つづき
新約聖書注解Ⅱ 日本基督教団出版局 をまとめて。
『信仰義認論は、その頂点において、現実のユダヤ人を相対化し、まことのユダヤ人という新しい存在を前景に押し出す。
そこでパウロが決して放棄しないユダヤ人の優位性がここで揺らぐのである。
彼がここであくまでも信仰義認論を貫くなら、「ではユダヤ人の優れた点は何か」という問いの答えは、当然、「全くありません」となるはずである。
ところが、パウロはそこへ行く前に「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」と答える。この一見論理的に矛盾する論議の展開は、本書の主題である。
「神の義」の二面性から来ている。
ここでは、信じる者を義とすること、神自身がその契約に対してどこまでも忠実であること、つまり、神の契約信義がぶつかりあっているのである。
したがって、ユダヤ人や割礼の有効性が信仰義認論によって否定されるところで、逆に、神の約束としてのユダヤ人や割礼の有効性が神の契約信義として肯定されなければならないことになる。
本書1~8章の信仰義認論は9~11章の神の契約信義論によって補われるのはこのためである。
それゆえ、ここではユダヤ人の優位性が十分に展開されてはおらず、それは九章まで待たなければならない。
ここでは最も重要な点が一つだけ語られる。
それは、神の言葉が委託されているということである。
このユダヤ人の優位性は「彼らの不誠実」によって左右されはしない。
神の「誠実」は人間の「不誠実」に優位する。
神の民がいかに無節操に契約から離れ、それを無視しようとも、神はその契約を破棄することなく、それを忠実に履行する。
人間の背信すらもこの神の信義の下にある。
人間を救うという神の決意は人間の不誠実によって変節しない。
このことは、ユダヤ人の優位性が彼らの不誠実によって崩れないことを意味する。
神の約束、真実な言葉は創造の力でもあるからである。
五節以下では、論争形式で、信仰義認論そのものが俎上に乗せられる。
確かにそれは誤解に基づいてはいるが、パウロに対して実際に向けられた批判でもあったろう。
それは、われわれの不義が神の義を明らかにするのだとすれば、われわれの不義に怒りを下す神は不義となる。
わたしを「なおも罪人として裁」く必要はないのではないか。
このような問いは、事柄を自分の問題として受け止めようとは決してしない人間の常套手段である。
それゆえ、パウロは「人間の論法に従って言いますが」とわざわざ断った上で、そのように一応問うてみせる。
パウロにとってこのような問いは、神に対する冒涜ですらある。
問い方はすでにある答えを前提にしているゆえに、問いそのものの問題性をあらわにする。
神は正しくないのではないか、という問い自身がここでは全体として否定される。
「決してそうではない」は問いそのものに対する拒絶である。
七節は五節の問いをさらに具体的に問う。
「わたしたちの不義」が「わたしの偽り」と言い換えられ、「神の義」が「神の真実」と言い換えられて、「わたしはなおも罪人として裁かれねばならない」のはどうしてかと問う。
この問いは、自分の罪に居直り、自分を弁護して責任転嫁する詭弁である。
このことは八節から明らかとなる。
五節でパウロが断っているように、これは「人間の論法」である。
一つの主張を形式的に延長し、そこに論理的矛盾を明らかにしてその不当性を突くことによって、自己の正当性を主張する。これが「中傷」である。
パウロはそのように「中傷する人々」がいると言う。
この中傷の背後にあるものは、神の律法を守らない者、異邦人を神の救いの下に立ち得るとするパウロの信仰による救いに対するユダヤ人たちの不満と苛立ちがある。
正しい者も正しくない者も共に神の怒りの下にあるとするならば、もはや裁きの対象となるべき罪人など存在しないことになり、裁きそのものが無意味になってしまうのだと言うのである。
パウロはこの問いを「中傷」であるとし、まともに答えることなく、断罪する。
不誠実な人間を義とすることが神の義の放棄ではなく、神の契約に対する誠実がそのような人間を義とする力であること、
神こそが真実な者であり、この神に対する抗議は成り立たないこと、
それゆえ、ユダヤ人の優位性が神の誠実の下でのみ語られることができ、自らを正しいとするユダヤ人の側にはその根拠が見出されないことがここで明らかにされている。』
新約聖書略解 日本基督教団出版局 をまとめて。
『問い「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。」は、これまでの議論の流れからすれば、当然「全くありません」であるはずである。
しかし、奇妙にも「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」と答えられ、その優越性が「まず」第一に「神の言葉をゆだねられた」と数え上げられる。
議論は完全に信仰による義から神の契約に対する誠実の問題に移ってしまっている。
ただ第二第三は出てこず、それはこの問題が集中的に扱われる九章以下まで待たねばならない。
ここでは当面出されるであろう疑問にひとまず答えておこうとするパウロの自問自答(こうした論の進め方は当時の通俗哲学者のよく使った方法である)によって議論が進められる。
神の「誠実」はユダヤ人の「不誠実」によって左右されないこと、
人間の不義が神の義を明らかにするのだとすれば、人間の不義に怒りを下す神は不義となる、というパウロにも向けられていたと思われる中傷と強弁に対して、
それは「人間の論法」、詭弁であるとして、問いそのものを否定する。
「わたしたちの不義」が「わたしの偽り」、「神の義」が「神の真実」と言い換えられている。
パウロを「中傷する人々」に対して「こういう者たちが罰を受けるのは当然」と言い放つパウロは、信仰に立つ者、伝道者が単なる博愛主義者であったり、八方美人的「牧会者」ではありえない、福音宣教の闘志であることを垣間見させてくれる。』
お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
神の誠実は、人間の不誠実に優位する。
人間の背信すらもこの神の信義の下にある。
神の愛の大きさを思い、心から感謝します。
そして、いろんな場面で、いろんな論議から、いろんな中傷をされるキリスト者でありますが、
信仰に立ち、パウロに倣い、闘う者であれますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン