凡凡「趣味の玉手箱」

キーワードは中国です。中国以外のテーマは”趣味の玉手箱にようこそ”で扱っております。

十八史略を読む-6 周王朝(成王から幽王まで)

2005-07-13 21:51:30 | 十八史略を読む
武王が崩御した後、太子の誦(しょう:成王)が即位した。武王が殷の紂を討って後の、僅か二年後のことである。成王は幼かったので叔父の周公(文王の子で武王の弟)が大宰相となり、王政を代行した。

やがて、成王が成長すると、周公は大政を奉還した。周公は、成王を指導するとき、成王が過ちをおかすと我が息子である伯禽を鞭打った。こうすることで、成王と息子の二人を同時に指導した。また、周公は息子の伯禽が魯に封ぜられるとき、人の訪問を受けたならば洗髪や食事を中断して直ちに出て応対するくらい客人に気を遣えといっている。これは握髪吐哺(あくはつとほ)という熟語となって、上に立つものの心得として語り継がれたエピソードである。

太公望呂尚は斉に封ぜられてから5ヶ月後に周公に報告に来た。周公が「随分と早いではないか」と驚いてたずねると、呂尚は「君臣の礼を簡素化した上、斉の習俗に従うようにしたからです」。

これに対し伯禽は魯に封ぜられてから3年も経ってから父親の元に報告に来た。周公が「随分遅いでないか」。伯禽は曰く、「自分は旧来の習俗を改革し、礼も改めた。そのため何かと時間がかかった」と。

周公は両者を比較して「将来、魯は政治的に斉に服することになろう。政治は全て簡易平易の方が優るからだ。簡易平易で誰でもちかづけるようにすれば、人民は自然に政治を支持するようになるだろう。」と、春秋末期を予言した。

時は過ぎ、幽王の時代になった。幽王に溺愛された襃似(ほうじ)の出生には秘密があった。かって、夏王朝の頃、二頭の竜が王宮の庭に降りてきて、「われらは襃(ほう)の君主の亡霊である」と称したことがあった。宮廷では占いのお告げに従い竜の吐いた泡を箱に密封してしまっておいた。

夏・殷・周の時代を通じてこれを誰も開けなかったが、ある時、初めてこれを開けたところ、箱から吹き出た泡が一匹のトカゲに変わった。たまたま後宮の童女がこのトカゲに出くわし、そのために身ごもって生まれた女の子が美しく成長して襃似となった。襃似は笑うことのない女であった。

幽王は溺愛する襃似を何とか笑わせようとしていたが、たまたま、誤って狼煙を上げたとき、すは一大事とばかり駆けつけた諸侯のあわてた様が余りにもおかしいので、襃似は初めて笑った。これに味を占めた幽王は襃似を笑わせるために、平常時に何回も狼煙を上げさせた。

イソップ物語の狼少年の話と同じで、北方から蛮族に攻められたとき、狼煙を上げたものの、“また幽王のお遊びか”と諸侯は判断して誰も駆けつけることはなかった。こうして幽王は驪山(りざん)の麓で犬戎(けんじゅう:中国北西辺境に住んだ異民族)に殺されてしまった。これ以降、周王室は次第に衰退していった。

十八史略を読む-5 周王朝(武王の系譜)

2005-07-13 21:17:46 | 十八史略を読む
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

周の武王は、姓を姫(き)名を発(はつ)といい、后稷(こうしょく)から16代目の孫に当たる。ある日后稷の母親が巨大な足跡を見つけそれを踏んだところ身ごもり后稷を生んだという。彼は幼児の頃から既に大人物の風格を備え、普通の子供の遊びと違って、草や木を植えることに熱中したという。后稷は堯、舜、寓の時代に頭角を現して、農師となった。

