雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

大蔵卿ばかり耳敏き人はなし

2014-05-21 11:00:06 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百五十七段  大蔵卿ばかり耳敏き人はなし

大蔵卿ばかり、耳敏き人はなし。まことに、蚊の睫の落つるをも、ききつけたまひつべうこそありしか。
職の御曹司の西面に住みしころ、大殿の新中将、宿直にて、ものなどいひしに、そばにある人の、
「この中将に、扇の絵のこといへ」と、ささめけば、
「いま、かの君の起ちたまひなむにを」と、いとみそかにいひ入るるを、その人だに得ききつけで、
「何とか。何とか」と、耳を傾け来るに、遠くゐて、
「憎し。さのたまはば、今日は起たじ」とのたまひしこそ、
「いかでききつけたまふらむ」と、あさましがりしか。


大蔵卿(藤原正光、正四位下、四十二歳の頃)ほど、耳の敏感な人はおりませんわ。ほんとに、蚊のまつげが落ちる音さえ、聞き取ってしまわれたそうですよ。
私たちが職の御曹司の西面に住んでいました頃、大殿の新中将(前段にも登場している成信が、道長の猶子となり中将に任じられた頃こう呼ばれていた)殿が宿直で、私が応対していた時に、そばにいる女房が、
「この中将に、扇の絵のことを頼んでよ」と、ささやくので、
「もうすぐ、かの君(大蔵卿正光のこと)がお帰りになられますからね」と、とても小さな声で耳打ちするのを、その女房さえ聞き取れないで、
「何て言ったの。何て言ったの」と、耳を傾けて来るのに、大蔵卿は遠くに坐っているのに、
「けしからん。そんなことをおっしゃるなら、今日は帰りませんぞ」と、おっしゃったのには、
「どうして聞き取ることが出来たのだろう」と、みんな、あきれてしまいましたわ。



この章段も、大蔵卿という人物の思い出です。
もっとも、今回の場合は逸話というより、少納言さまの経験談といったところです。
「地獄耳」という言葉がありますが、それとは意味が違うのでしょうか。
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嬉しきもの

2014-05-20 11:00:52 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百五十八段  嬉しきもの

嬉しきもの。
まだ見ぬ物語の、一を見て、「いみじうゆかし」とのみ思ふが残り、見出でたる。さて、心劣りするやうもありかし。
人の破り棄てたる文を継ぎて見るに、おなじ続きを、あまた行(クダリ)見続けたる。
「いかならむ」と思ふ夢を見て、「恐ろし」と、胸つぶるるに、事にもあらず合はせなしたる、いと嬉し。
よき人の御前に、人々あまたさぶらふをり、昔ありけることにもあれ、今きこしめし、世にいひけることにもあれ、語らせたまふを、われに御覧じ合はせてのたまはせたる、いと嬉し。
     (以下割愛)


嬉しいもの。
はじめて見る物語で、一の巻を見て、「ぜひ続きを読みたい」と思いつめていた物の残りを、見つけた時はとても嬉しい。ところが、読んでみると、がっかりするようなこともありますが。
人の破り捨てた手紙を継ぎ合わせて読むときに、続きになっている行をたくさん読めた時。
「どうなることか」と心配な夢を見て、「恐ろしい」と、胸がつぶれるような思いの時、夢合わせで、大したことないとうまく説明してくれたのは、とても嬉しい。

高貴な方の御前に、女房たちが多勢伺候している時、昔あった出来事にせよ、最近お聞きになり、世間で噂されているようなことにせよ、お話になられるのを、私と目を合わせておっしゃられるのは、大変嬉しい。

遠い所はもちろんのこと、同じ都のうちであっても離れて暮らしていて、自分にとってかけがえのない大切な人が病気だと聞いて、「どうなのかしら。どうなのかしら」と、心配でたまらず気をもんでいる時に、全快したということを、人づてに聞くのも、大変嬉しい。
恋人が、他人から褒められ、高貴なお方などが、なかなか見どころがある者だと思っているとおっしゃられるのを聞くのは、嬉しい。

晴れの行事の時とか、あるいは、誰かと贈答した自分の歌が評判になって、備忘録などに書き残されるのは、嬉しい。私自身には、まだ経験のないことですが、それでもどんなに嬉しいか想像がつきますわ。
あまり親しくない人の詠んだ以前の歌で、よく知られているのに私が知らないのを、他の人から聞くことが出来たのも、嬉しい。のちに、その歌を、書いた物の中などで見つけた時は、実に興味深く、「これがあの時の歌だったんだ」と、あの私に話してくれた人が、すてきだと思う。
陸奥紙(一番上質な産地)、または、普通の紙でも良質なものを、手に入れた時は嬉しい。

立派だと一目置いている人が、歌の本末(上の句または下の句)を尋ねられた時に、とっさに思い出したのは、われながらよく思い出せたと嬉しい。常に覚えている歌でも、時には、人から尋ねられると、さっぱり忘れてしまって思い出せないままになる場合が、多いものです。
急用で探していた物を、見つけ出した時は嬉しい。

物合(モノアハセ・物を比べ合わせて優劣を競う遊び。絵合わせ、花合わせなど)や、いろいろな勝負事に勝った時、どうして嬉しくないことなどありましょうか。
また、「私こそ」などと思って得意顔をしている人を、まんまとだませた時。女どうしよりも、相手が男の場合は、とりわけ嬉しい。「『このお返しは、必ずしよう』と思っているだろう」と、常に注意させられるのも面白いが、全然平気な顔で、何とも思っていない様子でふるまい、こちらを油断させたままでいさせようとしているのも、また面白い。

憎らしい者が、ひどい目に遭うのも、「罰があたるかもしれない」と思いながらも、これもまた嬉しいですねぇ。
晴れの行事に際して、衣を仕立て直させ、「どんな仕上がりか」と気にしていると、きれいに仕上がってきたのは、嬉しい。
刺櫛(サシグシ・髪上げした額髪の前に挿す装飾用で、時々磨きに出す)を磨かせたのが、美しくなってきたのもまた嬉しい。
「また」が多過ぎますが・・・。(「また」が三つ続いた言訳らしい)

幾日も幾月も、ひどい状態で患い続けていたのが、良くなってきたのも、嬉しい。恋人の場合は、自分自身の時より遥かに嬉しい。

中宮さまの御前に、女房たちがぎっしり坐っているので、あとから参上した私は、少し離れた柱のあたりに坐っているのを、早速お目をとめられて、
「こちらへ」
と仰せになられますと、女房たちが道をあけて、大変近くに召し入れられた時は、それは嬉しゅうございます。



嬉しいことが、次から次に並べられています。
少納言さまの宮中生活、楽しかったことも沢山あったのだと、何だか嬉しくなってしまいます。

どれも、私たちの感覚で納得できるものばかりですが、ちょっと気になるものもあります。
例えば、「人の破り捨てた手紙・・」などは、確かに興味津々であることは分かるのですが、「この草子に書き残していいのか」と心配してしまいます。なにせ、読者は身近な人だと承知しているはずなのにです。
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御前にて

2014-05-19 11:00:24 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百五十九段  御前にて

御前にて、人々とも、またもの仰せらるるついでなどにも、
「世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心ちもせで、『ただ、いづちもいづちもいきもしなばや』と思ふに、ただの紙のいと白う清げなるに良き筆、白き色紙、陸奥紙など得つれば、こよなう慰みて、『さばれ。かくてしばしも生きてありぬべかんぬり』となむ、おぼゆ。また、高麗端の席青うこまやかに厚きが、縁の文いとあざやかに黒う白う見えたるを、ひき展げて見れば、『なにか、なほこの世は、さらにさらに得思ひ捨つまじ』と、命さへ惜しくなむなる」
と申せば、
「いみじくはかなきことにも慰むなるかな。『姥捨山の月』は、いかなる人の見けるにか」
など、笑はせたまふ。さぶらふ人も、
「いみじうやすき息災の祈りななり」
などいふ。
     (以下割愛)


中宮さまの御前で、他の女房たちと話す時も、また、中宮さまが私に話しかけて下さるついでなどでも、
「世の中のことに腹立たしくて、むしゃくしゃして、僅かな時間さえ生きているのが嫌になって、『もう、地獄でもどこへでも行ってしまいたい』と思っている時に、普通の紙なら真っ白で美しいのに上等の筆を添えてとか、白い色紙、それも陸奥紙などが手に入ったら、すっかり気持ちが慰められて、『まあいいわ。このままでしばらくは生きていてもよさそうだわ』とね、思うんです。
また、高麗端の席(コウライハシのムシロ・白地に雲形や菊形などの文様を黒糸で織りだした畳などのヘリ。高給というより清少納言の好み。ムシロは、ござ・うすべりのようなもの)の青くて目が細やかで厚みのあるもので、ヘリの文様がとてもあざやかに黒く白く見えているのを、広げて眺めますと、『なんのなんの、やっぱりこの世は、どうしてどうして捨てられたりは出来るものか』と、命さえ惜しくなってきます」
と申しますと、中宮さまは、
「随分とつまらないことで気持ちが慰められるのね。それでは、『姥捨山の月』は、どんな人が見たのかしら」(古今集の「わが心慰めかねつ更科や 姥捨山に照る月を見て」を引用して、「姥捨山の月を見ても慰められない人がいるのに」と、清少納言の楽天ぶりを笑った)
などと、お笑いになられる。お側の女房たちも、
「随分と安直な厄除けの祈祷みたいね」
などと言う。

そのようなことがあって、大分たって、思いあまる悩み事があって、宿下がりしていた頃、中宮さまがすばらしい紙二十枚を包んで、下さりました。表向きの仰せ言としては、
「早く参上せよ」
など、ご命じになり、
「これは、お耳にとめておかれたことがあったのでね。悪いようなので、寿命経も書けそうもないわね」
(中宮の言葉であるが、女房が代筆しているため、敬語が混じっている)
と仰せになっておられるのが、とてもすばらしい。
私自身が忘れてしまっていることを、覚えておいて下さったのは、ごく普通の人であってさえ、すばらしいことでしょう。まして、中宮さまですから、あだやおろそかに思っていいことではありません。感極まって、ご返事の申し上げようもなく、ただ、
「『かけまくもかしこきかみの験(シルシ)には 鶴の齢となりぬべきかな(口にするのも畏れ多い神<頂戴した紙>のお陰で、千年も寿命が延びてしまいそうです)
大げさすぎるでしょうか』と、申し上げて下さい」 
と、ご返事をお願いしました。
台盤所の雑仕女が、御使いに来ていました。青い綾の単衣を祝儀として与えなどして帰らせたあと、心をこめて、この紙を冊子に造るなどして、お大騒ぎをしているうちに、不愉快なこともまぎれる気持ちがして、「ふしぎなものだ」と、心の底から思いました。

二日ばかり経って、赤い(退紅色。下人の服色)狩衣を着た男が、畳を持ってきて、
「これを、持参しました」
と言う。わが家の召使の女たちが、
「あれは誰なの」
「家の中が丸見えじゃないの」
などと、いきなり入ってきた無作法を責めるように、無愛想に言ったので、使者は畳を置いて帰ってしまいました。
「どちらからなの」と尋ねさせましたが、
「行ってしまいました」
と言うので、御簾の中に取り入れて見ると、特別仕立ての[御座」(ゴザ・オマシともよむ。貴人の敷物で、普通の畳の上に重ねて敷く)という畳の形式で、高麗へりなど、実に美しい。
心のうちでは、「中宮さまからに違いない」とは思いましたが、それでも不確かなので、召使たちを走らせて使者を探させましたが、どこへ行ったか見つけられません。

不審がっていろいろと言うが、使者がいないのでは、どうにも格好がつかず、
「届け先を間違えたのであれば、何とか言ってくるだろう。それより、宮中あたりに事情を伺いに上がらせたいが、中宮さまからでなかったら、間の悪いことになる」と思うが、「それにしても、果たして誰が、冗談半分にこんなことをするだろうか。やはり、中宮さまがおっしゃったことに違いない」と合点しましたが、そのお心がとてもすばらしい。

二日ばかり何の音沙汰もなく、間違って届けられたものではないので、右京の君(出自未詳。清少納言が可愛がっていた若い女房で、女蔵人階級らしい)のもとに、
「このようなことがあったの。そんなことがありそうな様子を御覧になりましたか。そっと実情を教えて下さいな。そのようなことを見ていなければ、私が『このような手紙を差し上げた』ことは、決して口外なさらないでね」
と書いて届けさせたところ、
「とても内緒になさっていらっしゃったことです。絶対に、『私が申し上げた』とは、口先にも出さないで」
と書いてきたので、「やっぱりねぇ」と、思った通りで、可笑しくて、手紙を書いて(誰から誰へとは分からない形で、ただ、畳をいただいて感謝している者がいることが、それとなく中宮の耳に入るように工夫したものと考えられる)、また、畳を、こっそりと御前の縁側の手すりの所へ置いて来させたところ、使いが慌てていたので、置いた拍子に取り落として、階段の下まで落ちてしまったそうです。
 



少納言さまと中宮の、何とも微笑ましい交流を描いた章段です。
文中の、中宮からの手紙の部分でも説明をつけさせていただきましたが、中宮などの手紙は大半が上臈女房などが代筆するのが普通のようです。そのため、例えば中宮が謙遜した言葉を使った場合など、書き手はそのまま表現しにくい場合があるようです。そのため、現代の私たちが読むと少々変な言葉遣いになってしまう部分が出来てしまいます。ただ、当時の人としては承知のことだったのでしょう。
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関白殿二月廿一日に・その1

2014-05-18 11:20:53 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百六十段  関白殿二月廿一日に ・ その1

関白殿、二月廿一日に、法興院の積善寺といふ御堂にて、一切経供養せさせたまふに、女院もおはしますべければ、二月朔のほどに、二条の宮へ出でさせたまふ。
ねぶたくなりにしかば、何ごとも見入れず。
つとめて、日のうららかにさし出でたるほどに、起きたれば、白うあたらしう、をかしげに造りたるに、御簾よりはじめて、昨日かけたるなめり、御室礼・獅子・狛犬など、「いつのほどにか入りゐけむ」とぞ、をかしき。
     (以下割愛)


関白藤原道隆殿が、二月二十一日に、法興院の積善寺という御堂で、一切経の供養をなさいますのに、女院(東三条女院藤原詮子。一条天皇母。道隆の妹、当時三十三歳)もいらっしゃる予定なので、二月の初め頃に、中宮さまは二条の宮へお出ましになる。
私は眠たくなってしまったので、何も注意して見ていませんでした。
翌早朝、日がうららかに差し出た頃に、起きて見ると、御殿は木肌も白く真新しく、洗練された造りであるうえに、御簾をはじめとして、昨日掛け替えたらしく、室内の装飾や調度は、獅子や狛犬など、「いつの間に入って来て坐り込んだのかしら」と思われて、面白い。

桜が、一丈くらいの高さで、ほとんど満開のように咲いているのが、御階のもとにあるので、「随分早く咲いたものだ。梅がちょうど今盛りなのに」と思われましたが、実は造花だったのです。何もかもよく出来ていて、花弁の色具合など、全く本物と変わらず、造るのがどんなに大変だったことでしょう。でも、「雨が降れば、しぼんでしまうだろう」と思われるのが、残念です。
小さな家がたくさんあった一画を取り払って、新しく造らせた御殿なので、木立など、大して趣があるわけではありません。ただ、御殿の様式が、親しみやすく、しゃれているのです。

関白殿がお越しになられました。
青鈍の固紋の御指貫、桜の御直衣に紅の御衣三枚ばかりを、じかに御直衣に引き重ねてお召しになっていらっしゃる。
こちらは、中宮さまを始めとして、紅梅の濃いのや薄い織物、固紋、無紋などを、伺候している者全員が着ているので、ただもう部屋中が光り輝いて見えます。そして、唐衣では、萌黄や柳や紅梅などがあります。
関白殿が中宮さまの御前にお坐りになって、いろいろお話しかけになられるのに、中宮さまの御返答の申し分のないすばらしさを、「実家の人たちに、そっと見せてやりたい」と思いながら、私は見ておりました。

関白殿は、女房たちを見渡されて、
「宮は、何のご不満もございますまい。多勢のすばらしい人々を控えさせてご覧になるとは、羨ましいことだ。誰一人として、劣った容貌の人はいない。この人たちは皆ご大家の御娘たちですぞ。大したものだ。よくいたわって、お側仕えをさせねばならない。
それにしても、皆さんは、この宮の心の内を、どんな風にご理解されて、こうもたくさんお側に上がられたのですかな。どれほど欲張りで、物惜しみの激しい宮だといったら、全くひどいもので、私は、宮がお生まれになった時から、一生懸命お仕えしてきましたが、未だに、おさがりの御衣一枚賜っていないのですぞ。なんの、陰口なんかじゃないですぞ」
などと、仰られるのが可笑しくて、女房たちが笑いますと、
「本当ですぞ。私を馬鹿だと思って、かくもお笑いになるのが恥ずかしい」
などと、ご冗談を申されているうちに、宮中より、式部丞某という者が参上しました。

天皇からの御手紙は、大納言殿(伊周コレチカ、中宮の兄で二十一歳)が受け取って、関白殿に差し上げますと、関白殿は上包を引き解いて、
「結構な御手紙でございますなあ。お許しがいただければ、開けて拝見いたしましょう」
などと、おっしゃりながらも、
「『大変だ』と、宮が思し召しのようだ。恐れ多いことでもあるし」
と言って、差し上げましたが、中宮さまはお受け取りになられても、すぐにひろげられるご様子もなくふるまっていらっしゃるお心配りが、とてもご立派なものです。

御簾のうちより、女房が御使いに対して、敷物をお出しして、三、四人が御几帳のもとに座っている。
「向こうに参って、御使いへの祝儀の品を用意しましょう」
と、関白殿がお起ちになられた後で、中宮さまはお手紙をご覧になられる。
御返事は、紅梅の薄様にお書きになられましたが、御衣と色合いがぴったりと合っているのが、「何といっても、中宮さまのこれほどのご趣向を、十分お察し申し上げる人はいないのでないか」と思われるのが、残念です。
「今日の御使いには、格別に」
ということで、関白殿より、ご祝儀をお出しになられる。女の装束に紅梅の細長が添えられている。
(この場合、御使いへの祝儀は、中宮が出すべきであるが、出向き先で用意されていないため、父である関白が用意したもの。なお、祝儀に女の装束を用いるのは、ごく一般的であった)
「酒肴を」
などと、関白殿よりご指示があったので、御使いを酔わせたいところですが、
「今日は、大切な行事がございます。わが君、どうぞお許しください」と、大納言殿にも申し上げて、帰っていった。

姫君たちは、とてもきれいにお化粧をされて、紅梅の御衣などを「ひけはとらない」とばかりにお召しになっておられるが、三の君は、御匣殿(ミクシゲドノ・役職名であるが、妹の四の君のこと)や、中姫君(姉の二の君のことで、淑景舎原子)よりも、大きく見えて、「奥方」などと申し上げた方が、似合いそうです。
奥方様(関白夫人、貴子)もこちらにお越しになられました。御几帳を引き寄せて、新しく出仕した女房たちには顔をお見せにならないので、不愉快な気がします。(清少納言も新参の頃で、目通り出来なかった。貴子も、漢学等の素養の高い人で、清少納言には張りあう気持ちがあったのか、定子の母でありながら枕草子には全部で二度しか登場していない)

女房たちが寄り集まって、供養当日の装束や扇などについて、話し合っている女房もいるし、また、相手を意識して秘密にして、
「私は、何も用意しません。ありあわせのものにするわ」
などと言って、
「また、いつものあなたの手ね」
などと、相手に憎まれている。

夜になると、実家へ退出する人も多いが、こういう晴れの行事の準備のためであれば、中宮さまも無理に引きとめることはされません。
奥方様は、毎日お越しになり、夜もいらっしゃいます。姫君たちもいらっしゃるので、中宮さまの御前は多くの人が伺候していて、とても良い。宮中からの御使いは、毎日参上する。
御前の造花の桜は、露に濡れても色が濃くなるわけでもなく、日などにあたってしぼみ、汚くなっていくだけででも残念なのに、雨が夜に降った翌朝は、全く形なしです。
たいそう早く起きて、
「『泣きて別れ』といった『顔』に比べると、雨に濡れた桜は、ずっと見劣りするわ」
(古歌、「桜花露に濡れたる顔見れば 泣きて別れし人ぞ恋しき」からの引用)
と私が言うのを、中宮さまはお耳になさって、
「ほんとに、昨夜は雨の気配がしていたわねえ。桜はどうかしら」
と、お目覚めになられたちょうどその時に、関白殿の御屋敷の方から、侍所の者や下仕えの者たちが多勢やって来て、桜のもとに、どんどん近付いたかと思うと、引き倒し、担いでこっそりと帰って行く。
「『まだ暗いうちに』と、仰せられたではないか。明るくなってしまっている。不都合なことだ。早く早く」
と、侍が下の者に言いつけながら、持っていくものですから、とても滑稽です。

「『咎めるのなら咎めろ』ですか」(古歌を引用しているという説もあるが、その歌がよく分からない)
とか、
「鼠の真似でもしているのですか」
とでも、私が上臈女房でもあれば、咎めたいところでしたが、他の女房が、
「かの花を盗むのは誰か。けしからんではないですか」
と咎めたので、侍たちは大慌てで逃げて、桜を持っていってしまった。
やはり、関白殿のご配慮は、すばらしいものでございます。そのままだと、枝などに濡れた花びらがまつわりついて、「どれほど、みっともない格好になるだろう」と思います。

掃部司(カモンヅカサ)の女官が参上して、御格子をお上げする。主殿(トノモ)の女官が、お掃除などに参り、それが終わってから中宮さまは起きていらっしゃいましたが、桜の木がないので、
「まあ、あきれた。あの花たちは、どこへ行ったのか」
と、仰せられる。
「暁に、『花盗人あり』と咎めるようだったが、それも、『枝などを少しばかり取ったのだ』とばかり聞いていた。誰がしたことなのか、見たかえ」
と、仰せられる。
「見届けは致しません。まだ暗くて、よくは見えませんでしたが、白っぽいものがおりましたので、『花を折るのか』と気がかりなので、咎めたのでございます」
と、女房の一人が申し上げました。
「されど、こうもきれいに、どうして盗めるのか。関白殿がお隠しになったのであろう」
といって、お笑いになられますので、
「さあ、まさかそうではございませんでしょう。『春の風』が致したことでございましょう」(『春の風』は和歌の引用と考えられるが、春の風を詠った歌は数多い)
と、私が申し上げますと、
「『こんな素敵なことを言おう』と思って、黙っていたのね。それじゃあ、盗みではなくて、随分としゃれたことだったのね」
と仰せになるが、いつものことではあるが、本当にすばらしいお方だと思いました。

関白殿がいらっしゃったので、「寝乱れた朝の顔をお見せするのも、時節外れのものとご覧になられるだろう」と思って、私は皆さんの後ろに引っ込みました。関白殿はお見えになるとすぐに、
「あの桜がなくなっているぞ。どうして、まんまと盗まれてしまったのだ。ほんとにだらしない女房たちなんだ。寝坊していて、気がつかなかったんだな」
と、わざと驚いておられるものですから、私は、
「でも、私は『われよりさきに』起きている人がいる、と思っておりましたわ」
(「桜見に有明の月に出でたれば 我よりさきに露ぞおきける」を引用)
と、小声で言いますと、関白殿は素早く聞きつけられて、
「そうだと思っていたよ。『まさか他の女房たちは、出て来て見はすまい。宰相の君とそなたぐらいだろう』と推察していたんだよ」
と、たいそうお笑いになられる。

「そのようなわけだったのに、少納言は、春の風のせいにしたのですよ」
と、中宮さまも、たいそうお笑いになられるのが、とても微笑ましい。
「少納言は、いい加減なことを言ったものだ。『いまは山田も作る』という季節だろうに」
(「山田さへ今は作るを散る花の かごとを風に負わせざらなむ」という紀貫之の歌を引用して、桜が盗まれたのを少納言は春風のせいにした、という中宮の言葉を受けたもの)
と言って、関白殿がその歌を吟詠される様子は、実に優雅なものでした。

「それにしても、見つけられてしまってしゃくなことだ。あれほどやかましく言っておいたのに。こちら様には、こういううるさい番人がいるのだからなあ」
などと、関白殿はなおおっしゃいます。
「『春の風』とは、さらりと、実にうまいことを言うものだ」
と、先ほどの歌をふたたび吟詠なさいます。
「ただの話し言葉にしては、何かいわくありげに力が入っていましたわ。それにしても、今朝の桜はどんな風だったのかしら」
などと、中宮さまはお笑いになられる。すると小若君(中宮の上臈女房らしいが出自未詳。文脈から「かの花盗むは・・・」と言ったのは、この人物らしい)が、
「それは、少納言はその桜をいち早く見つけて、『「露に濡れたる」と詠まれるのが、これでは恥ずかしい』と言っておりましたよ」
と申し上げますと、中宮さまがたいそう残念がっているのが、とても可笑しい。
(この部分、「清少納言が言った言葉を、中宮が聞けなくて残念がった」としましたが、「関白が折角の配慮を見られてしまったことが残念がった」という解釈もされているようです)


(その2へ続く)






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関白殿二月廿一日に・その2

2014-05-18 11:10:44 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
(その1からの続き)

さて、八日、九日の頃、私が里に下がるのを、中宮さまは、
「もう少し、当日近くになってからにしてはどうか」
と、仰せになられましたが、私は退出してしまいました。
たいそう、いつもよりのどかな日差しが差している昼ごろ、中宮さまから
「『花の心開け』ていないのか。どうなのか、どうなのか」
(白楽天の詩の中から「花心開、思君春日遅」の部分を引用して、「春もたけなわだから、私のことを恋しく思い出さないのか」と呼び掛けたもの)
との仰せ言がありましたので、
「『秋』は、まだ早うございますが、『夜に九度のぼる』気持ちが、しております」
(同じ詩の一部、「思君秋夜長、一夜魂九升」を引用して、「秋にはまだ早いですが、魂は毎夜九度お側に参っております」と答えたもの)
と、ご返事申し上げてもらいました。

中宮さまが内裏から二条の宮にお出になられました夜のことですが、車に乗る順序も決まっておらず、「われが先に、われが先に」と、女房たちが乗るために騒いでいるのが不愉快なので、私は気の合いそうな人と、
「どうも、この車に乗るありさまは、とても騒がしくて、祭りの還りの見物などのように、押し倒されそうなほどあわてふためくさまは、とても見苦しいわ」
「まあ、いいじゃないですか。乗れる車が見つからなくて、御前に上がれなければ、自然にお耳に達して、車を寄こして下さるでしょう」
などと、話し合って、私たちが立っている前を、他の人たちは押し合いながらあたふたと出て来て、その人たちが乗り終わったので、車の世話をしている役人が、
「これでおしまいですか」
と言うので、誰かが
「まだです。ここにいますよ」
と答えるので、役人は寄って来て、
「誰々がおいでですか」
と問いただして、
「どうも妙なことですねえ。『もう、皆様全員がお乗りになった』とばかり、思っていましたよ。あなた方は、どうして乗り遅れてしまったんです。あとは、得選(女官の中から特別に選ばれた者)を乗せようとしてたんですよ。呆れたもんですねえ」
などと、驚きながら、車を寄せさせるので、

「それでは、お先にどうぞ、あなたが乗せようと思っていらっしゃった人たちをお乗せ下さい。私たちはその後で結構」
と私たちが言うのを聞いて、
「とんでもない意地悪だったんですなあ」
などと言うので、仕方なく乗りました。その後に続くのは、いったとおり御厨子所の得選の車だったものですから、松明も全く暗い(女房たちに比べ警護が付いていないため)のを笑いながら、二条の宮に参着しました。

中宮さまの御輿は、とっくにお入りになっていて、御座所を整えて座にお着きになっておられました。
「少納言をここへ呼びなさい」
と仰せになられましたので、
「どこかしら」
「どこかしら」
と、右京、小左京などといった若い女房たちが待ち構えていて、車が到着するたびに見るのだか、いなかったらしい。
女房たちは車から降りた順に、四人ずつ、御前に参上して伺候するのに、
「変ねえ。いないのか。どういうわけか」
と、中宮さまが仰せになっていられることも知らず、女房たちがすっかり下りてしまってから、やっと私たちが見つけられて、
「あれほどお呼びになっておられるのに、こんなに遅く来るなんて」
と言って、引きたてられるようにして参上しますと、あたりは、「いつの間に、これほど長年の御住いのように、しっくりとおさまっていらっしゃるのか」と、感心しました。

「どういうわけで、これほど、『死んでしまったのか』と探させるほど、姿を見せなかったのか」
と仰せられますのに、新参間もない私は弁解も出来ないでいますと、一緒に車に乗っていた女房が、
「どうしようもなかったのでございます。一番あとの車に乗りました者が、どうして早く参上することが出来ましょう。これでも、得選たちが気の毒がって、車を譲って下さったのです。途中の暗かったのが、心細いことでございました」
と、情けなそうに申し上げますと、
「世話する役人が、ほんに気がきかぬようだ。それにしても、どうしてか。要領が分からない少納言なんかは遠慮もしよう。右衛門などは、役人を叱ればよいのに」
と仰せになられる。右衛門(出自未詳。古参の女房らしく、若干癖のある人物らしい)は、
「しかし、まさか人を押しのけて、走り出すわけにはまいりません」
などと言う。側にいる女房たちは、「憎らしい」と思って聞いていることでしょう。
「みっともないことをして、身分違いの先の車に乗ったって、偉いというわけでもあるまい。決められた通りに、優雅にふるまうのが、いいのであろう」
と仰せながらも、ご不興のご様子である。
「後の車に乗りますと、先がつかえて、下りますまでが待ち遠しく辛いからでございましょう」
と、右衛門はとりなし顔に申し上げる。

「一切経供養のために、明日法興院へ行啓なさるだろう」ということなので、私は、その前夜に参上しました。
南の院の北面に顔を出しますと、幾つもの高杯に火をともして、二人、三人、三・四人と、親しい女房同士集まって、屏風を立てて仕切りにしているものもあり、几帳なんかを仕切りにしたりしている。また、そうではなくて、多勢集まって、何枚かの衣装を綴じ重ね(着崩れしないように仮に縫い付けるらしい)、裳に飾りの腰ひもを刺し、化粧をする様子は、いまさら言うまでもないが、髪などとなれば、明日から先はないかのように、懸命に手入れをしています。
「寅の時(午前四時頃)にね、行啓なさるご予定らしいのよ。どうして、今まで参上なさらなかったの。使いの者に扇を持たせて、あなたをお探ししている人があったわ」
と、ある女房が私に告げました。

そういうことで、「本当に寅の時か」と思って、急いで身支度を整えて待っているのに、夜が明け果てて、日も出てしまいました。
「西の対の唐廂に車を寄せて、乗る予定だ」
というので、渡殿へ、女房たち全員が行くときに、私みたいなまだ不慣れな新参者たちは、いかにも遠慮がちな様子であるが、西の対には関白殿がお住いになっているので、中宮さまもそこにおいでになり、「まず、女房たちを関白殿が車にお乗せになられるのを御覧になられる」というので、御簾のうちに、中宮さま、淑景舎、三の君、四の君、関白夫人、その御妹三所(関白夫人の妹三人と思われるが、諸説あり)、ずらっと並んで立っておられる。

私たちが乗る車の左右には、大納言殿(伊周)、三位中将(伊周の同母弟、隆家)、二人して、簾をはね上げて、下の簾を左右にかき分けて、女房たちをお乗せになる。せめて一緒にかたまって乗るのであれば、少しは人陰に隠れることも出来ますが、四人ずつ、名簿の順に従って、「次は誰」「次は誰」と名を呼びあげて、お乗せ下さいますので、まことに思いがけなく、「晴れがましい」といった表現で及ぶものではありません。

御簾の内側で、多勢の方々の御目の中でも、中宮さまが、「見苦しい」とご覧になることくらい、それ以上に辛いことなどありません。冷や汗がふき出すので、精一杯整えた髪なども、「すっかり逆立っているのではないか」と感じてしまいます。
ようやく皆様方の前を通り過ぎたところ、車の側に、君達お二人が、凛々しくも美しい御姿をそろえて、微笑んでこちらを見ておられるのも、現実のこととは思えないほどです。
しかし、倒れもせず、車の所まで行き着いたのは、一体自分は、しっかり者なのか、図々しいのか、判断に迷ってしまいます。

全員が乗り終わったので、車を御門から引き出して、二条の大路に車を駐車させて、見物の車のようにして並べたのは、なかなかいいものでした。「まわりの人も、そう見ているに違いない」と、胸がはずみます。
中宮職や関白家の家司など、四位や五位や六位などの人たちが、たいへん多勢出入りして、私たちの車のもとに来て、車を整えたり、話しかけたりする中に、明順の朝臣(関白夫人の兄で、中宮大進であったので晴れの舞台であった)の心境は、鼻は高々で、胸をそっくりかえしている。

まず最初に、女院の御迎えに、関白殿をはじめとして、殿上人や地下人なども、みな参上しました。
「女院がこちらにお越しになってから、中宮さまはご出門される予定です」ということなので、「とても、待ち遠しい」と思っているうちに、日も高くなって、やっとお越しになる。
女院の御車を含めて十五台、そのうち四つは尼の車で、先頭の御車は唐車(屋根が唐風の高大な車で、儀式用の最高級車)であります。それに続くのは、尼の車。車の後先の簾から、水晶の数珠、薄墨色の裳や袈裟や衣が出ていて、尼の車らしく目立つが、簾は上げていない。下簾も、薄紫色で裾が少し濃くなっている。
次に、女房の車が十台。桜襲の唐衣、薄紫色の裳、濃い紅の衣、香染め、薄紫色の表着など、たいそう優美です。
日は、とてもうららかですが、空は青く霞みわたっているところに、女院の女房たちの装束が、色美しく映え合って、立派な織物やいろいろな色の唐衣などよりも、優美で結構なことは、この上ありません。

関白殿や、それ以下の殿方たちで、そこにおいでの方々全てが、お世話をしてこちらへお供申し上げている様子は、たいへんすばらしい。私たちは、この女院の行列をまず拝見して、ほめそやし大騒ぎです。
こちらの私たち中宮さまお付きの女房車が、二十台並んで停車しているのも、女院方の人たちも、同じように「結構なものだ」と見ていることでしょう。
「早く中宮さまがお出ましになればいいのに」と、お待ち申しあげているうちに、随分時間が経つ。
「どうなっているのだろう」と、落ち着かない気持ちでいると、やっとのことで、采女八人を馬に乗せて、御門の外へ引いて出る。青裾濃の裳、裙帯(クタイ・女官の正装の時、裳の左右に長く垂らした紐)、領巾(ヒレ・襟から肩にかけた細長い白布)などが、風に吹き流されているのが、とても風情があります。
豊前という采女は、典薬頭重雅が親しくしている女だったのです。葡萄染めの織物の指貫を着ているので、
「重雅は、禁色(キンジキ)を許されたらしい」(豊前は乗馬するため男装のような姿をしており、葡萄染めは、禁色の紫に似ているため、豊前を重雅に見立ててからかったもの)
などと、山の井の大納言殿(中宮の異母兄)がお笑いになられる。

全員が乗車を終えて、いよいよ、中宮さまの御輿がお出ましになられる。先ほどの「すばらしい」と、拝見いたしました女院のご様子とは、これはもう、比べようもないすばらしさでございました。
朝日が、華やかにさし上るころに、葱の花(ナギノハナ・御輿の屋根につけた金色の擬宝珠飾り)がたいへんくっきりと輝いて御輿の帷子(カタビラ)の色艶などの美しさも格別です。御綱を張って(揺れを防ぐため四方に綱が張られている)お出ましになられる。御輿の帷子がゆらゆらと揺れている様子は、まことに、「頭の毛も立ち上がる」(極度の緊張の表現)などと、人が言うのも、決して嘘ではありません。そんなことがあった後では、髪のくせの悪い人は困ってしまうことでしょう。
驚きやら、ご立派であられるやら、それにしても、「どうして、これほど尊い御前に親しくお仕えしているのか」と、自分までが偉くなったみたいに、思ってしまいます。
御輿が私たちの前をお通りになる時、私たちの車の轅(ナガエ・車体を牛につなぐ棒)を下していたのを(車ごと低頭させて敬意を表す)、いっせいに、それぞれの牛にどんどんかけて、御輿の後について動き出した時の気持ちは、すばらしく楽しいことときたら、言い表しようがありません。


(以下その3に続く)







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関白殿二月廿一日に・その3

2014-05-18 11:00:10 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
(その2からの続き)

積善寺にお着きになられましたところが、大門のそばで、高麗や唐土の音楽を奏して、獅子や狛犬が踊り舞い、乱声(ランジヤウ・笛、鉦、太鼓などの合奏)の音や鼓の声に、何が何だか分からなくなってしまいます。「これは、生きたままで仏の国などに、来てしまったのかしら」と、楽の音と共に天に昇っていくように感じました。
門内に入ってみると、いろいろな色の錦の幕を張った幄(アゲバリ・仮屋)に、御簾をたいへん青々とかけわたし、幔幕を引きまわしてある様子などは、何もかもすべて、とても「この世」のこととは感じられません。

中宮さまの御桟敷に、車を差し寄せますと、乗車の時の君達方(伊周と隆家)がお立ちになっていて、
「早く下りて下さい」
と、おっしゃいます。乗った所でさえ大変だったのに、ここはもう少し明るく丸見えなので、かもじを入れて整えてある私の髪も、唐衣の中でぶかぶかになり、みっともないことになっていることでしょう。その髪の色の、黒さ、赤ささえ見分けられそうなほど明るいのが、とてもやりきれなくて、急には下りられません。
「どうぞ、あとの方からお先に」
などと私が言いますと、その人も同じ思いなのか、
「お下がりくださいませ。もったいのうございます」
などと、大納言殿たちに言っている。
「恥ずかしがるものですね」
と、大納言殿はお笑いになり、お下がりになられたので、やっとの思いで下りますと、大納言殿たちは近寄られて、
「『むねたか(未詳。少納言が見られると都合が悪いと思う、と中宮が考えた人物らしい)などに見せないで、隠して下すように』と宮が仰せになるので来ましたのに、下がれとは察しの悪いことですね」
と大納言殿は、私を車から引き下して、連れて中宮さまのもとに参上なされる。
中宮さまが大納言殿に「そのように、お話になられたのか」と思うにつけても、大変もったいないことです。

中宮さまの御前に参上しますと、先に下りた女房たちが、よく見物できそうな端の所に、八人ばかり座っていました。中宮さまは、一尺余り、二尺くらいの長押の上においでになられる。
「私が衝立になって隠して連れて参りました」
と、大納言殿が中宮さまに申し上げますと、
「どうだったか」
と、御几帳のこちら側へお出ましになられた。まだ、御裳や御唐衣(天皇の母である女院に敬意を表して臣従の衣装をしていた)をお召しになったままでいられるのが、すばらしい。紅の御衣なども、(誰もが用いるが)決して平凡などというものではありません。中に、唐綾の柳襲の御袿、葡萄染の五重(イツヘ)がさねの織物に、赤色の御唐衣、地摺りの唐の薄絹に象眼を重ねてある御裳などをお召しになって、それぞれの色合いなどは、まったく一般の人とは比べようがありません。

