凡凡「趣味の玉手箱」

キーワードは中国です。中国以外のテーマは”趣味の玉手箱にようこそ”で扱っております。

太公望(たいこうぼう)

2005-07-22 13:20:06 | 中国のことわざ
太公望(たいこうぼう)とは釣師の異称。

周の文王と呂尚との出会いによる。ある時、文王が狩りに出かける前に占いをたてさせた。

「渭水のほとりに行けば優れた人材が得られる」とでた。

そこで渭水に出かけたところ釣り糸を垂らしている呂尚に出会った。

呂尚は、文王に釣りにたとえながら政治の方法を説いた。

文王は感服し、彼を都に連れ帰って師と仰いだ。

そして「わが大公(父),子を望むこと久し」と言って、呂尚を太公望と呼ぶことにした。

(参考:十八史略を読む-5、広辞苑)

中国のことわざ10:宋襄の仁(そうじょうのじん)

2005-07-22 13:17:33 | 中国のことわざ
中国のことわざ10:宋襄の仁(そうじょうのじん)

楚との戦いで、宋の目夷(もくい)は楚の布陣が整わない内に討つべきと宋の襄公に請うたが、襄公は「相手の不備につけ込むなど、君子の取るべき道ではない」と言って聞き入れず、結果は宋の惨敗となった。

「無益の情け」。時宜を得ていない憐れみ。(参考:十八史略を読む-21、広辞苑、左伝)

海洋都市 青島 李村大集

2005-07-22 13:14:32 | 中国知っ得情報
日本経済新聞 7月21日夕刊から

「集」とは中国語で「定期市」。

青島市郊外の川底で行われる「李村大集」は400年に渡り毎月2と7がつく日には必ず市が立ってきた青島最大の集。

春節(中国の旧正月)前には一日10万人を超える人手で賑わい、青島の風物詩となっている。

他地域の大集が再開発などで姿を消してゆく中、再開発しづらい川底という立地も相俟って、発展を続けている。

海洋都市 青島 海を隔てた日本の台所

2005-07-22 13:12:45 | 中国知っ得情報
日本経済新聞 7月21日夕刊から

山東省は別名「中国の野菜かご」。山東人にけんかをふっかけられたら、ネギを口に突っ込んで黙らせろ」。野菜好きにちなんだ冗談である。

ネギや白菜、緑色野菜、にんにく、しょうが、落花生など新鮮で豊富な野菜が青島市の市場にならぶ。これらの野菜は中国都市部で消費されるだけでなく海外に輸出。

山東省の2004年の農産物貿易額は約66億$と中国最大。香港を除くと、野菜の輸出先のトップを占めるのが日本。加ト吉などカット野菜や乾燥野菜、冷凍食品を手がける大手食品メーカーの多くが出そろい中国側の食品輸出企業も半数が集中する。

青島港を経て日本のスーパーの店頭へ。青島は海を隔てて日本の「マイキッチン」となりつつある。

海洋都市 青島世界ブランドを発信

2005-07-22 13:09:10 | 中国知っ得情報
日本経済新聞7月20日夕刊から

青島市のある山東半島は水滸伝の舞台で独立独歩を尊ぶ気質は今も変わらない。青島市からは独自ブランドが次々に登場。

その一つ青島ビールは、中国でビールメーカー数百社が乱立する中で、19世紀にドイツが作った醸造所を母体として、誕生、世界に名を知らしめたブランド、93年には中国企業第一号として香港市場に上場。

家電最大手「ハイアール」をはじめとして、「ハイセンス」集団など中国の著名ブランドに数えられる家電メーカーが育っている。

市内にはブランドの名にちなみ「ハイアール通り」などの新しい道が次々に生まれている。中国発世界ブランドの街として北京や上海の先を行くーーーそんな青島子の誇りがにじみ出る。

戦国の七雄-1 斉その1 概要

2005-07-22 13:03:15 | 十八史略を読む
十八史略を読む-24
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

戦国の七雄とは斉、趙、魏、韓、楚、燕、秦を指す。

斉は姜(きょう)姓の国で、前11世紀、太公望呂尚(りょしょう)によって山東省に建国された。

15代を経て、前7世紀桓公のとき、名宰相管仲(かんちゅう)を用いて国力を強め、天下に覇をとなえた。(春秋の五覇は桓公をもってはじめとする)

しかし、桓公の死後、その国力は急速に衰え、やがて、田氏が権力を握り、ついに斉王の地位を乗っ取った。

田斉となってからは、文化が栄え、威王(いおう)、宣王(せんおう)の代には学問のメッカ、百家争鳴の中心地となった。

しかし、その後、燕との戦いで大敗北を喫してからは次第に衰え、前221年秦に滅ぼされる。

春秋の覇者  弱小国の苦悩 陳 田斉のはじまり

2005-07-22 13:00:29 | 十八史略を読む
十八史略を読む-23
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

陳はぎ姓の国で、帝舜の子孫の胡公満(ここうまん)が封ぜられて創建された。周の武王が、舜の子孫をさがしもとめて、ようやく胡公満を見つけだし、現在の河南省宛丘(えんきゅう)に封じた。

のち、春秋の世になって、公子完(かん)が内乱を逃れて斉に仕えた。

陳はのちに楚の恵王(けいおう)に滅ぼされたが、斉に仕えた完の子孫はやがて斉で強大な勢力を得た。これが田氏であり、田姓のはじまりである。

春秋の覇者  弱小国の苦悩-宋その2 宋の滅亡

2005-07-22 12:58:19 | 十八史略を読む
十八史略を読む-22
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

景公(けいこう)の代になって、火星が心宿の位置まで来て動かなくなった。これは凶兆であり、災いが起こると言われる。しかも心宿の位置は地上に当てはめれば、宋にあたるので、景公は不安におののいた。

天文官の子韋が「災いを宰相の身に移されたらどうでしょう」

景公「宰相はわが右腕、そんなことはできない」

天文官「では人民に移されてはいかが」

景公「いや、君主は人民あってのもの。そんなことはできない」

天文官「それなら農作物に移されたらどうでしょう」
景公「ということは不作になるということではないか。不作になれば、苦しむのは人民だ。人民を苦しめるようでは、君主の存在価値はないも同然だ」と答えた。

子韋は最後に言った。「天はいつも高いところにあって、地上のことはなにもかもご存じです。いま、仰せられた三つのことは、まことに君主たるにふさわしい言葉です。天もそのままであろう筈はありません」

その日、天文を観測してみると、はたして火星は動き始めていた。

それから数代を経て、康王偃(こうおうえん)のとき、雀が隼を生むということが起こった。これが何を意味するか、占い師に占わせたところ、「必ず天下に覇をとなえることができる」という答えが返ってきた。喜んだ康王偃は斉、楚、魏を攻めて次々にこれを破った。

しかし、その結果、この3強国を敵にまわすことになった。

康王偃は有頂天になって、淫乱にふけり、暴虐を極めた。このため、天下の人々は夏王の「桀王(けつおう)」の名を取って、「桀宋」と呼ぶようになった。

周の慎せい王(しんせいおう)のとき、斉の泯王(びんおう)は、楚、魏と連合して宋を攻め滅ぼし、これを三国で分割した。

春秋の覇者  弱小国の苦悩-宋 宋襄の仁

2005-07-22 12:53:38 | 十八史略を読む
十八史略を読む-21
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

宋は子姓の国で、殷の紂王(ちゅうおう)の異母兄微子啓(びしけい)が封ぜられて創建された、現在の河南省商丘(しょうきゅう)県あたりに存在した小国。

春秋時代になって、襄公が諸侯に覇をとなえようとして、当時の強国楚と戦った。

戦いを前にして公子の目夷(もくい)が「敵はまだ陣形を整えてはいません。いまの内に攻撃すべきです」と進言した。

しかし、襄公は、「相手の不備につけ込むなど、君子の取るべき道ではない」と言って聞き入れなかった。

結果は宋の惨敗となり、世間ではこれを「宋襄の仁:無益の情けをかけること」といって物笑いの種とした。

春秋の覇者  弱小国の苦悩-鄭 名宰相の子産

2005-07-22 12:51:51 | 十八史略を読む
十八史略を読む-20
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

鄭は姫姓の国で、周の宣王(せんおう)の異母弟桓公友(ゆう)が封ぜられ創建された。現在の河南省新鄭州を中心に前8世紀から約400年間存続した。桓公友の子である武公、その子の荘公さらに数世を経て声公(せいこう)の代になったとき、賢人子産を宰相に登用した。子産は、かって、孔子が鄭を訪れたときは、子産と兄弟のようにつきあったといわれる。

鄭は穆公(ぼくこう)以来、毎年のように晋、楚の攻撃を受けてきた。しかし、子産が宰相の地位についてからは、礼に基ずいた施政で国威を高めたため、晋、楚といえども、容易に鄭に攻撃を仕掛けることはできなくなった。

鄭は周の威烈王(いれつおう)のとき、すなわち鄭公君乙(くんいつ)のとき、韓の哀候に滅ぼされた。

これ以降、韓は鄭に都を遷した。

「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から