雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

指貫は紫の濃き

2014-05-14 11:00:10 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百六十三段  指貫は紫の濃き

指貫は、
紫の濃き。
萌黄。
夏は、二藍。
いと暑きころ、夏虫の色したるも、涼しげなり。


指貫(サシヌキ・袴の一種で裾を紐で結ぶ)は、
紫の濃い色のものが良い。
萌黄色も。
夏は、二藍が良い。
大変暑い頃は、夏虫の色をしたのも、涼しげです。



「二藍」は、紅花と藍とで染めた色で、紅色がかった青色。
「夏虫の色」の夏虫は、青蛾のことだという研究者もいるようですが、「夏虫の色」を染め色の名と説明している辞書もあります。おそらく、薄い緑色、瑠璃色、水色に近い色、といった感じでしょう。
この章段以後、服装などが取り上げられていますが、少納言さまの時代の人々は、上流社会に限られるのかもしれませんが、実に繊細な色彩感覚を持っていたようです。しかもそれを染料や絵の具として作り上げているのですから、すばらしいものです。
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狩衣は香染の淡き

2014-05-13 11:00:13 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百六十四段  狩衣は香染の淡き

狩衣は、
香染の淡き。
白き袱紗。
赤色。
松の葉色。青葉。
桜。柳。また、青き藤。
男は、何の色の衣をも着たれ。


狩衣は、
香染の薄い色のものが良い。
白い袱紗(フクサ・表・裏とも白絹)も。
赤色(表が赤・裏が二藍)も。
松の葉色(表が萌黄・裏が紫、らしい)も。青葉も。
桜(表が白・裏が二藍)。柳(表が白・裏が青)。また、青き藤(表が経糸が青、緯糸が黄・裏が萌黄)も良い。
男性は、どの色の狩衣でも着れますね。



狩衣とは、もともとは鷹狩などに用いられたものですが、この頃は常用されていました。
香染は、丁子を煎じた汁で染めたもので、黄色がかった薄赤色。
青葉は、「青朽葉」が欠落して伝えられたものらしく、そうだとすれば、「表が経糸青緯糸黄・裏が青」

この時代、狩衣は貴族たちの常用服になっていたようです。当然、布地も色彩もいろいろなものが登場してきていたようです。さて、少納言さまお気に入りの色彩はどのようなものだったのでしょうか。
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単衣は白き

2014-05-12 11:00:59 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百六十五段  単衣は白き

単衣は、
白き。
日の装束の、紅の単の衵など、かりそめに着たるはよし。されどなほ、白きを。
黄ばみたる単衣など着たる人は、いみじう心づきなし。
練色の衣どもなど着たれど、なほ、単衣は白うてこそ。


単衣は、
白い色のものが良い。
晴れの儀式の装束に、紅の単(ヒトヘ)の衵などを、ちょいとひっかけているのは良い。それでもやはり、白い方か良いですね。
使い古して黄ばんだ単衣など着ている人は、全く気に入りません。
淡黄色で真珠のような光沢がある練り絹の衣をわざわざ着ることもありますが、やはり、単衣は白くなくてはいけません。



単衣とは、裏地の無い仕立ての衣のことをいいますが、ここでは、衵(アコメ)の下に着るものを指しています。
紅の単の衵、とありますのは、衵は裏地があるのが普通ですが、裏地の無い単衣に仕立てたものもあったようです。夏などはそのようなものを着たようですが、それは引倍木(ヒヘギ)と呼ばれ、これもそれだと思われます。
当時、単衣は白い色のものが多かったようですが、何が何でも白くなくてはいけないというのは、少納言さまのお好みのようです。
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下襲は

2014-05-11 11:00:27 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百六十六段  下襲は

