菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

見え上げるのをやめないんだと、ここへ来た。 『リメンバ-・ミー』

2018年03月24日 00時00分58秒 | 映画(公開映画)

で、ロードショーでは、どうでしょう? 第1265回。


「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」

 

 

 

『リメンバー・ミー』

 

 

 

 

日本のお盆に当たるメキシコの伝統的な祭礼行事“死者の日”に、“死者の国”に迷い込んだ少年が出会った死者の相棒と目的達成のために繰り広げる大冒険を、何世代にもわたる家族の絆のありかとともに綴るファンタジー・アドベンチャー・アニメ。

 

ディズニー/ピクサーの第19作目。

 

監督は、『トイ・ストーリー3』のリー・アンクリッチと、これが監督デビューとなるエイドリアン・モリーナ。

 

 

 

物語。

少し前のメキシコ。

ミュージシャンを夢見る少年ミゲル。しかし、彼の一族は、ひいひいおじいいちゃんが家族を捨てて、音楽家を目指したことで、音楽を禁じていた。

今日は、人々が先祖の魂を迎えるメキシコの伝統行事である“死者の日”。街には音楽が溢れているので、おばぁちゃんはミゲルを家に閉じ込め、ボケてきたひいおばぁちゃんのママ・ココの面倒を見させようとする。
その最中で、ミゲルはある確信を得て、ついに、音楽コンテストに出場することを決める。だが、やはり反対され、おばぁちゃんに、隠していたギターや憧れの大ミュージシャンのエルネスト・デラクルスのグッズも捨てられてしまう。

それでも、ミュージシャンになるんだ、とミゲルは家を飛び出すが、楽器がなければコンテストには出られない。そこで、ミゲルはある場所へと向かう。

 

原案は、リー・アンクリッチ、ジェイソン・カッツ、マシュー・オルドリッチ、エイドリアン・モリーナ。
脚本は、エイドリアン・モリーナ、マシュー・オルドリッチ。

 

 

 

 

声の出演。

アンソニー・ゴンサレスが、ミゲル・リヴェラ(歌も)。
ガエル・ガルシア・ベルナルが、ヘクター(歌も)。

ベンジャミン・ブラットが、エルネスト・デラクルス(歌も)。
アラナ・ユーバックが、イメルダ・リヴェラ。
レニー・ヴィクターが、エレナ。
アナ・オフェリア・ムルギアが、ママ・ココ。

ハイメ・カミルが、パパ。
ソフィア・エスピノーサが、ママ。

ナタリア・コルドバ=バックリーが、フリーダ・カーロ。

 

 

 

 

 

 

スタッフ。

製作は、ダーラ・K・アンダーソン。
製作総指揮は、ジョン・ラセター。


音楽は、マイケル・ジアッキノ。

 

 

 

 

 

音楽禁止一家の子ミゲルが音楽で生きるために犯した罪で死者の国に迷い込むファンタジー・アドベンチャー。
ピクサーが避けてきた音楽映画が琴線を爪弾く。メキシコ文化をがっつり取り込み、ラテンのお気楽とシビアさのミックスでかき鳴らす。異文化を扱う時にはまっすぐ向き合うってホント大事よね。ディズニーとメキシコ勢の蓄積が活きたか。
キャラ渋滞を交通整理するテクニックはビッグバンドのハーモニー。キャラ愛がサウンド・オブ・ウォール。ご都合の良すぎるキャラはいるけど。
楽曲の良さが素晴らしく、映画の得意な繰り返しの妙味が押しては返すリフレイン。
珍しい主題のリレーで3つの物語を一致させた脚本が現代的で響く。色彩と小ネタがオーケストラを奏でる。教本のようなルールの見せ方。
連打でいい場面見せる骨作。

 

 

 

 

 

おまけ。

原題は、『COCO』。

ひいおばぁちゃんの名前であり、ひいおばぁちゃんがなぜかミゲルのことを呼ぶ名前でもある。

 



上映時間は、105分。
製作国は、アメリカ。
映倫は、G。

 

