聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書9章 再び自分の死と復活を予告する その2

2011年07月07日 | 新約聖書日記

つづき

新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『この部分は全体としてマルコの編集に負うている。
イエスの一行がガリラヤを通っていたとき、イエスは弟子たちに再び受難を予告する。
最初の受難予告はガリラヤの外、フィリポ・カイサリア途上でなされたが、
第二回のそれはイエスの活動の主要舞台がガリラヤでなされたと、マルコは言いたいのであろう。
この受難予告は最初の受難予告に比べて簡潔であるが、
新たに「人々の手に引き渡される」(パラディドタイ)という句を用いている。
「引き渡す」(パラディドナイ)はイエスの受難と死に関する教会の伝承で使われた用語。
イエスが「人に気づかれるのを好まなかった」のは、群集との断絶を意図したからではなく、
重要な受難の問題に関する弟子たちの教育に力を集中するためであった。
しかし弟子たちはイエスの言葉を悟らず、尋ねることさえ恐れた。
受難の道を忌避する弟子たちの無理解が再び強調される。』


新実用聖書注解 いのちのことば社 を、まとめて。
『この度の予告で注目すべきは、人々の手に「引き渡され」(パラディドーミ)という言葉である。
この動詞は、イエスがユダによって祭司長たちに引き渡され、
次に議会によってピラトの手に引き渡され、
さらにピラトから兵士の手に引き渡されるという一連の出来事を示唆する。
人の策略がイエスを引き渡すのであるが、神の贖いの計画の中では、イエスは神の御手によって「私たちの罪のために死に渡され」た。

死と復活の預言を弟子たちは理解することが出来なかった。
メシヤに関する理解の乏しさは繰り返し指摘されているが、ここでは「イエスに尋ねるのを恐れていた」という言葉が付加されている。
「これを殺す」との悲劇的状況は、イエスの表情や語り口からも感じられたに違いない。
彼らは恐れて、切迫した事情の詳細をあえて尋ねることをしなかった。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
イエスさまの言葉を聞いても、理解できない弟子たちに、自分を重ね合わせます。
聖書を読んでも、神さまの御言葉を理解できない、御言葉を身につけられない、
御言葉を実行できない、わたしが居ます。
どうか、聖書の御言葉、神さまの御言葉、イエスさまの御言葉が、
理解できる者になりますように。
イエスさまを理解できる者になれますように。
イエスさまに従える者になれますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン