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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

佐久間象山を祀る松代の象山神社へ。象山の大砲試射地へも。明治維新の真実は。晩白柚の浮かぶ万葉超音波温泉(妻女山里山通信)

2018-12-22 | 歴史・地理・雑学
 新たに明治維新の志士の銅像が祀られた象山神社を訪れました。学問の神様なので、初詣には受験生やその父母が大勢参拝に訪れます。後背には象山の名の元となった拙書にも載せている象山がそびえています。麓には象山の名の元となった中国から訪れた隠元禅師を祀る黄檗宗(おうばくしゅう)象山(ぞうざん)恵明禅寺(えみょうぜんじ)があります。第二次世界大戦の遺構、象山地下壕とともに訪れることをお勧めします。
象山神社公式ホームページ

 象山神社の境内案内図も刷新されました。象山記念館もぜひ訪れてください。

(左)佐久間象山の騎馬像。当地ではしょうざんではなく、ぞうざんと呼んでいます。私が通った清野小学校の家庭科室には彼の肖像画が飾ってありました。(中)象山神社。(右)鳥居をくぐって左手に心字池。

 拝殿。その後背に本殿。建築は象山殉難五十年祭を契機に神社建立が計画され昭和十三年に県社として創建された新しい神社。新しいので特に見るべき木彫はありません。右のご神木はイロハカエデ。松代初代藩主真田信之の寵臣で信之に殉死した鈴木右近忠重の子孫の屋敷跡があった場所で、その庭にあったものを移植したもの。

 佐久間象山が安政元年(1854年)から約10年間の蟄居中に住んでいた松代藩家老望月主水の下屋敷聚遠楼の敷地内にあった建物。来客があるとこの2階に招き、応対したそうです。中岡慎太郎や高杉晋作も訪れています。

 松代藩主 真田幸貫公と佐久間象山の銅像。地球儀を持つ象山。
 佐久間象山は儒学者・科学者・医者・砲術家で、日本最初の電信実験をし、地震計、医療器、写真機など数多くの科学実験をしました。その多彩な才能には驚かされますが、それ以上に、世界的な視野から日本の行く末を見つめる視点を持っていたことに驚かされます。後に勝海舟にまでほら吹きなどといわれましたが、結局鎖国が続いた後の日本では、彼の才能と見識を真に理解できる人は誰もいなかったのでしょう。ただ、そんな象山も、明治維新が英仏金融勢力による日本隷属を企て、明治維新は結局彼らが薩長の田舎侍を利用したクーデターになるとは、想像もできなかったのではないでしょうか。

 象山の正室は門弟勝海舟の妹順子ですが子がなく、嫡子は側室お菊の生んだ恪二郎です。象山の敵を討つべく新撰組に入りましたが、生来のわがままで役立たず、後に司法省に入りましたが、食中毒で29歳で亡くなっています。象山はケツがでかい女がいいと言っていたそうですが、勝海舟の娘はたぶんそうだったのでしょうね。でも子ができませんでした。多産とお尻の大きさは無関係です。

 心の池。この向こう側の小径を行くと象山の生家跡。生家跡の片隅にある煙雨亭は、象山が元治元年、凶刃に倒れるまでの2ヶ月間を過ごした煙雨楼の遺構で、 煙雨楼の茶室を移築したもの。煙雨楼は2階家で京都木屋町の鴨川畔にあったそうです。

(左)心の池の無事カエル(帰る)大明神。交通安全の神様です。(中)後背にそびえる象山。拙書でも紹介していますが、ぜひ登ってみてください。桜の季節は特にお勧めです。(右)昔は松代の街中にあった神社右手の泉水路。各家々の庭をつないでいるものもあります。黒澤明監督の『椿三十郎』を思い出します。

 千曲市生萱の沢山川辺りにある佐久間象山の大砲試射地。砲弾は屋代の一重山を越えて幕府領の満照寺に着弾とよくいわれていますが、これはでっち上げ。佐久間象山を快く思わない人達が地元の子供に駄賃をあげて実際は一重山手前に着弾したものを運び上げて満照寺に落としたものだそうです。

 冷えた体を温めに戸倉上山田温泉の万葉超音波温泉へ。大きな晩白柚が30個ほど浮かんでいました。柚子も。温まって帰りました。

 明治維新は欧米金融機関の傀儡となった薩長や土佐藩の田舎侍が起こしたクーデターでした。写真の明治天皇はなりすました大室寅之祐か。
「明治維新オールスター写真は本物」ツイッターで相互フォローしている佐伯まお氏のブログ記事上の写真は氏のブログからお借りしました。このブログ記事の明治天皇の若き頃の写真と天皇時代の写真は、どう見ても同一人物。詳しくは田布施システムで検索を。こう書くと、私が天皇制反対と思われるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。海外に何度も放浪や旅をしてきた時に、皇室の凄さも知ったのです。天皇皇后の外交力というのは、外交官100人にも勝るものです。政治力を奪われ、職業選定の自由もなく、つまり基本的人権もないわけで、日本のために勤しんでいるわけです。天皇=エンペラーは、国王女王、ローマ法王よりも格上なのです。完全な平等など存在しません。旧ソ連の共産主義も、極一部の特権階級とそれ以外の貧民を生み出しただけでした。ブラック企業並みの激務をこなす天皇や皇后には、常人には絶対に務まらないと思います。昔、有栖川記念公園の坂を、朝散歩で登っていたら、角から白バイと先導車が。続いて黒塗りの大きな車が。突然1m前の車の後部の窓が開き、美智子さんが私のためにお辞儀をしてくれました。おはようございますとお辞儀をしましたが、いやあこんな朝早くから大変だなとつくづく思ったことがありました。私には無理です。昭和天皇は極悪人でしたが、それを分かっていた平成天皇は壮絶な努力をしたのでしょうね。
「田布施システム」と明治天皇替え玉説 長州藩は長年、南朝の末裔をかくまってきたという。桂小五郎・伊藤博文ら長州の志士たちは、この南朝の末裔を天皇にして政権を取ろうと考えた。攘夷派だった孝明天皇(北朝)と息子を暗殺、大室寅之助少年を即位させたという。明治維新のプロセス全体が、ロスチャイルド系商社のプロデュースによるものだという話。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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松代中学に通った長野電鉄屋代線を松代駅から屋代駅まで辿る小春日和の日曜日(妻女山里山通信)

2018-12-02 | 歴史・地理・雑学
 紅葉は終わってしまったし、少々疲れ気味の日曜日。ということで、買い物や用事ついでに2012年4月1日に廃線となった長野電鉄屋代線を辿ってみました。松代中学への通学に毎日乗っていました。当時は大正10年製造の古い車両がメインでしたが、たまにスイス風の2000系のD編成の特急車両が各駅で来ることがあり、その日は本当に嬉しかったのを覚えています。その頃は河東線といっていました。千曲川の東を走る線路だからです。世界的アコーディオン奏者のcobaやモーニング娘。18の羽賀朱音ちゃんも乗ったでしょう。
日本を走る鉄道車両図鑑 長野電鉄2000系

 松代駅。長野電鉄の中で最も古い駅舎です。中学生のときは、そこに見えるベンチで電車を待ったこともありました。駅の待合室には、映画のポスターがたくさん貼ってありました。若大将の加山雄三とか、ヤクザ映画とか。ちょっとエッチなポスターは、先生が笑いながら見ないようになと言ったり。

(左)松代駅前。寂れていますが、昔からこんなです。サッカー部の帰りに空腹を我慢できず、駅前の母の同級生がやっていたラーメン屋に飛び込んだこともありました。(中)駅のある場所に置かれたポイント切り替えのレバー。(右)『汽車ポッポ』の石碑。

「駅舎と跡地の現状」。東屋代は、母校の駅。夏は下駄を履いている輩が多かったですね。通学時にはカランコロンという音が響きました。岩野駅は上杉謙信の本陣、斎場山の麓。春の桜が見事でした。電車の本数が少ないので、よく松代駅から象山口駅まで友人と歩きました。真夏に用水から浮かび上がった人魂を見たり、真冬の駅前の小川で氷に乗って遊んでいたら割れて落ちて、下半身ずぶ濡れで電車に乗って帰ったこともありました(笑)通学時には近所のグラマーで美人のお姉さんがタイトスカートとシームの入ったストッキングでお尻をふりふり通勤していく後をついていくのが日課でした(笑)。

 昔は須坂は凄く遠いところだと思っていました。でも車で行くと近いんですよね。屋代線は屋代−須坂まで23キロぐらいしかないんです。自転車で余裕の距離です。

「雄姿な電車と鉄道施設」。東急車輛とか小田急のロマンスカーとか、後期ですね。昭和40年ごろだったか国鉄の信越線から河東線に志賀高原に向かうスキー列車が乗り入れていて、小学校の通学時に何度も見たことがありました。今は昔。

「線路撤去と活用状況」。一部は遊歩道やサイクリングロードになっているようですが、長野市の区間はほとんど進んでいません。本当に長野市の行政は駄目だなと思います。全面サイクリングロードにすれば、自転車通学の学生が安全に通学できます。とにかく県庁所在地だというのに駅前が悲惨です。国際的に通用するホテルさえない。長野駅から善光寺までなにもないし遠すぎる。長野市民ですが、遊びに行くのは松本。長野はつまらない。本気で街づくりをするべきです。よそ者若者馬鹿者を受け入れる度量が必要です。私も請われれば参加したいと思っています。

 左下のスイス風車両が懐かしいです。しかし、廃線に反対の声は思いの外少なかったですね。バスが復活するならそれでいいと、松代病院に通う老人も言っていました。しかも停留所が2つできて便利になったと。

 松代城跡から見る松代駅舎。左奥にそびえるのは、真田幸隆に攻略された東条氏の山城がある尼厳山。拙書でも紹介していますが、非常に面白い里山です。

 松代城のお堀。真鴨が泳いでいました。観光バスや観光客の車も。黄色い柳の黄葉と左の緑の樹木の間に見える丸い山が、上杉謙信が本陣とした斎場山(旧妻女山)です。展望台のある現在の妻女山は旧赤坂山で謙信の本陣ではありません。ここのところを歴史作家や歴史研究家が知らずに間違いを犯しています。

(左)妻女山(旧赤坂山)の尾根の先端を屋代線は巻いていました。母校の清野小学校のすぐ近くです。カーブから突然電車が出てくる非常に危険な踏切で、私が通っていたころは遮断器もありませんでした。しかし、90年の開業時代に一度も踏切事故はなかったのです。(中)屋代線の土口トンネル。屋代線には、もうひとつ大室にトンネルがあります。(右)始発終点の屋代駅。現在はしなの鉄道のみです。大学生時代、上野から特急浅間で帰り、屋代駅で夜に河東線に乗り換えて帰ったものです。

 撮影を終えて温泉に入って帰る道すがら。北アルプスの白馬三山が映えていました。里は向こうが稲刈りが終わった田んぼ。手前の緑は麦です。だぶん千曲市名産のユメセイキでしょう。非常に美味しい小麦です。冬なのに春みたいな風景ですね。

 素晴らしい動画です。彼女は京王線や資生堂のCMでもおなじみです。澄んだ歌声が大好きです。
◉長野電鉄屋代線90年 24.4kmの思い出 ありがとう屋代線 熊木杏里


『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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2018 中尾山ハイキング。紅葉狩りと歴史探索と北アルプスと日本の原風景・棚田を散策。夜交氏(妻女山里山通信)