 

 

キャッチコピーは、「それは、時を越えて――家族をつなぐ、奇跡の歌。」。

内容と邦題と、上手く合わせていて、いい感じだけど、ちょっとバラし過ぎな気もします。
英語が読めない子どものためにもタイトルの邦訳「忘れないで」を入れてもよかったかも。
「忘れないで、僕がここにいたことーー家族をつなげ、奇跡の歌。」とか。

 

 

 

 

 

受賞歴。

2017年のアカデミー賞にて、歌曲賞をロバート・ロペス “Remember Me”(曲/詞)とクリステン・アンダーソン=ロペスが、長編アニメ賞を、受賞。

2017年のNY批評家協会賞にて、アニメーション賞を、受賞。
2017年の英国アカデミー賞にて、アニメーション賞を、受賞。
2017年の放送映画批評家協会賞にて、歌曲賞( “Remember Me”)と長編アニメ賞を、受賞。

 

 

 

 

 

日本語吹き替え版の声の出演。

石橋陽彩が、ミゲル・リヴェラ。
藤木直人が、ヘクター。
橋本さとしが、エルネスト・デラクルス。
松雪泰子が、イメルダ・リヴェラ。
磯辺万沙子が、エレナ。
横山だいすけが、エンリケ・リヴェラ。

ママ・ココが、大方斐紗子。

中村優月が、幼いココ。
雨蘭咲木子が、ロシータ。
冠野智美ヴィクトリア。
多田野曜平が、フリオ・リヴェラ。
佐々木睦が、オスカル&フェリペ・リヴェラ。
恒松あゆみが、ルイサ・リヴェラ。

宝亀克寿が、チチャロン。
渡辺直美が、フリーダ・カーロ。
丸山壮史が、矯正官。 
立木文彦が、フアン・ハノキョーセー。
シシド・カフカが、ロス・チャチャラコス女性メンバー。
茂木欣一(東京スカパラダイスオーケストラ)が、ロス・チャチャラコス男性メンバー。
高柳明音(SKE48)が、女性マリアッチ。

 

 

 


字幕版で鑑賞。
だって、せめて少しでもメキシコ感を足したかったのだもの。
日本はどこかクセを取り除きがちだから。
歌が上手いのと特有の文化の味があるのは別だしね。ラテンの濃さがどこか和風になっているのよね。子どもが見る分にはそれでもいいと思うけど。ただ均されちゃうのはこの多様性の時代にそぐわない気もしてしまう。

 


 
日本ではこの異文化の扱いが上手く活かされたことがない。『ベイマックス』しかり『KUBO』しかり。ただ『犬ヶ島』はどうだろう?

 

 

 パンフレットが、この手のアニメ映画のものって、子供向けなつくりがほとんどなのに、プラス大人向けの内容もあり、構成も凝ってるし、メキシコ文化の説明もきっちりあるし、ツルツルの紙質で絵の光が綺麗に出ていたり、表紙はキラキラしてるし、なぜか大人になったミゲルとダンテの一枚絵が隠されていたりで、よい出来。

 

 

 

 

 


 
ややネタバレ。
原題の『COCO』の秘めた意味は邦題だと方向が変わるが、まぁ、同じ響きの日本語があるしね。

 

 

ギレルモ・デルトロ製作のアニメ『ブック・オブ・ライフ ~マノロの数奇な冒険~』と似ているところもあるのはご愛敬ってことで。

 

今年の米アカデミー賞は『シェイプ・オブ・ウォーター』、『リメンバー・ミー』、『ナチュラルウーマン』と南米勢がその隆盛を見せつけた。
 
  
 

 


  

 