「私の様子は、どう見える」
と、中宮さまが仰せられる。
「それはそれは、すばらしいものでございました」
などと申し上げるのも、口に出してしまうと、月並みになってしまいます。
「随分長く感じたであろう。そのわけは、大夫(ダイブ・藤原道長。この時、従二位権大納言兼中宮大夫で二十九歳)が、女院の御供の時に着て行って、皆に見られた同じ下襲を着たままでは、『皆がよろしくないと思うだろう』といって、別の下襲を縫わせになっていたらしいので、遅くなったらしい。随分おしゃれでいらっしゃるわね」
とおっしゃって、お笑いになられる。
そのご表情はとても明るくて、晴れがましい場所柄、いつもより今少し際立ってすばらしい。御額の髪をお上げになっている御かんざしのために、分け目の御髪が少し片寄っているのが、はっきりお見えになることまでが、申し上げようもなくすばらしい。

三尺の御几帳一双を突き合わせにして、私たちの方との仕切りにして、その後ろに、畳一枚を横長にして、畳の縁を端にして、長押の上に敷いて、中納言の君というのは、関白殿の御叔父の右兵衛督忠君と申し上げたお方の御娘、宰相の君は、富の小路の右大臣の御孫、そのお二人が、長押の上に坐ってご覧になるのを、中宮さまは、あたりを見渡されて、
「宰相は、向こうへ行って、女房たちの坐っているところで見よ」
と、仰せになられると、宰相の君は中宮さまの気持ちを察して、
「ここでも、三人坐って十分に見ることが出来ましょう」
と申し上げられますと、
「それでは、入りなさい」
と言って、中宮さまが私をお呼び上げになられるのを、下段に坐っている女房たちは、
「昇殿をゆるされる内舎人(ウドネリ・中務省の官人。意味がはっきりしないが、身分も高くない新参の清少納言が高い席に呼ばれたことをからかったものらしい)といったところね」
と笑うけれど、
「私が、童選(ワラハセン・殿上童の選技のことという説あるも若干無理があるが、この説では、公卿の子息が殿上に上ることもあると反論しており、ダジャレにもなっていて面白い)の内舎人とでもお思いでしたか」
と言いますと、
「馬の口取りをする方の内舎人だわ」
などと言うが、そこに上り坐って見ることが出来るのは、とても晴れがましい。

こんなことがあったなどと、自分から言い出すのは、自慢話になりますし、それ以上に、中宮さまの御為にも軽率なことで、「この程度の人物を、それほどご寵愛だったのか」などと、自身にも見識があり、世の中のことを批判したりする人は、興ざめに思われるかもしれないが(このあたり分かりにくい文章)、
畏れ多い中宮さまの御事に御迷惑が及んでは申し訳ないとは思いますが、事実は事実として、書き残すしかありますまい。
まことに、身の程に過ぎた御寵愛が、いろいろとございました。

女院の御桟敷、お偉方の御桟敷など見渡しますと、いずれもすばらしいご様子です。
関白殿は、中宮さまがいらっしゃる御前より、女院の御桟敷に参上なさって、しばらくしてから、またこちらにおいでになられています。大納言殿お二人が御供として、また三位の中将殿は警護の陣に詰めていらっしゃるままの格好で、弓箭を身につけて、いかにもお似合いのすばらしい姿で御供にいらっしゃいます。そのほかに、殿上人や地下の四位・五位の人々が、多数うち揃って、関白殿の御供として並んで座っています。

関白殿が中宮さまの御桟敷にお入りになられて拝見なさいますと、中宮さまのご姉妹は、御裳や御唐衣を、一番下の御匣殿までが着ておられる。関白殿の奥方は、裳の上に小袿を着ていらっしゃる。
「絵に描いたような美しい皆さんのお姿ですな。あとのひと方は、今日ばかりは、何とか同じように見えますなあ」
と、関白殿が申されます。
「三位の君(奥方のこと。中宮の女房に見立てている)、中宮さまの御裳をお脱がせなさい。この中の御主君は、中宮さまですぞ。御桟敷の前に近衛の衛兵を置いていらっしゃるのは、かりそめのことではありませんぞ」
と言って、感激のあまりお泣きになる。「ごもっともなこと」と拝見して、座の者皆涙が出そうなのを察して、関白殿は、私の赤色に桜の五重の衣を御覧になられて、
「法服が、一着不足していたので、慌てて大騒ぎしていたのだが、そなたが着ていたのだね、お返し願うべきだったんだな。そうでなければ、もしかして、そういうものを独り占めなさったのかな」
と、仰せになられますと、少し下がって坐っておられた大納言殿がお聞きになって、
「もともと、清僧都(清少納言を清僧都としたもの。僧都の法服は赤色)の法服なんですよ」
と、助け船を出して下さった。
皆さんのお言葉は、一言として、すばらしくないものなどありません。

僧都の君(中宮弟、隆円。この時十五歳)は、赤色の薄絹の御衣、紫の御袈裟、とても薄い紫のお召物何枚かに、指貫などをお召しになり、頭の恰好は青くてかわいらしくて、地蔵菩薩のようなお姿で、女房たちに混じって歩き回っているのが、とても可笑しい。
「僧官の中で、行儀よくしていらっしゃらないで、みっともないわ。女官の中に入ったりして」
などと、女房たちが笑う。

大納言殿の御桟敷から、松君(伊周の長子道雅、三歳)をこちらにお連れする。葡萄染の織物の直衣、濃い紅の綾の衵、紅梅の織物の指貫などを着ておられる。お供には、いつものように、家司の四位や五位の人がたいへん多い。
中宮さまの御桟敷で、女房の中にお抱き入れしますと、何が気に入らないのか、大声でお泣きになるのさえ、実に活気を感じさせます。

法会が始まって、一切経を蓮の造花の赤い花一つずつに入れて、僧、俗、上達部、殿上人、地下(四位、五位で昇殿を許されていない者)、六位、その他の者までが持って行列したのは、大層ありがたいことです。
導師が参って、行道が始まり、多勢の僧が読経しながら堂の周りを廻りなどする。一日中見ているので、目もだるくなり、疲れて苦しい。
勅使として、五位の蔵人が参上した。中宮さまの御桟敷の前に、胡床(アグラ・折りたたみの椅子)を立てて坐っている様子などは、全くすばらしい。