2018-11-03 | 歴史・地理・雑学
 今年も長野市・川中島と篠ノ井の中尾山ハイキングのインタープリターを務めさせていただきました。通常はインストラクターといいますが、インタープリターは、里山の自然を歴史を含めて解説する更に奥深い、大学レベルの講義に相当する情報を提供するものです。それをできるだけ分かりやすく、面白く解説するのが私の約目です。
 昨年は歴史のハイキングで麓をハイクしましたが、今回は一本松峠の向こう側の旧山布施村夜交まで行きます。

(左)快晴の8時半に出発式。高校時代からの友人で、妻女山里山デザイン・プロジェクトのメンバーでもあるN氏が今回のコースを説明。この後私が動的ストレッチをみなさんと行い出発です。(中)舗装路を登ってお見合い風呂で有名になった中尾山温泉松仙閣。前方には裾花凝灰岩の白い山が見えます。(右)昨年同様普段は入れない砂防ダムのコースを登りました。真ん中に空間があり、大きな岩や倒木はブロックしますが砂は流れる形式の砂防ダム。

 裾花凝灰岩の白山を借景に燃える紅葉。左下の紅葉はヌルデです。ヌルデの非常に面白い性質は検索してください。聖徳太子とも関係があります。果実の表面にあらわれる白い粉のようなものはリンゴ酸カルシウムの結晶であり、熟した果実を口に含むと塩味が感じられます。信州の山村では昔これを塩の代わりに使用したという言い伝えもあります。江戸時代に女性が使ったお歯黒がこれです。

(左)登山道の真ん中にムラサキシメジ。豆腐と澄まし汁にすると美味です。フランスではピエ・ブルーといって高級キノコです。バターやクリームとあいますが、このキノコのおやきも美味です。(中)今回の最高地点の一本松の峠です。旧今井村と山布施村の山を巡っての抗争の歴史の看板があります。ここで大休止。西側に下ります。(右)里に出る途中のイノシシ牧場。種イノシシでしょうか相当大きなものがいました。我々が来たので興奮して激しく走り回り始めました。この後、この牧場の持ち主が軽トラで登ってきてすれ違いました。ジビエとして市場に出しているそうです。

 森から出て視界が一気に広がりました。わあっと歓声が。北アルプスが一望できます。左に仁科三山(爺ヶ岳・鹿島槍ヶ岳・五竜岳)、右に白馬三山(白馬鑓ヶ岳・杓子岳・白馬岳)。その右手前に神話の山・旧中条村の虫倉山。信州の里山の原風景です。おそらく縄文弥生時代の人も、戦国時代の人も、江戸時代の人もこの風景を見ていたのでしょう。こんな美しい風景の中でなぜ人は殺し合いをするのか。愚かです。

 白馬三山と右手前に虫倉山。神城断層地震で山頂が4割崩壊してしまいました。残りの四割にクラックが入り、大地震があれば崩壊必至の状況です。その状況は記事にしていますので虫倉山でブログ内検索をしてください。江戸時代の善光寺地震での虫倉山山体崩壊も記事にしています。ここまでが松代藩の領地でした。

(左)一本松から山布施に下ります。溜池がたくさんあります。埴科更科や塩田平は瀬戸内と並んで、日本で降水量が最も少ない地域なのです。よって先人は溜池を作りました。その数は集落の戸数よりも多いほどです。(中)とある溜池で地元の方のお話を聞きます。この地でどう生きてきたか、この地の自然など。非常に貴重なお話を聞くことができました。交尾中のアカトンボが何組も舞っていました。通常は猪や鹿の被害を防ぐための電気柵を特別に開けていただき畦(あぜ)道を歩きました。(右)そして、夜交の集落へ。

 棚田から見る仁科三山。中央の雲がかかっている鹿島槍ヶ岳は、右の平家の落人が隠れ住んだと伝わるかくね里の谷が、日本で五番目、信州で初めての氷河であると信大の研究チームにより認定されました。鹿島槍ヶ岳の名称の元は鹿島神宮です。現在その麓には鹿島という集落があり、鹿島神社が祀られています。稲刈りが終わって冬支度が始まる里山です。

(左)今回の昼食と交流会の場所。唐木田陶苑です。思い思いに昼食を頂いた後。インストラクターの講演がありました。私は最後に、この夜交(よまぜ)という小さな集落の歴史を話しました。祖を藤原氏とし、中野氏の一族が南北朝時代に夜間瀬氏を名乗ったことを話しました。川中島の戦いで夜間瀬氏は上杉方と武田方に別れたようですが、武田が滅びた後、豊臣秀吉の国替えで上杉景勝が会津へ移封になった際に、善光寺平の土豪は景勝の家臣だったため、家族家来全員を連れて会津に移りました。武田についたもの達が密かに移り住んだのか。どうしても残りたい人々が、山布施の山奥に隠れ住んだのか。その理由は色々推察できますが。これという明確なものは不詳です。幸運なことに夜交在住の方が参加されていて、古い墓石に五輪の塔や宝塔の墓石があることが分かりました。つまりこの夜交の集落は、戦国時代に移り住んだことが分かったのです。夜間瀬では、そのままで分かってしまうので、夜交と改名したのでしょうか。(中)唐木田陶苑の庭からの眺望。ここでは松代焼の陶器を買うことができます。我が家にもたくさんありますが、昔の松代焼は今のものとは釉薬とかが違うのですね。非常に魅力的な作品を作られているので唐木田陶苑で検索してみてください。(右)六地蔵。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を表すものです。

(左)夜交から一本松に戻ります。寒風もなく絶好のハイキング日和でした。(中)山布施のしみじみと心に残る風景。癒やされます。(右)一本松を超えて善光寺平が一望の場所。たわわに実ったリンゴが見事です。一日一個リンゴを食べれば医者要らずといわれます。こんな風景を見慣れているはずの信州人も、この風景を見ると綺麗だな、美味しそうだなと思います。今回のハイキングに参加すると、長野牛乳のミルクと、共和のリンゴがもらえます。来年参加されてはいかがですが。交流会では、拙書の販売もありましたがたくさんお買い上げいただきありがとうございました。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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猛暑の東京へ。飯綱大権現を祀る高尾山薬王院とミシュラン三ツ星の高尾山へ(妻女山里山通信)

2018-08-06 | 歴史・地理・雑学
 8月5日、妻女山里山デザイン・プロジェクトのメンバー3人と所要があり車で上京しました。午後は首都高から中央高速を走って高尾山へ。私は学生時代から何十回も登っていますが、彼らは初めてなので案内しました。しばらくぶりに登る高尾山は、様変わりしているところもあれば昔通りのところもあり、しみじみといい山だなと思いました。YouTubeでも縦走コースを含めたくさんアップしているのでご笑覧ください。下に冬の相模湖から高尾山へ霜柱の氷の花を求めて登ったスライドショーをアップしました。

(左)首都高から中央高速へ。右には競馬場、左にビール工場の中央フリーウェイを走って高尾山へ。この道はまるで滑走路。by ユーミン。(中)高尾山口駅前の駐車場が満杯なので近くの民家がやっている駐車場へ。田んぼの小道を歩いて高尾599ミュージアムへ。初めてです。外観は和風ですが。(右)内部はモダン。展示が素晴らしい。

(左)高尾山のムササビ。木から木へ飛翔します。(中)大海を渡ってくるアサギマダラ。昔、息子達と登った高尾山から縦走できる藤野町の陣馬山で目を見張る大群に出会ったことがありました。(右)高尾山の植物やキノコなどがアクリルに綺麗に封じ込められています。バイオリンの演奏もありました。カフェレストランや子供達が遊べるスペースもあります。イベントも行われる様です。

(左)まずは腹ごしらえで高橋家へ。(中)鴨せいろ。蕎麦処の信州人ですし自分で蕎麦を打つほどの連中なので、観光地の蕎麦で大丈夫かなと思いましたが、まあそこそこ満足してもらえましたかね。正直言うと高尾山の蕎麦のレベルは高くはないです。(右)さて高尾山へ行きましょう。といっても車中で温度計が37度。一時38度になりました。こんなもの稲荷山コースとか登ったら熱中症間違いなし。ケーブルカーの往復切符を買いました。

(左)昔はこんな看板ありませんでした。ハッピーマウンテン高尾山商店会案内図。このパンフレットもあります。(中)15分毎に出発するケーブルカーに乗ります。蒸し暑いです。(右)上の駅から少し歩いて、昔ドラマで有名になった十一丁目茶屋。テラスからの見晴らしが最高なのですが、たいてい埋まっています。

(左)その先の猿園の前で売られていた鷺草。涼やかです。猿園は小さかった息子達を連れて来ました。昔は檻がなく直に触れ合いができましたね。その緊張感がたまりませんでした。幼児だった次男がフリーズしたのは爆笑ものでした。(中)蛸杉。落枝や外国人観光客が増えてマナーが問題になった様でフェンスの中に。下のスライドショーでは、昔の蛸杉が見られます。(右)男坂と女坂。初心者は急で長い石段を見て行きに女坂、帰りに男坂を選ぶのですが間違い。女坂はダラダラとした結構ハードな急坂。元気のいい登りに男坂を登り、疲れた帰路に女坂を下るのが正解です。

 高尾山薬王院御本堂。学生時代から何十回と登っている高尾山ですが、本堂の木彫を繁々と観たことはありませんでした。改めて観ると素晴らしい宮彫りがありました。
高尾山薬王院公式ホームページ:御由緒、歴史などはこちらで。

(左・右)飯綱大権現を祀る薬王院の烏天狗。白狐に乗った烏天狗は、信州長野市の飯縄神社の祭神です。これは古代に日本に住み着いたユダヤ人であるという説があります。妻女山展望台で出会った、ミッション系の大学を出て、その研究をしている男性が、古代のユダヤ教に伝わる話を聞かせてくれたことがありました。全国に残る徐福伝説とかも関係があるのでしょうか。

(左・右)御本堂の木鼻などにあしらわれた木彫。唐獅子と龍。欅の見事な木彫ですが、流派・作者は不詳です。

 さらに登って高尾山薬王院御本社。本堂と本社。神仏習合の名残ですね。御本堂とは違い華麗な色彩が見事です。手前左右に烏天狗のブロンズ像。ミシュランの三ツ星になったので、年間250万人の登山者が300万人になりました。外国人も多く見られます。

(左)飯綱大権現の額。(中)木鼻には、貘と唐獅子。右奥に白狐が見えますが。飯縄神社の祭神は、白狐に乗った烏天狗です。そして上杉謙信の兜の前立です。武田信玄との関係も深く、このことについては拙書でも飯縄山の頁で詳しく書いています。(右)その上に奥ノ院。さらに左奥には富士山の浅間社があります。

(左)山頂に向かいます。途中で咲いていたキキョウ(桔梗)。(中)599.15mの高尾山山頂。茶店とビジターセンターがあります。あいにく富士山は見えませんでした。茶店でビールとかかき氷とかおでんとかを。山頂には諸国十三州を望む看板があります。探してください。(右)下山の途中で見つけたレンゲショウマ。

 ビアガーデン目当てでしょうか、ケーブルカーで大勢の人が登ってきます。ビアガーデンの下から望む東京。冬の晴れた日ならば、スカイツリーや東京湾、横浜ランドマークタワーや江ノ島も見えます。

(左)高尾山ジャンクションから圏央道経由で鶴ヶ島で関越へ。信州に帰ります。佐久パラダの夕焼け。信州に入ると空気が変わります。(中)関越の上りは可哀想になるほどの長い大渋滞でした。在京時代は、いかに渋滞にはまらないか腐心したものです。(右)浅間山は雲の中でした。信州も暑い日で千曲市は38度になったとか。しかし、湿度が低いのと朝晩は21度から23度まで下がります。そして、善光寺平は北風が吹くのです。我々には体も想いも暑く長い一日でした。奇跡が起きることを祈ります。

