運命紀行
道長の娘
平安王朝の長きにわたって政権を担った藤原氏の絶頂期を築いた人物となれば、やはり藤原道長ということになるのではないか。
もちろん、それに先立つ人たちの敷いた路線があってこその道長の誕生ではあるが、やはり、道長が詠んだとされる『 この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば 』という和歌は強烈な印象を伝えている。
藤原氏の政権掌握の手段は、摂関政治と呼ばれるように摂政・関白に就くことで公卿たちを勢力下に抑え込んでいくことであるが、それを可能にした最大のものは、一族の娘を入内させ、その娘が儲けた皇子を皇位に就けることによって外祖父の立場に立つことであった。
そう考えれば、藤原氏の長者になるためには優れた姫の存在が必要であり、実際期待に応えるだけの姫が次々と登場しているのである。
それは、道長とて同じである。
道長は、藤原氏の頂点に立つ兼家の五男に生まれたが、その才覚と豪胆さは若くから知られていたが、その後の栄達には子供たち、特に優れた姫たちの存在も大きな働きをしているのである。
その道長には二人の妻がいた。もちろん、当時の皇族や公卿たちは複数の、というより多くの妻妾を持つのが普通であり、道長も同様に何人もの妻妾がおり、子をなした女性も二人以外にもいる。しかし、正妻あるいはそれと同様の存在と言えば、この二人に限られる。
その二人とは、源倫子(リンシ)と源明子(メイシ / アキコ)である。
五男とはいえ藤原北家の嫡流であり、すでに藤原氏が朝廷内で圧倒的な勢力を占めていた中で、皇族につながるとはいえともに源氏の女性を妻としているところに、いかにも道長らしいたくましさを感じる。当時は複数の妻妾を持つのが普通であるので、正妻は恋愛感情より勢力基盤の強化を第一に考えるのが普通だったからである。道長も同様であったと考えられ、そのうえで、同族の姫より皇族の血を引く源氏の姫に自分の将来をかけたあたりが、並の人物でなかった一つの証のように見える。
二人の妻は、極めて似通った家柄であり、甲乙つけ難いといえる血統に生まれている。
倫子は道長より二歳年上であるが、明子も倫子と同年か一歳年下と思われる。
結婚の時期も、倫子の方が一年ほど早かったとされるが、その頃にはすでに道長と明子は婚姻関係にあったとされる説もある。いずれとも確定しがたいが、あまり時期に差はないと考えられる。
倫子の父は、宇多天皇の皇子である敦実親王の三男である源雅信であり、左大臣まで昇っている。明子の父は、醍醐天皇の第十皇子であり、七歳の時に臣籍降下し源の姓を賜った人物で、やはり左大臣にまで昇っている。
醍醐天皇は宇多天皇の皇子であるから、宇多天皇から数えれば、倫子も明子も曽孫にあたることになる。
ここまでだけを見れば、二人の女性はまことによく似た背景を担っている。容貌などの差異は不詳であるが、ともに道長の子を六人ずつ儲けていることをみれば、どちらも仲睦まじかったと考えられる。
しかし、誕生してきた子供たちのその後の進路は、母親によって大きく違っているのである。
それぞれの子供のその後を見てみよう。
倫子の子供は、
長女、彰子・・・一条天皇中宮(皇后)。
長男、頼通・・・摂政、関白。道長の後継者。
次女、妍子・・・三条天皇中宮(皇后)。
五男、教通・・・関白。
四女、威子・・・後一条天皇皇后。
六女、嬉子・・・後朱雀天皇・東宮妃。
明子の子供は、
次男、頼宗・・・右大臣。中御門家の祖。
三男、顕信・・・従四位下・右馬頭に任官するも、すぐに出家。
その行動について、道長から「不足職之者」と非難されたのが原因とも。
四男、能信・・・権大納言。
三女、寛子・・・敦明親王女御。
五女、尊子・・・源頼房室。
六男、長家・・・権大納言。御子左家の祖。
以上のように列記してみると、その差が歴然としている。もちろん、明子の子も、並の公卿としてみれば、相応の地位に達しているともいえるが、全員を兄弟姉妹としてみれば、母親による差はあまりにも激しい。
その理由は、道長は、倫子を正妻として遇し、明子をその他の妻妾とは同列としないまでも、次位の妻といった立場としたためである。
その理由は何かといえば、二人の父親の境遇の差といえよう。
明子の父・高明は、醍醐天皇の第十皇子であったが七歳の時に皇族の地位から離れたことはすでに述べたが、何といっても一世の源氏であり姉は村上天皇の中宮という恵まれた環境にあり、順調に官位を上げて左大臣に上っている。なお、一世源氏とは天皇の子が源の姓を賜った場合をい言い、親王の子が賜った場合は二世源氏と言う。
