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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

謹賀新年。初詣は古代科野国の祖、産土神の会津比売神社へ。元旦初登山で鞍骨城跡への人達も(妻女山里山通信)

2017-01-01 | 歴史・地理・雑学

 明けましておめでとうございます。初詣は会津比売神社へ。会津比売命は、諏訪大社の祭神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の子、出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)の子といわれています。つまり大国主命の曾孫。しかも、古事記によると神武天皇の子、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫といわれる、大和王権より初代科野(信濃)国造に任ぜられた武五百建命(たけいおたつのみこと)の室(妻)といわれています。
■科野国造 武五百建命と妻 会津比売命の家系図(諸説あり)
神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
          大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命(出速姫神)

 会津比売神社はいわゆる式外社(『延喜式』神名帳に記載の無い神社)ですが、「国史現在社」です。「国史現在社」とは、式外社ですが、『六国史』にその名前が見られる神社のことを、特に国史現在社(国史見在社とも)と呼びます(広義には式内社であるものも含む)。『六国史』とは、『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』。

(左)戊辰戦争以降の戦没者を祀る妻女山松代招魂社。(中)その南にある大正天皇が皇太子の特に訪れた石碑。大阪から来た男性を堂平大塚古墳へ亡き友人の慰霊碑に参るので、斎場山と陣馬平案内しますが行きませんかと。お連れしました。帰ると中国人の歴史好きカップルが来訪。謙信の本陣と伝わる斎場山の話をし、拙書も紹介しました。(右)慌ただしく帰宅して昼は信州の埴科と更科の郷土料理、おしぼりうどんの用意。うどんは地元のユメセイキや地粉をブレンドした私の手打ちです。汁と絡みやすい様にやや柔らかめ。おしぼりは、友人のS氏が作った激辛の辛味大根。これに信州味噌を溶いて花鰹をまぶした汁でいただきます。長く太く生きるという願いを込めた正月料理です。うどんの原点の食べ方ともいわれる古い郷土料理です。私のおしぼりうどんのレシピはこちら。長野市南部の篠ノ井や松代、千曲市の戸倉上山田温泉、坂城町では食べられるお店があります。ぜひ一度食べてみてください。うどんに対する概念が変わります。おしぼり蕎麦もおすすめ。

 妻女山(旧赤坂山)展望台からの西北西の展望。北アルプスは晴れているようですが、その手前に雲がかかっています。一番右の里山は茶臼山。その右奥は虫倉山。あそこまでが松代藩の領地でした。

 真北を見ると川中島(善光寺平)。おだやかな元旦です。午前中はほぼ無風でした。戸隠連峰と飯縄山は雲に隠れています。手前の広大な農地は名産の長芋畑。長芋100%のお好み焼きは絶品です。手作りさつま揚げに入れたり、海老しんじょうにしたり、色々応用が効きます。また、とろろはインフルエンザに対する予防効果もあるそうです。

 東方は松代城方面。昨年は『真田丸』ので大賑わいでしたが、その余韻は、まだ続いていて、大勢の人が訪れています。ゴールデンウィークぐらいまでは続きそうです。鞍骨城からご夫婦が下りてきました。5,6人のハイカーが登った様です。拙書を愛読してくださっているそうです。面白くて毎日読んでいると言ってくださいました。本当に嬉しいことです。

 その後、松代PAへ。ここは外からも利用できます。中央の丸い山が斎場山(旧妻女山)。山頂は謙信の本陣と伝わる山で、古代科野国の古墳です。松代PAには松代の説明看板もあります。

 松代PAから南方の眺め。逆光でパノラマ写真は無理かなと思ったのですが、なんとかつないでみました。保基谷岳の手前のプリン型の山は皆神山です。右の陣馬平を右へ下ると長坂峠。奥に斎場山、下って妻女山と続きます。帰って奄美黒糖焼酎のれんとのお湯割りを飲みながらゆるゆると天皇杯の鹿島 vs川崎戦を見ました。本当に穏やかな元旦でしたが、今年は何か重大な事件や天変地異が起きる予感がします。

貞観地震と仁和地震
•貞観元年(859年)河内・和泉両国の陶窯用の薪山争い起こる。饒益神宝を鋳造する。
★貞観2年(860年)出速雄神に従五位下〔延喜元年(901年)の日本三代実録〕
•貞観3年(861年)4月7日、直方隕石が落下。落下の目撃がある世界最古の隕石。
★貞観4年(862)埴科郡大領外従七位金刺舎人正長。廿日戊子 信濃國埴科郡大領-外從七位上-金刺舍人-正長(日本三代実録)
★貞観5年(863)信濃国諏訪郡の人右近衛将監正六位上金刺舎人貞長、姓を大朝臣と賜わる。これ神八井耳命の苗裔(びょうえい)也。
•貞観6年(864年)富士山噴火(貞観大噴火)
•貞観8年(866年)閏3月10日、内裏朝堂院の正門・応天門が放火によって炎上、これを巧みに利用して伴氏・源氏の追い落としに成功した藤原良房は、同年8月19日、天皇の外祖父であることを理由に人臣初の摂政に任命された。応天門の変。
★貞観8年(866年)に會津比売神に従四位下
•貞観10年(868年)7月8日、播磨国で地震。日本三代実録によれば官舎、諸寺堂塔ことごとく頽倒の記述。前年から引き続き、毎月のように地震があったことも見受けられる。
•貞観11年(869年)格12巻が完成。貞観地震とそれに伴う貞観津波が発生。貞観の韓寇。
•貞観12年(870年)貞観永宝が鋳造される。
•貞観13年(871年)式20巻が完成。貞観格式の完成。鳥海山噴火。
★貞観14年(872年)出速雄神に従五位上
•貞観16年(874年)開聞岳噴火。
•元慶2年(878年)相模・武蔵地震(現在の関東地方における地震)伊勢原断層の活動によるM 7.4の大地震
★元慶2年(878年)出速雄神に正五位下
•仁和3年(887年)8月22日(8月26日)に仁和地震(南海地震、M 8.0~8.5。東海・東南海との連動説も有り)。
 八ヶ岳が突然水蒸気爆発をおこし崩壊。千曲川・相木川を堰き止めて“大海(南牧湖)”や“小海湖”を造った。天狗岳と硫黄岳の東側斜面が大きく崩れた跡が今でも見られる。
•仁和4年(888年)決壊し、善光寺平までその被害は及んだ。
•寛弘8年8月3日(1011年9月3日)に再決壊。下流域に再び災厄を撒き散らして完全に消滅した。
 長さ3kmに達した「小海」は、古地図等からその後600年以上、江戸時代初期まで残っていたことが確認できるが、いつどうやって消滅したのか判っていない。
•延喜元年(901年)の日本三代実録。会津比売神社は式外社となる。

•寛保2年(1742年)の大洪水が「戌の満水」。死者は2800人以上。
•弘化4年(1847)善光寺地震による土砂崩れが犀川をせき止め、崩壊し下流に大きな被害をもたらした。死者は8600人以上。松代藩の財政は破綻した。


 翌日の2日は、さらに穏やかな日となりました。家にいては食べて飲んで太るだけなので茶臼山へ。足跡がけっこうあったので元旦ハイクをした方がいるようです。MTBの轍もありました。友人がここの登山道の整備をしていて、MTBのコースとしての整備も考えているということです。拙書でも紹介の小松原コースは、ハイカーも少なくコースもMTB向きなので提案をしました。まず北アルプス展望台へ。白馬三山と右手前に神話の山、虫倉山。2014年の神城断層地震で山頂が4割も崩壊してしまいました。残りの4割にもクラックが入っているので、再び大地震があれば崩壊必至です。

 帰りの道すがら。信里小学校の少し下から善光寺平南部のパノラマ。山座同定をしてみました。亜高山も積雪が少なめの新年です。

妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。「きつつき戦法とは」、「武田別動隊経路図」など。このブログでも右上で「妻女山」でブログ内検索していただくとたくさん記事がご覧いただけます。
上杉謙信布陣の斎場山と陣場平「今昔物語」 昭和22年にGHQが撮影した斎場山、妻女山、陣場平の空撮と江戸時代後期の榎田良長彩色『川中島謙信陣捕之圖』。
川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。 ホームページとブログから選択して作ったリンク集「妻女山まとめ」

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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村上春樹さんのジャズ喫茶 - 『国分寺・国立70sグラフィティ』目次 [CONTENTS]
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久しぶりのジェイソンパーティーと村上義清の里巡り。真田丸何するものぞか…(妻女山里山通信)

2016-12-25 | 歴史・地理・雑学
 今回は妻女山里山デザイン・プロジェクトの作業ではなく、メンバーのK氏が千曲川河川敷でのハリエンジュの伐採権を得たためのジェイソンパーティー。伐採したものはK氏の自宅のストーブの燃料となります。したがって今回は全部彼のおごりです。

(左)坂城大橋の下に到着。ユニックとトラックとバン一台で到着。(中)まず伐採地の確認。今回は細い木ばかりです。楽かというとさにあらず。(右)伐採は皆で一斉にやると危険なのでN氏に依頼。スチールのチェーンソーで切っていきます。ハリエンジュは非常に硬いのでこんなに細くても簡単に伐倒できません。ましてや20センチ以上になると結構大変です。その分火持ちもいいのですが、特有の香りがあるので好みは別れるかも知れません。

(左)切ったものを残りのメンバーがチェーンソーやナタや手鋸で処理して行きます。(中)太い部分は3〜4mに。先っぽの枝はとりあえず積みます。これが棘だらけで痛いのなんの。左手の手首に棘が刺さって血だらけになりました(笑)。(右)あるハリエンジュにアラゲキクラゲがびっしり生えていました。私が全部もらいました。乾燥して保存します。

(左)今回最も太かったハリエンジュ。受け口を作って伐採します。(中)倒れます。(右)切ったものを玉切りしたり枝をはらったり、トラックに積み込んだり。皆作業手順を熟知しているので黙々と作業が進みます。

(左)作業は順調に進んで昼食。K氏が作ってきたおにぎり2種と牡蠣の味噌鍋。牡蠣に長ネギと、私が採ってきた皆で妻女山で栽培している原木椎茸を入れて。馬鹿旨です。信州の年末にしては暖かい日で幸いでした。

(左)綺麗に伐採しました。(中)ユニックに太い材を積み込みました。最も細い小枝はフレコンバッグ2つに入れました。(右)小枝はトラックに。

(左)満載して出発。(中)村上義清の葛尾城跡と飯綱岩稜。右奥は五里ヶ峯。いずれも拙書で紹介しています。(右)坂城大橋を渡って帰ります。葛尾城跡と五里ヶ峯。この後、材を下ろして戸倉上山田の万葉温泉で温まり、慰労会は屋代のやきとり智家で慰労会。生ビールに焼酎2本ボトルを開けて日本酒2合を開けてタクシーで帰還しました。

 翌日のクリスマスイブ、長野市は降雪。里には積もりませんでしたが山はホワイトクリスマス。妻女山展望台からの松代城と尼厳山と雪雲に隠れる奇妙山。10時頃までは横殴りの吹雪でした。

(左)長男と待ち合わせて川中島の麒麟児で鶏の中華そばと餃子を食べて坂城の村上義清の里、村上郷にあるびんぐし湯さん館へ。硫黄の香りがするいいお湯です。露天風呂からは坂城の町が一望できます。お風呂からあがると、休憩所のテレビでは『真田丸』の最終回の再放送をやっていました。その後近くの村上義清にまつわる村上大國魂神社へ。この上に村上義清の狐落城・三水城があります。(中)村上義清が作ったという十六夜観月殿。兵火に焼かれましたが江戸時代に再建。観月の名所、鏡台山が見えます。(右)右手を見ると坂城と上田を分ける虚空蔵山。半過岩鼻からグルっと回って歩いてきたという男性が下りてきたのでコースの状況などを聞きました。

(左)その後、半過岩鼻の上にある千曲公園へ。ちゃんと真田丸の看板がありました。拙書ではここの崖に咲く希少なモイワナズナを載せていますが、この撮影は崖にかかったフェンスをよじ登って撮影するという非常に大変なものでした。(中)眼下に上田 道と川の駅交流センターが見えます。(右)拙書でもコースをいくつも紹介していますが、里山とは思えないほど厳しい虚空蔵山。太郎山からの縦走もおすすめです。

 上田市街の向こうに浅間山山系の黒斑山。左手前は雪雲に隠れた烏帽子岳。2座共に拙書で詳しく紹介しています。手前に上信越自動車道のローマン橋のアーチが見えます。今年、上田は松代と共に真田丸で大変盛り上がりました。

 パノラマ写真。3枚の望遠カットをフォトショップでつないであります。右手奥に見えるのは佐久方面の群馬県境の山々です。群馬県との県境は放射能汚染が高めです。山菜やキノコは高汚染しています。詳しくは長野県のホームページで。

 こちらは北側の展望。左に戸倉上山田温泉街が見えます。右手前は岩鼻。奥に葛尾城跡と五里ヶ峯。その向こうは善光寺平。真冬はここを境に南北で天候がガラッと変わります。翌日の最低気温は、-7度と冷え込みました。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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『真田丸』で人気。清野氏と上杉景勝氏の鞍骨城跡へ。北アルプスの絶景に感動(妻女山里山通信)

2016-12-04 | 歴史・地理・雑学
 『真田丸』で人気の清野氏と上杉景勝氏の鞍骨城跡へ登りました。もちろん拙書でも詳しく紹介しています。大河ドラマの影響もあり、全国から歴史マニア、山城マニア、歴女などが訪れる様になりました。展望の良さも人気の秘密です。

(左)妻女山奥の駐車場から右の林道を登って15分で長坂峠。正面は上杉謙信の本陣と伝わる斎場山(旧妻女山)。今回はこの分岐を左へ。(中)林道から天城山(てしろやま)への登山道へ。落葉して北アルプスも見える様になりました。(右)巻道を使って二本松峠。

(左)この二本松峠の標識がまた180度回されていました。設置したMさんも怒っています。倉科の人が清野に行くのに登ったので倉科側が清野坂、清野側が倉科坂なのです。妻女山の駐車場から左に続く清野側の林道が、林道倉科坂線という表示があるのでも分かると思います。倉科側が倉科坂だろうと誤解してのことでしょうが、本当に迷惑な行為です。今回打ち捨てられた杭にその旨を明記して来ました。(中)深い駒止めと呼ばれる空堀。ここから鞍骨城跡の城内です。(右)ほどなく鞍骨城跡の全貌が見えてきます。

(左)高圧鉄塔の先に二条の空堀。(中)コナラの樹皮にたんこぶ。菌えいです。今回は4個ほど収集しました。(右)鞍骨城跡の麓。ピンクのテープを回収しました。環境破壊、景観破壊、林業従事者への迷惑以外の何物でもありません。いらぬお節介。自分のためにしたのなら回収してください。私と倉科のMさんが設置したかまぼこ板を再利用した矢印の標識があります。それで充分です。城跡へは矢印に従い左(北面)から登ります。

(左)二の郭から見上げる本郭。ここで標識に従い右(南面)に回り込みます。(中)南面の大手から山頂へ。(右)まずその先の二つある展望岩へ20mほど進みます。

 西の展望岩からの北アルプス、白馬三山の勇姿。手前右の山は、通ってきた天城山。右奥は、神城断層地震で山頂が四割も崩壊してしまった虫倉山。拙書でも詳しく紹介しています。

(左)続いてすぐ先にある東の展望岩へ。こちらの方が若干広いです。(中)松代や中野の高社山方面がよく見えます。(右)眼下に松代城跡。奥の崖が見えるのは金井山。やはり城跡があります。その向こうにホワイトリングとMウェーブが見えます。

 松代城跡(海津城跡)の望遠カット。その右上が私の母校で、世界的アコーディオン奏者のCOBAさんや、モーニング娘。16の羽賀朱音ちゃんの母校でもある松代中学。校章は真田の結び雁金です。
鞍骨山など松代周辺の里山トレッキングや観光の宿として「松代ゲストハウス布袋屋」さんをお勧めします。築120年の登録有形文化財に指定されている郷愁を覚える宿です。詳細は、この文をクリックしてホームページを御覧ください

 白馬三山の勇姿。左から白馬鑓ヶ岳、杓子岳、白馬岳。今年はまだ積雪量が少ないですね。厳冬という予報なのですが。どこかでドラスティックに変わるのでしょうか。山頂に戻ると一組の夫婦と男性が。いずれも拙書を持っていました。著者に会えたと喜んでくださいました。『真田丸』で松代城跡が大人気ですが、この鞍骨城跡も訪れる人が増えました。

(左)帰りに見つけたタヌキの溜糞。柿の種があるので信濃柿(豆柿)を食べた様です。(中)鋭いトゲのヤマガシュウ。これが登山道を塞ぐと先へ進めなくなります。今回も剪定バサミで何本か切りました。(右)堂平大塚古墳の上の森でシロに遭遇。前回の記事で紹介したマッシロの母親です。夏毛の白い毛ではなく、すっかり冬毛になっていました。出産後も元気そうで安心しました。

(左)上杉謙信が七棟の陣城を建てたと伝わる陣場平。落葉松もほとんど落葉しました。『甲陽軍鑑』の編者、小幡景憲がその絵を描いており、東北大学の狩野文庫に所蔵されており、許可を得て当ブログで紹介もしています。(中)左がカモガヤ、右がヤブソテツ。ニホンカモシカの冬の貴重な食料です。(右)リョウメンシダ。これもニホンカモシカの餌になります。翌日も快晴だったので、久しぶりに茶臼山へ登りました。北アルプスに近くなるので、さらに迫力のある絶景が見られました。それは次回に。

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松代夢空間主催「妻女山 紅葉と歴史のハイキング」寒風の中、古代科野国の史跡を巡るロマン。キノコ狩りも(妻女山里山通信)

2016-11-07 | 歴史・地理・雑学
 6日の日曜日、松代夢空間主催の「妻女山 紅葉と歴史のハイキング」のインタープリターをしました。総勢20名と春の貝母鑑賞の参加者50人に比べると少なめでしたが、信毎に告知記事が出たのが3日で、その日が締め切りというのも影響したのかも。ただ、今回のコースは獣道や藪山を辿るものであったため、超初心者にはきついコースで、この人数ぐらいがよかったかも知れません。来春はまた満開の貝母を鑑賞するコースを計画しています。今年は平日だったため、参加できませんでしたという声を大勢の人(特に女性)から聞きました。できるだけご希望に添えればと思います。こちらは、また林道歩きや広い登山道がメインとなるため、50〜60人ぐらいでも大丈夫でしょう。中尾山-茶臼山ハイキングがそれぐらいか、それ以上です。その場合は、3班に分け各班にガイドが付き、先頭がインタープリターの私で、最後尾にひとりガイドを付けるといいでしょう。来春は貝母はもちろんですが、土口将軍塚古墳にお連れしたいと思います。

(左)9時15分までに集合で受付をしてもらいました。皆さん時間厳守で早めに集合して頂いたので、挨拶と注意事項のあと軽く動的ストレッチをして、予定より早く出発しました。(中)長坂峠までの林道歩きでオヤマボクチの説明。飯山の富倉蕎麦のつなぎに葉の繊維が使われます。(右)そのオヤマボクチの残花というか、恐らくもう結実していますね。

 まず15分で長坂峠。ここで本当の妻女山、本名斎場山の説明をしました。古代科野国の円墳で、上杉謙信の本陣と伝わる山頂です。そこから15分で土口側に下りて堂平大塚古墳。当日は寒風が強く曇り空で見えませんでしたが、晴れていれば上の写真の様に、北アルプスの仁科三山や白馬三山が綺麗に見えます。眼下には千曲川の清流。ここは友人の私有地で普段は立入禁止なのですが、事前に許可を得ています。

(左)堂平大塚古墳。古墳時代後期のもの。横穴式で複数の埋葬ができます。学者によっては百済の様式といいう見解もあります。(中)春のハイキングはここで引き返しましたが、今回はこの裏山に登ります。ここからは獣道です。ジコボウがいくつかあり、古墳の持ち主に許可を得ていたので、欲しい人には採取してもらいました。裏が黄色いものは食べられますが、茶褐色のものは食べられません。(右)急斜面の獣道を辿ります。この獣道はニホンカモシカが作ったもので、それを人間が利用しているのです。

(左)獣道すらなくなった急斜面を登って積石塚古墳群へ(事前に草刈りをして道っぽくしておきました)。有名な大室古墳群と同じ様に、積石塚があるのですが、ここに来る道がないため、地元の人でも知る人はほとんどいません。積石塚古墳はツングース系の騎馬民族の様式らしく、全国には20万基の古墳があるのですが、積石塚古墳はたった1%。しかし、信州では25%もの積石塚古墳があるのです。ここではそんな古代科野国の話や高句麗、百済、新羅、伽耶の話をしました。
(中)そこからまた獣道を歩いて、私が残しておいたムキタケのシロに案内しました。皆さん夢中で採っていました。このシロは出始めて4、5年経つのでそろそろ出なくなると思います。多孔菌科のキノコが出だしたら終わりでしょう。ムキタケは、ハナイグチなどと鍋や煮込みうどんに入れると絶品です。(右)たくさんキノコを採って最終目的地の天城山(てしろやま)へ向かいます。

(左・中)今回の最高地点、694.6mの天城山山頂。坂山古墳がありますが、戦国時代の天城城跡でもあります。石室は破壊されています。これも南面に石がないので堂平大塚古墳と同様に横穴式だったのかも知れません。(右)ダンコウバイの黄葉の登山道を下ります。この前に尾根上にある清野古墳の説明もしました。タヌキの溜糞もありました。

 時間に余裕があったので私が主宰する妻女山里山デザイン・プロジェクトで貝母の保全活動をしている陣場平に立ち寄りました。ここは、『甲陽軍鑑』の編者の小幡景憲が『河中島合戰圖』(東北大学狩野文庫)で、この陣場平に上杉謙信の七棟の陣小屋を描いていますが、地元の伝説とも符合します。手前の八角形のコンクリートは、旧建設省が測量のために設置した菱形基線測点です。中央やや左の木の上の桃色のものはクマノミズキの実が落ちた後の小枝です。

 この後は妻女山駐車場に下り、中堂島の郷土料理の店「はなや」さんであんず御膳をいただきました。その時には、冬の狩猟期のハイキングの仕方や、装備などもお話しました。当日は曇りで見えませんでしたが、晴れた日には妻女山展望台に登るとこの様な美しい北アルプスの勇姿が見られます。左から仁科三山の爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳。右に白馬三山の白馬鑓ヶ岳、杓子岳、白馬岳。北には戸隠連峰と高妻山。飯縄山に斑尾山。志賀高原の笠ヶ岳に横手山。東に根子岳と真田にまつわる四阿山。善光寺平広しといえども、これらの山々を一望できるのはこの妻女山展望台だけです。ここはまた夕焼けが綺麗です。

 今年の陣馬平の貝母(編笠百合)の満開風景です。今年は10日以上春が早く、4月20日には満開になってしまいました。妻女山里山デザイン・プロジェクトの面々で、ヨシとノイバラの地下茎を除去し、種や球根を植えたので来年が楽しみです。昔薬草畑だったところですが、非常に強い毒草でもあるので、決して持ち帰らないでください。奥に咲く桃色の花はオオヤマザクラ。

(左・中)ハイキングの前々日に突風が吹いたので、もしやと思ってコースのチェックに行くと天城山から林道に出る手前に大きな倒木。完全に登山道を塞いでいました。チェーンソーは持っていませんでしたが、こんなこともあろうかと手鋸を持参。30分ほどかけてやっと通れるようにしました。いずれ完全に除去しましょう。里山保全は本当に大変なんです。(右)早く出発できたお陰で予定時刻に妻女山駐車場に戻ることができました。ここから「はなや」さんに向かい、昼食を頂きながら色々お話をしたり、拙書をお買上げの方にサインをしたりしました。強風で心配しましたが、キノコも採れたし、自然の共生関係の話や歴史の話もあり、皆さん満足して頂いた様で良かったと思います。里山は春夏秋冬、それぞれの魅力があるので、あちこち訪れて欲しいと思います。私は主に妻女山山系と茶臼山山系で撮影や自然観察をしていますので、出会ったらお気軽に声をかけてください。最近は『真田丸』の効果で全国から歴史マニアや歴女が訪れます。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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『真田丸』トレッキング。砥石城跡、望富山陽泰寺、真田氏歴史館、真田本城、山家神社巡り(妻女山里山通信)

2016-11-01 | 歴史・地理・雑学
 妻女山里山デザイン・プロジェクトの面々と、『真田丸』関連の城跡や博物館、古刹神社巡りをしてきました。どこも大変な賑わいでしたが、非常に実りある山行でした。下山後は善光寺参りの精進落しの湯、戸倉上山田温泉の新装なった万葉温泉で温まり、慰労会は屋代の焼き鳥「智家」で。チェーン店にはないいい、加減な温かい対応と安心な料理を堪能しました。

 上田から真田郷に入る入り口の伊勢山の集落の上にある砥石城跡の駐車場(左)。バイオトイレ、リンゴの売店、非常に詳しい説明看板があります。駐車場から登って行くと城門(中)。上に登れます。そこから10分足らずで米山城跡と砥石城跡の鞍部へ(右)。

 まずは左の米山城跡へ(左)10分ほどの急登。振り返ると砥石城跡が見えます。(中)米山城跡。(右)村上義清の大きな石碑があります。

 砥石城跡、米山城跡の歴史。望月氏、滋野氏、海野氏、祢津氏、真田氏、布施氏。

 江戸時代の文政三年に描かれた砥石・米山城跡の古城図のレプリカ。※後日松代の真田宝物館でこの原画を観てきました。もっと精緻で明瞭でした。

 有毒のヒヨドリジョウゴ(左)。冬まで残っている実は有毒と思って間違いありません。ヤクシソウ(中)。薬師草と書くように、薬草として用いられました。樹上にもあったシダ植物(右)。葉の白っぽい丸い点の裏には胞子がありました。

 鞍部から砥石城跡への登りは階段(左)。急登ですが距離は短いので山歩きをしている人ならまったく問題ありません。砥石城跡(中)。西の上田市街地や塩田平方面の眺望が抜群です。山で旨いはオケラにトトキのオケラ(右)。

 砥石城跡の説明看板。

 砥石城跡からの西方の眺め。中央に独鈷山。眼下に上田市街。右奥に別所温泉のある塩田平。その右には子檀嶺岳も。いずれも拙書で紹介しています。槍ヶ岳も見えました。このカットは、二枚の望遠カットをフォトショップで繋いで合成したものです。

 砥石城跡の北側は高い切岸(左)。緩やかに赤松の尾根を進むと本城の段郭が見えてきました(中)。手前は大手口。本城の上はかなり広い平地。周囲には幾重にも広い段郭があり、いくつもの館があったことが偲ばれます。

 最終目的地の桝形城跡(左)。ここで昼餉の宴。メインディッシュはK氏が打ってきたイガチクオレゴンと夢力ブレンドの手打ちうどんに、私が採ってきた7種類の天然キノコ(ハナイグチ、ムキタケ、ハタケシメジ、ヒラタケ、クリタケ、ムラサキシメジ、ナラタケ)の絶品煮込みうどん(中・右)。そしてN氏の黒海老、ヤリイカ、鶏、ワカサギなどのアヒージョ。バゲットに味の滲み出たオリーブ油を浸けて食べると最高。更にK氏のボイルウィンナーやカマンベールチーズ、長男が作ってきたモツ煮に買ってきた鯉の内臓の甘辛煮(これも美味)。S氏のお手製ピクルス等など。最高の宴でした。途中、家族や歴女やハイカーが幾組も登って来ましたが、皆さんその豪華さに?唖然としていました。

 満腹でヨレヨレと下山。象山街道、または松代街道と呼ばれる古道(左)。歩いてみたいものです。下山後は砥石城跡真下の望富山陽泰寺へ(中)。天武天皇の白鳳十一年(683)高僧泰澄が庵を結び、聖武天皇の天平九年(737)に行基僧正により仏殿を創建という古刹です。ちょうど奥様が帰宅されたところで、どうぞ中へということで、お言葉に甘えて全館を案内して頂きました。素晴らしい屏風絵や仏具、調度品を拝見しました。滋野氏、海野氏、真田氏に深い関連のある曹洞宗のお寺で、真田一族の本家筋である海野氏の菩提寺。本堂の屋根には海野氏の家紋である「州浜」が見られます。室町時代の鳳凰屏風(右)。

 本尊の裏にある仏像(左)。いずれも素晴らしいものですが、私が注目したのは前列右の小さなもの。これは、謙信や信玄などが携帯して拝んだものと同じです。いったい誰のものだったのでしょう。非常に気になります。ご本尊の釈迦牟尼坐像(中)。武田信玄寄進の銅製雲板や勝海舟、山岡鉄斎の書も見事でした。兵火や火事に遭うという歴史がなかったそうなので、非常に古いものの様に思われます。在京の友人の菩提寺ということもあり、丹念に拝見させて頂きました。奥様には感謝申し上げます。
 松代街道を下って駐車場に戻ります(右)。伊勢山は非常に古い歴史と雰囲気のある山村でした。

 次に向かったのは、真田氏歴史館。『真田丸』人気で訪問者が大勢いました(左)。『真田丸』のポスターも(中)。真田紐を使った製品も売られています。ちなみに、小学校の時に使った下駄スケートを足に固定するために真田紐を使いました。今も残っています。真田関連の解説(右)。手作り感たっぷりの分かりやすいいいガイドです。内部は撮影禁止なので紹介できませんが、訪れることをお勧めします。