【東京の里山】高尾山 Mt.Takao(Takaosan) in Tokyo:相模湖畔の小仏城山からミシュラン三ツ星の高尾山へ。真冬にシモバシラの氷の花(霜柱)を求めて縦走したスライドショー。自然が織りなす素晴らしい造形です。


『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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日本最古の神明造りの国宝・仁科神明宮と、七色大カエデとカミツレの咲く大峰高原(妻女山里山通信)

2018-06-13 | 歴史・地理・雑学
 安曇野から善光寺平に戻るのですが、まず大町市にある国宝の仁科神明宮へと向かいました。千国街道(糸魚川街道:147号)を北上し、高瀬川を渡って池田町へ。51号を北上すると、右に仁科神明宮の大きな看板が見えてきます。案内に従って1キロほど登っていくと一の鳥居に着きます。
仁科神明宮 公式ホームページ
仁科神明宮|わが国で唯一の国宝の神明造の建築物|大町市
仁科神明宮(信濃大町だより):神明宮はもちろん、神仏習合の時代の仁科神宮寺についての記述が興味深い
仁科神明宮:wikipedia

(左)一ノ鳥居。笠木の下の貫(横木)が柱を突き抜けていないので伊勢系と分かります。広い駐車場は突き当りの右でトイレもあります。ペット同伴は禁止。(中・右)仁科神明宮の石碑を右に見て入ると左手に御神木の三本杉。中央の杉は、昭和54年に突風で倒れ、切り株が保存されています。また右の杉は参道方向に傾いていて鉄管で支えられていますが、かなり心もとない状態です。

(左)「示」祭神は、天照大神。(中)社叢(しゃそう:鎮守の森)の説明。杉・檜が主で、赤松・栗・小楢・栂・樅など。樹高50mを超える大杉もあるとか。社叢は793mの宮山に向かって逆漏斗状に伸びています。(右)国宝に指定されている本殿と中門(前殿)の説明。

(左)手水舎で口と手を清めます。(中)左を向くと二ノ鳥居。左に社務所(休憩所あり)、右に神苑内の池があります。参道を進み石段を登ると三ノ鳥居。(右)くぐって進むと神門。ひんやりとして厳かな雰囲気に包まれますが、あいにく工事の最中で、ガードする黄色い馬があるのが残念でした。

(左)左手にはたくさんの境内社。諏訪社や加茂社、九頭竜社もあります。(中)参拝の後、神門の右の石段を登ると、元の御神木。すごい巨木です。(右)社殿のご案内。

 日本最古の神明造りの本殿。左に拝殿の屋根が。この地は、土豪の仁科氏が平安時代から戦国時代まで約500年治めたところです。伊勢神宮の御厨(みくりや:神饌※を調理するための館)が、永承3年(1048)、後冷泉天皇の時代に建立された記事があるそうなので、創建もその頃かと思われます。御厨は、また荘園のことも意味します。
※神饌(しんせん)は、神に供える酒食(しゅし)のことで、御饌・御食(みけ)ともいいます。
大御食神社例大祭と日本最古の家系小町谷氏。立川音四郎種清の木彫。光前寺と熱田神社(妻女山里山通信)
 天正10年(1582)仁科氏が滅びてからは、松本藩主小笠原貞慶が治め、創建以来20年毎に伊勢神宮と同様の式年遷宮を行ってきたそうですが、寛永3年(1636)松本藩主・松平直政の式年選宮を最後として、その後は部分修理に移行。そのため、日本最古の神明造りとして国宝に指定されたわけです。
 光背の大杉は、折れる危険性があるのか補修されています。

(左)この位置からだと中門が見られます。中門は、本殿との間をつなぐ釣り門とともに国宝です。(中)左側から見る拝殿と本殿。(右)天満宮の旗。北野社、鹿島社、白山社など。境内社は数えたら16ありましたが、他にもあるかも知れません。明治政府の合祀令で一村一社が定められ、南方熊楠も猛反対しましたが、多くの神社が破壊され生物が豊かだった鎮守の森がたくさん消えました。

(左)神苑内の池。鯉が餌をもらえると思って寄ってきましたが、あいにく持っていません。社務所で、境内社は明治の合祀令で集められたものですかと聞いたら、恐らくそうでしょうと。勾玉のお守りがあったのですが、プラスチックだというので天然石のおみくじを買いました。何種類かありますが選べません。私のは金運・心願成就の虎目石でした。(中)入り口左にある神宮寺の標柱。明治政府による神仏判然令で、廃仏毀釈の愚行がなされるまでは、1000年以上神仏習合の時代が続いたのです。仁科神明宮には、昔は本殿に安置されていたと思われる御正体が16面残っています。伊勢内宮の天照大神の本地仏である大日如来がほとんどで、墨書銘などから鎌倉から室町のものといわれています。(右)駐車場から望む境内。駐車場の南には神明沢。参拝を終えて51号を南下、左折して274号へ。大峰高原へ向かいます。

(左)池田町広津北山自治会とある展望台。ヒカゲツツジで有名な大城と京ヶ倉。拙書でも載せています。(中)西方を見ると常念岳・燕岳・餓鬼岳が望めるそうです。(右)東は聖山から根子岳・四阿山・冠着山・大城・京ヶ倉・巌殿山・御鷹山・王ヶ頭・鉢伏山・高ボッチ山・長峰山などのパノラマが。眼下には犀川と生坂村。晴れの日に来たいですね。近くでホトトギスが許可局許可局と鳴いていました。

(左)274号から左に入って大峰高原へ。カミツレ研究所の横を通って登っていくとカミツレ(加密列:カモミール)の大きな畑がありました。ちょうど花期で、辺り一面にいい香りが充満していました。(中)七色大カエデ。紅葉の時期には4万人も訪れるそうです。(右)そして、生坂村の19号に下りるべく274号を下ったのですが、これがとんでもない山道でした。初めは200mすれ違い困難とかがたくさん現れ、その後500mが3回、600mが2回現れました。路面も荒れていて昼なお暗くて点灯が必要な箇所も。しかも途中に小さな集落があるらしく分岐もたくさん。幸い対向車もなく55号に出たときはホッとしました。信州の山道恐るべし。

 55号を下るとほどなく犀川と国道19号が見えてきます。三清路の展望台に登りましたが、手すりは壊れているし、道は泥濘状態で草ぼうぼうだし、展望台はミシミシ音がするし、大変なところでした。しかし、眺めは最高でした。

 三清路公園案内図。公園とありますが、とても公園と呼べる様なところではありません。金戸山(かなとこやま:766.5m)の登山道はよく整備されているようですが…。昔は交通の難所であったことがよく分かります。麻績川を遡って差切峡経由で坂北へ抜ける道は、度々通行止めになるので確認が必要です。

(左)大岡道の駅に寄っておやきを買ってからもどって12号で旧大岡村から麻績村へ。98年の長野冬季オリンピックの開会式に登場し、世界中の人々から熱狂的な歓迎を受けた北アルプス展望所にある芦ノ尻道祖神。麻績村から戸倉上山田へ。万葉温泉に入って帰路につきました。(中)妻女山の長坂峠に寄ると梅雨の花シモツケが咲いていました。MTBに乗った以前にも出会ったことがある男性に邂逅。(右)夕食は篠ノ井の紅日香で地獄辛味噌ラーメンを。辛さは10までありますが4で。味噌スープが非常に美味です。私も仲間と大豆を育て味噌を作っていますが、信州味噌は旨いんです。麹味噌がほとんどで、大豆の旨味だけでなく、麹の甘みと旨味とコクが加わります。ということで信州には美味しい味噌ラーメンの店がたくさんあります。それにしても非常に濃い一日でした。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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信州の鎌倉・塩田平探訪。安曽岡山パノラマ展望台・安曽神社・塩野神社・野倉夫婦道祖神・国宝安楽寺三重塔・馬肉うどん・生島足島神社(妻女山里山通信)

2018-05-31 | 歴史・地理・雑学
 信州の鎌倉といわれる上田市塩田平の独鈷山や安曽岡山の麓を巡りました。鎌倉幕府の時代、北条氏が庇護したために神社、寺院、城跡などが盛りだくさん。本当に魅力的なところです。特に戦没画学生慰霊美術館の「無言館」はぜひ訪れて欲しい。二回入館しているので今回は入りませんでしたが、県内外からたくさん訪れていました。

(左)ネットニュースで、上田市塩田平の安曽岡山中腹にパノラマ展望台がリニューアルされたというので行ってみました。標高は約600m。無言館から遊歩道もあります。車では前山寺の右の林道を登り、最初の分岐で左の未舗装の林道を3分ほど走ると展望台です。その先に駐車スペースがあります。(中)展望台から北西の長め。塩田平と子檀嶺岳が見えます。(右)四阿の柱は、生島足島神社の御柱です。

 同じく展望台からの眺め。左に夫神岳。右に台形の子檀嶺岳。こちらは拙書で紹介しています。その難しい山名の由来にも言及しています。夫神岳は、ブログのブログ内検索で記事が読めます。

 展望台に設置されている山座同定の看板。こういうのはいいですね。多くの山に設置して欲しいと思います。

(左)林道を下って安曽神社へ。安曽は阿蘇と繋がります。神武天皇の皇子といわれる神八井耳命(かんやいみみのみこと・かむやいみみのみこと)の孫、あるいは4世孫のひとりが阿蘇から科野に移り、崇神天皇の命により科野國造に任命されたと古事記にあります(森将軍塚古墳に埋葬されていると思われる建五百建命:たけいおたつのみこと)。
 社伝によると貞観年代(860年頃)、国々の諸神及び仏像経巻を収め、後に信濃権守峯嗣が阿曾山舎社をとして再建。寿永年代(1185)に源頼朝が諸国の神社を修復。当地の地頭芳沢民部介光綱が石上布留社の境内に阿曽社を建立し遷座したといいます。観応二年(1351)に兵乱が東国より此の地におよび、芳沢城が落ち、芳沢氏と阿曽社の事蹟は失われてしまいました。(中)随身門:楼門文政7年(1824)建立。入母屋の楼閣造り。(右)左右の二神はかどもり神(かどもりのかみ)と看督神(かどのおさ)で俗に矢大神と左大神ともいわれています。二神の裏側には神馬の像があります。

(左)戦没画学生慰霊美術館「無言館」のオリーブの読書館から見上げる安曽岡山。「無言館」は一度ぜひ訪れてください。平和の大切さが沁み沁みとわかる美術館です。第二展示館「傷ついた画布のドーム」の前庭にあるモニュメントの裏の一文には、『画家は愛するものしか描けない 相手と戦い 相手を憎んでいたら 画家は絵を描けない 一枚の絵を守ることは 「愛」と「平和」を守るということ』と記されています。(中)満開のヤマボウシの花。(右)俯いて咲くエゴノキの花。
「無言館」探訪記。ブログ記事ふたつ。ぜひお読みください

 山王山公園の看板。塩田平の全貌が非常に分かりやすい。上が西なので間違えない様に。インフォメーション・デザインもしましたが、北を上にして設置を南向きにすると、現地の風景と照らし合わせやすく一般の方々も把握しやすいと思います。朝日新聞やキヤノン、凸版印刷や某政党のサイトのアートディレクターやデザインプロデューサーをした私の経験上のアドバイスです。インフォメーションデザインやエンバイロメントグラフィックスは、そういう知識のない一般の人達にも分かる様にデザインすることが大事なのです。

(左)真田昌幸・信之も信仰した塩野神社。珍しい二階建ての楼閣造の拝殿と奥に流造の本殿。祭神は、素盞嗚尊(スサノオノミコト)・少名彦命(スクナヒコナ)・大己貴命(オオナムチノミコト:大国主命)。拝殿は棟札により寛保3年(1743)。本殿は寛延3年(1750)棟札。大工は上田房山の大工棟梁、末野忠兵衛。
 創立年月は不明。当初鎮座の地は独鈷山(1266m)の鷲ケ峰に祀る。現在も奥社が鎮座。白鳳元年4月出雲大社より分霊を勘請。永禄11年(1568)4月武田信玄社領十貫文。天正15年(1587)真田昌幸七貫文を寄附。元文年間(1736-41)塩野の本号に復帰。明治6年44月村社。明治28年9月郷社。明治40年神饌幣帛料供進社。(中)尾垂木には竜の彫刻が施されていますが、この竜が脇障子の上の鉢木を飲み込むという珍しい意匠になっています。(右)神社の右裏手に月見堂の看板が。誘われて登り始めましたが、10曲がりのあるちゃんとした山登りでした(笑)。眺望は抜群です。

 そこから見る拙書でも紹介の子檀嶺岳。「こまゆみだけ」と読みます。ルビがなければとても読めない山名です。拙書では、『日本三代実録』まで遡る山名の由来を説明しています。塩田平は瀬戸内同様に日本で最も降水量の少ない地域なので溜池がたくさんあります。写真は舌喰池。

 女神岳の南を巻いて別所温泉に向かいます。野倉の里から見るこれは富士山(別名:鹿教湯富士)でしょうか。独鈷山を挟んで東には富士嶽山もあります。左奥は美ヶ原。

(左)野倉の夫婦道祖神。衣冠束帯の男神と十二単の女神。夫婦和合、家庭円満、子宝の神として信仰厚く、遠方から訪れる人が多い。と記されています。(中)そこから別所温泉に向かう途中の三島神社の上にある別所氷沢の風穴。蚕種保存に使われたそうです。気温30度の日に内部は5度だとか。いや驚きました。昔の人の知恵は凄い。(右)沢には山菜のアイコ(ミヤマイラクサ)が。信州では無名ですが秋田では山菜の女王といわれます。クセがなく非常に美味しい。

 別所温泉の安楽寺へ参拝。国宝の三重塔を観に行きました。四重塔に見えますが、一番下の屋根は裳階(もこし)です。建立は、鎌倉時代末期の1290年頃。わが国最古の禅宗様式の建築で、中国宋代の先進技術であった唐様(からよう)を用いています。なんとなく和風ではなく中国風に見えるのはそのためです。現存する唯一の八角の塔です。

(左)上へ歩いて石湯。斜め向かいに駐車場があります。入浴料は150円。今回は入りませんでしたが、いい湯です。(中)その向かいにある日野出食堂へ。つるし雛が。(右)名物の馬肉うどん(600円)をいただきました。上田駅前の中村屋、信州新町の旭家食堂とともに私が勝手に三大馬肉うどんと認定させていただきます。

(左)戻る途中に真田昌幸と幸村の鎧のレプリカの展示。ここにもつるし雛。(中)北向観音。(右)未完の塔と呼ばれる前山寺の三重塔。鎌倉幕府滅亡の年に建立されたため未完で終わってしまった様ですが、未完と感じさせないほど美しい塔です。もうひとつ塩田平には国宝の三重塔があります。拙書でも載せていますが、子檀嶺岳麓の国宝大法寺三重塔です。あまりの美しさに振り返られずにはいられないことから「見返りの塔」といわれます。本当に美しい三重塔です。
大法寺三重塔の記事一覧です。私はわが国で一番美しい三重塔だと思っています

 最後は、生島足島神社に参拝しました。大国主命の子で諏訪大社の祭神・健御名方命(たけみなかたのみこと)が諏訪に赴く前に、この地を鎮めたと伝わる神社で、大地の神であり御神体(御霊代)は、内陣にある土間。つまり、大地そのものです。神社は周囲を池に囲まれており、「池心の宮園池(いけこころのみやえんち)」といい、出雲式園池の面影を残す、日本でも最古の形式の一つとされるものだそうです。
 生島足島神社は、日本の臍(へそ)といわれる神社ですから、歴代の帝の崇敬も非常に厚く、醍醐天皇の廷喜の代(901年~922年)には名神大社に列せられています。 その後も北条氏、真田昌幸・信之の戦国武将を始め、代々の上田城主も神領を寄進し、社殿を修築するなど、崇敬を表しています。
 また、神社の一角には回り舞台やせりのある歌舞伎舞台(県宝)があり、そこには武田信玄が必勝を祈った「願文」や忠誠を誓わせた「起請文」などの古文書(レプリカ)が常設展示されています。(入場無料) 。信玄の願文は、パターンが決まっていて上杉謙信を極悪人と称して徹底的に罵倒し、戦に勝たせてくれたらたくさん寄進しますよというもの。
 今回は、ローズクォーツの勾玉(まがたま)のお守りを買いました。塩田平の知名度が全国的にどうなのかは知りませんが、非常に魅力的なところであるのは間違いありません。
生島足島神社 by Wikipedia
 創建は不詳。社伝では、建御名方富命(摂社諏訪神社祭神)が諏訪へ向かっていた時、この地に留まり、生島・足島両神に米粥を煮て献じたという。この伝承から、生島・足島両神は当地の地主神であると見られており、伝承自体は現在も特殊神事の「御籠祭(おこもりさい)」に名残を残している。
 一方『延喜式』神名帳には、宮中の神祇官西院で祀られる神23座のうちにも生島神・足島神の記載がある。このことをもって、科野国造の多氏(並びに同族の金刺氏・他田氏)が国魂として宮中から両神を勧請したという説もある。この中で、金刺氏がのちに諏訪大社下社の大祝を務めたことと、摂社諏方神社の関連性が併せて指摘される。
 なお、生島足島神社の南西方にある泥宮を旧鎮座地にあてる説もある。


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GWの後半の前半は、安曇野で古刹と神社巡り(妻女山里山通信)

2018-05-04 | 歴史・地理・雑学
 GWの後半の前半は安曇野へ。古刹と神社巡りをしました。山麓線を走りながら、ペンションや小洒落たレストランやカフェを横目に目的地へ。

(左)前夜は、コシアブラとホタルイカのイカスミソースのパスタ。いやこれ絶句するほど美味でした。加えてアンガス牛と千曲市産のアスパラガスのソテーも。(中)朝早くに有明山神社へ。有明山を信仰崇拝する山岳信仰の神社で有明山山頂(中岳・南岳)に奥大宮があります。まず手水舎へ。(右)唐獅子。制作は、飛騨の山口權之正。

 日光東照宮の陽明門を模したといわれる木彫が見事な裕明門。時折そぼ降る小雨に静かに佇んでいました。

 裕明門正面の木彫。球持ち親子龍に上には粟穂に鶉(うずら)。明治35年作で、立川流の清水虎吉(東渓)によるもの。

(左)唐獅子。(中)非常に精緻な木彫です。(右)裏面にも木彫がびっしり。四方に十二支の動物が彫られていて、まるで動物園。

(左)酒呑童子。(中)七福神と天井絵。天井絵は村田香谷作。(右)躑躅咲く有明山神社。鋳物の灯籠が壊れて落ちていました。氏子の方が来られて猿の仕業と言っていました。拝殿の廻廊に猿の糞がありました。

(左)非常に特徴的な狛犬。(中)正面には天の岩戸伝説が彫られています。(右)有明山神社の額の文字は、有明ではなく、明の字の左の日が目になっています。この後、大きな猿に遭遇。

(左)魏石鬼窟(ぎしきのいわや)。坂上田村麻呂に対抗するために八面大王がたてこもったといわれる岩屋です。特異な形状を古墳であるため、弥生時代に大陸から渡来し海運を行っていた阿曇氏(あずみうじ、安曇氏)といわれています。(中)高野山真言宗の医王山松尾寺。室町時代末期の特徴を残した全国的にも珍しい造りの建物で、国の重要文化財。信府統記によると1528年、仁科盛政を開基として創建されたとされますが、創建自体は白鳳2年(651年)までさかのぼるとしています。帰りに先程の猿ともう二匹の猿に遭遇。(右)次に栗尾山万願寺へ。微妙橋(お経橋)。千手観世音を祀る、信濃三十三番札所の二十六番札所です。

(左)微妙橋へ至る道筋に佇む地蔵。(中)万願寺本堂。(右)聖天堂。見事な木彫は、明治28年に木曽福島の瀬川伊勢松作。

(左)シラネアオイ。(白根葵)。キンポウゲ科シラネアオイ属。昨年、サンカヨウの撮影に行った時に栂池高原で撮影しましたが、これを求めて訪れる人もいるようです。日本固有種の1属1種であることも理由でしょうか。花びらに見えるものはガク(萼)。(中)クマガイソウ(熊谷草)。ラン科アツモリソウ属。和名の由来は、アツモリソウともに、膨らんだ形の唇弁を昔の武士が背中に背負った母衣に見立て、源平合戦の熊谷直実と、平敦盛にあてたもの。(右)昼は地元でも人気のひさりな食堂へ。熟成味噌ラーメンと餃子を。久々にスープを全部飲み干しました。濃厚ですがしつこくなく味わい深いスープです。おすすめ。帰路は大岡道の駅に寄って大好きな薄焼きと行者にんにくを買いました。行者にんにくは、醤油漬けと胡麻油で炒めて行者にんにく味噌にしました。

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古代科野国を忍ばせる千曲市土口の古大穴神社へ諏訪立川流の木彫の撮影に(妻女山里山通信)

2018-03-03 | 歴史・地理・雑学
 前回の記事で、千曲市の八幡(やわた)にある武水別神社へ諏訪立川流の木彫を紹介したのですが、記事を読んだブログ「北信濃寺社彫刻と宮彫師」を上掲する友人の宮彫研究家から、土口の古大穴神社の木彫はいいですよとメールが。近所なのに灯台下暗しでした。さっそく撮影に出かけました。
◉古大穴神社御由緒
「創建年月不詳。江戸時代亨保12年4月(1727)諏訪大明神造立。往古は日ノ尾(南山)に鎮座という。明治3年9月(1870)拝殿再建。太古から塚穴が多く大穴郷(おおなごう・於保奈・多穴・大穴)と呼ばれていた。境内の石段の処に大きな古墳があった。よって明治13年12月(1880)社号を古大穴神社と改称。祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)」
 なお、尾根の北側に鎮座する上杉謙信が庇護した会津比売神社の御由緒には、森将軍塚古墳に埋葬されているという初代科野國造の武五百建命(たけいおたつのみこと)の妻とされる会津比売命(あいづひめのみこと)夫婦が、この地に住んでいたという里俗伝があります。会津比売命は、建御名方命の孫になります。建御名方命は大国主命の子ですから、つまり出雲系です。彼女の夫は大和系。古代科野国は、出雲系と大和系が結婚してできたというわけです。

(左)鳥居は、平成25年12月に再建されたものです。(中)狛犬の奥に拝殿。後ろの山は、斎場山(旧妻女山・斎場山古墳・上杉謙信本陣跡)から続く長尾根の先端になる薬師山。拙書でも詳しく紹介しています。(右)御由緒や沿革や彫刻の説明。

 拝殿の彫刻は、立川和四郎富昌の弟子立川(池田)文四郎の作(文政13〜明治19年)。正面の虹梁(こうりょう)には、立川流得意の龍。左右の木鼻には、獅子と貘。

(左・右)龍が三頭。夫婦龍と子と思われます。その下の虹梁には、牡丹に獅子。手毬の透かし彫りの中には玉が入っています。驚いたことに、これらは一本の欅から彫られているのです。実に見事で精緻な木彫です。

