子は竹に鶴。その上部にも鶴。両脇には獅子。ため息が出るような素晴らしい木彫です。

(左)家紋の五根梶。諏訪大社の神紋は、上社では四根の「諏訪梶」、下社は五根の「明神梶」とされているのですが、例外があり混在している様です。理由は武士が台頭した時代にありそうです。「諏訪氏 梶の葉紋」で検索を。(中)巫女さんがお守りを販売したり御祈祷の案内をしています。(右)数あるお守りで私が買い求めたのは、薙鎌守(なぎがままもり)。大国主命の福俵、母神沼河姫の翡翠、諏訪特産の黒曜石を組み合わせたお守りです。

 下諏訪を散策しながら春宮へ。(左)道路の真ん中にある春宮に神橋。(中)駐車場が狭く観光バスも来ないので静かな春宮。(右)高島藩御用の宮大工村田長左衛門矩重(ともしげ)作(大隅流)の幣拝殿。

 木鼻の唐獅子。その上部を飾る持送り牡丹。秋宮の獅子と象と波の木彫と見比べると、その違いが際立って興味深く観られます。当時の庶民には秋宮の立川流の方が評判が良かった様です。しかし、大隅流が常に劣っていたということではありません。このブログの二つ前の記事「名宮大工棟梁・大隅流柴宮長左衛門矩重の木彫が圧巻! 千曲市戸倉の水上布奈山神社」にある様に、ある程度抽象化された木彫は、現代美術にも通じる様なセンスとコンセプトを感じます。
 妻女山展望台で、大学でユダヤを研究していたという方と出会って話したときに、ユダヤ人の研究家を諏訪に案内したときに、諏訪大社の形態は古代ユダヤの神殿そのものだと言われたとか。また、守矢氏のことや纏わる話をすると、古代ユダヤ部族で11部族の失われたひとつが来たに間違いないと言われたとか。色々な名称や形態にその痕跡が見られるというのです。秦の始皇帝の時代に、不老不死の薬を求めて大勢の若者たちと来日し戻らなかったユダヤ系の大和朝廷の祖といわれる徐福を思い出します。全国に残る徐福伝説。秦氏、羽田氏、波多氏、畑氏、本田氏などが末裔といわれます。伊勢神宮にあるダビデの星。烏天狗など古代ユダヤにまつわるものがたくさんあるという事実。

 両社とも人のいないカットを撮影するのは非常に困難ですが、早朝から訪れることをお勧めします。凛とした空気の中で参拝や散策ができます。しかし、両社とも杉の大木に囲まれていて、花粉症でグズグズになりながらの撮影でした(涙)。ここまで来たら、次は出雲系の本社である出雲大社を参拝したいですね。大和系より先に来日した出雲系。春秋戦国時代の越に滅ぼされた呉のエリートの末裔ではないでしょうか。本殿の大国主命が西を向いているのは、故郷の呉の方向を向いているのではと私は考えています。北九州と瀬戸内に定着した彼ら。地名として呉(くれ)がそれではないでしょうか。呉服という言葉も残っています。その後入ってきた滅びた越のエリート達。いずれも故郷を失いました。越後の越がそれだと思われます。魏志倭人伝にある倭国大乱は、両者の殺し合いではないかと考えます。前述したように、その後秦の始皇帝を欺いて渡来した古代ユダヤの一部族といわれる徐福を長とした人々が渡来し全国に散らばります。大和王権の祖ともいわれます。伊勢神宮や他の神社などにもユダヤのダビデの印が見られます。

(左)春宮からはすぐに有名な万治の石仏へ浮島神社を経て行くことが出来ます。画家の岡本太郎氏が絶賛したことで有名になった石仏です。(中)正面の写真は溢れていますが後ろ姿は初めてではないでしょうか。こんなです。(右)ノミを突き刺して血が出たという痕。なんだかなあです。岡本太郎氏の発見がなければ世に出ることはなかったでしょう。

(左)撮影は午前中で終えたので下社下の山猫亭はなれへ。11時過ぎで一番乗りでした。かけ蕎麦とデザートのそばちちを注文。蕎麦はしっかり締まったもので汁はあっさりめ。(中)実は一日五食限定のデザートのそばちちが目当て。美味しかったです。鳥居前の本店よりはなれがお勧めかな。(右)花粉症が酷くなって松本へ。モンベルで買い物をして一路19号を長野へ。長男の所で次男の大学卒業祝いと就職祝いの宴会。メインは牡蠣とナメコと椎茸とネギの味噌鍋。これは絶品。後にスープを足して中華出汁を加え煮込み味噌ラーメンに。これも絶品。奄美黒糖焼酎のれんとのお湯割りを呑みながら色々な話に興じたのでした。

