指先の記憶第四章終了時から数日後
タイトルなし
お花見前日の姫野邸です
*9/3を追加しました。
◇大塚瑠璃-おおつかるり-◇
付き合っていません。
そう言い切った後輩は個包装の和菓子をトレイに移動させている。
その隣に立つ中学からの友人は、左手で和菓子を食べていた。
1個目は一度に全てを口の中に放り込んで。
2個目は隣に立つ後輩に勧めて、彼女が半分ほどを口に含むのを見てから、残りを自分の口に入れる。
3個目に手を伸ばした時。
「弘先輩。これは明日の分です。無くなったら困ります。先輩の分は離れに置いていますから」
そう言って、その左手を濡らしたおしぼりで拭くのは、もう1人の後輩。
「食べ物を触った手で好美に触るのはやめてください」
そう言って、後輩は友人の左手の甲を軽く叩いた。
注意するとこ…そこなのか、と怪訝に思う。
右手を無視しちゃいけない気がする。
友人の右手は、隣に立つ後輩の腰に回されている。
その右手のほうが厄介だと思うのは、私だけだろうか?
後輩の姫野好美さんから花見のお誘いを受けたのは数日前。
手伝いに来た私は、目の前の光景に驚いている。
ベッタリと姫野さんから離れない小野寺君を見て、ようやく2人は付き合ったのだと、そう思った。
それなのに、付き合っていません、と彼女は言い切る。
彼女の兄である須賀康太君も、そうみたいです、と言いながら、自分の妹にベッタリとしている小野寺君を非難しない。
恥ずかしがって照れて、付き合っていないと言うのなら、別にそれでも良いけれど。
人の出入りが多い状況なのに…そう思ってしまった。
◇本多由佳-ほんだゆか-◇
付き合っていないよ。
幼馴染は、そう言った。
でも、付き合いたいんだよね?好きなんだよね?
そう問うと、彼は頷いた。
私は、それなりに彼を理解しているつもりだ。
だけど、好きな女の子に対して、彼がどんな行動に出るのかまでは分からない。
「弘君…場所、選んだほうが良いんじゃない?」
「姫野さんの部屋に2人で篭っても良いの?」
「いや…そうじゃなくって」
弘君は姫野さんの後頭部を撫でる。
姫野さんが訴えるように私を見た。
「あ、あのね。弘君」
小柄な姫野さんは、弘君の腕の中。
「弘君が私の家に遊びに来た最初の頃とか、驚いていたでしょ?私達日本人だし、そんなに密に接しなくても良いし」
私の両親は、2人とも教師だ。
私が小学生の時、父が派遣された学校は海外だった。
日本よりはスキンシップが少しだけ密…な程度の土地で、驚くことが多かったけれど、すぐに馴染んだ。
友達と久しぶりに会ったら、思わず抱擁したくなる…というのは、私にもある。
でも、対日本人だと、私も躊躇してしまう。
弘君は私の友人達とも会っていたし、おじさんに連れられて海外の展示会にも行っていたから、もしかすると…ちょっと感覚が変わってしまったのかもしれない。
「僕は住んでいたわけじゃないから、由佳みたいに、そんな習慣残っていないよ?」
それなら、やめなよ。
「向こうでの習慣って、挨拶の時とかだよね?今は違うし」
うん、だから、離れようよ。
弘君は、姫野さんの身体を自分へと引き寄せると、両手でテーブルの上に置かれている盃を手に取った。
絵付けに興味があるのは分かる。
明日の為に準備されている盃が、かなりの品物だということは、私にも分かる。
だから、和菓子をトレイに移した時のように片手だと不安だということも分かる。
でも、両手を使いたいからと、姫野さんを自分の前に座らせて、背もたれの役目をする必要はないと思う。
「弘先輩、チョコレートありましたよ」
須賀君が綺麗なパッケージの箱を手に、台所に入って来た。
「ここに置きますから。明日の菓子には、手をつけないでください。市川先輩に追加注文するのは、俺は嫌ですから。第一、あの人が配達に来るだけでも嫌なのに」
須賀君の批判は、なぜか前部長に移行している。
「食べる?」
弘君の目が私達を見た。
私は英樹と目を合わせて、二人揃って首を横に振る。
見覚えのあるパッケージだ。
こってりと甘いチョコだ。
美味しいチョコなのだと思う。
値段も高いし、綺麗だし。
好きな人が多いのも事実だ。
「私、ひとつ貰って良い?昔、お土産に貰ったことある。1個で充分かな…って感じだけど。こっちには売っていないし」
そう言って瑠璃は食べて、あー…やっぱり甘い、と呟いた。
◇松原英樹-まつばらひでき-◇
同じ中学に通っていた友人は、最近俺のことを邪険に扱う。
個人的に友人という関係になったのは中学に入学してからだが、小学生の時には彼の存在は知っていた。
父親の転勤で住んだ土地で同級生だった由佳の家に遊びに来ていた、彼女の幼馴染。
「英樹は触るの禁止」
弘はベタベタと姫野に触っているのに、俺が彼女にちょっとでも近付くと、敵意をむき出しにする。