(左・右)左右の木鼻には獅子と貘。耳が小さく立っていて体毛が荒ぶっているのが貘。耳が大きく垂れていれば象です。獅子は、師匠の富昌の作風と非常に似ています。惜しむらくは、大量の蜘蛛の巣と蛾の卵ですね。左の獅子の口の中にわずかですが丹塗か弁柄塗の痕跡でしょうか。

(左・右)貘は象に比べて少ないのでアップにしてみました。貘は、中国伝来の伝説の動物で、人の悪夢を食べてくれるといいます。 熊の胴体、虎の四肢、牛の尾、象の鼻、犀の目、猪の牙を持つと言われ、鉄や銅を好んで食べ、その尿には金属を腐食し溶かすという作用があるといいます。

(左・右)左右にある酒呑童子(しゅてんどうじ・酒顛童子・酒天童子・朱点童子)。丹波国の大江山、または山城国京都と丹波国の国境にある大枝(老の坂)に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目。『大江山絵詞』(大江山絵巻)。こういう盗賊の頭、または義賊が神社に彫られているというのは面白いですね。
酒呑童子ウィキペディア

(左・右)波に浜千鳥(千鳥)。
「わすられむ 時しのへとそ 浜千鳥 ゆくへもしらぬ あとをととむる」(よみ人しらず 古今和歌集 巻十八 雑歌・下) 「忘れられた時に今を偲べと、どこへ行ったかわからない浜千鳥がその足跡をとどめるように、ここにこうして書き残しておく」

 これも牡丹。見事です。続いて古のつかないあんずの里森にある大穴神社に向かいました。

(左)大穴神社の一の鳥居。大穴神社と記されています。二の鳥居には大宮社と。大穴神社が元の社号で、おそらく南方熊楠が猛反対した明治の悪法合祀令で三社が統合されたのではと思います。(中)拝殿。左に社務所。左右に御柱が。(右)左右の木鼻の獅子と象。前記の貘と比べると、その違いが分かると思います。作者は不明ですが、諏訪立川流の流れを感じます。

(左)拝殿内部。(中)拝殿後背の覆屋に囲まれた本殿。(右)御神木の欅。樹齢900年とありますが、どうでしょう。主幹は折れて大きな虚(うろ)ができています。撮影後は近くの温泉に入って帰路につきました。
 今日の長野市南部は16.3度。明日は20度だそうです。陣場平の貝母(編笠百合)の生育状況を見に行こうと思います。満開は4月下旬でしょうか。拙書やブログでも紹介し、信濃毎日新聞や松代夢空間でも掲載されたので訪問者が非常に増えました。慎ましく美しい花ですが、極めて強い毒草なので決して持ち帰らないでください。倉科の節分草の様子も気になります。いずれもカタクリと同じスプリング・エフェメラル、春の妖精、春の儚い命と呼ばれる野草です。詳しくはブログ内検索をしてください。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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お八幡(はちまん)さんと親しまれる稲荷山宿の武水別神社へ諏訪立川流の宮彫の撮影に(妻女山里山通信)

2018-02-24 | 歴史・地理・雑学
 信州は千曲市の八幡(やわた)にある武水別神社へ諏訪立川流の木彫の撮影に出かけました。帰郷後何度も参拝はしたことがあるのですが、木彫の撮影をしていないことに気が付きました。最高気温8度の予想の中、用事を三件ほど済ませて10時過ぎに着きました。
◉武水別神社御由緒
 社伝によれば、武水別大神は人皇第八代孝元天皇(紀元前二一四~一五六)の御代に御鎮斎と伝えられております。
 その後安和年間(九六八~九七〇)に京都の石清水八幡宮より、誉田別命・息長足比売命・比咩大神が勧請され、相殿に奉斎されました。
当社は延喜式(平安初期の年中儀式や制度などを記した書物)に名神大社として記載されており、三代実録(延喜元年に編纂された歴史書)によると貞観二年(八六〇)に従五位下、同八年に従二位の神階を受け、同九年に官社に列したと有り、上古よりの大社であったことを窺い知ることが出来ます。
  戦国時代から江戸時代にかけてはこの地方随一の八幡宮として諸武将の尊崇が篤く、慶安元年(一六四八)には幕府から朱印地二百石を与えられました。明治時代に入ると郷社に列せられ、明治四十一年に県社に昇格、現在は神社本庁別表神社に指定されております。(神社サイトより)
 祭神は、武水別大神(たけみずわけのおおかみ)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)、比咩大神(ひめおおかみ)。上杉謙信が願文を奉納したことでも有名です。

(左)神社の最南端、県道77号を跨いで立つ大鳥居。左手には松屋旅館があるのですが、もうかなり前から営業していない様です。(中)神橋。車は左手から入り、右手の参拝者駐車場に。(右)入ってすぐ左手にある神輿休所。江戸後期の神仏混淆時代の神宮寺の行事に関わる貴重な建造物。

(左)天保の火災から免れた室町後期の作といわれる高良社(こうらしゃ)。覆屋の中にあります。(中)昭和50年に長野県宝に指定。扉に描かれているのは白い牡丹。(右)名物うずらまんじゅうの茶店。400円で抹茶とふたつのうずらまんじゅうがいただけます。お持ち帰りも。

(左)18,896平方メートルの社地には、社叢としてケヤキ・スギを主として20数種が生育し、その数は400本を超える。老木も多く、「武水別神社社叢」として長野県指定天然記念物に指定されています。シナノキもありました。合祀令により数多くの神社がなくなりましたが、鎮守の森は大切な自然の宝庫だったのです。(中)大鳥居方面を見たところ。右に御神木の大欅があります。内部は大きな虚(うろ)ができて空洞となっています。(右)手水舎。身を清めて本殿へ向かいます。

(左)木製の鳥居は修繕中で寄付を募る張り紙が。拝殿の手前に勅使殿。(中・右)阿吽の狛犬。阿吽を左右どちらに置くかは色々説があります。本来は獅子と狛犬だとか。

 拝殿。立川和四郎の後見の下に、水内の峰村弥五郎の手により安政三年(1856)に完成。瓦葺の屋根はのちに昭和57年本殿と同様に銅板で葺き替えられました。

(左)拝殿前の勅使殿。勅使とは、天皇・皇帝・王など国の元首が出す使者のことですが、勅使を迎える特別な建物ということでしょうか。(中)拝殿中央の太平鰭(おおひらびれ)。牡丹の浮き彫り。(右)二代目 立川和四郎富昌(1782~1856)の獅子。典型的な諏訪立川流の木彫です。
諏訪立川流 概論 - 立川流彫刻 研究所
----寛政の改革で有名な松平定信は富昌の評判を聞き、富昌を大いに可愛がった。実力に加え、こうした後押しもあり、江戸幕府からは「内匠(たくみ)」の称号が与えられ、江戸幕府御用となり名実ともに日本一の彫刻師となった。
 この当時、富昌は一般大衆からは「幕末の甚五郎」とよばれていた。 ----(サイトより)

(左・右)両サイドの木鼻の獅子と象。必ずしも完璧に左右対称ではないのは、よく見ると分かります。

 拝殿後背の本殿。本殿は諏訪出身の工匠立川和四郎富昌(二代目)によって嘉永三年(1850)に完成しました。建坪三十一坪余と規模が広大な上に、内外の彫刻は繊細を極め、見事と言う他はありません。当初、柿(こけら)葺きの屋根は年と共に千木・鰹木が取り付けられました。(神社サイトより)まず作法通りに参拝してから撮影をはじめました。

 立川和四郎富昌による子持ち龍。千曲市森の興正寺山門の子持ち龍とは、また違った趣があります。
佐久間象山大砲試射地から諏訪立川流山門の興正寺。象山の定宿だった伴月楼へ。象山神社と松代城(妻女山里山通信)

 そのアップ。沢山の釘は鳩の糞害防止のものです。見て分かるように木彫に直接打ち込まれているわけではありませんが、やはり異様な感じがします。金網ではなく透明なテグスの網を張るとか、なにか有効な対策はないものでしょうか。調べると超強力なネオジウム磁石が有効な様です。

(左)木鼻の獅子と象。(右)脇障子の鳳凰。富昌の傑作といえる作品かもしれません。間近で見られないのが残念です。

(左)亀に乗った仙人。おやこれは浦島太郎でしょうか。浦嶋神社(京都府与謝郡伊根町)は、天長2年(825年)に創建といわれています。(中)牡丹の浮彫り。(右)力神。足が梁に食い込み外に出ているのがいいですね。

 木鼻から右側側面の造形。

(左)左側面の力神。西面は鳩の糞害が酷い。木部の劣化は避けられないでしょう。根本的な対策を考えるべきだと思います。確かに 鳩は、「八幡神」という農業神、仏教保護の神、護国の神、源氏の氏神として信仰されている神様の使いとされており、追い出すようなことはしなかったそうですが、問題ですね。鳩は戦勝の象徴でもあったので、武将達にも好まれました。寺社にいる鳩はドバトで、野生の鳩ではありません。駆除するのはいけませんが、せめて境内にいても堂宇には止まらない様にするべきでしょう。(中)八剱社(はっけんしゃ / やつるぎじんじゃ)。(右)小さな木鼻の獅子と象ではなくて、耳が立ち毛が逆立っているので、これは貘。

(左)本殿後背の十二神社。天神社も。(中)子安社。安産祈願の神社。(右)その神社の小さな木鼻の象と獅子。右の木鼻の象はなくなっていました。

(左)明治の南方熊楠が猛反対した明治の愚策、合祀令で集められたものでしょうか。沢山の神様が。(中)木曽義仲にまつわる伝説の滝壺の石。(右)拝殿と後背の本殿。地元の人が時折参拝に訪れていましたが、ほとんどひと気もなく閑寂としていました。武水別神社で行われる、祈年祭(3月15日)、例大祭(9月15日)、大頭祭(新嘗祭、12月10日-14日)の3祭は「三大祭」といわれます。

(左)酒造租社。(中)木鼻の獅子と象。(右)松と仙人? 酒中の仙人といえば、玄宗皇帝のお気に入りでもあった「詩仙」と称えられた中国唐代の天才詩人、李白を思い出しますが。李白、杜甫、白楽天と言えば中国唐代の三大詩人。いずれも大酒飲みだったとか。あるいは酒呑童子か。いすれにせよ親近感を覚えるのは私だけではないでしょう。

(左)神社西の77号を渡って小路を進むと、武水別神社神主松田家館。残念ながら昨年の9月6日に、蜂の巣駆除の火で多くが焼けてしまいました。無常。(中)焼け崩れた跡が傷ましい。木造の家屋で蜂の巣駆除に火器を使うなど信じられない愚行です。斎館再建の寄付を募っています。(右)武水別神社の裏手から南方の眺め。左手奥の山は冠着山(姨捨山)。この川は、姨捨駅の上の大池から流れてきて千曲川に合流します。
武水別神社神主松田家館跡:明治時代の屋敷の俯瞰図や焼けてしまった屋敷の写真が見られます。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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松代藩の祖 真田信之の御霊屋と墓所のある長国寺へ。真田宝物館へも(妻女山里山通信)

2018-02-18 | 歴史・地理・雑学
 松代藩の祖、真田信之の御霊屋と墓所のある長國寺(長国寺)を取材で訪れました。到着直後から雪が振り始め、雪中の撮影となりましたが、趣がありそれは素晴らしいものでした。『真田丸』放映の年は、全国から拝観者が大勢訪れたそうです。
「天文16(1547)年、信濃国の在地領主であった真田幸隆が、畏敬する伝為晃運(でんいこううん)禅師を開山第一世に招き、一族の菩提寺として松尾(現・)城内に「真田山長谷寺(しんでんざんちょうこくじ)」を建立しました。その後、永禄7(1564)年に松尾城外へと移され、本格的な禅寺として諸施設を整えました。江戸幕府が開かれると、幸隆の孫にあたる真田信之は上田藩主となりますが、元和8(1622)年の松代移封にともなって現在の場所へと移転し、寺号も「長國寺」(國は国の旧字体)と改めて、今日にいたっています。」(長国寺サイトより)