 次は近くの真田本城跡へ。そこからは、真田氏の修験者がこもった霊峰、四阿山と左に根子岳。根子岳の爆裂火口がはっきりと見えます。いつも見ている妻女山展望台からの山容と違うので、新鮮でした。

 真田本城のお地蔵さんなんですが、お賽銭を六文銭の形に並べてあるのが微笑ましく思いました(左)。ちなみに私の母校でモーニング娘。16の羽賀朱音ちゃん、世界的アコーディオニストのコバさんの母校である松代中学の校章は、結び雁金なのです。
 真田本城の本郭から二の郭方面(左)。真田郷や砥石城跡、上田方面が望めます。真田本城の地図(右)。

 最後に真田氏の山家神社へ(左)。拙書『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林の四阿山の記事でお世話になった押森宮司と初めてご挨拶させて頂きました。白山権現を祀ります。境内にある真田神社(中)。野焼きの煙がたなびく晩秋の真田の郷(右)。兵どもが夢の跡か…。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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「戊辰戦争」の戦没者を祀る妻女山松代招魂社と松代藩の戦没者名簿(妻女山里山通信)

2016-09-14 | 歴史・地理・雑学

 9月の第二日曜日(今年は11日)に、妻女山松代招魂社で戊辰戦争以降の戦没者を慰霊する祭が行われました。早朝から煙火が打ち上げられていました。清野村史には、招魂社「東西十四間五尺七寸、南北二十五間、村の西の方、妻女山の中腹にあり。岩野村に跨(またが)る。」とあります。つまりここは妻女山の頂上ではないわけです。「一般にここを妻女山と呼ばれて久しいが、正しくは赤坂山である。」とも記されています。本来の妻女山は、これより15分ほど登った土口が見える長坂峠から更に西へ距離100mほど登った斎場山古墳(円墳)がある標高512.8mの山です(長坂峠の目の前に見えます)。古来より本名を斎場山といいます。妻女山は江戸時代につけられた俗名です。このことは岩野村誌や土口村誌にも記述があります。また、第四次川中島合戦では、上杉謙信が古墳上に床几を敷き本陣としたことで、古来より床几塚、謙信台、両眼塚とも呼ばれています(私有地)。1901(明治34)年の『信濃宝鑑』には、「妻女山 まことは斎場山なるべし」と記されています。斎場とは現在の葬儀場という意味ではなく、祭祀を行う神聖な場所という意味です。いつきなる場、ゆにわともいいます。
 西条山という記述は、『甲陽軍鑑』によるものですが、これは斎場山を西条山と誤記したものです。口述筆記の際に本来の漢字を知らずに当て字をしたのでしょう。戦国時代の文書にはよくあることです。地元では西条は、「にしじょう」と読み「さいじょう」と読むことはありません。また、清野氏のこの山を、西条氏が治めたという記録も残ってはいません。松代藩の古文書には、「西条山と記すは誤りなり山も異なり」と書かれています。西条山とは、松代の南、高遠山からノロシ山までの山一帯を指します。全く別の山です。
                   ◆
 この招魂社は、松代藩(藩主真田幸民)が1868(明治元)年の戊辰戦争で明治政府軍として、幕軍と戦ったときの戦没者を祭った社です。瓦には真田の六文銭の紋が記されています。その功績を受けて、新政府から3万石を与えられ、松代藩からは多くの人が新政府に重用されました。この平地は、招魂社を建てるときに造成したもので、それ以前は松代藩の射撃練習場ではなかったかと推察されます。南面の山からは、多くの銃弾が出土しています。また村誌には赤坂山古墳があったという記述も見られます。
                   ◆
 新選組の殲滅に加わり、会津若松城を大砲で破壊したのは艦船で来た薩長よりもむしろ松代藩でした。遡って昔、豊臣秀吉の命により、上杉景勝は会津へ転封となりましたが、善光寺平の土豪たちは皆景勝とともに家族家来を連れて会津へ移ったのです。さらに江戸時代前期に、保科正之(第二代将軍秀忠の四男・第四代将軍家綱の後見人)が第三代将軍の異母兄家光により信濃国高遠藩3万石から会津23万石に転封になり会津藩を隆盛させました。その時、信濃から家臣も会津にたくさん移っています。わが家のある祖先も同行し、後に子孫は商人となって会津藩を支えました。それ故、会津は信州人が造った町といえるのです。これは歴史の皮肉であり悲劇ですが、会津戦争は、ある面信州人同士の戦いでもあったのです。松代藩士の中には当然この史実を知っていた者もいたでしょう。悲劇という他はありません。現在に至るまで、会津の薩長に対する怨念は引き継がれていますが、松代藩に対する誹謗中傷や怨念は聞いたことがありません。同根故の複雑な想いがそこにはあるのでしょう。
                   ◆
 招魂社は拝殿が先に建ち、後背の本殿は後に建てられたといいます。本殿の後ろには52の戦没者の霊を弔う石碑が並んでいます。ここを赤坂山ではなく妻女山と呼ぶようになったのは、そんな理由から妻女山招魂社建立以降ではないかと推察されます。本殿の土塁の中は官地、周りは真田の領地(尾根の狭い範囲)で、ある方が管理をしていましたが、管理を村に移管して、現在は長野市の妻女山公園となっています。1871(明治5年)に招魂社祭を4月24・25日と執行と決まりました(飯山に於いて戦勝の日)。1881(明治14年)には、一町六カ村立妻女山招魂社となりました。昔は舞楽の奉納があり、剣道や相撲の奉納試合もあり、出店もたくさん出て賑やかだったそうです。春の桜、秋の紅葉は見事です。また夕日の景勝地ともなっています。
                   ◆
 戊辰戦争当時、松代藩は日本有数の軍事力を持っていました。会津藩に、「薩摩真田に大砲なくば、官軍破るも何のその」 と嘆かせるほどでした。1872(明治5)年、上田城の東京鎮台第2分営より乃木希典少佐が、廃城の松代城と武器を受領すべく来迎。その時、「松代藩は大砲のみにて53門の多きに達し、他の10藩全部の兵器を合するといえども松代藩の足元にも及ばず」と言ったとされています。真田幸民と佐久間象山が最新の洋式装備化を進めたわけです(大砲の試し打ちで倉科の生萱から試射した弾が、一重山を超えて天領満照寺まで飛んで大騒動になりました。)。
 しかし、戊辰戦争への参加で財政は悪化。財政再建のため、1869(明治2)年、「商法社」という会社を設立、生糸・蚕種の生産・販売、午札(紙幣)の発行を始めましたが失敗。その穴埋めをすべく増税したために(午札の交換比率の不当を訴えて)民衆が決起し、「松代騒動(午札騒動)」が勃発。農民数千人が松代城下に迫り、約200戸を焼きました。これにより幸民も謹慎処分になりました。その後伯爵になっています。
 ※真田幸民:10代藩主・伊予宇和島藩主伊達宗城次男・養子・1869(明治2)年6月24日松代藩知事就任・1871(明治4)年11月松代県解体、長野県の誕生により解任、真田氏の松代支配は終わったのです。
                   ◆
 戊辰戦争以降の経緯は下記の通りです。
●明治元年戊辰2月、朝命により松代藩は信濃十藩の触頭を命ぜられ、2月東山道総督より大隊旗、錦の袖章を賜る。
●4月、関東脱走の幕軍林昌之助・近藤勇ら新選組・甲陽鎮撫隊が甲斐に侵攻を図る。真田幸民・大熊藩士を総隊長として兵750人で甲府を守らせた。
●4月24日、幕軍の将古屋作左衛門が、長岡より信濃に入り、飯山城を囲む。幸民は、河原左京を総隊長として、兵10,300で進撃させる。
●4月25日、幕軍は大敗して敗走。後にこの日を戦勝の日として松代招魂社の大祭が行われた。
●9月24日、会津城が降伏。(会津城をメリケン砲で破壊したのは松代藩。薩長真田に大砲なくばと言わせた。会津は薩長を恨み嫌うが松代藩はそうではない。同根だから)
●10月29日、松代に凱旋帰国。各地に転戦すること90回以上、出兵3271人、戦死者52人、負傷者85人を出す。
●明治2年4月17日、真田幸民は藩戦死者の英魂を、妻女山頭(赤坂山)に祀る招魂祭を執行。石の玉垣をめぐらした戦没者の石碑を建立、「松代招魂社」と称す。
●6月、戊辰戦争の功績をたたえられ、松代藩は賞典録三万石を賜る。
●明治3年、松代藩知事・真田幸民により「妻女山頭鎮座松代招魂社」建立。真田家は、賞典録の中百石を祭祀料として寄付。藩兵、兵制士官学校生徒の合同調練式を行う。
 同年幸民は、戊辰戦争による大出費を埋めるべく「商法社」設立。生糸・蚕種の生産・販売等始めるも殿様商売は大失敗。増税に民衆が決起し翌年「松代騒動(午札騒動)」勃発。幸民は謹慎処分になる。
●明治4年7月、廃藩置県で松代県に、11月には長野県となり、松代県は解体され幸民は解任。真田の松代支配は終わり、松代は政治の中心地でなくなる。本来の地名・赤坂山を使わず妻女山としたのは、ここの小字名が妻女山(本来の妻女山の中腹)だったから。また、赤坂山より妻女山の方が有名だったからと思われる。
●明治5年4月26日、妻女山松代招魂社祭を毎年4月24・25日執行と決定。県祭となったのはこの頃か。
●明治6年には、松代騒動を引き起こした失政のためか、放火により松代城花の丸は焼失。一説には花街に建物が売られるのを嫌った元藩士が放火したともいわれるが、定かではない。
●明治13年、拝殿を修繕。
●明治14年、一町六か村(松代、寺尾、東条、西条、清野、雨宮)立妻女山松代招魂社建立。
●明治29年、社殿の傍らに山縣有朋による一大石碑を建立。
●明治44年5月18日、社務所を建立。合わせて松代、寺尾、東条、西条、清野、雨宮の一町六ケ村により日清・日露の戦没者を祀る乃木将軍筆による忠魂碑建立。盛大に除幕式が行われた。
●昭和22、23年頃、玉垣の上に小さな本殿を建立、石碑を現在のように並べ替える。


 拝殿の中にある招魂社の額は、真田幸民(ゆきもと)の書ですが、本姓の滋野幸民と記してあります(左)。52名の戦没者の名を刻んだ石柱が本殿の背後に立っています(中・右)。風雪や排気ガスでかなり風化して傷んでおり、修復や覆屋で守ることが必要かもしれません。傷んだ箇所が新しいので、人為的に誰かによって壊された可能性も否定できません。いずれにせよ、激しい内戦は今に至る深い傷を残しました。結局勝っても負けても、戦争で本当に幸せになる者などいないのです。川中島には「七度の飢饉より一度の戦」という戦国時代の庶民の言葉が残っています。それほど戦は悲惨で惨めなものだったということです。現代においては戦争をしたがる人間は軍需産業を操る極一部の輩。己は絶対に戦地に行きません。そして莫大な富を得るのです。

 拝殿は、明治13年に修繕されましたが、それ以降はほとんど手付かずのままだそうです。銅葺きの本殿は綺麗ですが、拝殿の瓦などは相当傷んできています(左)。右手の石の台には、戦前は日露戦争でバルチック艦隊を撃破した戦艦の大砲の弾が置いてあったそうです、戦艦信濃丸のものでしょうか(中)。第二次世界大戦の供出でなくなったそうです。これが前述した招魂社の南面の山中から出土した戊辰戦争当時の銃弾(右)。このことから、ここは松代藩の射撃練習場だったのではと思われるのです。

 明治時代の招魂社の絵葉書。社務所がないので明治43年以前の例大祭の様子かと思われます。かなり賑やかですが、剣道や相撲の奉納仕合が行われているのかも知れません。鳥居は今とは異なり、南側にあります。鳥居の両側には、射撃練習に使われたと思われる土塁が今も残っています。写真でも分かるように現在の広い駐車場は、林道倉科坂線を造る際に出た土砂を埋め立てて造ったものです。

 これは大正時代か昭和初期のものと思われる一枚。社務所は明治44年にできましたが、本殿はまだありません。右に「しら雲に 果てはつつみて 花深し」鸞生(らんせい:文化七年中沢村生明治五年没)の句碑が見えます。妻女山(旧赤坂山)は、古くから桜の名所だった様です。現在も桜が満開の頃には、近隣の小学生が大勢遠足に訪れます。