 最後に諏訪大社秋宮の近くの山王ホテルの脇にある春霞に煙る展望台からの諏訪湖。古代科野国の始まりがここで生まれたことを想像しながら花粉症の涙目で色々と想いをめぐらしたのでした。
諏訪大社上社の探訪記事は、『世界的に有名な建築家、藤森照信氏の神長官守矢史料館・高過庵・空飛ぶ泥舟と、諏訪大社上社前宮と本宮へ(妻女山里山通信)』をご覧ください。空飛ぶ茶室は必見ですし、高過庵は世界で最も危険な建築物10選に選ばれています。
 諏訪氏や諏訪大社、出雲氏、などについては、多くの記事を載せています。右上の検索に検索語を書き込み、ブログ内検索をプルダウンしてください。関連記事が表示されます。松代町岩野の会津比売神社も大国主命のひ孫と言われています。信州に出雲系の諏訪社が多い理由がここにあります。古代科野国は、出雲系と大和系の結婚により始まったのです。その痕跡が、千曲市森(杏の里)森にある、森将軍塚古墳(前方後円墳)と思われます。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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武田典厩信繁の墓と全国随一の大きさの閻魔大王像がある典厩寺探訪(妻女山里山通信)

2017-03-12 | 歴史・地理・雑学
 週末の午前中は、用事や買い物を済ませて武田の副将で、信玄の実弟・典厩信繁の墓と全国随一の大きさの閻魔大王像がある典厩寺(てんきゅうじ)へ。千曲川堤防の脇にあるため晴れていましたが寒風が厳しく春弥生というのに凍えながらの参拝と見学でした。

(左)松操山(しょうぞうさん)典厩寺山門と閻魔堂。(中)山門の額。拝観料200円を受付が無人なので皿に置いて中へ。(右)すぐ左手に閻魔堂。小学校低学年の遠足で訪れた時以来の訪問です。遠足の際は、そのあまりの大きさと怖さに泣き出した女子がいた記憶があります。
 頭部のみ千曲市稲荷山出身で後藤流の流れをくむ宮彫師・小林五藤(正名:小林佐太郎藤原茂高)の作。頭部のみという理由はこのの像を製作中に急逝したため。体は漆喰で、質感が異なります。また、造作も稚拙です。八代真田幸貫(ゆきつら)が川中島の戦いの8000人ともいわれる戦没者の供養のために建立したものです。宮彫師・小林五藤については、『北信濃寺社彫刻と宮彫師』の記事をお読みください。

 小林五藤制作の閻魔大王の頭部。子供が夜泣きしそうな迫力があります。閻魔は仏教、ヒンドゥー教における地獄、冥界の君主。冥界の王として十王とともに死者の生前の罪を裁く神。昔の子供たちは、嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるといわれたものです。悪いことをすると死んでから地獄に落とされるとも。

(左)左右から見るとそれぞれ表情に微妙な違いがあります。(右)天井には数多くの観音の絵。

(左)本堂。創建当時(1500年頃)は鶴巣寺(かくそうじ)と称し、合戦から60年後の承応3年(1654)に松代藩主の真田信之が武田典厩の名をとって寺号を典厩寺と改め、信繁の菩提と武田・上杉両軍の戦死者を弔ったといわれています。(中)信繁の首を洗ったという「首清め井戸」。(右)信繁の墓。真田昌幸は信繁の名を次男(真田幸村)に名付けました。

(左)枝垂れ桜のある境内。満開の際に訪れたいものです。奥に見えるのは奇妙山。(中)川中島合戦記念館。(右)入ってまず目を惹いたのは、狩野祐清の『大龍』。狩野祐清(狩野邦信)は、中橋狩野家十四代目。江戸生れ。初号は探秀のち祐清。狩野探牧守邦(鍛冶橋狩野六代目)の次男。のちに中橋狩野家十三代目永賢泰信の養子となる。天明7年12月13日生まれ。天保11年2月20日死去。54歳。号は探芳、祐清。朝鮮への贈呈屏風や江戸城西の丸の障壁画の制作などに参加。
 現在、日光東照宮の平成の大修理が行われていますが、宝暦の修理(1749~1753)に際して、それまであった牡丹唐草の絵を、狩野祐清が描き直した絵画が215年ぶりに公開されました。一般公開は未定。
日光東照宮「陽明門の壁面に宝暦年間の絵画出現」

 狩野祐清『大龍』部分図。

(左)信繁の着用した鎧の下着。(中)戦闘中に折れたという信繁の刀。(右)武田不動尊。

(左・中)信繁の鉄扇やら烏帽子やら。(右)上杉謙信の鉄扇。

(左)『甲陽軍鑑』大写とあるので木版本ではなく写本の様ですが、原本はなんなのでしょう。『甲陽軍鑑』の写本では、小幡勘兵衛が元和七年に筆写したという、「元和写本」が最も有名です。国語学者の酒井憲二氏がその研究の成果を『甲陽軍鑑大成』全七巻、汲古書院にしたためています。第四次川中島合戦の記述がある本文篇上と研究篇は、なかなか深く読み応えがあります。史料としての価値は低いという評価をくだされていたものは、主に何度も改変された江戸時代の木版本です。(中)山本勘助の宮(東福寺の小森地籍)とあります。ここは現在の南長野運動公園です。たしか敷地のどこかに現存するはずなので今度探してみましょう。(右)武田の火縄銃。長さ175センチ、重さ16キロとあります。

『永禄年間川中島大合戦之図』長野縣埴科郡松代町 調製者 佐藤袈裟治とあるのですが、いつ頃のどういう人か不明です。長野縣埴科郡は、1879年(明治12年)発足なので、それ以降のものでしょう。絵図では、武田別働隊が海津城から西条の入集落から唐木堂越を上り、鞍骨城の南を巻いて天城山方面から妻女山を攻撃した様子が描かれています。灰色が明治時代の千曲川の流路で、水色が戦国時代の推定流路です。結構的を得ていると思います。

 その妻女山の部分。右上が海津城。歴史的資料価値が高いものではありませんが、セロテープで貼り合わせて木ネジで板に止めてあるのはどうかと思います。民俗学的価値は高いので。他の展示品も玉石混交で随分と怪しいものもありますが、なにより保存状態が酷いのが気になります。真田宝物館とか歴史館とか専門の機関に移譲した方がいいのではないでしょうか。

 千曲川の堤防上から見る典厩寺全景。右奥に謙信、信玄ともに尊崇した飯綱権現の飯縄山。拙書『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林でもそのことを記しています。上杉謙信の兜の前立は飯縄権現の白虎に乗った烏天狗です。

 千曲川の堤防上から海津城(松代城)、謙信の陣所といわれる陣馬平。本陣といわれる斎場山、妻女山(旧赤坂山)方面のパノラマ写真。

(左)その陣馬平の貝母(編笠百合)も大きくなってきました。4月の中旬には咲き出すでしょう。薬草ですが毒草です。(中)林道にヌルデの虫こぶが落ちていました(左)。葉や葉軸にある種のアブラムシが寄生し、ヌルデミミフシやヌルデハイボケフシなどの虫癭(ちゅうえい)ができます。このコブを「五倍子(ふし)」といい、タンニンを多く含み、黒色染料の原料になります。お歯黒にも使われました。白く粉を吹いていますが、酸塩味があるため、信州ではこれを煮詰めて塩の代わりにした地域があるそうです。
「足柄の 吾を可鶏山(かけやま)の かづの木の 吾をかつさねも かづさかずとも」(万葉集:詠人知らず)
 かづの木(ヌルデ)を男性にたとえ、私を誘ってくださいという歌。信州の春も少しずつ訪れ始めました。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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名宮大工棟梁・大隅流柴宮長左衛門矩重の木彫が圧巻! 千曲市戸倉の水上布奈山神社(妻女山里山通信)

2017-03-05 | 歴史・地理・雑学
 最高気温が10度を超えてやっと春めいた土曜日。千曲市戸倉にある水上布奈山神社(みずかみふなやまじんじゃ)を訪れました。きっかけは、友人の宮彫研究家のブログ「北信濃寺社彫刻と宮彫師ー天賦の才でケヤキに命を吹き込んだ名人がいたー」の2017年1月30日の記事を見たことにあります。ぜひ現物をこの目で見たいと思ったわけです。買い物ついでに車を走らせました。本殿は国の重要文化財であり、諏訪大隅流柴宮長左衛門矩重 (しばみやちょうざえもんのりしげ)の見事な木彫が施されています。

 正午ちょうどに神社へ。朱塗りの鳥居越しに見る本殿が収納された覆屋。鳥居との間に神橋があります。
 その歴史ですが、1603年(慶長8年)北国街道の整備により下戸倉宿が置かれた。これに伴い、諏訪大社から建御名方神(たけみなかたのかみ:大国主命の子)を勧請し、諏訪社として創建された。1789年(寛政元年)現在の本殿が建立。1835年(天保6年)水上布奈山神社に改称。1839年(天保10年)境内に飯盛女52名による燈籠が奉納される。(by wikipedia)布奈山は、万葉仮名で現在は船山で残っており、戦国時代に名を馳せた舟山氏(船山氏)と深い関係にあります。以前、妻女山展望台で福島の船山氏と知り合ったことがありますが、先祖を調べていったら信州の船山と布奈山神社に辿り着いたと言っていました。

(左)本殿への右手、稲荷大明神の前にある燈籠は、下戸倉宿に働く飯盛女52名と旅籠屋主人が奉納したもので、台座に名前が刻まれています。飯盛女(食売女)とは宿場の宿で給仕や雑用をすると共に私娼として売春をも行っていた女性たち。(中)拝殿に参拝して裏の本殿へ向かいます。本殿は覆屋の中にあり、普段は施錠されていますが、隙間から見ることはできます。(右)本殿から拝殿方向。朱塗りの塀に囲まれています。

 覆屋の中に鎮座する一間社流造の本殿。見事な木彫が目を惹きます。

 両脇障子の上の見事な龍。(左)左の『下り龍』。(右)右の『上り龍』。諏訪立川流と比べると、堀が深く鋭く豪壮な感じで、写実性や具象性を残した立川流よりデザイン化されている意匠です。どちらも私は好きです。しかし、このインカ文明の遺物にも似たデザイン化、便化はどこでどうやって会得。あるいは創造したのでしょう。非常に興味があります。

 左右にある『海老虹梁』。非常にダイナミックな造形です。

 木鼻『獅子と獏』。獏は象だと思っていたのですが、最近これらには明確な違いがあることを知りました。鼻は双方とも長いのですが、目は象は三日月形で貘は丸く、象には体毛がなく貘にはカールした体毛があります。象の耳は垂れて大きく貘の耳は小さい。ただ当時ではどちらもほぼ想像の動物でしかなく、確実に分かって作り分けていたかは微妙なところです。