(左)山門の前にある「長国寺の鶴」の民話。(中)総門。(右)長国寺本堂。六文銭が。

(左・中)本堂の左右の木鼻の振り向き獅子。友人の宮彫り研究家によると、長国寺本堂の木鼻の木彫と向拝部の彫物は、北村喜代松、直次郎(四海)親子のものとか。正面蟇股の裏に刻銘があるそうです。また、本堂の内部には彼らの作った寺額、欄間があるそうです。私が持っている北村喜代松の本で確認しました。彼の木彫は、諏訪立川流や大隅流の様式化が完成されたものと比べると荒削りな感じがしますが、実はそうではないのです。より先鋭的で細く深く欅の特性を知り尽くし、その限界の造形を追求したといえます。諏訪立川流や大隅流に比べると非常に動的でダイナミック。個性的です。(右)山号として真田山(しんでんざん)の文字。

 本殿と境内の風景。雪がちらつき始めました。拝観料は300円。ですが、受付の入り口に「しばらくお待ち下さい」の表示が。しかたなく一人で御霊屋へ。黒い木製の塀で囲まれているので中に入れません。

(左)坐禅堂。修行の根本道場。(中)宝冠文殊菩薩。(右)昭和35年建立の戦没者慰霊堂の放光殿。

(左)恩田木工の墓所。松代藩六代藩主・真田幸弘の時代に藩政改革を行い、宝暦12(1762)年に46歳で没しました。彼の業績については過大評価であるとか色々評価が別れるようです。(中)元々は三代真田幸道公のために享保12(1727)年に建てられた御霊屋です。明治5年(1872)に同寺が伽藍諸堂を焼失したため、同19年(1886)本堂再建の際、この霊屋を現在の場所に移築して開山堂としたものです。(長国寺サイトより)(右)松代藩初代藩主真田信之の御霊屋の門。一般の人はここからは入れません。撮影していると男性が一人出てきました。そして受付に連れて行ってくれました。案内のお爺さんがいました。う〜むこの木札は問題ですね。他にも途中で帰ってしまった拝観者がいましたから。拝観料は300円。参拝者は無料です。

 それで案内された雪の舞う真田信之公の御霊屋。黒い建物は、松代藩の流儀なのだそうです。
「万治3(1660)年に建立された、松代藩祖・真田信之の御霊屋(おたまや)です。桁行3間、梁間4間の入母屋造り平入り、屋根は柿葺き(こけらぶき)の壮麗な建築です。いたるところに透かし彫りや丸彫りが施され、なかでも正面の唐破風の雌雄の鶴は左甚五郎作と伝えられています。内部の格天井には狩野探幽筆と伝わる天井画、奥に禅宗様仏壇を据え、現在は信之公と小松姫御夫妻の位碑を安置しています。国指定重要文化財に指定されています。」(長国寺サイトより)

(左)左甚五郎作と伝わる二羽の鶴。あくまでも里俗伝ですが。どうなんでしょう。(中)正面の左右の木鼻の木彫。左は唐獅子。右はおそらく麒麟でしょう。(右)軒下の鮮やかな木彫。松に椿でしょうか。

(左)御霊屋の拝観料は、500円です。案内のお爺さんが開けようとするのですが、何度やっても開きません。しかたなく真田家の墓所へ。(中)御霊屋裏手の真田家十二代までの墓所。(右)初代信之公の墓所。大明神の位を授かっているので鳥居があります。墓は何度か修復した痕跡が見られます。

 さて戻って御霊屋ですが、鍵が開きません。まあ江戸時代の鍵の構造なんてたかが知れていますし構造も想像できたので、「あのう、私がやってみましょうか」といってやると一発で開きました。やれやれです。
 御霊屋内部は畳敷きで荘厳豪華です。許可を得て撮影しました。これらの文様や木彫には全て意味があります。単なる思いつきのデザインではありません。ひとつひとつに全てメッセージが込められているのです。欄間に彫られているのは、孔雀でしょうか。御霊屋は、元々は五棟あったそうです。色々事情があり移譲されたとか。

(左)格天井。狩野探幽の作と伝わるものですが、里俗伝です。(中・右)左右の絵は、松代藩の御用絵師の作といわれています。

 上は梁を支える肘木ですが、描かれている文様が非常に不思議です。モールス信号の様な破線は何を意味するのでしょう。易経の八卦とも違いますし。肘木の下に掛かっている金属製の透かし彫りも初めて見ました。左右の花は菊でしょう。下には武田の四つ菱かと思われる様な文様もあり、興味深いところです。あるいは亀甲に花菱? 真田家の家紋は「六文銭(ろくもんせん)」「結び雁金(かりがね)」「州浜(すはま)」です。ちなみにモーニング娘。18の羽賀朱音ちゃんと世界的アコーディオン奏者のcobaと私の母校の松代中学の校章は結び雁金です。

 その下の欄間の木彫。孔雀かな。孔雀は仏教では鳩摩羅天という天部の乗り物です。中国で、聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされた、孔雀(くじゃく)に似た想像上の瑞鳥(ずいちょう)。つまり鳳凰(ほうおう)かもしれません。麒麟・亀・竜とともに四霊(四瑞)と呼ばれました。白い枠からはみ出た頭や羽など、構図感覚も秀逸です。いったい誰の作なのでしょう。これらも左甚五郎でしょうか。

 雪が激しくなってきました。案内のお爺さんはちょっと体調が良くないそうで、そんな中色々お話を聞けて有難うございました。真田宝物館へ向かいます。

(左)善光寺地震の図。中央が山体崩壊した虫倉山。(中)松代城の周囲。左は妻女山山系。上の茶色は土石流に襲われた所。作者不明。(右)松代藩の御用絵師、青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3年から1903明治36年)。雪卿は、松代藩が壊滅的な被害を受けた弘化4年(1847)に起きた善光寺地震から3年後の嘉永3年(1850)、藩主真田幸貫公(感応公)の藩内巡視に同行し、120日間をかけて「伊折(よーり)村太田組震災山崩れ跡の図」(真田宝物館蔵)を描き上げました。伊折村太田組とは、現在の長野市中条太田地区のことです。地震当時、虫倉山が大崩壊して太田組11戸54人が犠牲になりました。
『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信):コメント欄で青木雪卿重明のことが分かると思います。名主をしていたわが家の祖先と幼馴染で親友でした。
善光寺地震

(左)太田組11戸54人が犠牲となった山崩れの図です。現在も林内には大きな岩が残っていますが、下の斜面は段々畑の水田となっています。(右)雪に煙る松代城。本当の春が待ちどうしい信州です。

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名宮大工棟梁・大隅流柴宮長左衛門矩重の木彫再訪。必見! 千曲市戸倉の水上布奈山神社(妻女山里山通信)

2018-01-20 | 歴史・地理・雑学
 昨年の大晦日に千曲市戸倉にある水上布奈山神社(みずかみふなやまじんじゃ)に参拝しました。その記事はすでにアップしましたが、普段は施錠されてシャッターの隙間からしか見られない本殿が中まで入って間近で見られるという貴重な機会だったので、大きな画像で再掲することにしました。本殿は国の有形重要文化財ですが、この見事な木彫は本当に宝であり、残念ながら現在はこのレベルの技術を持った人はいません。
 最初の訪問は、昨年の3月でした。諏訪大隅流柴宮長左衛門矩重 (しばみやちょうざえもんのりしげ)の見事な木彫に圧倒されましたが、同時に中に入って全部を見たい衝動に駆られました。今回それが叶ったわけです。
 前回の訪問記です。
名宮大工棟梁・大隅流柴宮長左衛門矩重の木彫が圧巻! 千曲市戸倉の水上布奈山神社(妻女山里山通信)

 境内は二年参りの用意がされていました。茅の輪も。二年参りというのは、信州や新潟の風習で、東京にはありません。拝殿の裏手に覆屋に保護された本殿があります。江戸時代初期に北国街道の下戸倉宿が慶長八年(1603)に設置された時に、諏訪大社から祭神を勧請して創建されました。

 本殿は一間社流造ですが、やはり目を引くのは圧倒的な量の見事な木彫です。その後、1789年(寛政元年)に現在の本殿が建立されました。諏訪大社下社春宮建立は安永九年(1780)ですから、その9年後の作品なんですが、立川流に評判で負けた彼を奮起させたのでしょうか。この木彫は本当に素晴らしいものです。特に形態の抽象化、曲線で表現されるものを直線化したりする表現手法をどこで会得したのか、編み出したのか非常に興味があります。

 木鼻の貘(ばく)と獅子。貘の荒ぶる体毛は迫力があります。
 柴宮長左衛門矩重(1747〜1800)は、諏訪郡普門寺村(現諏訪市)の生まれで、諏訪下社春宮幣拝殿及び左右片拝殿をはじめ、10棟余の社寺を建てました。諏訪下社春宮以外の代表作は、この水上布奈山神社と塩尻の北熊井諏訪神社でしょう。

 脇障子上の上り龍。反対側には下り龍。ため息が出るほど素晴らしい。

 右側の海老虹梁(えびこうりょう)の見事な飛龍。これを一本の欅(けやき)から彫り出してしまうのですから。

 四方にある木鼻はいずれも貘と唐獅子。その上にある虹梁を支える斗栱(ときょう)。側面を飾る木彫も見事です。最上部には唐獅子、下には波と亀。

 左側の海老虹梁(えびこうりょう)の飛龍。一度でも木彫をやった方は分かると思いますが、木彫は木目を読まないと彫れません。造形も制限されます。もちろん石彫にも石目がありますが。この木彫を見ると驚愕せずにはいられないのです。それを誤ると簡単に欠けてしまいます。それを波を重複させたりして補っているのが分かります。

 非常に複雑な木組みに圧倒されます。設計図はあるのですが、現在のように厳密緻密なものではありません。いわゆる現場合わせの技術が高度だったのでしょう。

 蘇鉄と兎(うさぎ)。やけに耳が短いので狸か狐かと思いました。面白いモチーフです。縁の下にあります。

 これも前の縁の下にある唐獅子二頭。

 後ろは唐獅子と鶏。鶏(酉)は神社と深い関係があります。天照大神(あまてらすおおみかみ)が 天岩戸に隠れた時、鶏の声や人の賑やかさに戸を開けたといいます。鶏のその功績により「神鶏(しんけい)」とされ、神様の使いとされるようになったといわれています。

 縁の下には二枚の木彫。上は鷹に松と竹ですが、下の花はなんでしょう。古代史に出る有名な花。ガガイモではなさそうで。なんでしょう。

 もう一枚の木彫。残念なのは反対側の二枚の木彫がないのです。おそらく盗まれたのでしょう。残念なことです。

 左右は脇障子の木彫。竹林七賢人。中は脇障子上の下り龍。正面扉の左右の脇羽目には、中国,唐代の隠者,詩人である寒山と拾得(じっとく)が彫られています。中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わるものです。写真は前回の記事をご覧ください。
寒山拾得は、日本人の琴線に触れるものがあるのでしょう。様々な絵師が描いています
   一たび寒山に住みて 万事休す
   更に雑念の心頭に掛かることなし
   閑(しず)かに石壁に於いて詩句を題し
   任運なること還(ま)た 繋がざる舟に同じ(寒山)

   君見ずや三界の中(うち) 紛として擾擾(じょうじょう)
   只だ無明(むみょう)の了絶せざるが為なり
   一念不生にして 心 澄然(ちょうぜん)なれば
   去(きょ)無く 来(らい)無く 生滅(しょうめつ)せず(拾得)