夕方頃、式部丞則理(シキブノジョウノリマサ)が参上されました。
「『法会がすめば、中宮は夜には参内なさるように。その御供をいたせ』と、仰せを承りまして」
と言って、帰参しょうともしない。中宮さまは、
「まず、二条の宮へ帰ってから」
と、おっしゃられるが、さらに、蔵人の弁(正五位下蔵人右少弁高階信順、中宮の叔父)が参上して、
関白殿にもその旨が伝えられましたので、ともかく、天皇の仰せ言に従うということで、中宮さまはここから直接宮中に参内されることになりました。

女院の御桟敷から、
「ちかの塩釜」(古歌の引用で、こんなに近くにいるのにお話も出来ませんね、の意。「みちのくの千賀の塩釜ちかながら 遥けくのみも思ほゆるかな」、他の歌とも)
などというお便りがやり取りされる。結構な贈り物などを、使者が持参して行き来しているのも、すばらしいご様子です。
法会が全て終わって、女院はお帰りになられる。院司や上達部などは、この度は、半分だけが御供申し上げたようです。

中宮さまが直接内裏にお入りになったことも気づかず、私たち女房の従者たちは「二条の宮へ行かれるだろう」と思って、そちらへ皆行っているので、いくら待っても私たちが姿を見せぬうちに、すっかり夜が更けてしまった。
内裏では、「夜着などを早く持ってくれば良いのに」と待っているのですが、従者たち全く音沙汰なしです。仕立てたばかりの晴れの衣装の体になじまない物を着たままで、寒くなるにつけて、あれこれ文句を言っても、そのかいもありません。
翌朝早く、やってきた従者たちに、
「どうして、こんなに気がきかないの」
などと言っても、従者たちの弁解も、もっともな言い分ではありますわね。

翌日、雨が降ったのを、関白殿は、
「この通りですよ。私の運の強いことがはっきりしましたよ。どんなものです」
と、中宮さまに申し上げられる得意げなご様子も、もっともなことでございます。
しかし、その時に、「すばらしい」と拝見いたしました御事も、現在の御身の上を見比べ申し上げますと、すべて、同じお方の身の上とは思えませんので、気が滅入ってしまい、まだまだたくさんあった事柄も、書くのはもうやめておきましょう。



少納言さまが出仕されて間もない頃の思い出です。
積善寺での一切経供養という大行事の様子が詳しく記されています。関白道隆の絶大な権力が伺えますし、少納言さまが新参でありながら中宮に寵愛されている様子が分かります。

ただ、最後の部分を見ますと、この長文の章段は、関白が亡くなり中関白家が凋落した後に書かれたことが分かり、切ない気がします。



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一歩一歩 ・ 心の花園 ( 58 )

2014-05-18 08:00:26 | 心の花園
          心の花園 ( 58 )  
               『 一歩一歩 』 

心の花園の山かげには、いまも「スミレ」が可憐な花を咲かせています。
深い紫色は、「菫色(スミレイロ)」とも呼ばれるように、その花色そのものが色の一つとして知られています。

『 山路きて なにやらゆかし すみれぐさ 』
これは、松尾芭蕉の俳句ですが、郊外の道野辺や山道などで野生の「スミレ」を見つけた時に、この俳句を思い浮かべる人も少なくないでしょう。
あるいは、宝塚のあの歌を口ずさんでしまう人もいるかもしれません。
「スミレ」から連想するものには差があるとしても、何か懐かしく、ほっとするようなものを感じさせてくれる花と言えるでしょう。 

「スミレ」の原産地については、わが国と紹介されているものが多いようですが、確かにその通りのなのですが、世界各地に同じような種類がそれぞれに原産地とされていて、その種類は数百種にものぼるそうです。
また、園芸店なのでは、パンジーやビオラが中心で、「スミレ」とされているものも改良が図られて、多くの花を咲かせたり、さまざまな色合いを見せているものが多いようです。野生にあった「スミレ」は、山野草として貴重品扱いされている場合さえ見受けられます。

「スミレ」の花色は、あくまでも菫色のものが中心ですが、白色のものもあります。
また、その花言葉は、「謙遜」「誠実」「深い思慮」といったものが紹介されていますが、いずれも可憐でつつましやかな花姿に似合ったものと言えるでしょう。
あわただしい日々のひと時、一鉢の「スミレ」など買い求めて、打算や思惑とは違う世界を感じてみてはいかがでしょうか。

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ちょっと一息 ・ 栄枯盛衰の渦中で

2014-05-17 11:00:53 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
       枕草子  ちょっと一息


栄枯盛衰の渦中で

前回の第二百六十段は、枕草子の中で最大級の長編でした。
清少納言が、中宮定子のもとに出仕して間もない頃の、栄華の絶頂期が描かれています。
同時に、この文章が書かれたのは、ずっと後のことで、かつての繁栄の時を偲びながら重い筆を進めたのでしょう。

清少納言が仕えた中宮定子の実家中関白家は、定子の父関白道隆逝去のあと急速に勢力を失い、藤原道長の時代へと移って行きました。後宮の中心も道長の娘彰子へと移り、定子は失意のうちに若くして亡くなります。
枕草子のそれぞれの章段は、自由奔放、思いつくがままに書かれているようにも見えますが、その背景には、藤原氏による凄まじい権力闘争の真っただ中に身を置いていたことも考慮しながら読みますと、章段によっては随分違う姿に見えるかもしれません。


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尊き言

2014-05-16 11:00:34 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百六十一段  尊き言

尊き言、
九条の錫杖(サクヂャウ)。
念仏の回向。


尊き言葉は、
九条の錫杖の経文。
念仏の回向文。



錫杖というのは、僧や修験者が持ち歩く頭部に金属の輪などが付いている杖のことですが、この章段は「尊き言」となっていますので、「九条の錫杖」という儀礼で唱えられる経文のことと思われます。
「念仏の回向」も、称名念仏の後に唱えられる回向文のことと思われます。
少納言さまの時代、神仏は非常に近しい関係にあり、それでいて時には激しく対立する関係であったと考えられますが、ここにあるように、仏教の影響は大変大きなものだったと考えられます。
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歌は風俗

2014-05-15 11:00:18 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百六十二段  歌は風俗

歌は、
風俗(フゾク)。中にも、杉立てる門(カド)。
神楽歌も、をかし。
今様歌は、長うて曲(クセ)づいたり。


歌謡は、
風俗歌。中でも、「杉立てる門」がいい。
神楽歌も、おもしろい。
今様歌は、長くて小節がきいています。



詩を朗詠したり和歌を声高く歌ったりする他に、それなりの節をつけて歌われるものも沢山あったようです。
風俗歌といわれるものは、諸国の民謡が中心のようですが、詩や古歌などの一部なども歌われていたようです。「杉立てる門」も、古今集にある和歌が歌謡になっていたようです。
少納言さまも、折につけ口ずさまれたのでしょうが、腕前の方はどの程度だったのでしょうか。
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