ランダムなまず庵

 何事にも一寸手を出すが人並みに出来ず、中途半端なその日暮らし・・何でもありの風来ブログ、暇にまかせて「庵」ってます。

こんな事、あんなこと

2011-08-03 10:59:31 | 思い出はホロ苦く
 我が家の前は国道2号線が走っていた。 
 幅員は5メートルくらいで車のすれ違いは出来ず、どちらかが譲っていたがそんな光景は余りなかった。

 昭和30年頃までは、自動車と言うものは日に数台くらいしか通らない。牛が荷車を引いていたりして・・・自動車はトラックで乗用車を見た記憶はない。

 今や旧道となっているが、昭和40年頃か、近くに新道が出来て昼夜とも定期便トラックがワンワ~ンと唸りを立てて往来している。

 その旧道の思い出である。
 2、3軒先にラジオ屋がある。当時は「○○ラジオ店」である。
 今では3代目がやっている。初代の頃、私が小中の頃、その向かい側に、浪曲師と夫婦漫才師の夫婦が住んでいた。婚礼や新築祝いなどの慶事に呼ばれ一席やって生計を立てていたようである。

 私も何回も見たり、聴いたりしたが、同じ演目で詰まらなかった記憶がある。そのうち、何時の間にか引っ越して行った。

 その後に時計屋、散髪屋が入ったがそれも私が上京する頃には無くなっていた。今は倉庫か・・・

 我が家の前に、戦前、都会でやっていたパン職人が納屋を改造し、窯を造り売っていたことがあった。焼き立てのパンは、初めてのもので珍しく美味かったが、すぐに止めてしまった。

 旅館は2軒あり、今でも名残の看板があるか?もう営業はしていない。当時は「富山の薬売り」の定宿であった。

 担当者が、置き薬の精算、補充に年に一回各戸を廻るのである。
 頭が痛いと言っては「ノーシン」、腹が痛いと言っては・・・・・・支払時は結構な金額になっていたようである。なにしろ、今のように、すぐ病院、医者という訳にはいかなかったのである。

 食糧品や乾物の店が2軒、2、3百メートル東にあり、家の近くには小さな店が2軒ぐらいあった。

 今は、こんな店も全部無くなった。昨今では、近隣の町の大型店舗に買い出しに行っている。

 帰省の度に何時も同じことを思い出している。こんなこともあった、あんなことも・・・


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