【明治元年北征の際 松代藩戦死人】
◉海野知正
明治元戊辰年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦い傷つく。十月三日本藩病院に於いて死す。享年三十四。
◉禰津直頼
同年七月二十九日、越後国古志郡宮内村に於いて戦死す。享年三十二。
◉牧野義為
同年九月四日、岩代国耶麻郡小土山に於いて戦傷、同十七日越後国五泉病院に於いて死す。享年三十三。
◉西山昌高
同年七月二十五日、越後国古志郡亀崎村に於いて戦死す。享年四十。
◉藤井正忠
同年九月十一日、耶麻郡熊倉村に於いて戦死す。享年三十一。
◉増田驥(名は馬編に上が北で下が異。読みは、き・すすむ)
同年六月十二日、越後国三島郡久田村に於いて戦傷、同二十日同国出雲崎病院に於いて死す。享年二十三。
◉三輪高致
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦傷、同二十九日越後国五泉病院に於いて死す。享年三十四。
◉佐川重東
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦死す。享年二十一。
◉森山一似
同年七月二十五日、越後国三島郡興坂原村に於いて戦死す。享年三十四。
◉前島一忠
同年五月三日、越後国三島郡片貝村に於いて戦死す。享年二十九。
◉松村貞安
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦死す。享年四十三。
◉山本直房
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦死す。享年二十三。
 以上十二名騎士
◉海沼義路
明治元戊辰年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦傷、二十六日同国興坂病院にて死す。享年三十三。
◉小山友重
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦傷、九月三日同国十日町病院に死す。享年二十。
◉古川康備
同年七月二十二日、越後国古志郡亀崎村に於いて戦傷、同二十四日同国長岡病院に死す。享年二十三。
 以上三名歩士
◉相澤則忠
明治元戊辰年五月十四日、越後国魚沼郡高梨村に於いて戦死。享年二十二。
◉村澤重勝
同年六月二十二日、越後国古志郡蔵金村に於いて戦傷、七月二十五日同国長岡に死す。享年三十。
◉佐々木高照
同年七月六日、越後国古志郡陣ヶ峯に於いて戦死。享年十六。
◉小沼直重
同年四月二十五日、本国水内郡安田村に於いて戦死。享年四十二。
◉藤田茂久
同年五月十一日、越後国魚沼郡三仏生村に於いて戦傷、六月二十一日本藩病院に死す。享年四十一。
◉小林正久
同年六月十二日、越後国三島郡久田村に於いて戦死。享年四十二。
◉中曽根仲正
同年七月三日、越後国三島郡御経塚に於いて戦死。享年十七。
◉小林直廣
同年七月五日、越後国三島郡御経塚に於いて戦死。享年十七。
◉古澤義縁
同年七月二十六日、越後国古志郡亀崎村に於いて戦傷、同二十九日同国十日町病院に死す。享年十七。
◉松田義意
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年十九。
◉奥村長知
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年二十一。
◉平林一興
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦傷、同二十六日同国小千谷病院に死す。享年四十。
◉丸山俳眞
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦死。享年四十六。
◉八町忠安
同年七月二十五日、越後国長岡四郎丸口に於いて戦死。享年四十。
◉栗林直英
同年七月二十五日、越後国長岡四郎丸口に於いて戦死。享年五十一。
◉春原泰直
同年七月一日、越後国古志郡亀崎村に於いて戦傷、同三日同国長岡病院に死す。享年四十二。
◉小林重行
同年閏四月二十六日、越後国魚沼郡生峠に於いて戦死。享年二十一。
◉青木忠政
同年九月四日、岩代国耶麻郡小土山に於いて戦傷、同十一月二十日越後国柏崎病院に死す。享年十八。
◉若林義一
同年九月四日、岩代国耶麻郡小土山に於いて戦傷、同二十四日越後国柏崎病院に死す。享年二十二。
◉神戸清成
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦傷、同十月八日越後国新潟病院に死す。享年三十九。
◉丸山忠泰
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年三十八。
◉浅井清成
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年二十。
◉山本嶽房
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年二十六。
◉五名氏宣
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年四十四。
◉宇敷恒正
同年七月二十六日、越後国三島郡興坂三楯山に於いて戦死。享年二十四。
◉岡澤信重
同年七月六日、越後国三島郡興坂原村に於いて戦傷、同二十三日興坂病院に死す。享年十八。
◉村松宣安
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年五十一。
 以上二十七名平士
◉富国水内郡長井村、文吉 明治元戌辰年閏四月二十六日、越後国魚沼郡生峠に於いて死す。享年二十九。
◉同国同郡上祖山村、末吉 同年六月一日、越後国三島郡興坂陣ヶ峯に於いて死。年十九。
◉同国更級郡東福寺村、義市 同年六月一日、越後国蒲原郡赤坂峠に於いて死。年二十六。
◉同国水内郡和佐尾村、甚右衛門 同年六月五日、越後国三島郡興坂原村に於いて死。年五十二。
◉同国同郡北高田村、長蔵 同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて死。年三十九。
◉同国更級郡中澤村、一郎左衛門 同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて死。年四十六。
◉同国高井郡沓野村、辨(弁)作 同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて死。年六十。
◉同国埴科郡清野村、安之助 同年九月二日、岩代国河魚郡桂村に於いて死。年二十八。
◉同国同郡雨宮村、浅吉 同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて死。年十九。
◉同国更級郡八幡村、百六 同年十一月十三日、越後国刈羽郡柏崎病院に於いて病死。
 以上十人軍夫
総計 五十二名県祭なり。祭日四月二十四日、二十五日。
長野県令大野誠殿
(出典:埴科郡誌 清野村)

白虎隊と同じく、16歳など少年が散見されることに心が痛みます。

[抜書き] 『偽(いつわ)りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』
会津藩と会津戦争

 戊辰戦争で、悲劇的な敗北を期した会津藩ですが、この妻女山招魂社の麓には会津比売神社があり、祭神は初代科野國造の妻といわれる会津比売命(あいづひめのみこと)です。この会津比売命の会津と福島の会津は、深い関係があるのです。歴史の因縁を感じます。詳しくは、下記の記事をお読み下さい。必読です。
大彦命と布施氏の布制(布施)神社詣でと茶臼山ラッセル(妻女山里山通信)

妻女山 有名人訪問年表」政治的、軍事的に利用された稀有な里山(妻女山里山通信)

川中島合戦の上杉謙信にまつわる妻女山と斎場山、陣馬平への行き方」『真田丸』で訪問者が激増中。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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『真田丸』でお馴染み真田昌幸の、父 真田幸隆に攻略された尼厳城跡へ(妻女山里山通信)

2016-09-10 | 歴史・地理・雑学

 尼厳山「あまかざりやま」と読みます。長野市松代の東にそびえる780.9mの低山ですが、古刹あり、絶景の岩場あり、城跡あり、古墳あり、自然も豊かと見所がたくさんの山です。もちろん拙書でも紹介しています。玉依比売命神社(池田の宮)の前に駐車して望む尼厳山(左)。参道の鳥居前にも駐車スペースがあります。「延喜式」所蔵の古社で、新年に玉の増減でその年の吉凶を占う児玉石神事は有名です(中)。登山口は神社の右にあります。
 まず天王山へ。尾根の端を鋤(すき)崎(古くは兒玉崎)といい、鋤崎峠は、第四次川中島合戦の時、上杉謙信が妻女山布陣の折りに越えたという伝説があります。南尾根と北尾根の分岐で左の北尾根へ向かい、最初トラバースしてから北尾根に乗り、登ると城跡の石垣(右)。この山域に点在する積石塚古墳をバラして作った見張り台でしょうか。

 右にロッククライミングのスポットがあります。オーバーハングしていますが、適度な隙間があり、ボルダリングやフリークライミングができる人ならヒョイヒョイ登れそうです。

 戻って左へ岩稜地帯を登ると、先ほどの岩の上に出ます。休憩に最適なテーブル状の岩頭がありますが、転落しないように注意。皆神山が見え、その向こうに信玄の狼煙山。さらに右奥には前回の記事で紹介した鏡台山。そこから右へ妻女山まで続く戸神山脈。左は高遠山、地蔵峠を経て保基谷岳、菅平へと続きます。

 山頂手前の城跡の空堀(左)。山頂までは、1時間30分から50分ぐらいです。山頂にある城跡の図(中・右)。岩稜地帯に囲まれた非常に険しい山城ですが、真田幸隆の攻略により東条氏はあっけなく陥落しました。その説明看板が山頂にあります。旧字では尼巖山・尼巌山、別字では、尼飾山・雨飾山、天飾山とも書きます。

 山頂からの展望は北側のみ。手前から上信越自動車道、千曲川、ホワイトリング、犀川、長野市中心街、飯縄山。右奥の黒姫山と、左奥の高妻山は雲の中でした。飯縄山は、拙書では3コース紹介しています。特に中社ゲレンデの公共駐車場に車をおいて、中社・西登山道コースを登り、帰路は瑪瑙山コースを下りてくるループコースはオススメです。5〜6時間、休憩入れても7〜8時間と一日で回れる楽しいコースです。詳細は拙書を御覧ください。上杉謙信にまつわる話も書いています。

 そこから右に目をやると、小布施、中野、飯山方面の景色が。左に斑尾山、右に高社山。中央を越後に向かい流れる千曲川。奥の尾根は、大ブナも散見される全長80キロの「信越トレイル」のある山脈で、向こう側は越後です。左にはMウェーブも見えます。

 山頂には6頭のキアゲハ、2頭のクロアゲハ、6、7頭のヤマトシジミ、オオヒカゲやアゲハチョウなどが乱舞。そのキアゲハが交尾?そこへもう一頭が参加して格闘状態に(左)。そのまま地上に落ちて交尾?(中)。でも何か変です。これ両方共オスではないでしょうか。交尾のシミュレーション? 騒ぎが収まって休憩中のキアゲハのオス(右)。何だかよく分からないことが起きました。蝶の研究家の山仲間に聞いたところ、これはよく見られる現象ということです。理由は不明とのことですが、別に同性愛ということではなく、前述したように、交尾のシミュレーションなんじゃないでしょうか。

 30分ほど昼餉を楽しんで南の岩沢・天の岩戸方面へ30mほど下ると、辰巳の岩という展望地(左)。昔は信玄柏ノ岩展望地と書いてありました…。登山道は左へ下ります。辰巳の岩から見た奇妙山(中)。拙書でも詳しく紹介していますが、この両山を縦走する人もいます。眼下に広がる杏の里、東条の風景(右)。奥の谷の集落は、モーニング娘。16の羽賀朱音ちゃんの生家のある豊栄です。ここから豊栄小学校や松代中学に通っていたわけです。長閑で本当にいいところです。
 また、太平洋戦争時、硫黄島で戦った栗林忠道中将のお墓のある明徳寺があります。

 辰巳の岩からのまるでジオラマの様なバーズアイビュー。麓の民家がほぼ真下に見え、ノスリやトビなどが眼下を飛んで行きます。畑に見える木は杏です。4月上旬の満開の時期は、まさに桃源郷ならぬ杏源郷。風景が桃色に染まります。帰路は途中から右へ折れて南尾根コースへ。休憩していたハイカーと出会い色々楽しくお話しをしました。拙書の紹介も。
 この山域は赤松林が多いのですが、妻女山や長野自動車道沿いの様に真っ赤に帯状に枯れた状況は見られません。やはり近くに高速道路や交通量の多い国道がないからでしょう。これらを見ても、松枯れ病の主な原因は排気ガスだと分かります。つまりネオニコ農薬の空中散布など無意味なのです。百害あって一利無し。税金の無駄遣い。それでも止めないという自治体は、農薬メーカーからキックバックをもらっていないか、市民は確認する必要があります。

 帰りに寄った妻女山展望台(旧赤坂山。謙信本陣はこの上の旧妻女山で本名は斎場山)から右に奇妙山、左に尾根の手前に尼厳山。その手前の森が真田十万石の松代城址(海津城)。手前の松代PAは、下りが名産のとろろ蕎麦セットが安くて美味くてオススメ。上りのおにかけ蕎麦も名物です。上り下りは徒歩で行き来ができ、一般道からもレストランには入れます。帰りは温泉マニア垂涎の加賀井温泉か松代荘へ寄って疲れを癒やすのもオススメです。

●尼厳城は、北の支尾根に谷街道の要所、可候(そろべく)峠を持ち、北には真田へ抜ける地蔵峠があり、松代の防御の要の詰城であったと思われます。第四次川中島合戦に至る8年前、村上義清が越後に逃れた直後の天文22年(1553)8月、武田晴信は真田幸隆に尼厳城攻略を督促しています。城主東条遠江守信広は、真田幸隆の攻略に敗れ越後に逃れます。加賀井にはその時に東条氏達が泣きながら駆け下ったという泣き坂という伝説の地名が残ります。
 落城後、武田晴信は、西条治部少輔に城の普請を行わせ、永禄元年(1558)4月の越後軍進攻の際に、「東条籠城衆」として真田幸隆と小山田備中守昌行をあてています。武田氏滅亡後、天正10年(1582)に上杉景勝が川中島周辺を征圧すると、東条氏が城主に復帰しますが、慶長3年(1598)豊臣秀吉の命により景勝の会津移封によって北信濃の武士(土豪)達は、妻子を連れて会津に移ったため廃城となったといわれています。 会津は信州人が造った城下町です。保科正之も大勢の家来家族を連れて転封しました。


尼厳山から天の岩戸へ下ったフォトルポ。パノラマ写真を堪能してください。天の岩戸の説明も。

川中島合戦の上杉謙信にまつわる妻女山と斎場山、陣馬平への行き方」『真田丸』で訪問者が激増中。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。フォトエッセイや記事も書きます。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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『真田丸』でハイカーや歴史マニアが増えた清野氏と上杉景勝の鞍骨城跡へ。大発見も!(妻女山里山通信)

2016-08-24 | 歴史・地理・雑学

 登山道整備と撮影を兼ねて鞍骨城跡までトレッキングをしました。例年なら登山者は少ないのですが、『真田丸』の影響で、今年は夏でも登る人が全国各地から来ます。
 妻女山の駐車場の奥から右の林道へ(左)。登山者ノートがあります。登山届ではありません。下山時に歩いたコースや出会ったもの、感想などをお書き下さい。鞍骨山までは、ここから約90〜100分です。標識も完備していますが、天城山周辺は尾根が十字に出て分岐も多く迷いやすいので、地形図の載った拙書『信州の里山トレッキング 東北信編』とコンパスを持参して行くことをお勧めします。
 20分から30分で堂平大塚古墳の分岐(中)このカットの反対側が謙信の陣城跡の陣馬平で、4月の茶花でもある貝母の群生地。中国原産の薬草ですが、かなり強い毒草です。林道を登って10分ほどで天城山(てしろやま)の登山道に入ります(右)。

 約20分登ると天城山頂(左)。「天空の古墳 坂山古墳」の標識。ここを東へ下りて行きます。7、8分で二本松峠(坂山峠)(中)。「右 倉科坂 左 清野坂」の標識があります。倉科側が清野坂で、清野側が倉科坂なのです。倉科の人が清野へ行く時に登る坂なので倉科側が清野坂なのです。これを勘違いしてこの標識を反対にしてしまう人がいて、設置したMさんが憤慨していたのですが、ひょんなことから知り合いのSおじいさんであることが分かりました(笑)。彼には理由を説明して納得してもらいましたが、他にも誤解している人がいそうです。ここには、鞍骨城跡まで850mの標識があります。あと約40分で鞍骨山頂。

 途中でルリシジミを発見(左)。強風に耐えていましたが、揺れるので撮影も大変でした。峠から約20分で駒止めと呼ばれる深い竪堀(中)。さらに7、8分で高圧線の鉄塔(右)。すぐ先に二条の堀切があり、それを超えると鞍骨城内です。ここで登山道に出ていたエビガライチゴとヤマガシュウを切りました。以前、ここで友人のフランス人が戦国時代に使われた宋銭を発見しました。

 ボタンズルで吸蜜するのはホソヒラタアブか(左)。牡丹蔓は仙人草より花は小さく葉も切れ込みがあります。二つ目の堀切からは左手に清野側の林道倉科坂線に下りる登山道があります(中)。鉄塔から10分ほどで鞍骨城跡の一の郭(右)。左(北側)から二の郭へ登ります。補助のトラロープが下がっています。

 大きなケヤキのある広い二の郭(左)。ここを右へ歩き、南面に回ります。見上げると本郭が見えています(中)。所々に矢印を描いた小さな板があるので目安に。南面を斜めに登って行きますが、道は細く非常に不安定なので要注意です。見上げると本郭の石積みが見えます(右)。

 登って行くと南面の四角い凹みのある郭に着きます(右)。ここからつづら折れで少し登ると山頂。山頂直下の石積み(中)。南側が大手です。Mさんが立てた「天空の山城 鞍骨城跡」の標識。
 武田氏滅亡後、鞍骨城は『景勝一代略記』によると、 1582(天正10年)7月に上杉景勝が「清野鞍掛山の麓、赤坂(現妻女山)と云所に御馬を立てられ…、鞍掛山へ御上がり云々」との記録があり、景勝と北条氏政が川中島四郡支配を争った際に、上杉方がこの一帯に陣取った様子が記されています。そういう経緯から、今の鞍骨城は、景勝時代の姿ではないかともいわれています。そんな城跡を500年前の石垣かと思って触れると、色々な事を思います。なぜ人は戦ばかりするのだろうとか…。いずれにせよ山城マニア、戦国マニア必見の山城です。

