聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書 8章 イエス、死と復活を予告する その3

2010年04月03日 | 新約聖書日記
つづき


『34章
マルコによればイエスは弟子たちだけを連れてフィリポカイサリア地方に行く途中であるので、ここにおける群集への言及はやや唐突である。
しかしマルコはこのような仕方であえて弟子たちを群集と同列に置く。
すなわち、イエスに従ってきた弟子達は、受難予告を聞いた今、新たに群集と共に随従への決断の前に立たされる。
「捨てる」と訳されているギリシア語アバルネイスタイは「否を言う」「否認する」の意。
「自分の十字架を背負う」は十字架刑を言い渡された犯罪者が自分のつけられる十字架の横木を刑場まで背負っていく慣わしに由来する表現。
ここでは殉教を覚悟でイエスに従うことを意味する。
受難物語においても弟子達はここで要求される弟子像とは反対の姿を呈する。
ペトロは自分を捨てず、イエスを否認する。
イエスの十字架を背負うのは弟子達ではなくキレネ人シモンである。

35節
34節の発言の理由を示す。「なぜならば」(新共同訳では訳出されていない)、イエスを否認することによって「自分の命を救いたいと思う者は」、永遠の命を失うが、
イエスのため、福音のためにそれを失う者(殉教するもの)は永遠の命を得るからである。
命は二つの意味(この世の命と永遠の命)で用いられている。
「また福音のために」は伝承に対するマルコの付加であろう。
「また」(カイ)は「すなわち」の意味に取ることができる。
マルコはここでイエスのための殉教とは福音のための殉教であると説明する。
マルコにとってイエスは福音の宣教者であるだけではなく、福音そのものである。

36~37節
ここでは世俗の格言が二つ引用されているように思われる。
「命」は本来の諺ではこの世の命を意味したが、この言葉集の文脈では永遠の命を指す。
それは全世界の富・権力・名誉によっても保証されず、ただイエスへの随従をとおして与えられる。
そして人は、受難のイエスを拒んで永遠の生命を放棄するならば、もはやいかなる代価を払ってもそれを買い戻すことはできない。
36節と37節は共に「なぜならば」によって35節の発言を根拠づけている。

38節
38節の「なぜならば」も新共同訳では訳出されていない。
この節は直前の37節あるいは34b~37節全体の発言を根拠づける。
「神に背いた」と訳されているギリシア語モイカリスは「姦通にふける」「不貞の」を意味する。
ここでは、「この時代」は10・30の「この世」と同じ意味で「後の世」と対照的に用いられているように思われる。
イエスが終末時に審判者として到来する人の子と自分自身を同一視したか否かは学者の意見の分かれるところである。
いずれにせよ、マルコは原始キリスト教会の人々と共にここでイエスの再臨を考えている。

9・1節
「はっきり言っておく」(アメーン・レゴー・ヒュミーン)を発言の冒頭に置く語り方はユダヤ教や原始キリスト教の中でイエスの言葉にのみ見られる特色。
発言の内容に権威と真実性を与える。
人の子としてのイエスの再臨と神の国の到来を同一の事柄として明示する。
再臨が近いという期待は原始教会の信仰の大きな特色。



お祈りしますm(_ _)m
『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』
恵み深い天の父なる神さま
主の御名を賛美します。
今日も御言葉をお与えくださり、感謝します。
わたしは、自分のことしか考えることができない者で、自分中心の生き方をしてきた者です。
しかし、御言葉のように、どうかイエスさまに従う生き方ができますように。
イエスさまの為に死ぬ覚悟が、わたしにできますように。
隣人の為に、家族の為に、愛ある行動ができますように。
他人の為に生きる人生が送れますように。
自分のことを最優先にしてしまう自分のエゴを捨てることができますように。
弱いわたしの手を取り、お導きください。
主イエス・キリストの御名によって、祈り願います。
アーメン