 本殿の正面。上には鳳凰。その下に二羽の鶴。

(左)左扉脇羽目の『拾得』。(右)右扉脇羽目の『寒山』。中国,唐代の隠者,詩人である寒山と拾得(じっとく)のことで、中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる。
松岡正剛の千夜千冊『寒山拾得』久須本文雄寒山拾得は、日本人の琴線に触れるものがあるのでしょう。様々な絵師が描いています。
   一たび寒山に住みて 万事休す
   更に雑念の心頭に掛かることなし
   閑(しず)かに石壁に於いて詩句を題し
   任運なること還(ま)た 繋がざる舟に同じ(寒山)


 暖かな日で、境内では幼女が遊んでいました。二本の御柱が目を惹きます。後ろ髪を引かれつつ境内をあとにしました。

 翌日曜日は待ちに待った啓蟄(けいちつ)。土中や木の中の虫たちが這い出してくる季節の到来です。貝母の様子を見るために妻女山と天城山の中間にある陣馬平へ。(左)陣馬平の残雪もみな消えていました。(中)貝母(編笠百合)は平年並みの成長。昨年は2週間も早くゴールデン・ウィーク前に散ってしまいましたが、今年は4月20日頃に満開になると思います。(右)蕗もやっと出てきました。スギヨのビタミン竹輪とかき揚げにしましょう。

(左)陣馬平から下ろうとすると前方にニホンカモシカのシロがいました。拙書の85ページに彼女の夏毛の写真を載せていますが、まだ冬毛のままですね。最高気温が10度を越えるようになると冬毛がゴソッと抜けるので、今年は中旬頃でしょうか。(右)妻女山松代招魂社。ソメイヨシノの花芽がずいぶんと膨らんできました。黄色いダンコウバイが咲き始めると本格的な春の始まりです。

 妻女山展望台から望む善光寺平。曇っているのではなく春霞です。

 展望台から東の松代方面。確かひな祭りの人形の展示が街のあちこちで行われているはずです。あとひと月もすれば正面の奇妙山山麓の杏が咲き出します。そしてゴールデン・ウィーク頃にはあっという間に初夏へ。信州の春は短く駆け足で通り過ぎていきます。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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信州の鎌倉塩田平へ。真田昌幸・信之も信仰した塩野神社。戦没画学生慰霊美術館「無言館」(妻女山里山通信)

2017-01-30 | 歴史・地理・雑学
 1月最後の日曜は久しぶりによく晴れて気温も緩みました。以前から行きたいと思っていて叶わなかった信州の鎌倉と呼ばれる塩田平の拙書でも紹介している独鈷山の麓にある由緒ある寺社や美術館巡りに出かけました。

 国道403号を西へ。土口水門から千曲川越しに見る仁科三山。左から爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、右に山頂だけ見える五竜岳。千曲川の濃い青が印象的ですが、今年は鴨がほとんど見られないのが気がかりです。

(左)(中)まず最初に訪れたのは、中禅寺。仁王堂の金剛力士像。平安時代後期、平清盛の発願で作られたとか。(右)中禅寺薬師堂。中尊寺金色堂と同じ阿弥陀堂様式で、鎌倉時代初期の建造で関東中部で最古の木造建築です。本尊の薬師如来坐像、木造神将立像とともに国の重要文化財に指定されています。ということは、金剛力士像の方が古いのですね。

(左)次に向かったのは、真田昌幸・信之も信仰した塩野神社。杉並木の奥に佇む本殿。(中)神社の配置図。(右)特に名称はなかったのですが、中には昔に御神木だったと思われる欅の大木の根元部分と、花火を打ち上げるのに使われた大筒が。

(左)上諏訪社。(中)下諏訪社。(右)独鈷山から流れる清流に神橋の太鼓橋。近所から春の例祭の練習でしょうか、軽やかな太鼓の音が聞こえてきました。

 珍しい二階建ての楼閣造の拝殿と奥に流造の本殿。祭神は、素盞嗚尊(スサノオノミコト)・少名彦命(スクナヒコナ)・大己貴命(オオナムチノミコト:大国主命)。拝殿は棟札により寛保3年(1743)。本殿は寛延3年(1750)棟札。大工は上田房山の大工棟梁、末野忠兵衛。
 創立年月は不明。当初鎮座の地は独鈷山(1266m)の鷲ケ峰に祀る。現在も奥社が鎮座。白鳳元年4月出雲大社より分霊を勘請。永禄11年(1568)4月武田信玄社領十貫文。天正15年(1587)真田昌幸七貫文を寄附。元文年間(1736-41)塩野の本号に復帰。明治6年44月村社。明治28年9月郷社。明治40年神饌幣帛料供進社。

(左)(中)本殿の両妻面には天女の木彫が施され、妻の虹梁には雲の文様彫刻が見られます。風雪でかなり傷んではいますが、所々に丹塗の赤が見られます。本来は朱色の社だったのでしょう。(右)右の脇障子には竹に虎、左には牡丹に唐獅子。その上の尾垂木には竜の彫刻が施されていますが、この竜が脇障子の上の鉢木を飲み込むという珍しい意匠になっています。

(左)(中)本殿手前の右には白山社、山の神、天満宮社、竜王社などの石祠が。これは南方熊楠が猛反対した明治政府の悪政、合祀令の結果でしょうか。(右)本殿右の建物の内部。

(左)溜池の塩野池から見る拙書でも紹介の子檀嶺岳。山頂は真田の山城です。(中)その先の龍光院へ。弘安五年(1282)塩田城主北条陸奥守入道道祐(北条国時)によって父義政公の菩提を弔うために建立された古刹です。黒門の大欅は幹周り702センチで上田市の指定保存樹木となっています。(右)山門をさらに30mほど登ると、北条義政の慰霊の石塔があります。

(左)龍光院の山門右手に建つ羅漢堂。1282年塩田城主であった北条国時が父・義政の菩提を弔うために龍光院の前身・仙乗寺を開創したのに始まり、1601年龍光院と改め曹洞宗の寺院として再興されたということです。(中)本堂内部。(右)狩野永琳作の屏風。紙本花鳥人物屏風。四季の花鳥と七賢人が六曲一双の十二枚に描かれた大作で永琳の代表作です。永琳は明和4年(1767)前山の保科弥惣右ヱ門の二男として生まれ、江戸の狩野法眼永徳の門に入り類まれな才能を発揮し、師の信頼が厚かったそうです。師に代り京都御所の龍を描き、その完成間際に同門にねたまれ、文化5年(1806)に毒殺されたと伝えられています。

(左)次は独鈷山の一支脈である弘法山の北山麓にある塩田平に鎌倉文化を築いた北条義政(1242-1282)の居城といわれる塩田城跡へ。戦国期は、村上義清が福沢氏をおいて東信濃を統治させていたといいます。中世城郭としては長野県で最大級だとか。(中)発掘調査が行われた居城跡。発掘品は「塩田の館」で見ることができます。(右)三島社。

(左)未完の三重塔で有名な真言宗智山派 独鈷山(獨股山)前山寺(ぜんさんじ)。創建は、弘仁年中(810~823年)弘法大師によるといわれています。未完の三重塔は、前山寺のサイトには、「塔の建立年代は、資料がないのではっきりしないが様式上は室町時代の初期と推定されている」とあります。(中)趣のある本堂。(右)本堂内部。予約すれば名物のくるみおはぎが頂けます。

 三重塔は、国の重要文化財。和様・禅宗様の折衷様式。逆光になりますが、背景に独鈷山を借景に観るのが趣があって好きです。

(左)ちょうど正午になり、住職が鐘をつきに来ました。荘厳な鐘の音が幾度も塩田平に響いていました。(中)三重塔の双輪。(右)未完の塔といわれる理由ですが、写真の赤い矢印の箇所に何かを敷設するための切込みが見られることから。さらにその下に突き出ているのは、回廊を作るためのものだったと思われます。建造が中止になったのは、鎌倉幕府の滅亡と関係があるのではと私は考えています。

(左)そして、以前から訪れたいと思っていた戦没画学生慰霊美術館「無言館」。(中)戦没画学生の名が刻まれた記憶のパレット。左奥の山は独鈷山。(右)2008年に開館した第二展示館「傷ついた画布のドーム」。ドームの天井に貼られた習作のデッサンが印象的でした。ゆっくりと1時間ほどかけて鑑賞しました。湧いてきたのは哀しみよりも静かで強い怒りでした。己の利益しか考えない戦争屋により、夢や命を理不尽に奪われた若者たち。小4の漢字も書けないでんでん馬鹿首相が、ジャパンハンドラーズの手先となって日本を戦争に巻き込もうとしている現在は本当に危機的な状況です。どんな理由があろうが戦争で幸せになる人などいるはずもないのです。「無言館」ぜひ訪れてください。
一度だけでも見てほしい 信州上田「戦没画学生慰霊美術館 無言館」

 無言館から見る拙書でも紹介している山々。左から烏帽子岳、東篭ノ登山、西篭ノ登山、水ノ塔山、高峰山、黒斑山、浅間山。

(左)無言館第二展示館「傷ついた画布のドーム」庭の絵筆がはめ込まれたモニュメント。赤いペンキのわけ。右下にあるのは「開かないポスト」。(中)モニュメントの裏。(右)無言館から塩田平を望む。

 最後は、生島足島神社へ。月末ですが、初詣の善男善女が大勢参拝に訪れていました。
初詣は、信州の鎌倉・上田市塩田平の生島足島神社へ(妻女山里山通信)境内の詳しい説明も。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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真田幸隆と昌幸が眠る長谷寺、信綱の信綱寺、国楽館戸倉ホテル、姨捨駅、長楽寺(妻女山里山通信)

2017-01-09 | 歴史・地理・雑学

(左)昨秋、仲間と砥石城跡に登ったのですが、その時に行けなかった寺院巡りをしました。まず腹ごしらえにと、十割手打そば処福田へ。(中)天ぷら付もり蕎麦。をいただきました。青木村産のタチアカネの玄蕎麦を石臼で自家製粉した十割蕎麦です。蕎麦湯も飲んで満足して長谷寺へ。(右)真田山種月院長谷寺(ちょうこくじ)。連休なので参拝者が次々に訪れていました。『真田丸』のブームはまだ続いています。