 神社の由緒と説明。塩尻の北熊井諏訪神社もいずれ参拝したいと思います。

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その美しさから「見返りの塔」と呼ばれる大法寺の国宝三重塔。佐良志奈神社。国楽館戸倉ホテル(妻女山里山通信)

2018-01-08 | 歴史・地理・雑学
 3日は息子達と分かれて青木村の国宝大法寺三重塔へ向かいました。前夜に雪が降ったので雪景色の三重塔が撮影できるかなと思ったのです。昨年の春に梅が咲き始めの頃に訪れて以来です。
その美しさから「見返りの塔」と呼ばれる大法寺の国宝三重塔へ(妻女山里山通信)2017.4.2
 大法寺の縁起や歴史、三重塔の珍しい構造については、詳細に記している上のリンクの記事をご覧ください。なぜ見返りの塔と呼ばれるほど美しいのか。その完璧に近い美しさの秘密は。北条氏が庇護した塩田平の栄華。

(左)南面はかなり溶けていました。(中)背後に回るとこんな感じ。(右)美しいシルエット。

 北北西からのカット。逆光で完璧に近い美しいシルエットが浮かび上がります。

 北北東からのカット。雪が溶けて現れた檜皮葺の質感と雪の対比が面白い。この位置から撮影すると、左後方に借景として夫神岳が入るのがいいですね。

(左)溶けた雪が雫となって屋根の中央から幾筋も落ちています。その音も情緒があります。(中)日本刀の切っ先の下のカーブを連想させる美しく鋭いライン。(右)観音堂越しに見る塩田平。奥に拙書でも紹介している独鈷山が見えます。なかなか厳しい山で、冬には滑落死亡事故も起きています。軽アイゼン以上の装備などが必要です。

 地衣類のウメノキゴケがついた桜の枝越しに三重塔。木の体温と太陽の力で雪はどんどん溶けていきます。ウメノキゴケは排気ガスなどに弱く、環境の良さを測るバロメーターになります。

(左)境内の石像。(中)境内に登る石段。(右)参道にある羅漢石像。酒を酌み交わす二人。

(左)参道にある羅漢石像も雪をかぶっています。母子像とか色々あるので探してみましょう。(中)大法寺本堂。(右)内部。
大法寺ホームページ
青木村の国宝大法寺三重塔のページ
大法寺ウィキペディア

 大法寺から143号に出る途中で撮影した子檀嶺岳(こまゆみだけ)。拙書の表紙になっている山です。ルビが振ってなければとても読めない山名ですが、拙書ではその由来や歴史を記しています。やはり冬季は冬山の装備が必要です。狭い山頂の南面が100m以上の崖なので転落しないように注意。

(左)上田アリオへ向かったのですが、間違って右折してしまったのでそのまま麺屋蕪村へ。濃厚鶏白湯鰹出汁のバランスの良い美味しいラーメンでした。次はあご出汁麺を八幡原の向かいにある篠ノ井店で食べてみましょう。(中)戸倉上山田温泉の八王子山の北側にある佐良志奈神社。(右)茅の輪くぐり。左回りに八の字を書いて厄除け祈願をします。茅の輪といいますが、笹竹だったり杉の葉だったりと、神社によって様々です。
 拙書の冠着山(姨捨山)へ登る佐良志奈神社コースは、ここが出発地点です。
姥捨山スライドショー。(妻女山里山通信)佐良志奈神社コース(通称鳴海新道)を鳴海さんと登ったスライドショーです。

(左)変わって6日は「国楽館 戸倉ホテル」で吉例の新年会。高校の同級生が主人なので色々とわがままも効きます。(中)陶板焼きに鯉こく、蕎麦に刺し身に天ぷらに茶碗蒸し、この後大きなブリのカマ焼きがつきます。(右)昭和レトロな旅館です。今時部屋に鏡台やダイヤル式の電話がある旅館などそうそうありません。お風呂は源泉なので最高です。地下には卓球室もあります。

(左)国楽館の玄関。(中)玄関上の木彫。誰の作でしょうね。(右)千曲川堤防の上から望む、左に五里ヶ峯と右に村上義清の葛尾城跡。両山とも拙書で歴史やコースを詳しく紹介しています。今年も六文銭まんぢうと干支の茶飲み茶碗をもらって帰りましたが、もう3周ぐらいしていますね。

 帰りにホームグラウンドの妻女山(旧赤坂山)に立ち寄りました。二名ほど鞍骨山へ向かった様です。中央に茶臼山。右奥に虫倉山。左奥の白馬三山は雲の向こう。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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元旦の初詣は、長野市安茂里の犀川神社へ。2日は真田幸隆昌幸の長谷寺。真田信綱の信綱寺。真田横尾神社。肉うどんの中村屋(妻女山里山通信)

2018-01-07 | 歴史・地理・雑学
   あけましておめでとうございます

 元旦はゆるゆると起きて初詣は犀川神社へ。私がこの神社に興味を持ったのは、祭神が大山咋命(くいのみこと)だからなんです。『古事記』では、須佐之男命の子・大年神が、天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)を娶って生まれた子と記しています。信州の神社は、諏訪大社に象徴される様に圧倒的に諏訪系、つまり出雲系の神社が多いのです。犀川神社と同じ伊勢系の神社は、近隣では千曲市松代藩が庇護した御神事で有名な雨宮の雨宮日吉神社がその系統です。
「旧久保寺の氏神、祭神は大山咋命(くいのみこと)。天安2年(858)月林寺の鎮守として日吉山王が此の地に祀られたのではないかと伝えられてきた。日吉山王社と呼ばれてきた。文政7年(1824)社号を犀川神社と改称。祭日は4月30日、5月1日、7月26,27日、9月21,22日」(長野市のサイトより)
犀川神社 秋季例大祭 杜花火 長野県長野市安茂里 平成28(2016)-09-21
■01A 犀川神社(小西組)の神楽屋台 (長野市安茂里)

(左)旧大町街道の小路を歩いて山門へ。参道は今では生活道路になっています。狭いです。(中)犀川神社。上にリンクした秋の例大祭の太々神楽(だいだいかぐら)と杜花火はもの凄いです。伊勢系の神社ですね。(右)善男善女が列を作って初詣で。お守りとミカンをいただきました。

(左)犀川神社境内図。南方熊楠が猛反対した合祀令の結果でしょうね。(中)境内から見る風景。元旦恒例の小学生のマラソン大会がありました。(右)神社近くから望む善光寺平。北陸新幹線の向こうに長野市南部の山が霞んで見えます。

(左)昼は幻の小麦、イガチクオレゴンのうどんを塩皮鯨の出汁で汁を作り、辛味大根をおろしていただきました。写真の夕食は、塩鮭と白菜や天然キノコに青大根のおろしを添えた雑煮。ナマコの酢醤油。蕗味噌。野沢菜漬け。石川県の天狗舞の山卸廃止仕込の純米酒。(中・右)在京時代からわが家では、元旦の夜はウィーンフィルのニューイヤーコンサートを聴くのが習わしです。ラデツキー行進曲が流れる頃には、そうとうお酒が回っています。

(左)翌日2日は真田の真田幸隆と昌幸の墓がある長谷寺(ちょうこくじ)へ。(中)招き猫のおみくじ。昨年は右手を上げたもので大吉でした。今年は左手を上げたやや大きいオス猫で末吉。精進しましょう。(右)本堂内部。

(左)本堂裏手の墓所。(中)説明看板。(右)五円玉を六文銭に見立てて奉納。

 中央が真田幸隆の墓。左がご婦人。右が昌幸の墓。諸行無常会者定離。

(左)次は幸隆の兄で長篠の戦いで討ち死にした真田信綱の信綱寺へ。馬頭観音。(中)黒門。(右)歴史の丘。

 真田三代ゆかりの地 歴史の丘。上田市がめちゃくちゃ頑張って作った公園なんですが、知名度は低くいつ訪れても人影はまばらです。真田フリークのみなさん、ぜひ訪れてください。

(左)信綱寺手前の建造物なんですが、鐘楼でもないし今ひとつなんなのか分かりません。(中)本堂。(右)常香炉の上の獅子の像。

 真田信綱の墓所。

(左)近くの集落の中にある横尾神社。近くには横尾城跡(馬引城跡)もあります。(中・右)なかなか見事な木彫。

(左)上田電鉄真田傍陽線の橋の遺構。(中)伊勢山トンネルの遺構。(右)昼食は上田駅近くの肉うどんの中村屋へ。

(左)馬肉うどんと小天丼のセット。上田市民のソウルフードです。行列ができていました。馬肉だけの出汁は濃厚です。(中)帰って次男のスバルR1で買い物へ。大人の男三人が乗る車ではありません。しかしスバルが本気を出して作った軽自動車なのでいいですよ。(右)夕食は豚バラ肉を塩麹で漬けて、玉葱、人参、デルモンテの濃厚リコピンリッチで煮込んだトマトシチュー。大鹿村の鹿肉ソーセージと舞茸のソテー。チーズと長芋入りの卵焼き。フランスパン。チリのカベルネ・ソービニヨンなどなど。穏やかな正月でした。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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大晦日は鬼無里村の東京へ。賀茂神社春日神社と白髭神社。貴女紅葉の松厳寺。戸倉の水上布奈山神社(妻女山里山通信)

2018-01-05 | 歴史・地理・雑学
 大晦日はどこへ参ろうと話していたら、長男から鬼無里村の東京へ行こうと提案が。鬼無里に東京!? そうなんです。昨年の夏に遠山郷と大鹿村から帰る途中、東京の入り口の案内図を撮影しました。ちなみに読みはとうきょうではなく、ひがしきょう。
『日本書紀』に、天武天皇十三年(684年)に飛鳥から都を遷す土地を探すため、天皇が使者を遣わしたという記述があります。なぜ遷都を計画したのでしょう。私はその684年に起きた白鳳地震(天武地震、南海トラフ全域が震源域の可能性あり。 - M 8 1⁄4)と関係があるのではと考えています。日本最古の津波記録も残っているとか。
遠山郷の旧木沢小学校、大鹿村中央構造線博物館、鹿塩温泉山塩館、小渋ダム。大町エネルギー博物館、大町ダム、鬼無里の東京!?(妻女山里山通信
鬼無里村公式ホームページ
 村の概要(伝説・歴史・要覧)を読むとその歴史が分かります。

(左)東京公民館。(中)すぐ上に賀茂神社。(右)神楽殿。

(左)賀茂神社本殿。(中・右)狛犬。

(左)内部。左大臣右大臣の像があります。(中)御神木の見事な杉、斜めに生えているのは、やはり御神木のねずこ。(右)神社の鳥居の手前にある土蔵の鏝絵(こてえ)。能面なのは、やはり貴女紅葉の伝説からでしょう。

(左)下って西京の春日神社へ。鳥居をくぐると右に神楽殿。(中)本殿。(右)床下に面白い石がたくさんあります。基礎に使った玉石でしょうか。

(左)重要文化財の白髭神社へ。(中・右)狛犬。賀茂神社の狛犬と似ていますが、阿吽の獅子の位置が左右逆です。狛犬といいますが、本来は「獅子・狛犬」で、口を開けた阿の方が獅子なのだとか。左右を逆にするのは色々な説がある様です。