付き合ってもいないのに、だ。
彼女でもないのに、だ。
康太が注意しなければいけないと俺は思う。
触るという行為自体、俺は弘がおかしいと思う。
確かに姫野は可愛い。
だけど、それは、がっちりと拘束したいかというと、そういうものではない。
子どもの頃、隣の家で飼っていた子犬は、俺に懐かなかった。
可愛いのに、撫でてあげたいのに、なぜかいつも飼い主の足の向こうから俺を見上げて怯えていた。
だけど、一度懐けば、あとは早かった。
散歩を任されることもあった。
その時に似ている。
いつからなのか、何がきっかけなのか。
夏休みが終わりに近付いた、あの日なのかもしれない。
「姫野さんも食べる?」
弘がそう言った時には、既に姫野の口にはチョコが少し強引に押し込まれていた。
嫌そうに姫野が目を閉じる。
しばらくして、口の中に広がった甘みに首を横に振った。
何か飲み物でもあれば良いが、残念なことに、姫野の前には空の盃と空の徳利のみ。
俺は立ち上がると冷蔵庫から冷やされた紅茶を出した。
それをコップに入れて姫野に差し出す。
だが、予想通り、伸ばされた姫野の手を弘は止めて、俺からコップを奪った。
「瑠璃ちゃん。お湯、入れて」
弘は俺を呼ばずに瑠璃を呼んだ。
冷えた紅茶に少しお湯を足して、適温にしたいようだった。
だが、姫野は苦しそうだった。
少しでも早く水分で口内を薄めるほうが良い。
「大丈夫か?」
問うと、弘の腕の中から俺を見上げて、ゆっくりと首を横に振る。
あの甘さが口内に広がっているのかと思うと、かわいそうだった。
瑠璃がお湯を足した紅茶のコップを、弘は姫野に渡すと、彼女はそれを両手で包み、ゆっくりと飲んでいく。
「はぁー…びっくりしました。凄い甘いですね。これ。ちょっと一瞬めまいがしました」
それは大げさな表現ではない。
このチョコは、本当に甘い。
「英樹。僕にも紅茶。冷えたままで良いよ」
…なんだ、これ?
なぜ、俺が指示されているんだ?
「自分でしろよ」
「動けないから」
動けないのは姫野で、弘は自由に動ける状態だ。
「姫野さんも、おかわりする?」
弘の言葉に姫野がコップをテーブルの上に置く。
俺は冷蔵庫から再び紅茶を取り出した。
◇大塚瑠璃◇
塾の時間だからと、松原君と由佳が帰った後、私は姫野さんと話していた。
私の両親は、彼女のことを、とても可愛がっている。
彼女の境遇に同情して…というのは、もちろん大きい。
だけど、世話を焼きたがる両親の好意を、彼女は全く拒まなかった。
彼女は人の好意を素直に受け入れる。
それが自然というか当たり前というか。
今みたいに、自分の家に多くの人が出入りしていても平気。
台所も冷蔵庫も、誰が何をしても平気。
家政婦さんに抵抗がないのが凄い。
甘えているとか頼っているのとは、ちょっと違う。
全てを整えられて、はいどうぞ、とされることに抵抗がないみたいだ。
慣れてきた、というのもあるかもしれないが、慣れすぎだ。
髪をまとめてもらうことに抵抗がない。
肌に化粧水を塗られても抵抗がない。
それは美容室やエステの存在もあるし、抵抗がない人も多いと思うし、響子さんは上手だし、それは立派な理由だと思うけれど。
人の気配が近くにあることや、人との距離が近いことに抵抗がないみたいだった。
小野寺君に拘束されることも、それほど抵抗がないような気がする。
でも彼を、響子さんや家政婦さんと同じだと考えるわけにはいかない。
気持ち良さそうに眠る小野寺君の腕の力は弱まらないみたいで、彼女は彼の腕の中にいる状態で私と話している。
だんだん、それが普通になってきているのも、怖いかもしれない。
「瑠璃ちゃん。ここにいたの?」
台所に姿を見せたのは杏依だった。
いつの間に来たのだろう、そう思ったけれど、この家は人の出入りが激しい。
だんだん、それも気にならなくなってきた。
「あ…ねぇ…好美ちゃん。そういうの…拒まなきゃ、ダメよ?」
杏依が大げさに溜息を出す。
「小野寺君。起きて」
夢の中の人を杏依は起こす。
「杏依ちゃん、いいよ。このままで」
姫野さんの言葉に、杏依の表情が厳しくなる。
珍しい、そう思った。
「良くないわ。お付き合いしていない、のよね?」
「そうだけど」
「晴己君と麗子さんは庭にいるし、そのうちにここに来るわ」
杏依は、とても耳が良い。
遠くの多くの人たちの声に混ざる目的の人の声に耳を澄ましている。
「見られちゃいけないのは当然だし、見られなきゃ良いって訳じゃないけど。ねぇ好美ちゃん。嫌じゃないって事は好きってことじゃないの?姫野のおじい様は小野寺君のことを気に入っているし、麗子さんも晴己君も反対しないわよ?」
杏依の言葉に姫野さんが首を傾げた。
「だって、今日…寒いから」
寒いから?