代を経て、古公亶父(たんぽ)に到った。北方の異民族に攻撃されたので、古公は岐山の麓に居地を定め、民から敬われた。古公の末子が季歴で、その子が昌(のちの文王)である。季歴には二人の兄がいたが、兄たちは古公が季歴を後継者にして、ゆくゆくは昌に国を嗣がしたいとのぞんでいることを知るとひそかに国を出て、南方の未開地に出奔し、髪を切り入れ墨し絶対に君位を嗣がぬ決意を示して季歴に位を譲った。(複雑な跡目争いを避ける為の措置であって美談であると思う)

季歴の後を昌が継ぎ、善政を施したので、諸侯は皆彼についていき西方諸侯の長となった(昌のことを西伯ともいう)。

西伯(文王)については有名な太公望呂尚(りょしょう)との出会いの話がある。ある時西伯が猟に出ようとして占ったところ、「獲物は竜にあらず蛟(みずち)にあらず、熊にあらず羆(ひぐま)にあらず、虎にあらず豹にあらず、獲物は覇王の補弼(ほひつ)の臣である」と出た。

これについては春秋にも記載されている有名な出会いである。西伯(文王)が死去したあと、子の発が勲位についた。これが武王である。武王は殷を滅ぼした後、自ら天子となり、曾祖父の古公に太王(たいおう)、祖父の季歴に王季、父の西伯に文王とそれぞれ称号を奉った。かくて天下はことごとく周を宗主と仰いだ。

中国のことわざ-4 炮烙(ほうらく)の刑

2005-07-13 13:43:30 | 中国のことわざ
炮烙とはあぶり焼くこと、またつつみ焼くこと。素焼きの平たい土鍋のこと。

炮烙(ほうらく)の刑とは殷の紂王(ちゅうおう)が行った刑罰。油を塗った銅柱を炭火の上に架け渡して、罪人を渡らせたという。罪人が炭火に落ちるのを愛妾の妲己(だつき)とともに見物して楽しんだという。

ことわざではありませんが十八史略で紹介されていますので記載しました。
(参考:広辞苑)

中国のことわざ-3 酒地肉林(しゅち・にくりん)

2005-07-13 13:24:45 | 中国のことわざ
酒や肉が豊富で、豪奢を極めた酒宴のこと。

夏王朝17代目の桀(けつ)は妾の末喜(ばっき)を寵愛し、豪華絢爛たる宮殿を建て、肉を山と積み、大きな酒の池を作りそこで日夜どんちゃん騒ぎを繰り広げるなど、人民が困窮するのを省みなかった。その為、殷の湯(とう)が兵を挙げて夏を攻略し、夏王朝は滅びた。

同じように殷の紂王は、象牙で箸を作らせるなど贅沢の限りをつくし、またかつて夏の桀がやったように妾の妲己(だつき)に熱を上げ、酒池肉林を行ったので次第に諸侯のうちにも離反するものが現れてきた。武王が諸侯を率いて紂を破り、紂は財宝を身にまとって焼身自殺し、殷は滅亡した。

夏王朝及び殷王朝の滅亡がいずれも妾への溺愛と酒池肉林が一因となっていることは興味をそそる。
(参考:広辞苑)

十八史略を読む-4 殷王朝

2005-07-13 12:53:15 | 十八史略を読む
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

夏王朝の桀を倒した湯(とう)が殷王朝を起こす。湯はその徳が食獣に及ぶという逸話がある。

ある日、湯が外出すると網を四面に張って、こう祈っている者があった。“天より飛んで来たるもの、地を走るものすべてわが網にかかれ”と。

湯は絶句して言う。何ということ、これでは絶滅してしまう。そこで湯は三方の網を取り除かせ、“左をのぞむものは左に行け、右をのぞむものは右に行け、どうしても天寿を捨てたいものだけ我が網にかかれ”と。

この話を聞いた諸侯たちは口々に“湯の恩徳の偉大さよ、食獣に及ぶとは”と褒め称え湯を慕うようになった。

大旱魃が続いたとき、大史が占ったとき人間を生贄にして雨乞いするほかないという。湯は人民を犠牲にするわけにはいかぬ。どうしても人身御供が必要ならば自分が犠牲になろうといって、自ら死装束で我が身を捧げて野に祈った。彼は旱魃を招いた自らの不徳をいくつか問責した。するとたちまち激しい雨が降り出して、旱魃の危機が去った。

時は流れ、紂が王位についた。紂は生まれつき弁舌に優れ、自分の非行も得意の弁舌でいいくるめてしまう。象牙で箸を作らせるなど贅沢の限りをつくした。またかつて夏の桀がやったように酒池肉林を行ったので次第に諸侯のうちにも離反するものが現れてきた。そこで銅柱に油を塗り、しきつめた炭火の上にそれを差し渡して罪人にその上を歩かせた。滑って足を踏み外すとたちまち火の中へ。

これを紂は炮烙(ほうらく)の刑と名付け妾の妲己(だつき)とともに見物して楽しんだ。これを何回も忠告した叔父は“聖人には心臓に穴が七つあいているそうだな”と言って心臓をえぐり出して殺したり、体を刻んで“ホシニク”にしたりの恐怖政治を行った。

当時の最高の官職に就いていた周候の昌(しょう:後の文王)も幽閉され危うかったが、昌の身を案じた家臣らが紂に美女や珍宝を送ったので紂は昌を釈放した。昌は都を離れ善政に意を注いだので諸侯の多くはやがて紂に背いて、周候に心を寄せるようになった。

昌が逝去した後その子の発(のちの武王)があとを継ぎ、諸侯を率いて紂を破り、紂は財宝を身にまとって焼身自殺した。こうして殷は滅亡した

殷王朝の治世は、31代、629年であった。(全16世紀頃~前11世紀頃)

十八史略を読む-3 夏王朝 寓(う)から桀(けつ)まで

2005-07-13 12:45:52 | 十八史略を読む
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

一昔前までは夏王朝は幻の王朝ではないかという説が強かったが、最近になって夏王朝の存在を裏付けるかのような陵墓が発見されているようだ。ますます歴史のロマンを駆り立てられるところである。

さて舜を引き継いだ夏后(かこう)氏寓は治水事業に失敗した父親「鯀(こん)」の二の舞を踏まぬように、人民をいたわり、自分は身を粉にして政務に精を出した。寓の時代「儀狄(いてき)」という男がいて酒を造った。寓はこれを飲んでみてその旨さに驚きこれはのちのちこの酒で国を滅ぼす者が出るだろうと言って、男を遠ざけたという。

寓は会稽山の麓で息を引き取った。寓のあとは世襲で「啓(けい)」が即位した。その後その子の太康(たいこう)、その弟の「仲康」、その子の「相(しょう)」が嗣いだ。相は帝位を奪われ夏王朝存続の危機に瀕するが、相の子の「少康」が帝位を奪い返した。

その後、17代目の桀(けつ)が王位についた。桀は妾の末喜(ばっき)を寵愛し、豪華絢爛たる宮殿を建て、肉を山と積み、大きな酒の池を作りそこで日夜どんちゃん騒ぎを繰り広げた。桀は剛力に加え残虐な性格の持ち主で人民を困窮のどん底に陥れて省みなかった。

殷の湯(とう)が兵を挙げて夏を攻略し、夏王朝は17代432年で滅びた。(夏王朝:紀元前21世紀~前16世紀頃)

台湾目指せ世界遺産

2005-07-13 12:40:27 | 中国関連ニュース
毎日新聞7月13日朝刊から

世界遺産は世界134ヶ国に788件が登録されているが、台湾ではまだ一つも登録されていないそうだ。
このため、台湾では登録の基準を満たす可能性がある12ヶ所をリストアップした。

その内訳は台湾の中央山脈の東側の貴重な地質が残る「タロコ峡谷」など自然遺産候補5ヶ所、環太平洋最大級とされる埋葬群を持つ「卑南(ひなん)遺跡」など文化遺産候補5ヶ所、そして阿里山など自然、文化遺産を兼ねた複合遺産候補2ヶ所である。

阿里山は日本統治時代に作られ、2000mの標高差がある森林登山鉄道が歴史的な価値を持っているとされる。鉄道の車窓からは熱帯、亜熱帯、温帯と変わる植生を楽しむことができ、さらに頂上付近には樹齢1000年を越すヒノキの一種のベニヒの巨大な古木があるといい、自然遺産としての魅力も兼ね備えているそうだ。

この記事を読んで阿里山に行きたくなりました。

カテゴリについて気にされた方へ:あくまで関連ということでご容赦いただきたい

中国・昆明の麻薬収容所

2005-07-13 12:35:29 | 中国関連ニュース
毎日新聞7月12日(火)朝刊から

雲南省は、麻薬生産地として知られる黄金の三角地帯(タイ、ラオス、ミャンマーの国境地帯)に近く、麻薬取引の最前線とされるが、一方で常習者の更生プログラムでは先駆的な役割を果たしているとされる。

雲南省の省都である、昆明市に中国最大の麻薬更生収容所(5200人が収容されており、その70%は25歳以下)があるが、このほど海外メディアに内部の様子が公開された。

麻薬更生の取り組みを紹介する事により、麻薬対策強化の姿勢をアピールする狙いがあるようだ。収容所の倉庫のような建物内でオレンジ色のシャツを着た女性数百人が工芸品製作の作業をしている様子の記述や「両親を思い、自らの前途に思いをいたそう」と書かれたスローガンの前で行進する男性収容者たちの写真が掲載されている。

両親の離婚や父母の死亡を契機に、ヘロインを吸う若者が多く、収容所からいったんは出てもまた戻ってくるケースは90%という。また収容者の7人に一人はHIV感染者という。

中国全土の麻薬常習者は79万人余りで(雲南省は全体の8.6%に当たる約6万8千人)、中国政府は麻薬取締りを今年から3年間を「人民戦争」と位置づけており、麻薬を厳しく取り締まる「麻薬禁止法」の制定準備を進めているという。

3年前にツアーで昆明を訪れた時は花の多い町という好印象を持ちましたが、農村部の貧困も一因となっているこうした暗部にも目を向けるべきだと思いました。

中国北京の剣道同好会

2005-07-13 12:32:12 | 中国関連ニュース
7月12日(火)朝のNHKテレビニュースから
北京で最近、剣道同好会が発足し、会員数は約200名あまりであるという。李さんが日本留学中に剣道に魅せられ、中国でも広めたいということで、同好会を作り、ホームページなどでもさらなる会員増に向けてPRしているという。

日本の国技である剣道が中国で盛んに行われることにより、最近のぎくしゃくした中国との関係が少しでも改善されることを期待したい。

中国のことわざ-2 鼓腹撃壌(こふくげきじょう)

2005-07-13 09:33:52 | 中国のことわざ
腹を叩き、地面を打って歌うこと。最もよく治まった時代を象徴する言葉で、太平を楽しむさま。

この言葉が生まれたのは,堯・舜の時代で十八史略に記されている。堯の時代には天下が50年も安泰に治まっていたが、皇帝の堯はある日、天下が本当に治まっているかどうか自分の目で確かめたいと思って、人通りの多い町に出てみた。

一人の老人が口に食べ物を頬張り、地面を叩きながら歌っていた。「お日様が昇ったら起きて仕事をするし、お日様が沈めば休む。水が欲しければ井戸を掘って飲むし、食べ物は田んぼを耕して食べている。皇帝のおかげなんてどうして自分に関係があるだろうか。少しも恩は受けてないよ」と。

国民が何も心配なく、皇帝のおかげなど被っていないと感じるほど世の中が良く治まっているという逆説的な意味を含んでいるものである。

(参考:広辞苑、渡部昇一著・歴史は人を育てる・致知出版社・2004年7月31日)