(左)大きな藁馬(わらうま)。絵馬が奉納されています。(中)本堂内部。可愛い招き猫のおみくじがあったので求めました。大吉でした。(右)中央が真田幸隆、右に真田昌幸、左に幸隆の正室の恭雲院の墓。

(左)墓所全体の様子。後から来た地元のご婦人が、綺麗になったと、昔はもっと荒れていたと言っていました。(中)新しく立てられた真田信繁(幸村)の慰霊碑。賽銭は皆、六文銭の形に並べて置いてありました。私も囲いの上に並べてきました。(右)右脇にある石仏。

(左)次に、真田幸隆の長男の真田信綱が眠る大柏山信綱寺(しんこうじ)へ。そこから見上げる真田本城。(中)桝形から少し登って黒門。(右)その脇にある線刻の馬頭観音。ヒンドゥー教の最高神であるビシュヌが馬の頭に変化して敵を倒したとされる神話が起源。

(左)黒門からは、村上義清の砥石城跡が見えます。(中)楼門。(右)本堂。信綱の墓所は、右へ回ってコンクリートで舗装された急な細い道を登ります。

(左)真田信綱の墓。天正2年(1574)5月に幸隆が亡くなり家督を継ぎましたが、天正3年(1575)5月21日の長篠の戦いにおいて銃撃に遭い弟の真田昌輝と共に戦死しました。そして昌幸が家督を継ぎました。(中)楼門の四隅には獅子の木彫が。(右)上田に戻り柳町の旧北国街道沿いにある天然酵母のパン屋さんのルヴァンへ。以前、調布市のつつじヶ丘に工場があった頃は、小さな息子を連れてよく買いに行きました。息子を連れていったのは、必ずおまけをたくさんくれるからです。今回は大きなカンパーニュを買いました。前日のものなので割り引いて540円でした。ここのパンは本当に美味しい。有毒の柔軟剤を使っていないので、しばらく置くとカチカチになりますが、霧を吹いて蒸すと柔らかくなります。

(左)もう少し回りたかったのですが、雨が降ってきたので早めに新年会が行われる戸倉上山田温泉の国楽館戸倉ホテルへ。(中)レトロな昭和の雰囲気が漂う和室。和みます。(右)源泉かけ流しのお風呂。露天風呂のある風呂もあり、日替わりで男湯と女湯が入れ替わります。飲用もできます。次々に仲間が訪れ、N氏は手作りの野沢菜のおやきを持ってきてくれましたが、超絶美味でした。

(左)皆揃って宴会の始まり。今回は日本酒は初めだけにして焼酎をメインに。黒霧島、二階堂、いいちこを飲みました。それとK氏とS氏が作ってきたどぶろくを2本。こういうわがままができるのも、ここの主人が高校の同級生だからなんです。(中)食事はお膳で郷土会席料理。これにさらに大きなブリのカマ焼きがつきました。ボリューム満点です。左にある信州の郷土料理の鯉こくも美味。まず右下のとろろ蕎麦でお腹を満たします。よく食べて飲みました。会話のレベルは非常に高く専門的で、いつもいい情報が得られます。(右)朝食。これで酒代も入れて15000円弱とリーズナブルです。お土産に六文銭まんぢうと干支の絵が描かれた湯飲み茶碗を頂くのも恒例です。

(左)翌朝の千曲川畔にある駐車場から見る温泉街。(中)そのまま直帰もつまらないのでスイッチバックで有名な姨捨駅へ。松本行きの普通列車が、長野行きの快速列車の通過待ちをしていました。快速列車の運転手は若い女性でした。近所に勤めている女性がいるのですが、もしかしたら彼女かな。(右)ホームのベンチは善光寺平方面を向いています。日本三大車窓の絶景が有名ですが、ガスがかかって何も見えません。ここからの夜景は、それは見事です。ぜひ映画やアニメで使ってください。駅前には駐車場はないのですが、長野方面に200mほど行った三叉路の先に姨捨駅専用駐車場があります。またホームへは無料で入れます。

 普通列車は年配の男性が運転手で、若い男性が車掌でした。列車勤務はトイレにも行けないし、変速シフトだし、必ずしも土日や祭日が休みではないので、大変だろうなと思います。人の命も預かっていますしね。2015年の時と異なり、今回は撮り鉄はいませんでした。不景気が原因ですかね。
姨捨駅の上の姨捨SAのさらに上にある403号の千曲川展望公園からの善光寺平暮色

 次に訪れたのは、駅の下にある姨岩のある長楽寺。2015年の初詣は息子達とここに参拝に来ました

 最後に妻女山展望台へ。茶臼山も北アルプスも見えません。完全に上雪(かみゆき)でこちらは雨降りだった様です。松本や飯田の方が積雪がありました。しかし、冬の本番はこれからです。酉年は、過去に天変地異が多く発生しているというデータもあるそうです。平穏な年であるといいのですが。政治的には国民の生活や命を粗末にする現政権が完全崩壊するといいなと思います。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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佐久間象山大砲試射地から諏訪立川流山門の興正寺。象山の定宿だった伴月楼へ。象山神社と松代城(妻女山里山通信)

2017-01-04 | 歴史・地理・雑学
 夜に食べるタラバガニ入り「小田巻き蒸し」の用意をささっと済ませてお出かけ。うどんは千曲市のユメセイキの手打ちです。「苧環蒸し」は、「小田巻き蒸し」とも書きますが、うどん入りの茶碗蒸しのことで、大阪の船場あたりでよく食べられていたちょっと豪華な料理です。昔、卵は高級食材だったのですから、その卵をたくさん使う苧環蒸しが高級料理だったのもうなずけます。丼の底で渦を巻くうどんの様子が、紡いだ麻糸を玉のように巻いた苧環(おだまき)に似ていることから「おだまき蒸し」の名がついたといわれています。

(左)最初に向かったのは、千曲市生萱の沢山川辺りにある佐久間象山の大砲試射地。石碑がありますが拓本は禁止されています。(中)拓本。近所の家で買えます。そういうことかい(笑)。(右)これが石碑の文章です。砲弾は屋代の一重山を越えて幕府領の満照寺に着弾とよくいわれていますが、これはでっち上げ。佐久間象山を快く思わない人達が地元の子供に駄賃をあげて実際は一重山手前に着弾したものを運び上げて満照寺に落としたものだそうです。こちらの記事を御覧ください
 全国的には、「さくましょうざん」で通っていると思いますが、地元では「さくまぞうざん」というのが普通です。

(左)中央ちょっと右にある小山が今は一重山(山頂は屋代氏の屋代城跡)なんですが、本来は小島山で本当の一重山はその右にの低いところ。妻女山と同じく国土地理院が勝手に名前を移動したのです。いずれにしても当時の松代藩が試射した大砲の射程距離は2キロぐらいで、一重山を越えることは不可能です。(中)試射地脇の本誓寺橋。本誓寺という寺院は、現在の生萱や倉科にはないのですが、往古にはあったようです。詳しくはリンクの信濃・本誓寺をお読みください。リンクでは、「童子が述べた「西の寺」との言葉と親鸞らが川を渡った位置との関係が問題になるが」と書かれていますが、当時の千曲川の流路は現在と全く異なるものだったので整合性はあると思われます。ちなみに現在の一重山の南側(写真左)はえぐれていますが、これは砕石業者が山を取り崩したのです。空堀など城跡の遺構が失われたといいます。森将軍塚古墳もそうですが、昭和の乱開発の犠牲になったのです。斎場山も旧更埴市時代に地権者に無断で林道を造っています。
(中)本誓寺橋。(右)ジャコウアゲハを守る会の看板。アゲハモドキ(擬鳳蝶蛾)というジャコウアゲハにそっくりな蛾がいます。

(左)次はあんずの里森の母方の祖母が眠る大城山興正寺へ。(中)本堂の内部。(右)ここの山門には、天才と呼ばれた諏訪立川流の和四郎富昌の子持ち龍の木彫があります。当時彼は八幡の武水別神社の再建中でした。そこで、森出身の弟子・宮尾八百重を案内役に住職、世話人、名主らが建築現場に赴き建築を依頼。引き受けた富昌は三月頃から、父富棟が寛政二年(1789)に建築した善光寺大勧進の表御門形式を参考に絵図面を制作。四月には八百重の家に投宿し近くの薬師山に登って酒宴を催し、満開の杏花を愛でたといわれています。夜は篝火の下で鼓を鳴らし謡曲の「鞍馬天狗」を吟じ、見事な龍を描き上げ、村人や近郷近在の話題をさらい、村では日本一の宮大工が来たと喜んだそうです。興正寺は、浄土宗西京大谷知恩院の末派で、創立年は不詳。
 実は友人に宮彫りの研究家がいるのですが、彼をこの世界に引きずり込んだのが私で、その原点がこの木彫なのです。彼の『北信濃寺社彫刻と宮彫師』のブログの2016年12月23日の記事に、この山門が詳しく紹介されています。ぜひ御覧ください。

 子持ち龍。和四郎富昌の作品は、京都御所の建春門の「蟇股(かえるまた)の龍」、遠州の「秋葉神社」、諏訪の「諏訪大社下社拝殿」、善光寺大勧進御用門「江梁の龍」、松代町西条の白鳥神社の「神馬」などがあります。また、同市屋代の須々岐水神社、土口の古大穴神社にも富昌の作があります。左右にある波の彫刻は、葛飾北斎の影響を受けたものともいわれていますが見事です。

 非常に迫力があります。また透かし彫りも見事です。この近くの岡地地区の天満宮には、幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」がありますが、結局、善光寺五重塔は、江戸幕府の許可が降りずに建てられることはありませんでした。その前の唐獅子は富昌の作です。(出典:生前伯父が執筆した『岡地探訪乙路の県天満大自在天神とその周辺』岡地天満宮刊より)

(左・中)精緻な木彫は必見です。(右)「旧阿吽(あうん)獅子」嘉永四年 尾張なんとかと書いてある瓦。これも見事なものです。

 冬景色だけではなんなので、昨年の4月に杏が満開だった時の興正寺裏から見たあんずの里の風景です。桃源郷ならぬ杏源郷です。春が待ち遠しい信州ですが、本格的な冬はこれからです。