________________________________ 

『アナと雪の女王/家族の思い出』についても。

 
アナとエルサ姉妹、みんなそろっての初クリスマスはちょっとギクシャク、そこでオラフが伝統行事を贈ろうとするミュージカル・コメディ。
『アナと雪の女王』のスピンオフ第二弾。
実は、もともとテレビ向けだったものが昇格したので画面サイズが違う。そのせいか真ん中にCMが入りそうな構成になっているため、脚本が中だるみかつ強引。
歌とダンスもちょい出来がばらばら。1曲切ったらタイトでよかったのではないか。
このシリーズのキャラクターの性格をちゃんと物語に組み込んだのに関心する布作。

 


おまけ。
併映短編と本編の『リメンバー・ミー』とテーマが同じで、よい流れがある。
(『モアナと伝説の海』でも近い内容というのはあった)
 
画質がちょっと低め。
  
字幕版での鑑賞となったが、このシリーズは吹替版の方が圧倒的になじみが良い。 
 
 

 

ネタバレ。

ただ主題の内容としては、見る順番は『リメンバー・ミー』→『家族の思い出』の方が座りがいい。
前からあったけど、それでも新しい伝統を作る話だし、伝統ばかりがいいというわけでもないと揶揄してるところもあるから。
 
あれ、オラフって、溶けたら、ダメなんじゃないの?
 
あと、最後、あのオラフの星に鷹がぶつかってフルーツケーキを落とした方がよかったと思う。あれじゃ、返しに来たみたいだ。

 

________________________________ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネタバレ。

ミゲルはデラクルズに憧れていたわりに彼の歌い方はそこまで真似てないのよね。パーティでの歌は似せていたが。あえて、血のつながりを意識させる演出なのかも。ヘクターとの歌い方とは似せているしね。この細かい演出が沁みるのよね。
  
でもさ、次の日の仕事を放棄して帰ろうとするへクターだって恨まれる要素はあるよね。描いてないけどヘクターだって家族を捨てて旅に出たのだろうし。殺すほどの罪ではないけどさ。せめて、ココが病気だと手紙が来るとかさ。

 

 

ヘクターが、『ウン・ポコ・ロコ』の時にタップダンスを披露していますが、あれは「サパテアド」というタップダンスとフラメンコをミックスしたようなメキシコのダンスだそう。

ちなみに、『ウン・ポコ・ロコ』もヘクターの作詞作曲とのこと。てことは、ちょっとおかしな彼女はイメルダのことなんでしょうね。

 

 

 

日本版テーマ曲は男性ボーカルがよかったかな。それかデュオ。

優勝したロス・チャチャラコスの声も当てているので、優勝したバンドによるパーティでの演奏ということになる。でも、それだとエンディングにデラクルスを讃えている演奏を聴くことになるじゃないか。なのに、メキシコ風アレンジがじゃないのがなぁ・・・。メキシコ繋がりでキャスティングしたのに、なぜスカ? サルサだけどオルケスタ・デ・ラ・ルスとか日本にもそっちに近い音を出せるバンドいると思うんだけど。
まぁ、多分、人気とか話題先行なんだろうな。

 

 

 

ママ・ココがミゲルのことをココと呼ぶのは、自分がパパのヘクターになったか、ママのイメルダだと思っているからかしら。
ただ、タイトルの含みを増やすために無理矢理そう呼ばせた気もしないでもない。

 

 

デラクルスが死んだのが1942年で第二次大戦前なので、写真はまだまだ高価だっただろう。
なのに、ヘクターが自分の顔のアップの写真を持っていたのはなぜだろうか?
(写真の切れ端を拡大したものではないようだし)

これ、ヘクターが旅先からココへ送ったものではないか。だが、それをイメルダが隠してしまったのでは?
デラクルスは人目につかないところに死体を埋めて腐敗させるなりして、身元が分からないようにしただろうから、写真はもちろんヘクターは持って死ねてない。
ヘクターの死は家族に伝えられていないようだったから、遺影もなかったんじゃなかろうか。
でも、イメルダが最後まで持っていて、それを棺にそのまま入れたかして、死者の国に来たのではないか。
で、ヘクターは消えてしまわないように、イメルダの家に盗みに行ったのではないか。自分で自分のアップの写真を持ち続けてるってのもねぇ。

 

 

ダンテはシュロ犬という種類で魂を導く犬と言われている。
劇中ではチュロ犬になっている。

デラクルスの映画の中の馬の名前がダンテだが、『神曲』(死者の国を旅する話)のダンテでもあるかと。

 

 

 

 

3つの物語とは、ミゲルの物語、リヴェラ靴店の物語、ヘクターの物語。

ミゲルの物語とは、禁止されている音楽で生きていきたいと決断し、音楽の旅を経て、自分のルーツに気づく物語。

リヴェラ靴店の物語とは、伝統を守ろうと、はみ出し者ミゲルを探し、家族のルーツと事実を知る物語。

ヘクターの物語とは、消えないためにミゲルを助け、自分の挫折の事実を知り、名声と家族を取り戻す物語。

始まりと終わり(ヘクター)、保守と継承(リヴェラ靴店)、回帰と新規(ミゲル)という時間軸がある。
それをリヴェラ靴店の始まりから語り始め、そこから生まれた次の主人公ミゲルで物語を動かし、始まりのひいひいおじいちゃん(デラクルスでありヘクター)の謎が原動力になる。

始まり。
3つの始まる物語が、リレーされる。
ヘクターの始まりの終わりが、リヴェラ靴店の始まりに繋がり、ミゲルというリヴェラ靴店の終わりにいる少年が始まりを取り戻す。
ミゲルは音楽を始め、家族は新しい伝統(音楽)を始め、ヘクターは家族との新しい暮らしを始める。
ミゲルが赤ん坊を抱いているのも始まりを象徴する。

つづき。
3つの続ける物語が、リレーされる。
ミゲルは隠してきた音楽活動を続けようとし、家族は伝統とミゲルの命を続けようとし、ヘクターは自分の死後の命を続けようとする。
そして、それぞれが家族と繋がろうとする。ミゲルはひいひいじいちゃんと、家族はミゲルと、ヘクターはココ(知らずにミゲルとも。だからミゲルをココと呼ばせたのかも)と。

終わり。
3つの終わる物語が、リレーされる。
家族は誤解と強がりを終わらせ、ヘクターは無名と孤独を終わらせ、ミゲルは謎とデラクルスと古い伝統と孤独(ココとヘクター)を終わらせる。

 

子ども向けの映画として珍しいのは、この物語は主人公の成長はうっすらとしてしかなく、家族に生まれた異分子(音楽の天才ミゲルとヘクター二人)への誤解と理解について、家族が気づく物語を、自分のために邁進する冒険で見せること。
ミゲルがヘクターから教わることで継承が描かれていく。

 

成長ではない物語とは実は難しいのだ。

だが、これは日本ではけっこうあるスタイル。
『天空の城ラピュタ』がそう。パズーは父親の夢を追う冒険だけが描かれ、誰も成長しない。周囲の理解を手に入れる物語でもある。子どもが主役でも成長しないのはそれでも珍しい。『ドラえもん』でも劇場版は成長を描く。
『紅の豚』でも成長するものはほとんどいない。フィオとカーチスが多少成長するが他の誰も成長しない。
逆の例としては、老人が主役の『カールじいさんの空飛ぶ家』では老人であるカールが成長し、子どものラッセルは成長しない。

アニメのシリーズものの映画でもよくある。
『ルパン三世 カリオストロの城』でも成長はクラリスにわずかにあるが、基本はルパンの過去の失敗とカリオストロの遺産継承についての物語だ。追いかけっこも継続される。

そもそもシリーズということ自体が継承というテーマを内包している。
これはアメリカ映画でもそうで『レイダース』ではインディの成長はあるが、『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』では成長はない。だが、マーベルの映画シリーズではキャラは成長し続ける。『007』は現在のシリーズでは初めて成長が描かれている。ある意味ではアメリカ映画的になったと言える。

脱線すると、宮崎駿はこの成長を描くのをあまり得意としない。だいたいの主人公はすでに最初から持っている特性で邁進し、社会が成長する物語が多い。(『未来少年コナン』でさえ)
だが、成長する主人公を描いた『千と千尋の神隠し』が特大ヒットしたのはやはり成長物語が見やすいからだろう。(ちなみに、自分が監督しない物語だけの作品では成長を描いている。だからオリジナルの『シュナの旅』はやはり成長が弱い。『ゲド戦記』は、シリーズものの途中の抜出しであり、そこに『シュナの旅』の構成を利用したが、どちらも高い技術がいるものを二つ組み合わせたせいであのような形になった可能性は高い)
(高畑勲は、これが非常に上手いの。だが、上手すぎるがゆえ中盤(ジブリ作品はすでに中盤)は別の角度になりがち(もちろん初期は違う)で成長物語風や継承(滅び『平成狸合戦ぽんぽこ』、家族の歴史『となりの山田くん』、心の長い成長過程『おもひでぽろぽろ』、マイナスの成長『かぐや姫の物語』)に見せる作法になっていった)

推測すると、ある種の歴史が長い国にはある傾向なのかもしれないが。

長期連載が多い日本の漫画文化で継承されてきた日本の現代の物語文化には成長しない、または成長がゆっくりだからではないか。もちろん、そこには落語のスタイルの影響があるだろう。

とはいえ、成長物語は見やすく受け入れられやすい。スタンダード中のスタンダードだ。もちろんそれは日本でも。
だから、アメリカ映画は成長を第一に描いてきた。
しかし、『リメンバー・ミー』はメキシコの物語であり、その長い歴史を持つ文化を取り込んだことで、成長を中心に置かないですんだのかもしれない。

 

ポリネシア文化を描いた『モアナと伝説の海』はモアナとマウイの成長を徹底的に描いていたけどね。(間違っているわけではない。成長物語は基本だから)
『モアナと伝説の海』と『リメンバー・ミー』には共通点がある。
それは伝統の破壊がさらに古い伝統の復活になることだ。
船旅が禁止されたモアナは船旅に出ることで、元々の船旅の伝統を復活させる。
音楽禁止一家のミゲルは音楽で打ち破り、音楽一家だったという事実から音楽一族の伝統を作り出す。
モアナも、祖先の血から天才的な操船能力があるがまだ初心者。で、古い祖先であるマウイと旅をして、島への脅威の究明というモアナの目的とマウイ自身の過去の失敗を取り戻すために同舟し、彼にいろいろ教わり、同じ戦場で戦い、実は同じだった目的を果たす。
ミゲルも、ひいひいじいちゃんの血で天才的なギター演奏と歌唱能力があるがまだ舞台度胸がない。知らず知らずひいひいじいちゃんと彼の目的のために一緒に旅をし、舞台のための準備を習い、一緒にステージに立ち、実は同じだった目的を果たす。
モアナの父が探しに来ていたら、ほぼ同じになる。
マウイ自体が都合の良いキャラだが、その能力は封じられるので最後の戦いをモアナが引き継ぐ。
アレブリヘも都合よいキャラで、少し緊張感をそぐ部分もある。デラクルスのアレブリヘを出しておいて、あの猫ペピータと戦っていたらどうだったろうか。(ミゲルの落下で助けがない可能性が出てくる)
アレブリヘがいないことがデラクルスの罪がバレているということなのかもしれないけど。(ヘクターにもいないのも死者の国で悪いことしたからかな? 助けてもらえば早く行けたりしたろうし。フリーダ・カーロの猿のように大きくないこともあるだろうが)
デラクルスとの戦いはミゲルはピンチを招くだけなのが、モアナとの違い。ミゲルの戦いはその後の記憶を取り戻すために走り、曲を弾き、記憶を取り戻させること。(『君の名は。』にも通じる、走る理由だ)

 

 

