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武田典厩信繁の墓と全国随一の大きさの閻魔大王像がある典厩寺探訪(妻女山里山通信)

2017-03-12 | 歴史・地理・雑学
 週末の午前中は、用事や買い物を済ませて武田の副将で、信玄の実弟・典厩信繁の墓と全国随一の大きさの閻魔大王像がある典厩寺(てんきゅうじ)へ。千曲川堤防の脇にあるため晴れていましたが寒風が厳しく春弥生というのに凍えながらの参拝と見学でした。

(左)松操山(しょうぞうさん)典厩寺山門と閻魔堂。(中)山門の額。拝観料200円を受付が無人なので皿に置いて中へ。(右)すぐ左手に閻魔堂。小学校低学年の遠足で訪れた時以来の訪問です。遠足の際は、そのあまりの大きさと怖さに泣き出した女子がいた記憶があります。
 頭部のみ千曲市稲荷山出身で後藤流の流れをくむ宮彫師・小林五藤(正名:小林佐太郎藤原茂高)の作。頭部のみという理由はこのの像を製作中に急逝したため。体は漆喰で、質感が異なります。また、造作も稚拙です。八代真田幸貫(ゆきつら)が川中島の戦いの8000人ともいわれる戦没者の供養のために建立したものです。宮彫師・小林五藤については、『北信濃寺社彫刻と宮彫師』の記事をお読みください。

 小林五藤制作の閻魔大王の頭部。子供が夜泣きしそうな迫力があります。閻魔は仏教、ヒンドゥー教における地獄、冥界の君主。冥界の王として十王とともに死者の生前の罪を裁く神。昔の子供たちは、嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるといわれたものです。悪いことをすると死んでから地獄に落とされるとも。

(左)左右から見るとそれぞれ表情に微妙な違いがあります。(右)天井には数多くの観音の絵。

(左)本堂。創建当時(1500年頃)は鶴巣寺(かくそうじ)と称し、合戦から60年後の承応3年(1654)に松代藩主の真田信之が武田典厩の名をとって寺号を典厩寺と改め、信繁の菩提と武田・上杉両軍の戦死者を弔ったといわれています。(中)信繁の首を洗ったという「首清め井戸」。(右)信繁の墓。真田昌幸は信繁の名を次男(真田幸村)に名付けました。

(左)枝垂れ桜のある境内。満開の際に訪れたいものです。奥に見えるのは奇妙山。(中)川中島合戦記念館。(右)入ってまず目を惹いたのは、狩野祐清の『大龍』。狩野祐清(狩野邦信)は、中橋狩野家十四代目。江戸生れ。初号は探秀のち祐清。狩野探牧守邦(鍛冶橋狩野六代目)の次男。のちに中橋狩野家十三代目永賢泰信の養子となる。天明7年12月13日生まれ。天保11年2月20日死去。54歳。号は探芳、祐清。朝鮮への贈呈屏風や江戸城西の丸の障壁画の制作などに参加。
 現在、日光東照宮の平成の大修理が行われていますが、宝暦の修理(1749~1753)に際して、それまであった牡丹唐草の絵を、狩野祐清が描き直した絵画が215年ぶりに公開されました。一般公開は未定。
日光東照宮「陽明門の壁面に宝暦年間の絵画出現」

 狩野祐清『大龍』部分図。

(左)信繁の着用した鎧の下着。(中)戦闘中に折れたという信繁の刀。(右)武田不動尊。

(左・中)信繁の鉄扇やら烏帽子やら。(右)上杉謙信の鉄扇。

(左)『甲陽軍鑑』大写とあるので木版本ではなく写本の様ですが、原本はなんなのでしょう。『甲陽軍鑑』の写本では、小幡勘兵衛が元和七年に筆写したという、「元和写本」が最も有名です。国語学者の酒井憲二氏がその研究の成果を『甲陽軍鑑大成』全七巻、汲古書院にしたためています。第四次川中島合戦の記述がある本文篇上と研究篇は、なかなか深く読み応えがあります。史料としての価値は低いという評価をくだされていたものは、主に何度も改変された江戸時代の木版本です。(中)山本勘助の宮(東福寺の小森地籍)とあります。ここは現在の南長野運動公園です。たしか敷地のどこかに現存するはずなので今度探してみましょう。(右)武田の火縄銃。長さ175センチ、重さ16キロとあります。

『永禄年間川中島大合戦之図』長野縣埴科郡松代町 調製者 佐藤袈裟治とあるのですが、いつ頃のどういう人か不明です。長野縣埴科郡は、1879年(明治12年)発足なので、それ以降のものでしょう。絵図では、武田別働隊が海津城から西条の入集落から唐木堂越を上り、鞍骨城の南を巻いて天城山方面から妻女山を攻撃した様子が描かれています。灰色が明治時代の千曲川の流路で、水色が戦国時代の推定流路です。結構的を得ていると思います。

 その妻女山の部分。右上が海津城。歴史的資料価値が高いものではありませんが、セロテープで貼り合わせて木ネジで板に止めてあるのはどうかと思います。民俗学的価値は高いので。他の展示品も玉石混交で随分と怪しいものもありますが、なにより保存状態が酷いのが気になります。真田宝物館とか歴史館とか専門の機関に移譲した方がいいのではないでしょうか。

 千曲川の堤防上から見る典厩寺全景。右奥に謙信、信玄ともに尊崇した飯綱権現の飯縄山。拙書『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林でもそのことを記しています。上杉謙信の兜の前立は飯縄権現の白虎に乗った烏天狗です。

 千曲川の堤防上から海津城(松代城)、謙信の陣所といわれる陣馬平。本陣といわれる斎場山、妻女山(旧赤坂山)方面のパノラマ写真。

(左)その陣馬平の貝母(編笠百合)も大きくなってきました。4月の中旬には咲き出すでしょう。薬草ですが毒草です。(中)林道にヌルデの虫こぶが落ちていました(左)。葉や葉軸にある種のアブラムシが寄生し、ヌルデミミフシやヌルデハイボケフシなどの虫癭(ちゅうえい)ができます。このコブを「五倍子(ふし)」といい、タンニンを多く含み、黒色染料の原料になります。お歯黒にも使われました。白く粉を吹いていますが、酸塩味があるため、信州ではこれを煮詰めて塩の代わりにした地域があるそうです。
「足柄の 吾を可鶏山(かけやま)の かづの木の 吾をかつさねも かづさかずとも」(万葉集:詠人知らず)
 かづの木(ヌルデ)を男性にたとえ、私を誘ってくださいという歌。信州の春も少しずつ訪れ始めました。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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