 山頂からは、落葉期だともっと景色がよく見えるのですが…。眼下に松代城跡が見えます。ここから20mほど先にある二つの展望岩に行ってみました。拙書の地図でも紹介しています。
「七度の飢饉より一度の戦」戦国時代の凄まじい実態(妻女山里山通信)大河ドラマでは見えてこない戦国時代の姿

 まず一つ目、西の展望岩から。出発地点の妻女山(赤坂山)が見下ろせます。上杉謙信の本陣と地元で言い伝えてきた斎場山(本来の妻女山)は登って来た尾根の向こう側になります。中央に合戦場という文字がありますが、これはここの住所表記なのです。八幡原の信玄軍と、霧にまぎれて茶臼山麓を北上し越後に帰ろうとしていた上杉軍が、霧が晴れてしまい両軍の中央で戦になった場所という言い伝えでの地名です。

 さらにネズミサシのある痩せ尾根を辿って東の展望岩へ(左)。途中に小さな竪堀があります。狭い東の展望岩(中)。南北とも急峻な崖なので転落に注意。ここからは、松代城跡が眼下に望めます(右)。

 望遠レンズで、松代城跡周辺を撮影。これは江戸時代のものを復元したものですから、山本勘助が造ったという戦国時代の海津城はもっと砦の様なものだったのではないでしょうか。元々は、清野氏の倉があったといわれています。
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信) その2

 本郭に戻りました。クララが結実しています(左)。キアゲハが二頭舞っていました(中)。昼食は、リオ五輪にちなんで、ブラジル料理のフェジョン・コズィード(ブラジルの黒インゲン豆の煮込み)をご飯にかけたもので、ブラジル人がほぼ毎日食べるソウルフード。黒インゲン豆は私が栽培したものです。上にファリーニャ・デ・マンジョーカというキャッサバ芋の粉と激辛で酸味のあるハバネロソースをかけて。ハラペーニョとタマネギのピクルスも。塩コショウと大蒜を効かせた自家製アンチョビーオイルで焼いた目玉焼きも。馬鹿旨でした。私が作ったレシピはこちらです。蝉の声を聞きながら、風に吹かれながら、景色を眺めながら、ゆるゆると30分ほど過ごしました。

 帰りにキク科のキオンが咲いているのを発見(左)。小さい秋ですね。以前、陣馬平で出会った人に教えてもらったコナラにできる菌えいをやっと見つけました(中)。探すとなかなか無いのです。取り方も教わったので、形のいいものを三つ取りました。根本はこんな感じで尖っています(右)。周りの樹の皮を剥ぐとツルンとした球体が現れます。ある種の菌がこんないたずらをするのです。自然は本当に面白い。今回の最大の収穫で大発見でした。

 小さなヤマグリがたくさん落ちていました(左)。今年はシナノガキも豊作です。3センチぐらいの美しい羽根を発見(中)。カケスの翼の青い部分の羽毛で、初列雨覆と大雨覆と呼ばれる部位だとか。トビかノスリに襲われたのでしょうか。樹液バーに立ち寄ってみると、チャイロスズメバチが(右)。ルリタテハが吸汁したいと試みるのですが、攻撃的なチャイロスズメバチが邪魔をします。樹液バーは昆虫も減り、随分と寂しくなりました。信州の夏もそろそろ終わりです。久々にいい汗をいた山行でした。
 それから妻女山登山者ノートにも色々情報を書き込んでいただき、本当にありがとうございます。なんでもいいのです。ご自分が見つけたもの、感じたことをご自由にお書き下さい。

清野氏と戦国時代

川中島合戦の上杉謙信にまつわる妻女山と斎場山、陣馬平への行き方」『真田丸』で訪問者が激増中。

川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。(妻女山里山通信)歴史マニアと歴女必読! 地名から読む川中島合戦

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山布施の布施神社と石川流山嵜儀作の木彫。布施氏の須立之城探訪。陣馬平のカモシカの親子(妻女山里山通信)

2016-03-19 | 歴史・地理・雑学
 大彦命を祭神とし、望月氏の後裔(こうえい:子孫)である布施氏を祀る布施(布制)神社は、茶臼山を中心として東西南北に大きなものが四社あります。まだ訪れていなかった東と南の二社への探訪記を、以前記事にしました。今回は山布施の西の社と、村山の北の社を再び訪れてみました。特に山布施の社は、以前参拝した時に木彫が諏訪立川流のものではないかと思ったのですが、特に詳細な写真を撮らなかったので、その撮影が目的です。

 県道86号を登り、茶臼山動物園の入口を過ぎて、信里小の峠を越えて山布施へ。途中のカーブから山布施の集落が見えました。左に見えるのが布施神社。白馬三山が見事です。例年ならばこの時期は最も積雪量が多く、山全体が真っ白なのですが、この冬は降雪が少なかったのでしょう。岩場が見えています。

 山布施の布施神社(左)。鳥居の左手前に「延喜式内郷社布制神社」という石柱が立っています。大きな拝殿(中)。背後に小さな本殿が。布制となったのは、明治政府の蛮行である廃仏毀釈の悪しき名残で、仏教のお布施に繋がるということで変えさせられた様です。今回はこの拝殿の木彫の見学と撮影が主な目的です。左手に御神木の大欅(右)。金毘羅宮ともいわれる境内社と五つほどの小石祠が並んでいますが不詳。これらは南方熊楠も猛反対した合祀令の名残でしょうか。
 創建年代は不詳と看板にもあります。社伝によると、神護景二年(768)高橋朝臣国是之が、更級郡の大領に任じられ、下総国結城布施郷の人民を従えて当地に移住し、この地を開拓。後の宝亀八年(777)に布施氏の祖・大彦命(おおひこのみこと)を勧請したということです。大彦命は、崇神天皇の命を受けて北陸道を東征し、息子の武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)は東海道を東征し、二人が出会ったところが「相津(会津)」と名付けられたと『古事記』にはあります。その後、大彦命は篠ノ井の瀬原田上の長者窪に住んだといわれています。石川の川柳将軍塚古墳、またはその上の姫塚古墳が大彦命の墳墓と地元では伝わっているようです。
 また『信濃宝鑑』には、光仁天皇の御宇(708-782)、宝祚長久国家安全を祈願して、伊勢神宮の分霊を勧請とあります。更に、安和二年(969)佐久の望月氏が移り住み、氏を布施と改めて布施郷を領治し以後、当社は神明宮と称するようになったが、文化七年(1810)吉田家に請うて社号の許可を得て、布施神社と改称したといいます。できれば境内に説明の看板が欲しいですね。

 拝殿の木彫。獅子と象が両側に配置されています。この布施神社の宮司は、代々社の下に住む宮下氏だそうですが、どこかに墨書や古文書が残ってはいないでしょうか。信州人は、神社仏閣にこういう立派な彫り物があるのを当たり前に思っている傾向がありますが、とんでもないことなんです。比類ない宝です。大事にしてください。

 左側の木彫(左)。獅子はそれぞれ少し内側を向いています。風雨に晒されているので、多少風化や傷もありますが、よく残っていると思います(中)。迫力満点の象(右)。友人に宮彫りの研究家がいるので聞いてみようと思います。
 後日、彼からの見解では、社殿は棟札から明治3年の建造。木彫は石川流の山嵜儀作(やまざきぎさく)の木鼻ということです。彼が送ってくれた山嵜儀作の作品を見ても、その傾向ははっきりと分かります。いずれにせよ大事にして欲しい木彫です。

 山布施の平成23年に山村山総代会が立てた神社の説明看板(左)。こちらは元の布施神社と記しています。善光寺地震で社殿が流出とあるのは、山布施の社ではなく、犀川沿いにあった社のことでしょう。その犀川沿いに再建された村山の布施(布制)神社(中)。小振りな拝殿の奥に本殿があります(右)。

 山布施に戻って、今度は布施氏の「須立之城」へ(左)。しかし、この看板ではどの道を行けばいいのか全く分かりません。ちょうど畑仕事をしていたお婆ちゃんと話をしていたご婦人がいたので尋ねると、行き方を詳しく教えてくれました。神社の右横の道を登ると、右手に中尾山の尾根と夜交の集落(中)。よまぜとルビがないと読めない地名ですが、高社山の麓にある夜間瀬の土豪、夜間瀬氏と深い関係にあるようです。私の妄想ですが、秀吉の国替えで景勝と会津へ行くことを嫌った一族が、名を変えてここに隠れ住んだのではないでしょうか。
 右には茶臼山(右)。いつもは妻女山から見ているので、南峰と北峰の位置が逆です。

 山道を500mほど登ります。中央の赤松のあるところが城跡の様です。昔は畑だったのでしょう。今は耕作放棄地ばかりです。廃屋も何軒かありました。城跡へ登る入口から振り返ったところ(中)。左の場所は、犀川へ下る峠ですが、昔は堀切があったのかも知れません。南へ巻くように登って本郭へ(右)。笹薮で二の郭、三の郭は分かりません。笹薮から動物がこちらへ登ってくる音が。猪でしょう。激しく足踏みをして追い払いました。

 看板にもある様に、本郭の上はそう広くはありません(左)。北面の笹平ダムのある犀川へは、急斜面で一気に落ちている様ですが、藪で見えません。須立之城沿革の看板なんですが、消えかかっていて読めません(中)。なんとか新しい物を作っていただけないでしょうか。その際にはぜひ城跡の全体図もお願いします。
 築城は1400年代中頃の文明年間で、築城者は布施忠頼(直頼とも)と伝えられています。後に忠頼の後継をめぐって長男・正直が成人後に家督を譲ることで忠頼の弟・直長に継がせますが、これが内紛になり、長男は上尾に入り、弟は有旅へと出奔。結局、布施氏は忠頼より6代にわたってこの地を支配しました。やがて須立之城は上尾城の支城となり、平林氏の支配となります。平林氏は武田方でしたが、武田氏滅亡後は秀吉による国替えの命により上杉景勝の家臣として会津へ随行し、白河小峯城主となりました。平林氏が去ったことで須立之城は廃城となり、以後ひっそりと山中に埋もれ続けたというわけです。
 戻る途中に、お彼岸の墓参に来られた今は他で暮らしているご夫婦と出合い、色々話をしました。社の木彫についてはご存じなかった様です。そんな凄いものですかと驚かれていました。旧家の畑でニホンミツバチを養蜂しているということです。それは非常に貴重なことですねと。妻女山山系でも普通に見られたのですが、松枯れ病の空中散布で、全く見られなくなりました。拙書も紹介させていただきました。
 その後戻って、茶臼山へ(右)。茶臼山の山頂は、茶臼ケ城跡、または茶臼山城跡と呼ばれる布施氏の山城です。有旅へと出奔した弟の直長の山城と推察されますが、詳細は不明です。

 茶臼山の北アルプス展望台から山布施の集落と仁科三山。左に山布施の集落と神社が見えます。右の小高い小山が須立之城。先のご夫婦によると山布施の奥に見える杉林の山の頂上に山城の跡ではないかと思われる石積みがあると言っていました。キノコ狩りで見つけたそうです。長野市の遺跡データにも載っていないので、未確認のものかも知れません。
大彦命と布施氏の布制(布施)神社詣でと茶臼山ラッセル(妻女山里山通信)
茶臼山の茶臼ケ城、修那羅城、篠ノ城探索。布施氏の山城は想像以上に大規模でした(妻女山里山通信)

 その後、時間があったので妻女山奥の陣馬平へ。ダンコウバイが満開になってきました(左)。貝母(編笠百合)の成長具合を見ようと陣馬平に上がると、ニホンカモシカの親子に遭遇(中)。妊娠中のシロです。まだ冬毛が抜け落ちていない様子。その奥には子供が(右)。これは5年前に生まれた子供ではなく、2年前に生まれたものらしい。なんだか母親にそっくりです。分からなくなってきました。もう二回出産しているのでしょうか。そう思って2014年3月のシロの写真を見返してみると、確かに妊娠しています。この年の初夏に出産したのでしょう。

 おそらくこの5,6月にはまた出産するでしょう。オスメス共に角があるため、ニホンカモシカの個体識別は本当に難しいのです。メスは排尿の時にお尻を低く下げるので分かりますが。楽しみな半面、子供が増えて、またわけが分からなくなりそうです。シロはニホンカモシカの中でも特に多産系なのでしょうね。収穫は、今回の遭遇でやっと彼らの採食歩行の行動パターンが読めたということです。

 妊娠中のカットを三枚載せましたが、これでは妊娠していない時がどうなのか分かりませんね。ということで上のカットは、2011年7月の出産を終えたシロの姿です。冬毛が抜け落ちて夏毛になると痩せて見えますが、やはり出産は大変なんですね。しかも双子でしたし。顔もかなり痩せています。この後、なかなか遭遇するチャンスがなかったのですが、冬に出会った時には、冬毛になったせいもありますが、ずっとふっくらしていました。
妻女山でニホンカモシカのシロと邂逅。オメデタか!?(妻女山里山通信)

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。

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上杉景勝も布陣した清野氏の鞍骨城跡から御姫山まで登山道整備(妻女山里山通信)

2016-03-09 | 歴史・地理・雑学
 前回は妻女山から鞍骨山(鞍骨城跡)までの登山道整備をしたのですが、今回はその先の御姫山までをしました。なんていうか寒の戻りのせいか腰の具合がもう一つでギクシャクしながらゆっくりと登りました。途中、早々と鞍骨から下りてきた千曲市の男性と邂逅。色々話をしましたが拙書を見せると、これは凄くいいですねと。やはり地形図が載っているのがいいということです。国土地理院の地形図をダウンロードして、斜体でジャギっている山名を消して等高線を引き直して新たに山名を記入したことには大変驚かれていました。滅茶苦茶手間のかかる作業でした。地形図を図と文字のレイヤーに分割して欲しいです。

 二本松峠から笹の道を抜けると鞍骨山が姿を現します(左)。最近は歴女も全国から訪れますが、途中の天城山(てしろやま)周辺が非常に迷い易いので、ぜひ拙書を携帯してください。鞍骨城跡の本郭の石積み(中)。上杉景勝時代のものといわれています。北条氏直を牽制するために、ここに駆け上がり御旗を立てたという逸話が残ります。鞍骨城跡(鞍骨山山頂)の本郭(右)。今回もバラを100本以上切りました。普通に登れる現状を当然と思っているかもしれませんが、以前はヤマガシュウやエビガライチゴの藪が塞いで、とても歩ける状況ではありませんでした。除去に何度も通って現在の状態にするのに2年かかりました。

 今回は鞍骨城跡から東へ痩せ尾根を進みます。まず最初の西展望岩(左)。次に小さな堀切を越えてすぐに東の展望岩(中)。松代(海津)城跡が眼下によく見えます。いつもはここで引き返していたのですが更に先へ。かなり深いコル(右)。地元の古老の話では、昔は石段があったとか。これも自然地形を更に削って作ったものの様です。