下襲(シタガサネ)は、
冬は、躑躅、桜、掻練襲、蘇枋襲。
夏は、二藍、白襲。


下襲は、
冬は、つつじ、さくら、かいねりがさね、すおうがさね。
夏は、ふたあゐ、しらがさね。



下襲とは、束帯の時に袍の下に着た着物で、背後の裾を長くして袍の下に出して引いたまま歩き、または人に持たせたもので、絵やドラマなどで見る機会があると思います。
いくつかの色合いが並べられていますが、これらは、少納言さまが「良い」とされるものでしょうから、実際には沢山の色やその組み合わせ、生地や織り方や文様など、実に様々なものがあったのでしょうね。
参考までにそれぞれの色合いの説明をさせていただきます。

躑躅は、表は糊張りし貝で磨いて艶出しした白絹・裏は砧で打って艶出しした紅の絹。
桜は、表は白・裏は葡萄染(エビゾメ・ぶどうの実のような色。薄紫色)
掻練襲は、表は紅の絹で打って艶出ししたもの・裏は紅の絹で糊張りなどで艶出ししたもの。
蘇枋襲は、表は白・裏は蘇枋(暗赤色)。
二藍は、紅色がかった青色。
白襲は、表裏とも艶出しした白絹。
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扇の骨は

2014-05-10 11:00:31 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百六十七段  扇の骨は

扇の骨は、
朴。
色は、
赤き、紫、緑。


扇の骨は、
朴の木。
張る紙の色は、
赤、紫、緑。



ここでの扇は、夏に納涼のために用いる扇のことで、蝙蝠(カワホリ)の扇と呼ばれました。
ここに挙げられているものは、おそらく少納言さまのお好みのものでしょうから、骨や紙の色もさまざまなものがあったのでしょう。
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檜扇は

2014-05-09 11:00:53 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百六十八段  檜扇は

檜扇(ヒアフギ)は、
無文。
唐絵。


檜扇は、
無文(白木のままで無地のもの)。
唐絵。



檜扇は、扇としての実用性はなく、純然たる装身具です。
檜の薄い板を綴って作りますが、辞書などによりますと、位によってその板の数に定めがあったそうです。
少納言さまの時代も、なかなか大変だったのですね。

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運命紀行  道長の娘

2014-05-09 08:00:28 | 運命紀行
          運命紀行
               道長の娘

平安王朝の長きにわたって政権を担った藤原氏の絶頂期を築いた人物となれば、やはり藤原道長ということになるのではないか。
もちろん、それに先立つ人たちの敷いた路線があってこその道長の誕生ではあるが、やはり、道長が詠んだとされる『 この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば 』という和歌は強烈な印象を伝えている。
藤原氏の政権掌握の手段は、摂関政治と呼ばれるように摂政・関白に就くことで公卿たちを勢力下に抑え込んでいくことであるが、それを可能にした最大のものは、一族の娘を入内させ、その娘が儲けた皇子を皇位に就けることによって外祖父の立場に立つことであった。
そう考えれば、藤原氏の長者になるためには優れた姫の存在が必要であり、実際期待に応えるだけの姫が次々と登場しているのである。

それは、道長とて同じである。
道長は、藤原氏の頂点に立つ兼家の五男に生まれたが、その才覚と豪胆さは若くから知られていたが、その後の栄達には子供たち、特に優れた姫たちの存在も大きな働きをしているのである。 
その道長には二人の妻がいた。もちろん、当時の皇族や公卿たちは複数の、というより多くの妻妾を持つのが普通であり、道長も同様に何人もの妻妾がおり、子をなした女性も二人以外にもいる。しかし、正妻あるいはそれと同様の存在と言えば、この二人に限られる。

その二人とは、源倫子(リンシ)と源明子(メイシ / アキコ)である。
五男とはいえ藤原北家の嫡流であり、すでに藤原氏が朝廷内で圧倒的な勢力を占めていた中で、皇族につながるとはいえともに源氏の女性を妻としているところに、いかにも道長らしいたくましさを感じる。当時は複数の妻妾を持つのが普通であるので、正妻は恋愛感情より勢力基盤の強化を第一に考えるのが普通だったからである。道長も同様であったと考えられ、そのうえで、同族の姫より皇族の血を引く源氏の姫に自分の将来をかけたあたりが、並の人物でなかった一つの証のように見える。

