聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書 シリア・フェニキアの女の信仰 その3

2008年09月14日 | 新約聖書日記
つづき


新聖書講解シリーズ2 マルコの福音書 いのちのことば社 を、まとめて
『人種差別は、今日も世界のいたるところで見られる悲しい現実である。
しかし今から二千年前のユダヤの世界においては、人種と宗教によってユダヤ人以外の者は完全に差別されていた。
イエスは一般に不信の世界とみなされていた異邦人の地で真実の信仰を見出され、多くの奇蹟を行われるのである。
マルコはそれらの奇蹟を通して人々の信仰を描き、イエスが世界のメシアであることをここでも語っていく。

イエスはガリラヤ地方を去って、異邦人の世界に入って行かれた。
初めからイエスが異邦人伝道を目指しておられたとは思われないが、一人の女との出会いによって異邦人世界にも神の国が伝えられることになった。
その歴史的、また霊的意義はきわめて大きい。
マルコはユダヤ人の霊的盲目と対比させながら、その異邦の女の信仰を描いている。

女はギリシア人であると言われているが、それはとりもなおさず異邦人という意味である。
イエスが来られたと聞くと、すぐにみもとに駆けつけ、足元にひれ伏して娘から悪霊を追い出してくださいと懇願し続けた。
ところが、それに対するイエスの答えは、これまでになく冷たいものであった。
イエスの答えは比喩によって構成され、その難解さは多くの注解者を悩ませてきた。
「子供たち」がユダヤ人を、「小犬」が異邦人をさしているのはすぐ分かるが、ではなぜ異邦人を小犬と見下したように呼び、女の切実な願いを退けられたのであろうか。
選民意識のゆえか、それともイスラエルに対する使命のゆえであろうか。
小犬というのは決して軽蔑のことばではないという説や、
だれが子供でだれが小犬かは問題で無く、必要としている者から取り上げてはならないということを言いたかったのだという説もある。
しかし、フェニキヤ女の願いを退けることによって、イエスは彼女の信仰をさらに深められたと理解するのが最も自然である。
イエスは女の信仰を呼び覚まし、確かなものとするために、あえてこのような答えをされたのであろう。
フェニキア女は、イエスの突き放すような言葉に失望しなかった。
彼女は、自分が異邦人であることも、イエスの使命もすべてわきまえたうえで、ひたすら神の恵みとあわれみを願い求めた。
そこに彼女の信仰がある。
わたしたちも人間的に自尊心を傷つけられても、ひたすら神に求め続けよう。
人間的なこだわりを越えて神の前に進み出たときに、真実の信仰が生まれるからである。

するとイエスは言われた。
「そうまで言うのですか。」
直訳すると「そのことばのゆえに」となり、イエスは彼女の謙遜な心とご自身への絶対の信仰を認めて高く評価しておられる。
そして彼女は、その謙遜と信仰によって、大きな祝福を受けることができた。

このフェニキア女の話には、彼女の信仰とイエスの全能の力が強調され、また何よりも神の国がユダヤ人だけでなく異邦人の世界にも及んだことが明らかにされている。
神の国は、ユダヤ民族だけのものでなく、すべての国民にも等しく与えられるものである。』


お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
異邦人への祝福と伝道が示されたことを感謝します。
ただひたすら祈り求めることの大切さを、あらためて知りました。
信仰と憐れみと祝福が与えられますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン