ランダムなまず庵

 何事にも一寸手を出すが人並みに出来ず、中途半端なその日暮らし・・何でもありの風来ブログ、暇にまかせて「庵」ってます。

ああ赤穂線

2010-12-20 10:05:35 | 思い出はホロ苦く
私鉄軽便鉄道・赤穂線の思い出である。
 記憶に残っている最初は、赤穂線有年駅のホームである。国鉄(現JR)有年駅より百メートル位西にあるこのホームは屋根もなく、汽車の到着まで待っていた。
 午後9時ころだったか、待合室も閉まっていたのだろうか、薄暗い街燈の電球があったようだ。

 母と姉、妹の四人で私は5歳くらいか、昭和19年ころだった。
 妹は母に背負われていたのか、姉と私は寒くて手が悴んでいたのだろうか、冷たいなど言っていたように思う。母の実家へいくためであった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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 これ以降、小学校4年くらいまでは何故か赤穂線の記憶が無い。終戦前後の昭和20年前後には何回か乗っている筈なのに乗った記憶はない。

 小学校に入ってからは、毎年のように12月14日の「義士祭」などには、学校を早引けして午後から母と行ったものである。勿論、赤穂線である。・・・・・・・・・・・・・
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 沿線で千種川に架かる鉄橋が一つあり水面からは相当に高く、汽車から下を見るのが怖いくらいであった。
 夏など中学生くらいがピアから飛び込んでいた。根木鉄橋で水流は豊富なものであった。 今は、僅かに流れている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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 チョットした小文を作ってみようとして2年になる。文は出来たが、路線図で行き止まり、其の儘放置状態である。いつ完成出来るものやら~~~~~その内、配布出来るであろう?+*&%

 この鉄橋は撤去されて、土台のコンクリートが残っている。その横に陸橋が出来ている。これを見ていると、五、六十年前が蘇ってくる。(昭和26年(1951)廃線)

 この土堤に「撮り鉄」が集まると言う。すぐ傍を「山陽新幹線」があり、列車を撮影するためである。(昭和47年(1972)開通)

 かっての赤穂線が通った上を通過しているのである。こんなことも、もう忘れられていくのである。どうでもいいことでもある・・・・



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