 明るい尾根を進んでほんの少しの急登(左)。鞍骨山と北の象山からの尾根と、南の鏡台山からの尾根との稜線出合(中)。標高は約825mです今回はここから南へ尾根を進みます(右)。すぐにアンテナの鉄塔。前方に御姫山のシルエット。以前はこの尾根は酷い灌木林の藪でしたが、森林組合の人が伐採してくれたお陰で清々しました。環境破壊の元になるテーピングを回収しながら進みます。若い登山者はしません。環境問題に疎い自分勝手な老人がするのです。老害です。自分のためにした場合は回収すべきです。余計なお節介は不要。公のコンセンサスもありません。山は自己責任で登るべきです。

 明るい尾根を進むとすぐに石を積んだ山の神(左)。御姫山までの間には二つの小ピークがあります(中)。最初の小ピークに「お姫山」の標識がありますがこれは間違い。御姫山はここではありません。拙書で確認してください。二つの小ピークを越えると御姫山への急登(右)急登ですが距離は短いので頑張りましょう。 

 標高約930mの御姫山山頂(左)。山頂は特になにもありません。越冬したヒオドシチョウがたくさん舞っていました(中)。ここで絶品の野沢菜炒飯と大根の酢辛子漬けで昼食。いずれも私の自作。山頂から南には、戸神山脈の続きの大嵐山とその先の鏡台山が見えます(右)。御姫山から鏡台山までは1時間半から2時間。

 御姫山から赤松林越しに見える左に根子岳と右に四阿山。拙書では、真田信繁と四阿山について記しています。山頂には真田家が尊崇した山家神社の奥宮があるのですが、その歴史も記しています。
 手前は保基谷岳への尾根。今年は積雪が少なく、根子岳も木々の緑が見えます。麓から長野市の正午のメロディー、子鹿のバンビが流れます。昔はエリーゼの為にだったような記憶。

 昼食後戻ります。赤松林の混合林の急坂(左)。登山道に出た枝を切ったり、ヤマガシュウを切除します。左手(西側)には、千曲市の倉科の里が見えます(中)。尾根から右に鞍骨山、左に天城山(右)。これから鞍骨、天城経由で妻女山まで下ります。そのヤマガシュウですが、曲がりをちゃんと見ておかないと、切った瞬間にこっちへ跳ねてくるのです。今回も迂闊に切って顔に直撃。悲鳴をあげました。登山道脇は切りますが、その奥は切りません。彼らにも生存権はあります。人間の都合だけで考えてはいけません。

 鞍骨山への尾根には、南面にはヤマナラシ(左2点)、北面にはシラカバ(右2点)の群生地があります。尾根上にはネズミサシやチャボガヤも。中腹にはないアブラチャンも見られます。

 帰りの鞍骨城跡の東にある展望岩からの善光寺平(川中島)の眺め。ここは本当に展望がいいのでお勧めです。左に妻女山(赤坂山)。右に象山。中央の森が八幡原(はちまんぱら)。先日、友人の医師が初めてここを歩いたのですが、川中島の全貌や、旧千曲川の流れを想像したり、非常に面白かったと言っていました。歴女、歴史マニアにはお勧めのコースです。ぜひ拙書をご持参ください。

 帰りは南面から下ります。通常はこの郭から右へ行くのですが、今回はそのまま南へ(左)。ちょっと急ですが、慎重に下ります。郭が続いています(中)。下りると左手(東)に道があります(右)。これは鞍骨城跡の昔の南面の巻道です。コルまで続いていたのですが、現在は崩壊しています。亡父はこの道を歩いて何度も鏡台山までキャンプに出掛けたと言っていました。

 陣馬平に立ち寄ると、貝母が更に成長していました(左)。蕾も見えます。これはタネツケバナの一種でしょうか(中)。あまりに小さくて見落としがちです。ヨモギの若葉も出始めました(右)。草餅は絶品ですが、この天ぷらも美味です。今日は小雨の予報が酷い降雪になってしまいました。信州の本格的な春は、まだまだ先の様です。
 ところで陣馬平に寄ったら、オフロードバイクの轍がありました。とんでもない事です。山林は全て私有地です。他人の畑や敷地を無断で走るのと同じ違法行為です。跡を見ると希少植物が踏み荒らされていたり、知り合いのヒノキ林は枝が折れていたそうで、植林地を走ると根が傷みます。所有者の依頼で看板を立てましたが、続くようなら警察に通報するしかありません。林道以外の走行は違法行為です。登山道ももちろん駄目。そんな当たり前の事も分からない馬鹿な大人がいるのは本当になさけない。
 今回のコースは下記の拙書でも詳しく紹介しています。地味な里山ですが、静かな山行が楽しめます。健脚であれば鏡台山へも行けます。武田別働隊の経路を想像しながら登るのもいいでしょう。川中島合戦については、右上のこのブログ内で「妻女山」「斎場山」「川中島の戦い」「川中島合戦」など。古代史がお好きならば、「科野国」「会津比売命」などで検索をしてみてください。色々出てきます。

川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。(妻女山里山通信)
 既存の歴史書では読めない内容が書かれています。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左上のメッセージを送るからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。

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妻女山から上杉景勝も布陣した清野氏の鞍骨城跡(鞍骨山・鞍掛山)へ登山道整備の好日(妻女山里山通信)

2016-02-29 | 歴史・地理・雑学
 晴れた週末は、妻女山から鞍骨山(鞍骨城跡)までの登山道の点検と整備をしました。真田信繁(幸村)を描いた大河ドラマ『真田丸』の効果もあってか、昨秋辺りから全国からハイカーが訪れています。日曜の放送では、ちょうど上杉景勝が赤坂山(現在の妻女山)から鞍掛山(鞍骨山)に御旗を建て、海津城の北条氏直を威嚇したというのをやっていました。、上杉についたものの真田昌幸に調略され、挙句の果てに殺されたという春日(高坂)昌元(春日信達)は哀れでしたが、史実はどうだったのでしょう。

 妻女山駐車場の奥の右手の林道を登ります(左)。入口に斎場山や鞍骨山までの略図と説明があります。約15~20分で長坂峠(中)。鞍骨山は左へ。右に見えるのは上杉謙信が本陣としたと伝わる斎場山(旧妻女山・地元では妻女山というとこの山のことです。昭和41年の地形図にはここを妻女山と明記。その後昭和47年に地形図を改定した時に現在の妻女山(本当は赤坂山)に三角点を置き、名前を国土地理院が勝手に移動してしまったのです)。約15~20分で林道を離れ天城山(てしろやま)経由で鞍骨城へ(右)。

 途中、謙信が七棟の陣小屋を建てたという陣馬平へ。貝母(編笠百合)がかなり大きくなってきました(左)。ゴールデンウィーク頃に満開になります。今回、一番切ったのがこのヤマガシュウ(中)。ノコギリやカマでは切れないので剪定ばさみを使います。非常に鋭い棘で、刺さると悲鳴をあげるほど痛い。これが登山道を塞ぐと前に進めなくなります。他にはノイバラとエビガライチゴも。いずれも棘があり放っておくと登山道が塞がれてしまいます。満開の福寿草(右)。綺麗ですが毒草なので要注意。
 この陣馬平にオフロードバイクで侵入した大馬鹿者がいます。最低の環境破壊です。私有地であり、個人の敷地や畑に無断で侵入するのと同じ犯罪です。

 尾根に出て振り返ると斎場山が眼下に見えます(左)。左手には目指す鞍骨山(中)。ここから1時間弱ですが、作業をしながらなので普段よりかなりゆっくりです。天城山は巻道を使い、二本松峠を通過(右)。左へ下ると清野。右は倉科。鞍骨城跡まで850mの標識。天城山は尾根が十字に出ているので、下る方向を間違えると大変です。先日も2名ほど間違えたというハイカーに出会いました。標識の地名をよく確認してください。拙書『信州の里山トレッキング 東北信編』では、コースを記載した地形図と詳細な説明やコースの写真を載せています。

 尾根の一本道を進むと、駒止と呼ばれる深い堀切(左)。更に進むと突然目の前に鞍骨城跡が現れます(中)。芽吹いてしまうと見えなくなりますが。明るい尾根を進み高圧線の鉄塔をくぐると、二条の堀切(右)。奥の堀切からは左へ林道倉科坂線へ下る登山道があります。以前ここはエビガライチゴとヤマガシュウの酷い藪で通れませんでした。今回も3mにもなったエビガライチゴを伐採。

 堀切を越えると鞍骨城の全貌が見えてきます(左)。尾根の両側は4mほどの長い削平地があり、馬場跡などともいわれています。尾根には4月にはカタクリ、5月には猛毒のヤマトリカブトが咲きます。城跡へは左手(北側)から登ります(中)。登り口が分かりにくいという声を聞いたので、今回かまぼこ板に矢印を書いたものを付けました。また補助用にトラロープを設置しました。大きなケヤキのある二つ目の広い郭(右)。ここで右手(南側)に回ります。斜めに細い道が付いています。

 そこから本郭を見上げたところ(左)。本郭の石積みが見えます。斜めに登って行くと南面のやや広い郭に出ます(中)。ここからはつづら折れで南面の虎口へ。足元がかなり不安定なので要注意。標高798mの本郭に到着(右)。
 武田氏滅亡後、鞍骨城は『景勝一代略記』によると、 1582(天正10年)7月に上杉景勝が「清野鞍掛山の麓、赤坂(現妻女山)と云所に御馬を立てられ、・・・鞍掛山へ御上がり云々」との記録があり、景勝と北条氏政が川中島四郡支配を争った際に、上杉方がこの一帯に陣取った様子が記されています。そういう経緯から、今の鞍骨城は、景勝時代の姿ではないかともいわれています。そんな城跡を500年前の石垣かと思って触れると、色々な事を思います。なぜ人は戦ばかりするのだろうとか…。
「七度の飢饉より一度の戦」戦国時代の凄まじい実態 (妻女山里山通信)大河ドラマでは見えてこない戦国時代の姿

 本郭から東へ痩せ尾根を30mほど行くと二ヶ所の展望岩があります。まず西の展望岩から、出発点の妻女山を見下ろしたカット。妻女山から陣馬平、天城山、二本松峠を経由して鞍骨山。普通なら約90分ですが、今回は体調がいまひとつだったのと作業で2時間以上かかりました。
「妻女山」「妻女山 行き方」「妻女山 地図」「斎場山」「さいじょざん」「さいじょうざん」

 東の展望岩からは眼下に松代城跡(海津城跡)。右下の小山は、象山の先にある離山。山頂には離山神社が鎮座しています。その向こう側には、松代文武学校。戦国時代はもちろん、江戸後期の戌の満水後の瀬直しまでは、この松代城の脇を千曲川が流れていました。
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信) その2

 結局、今回は行き帰りで200本以上のヤマガシュウを切り払ったと思います。尾根の途中で二ヶ所ほど見つけたタヌキの溜糞(左)。春先は最も食料が乏しい時期。何を食べているのでしょう。何か小動物の毛の様なものも見られますが。雑食性なので樹の実や果実以外に、ネズミやカエル、ミミズなども食べます。ドバトの羽根が散乱していました(中)。襲ったのはタヌキかキツネか猛禽類のノスリかトビか。有毒なので最後まで残っているヒヨドリジョウゴの赤い実(右)。午後になって冷たい南風が吹き始めて腰痛が酷くなったため慌てて下山しました。

 日曜日は、長坂峠でノイバラの伐採(左)。ノイバラも大きくなると木質化し、非常に厄介です。腰痛のため草刈機が使えないため、鉈鎌と剪定バサミでゆっくりと。正面にある数本の木はオオムラサキの幼虫の食草となるエノキ。昼食の弁当は野沢菜漬けのチャーハン(中)。副菜は自家製のキムチとカクテキ。出る直前に作ったのでまだ温かく美味でした。小鳥のさえずりを聞きながらのんびりと昼食。ちょうど知り合いのKさんが通りかかりました。山蕗を採ってきた様です。信州名物? 山蕗とスギヨのビタミン竹輪のかき揚げにでもするのでしょうか。やや早めに下山。妻女山松代招魂社奥の駐車場はかなり広く、上手く停めると20台以上駐車できます(右)。両日とも何人もの歴史マニアや観光客が訪れていました。4月上旬には桜も満開になり、遠足の保育園児や小学生の歓声で溢れます。花吹雪の妻女山に、ぜひお出掛けください。

真田丸の影響か、アクセスも増えています。ご質問やご感想、情報提供などコメントも大歓迎ですが、コメントを表示されたくない方は、その旨を書いていただければ、承認制ですので非表示にします。遠慮無く書き込んでください。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。『真田丸』関連の山城巡りに最適なガイドブックです。鞍骨城跡や上杉謙信の陣城跡と伝わる陣馬平への行き方や写真も詳しく載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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大彦命と布施氏の布制(布施)神社詣でと茶臼山ラッセル(妻女山里山通信)

2016-01-29 | 歴史・地理・雑学
 以前の記事「茶臼山の茶臼ケ城、修那羅城、篠ノ城探索。布施氏の山城は想像以上に大規模でした(妻女山里山通信)」で、望月氏の後裔(こうえい:子孫)である布施氏について記しましたが、その布施氏を祀る布施(布制)神社が、茶臼山を中心として東西南北に4社あります。その内の北の篠ノ井山布施の社と西の山布施にある社は訪れたことがあるので、残りの2社を訪れてみました。前回、『滋野系図』より布施氏は滋野氏(望月氏)の後裔と記しましたが、滋野氏の祖は清和天皇なので、辿ると崇神天皇まで行くのでしょうが、まず間違いなく何度か切れているので真実は霧の中です。

 長野市篠ノ井五明にある布制神社(左)。延喜式式内社で、主神は布施氏の祖といわれる大彦命(おおひこのみこと)。『古事記』では大毘古命と記載。当社は、927年に完成した延喜式に記載があります。他の3社は南向きですが、ここのみ東向き。布施神社が正しい表記ですが、仏教のお布施に繋がるということで現在は布制神社と表記するそうで、これは明治の廃仏毀釈の置き土産でしょう。本来の布施神社に戻すべきです。
『日本書紀』では、崇神天皇10年9月9条で、『大彦命を北陸道へ、子の武淳川別命(たけぬなかわわけのみこと)を東海へ、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を西道へ、丹波道主命(たんばにおみちぬしのみこと)を丹波へ派遣したとしされています。いわゆる四道将軍のひとりです。
『古事記』には、崇神天皇が伯父の大彦命を北陸道(越国・高志国)へ、その子武淳川別命を東海道へ遣わせたとあります。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れ、二人の出会った所を相津(会津)というとあります。 その後、社伝によると、大彦命は五明の布制神社後背(西)の瀬原田の長者窪に居を構えそこで薨去(こうきょ)した(亡くなった)といいます。
 境内にある天満宮(中)と合祀された石祠が数多く並んでいます(右)。明治の廃堂令で長野市に400あったお堂で残ったのは僅か16。現在は40ほどに復活。南方熊楠が猛反対した神社合祀令により多くの産土神が合祀されたり消えてしまったのです。廃仏毀釈や合祀令は、中国の文化大革命に匹敵するといっていい明治政府による非情な文化破壊だったのです。明治政府の祖となる明治天皇が偽物だったのですからそこまでする必要があったのでしょう。詳細は「田布施システム」で検索を。
「1町村1社を標準とし、整理統合された数多くの神社跡は、その神社林が払い下げられ伐採されていく。熊楠の主たる研究対象は、この神社の森に保護された微小な生物であり、神社を単位とした共同体の風習や伝承である。それが一朝にして破壊の危機に立たされた。森がはぐくんできた数千万年の生物が、合祀令によって一朝に消え失せる。産土神を遠くの神社に合祀され、参詣の不便さをなげく村民の声を聞くにつけ、また、合祀後の払い下げを見込んで巨樹の多い神社を合祀の対象に選ぶ神官や郡長らの所行を見るにつけ、熊楠は怒りを爆発させた。」(新・田辺市民読本「南方熊楠」より)拙書でも粘菌のコラムで取り上げていますが、私が敬愛してやまない明治の偉大な研究者です。