二人の妻は、極めて似通った家柄であり、甲乙つけ難いといえる血統に生まれている。
倫子は道長より二歳年上であるが、明子も倫子と同年か一歳年下と思われる。
結婚の時期も、倫子の方が一年ほど早かったとされるが、その頃にはすでに道長と明子は婚姻関係にあったとされる説もある。いずれとも確定しがたいが、あまり時期に差はないと考えられる。
倫子の父は、宇多天皇の皇子である敦実親王の三男である源雅信であり、左大臣まで昇っている。明子の父は、醍醐天皇の第十皇子であり、七歳の時に臣籍降下し源の姓を賜った人物で、やはり左大臣にまで昇っている。
醍醐天皇は宇多天皇の皇子であるから、宇多天皇から数えれば、倫子も明子も曽孫にあたることになる。

ここまでだけを見れば、二人の女性はまことによく似た背景を担っている。容貌などの差異は不詳であるが、ともに道長の子を六人ずつ儲けていることをみれば、どちらも仲睦まじかったと考えられる。
しかし、誕生してきた子供たちのその後の進路は、母親によって大きく違っているのである。
それぞれの子供のその後を見てみよう。

倫子の子供は、
 長女、彰子・・・一条天皇中宮(皇后)。
 長男、頼通・・・摂政、関白。道長の後継者。
 次女、妍子・・・三条天皇中宮(皇后)。
 五男、教通・・・関白。
 四女、威子・・・後一条天皇皇后。
 六女、嬉子・・・後朱雀天皇・東宮妃。
明子の子供は、
 次男、頼宗・・・右大臣。中御門家の祖。
 三男、顕信・・・従四位下・右馬頭に任官するも、すぐに出家。
          その行動について、道長から「不足職之者」と非難されたのが原因とも。
 四男、能信・・・権大納言。
 三女、寛子・・・敦明親王女御。
 五女、尊子・・・源頼房室。
 六男、長家・・・権大納言。御子左家の祖。

以上のように列記してみると、その差が歴然としている。もちろん、明子の子も、並の公卿としてみれば、相応の地位に達しているともいえるが、全員を兄弟姉妹としてみれば、母親による差はあまりにも激しい。
その理由は、道長は、倫子を正妻として遇し、明子をその他の妻妾とは同列としないまでも、次位の妻といった立場としたためである。
その理由は何かといえば、二人の父親の境遇の差といえよう。

明子の父・高明は、醍醐天皇の第十皇子であったが七歳の時に皇族の地位から離れたことはすでに述べたが、何といっても一世の源氏であり姉は村上天皇の中宮という恵まれた環境にあり、順調に官位を上げて左大臣に上っている。なお、一世源氏とは天皇の子が源の姓を賜った場合をい言い、親王の子が賜った場合は二世源氏と言う。 
しかし、安和二年(969)、安和の変と呼ばれる源満仲らの謀反事件に連座し、太宰権帥に左遷された。実質的に流罪である。高明が五十六歳の時のことで、明子が五歳の頃のことであった。
この流罪は一年ほどで許され都に戻ったが、以後政界に復帰することなく、十二年ほど後に没している。
明子は、父の失脚後、叔父の盛明親王(醍醐天皇の皇子)の養女となるが、親王没後は東三条院 ( 一条天皇生母 ) の庇護を受け、道長と結婚するに至った。明子が二十二歳前後だったと考えられる。

倫子の父・雅信は、宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で、宇多源氏の祖とされる人物である。
同じく左大臣まで上るが、倫子が道長と結婚した時期はその絶頂期であり、一上 ( イチノカミ ・ 公卿の筆頭、通常は左大臣 ) として活躍していて、倫子と道長が結ばれると、道長を自邸の土御門殿に住まわせたのである。これにより二人の妻の上下関係は明確になってしまったのである。
また、倫子が結婚間もなく長女彰子を生んだが、この女性の栄達もそれぞれの子供に大きな影響を与えることになったかもしれない。

道長は、多くの子供に恵まれたが、女性でいえば、宮中での栄達ということからすれば、彰子が第一番だということに異論がないであろう。
平安王朝文化の絶頂期ともいえる一条天皇に入内し、後一条天皇、後朱雀天皇の二人の天皇の生母となり、自らも上棟門院という女院を得るなど、およそ女性として望めるすべての地位を引き寄せて、八十七歳の長寿を全うしているのである。
しかし、人の生涯の幸せというものは、そうそう安易に甲乙を付けられるものではない。最上の位を得たからといって、道長の娘の中で彰子が最も幸せであったというのは、胆略にすぎるかもしれない。

そう考えてみると、一人の女性が浮かび上がってくる。
それが、道長の五女として生まれた尊子である。

     ☆   ☆   ☆


尊子 ( ソンシ / タカコ ) は、長保五年(1003)に生まれた。
母は、道長の妻としては倫子の後塵を拝したとされる明子である。
尊子は道長の五女にあたるが、明子が儲けた子供の五番目の子でもある。
道長の長女である彰子は、この時十六歳で、すでに一条天皇のもとに入内しており、まだ子供は儲けていなかったが、中宮として後宮の中心にあった。彰子の前の中宮である定子は、一条天皇に惜しまれながらすでに他界していた。

尊子は、二十二歳で右近衛権中将であった源師房と結婚した。
師房はこの時十七歳、尊子より五歳年下の夫であった。
師房の父は村上天皇の皇子である具平親王であるが、誕生の翌年には亡くなっており、姉の隆姫女王の夫である藤原頼通の猶子となった。頼通というのは道長の嫡男である。
十三歳の時従四位下に叙され、ほどなく元服し源姓が与えられた。これにより、師房は村上源氏の祖となるのである。

このような血統の持ち主ではあるが、尊子と結婚する時点ではまだ公卿に列しておらず、道長の娘で皇族でも公卿でもない「ただ人」と婚姻を結ぶのはこれまでに例がなく、同母兄たちは不満を抱いていたとされる。
しかし、道長は師房の人格・才能を高く評価していたようで、「頼通に男子が生まれなければ、師房に摂関家を継がせてもよい」といったとも伝えられていて、尊子を冷遇するつもりなど全くなかったと思われる。
「ただ人」として尊子と結婚した師房であったが、その後は道長・頼通の後見を得て、内大臣、右大臣にまで上り、七十歳で亡くなる時には、太政大臣に任ずるとの宣旨も下されていたという。

尊子は、夫が亡くなった十年ほど後に八十五歳で没しているが、二人の婚姻生活は五十三年程にも及び、その仲は睦まじかったとされる。
宮中で華やかな日々を送り、望めるすべてを得たかに見える彰子も八十七歳の長寿にも恵まれたが、夫の一条天皇との婚姻生活は十二年程で夫に先立たれ、天皇位についた二人の息子にも先立たれている。さらに、孫にあたる後冷泉天皇、後三条天皇さえも見送ることになり、長寿ゆえの悲哀を味わっているのである。

当時の天皇家や公卿たちの婚姻生活が、それぞれの人たちの幸せにどれほどの影響があったのか、さらに言えば、婚姻生活の幸不幸をその期間の長短で論じることに意味があるとは思わないが、少なくとも、明子を母として道長の娘として生まれた尊子は、権謀術数渦巻く摂関家の近くにあって、比較的平安な生涯を送った女性であったと思われるのである。

                                                    ( 完 )

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神は松尾

2014-05-08 11:00:51 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百六十九段  神は松尾

神は、
松尾。
八幡。この国の帝にておはしましけむこそ、めでたけれ。行幸などに、葱の花の御輿にたてまつるなど、いとめでたし。
大原野。
春日。いとめでたくおはします。

平野は、いたづら屋のありしを、「何するところぞ」と問ひしに、
「御輿宿」といひしも、いとめでたし。
斎垣に、蔦などのいと多くかかりて、紅葉の色々ありしも、「秋にはあへず」と、貫之が歌思ひ出でられて、つくづくと久しうこそ、立てられしか。

