凡凡「趣味の玉手箱」

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鶏鳴狗盗(けいめいくとう)

2005-07-27 06:20:37 | 中国のことわざ
中国のことわざ13:鶏鳴狗盗(けいめいくとう)

中国の戦国時代、斉の孟嘗君が狗(いぬ)のようにものを盗む者や、鶏の鳴きまねの上手な者を食客(寄食する人、居候)としていたおかげで難を逃れたという故事から来ている。

物真似やこそ泥のようなくだらない技能の持ち主。また、くだらない技能でも役に立つことがあるたとえ。

(参考:十八史略を読む-35、広辞苑、史記)

戦国の七雄-1 斉その12 鶏鳴狗盗

2005-07-27 06:06:40 | 十八史略を読む

写真は河南省の函谷関(2004年10月12日撮影)昔は深い谷であったというが今はその面影がない。

十八史略を読む-35
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

宣王が死んで子の泯王(びんおう)が即位した。宣王の異母弟の田嬰(でんえい)は薛(せつ)に封じられ、その子の文(ぶん)が父のあとを継いで薛の領主となった。

文は孟嘗君(もうしょうくん)と号して食客数千人を抱え、その名声は諸侯の間に広まった。秦の昭王は孟嘗君の評判を聞いて、斉に人質をやり、彼を自国に招いて監禁した。

孟嘗君は殺されると危機感を抱き昭王の愛妾の所に行き、命乞いをした。愛妾は孟嘗君に狐の毛のコートをほしいと言った。生憎、狐のコートは昭王への贈り物として献上してしまったあとだった。

そこで孟嘗君は食客の中から盗みに長けている者にコートを昭王の所から盗ませた。愛妾は大喜びで、昭王に孟嘗君を許すよう頼み、この結果、孟嘗君は釈放された。

孟嘗君は長居は無用ということで急いで秦を立った。ところが、関所の函谷関まで来たところ、門は一番鶏が鳴くまで開かないことになっていることを知った。孟嘗君は気が気でなかったが、食客の中に鳥の鳴き声をまねるのが上手な者がいることを思い出した。

そのものが鶏のときの声をまねると、辺り一帯の鶏が一斉にけたたましく鳴き声を上げ、まんまと関所の門を開かせることに成功した。

昭王はだまされたことに気づき追っ手をやったが後の祭りであった。斉に着いた孟嘗君はこの怨みを忘れなかった。

韓、魏と連合して秦を攻め、函谷関まで追った。形勢不利と見た秦は、数城を割譲して斉と和睦した。

まもなく孟嘗君は斉の宰相になったが、自分のことを斉王に讒言する者が現れたため、国を逃れる身となった。

戦国の七雄-1 斉その11 孫びんの策略

2005-07-27 05:55:22 | 十八史略を読む
十八史略を読む-34
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

魏が韓を攻め、韓が斉に救いを求めたので、斉は田忌(でんき)を将軍に立てて救援に赴くことになった。魏の将軍のほう涓(ほうけん)は孫びん(そんびん)と若い頃、共に兵法を学んだが、孫びんの才能が自分を上回っていたため、孫びんに無実の罪を着せ、罰として両足を切断し、顔面に入れ墨を施した。

その後、斉の使者がたまたま魏を訪れ、密かに孫びんを自分の車にかくまって斉に連れ帰った。かくして、孫びんは斉の軍師として田忌に従い、まっすぐ魏の都に向かった。

魏のほう涓はこれを聞くと、韓攻略をやめにして、斉軍を後方から追撃することになった。孫びんは魏の陣地に入り一つの策略を巡らせた。

斉が敵陣に入って次々と脱走兵が出たと魏に思わせるため、宿営地のカマドの数を毎日減らしていったのである。この策略にほう涓はまんまとひっかかり、一気に斉軍に迫ろうとこれまでの二倍の速度で行軍した。

孫びんの計算では夕刻には魏軍が馬陵(ばりょう)に到着するはずである。馬陵は谷間で、道幅は狭く、両側は険しい斜面となっていて、伏兵を置くにはもってこいの場所である。

孫びんは、路傍の大木の幹を削って、「ほう涓この木のもとに死す」と大きく書き、多くの狙撃兵を待機させた。

そして日が暮れたあと、ほう涓がこの木の下をさしかかり、何が書いてあるのか火を灯して読もうとしたとき、一斉に火めがけて、斉の石弓が唸りを上げた。

ほう涓は「とうとうきゃつに名を成さしめたか」と言って自分の首をはねて死んだ。斉軍は勢いに乗じて、徹底的に魏軍をたたき、魏の太子申(しん)を捕らえて引き上げた。

注)孫びんは中国最古の兵法書「孫子」の著者といわれる。

戦国の七雄-1 斉その10 学者を優遇

2005-07-26 18:40:16 | 十八史略を読む
十八史略を読む-33
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

威王が死ぬと、子の宣王(せんおう)が王位を継いだ。宣王は学者、遊説家を好み、慎到(しんとう)、田駢(でんべん)など76人を上大夫にした。

このため斉の都の稷門(しょくもん)わきに設けられた学者村には学者、遊説家が続々集まり、その数は数百数千にも達した。

しかしながら孟子が斉を訪れたとき、宣王は登用できずに終わった。

戦国の七雄-1 斉その9 人材こそ宝

2005-07-26 18:37:56 | 十八史略を読む
十八史略を読む-32
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

威王が魏の恵王(けいおう)と城外で狩りをしたとき、恵王が「貴国にはどんな宝があるか」訪ねた。

威王が「さあ特に宝というものは・・」と答えると恵王は得意げに「わが国は小国ですが、車の前後12台の距離を明るくする宝玉を10個持っております」

威王は答えた。「わが国の宝はそういうものではありません。人間です。檀子という臣下に南方の地を守らせたところ、隣接の楚は敬遠して、わが泗水(しすい)のほとりを侵略しなくなったばかりか、12の諸侯が来朝するようになったのです。

また「べん子」という者に西方の地を守らせたところ、隣接する趙は黄河のわが漁場を荒らさなくなりましたし、また種首(しょうしゅ)という者に盗賊の取締りをさせたところ、道に落ちているものまで拾う者がいなくなりました。

これらの者は、車前後12台の距離どころか千里をも照らすことができるのです」これを聞いた恵王は、いささか恥じ入る面もちであった。

戦国の七雄-1 斉その8 実情を調べれば

2005-07-26 18:33:30 | 十八史略を読む
十八史略を読む-31
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

斉の威王のとき、国情は衰えきっていた。そこで威王は政治の刷新を考え、まず、即墨(そくぼく)の地の大夫を呼んで言った。

「おまえが即墨に赴任してからおまえを非難する言葉が毎日のように入ってくる。そこで人をやって調べさせたところ、田畑は良く耕され、人民の生活も豊かで、役所にも問題はない。にもかかわらず、非難の声が上がるのは、おまえがわしの側近に賄賂を使ってないからである」そして賞として、大夫を格上げした。

次に阿(あ)の地の大夫を呼んで言った。「おまえが阿の地に赴任してからというもの、おまえをほめる言葉が毎日のように耳に入ってきた。そこで人をやって調べさせたところ、田畑は荒れ放題で人民は生活に苦しんでいる。おまけに趙がわが領土二カ所を攻略したときも、かけつけようとせず、知らん顔という有様だった。にもかかわらず、おまえをほめる言葉が多いというのはおまえがわしの側近に賄賂を使って好評を得ようとしたからだ」

そして、即日、阿の大夫と、彼をほめた側近のものを釜ゆでの刑にした。

それからというもの、群臣はみな恐れおののき、偽り飾ろうとはしなくなった。斉の政情不安は一掃され、同時に斉を攻略しようとする諸侯もいなくなった。

戦国の七雄-1 斉その7 進物は十分に

2005-07-26 12:19:00 | 十八史略を読む
十八史略を読む-30
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

太公和、桓公午(ご)、と継ぎ、その子の威王因斉(いおういんせい)が王位に昇った頃、政情は不安で、この機に乗じて、他の諸侯が頻繁に斉を攻めてきた。なかでも楚は威王即位8年目に大軍を差し向けてきた。

このとき、威王は弁舌家の淳于こん(じゅんうこん)を使者として趙に援軍を求めることとし、進物として金百斤と駿馬40頭を持たせようとした。

ところが、「淳于こん」がけらけらと笑って、「今日、道ばたで、豚の片足と酒一壺を備えて、田の神に厄除けの祈りをしている男に出会いました。『どうか畑の作物は籠に入りきれぬほどに、田んぼの作物も車に積みきれぬほど実り多く、家に入りきれぬようお願いいたします』と。この男は、ほんの僅かなものを供えて、非常に大きなものを願っているのです。私はその虫の良さを思い出してつい笑ってしまったのです」と。

威王はなるほどと思い、賞金千鎰(いつ)、白壁十組、さらに馬400頭を付け加えた。淳于こんは満足して出発した。

戦国の七雄-1 斉その6 田氏、斉を乗っ取る

2005-07-26 12:16:22 | 十八史略を読む
十八史略を読む-29
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

田氏の斉は、もとの姓が「ぎ」で、かつて陳の公子完(かん)の子孫である。完は斉に逃れてきて陳と名乗ったが、のちに田とあらためた。完は斉の桓王に仕えて、土木長官となった。

完から五代目が乞(きつ)である。乞は斉の景公に仕えて大夫となった。乞は人民から年貢を取り立てるときには小さな升ではかり、人民に穀物を貸し出すときは大きな升ではかるという個人プレイを行い、人気を集めようとした。景公がこれを咎めようとしなかったので狙い通り乞は人気を集め、やがて権力をほしいままにした。

乞が死ぬと子の成子恒(こう)があとを継ぎ、成子恒が死ぬと、襄子盤(じょうしばん)があとを継いだ。襄子盤は主家の斉を乗っ取るために韓氏、趙子、魏氏と親交を結び、太公和が田氏の当主となったとき、周の安王の大命を拝受して諸侯の地位を得た。

戦国の七雄-1 斉その5 晏子(あんし)の予言

2005-07-26 12:14:40 | 十八史略を読む
十八史略を読む-28
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

桓公から八代のちの景公のとき、晏子(あんし)という臣下がいた。彼は狐の皮で作った衣一着を30年も着続けながら、70余家の人々の面倒を見た倹約家であり、勤倹努力の人として重んじられていた。

ある時、晏子は斉の叔向(しゅくきょう)と密談し「斉はやがて陳氏に乗っ取られるでしょう」

はたして、景公から五世を経て康公(こうこう)のとき、陳の公子の子孫である田和(でんわ)が周の安王(あんおう)の大命を拝受して諸侯となり、康公を海浜に追いやって殺し、政権を握った。

晏子が予言したとおりになり、姜氏の斉は滅び、先祖を祭るものが絶えてしまった。

*後世、晏子は名臣の代表として管仲と並称された。

ホンダが高級車「アキュラ」を中国で来春販売

2005-07-26 12:12:29 | 中国関連ニュース
毎日新聞7月26日朝刊から

ホンダは北米市場でスポーティーな高級車ブランドとして販売されている高級車「アキュラ」の販売網を中国で作り、来春に販売する。中国ではセダン「RL」(日本名レジェンド)を販売し、急速に増えている富裕層を狙う。

日本メーカーは中国での高級車戦略を加速しており、トヨタが90年から「レクサス」の販売を始めているほか、日産自動車も07年度までに「インフィニティ」を展開する予定。