大人向けの物語では成長がないのはよくある。今年のアカデミー脚本賞の『ゲット・アウト』や作品賞の『シェイプ・オブ・ウォーター』では成長はわずかにしかない。

ジャンルではミステリーがその筆頭だ。
アカデミー賞においてミステリーが脚本賞を取ることが少ないのは、この作法も影響しているのではないかと思われる。多くは謎が中心で、それを用いて人間心理を描き出すからで異常な心理からの成長は描きづらいからではないか。
未熟な探偵や刑事が事件解決で成長するパターンも多いけどね。

あと、物語内には成長はないが、社会そのものに成長を促すことも多い。

 

ディズニーとピクサーは、その成長物語を作法の軸に置いてきた。
だから、いろいろな成長も取り入れて描いてきた。社会の成長(『モンスター・インク』)、技術の成長(『レミーのおいしいレストラン』。ネズミを受け入れる社会の成長も)、進化(『ウォーリー』のイヴ。退化した人間の復活も)、相手の成長の受け入れという成長(『トイ・ストーリー3』のアンディ)、自身の衰えの受け入れという逆の成長(『カーズ/クロスロード』)などなど。
これに、二つの成長で物語の幅を広げることもしてきた。『メリダとおそろしの森』の娘と母、『インサイド・ヘッド』の感情たちとライリー、
なので、続編の時には、主役を変えて別の成長を描いたり(マーリンからドリーへ移した『ファインディング・ドリー』)、新しい登場人物の成長を描いたり(『トイ・ストーリー2』のジェシー)、社会の成長を描いた『モンスター・インク』の続編『モンスター・ユニバーシティ』では逆にその前の主人公の成長を描いたりしている。
だから、ピクサーの中でもイマイチとされるものは成長を扱わなかったもので『バグズ・ライフ』、『カーズ2』だ。もちろん、どちらにも社会の成長や主人公の移行があるが上手くいってない。
それと古典回帰のような『アーロと少年』(敵との旅で成長するのは『トイ・ストーリー』)もある意味では物語作法としての成長がないとも言える。
『カーズ/クロスロード』では新しい成長はあるが、継承の部分で上手く入れられていないので、継承というテーマの扱いも実は苦手なのだ。(だが、同じ三作目である『トイ・ストーリー3』の継承は上手く入れられている。監督は今作と同じリー・アンクリッチだ)

そして、19作目にして、初めて成長を軸にしない『リメンバー・ミー』が生まれたことは新たな軸を手に入れる道が開かれたともいえる快挙なのだ。

日本人にはお馴染みの物語作法なのでそうは見えづらいけどね。

 

ついでに言うと、『アナと雪の女王』には成長がない。エルサが女王の地位につかざる得なくなることで起きたトラブルを描いている。
実際にはマイナスの成長がある。能力の解放と暴走だ。
これって見たことないだろうか?
そう、長期連載漫画の最終章でたびたび見かけるヤツだ。持ってた能力(問題)が暴走し、それが閉じ込められる(解決する)ことで新しい日常が始まる。
アナはエルサを助けるために行動するが、力があるわけでもなく、愛に生きようとする。冒険はクリストフの担当であり、アナは姫として捕まり、助けを必要とする。そして、そのことでエルサが気づき、能力を押さえるいことに成功し、世界を救う。
男性受けが悪いのはそこらへんも関係しているからではなかろうか。戦いや冒険はあることはあるが物語の中心ではない。悪人はいても結局は姉妹の問題が解決されることが重要だから。

 

成長物語はどこか男性的な作法(もちろん、女性ものでも成長物はあり得るが)ともいえる。成長は獲得であり、トロフィーと同じで狩りにおける獲物だ。

 

成長はないが、名誉挽回、夢の邁進、血の継承、ルーツ探りは男性的な物語のネタ。
つまり、女性的な物語構造と男性的な物語展開の融合が行われたことも『リメインバー・ミー』の優れた点の一つと言える。
ただ明確な悪役という敵を作らなかった『インサイド・ヘッド』もまた快挙だった。
今作はそこに旧来の手法、勝利の物語が強く出てしまったというのはある。

あと、バディものもピクサーが得意な作法の一つ。

 

 

天才をどう受け止めるかは、映画界の一つのテーマとしてある。
『ギフテッド』では天才である娘を巡って、父親と祖母が争う話だった。これはいくつかの点で『リメンバー・ミー』に似ている。母親と娘の血の関係、祖母の教育方針、ある謎が物語を牽引するなど。
ほかにも、パレスチナの実在の天才歌手ムハンマド・アッサーフの半生を描いた『歌声にのった少年』でも悲劇が彼を襲い、社会が彼を成功から遠ざけるが、身内との約束が彼を動かす。

そして、天才をどう見せるかに時間を割いてしまうものだ。だが、『リメンバー・ミー』ではその天才を見せるシーンを物語の中盤に組み込み、別の展開の材料にした。

 

ミゲルは天才ではあろうが、 コンテストで優勝させてないことで、勝利を与えておらず、彼の成長を残していているわけで、ここも上手い。
ヘクターからもギターのテクニックではなく、緊張のほぐし方と歌う前の準備だけを教えたのもいいんだよなぁ。

  

 

イメルダがコンテスト会場で夫が歌っているのに全く気づかないのは、ミゲル探しに集中する思い込みの強さからかな。
でも、音楽をやりたくて逃げ出したミゲルを探して音楽コンテストにきたら、ステージに目ぐらいはやるんじゃないの? ステージ見たら、夫がいたら、その隣に孫がいるのは目につくとは思う。

イメルダが再婚しなかったのは、夫への愛が残っていたからかもね。まぁ、変人で気が強いから相手が臆して見つからなかったのかもしれないけど。

イメルダが死んでからママ・ココが音楽を禁止を解かなかったのは、ミゲルとエレナおばぁちゃんの関係と同じで、イメルダがエレナに徹底的に音楽禁止を植え付けたから、ママ・ココも止めるのを止められなくなったんだろうね。

 

 

なぜ、ミゲルだけが生きながら死者の国に行ったか?
やはり、ヘクターのギターのせいだろうね。
天才作曲家としての力と恨みがギターにこもってていて、しかも、死者の国で消えそうになっていたヘクターの思いも載って、それを盗んだ上に弾いたミゲルは呪いにかかったのではなかろうか。
死者の国ではお供え物のチキンを盗んだからとは言っていたけど。
そうなるとけっこう死者の国に行った生者はいるのかもしれない。だから、赦しですぐ戻れると知っていたのか。
メキシコではそう言われているのかもね。
日本でもお供え物を盗むと罰が当たるとは言うけど。(お供え物でなくても盗めば罰が当たるというがね)

 

 

リー・アンクリッチもまた宮崎駿をリスペクトしているのだおる。『トイストーリー3』でも『カリオストロの城』と『天空の城ラピュタ』のオマージュだけでなく、まんまトトロのぬいぐるみが出てくるしね。(ジョン・ラセターの影響もあるだろうけど)
今作もミゲルが死者の国側に入り始めたシーンは『千と千尋の神隠し』の千尋があちら側に行くときとそっくりだった。
リー・アンクリッチはインタビューでも、あそこは『千と千尋の神隠し』を参考にしたそう。加えて、老いたココの姿は『ハウルの動く城』の荒地の魔女の子ども還りした姿を基にしているそうです。
ほかにも、『ビートルジュース』、『アダムス・ファミリー』のオマージュなどがありましたね。

 

 

 

ピクサーは、別メディアによる映像効果を技法としてスタンダードにしている。
『ウォーリー』でのVHSによる実写カラー映画、『トイストーリー』と『トイストーリー2』のCM映像、『レミーのおいしいレストラン』のTV映像、『ミスター・インクレディブル』のニュース映像、『トイストーリー3』のビデオカメラや監視カメラの映像、『カールじいさんの空飛ぶ家』のニュース映画、『インサイド・ヘッド』のモニターから見える現実世界、今作では白黒映画がそれに当たる。

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 3月22日(木)のつぶやき | トップ | 3月23日(金)のつぶやき »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映画(公開映画)」カテゴリの最新記事