水分の神、またをかし。
賀茂、さらなり。
稲荷。


神社ですばらしい所は、
松尾(山城。松尾祭で名高い)。
八幡(ヤハタ・山城)。この国の帝でいらっしゃることが、何より素晴らしい。(応神天皇を祭っていることを指すか?)行幸の時などには、葱の花の飾りのある御輿に天皇がお乗りになられるなど、とてもすばらしい。
大原野(山城)。
春日(大和)。たいそう立派でございます。

平野(山城)は、空き家があったのを、「何をする所だ」と問いますと、
「御輿宿(ミコシヤドリ・天皇乗用の車を祭典執行の間納めて置くためのもので、平素は空き家である)です」と答えるのも、実にすばらしい。
斎垣(イガキ・社の境界を示す石垣などの垣根)に、蔦などが大変多く巻きついていて、紅葉の濃淡も様々なのも、「秋にはあへず」という、貫之の和歌が浮かんできて、しみじみと長い時間、車をとめたままにしていましたわ。

水分の神(ミコモリノカミ・大和。雨乞いの神として名高い)、これも趣があります。
賀茂、立派なことは言うまでもありません。
稲荷(山城)。



神社、すなわち祭神について列記されています。
ここに挙げられているものは、古歌や歌枕から引用したものはなく、いずれも少納言さま自身訪れたことがあるところのように思われます。

なお、貫之の和歌というのは、古今集にある「ちはやぶる神の斎垣にはふ葛も 秋にはあへずうつろひにけり」のことで、その後の文章は、中宮(定子皇后)が亡くなったあとのことと推察できます。


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崎は唐崎

2014-05-07 11:00:37 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百七十段  崎は唐崎

崎は、
唐崎。
三穂が崎。


崎は、
唐崎(近江)。
三穂が崎(出雲)。



ともに古歌や故事に縁があること、また、唐崎には日吉大社があり三穂が崎には美保神社があることから、前段からの類想とも考えられます。
ただ、この二つだけを取り上げているのに何か特別な意味があるのかどうか、少納言さまの真意は今一つ分かりません。
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ちょっと一息 ・ 千年の時を超えて

2014-05-06 11:00:34 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
      枕草子  ちょっと一息 


千年の時を超えて

ここ十段ほどは「何々は」の中でも、ごく簡単な内容の章段が続いています。
枕草子の特徴や謎の要因として、全体としての内容の調和のようなものが図られていないこと、それぞれの章段の長さがあまりにも違い過ぎること、その内容も全く千差万別であることなどが挙げられます。
それらについては、古来多くの研究者が様々な意見を述べられていて、一応の理由は結論付けされているようにも思われますが、私は、別の観点から疑問を抱いています。

清少納言は、この膨大な作品を、誰のために書き上げたのかということなのです。
跋文(バツブン・あとがき)などによれば、誰にも見せるつもりのないものが流出してしまったように書かれていますが、必ずしもそんなことはないと思われます。
書いている用紙は、中宮からいただいたものですから、少なくとも一部のものは中宮に見せているはずです。
また、当時は出版などという技術はないわけですから、不特定多数の人を意識して文章を書き上げるという発想もないと思われます。ごく限られた人々、それも内裏を中心とした当時の上流階級の人々に読まれることを意識していたか、後の世のそのクラスの人に読まれることを意識していたのではないかと思われるのです。

しかし、ここ十段ほどにあるような、例えば「歌は・・」とか「指貫は・・」といった内容は、果たして当時の上流階級あるいは知識階級といわれる人々の興味を引くものなのでしょうか。
清少納言ほどの方がそういうことに気がつかないはずがありません。
そうだとすれば、少なくとも、こういった内容の章段は、後世の私たちに平安王朝の風習や、何よりも、中宮定子という素晴らしい女性がいたことを伝えようとしたのではないかと思われてならないのです。

清少納言が文案を思い描く時、千年後の私たちを意識していたと考えるのは、あまりにも突飛過ぎるでしょうか。
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