(左)白髭神社拝殿。後ろに本殿が安置された覆屋がありますが普段は見られません。(中)本殿の写真。(右)白髭神社御由緒。

 神社駐車場から見上げる戸隠連峰西岳の勇姿。

(左)貴女紅葉守護仏の寺院「凌雲山松巌寺」の山門。曹洞宗の寺院です。(中)本堂。(右)本堂の見事な木彫。本堂に入ると明治の天才宮彫師・北村喜代松の本が置いてありました。『谷の京物語 伝説の鬼無里』と共に買い求めました。車に財布を取りに行く際にご住職に出会ったので、本を頂きます。お金はお盆の上でいいですかと言ったら、いいですよと。たくさん本やお守りが置いてあるのですが、お金が置きっぱなし。大らかです。両者とも本当にいい本です。じっくり味わいたいと思います。

(左)荒ぶる波と亀。数十匹いるらしいです。一本の欅からこれを掘り起こしているわけです。葛飾北斎の影響を受けている様ですが、さらに鋭い感じがします。(右)木鼻の唐獅子と、右は毛が逆立っていて耳が垂れていないので象ではなく貘でしょう。色が他と異なるのは防腐剤を塗ったためと思われます。

(左)本堂内部。驚いたことに自動ドアです。(中)300年前の仏たち。木喰山居作。明暦元年(1655)〜亨保九年(1724)。(右)本堂には、紅葉伝説絵巻の絵がたくさん飾られています。

(左・中)鬼無里の貴女紅葉が、後に戸隠の鬼女に化身し、平維茂(たいらのこれもち)に退治されて、村の名が「水無瀬」から「鬼無里」に変わったという伝承があります。(右)国宝「童子切安綱」(脇差し・49cm)。平維茂が鬼女紅葉を討ったとされる刀です。

 南を見ると山姥伝説の虫倉山。神城断層地震で山頂が4割崩壊してしまいました。山姥伝説と貴女伝説はどこか通じるものがある様に思います。拙書でも登山コースを紹介していますが、いずれも南面です。北面のこの風景は新鮮なものがあります。低山ですが厳しい山です。

(左)406号を下って長野へ戻る途中に裾花ダムに立ち寄りました。事務所が閉まっていてダムカードはもらえませんでしたが。(中)ダム湖は凍っていました。(右)少し遅い昼は、松代の象山神社近くの娑羅樹庵へ。大盛り蕎麦。400グラムで息子達は余裕ですが、私には多過ぎ。手伝ってもらいました。薬味は辛味大根と葱だけ使い、山葵は使いません。濃厚な蕎麦湯を飲んで満足。昼に食べる年越し蕎麦でした。

(左)象山神社に参拝。(中)戸倉上山田温泉の万葉超音波温泉に入って立ち寄った水上布奈山神社。(右)大祓(おおはらえ、おおはらい)のための茅の輪。素盞鳴尊(すさのおのみこと)が旅の途中で、蘇民将来(そみんしょうらい)に世話になった故事に由来します。左回りで八の字に回って茅の輪くぐりをします。
名宮大工棟梁・大隅流柴宮長左衛門矩重の木彫が圧巻! 千曲市戸倉の水上布奈山神社(妻女山里山通信)
 前回は、扉が閉まっていてその隙間からの撮影でしたが、今回は開けられていて両側にある展望台や裏側もつぶさに見ることができました。本当に見事な木彫です。今回は説明抜きで写真だけをお見せします。







(左)途中の原信で刺し身を買いました。新潟のスーパーなので魚介類の新鮮さは他のスーパーの追随を許しません。そして牡蠣とキノコの味噌おろし鍋。味噌、青大根(中国大根)は自家製。私が採った天然ナメコとクリタケを入れて。柔らか小葱も地物。これは絶品です。(中)日本酒は次男が持ってきた秋田の地酒吟醸酒まんさくの花。(右)しめは私が買ってきた屋代の神尾の卵でおじや。美味しいんですよこの卵。特に初産みMSサイズ(小ぶりで濃厚)はすぐに売り切れてしまいます。長男が福井で買ってきた私の大好物、鯖のへしこ(へしこ工房 嵯峨)も超絶美味でした。そんなこんなで2017年の大晦日はゆるゆると新年へ向かっていったのです。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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岡谷の彌林山平福寺。釜口水門と『君の名は。』の聖地・諏訪湖。霧ヶ峰の絶景からの海野宿(妻女山里山通信)

2018-01-04 | 歴史・地理・雑学
 年末年始は、古社古刹巡り三昧でした。順にアップしていきます。まず30日は、東京から来る次男を長男と岡谷の真言宗智山派の古刹、彌林山平福寺で待ちました。雲一つないピーカンで、穏やかな日でした。
平福寺ホームページ

(左)駐車場にあった旧中仙道沿いの文化財の地図。(中)旧中仙道に面する平福寺。左に平福寺おひぎりさま会館。(右)山門の額は、弥林山と新字体。檀家の方が初詣の準備をしていました。信州では二年参りをする人が多いのですが、これは新潟と信州だけの言い方の様です。西日本では三社参りといって三つの神社に初詣する風習もありますし、東京でも初詣でとはいいますが、二年参りは聞いたことがないですね。

(左)「日を限って願掛けすれば、不思議にも聞き届けてくださる」ことで有名な「日限地蔵尊」が祀られる日限堂。大正十四年(1925)に現在の日限堂が建立。(中)鳳凰の宮彫り。(右)龍の宮彫り。諏訪立川流の流れを感じますが、宮彫氏は誰でしょう。

(左)本堂。高嶋藩主忠虎公(1663-1731)の帰依のもと、諸堂を建立、本尊金剛界大日如来を造顕し、悲願の復興を遂げたとあります。(中)鷹と松。(右)両脇の木鼻には唐獅子と象。諏訪立川流の初期の作でしょうか。友人の宮彫り研究家からメールが来ました。「驚いたことにほとんどすべてが長野市長沼の武田苞信(熊治)の彫物です。」ということです。大正から昭和になると諏訪の立川流、大隅流の後継者が育たず北信から宮彫師が出張したそうです。春宮の近くの宝光院、慈雲禅寺にも苞信の作品があるとか。これは意外でした。

(左)本堂にお参りします。ご本尊は、金剛界大日如来坐像。(江戸中期・桂材寄木造)【岡谷市文化財指定】(中)日限地蔵尊の分身、1000体が祀られる千体地蔵堂。2007年寄進。(右)日限堂に安置される地蔵菩薩立像(江戸期・桂材一木造)。写真に写っているのは前立本尊。ご本尊は普段は厨子に入る秘仏で、丑・未の歳に御開帳されます。

(左)ホームページにも解説がありませんが、日限堂左脇の一角。小さな仏像は、念持仏でしょうか。(中)七福神。(右)駐車場の北には弘法大師の像。

(左)次に向かったのは、諏訪湖の南西にある釜口水門。ここから天竜川が始まります。この橋の上は漁協の範囲外らしく、橋の上では大勢の太公望がワカサギを釣っていました。バケツいっぱい釣っている名人もいました。(中)諏訪湖から遠く八ヶ岳連峰を望む。湖面には薄氷があちこちに見られました。(右)釜口水門の脇にある「水の資料室」では、1936年(昭和11年)に竣工した旧水門の写真や洪水の写真、現在の水門の構造などが見られます。また、水門カードがもらえます。
釜口水門ウィキペディア
釜口水門管理システム

(左)旧釜口水門の一部が残っていて上に登れます。(中)昭和7〜9年に、旧釜口水門の建設に使ったアメリカ・オハイオ州のヘイト・ルート・ヒース社のガソリン4気筒水冷エンジンの機関車。約20台のトロッコを牽引したそうです。1924年(大正13年)購入の、当時としては最新鋭の機関車だとか。(右)昼は麺屋蔵人岡谷道場へ。私は蔵人焼き味噌らーめん 750円+味玉100円。鉄鍋で供されます。味噌どころ信州は味噌ラーメンが美味しい店が多いのですが、ここのも美味でした。

 釜口水門から望む八ヶ岳連峰の勇姿。美しい湖面ですが、ワカサギの大量死が起きたり、色々と問題も抱えているようです。世界でも人気の新海誠監督の『君の名は。』の彗星が落ちた糸守湖の舞台ともいわれる諏訪湖で聖地とされていますが、岐阜県の飛騨高山が舞台なのでその近くの湖ではという説もあるようですが、まあ両方を素材としたのではないでしょうか。二人の人物の間で記憶や人格が入れ替わるというのは、世界各地で例が報告されているそうですが、どうなんでしょうね。自我や己とは何かとかレーゾン・デートル(存在理由)を考えるきっかけになるかも知れません。私は老子の「無為自然」が好きですが、なかなか煩悩がそれを許しません。
 次に向かったのは、国指定重要文化財の片倉館。

(左)【国指定重要文化財】財団法人片倉館の千人風呂の建物。実際は100人ぐらいとサイトには書いてあります。(中)片倉館の大理石の柱。四隅が逆V字に彫られているのですが、これと全く同じものが平福寺本堂にありました。建築関係の次男や林業関係の長男が気付いたのですが、特に平福寺のものはルーターもない頃にどうやって加工したのだろうと不思議がっていました。またこの加工の様式名はなんていうのでしょう。(右)昭和3年当時の婦人浴室の写真。当時は混浴も普通だったとはいえよく撮影させてくれましたね。ちなみに男風呂の方は、こ汚いおやじがひとり横になっているものでした。
【国指定重要文化財】財団法人片倉館

(左)次に諏訪二葉高校の脇を登って40号を霧ヶ峰高原へ。スノーブーツに履き替えて車山はちょっと遠いので霧ヶ峰へ。(中)拙書でも紹介の蓼科山や車山、霧ヶ峰は信州のほぼど真ん中にあるので、条件が良ければほぼ信州中の主な山々が見られます。奥は中央アルプス。向こう側に歩くと伊那谷も見えます。(右)ここまでクリアに穏やかに晴れる日はそうないでしょうで、思わずガッツポーズ。後ろは北アルプス。

 霧ヶ峰から見る左に穂高連峰と右に槍ヶ岳。穂高はかなり強風が吹いている感じですね。右手前は鉢伏山でしょうか。手前は八島ヶ原高層湿原。ビーナスラインが見えます。

 魚眼レンズで撮影してみました。右端の白馬三山が雪雲の中ですが、北アルプスのほぼ全部が見えています。真上の空はプルシャンブルー。宇宙を感じさせる色です。右には美ヶ原の王ヶ頭も見えています。逆光にはなりますが、左には乗鞍岳、御嶽山も見えました。

(左)振り向けば左奥に拙書でも紹介の蓼科山。右手前に車山。(中)40号を白樺湖方面へ。途中のドライブイン霧ヶ峰富士見台からの富士山。積雪が最も多いのが4月、少ない黒富士は9月。(右)40号から152号大門街道を下って立ち寄った長門町道の駅に置いてあったダイハツの三輪トラック(オート三輪)。こんなひっくり返りやすいトラックがなぜ売れたか。ちょっと悲しい歴史がありました。

(左)最後は「日本の道百選」にも選ばれた海野宿へ。観光シーズンに訪れても静かなんですが…。それがここの魅力です。(中)近くの古民家からピアノの音が漏れてきました。(右)白鳥神社。この地の産土神社でもあると共に、海野氏、真田氏の氏神として祀られた歴史のある神社なんですが、派手な木彫もなく地味な佇まいです。日本武尊・貞元親王・善淵王・海野広道公の四柱を御祭神として祀っています。真田家が松代へ移封となり、白鳥大明神を松代へ分社し、安政五年、海野神社と改称しましたが、明治十三年、郷社に列格し白鳥神社と改称しています。ちなみに海野宿の社はしらとりじんじゃと読みますが、松代西条の社は本家に遠慮してしろとりじんじゃといいます。
海野宿サイト
白鳥神社公式ホームページ
 帰路につく途中で善光寺参りの精進落しの湯といわれる戸倉上山田温泉の万葉超音波温泉に入って温まって帰りました。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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