写真は河南省の函谷関(2004年10月12日撮影)昔は深い谷であったというが今はその面影がない。
十八史略を読む-35
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から
宣王が死んで子の泯王(びんおう)が即位した。宣王の異母弟の田嬰(でんえい)は薛(せつ)に封じられ、その子の文(ぶん)が父のあとを継いで薛の領主となった。
文は孟嘗君(もうしょうくん)と号して食客数千人を抱え、その名声は諸侯の間に広まった。秦の昭王は孟嘗君の評判を聞いて、斉に人質をやり、彼を自国に招いて監禁した。
孟嘗君は殺されると危機感を抱き昭王の愛妾の所に行き、命乞いをした。愛妾は孟嘗君に狐の毛のコートをほしいと言った。生憎、狐のコートは昭王への贈り物として献上してしまったあとだった。
そこで孟嘗君は食客の中から盗みに長けている者にコートを昭王の所から盗ませた。愛妾は大喜びで、昭王に孟嘗君を許すよう頼み、この結果、孟嘗君は釈放された。
孟嘗君は長居は無用ということで急いで秦を立った。ところが、関所の函谷関まで来たところ、門は一番鶏が鳴くまで開かないことになっていることを知った。孟嘗君は気が気でなかったが、食客の中に鳥の鳴き声をまねるのが上手な者がいることを思い出した。
そのものが鶏のときの声をまねると、辺り一帯の鶏が一斉にけたたましく鳴き声を上げ、まんまと関所の門を開かせることに成功した。
昭王はだまされたことに気づき追っ手をやったが後の祭りであった。斉に着いた孟嘗君はこの怨みを忘れなかった。
韓、魏と連合して秦を攻め、函谷関まで追った。形勢不利と見た秦は、数城を割譲して斉と和睦した。
まもなく孟嘗君は斉の宰相になったが、自分のことを斉王に讒言する者が現れたため、国を逃れる身となった。