 次に南西に車を走らせ、川柳将軍塚古墳の南の麓にある篠ノ井石川の布制神社へ(左)。参道が狭いので一の鳥居の脇に駐車して登ります。鳥居の中に見えるのが川柳将軍塚古墳のある山。400m足らず登ると社殿の赤い鳥居(中)。拝殿は新しく、後背の本殿もそう古いものではなさそうです。拝殿から南南東を見ると森将軍塚古墳が見えます(右)。赤い鳥居の前に東山道支道の標柱が立っています。
 神社に来る途中に長野市指定文化財建物 石造多層塔がありました。高句麗の王族、前部秋足(ぜんぶのあきたり)が延暦18年(799)に篠井性を下賜(かし)されています。それが現在の篠ノ井の名称の元でしょう。この時、多くの高句麗の豪族が帰化しています。高句麗人はツングース系で石の文化を持ち、現在の半島の人とは異なります。長野市には高句麗式積石塚古墳として大室古墳群が、多くが破壊されましたが妻女山にもあります。千曲市には堂平積石塚古墳群があります。

 石川の布制神社の上にある川柳将軍塚古墳(左)。前方後円墳で、地元ではここが大彦命の御陵といい伝えています。その上にある姫塚古墳は、更に古い時代のもので、やや小型で前方後方墳(中)。途中の四阿から南方を見ると森将軍塚古墳が見えます(中央の白い部分)。右上は有明山、左奥は五里ヶ峯。

 これは以前夏に訪れた茶臼山西の山布施にある布制神社(左)。村史には奈良時代後期の宝亀8年(776)創建とあります。拝殿は江戸時代後期のものでしょうか。木彫には諏訪立川流の様式らしき立派なものが見られるのですが、明治の村史には特に記載がありません(中)。これは後で研究者の友人に確認したところ、石川流の山嵜儀作の木彫と分かりました。その木彫の写真と説明は、「山布施の布施神社と諏訪立川流木彫。布施氏の須立之城探訪。陣馬平のカモシカの親子」の記事を御覧ください。
 神社から東方を見ると茶臼山北峰と崩壊してしまった南峯が見えます(右)。

 布施氏の領地を見たいと思い茶臼山へ。先週の雪かきで腰を痛めてしまったので若干躊躇したのですが、旗塚まで車で行けば大丈夫だろうと強引に茶臼山植物園入口のゲートまで車を入れました。積雪は10~30センチでしたが、先に歩いてくれた人が2名ほどいたようで、その足跡を辿りました。山頂西側の登山道(左)。気温が6度なので樹上の雪が落ちる度に粉雪の光の柱が立ちます。アニマルトラッキング。これはニホンジカのもの(中)。ノウサギが駆けまわった跡(右)。

 茶臼山のアルプス展望台から。中央やや左の高い杉の木に囲まれている山布施の布制神社。奥は左から爺ヶ岳、山頂に雲がかかった鹿島槍ヶ岳、右に雪解けの頃に武田菱が現れる五竜岳。北アルプスの仁科三山。命名の元となった仁科氏は、『信濃史源考』では、大和国の古代豪族安曇氏の一支族が仁科御厨に本拠をおいて、土地の名をとって名字としたといわれています。1400年の大塔合戦では、新守護として強圧支配をした小笠原長秀に対して村上満信と仁科氏を盟主とする大文字一揆を起こして守護軍を追いやっています。戦国時代の仁科氏の動静は非常に複雑で、武田に降りたり、信長の代には高遠城主で陥落したり。後に善光寺平に移ったものは故郷の湖を偲んで青木を名乗ったという説も伝わっています。また秀吉の景勝の国替えで付いていったのか米沢にも仁科姓があります。

 右へ目をやると、神城断層地震で山頂が4割も崩壊してしまった虫倉山。松代藩の尊崇が厚かった神話の山です。拙書でも紹介しているさるすべりコースが早く復活するといいのですが。虫倉山は善光寺地震でも大崩壊しており、その様を藩の御用絵師、青木雪卿が描写しています。彼については、「『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信)」を御覧ください。コメント欄も読んでいただくと全貌がかなり見えてくると思います。

 そこから5分ほど北へ下って反対側が見える善光寺平展望台へ。川中島の奥に白い根子岳と黒い四阿山がそびえています。大河ドラマ『真田丸』の真田家と非常に関係の深い山で、麓の山家神社の奥宮が二つ、その間に信仰の原点といわれる小石祠があります。奥宮は拙書でも紹介しています。
 左手前のビル群は、長野冬季オリンピックで選手村になったところ。現在は住宅地。その手前が北陸新幹線。

 右に目をやると、松代方面。プリン型の皆神山の左上に保基谷岳、右に菅平の大松山。左中央に広い畑地が見えますが、地名を御厨(みくりや)といって平安時代に布施氏の荘園があった場所です。大麻を栽培し麻布を朝廷に献上もしていました。布施がつく地名は布施五明、布施高田、上布施、下布施、山布施などたくさん残っています。葛飾北斎と栗で有名な小布施は、鎌倉、室町時代にその名が登場するそうですが、ここも布施氏と関係があるのかもしれません。

 最後に妻女山展望台からの茶臼山。今まで記してきたことは、調べればだいたい分かることなのですが、この妻女山麓の会津比売神社の祭神、会津比売命(あいづひめのみこと)の会津が気になります。
 崇神天皇の命で東征から戻った出雲系の大彦命がこの地に暮らしたとありますが、同じ頃、『古事記』によると崇神天皇は大和系の武五百建命(たけいおたつのみこと)を科野国造に任命しており、森将軍塚古墳がその御陵ではないかといわれています。そして、その妻が出雲系の会津比売命と神社御由緒には記されています。会津比売命の父は皆神神社の祭神、出速雄命(いずはやおのみこと)で、その父は諏訪大社の祭神、建御名方命(たけみなかたのみこと)、その父は大国主命です。出速雄命が大彦命に敬意を評して娘に会津比売と名付けたということは考えられないでしょうか。果てしない妄想ですが、古代科野国は大和系と出雲系が結ばれて造られたといえるのです。

 この会津比売神社は、特異な社で同名の社が他に全くありません。往古は山上にあったが上杉謙信が庇護していたため武田の兵火に焼かれて山陰にひっそりと再建されたと伝わっています。
 延喜元年(901年)に成立した『日本三代実録』には、貞観二年(860年)に出速雄神に従五位下、貞観八年(866年)に会津比売神と妹の草奈井比売命に従四位下を授くとなっています。その後、出速雄神は、貞観十四年(872年)に従五位上に、元慶二年(878年)に正五位下を授くとなっています。当時の埴科郡の大領は、諏訪系統の金刺舎人正長であったため、産土神(うぶすながみ)としての両神社の叙位を申請したものと思われるということです。金刺舎人正長 は、貞観4年(862)に埴科郡大領外従7位に任命されています。
 金刺氏は、欽明(きんめい)天皇( 539 ~ 571年在位)に仕え、大和国磯城島の金刺宮に由来するものです。金刺氏は諏訪下社の大祝(おおほうり・シャーマン)であり、中世に諏訪大社上社大祝によって追放されるまで存続しました。屋代遺跡群出土木簡には「他田舎人」や「金刺舎人」の名が見られます。舎人(とねり)とは、皇族や貴族の警護や雑務をしていた役職。会津比売神社が歴史から消えていったのも、金刺氏の衰退と関係があるのかも知れません。
 また、『松代町史』(上巻)第二節には、この地の産土神(うぶすながみ)と伝わる皆神山にある皆神神社(熊野出速雄神社)の祭神で、諏訪の健御名方命の子でこの地の開拓を任じられた出速雄命(伊豆早雄)と、その御子である斎場山(旧妻女山)の麓にある会津比売神社の祭神・会津比売命(出速姫神)の、会津(あいづ)または出(いづ)が転訛して松代の古名である海津となったという説が記されています。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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『真田丸』効果か訪問者が増えた妻女山から清野氏の鞍骨城跡に登る(妻女山里山通信)

2016-01-17 | 歴史・地理・雑学
 大河ドラマ『真田丸』が始まり、松代城や妻女山にも訪れる人が増えました。土曜日に山の手入れをしていると、3人ぐらいが鞍骨城跡へ登っていったようです。翌日は薄曇りでしたが風がほとんどないので登ることにしました。今時積雪が全く無いのは初めてです。

 新年の晴天の日の妻女山松代招魂社(左)。戊辰戦争以降の戦没者を祀ってあります。瓦には真田の六文銭が。拝殿の中の額(中)。招魂社の書は、松代藩最後の藩主、真田幸民(さなだゆきもと)ですが、真田ではなく滋野幸民と書いてあります。わざわざ本姓を書くのには、何か相当の想いがあったのでしょう。滋野氏はもともといた望月氏の地に入り縁戚関係を深めていきます。そして海野氏、真田氏もその関係。望月氏の中からは布施氏を名乗るものも出て、善光寺平を収めました。平安時代のことです。幸民は、伊予宇和島藩主・伊達宗城の長男で、真田幸教の養子となりました。長年名主をやった我が家の祖先も御目通りしているはずです。
 招魂社の奥の駐車場から右の林道を登ります(右)。林道入口に私が立てた地図と看板があります。木の杖が置いてあるので使ってください。返却してもいいですが、捨ててきても構いません。ここから鞍骨城跡までは、約90~100分です。

 左はウスタビガの繭(まゆ)。年によって増減しますが、今年は異常なほどに少ない。これは羽化後で空ですが、以前蛹が入ったものを玄関の花瓶に挿しておいたら、ある夜羽化してしまい、家人の悲鳴で気が付きました。開張10センチ以上あるので、知らないと驚くでしょう。手のひらに乗せて遊んだ後に逃がしてやりました。
 逆光に映える桜の枝(中)。ガマズミの冬芽(とうが・ふゆめ)(右)。

 ミヤマウグイスカグラの蕾(左)。なんと咲いているものもありました。霜でやられていましたが。マユミの実(中)。例年ならば枯れているか落ちているのですが。そのマユミの冬芽(右)。

 コナラの蘖(ひこばえ)の冬芽(左)。白いものはシジミチョウの卵でしょうか。コナラの冬芽にカマキリの卵(中)。高さ1m以上についていました。豪雪があるのでしょうか。無関係という調査報告もありますが。ニワトコの冬芽(右)。

 天城山(てしろやま)を巻いて二本松峠を過ぎ、尾根を進むと駒止と呼ばれる深い堀切(左)。進むと二条の堀切(中)。これは越えて振り返ったところ。堀切を越えると鞍骨城跡が姿を現します(右)。尾根の両側には、馬場跡ともいわれる細長い削平地があります。

 まず一の郭(くるわ)に登ります(左)。ここは左を巻いて二の郭へ。大きなケヤキの木が立つ二の郭(中)。ここからは右へ巻いて本郭への斜めの道を登るのが普通ですが、今回は三の郭へ直登しました。かなり危険です。滑落しないよう慎重に登りました。三の郭から見上げる四の郭(右)。

 四の郭の石垣(左)。その上には本郭の石垣も見えます。四の郭から見上げる本郭(中)。さすがにここは登れないので右手の大手へ回ります。南面にある虎口(こぐち)(右)。倉科のMさんが立てた「天空の山城 鞍骨城」という標柱が迎えてくれます。

 鞍骨山798mが本郭で鞍骨山山頂(左)。村上義清の傍系の清野氏の山城です。西から土塁のある東を見たところ(中)。土塁の上から西を見たところ(右)。

 本郭から見下ろす松代城跡(海津城跡)。写真中央が松代城。『真田丸』のイベントでしょうか。麓から太鼓の音が聞こえてきました。右上はモーニング娘。16の羽賀朱音ちゃんが通っていた松代中学。世界的アコーディオン奏者のcobaもここの出身。二人共私の後輩ということになります。

 本郭先の展望岩から。西北西を見ると白馬三山。右に神城断層地震で山頂が崩壊した神話の山、虫倉山。その手前が茶臼山。一番手前の三角の山は、今回は妻女山から来る時に巻いた天城山(てしろやま)。

 北を見ると左に戸隠連峰と、戸隠富士といわれる高妻山。右に長野市民の山、飯縄山。手前に広がる善光寺平(川中島)。千曲川の手前に登山口の妻女山。気温は1度ぐらいですが、無風なので寒さは感じません。AC長野パルセイロのホームスタジアムも今日は試合がないようで静かです。試合がある日は、ここまでチャントが聞こえます。
 豪雪地帯の飯山などを除いて、全県下に大雪注意報が出ました。典型的な上雪(かみゆき)です。2014年2月の大豪雪の様にならないといいのですが。備えだけはしておきましょう。
清野氏と戦国時代』 鞍骨城跡の主、清野氏についての詳細な歴史です。
 海津城(後の松代城)の起源については、清野村誌の記述により清野氏という説があります。
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信)
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その2(妻女山里山通信)

 明けて月曜日の昼。深夜から降り始めた雪で一夜にして真っ白に。上雪なのでシャーベット状。非常によく滑ります。写真は妻女山展望台から松代方面。上信越自動車道は動いていました。長野自動車道と中央道はほぼ通行止め。東京では京王線が麻痺状態になったようですね。明朝はこのシャーベット状の雪が凍結します。交差点や橋の上のミラーバーンに要注意です。週末は更に強烈な寒気が入ってくるとか。やれやれ。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左上のメッセージを送るからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。

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藤森照信氏の神長官守矢史料館・高過庵・空飛ぶ泥舟と、諏訪大社上社前宮と本宮へ(妻女山里山通信)