 最後は、佐野川温泉竹林の湯へ向かいましたが、その隣りにある佐久間象山が定宿としたという伴月楼記念館へ。実は一般住宅なので現在は閉館中。外観だけを撮影させていただきました。「(伴月楼)記念館百話」 ~関家が伝える逸話~
 撮影後温泉に入り温まって帰宅しました。

(左)佐久間象山といえばやはり象山神社。仕事始めの方も多く、社員総出でお参りの会社も。下乗とは馬や車を降りてということです。学問の神様として受験生に人気があります。象山の正室は門弟勝海舟の妹順子ですが子がなく、嫡子は側室お菊の生んだ恪二郎です。象山の敵を討つべく新撰組に入りましたが、生来のわがままで役立たず、後に司法省に入りましたが、食中毒で29歳で亡くなっています。象山はケツがでかい女がいいと言っていたそうですが、勝海舟の娘はたぶんそうだったのでしょうね。でも子ができませんでした。多産とお尻の大きさは無関係です。(中)佐久間象山が安政元年(1854年)から約10年間の蟄居中に住んでいた松代藩家老望月主水の下屋敷聚遠楼の敷地内にあった建物。来客があるとこの2階に招き、応対したそうです。中岡慎太郎や高杉晋作も訪れています。(右)心の池。この向こう側の小径を行くと象山の生家跡。

(左)生家跡の片隅にある煙雨亭は、象山が元治元年、凶刃に倒れるまでの2ヶ月間を過ごした煙雨楼の遺構で、 煙雨楼の茶室を移築したもの。煙雨楼は2階家で京都木屋町の鴨川畔にあったそうです。(中)神社右手の泉水路。各家々の庭をつないでいるものもあります。黒澤明監督の『椿三十郎』を思い出します。
城下町松代(殿 町地区)に おいて江戸時代に造られた 泉水路の形成過程とその用途
庭園都市松代の推進 - NPO法人夢空間松代のまちと心を育てる会
(右)近くの象山記念館にある写真。小学校の家庭科室に大きな肖像画がありましたが、どこか日本人離れした風貌ですね。電気治療器は妻で試したとか。最初の携帯電話も展示されています。ペリー来襲の時に松代藩は横浜の警護を命じられ、象山は横浜に赴きます。彼の活躍には時の松代城主・真田幸貫の力もあります。
 象山は儒学者・科学者・医者・砲術家で、日本最初の電信実験をし、地震計、医療器、写真機など数多くの科学実験をしました。その多彩な才能には驚かされますが、それ以上に、世界的な視野から日本の行く末を見つめる視点を持っていたことに驚かされます。後に勝海舟にまでほら吹きなどといわれましたが、結局鎖国が続いた後の日本では、彼の才能と見識を真に理解できる人は誰もいなかったのでしょう。ただ、そんな象山も、明治維新が英仏金融勢力による日本隷属を企て、明治維新は結局彼らが薩長の田舎侍を利用したクーデターになるとは、想像もできなかったのではないでしょうか。
 今回初詣に訪れた神社には、憲法改正のビラやアンケートは一切なかった。しかしお賽銭の一部が悪名高き神社本庁に上納されることはあるのだろうか。賽銭は松代藩の六文銭にちなんで五円玉6個で30円と決めているのですが…。

(左)続いて『真田丸』で訪問者が激増した真田信之の松代城。太鼓門。(中)櫓台。(右)櫓台から東北東を見るとモーニング娘。17の羽賀朱音ちゃんが通った松代中学。私の母校でもあります。サッカー小僧で、編集委員長でした。校章は真田の結び雁金です。
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信)
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その2(妻女山里山通信)

 櫓台の北西にある絵図。二の丸北西の土塁上にあった「知身貴亭」という茶室から松代の北部を望んだ風景です。19世紀中頃に描かれたものだそうです。左から北アルプス、虫倉山、陣場平山、富士ノ塔山と続き、右へ戸隠連峰、戸隠富士と呼ばれる高妻山。一番右に長野市民の山、飯縄権現が祀られる飯縄山。そして手前には千曲川が描かれています。

 復元された太鼓橋と太鼓門越しに見る斎場山(旧妻女山)。上杉謙信が本陣としたと伝わる山頂で、円墳です。展望台のある現在の妻女山は、本来は赤坂山で、柳の木の向こう辺りです。お堀の水は少なめで、鴨が悠々と泳いでいました。

(左)最後は2012年に廃線になった長野電鉄屋代線の松代駅。中学生の時はこれで通いました。サッカー部の練習が終わって帰る際に空腹に絶えきれず、駅前の母の同級生がやっていたラーメン屋に先生の目を盗んで飛び込んだものです。(中)駅の内部。昔は壁の上部に松代映画館で上映のポスターが貼られていました。石原裕次郎とか清水の次郎長とか。ちょっとエッチなポスターの時には、出会った先生に見るなとか言われました。(右)切符は硬券でした。廃線になる直前は、全国から鉄道マニアが訪れました。線路跡はサイクリングロードとして復活します。このサイクリングロードを起点として里山トレッキングや山城、古墳巡りもできそうです。そんな本を作りたいですね。正月には、このコースを走っている女性もいました。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
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