しかし、安和二年(969)、安和の変と呼ばれる源満仲らの謀反事件に連座し、太宰権帥に左遷された。実質的に流罪である。高明が五十六歳の時のことで、明子が五歳の頃のことであった。
この流罪は一年ほどで許され都に戻ったが、以後政界に復帰することなく、十二年ほど後に没している。
明子は、父の失脚後、叔父の盛明親王(醍醐天皇の皇子)の養女となるが、親王没後は東三条院 ( 一条天皇生母 ) の庇護を受け、道長と結婚するに至った。明子が二十二歳前後だったと考えられる。
倫子の父・雅信は、宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で、宇多源氏の祖とされる人物である。
同じく左大臣まで上るが、倫子が道長と結婚した時期はその絶頂期であり、一上 ( イチノカミ ・ 公卿の筆頭、通常は左大臣 ) として活躍していて、倫子と道長が結ばれると、道長を自邸の土御門殿に住まわせたのである。これにより二人の妻の上下関係は明確になってしまったのである。
また、倫子が結婚間もなく長女彰子を生んだが、この女性の栄達もそれぞれの子供に大きな影響を与えることになったかもしれない。
道長は、多くの子供に恵まれたが、女性でいえば、宮中での栄達ということからすれば、彰子が第一番だということに異論がないであろう。
平安王朝文化の絶頂期ともいえる一条天皇に入内し、後一条天皇、後朱雀天皇の二人の天皇の生母となり、自らも上棟門院という女院の地位を得るなど、およそ女性として望めるすべての地位を引き寄せて、八十七歳の長寿を全うしているのである。
しかし、人の生涯の幸せというものは、そうそう安易に甲乙を付けられるものではない。最上の位を得たからといって、道長の娘の中で彰子が最も幸せであったというのは、短絡にすぎるかもしれない。
そう考えてみると、一人の女性が浮かび上がってくる。
それが、道長の五女として生まれた尊子である。
☆ ☆ ☆
尊子 ( ソンシ / タカコ ) は、長保五年(1003)に生まれた。
母は、道長の妻としては倫子の後塵を拝したとされる明子である。
尊子は道長の五女にあたるが、明子が儲けた子供の五番目の子でもある。
道長の長女である彰子は、この時十六歳で、すでに一条天皇のもとに入内しており、まだ子供は儲けていなかったが、中宮として後宮の中心にあった。彰子の前の中宮である定子は、一条天皇に惜しまれながらすでに他界していた。
尊子は、二十二歳で右近衛権中将であった源師房と結婚した。
師房はこの時十七歳、尊子より五歳年下の夫であった。
師房の父は村上天皇の皇子である具平親王であるが、誕生の翌年には亡くなっており、姉の隆姫女王の夫である藤原頼通の猶子となった。頼通というのは道長の嫡男である。
十三歳の時従四位下に叙され、ほどなく元服し源姓が与えられた。これにより、師房は村上源氏の祖となるのである。
このような血統の持ち主ではあるが、尊子と結婚する時点ではまだ公卿に列しておらず、道長の娘で皇族でも公卿でもない「ただ人」と婚姻を結ぶのはこれまでに例がなく、同母兄たちは不満を抱いていたとされる。
しかし、道長は師房の人格・才能を高く評価していたようで、「頼通に男子が生まれなければ、師房に摂関家を継がせてもよい」といったとも伝えられていて、尊子を冷遇するつもりなど全くなかったと思われる。
「ただ人」として尊子と結婚した師房であったが、その後は道長・頼通の後見を得て、内大臣、右大臣にまで上り、七十歳で亡くなる時には、太政大臣に任ずるとの宣旨も下されていたという。
尊子は、夫が亡くなった十年ほど後に八十五歳で没しているが、二人の婚姻生活は五十三年程にも及び、その仲は睦まじかったとされる。
宮中で華やかな日々を送り、望めるすべてを得たかに見える彰子も八十七歳の長寿にも恵まれたが、夫の一条天皇との婚姻生活は十二年程で夫に先立たれ、天皇位についた二人の息子にも先立たれている。さらに、孫にあたる後冷泉天皇、後三条天皇さえも見送ることになり、長寿ゆえの悲哀を味わっているのである。
当時の天皇家や公卿たちの婚姻生活が、それぞれの人たちの幸せにどれほどの影響があったのか、さらに言えば、婚姻生活の幸不幸をその期間の長短で論じることに意味があるとは思わないが、少なくとも、明子を母として道長の娘として生まれた尊子は、権謀術数渦巻く摂関家の近くにあって、比較的平安な生涯を送った女性であったと思われるのである。
( 完 )
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