2016-01-09 | 歴史・地理・雑学
 初詣でに信濃國一之宮の諏訪大社へ。神位は正一位で末社含め全国25,000社に及ぶ諏訪神社の総本社です。下社春宮と秋宮が有名ですが、大混雑必至なので上社前宮へ行くことにしました。その前に、すぐ近くにある世界的建築家の藤森照信氏の神長官守矢史料館・高過庵・空飛ぶ泥舟へ寄りました。藤森さんは、私にとっては建築家というより70~80年代に赤瀬川原平さんの「路上観察学会」のメンバーのひとりという記憶のほうが強いのです。白夜書房の『写真時代』とかセルフ出版の『ウィークエンドスーパー』などはよく買っていました。カメラマンの荒木経惟さんの作品が見られる貴重な雑誌でもありました。「超芸術トマソン」は、一世風靡したので覚えている人も多いのではないでしょうか。

神長官守矢史料館」(左)。江戸時代まで諏訪大社上社の神長官をつとめた守矢家の敷地内にあります。正月なので残念ながら休館でした。諏訪産の鉄平石の屋根を突き破って延びる木が印象的です。外壁は椹(サワラ)の割板。守矢家の史料だけでなく、武田信玄や村上義清、真田昌幸などの史料もあるそうです。
 2010年に米国 Time 誌が発表した「世界の危険な建物トップ10」にも選ばれたという世界で最も危険な茶室「高過庵(たかすぎあん)」(中)。ハシゴは外されていて登ることはできませんが、どんな景色が見えるのでしょう。こんなところで一服いただくのも緊張感があっていいかもしれません。右は「空飛ぶ泥舟」。空飛ぶ茶室ですね。一坪で重量は600キロとか。6人が入れるそうですが、うむ。千利休に見せたい。茶道は元々戦国時代に本陣で死に向かい合う武士が嗜むものでした。浮遊する茶室は、諸行無常の形而上的な表現にも繋がるのかも知れません。まあ実際は微妙に揺れて一服どころではなく、「いいお手前でした。ブワッ!」っと鼻から茶を吹き出す爆笑茶会になるのかも知れませんが。それも一興。

 「空飛ぶ泥舟」。左下に小さな入口(にじり口)があるのですが、これは中で動くとかなり揺れそうですね。手前には畑というのもお洒落です。バックには茅野市民の憩いの山、永明寺山(1119.6m)が。山頂付近は永明寺山公園として整備されています。左手前の小ピークには、武田信玄由来の上原城址があります。背後にあるソーラーパネルの違和感が顕著。クリーン・エネルギーの様にいわれていますが、実際は製造や廃棄の際に、カドミウムやカドミウムテルル、鉛などの有害物質を出します。安全な廃棄方法さえ確立されていないのが実情です。加えてパワーコンディショナから出る有害な電磁波の問題もあります。こちらの記事のように個人差があるのも特徴です。人間は人工電磁波に耐性がありません。電磁波も放射線の一種。リニアモーターカー? 電子レンジに乗って旅をしたいと思いますか。

 神長官(じんちょうかん)守矢家(左)。諏訪大社の祭神・建御名方神 (たけみなかたのかみ)が来る前からこの地にいたという一族です。土着神の洩矢神(もりやしん、もれやしん)や守矢家については、子孫にあたる方が『私の諏訪考』という非常に詳細な興味深いサイトを開いています。「神長官守矢史料館」から「空飛ぶ泥舟」へ行くには、大祝(おおほうり)諏訪家の墓所を抜けて行きます(中)。この上には守矢家の墓所もあります。
 墓所のすぐ上に鎮座する御左口神(ミシャグジ神)信仰の中枢とされる御左口神社(右)。社の近くには二本のカジノキ(クワ科)があります。カジノキは諏訪大社の御神紋でもあります。
---諏訪地方では特に諏訪の蛇神であるソソウ神と習合されたためか白蛇の姿をしているともいわれており、建御名方神や洩矢神(モレヤ神)と同一視されることもある。(wikipedia)

 諏訪の祭祀の発祥地とされる諏訪大社上社前宮へ(左)。ここは大祝(おおほうり)の始祖といわれる有員(ありかず)が初めて大祝の位について以来、同社大祝代々の居館であったところと書かれています(中)。ここに書いてある1483年の内訌ですが、時は戦国時代で大祝も武士化し、祭政分離のため惣領は兄の諏訪信満が継ぎ、大祝は頼満が継承したのですが、対立し諏訪氏は分裂。この対立はそれぞれの子の政満(惣領家)と継満(大祝家)の代にも継続し、ついに文明15年(1483)に、継満は一族の高遠継宗や金刺興春と組んで、従兄の政満らを謀殺しました(文明の内訌)。しかし、惣領家の家臣の反撃に遭い、継満は伊那に逃亡しました。この最中、隠居の頼満は病床にあったため逃げ遅れ、討ち取られています。
 鳥居をくぐって更に200mほど登りますが、脇に民家があり、なんだか不思議な感じがします。境内には水眼(すいが)川が流れていますが、ペットを洗わないでくださいという看板が妙にリアルでした。

 諏訪大社上社前宮拝所。江戸時代までは「前宮社」として上社境外摂社筆頭の社格を有して鎮座していたのですが、明治以降上社の前宮と定められたということです。下社や上社本宮に比べると参拝者も少なく、静かに詣でることができます。

 神社の四隅に立つ御柱(左)。この裏山は、守屋山へと続いています。次に上社本宮まで歩きました。道中の道路は参拝者の車で大渋滞です。歩くにかぎります。旧杖突峠への入り口道標(中)。「従是北 高島江 一里二十丁」「東 金沢宿 二里二丁」「南 御堂垣外宿 二里二十丁」と刻まれています。本宮(ほんみや)東側の入り口前のお洒落なカフェ(右)。正月で休みでしたが、八ヶ岳連峰が綺麗に見えるはずです。

 本宮は、赤石山脈北端の守屋山北麓に鎮座します。神橋を渡り本宮に入ります(左)。入口御門の木彫は、文政十二年(1829)建立。上社宮大工棟梁である原五左衛門親貞とその弟子藤森廣八(諏訪立川流)が構築し巧微な彫刻が施されている。とあります(中)。ちなみに秋宮は諏訪立川流の立川和四郎富棟で、神楽殿は子の富昌。春宮は大隅流の伊藤長左衛門です。布橋(右)は、古くは大祝のみが渡り、布が敷かれたことからそう呼ぶのだそうです。

 本宮摂社 出早社(左)。祭神・建御名方神の御子で、長野市松代の皆神山山頂にある皆神神社の祭神で、出速雄命(いずはやおのみこと)とも書きます。その御子が妻女山の麓にある会津比売神社の祭神・会津比売命(あいづひめのみこと)で、ふたりは科野国(埴科更科)の産土神(うぶすながみ)と呼ばれています。会津比売命の夫は神武天皇の後裔といわれる武五百建命(たけいおたけのみこと)で、崇神天皇の御代に初代信濃國造に任命された人で、森将軍塚古墳に埋葬されているといわれています。関連記事は、右上のブログ内検索でどうぞ。
 本宮摂社 大國主社(中)。祭神・建御名方神の父で、大国主命(おおくにぬしのみこと)。出雲大社の祭神です。右は布橋から見た神楽殿。大きな太鼓が目を引きます。

 こちらが参拝者が詣でる表参道(左)。もの凄い人です。重要文化財の四脚門(中)。慶長13年(1608年)、徳川家康が大久保長安に命じて建立させたもので、かつては大祝だけが最上段にある硯石へと登るために使ったそうです。拝殿の木彫も入口御門と同じく諏訪立川流の素晴らしい木彫です(右)。

 杖突峠の展望台から俯瞰する諏訪の街と諏訪湖。左に高ボッチ山、その右に鉢伏山。右奥には美ヶ原の王ヶ頭。この暖冬では、諏訪湖も結氷しませんね。新年の信濃毎日新聞に、諏訪大社上社の旧神宮寺の本尊が確認されたという記事が載っていたのでスクラップしました。神仏習合の貴重な遺物で、明治の廃仏毀釈の難に遭うも住民が守りつづけたものだそうです。

 右を観ると左に蓼科山。右へ八ヶ岳連峰が続きます。真冬だというのに本当に雪が少ない。これからどうなるのか本当に気がかりです。今年は諏訪大社の御柱祭りがあります。大変な賑わいになるでしょう。それにしても、なんだか妙に胸騒ぎのする新年です。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

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桜と保科正之で知られる伊那の高遠城址へ。昭和グルメも(妻女山里山通信)

2016-01-04 | 歴史・地理・雑学
 伊那高遠の高遠城は、桜の城として全国的に有名で花のシーズンは大混雑しますが、静かな城跡探訪には、冬枯れの季節が一番と訪れました。高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継(たかとおよりつぐ)の居城でしたが、1545年(天文14)に武田信玄により攻略され、その後大規模な改修を行いました。南に三峰川(みぶがわ)、北に藤沢川が流れ、これらが合流する段丘上に築かれた平山城で、川からの比高は約70mです。武田氏以降は、織田氏、豊臣氏の時代から江戸時代へと城主は目まぐるしく変わって行きました。年末とあって訪れる人も少なく、静かに探索ができました。

 高遠城址公園へは車で行けるのですが、高遠のご城下通りにある商店街の無料駐車場に停めて歩きました。高遠の銘酒「黒松仙醸」の店構え。酒米を蒸すのに使った大釜が置いてありました(左)。藤沢川にかかる高砂橋を渡り右へ少し歩くと城址への階段があります(中)。城址への斜面はすっかり住宅地になっていてやや興ざめですが、これは明治以降の廃藩置県後のことなのでしょう。城壁の塀沿いに登ると城址公園(右)。

 そこから高遠の城下を俯瞰。三峰川と山に挟まれた狭い城下町です。三峰川沿いには、間口の狭い三階、四階建ての家屋が並んでいます。遠くには伊那谷と、その奥に木曽駒ヶ岳などの中央アルプスの絶景。高遠頼継や保科正之もこの景色を見ていたのだなと感慨に耽りました。実はわが一族には、保科正之について会津に行った武士がおり、その後豪商となって会津藩を支えた人達がいるのです。同じ頃に松代藩に仕えたものもいるらしいのですが、幕末の戊辰戦争では会津若松城をメリケン砲でボコボコにし、白虎隊を粉砕したのは松代藩でもあったわけで、戊辰戦争というのは信州人同士の戦でもあったという歴史の非情な側面があるのです。遥か昔、豊臣秀吉の国替えでは、上杉景勝の会津移封に伴い善光寺平の土豪が家族家来ともども全て会津に移り住みました。会津は信州人が作った城下町といっても過言ではありません。今では名物の高遠蕎麦も会津に移り、この地では長らく絶えていたそうですが、現在は高遠の名物となっています。辛味大根の絞り汁で食べる蕎麦やうどんは、北信の埴科更科のおしぼりうどんや蕎麦が有名ですが、この地にもその原点があったということです。

 廃藩置県で払い下げられていたものを復活し、高遠高校の正門でもあったという大手門(左)。松代城跡の太鼓門などと比べるとあまりに小さく貧相なので疑問も湧くのですが。いずれにせよこの高さでは乗馬してくぐれないので、幅も高さもかなり切り詰めてあるようです。
 旧藩校の進徳館。国指定史跡(中)。藩主内藤頼直が、藩士中村元起の熱望により大学頭林復斎の助言を得て1860年(万延元)三ノ丸に内藤蔵人の屋敷を文武場にあてて創設したもの。往時は8棟あったようです。1855年(安政2)年に開校した松代藩の文武学校など、この当時は藩校を創設するのが時代の流れだったようです。藩校の元は江戸時代初期ですが、黒船来航直後で優れた藩士の養成が急務だったのでしょう。
 1936年(昭和11)に建てられた高遠閣は、元々は地域の集会所だったそうですが、現在は観光客の休憩所として利用されています(右)。設計は長野県駒ケ根市出身で帝国ホテル、日本郵船本社、東京帝国大学図書館、旧赤穂村役場(駒ヶ根市郷土館)などを手懸けた伊藤文四郎、棟梁は竹内三郎(国登録有形文化財)です。様式的には建築を学んでいる次男によると、色々な時代の様式を取り入れたごった煮みたいなものだそうですが、雰囲気はあります。

 そこから二の丸へ入り右手を見ると本丸に通じる「桜雲橋」(左)。渡った先に問屋門。これは本町の問屋役所にあったものを移築したものということです。桜雲橋から見る堀切(中)。かなり深い堀切があちこちにありますが、見ると自然地形を上手く利用したと思われるものも見られます。
 問屋門をくぐって本丸へ(右)。江戸時代は天守閣はなく御殿や櫓、土蔵などがあったということですが、廃藩置県でほぼ全て取り壊されました。右手には新城(盛信)藤原神社があります。明治政府が天皇制を堅固なものにするために行った廃藩置県や廃仏毀釈、後の合祀令などは、中国の文化大革命に匹敵するほどの酷い文化的な歴史破壊だったということが分かります。詳細は田布施システムで検索を。

 本丸から見る中央アルプス。当時はそんな名前はありませんからなんて呼んでいたのでしょう。木曽山脈、飛騨山脈、赤石山脈という呼び名も、そう古いものではないはずです。また、山名というのは明治に帝国陸軍陸地測量部が地図を作る時に地元の古老に聞いてつけたものですが、実は名前がなく適当につけられた山名も多いのです。山名が異なる麓で違うものだったり、時代によって山名や漢字が変わることもよくあります。自然地名も大切な文化遺産なのですが、現在は地元の老人でも知らない人がほとんどで危機感を覚えます。

 時を告げたという本丸南西端の太鼓櫓(左)。これも想像の復元のようです。この奥に保科正之が幼少時を過ごしたという南曲輪(郭)があります。その南曲輪(中)。これは南方ですが、西を見ると中央アルプスが望めます。この先は三峰川に落ちる70mの断崖があります。そこから見える天女橋(右)。

 昭和37年に改修落成した「天女橋」(左)。それ以前は木製の橋だったのでしょう。コンクリートと鉄の頑強な橋です。橋の向こう側には、二十二夜さまという小祠が、こちら側には、少し下流にある戸隠神社から勧請した九頭竜さまの説明看板があります。橋から見る高遠城址。高遠大橋の向こうに城址の断崖が見えます(中)。昭和の薫りがする天女橋の銘板(右)。地元民の念願だったことがわかります。

 昼になったので伊那旧市街の「餃子の店 山楽」へ(左)。ショーウィンドウの中のサンプルが化石化しています。私は鶏そばを(中)。息子たちはタンメンとエビ丼。名物の餃子も。餃子は注文を受けてから包んで焼いていました。私は化学調味料アレルギーなのですが、まあ我慢できる範囲でした。美味しく頂きました。右は、小沢川が天竜川に注ぎ込む手前にある食堂の「クロネコ」(右)。昭和レトロな建物と昭和レトロなメニューが有名です。山楽以上に懐かしい昭和の味に出会えるそうです。伊那ではもちろんローメンとソースカツ丼もお勧めです。鹿肉や猪、熊などのジビエ料理に、地蜂の幼虫、ザザムシ、イナゴなどの昆虫料理もお勧めです。昆虫料理に慣れておくと、食糧危機も乗り越えられるかもです。ちょっと不安になるほど暖かすぎる年の瀬でした。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

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