写真は呉の闔廬が埋葬されている蘇州の虎丘、頂上の雲岩寺塔は「東洋のピサの斜塔」といわれているとおり、少し傾いている。(2004年5月撮影)
十八史略を読む-8
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から
呉は現在の蘇州付近に興った。これとほぼ同時期に栄えた越は今の浙江省北部にあった。呉は周と同じ姫姓の国で、文王の伯父が封ぜられて創建された。19代目の寿夢のときになって、初めて王と称した。
寿夢ののち4代を経て闔廬(こうりょ)に到る。闔廬は楚の平王に殺された伍奢(ごしゃ)の子である子胥(ししょ)を顧問に取り立て国政の相談相手とした。子胥は父の敵を討つべく、楚を討ち念願を果たした。
その後、再び呉が越を攻めたとき、闔廬は傷を負いそれが原因で死んだ。子胥は引き続き闔廬の子である夫差(ふさ)に仕えることになった。そして夫差は父の仇を打とうと心に誓い、朝晩、たきぎの中に寝起きしてはわが身を苦しめ(臥薪)、出入りのさいには臣下に「夫差よ、父が越王に殺されたことを忘れたのか」といわせては、復讐の念を新たにした。
夫差はついに越を破った。越王勾践(こうせん)は会稽山に逃げ込み「どうか私を大王の臣にし、妻を大王の妾にしていただきたい」と屈辱的な和議を願い出た。子胥はこれを受け入れないように主張したが結局、夫差は勾践を許してしまう。
こんどは勾践が「会稽の恥を忘れはすまいな」と自分の部屋に干した獣の肝を吊り下げておき、いつもそれを口にして苦さを味わっては(嘗胆)、呉への復讐を期した。辛苦に耐えて将来を期す意味の臥薪嘗胆はここから生まれた。すなわち夫差が臥薪し、勾践が嘗胆してともに復讐を誓ったことから来ている。
子胥は彼を失脚させようとする讒言から呉王夫差を怒らせ、呉王は自殺せよと子胥に剣を渡した。子胥は死に臨んで家族にこう告げた。「俺の眼をえぐり取って東門にかけておけ。呉の滅びるのをこの眼で見届けてやる」と、これを聞いた夫差は激怒し、子胥の死体を馬の革で作った袋に詰めて、揚子江に投げ入れてしまった。
呉は子胥が言ったとおり、越に三度戦って三度とも破れ、夫差は越に和議を請うたが范蠡(はんれい)が反対したため、楚王はこれを受け入れなかった。呉王夫差は子胥に会わせる顔がないといって自殺した。