だから、密着してるの?
「弘先輩、温かいから」
その言葉を聞いて、杏依は食器棚からカップなどを取り出して紅茶の準備を始めた。
杏依は紅茶を三人分用意して、チョコをひとつ取ると、私の隣に座った。
昔の事を思い出した。
このチョコを食べながら、写真を見ながら、叔父の土産話にワクワクしていた。
今はどこにいるのか分からない、私の叔父。
フラフラと海外で写真を撮っている。
その叔父が日本に戻ると、たくさんの写真を見せてくれた。
叔父の膝の上で聞くのが、一番楽しかった。
向かい合った席に座っても、隣に座っても、視線の位置が違う。
今の姫野さん達のように座って写真を見せてもらって、頭上からは叔父の楽しい外国の話。
「瑠璃ちゃん。このチョコ。光雄ちゃんに貰ったことあるね」
「そうだね」
2人で同じことを思い出していたのが不思議だった。
「瑠璃ちゃん。いつも、ああやって光雄ちゃんの話、聞いていたよね」
「そうだったね」
「私は、絵本読んでもらったなぁ。お父さんに」
私は叔父。
杏依は父。
姫野さんは、ひとつ上の先輩。
同じように考えることは出来ないけれど。
「でも飽きちゃうよね」
杏依が笑う。
「そうだね。私も光雄ちゃんが戻った数日間は大騒ぎだけれど、そのうち飽きるんだよね」
「鬱陶しく感じる時もあるよね」
「そうそう」
勝手な私達の行動を、年上の彼らはちゃんと分かっていた。
たっぷりと甘えさせてくれて、たっぷりと我侭を聞いてくれた。
そういう存在、姫野さんには必要なのかもしれない。
でも、でもなぁー…。
小野寺君には、それは重荷じゃないのかなぁ?
眠る彼を見つめる姫野さんは幸せそうで、私は自分自身の恋愛の基準や基礎知識が分からなくなってしまった。
◇大塚瑠璃-おおつかるり-◇
杏依の膝を枕にして、須賀雅司君がお昼寝をしている。
最終確認に呼ばれた姫野さんに小野寺君は付いて行った。
絵の依頼を受けているから、その構図を決めるらしい。
絵を描く時間が必要だから、小野寺君がサッカー部を辞めたのは仕方がないと思う。
元々、あまり来ていなかったし。
姫野さんが休むと彼も休むことが多かったし。
「杏依のお母さん、忙しそうね」
「うん。張り切ってる」
最終確認と言われても、姫野さんは当時を知らないから、何も確認できないと困っていた。
準備は、新堂家、姫野家、桐島家、そして笹本家が分担しているみたいだ。
須賀君は少し記憶があるけれど、やはり姫野さんの家なのだから姫野さんが最終確認をしなくちゃいけないらしい。
「瑠璃ちゃんは塾じゃないの?」
眠くなってしまった雅司君と一緒に母屋の和室に残ったのは、私と杏依。
熟睡している雅司君を気にしながら、私達は小声で話す。
「私は今日は夜だけ。松原君達、時間数増やしたのよ。志望大学変更したから」
「あー…それって、康太君の影響?」
「そうみたい。後輩だと思っていた人が実は同じ年齢で、既に志望大学を決めていて、そのレベルが高い、となると、ちょっと焦る」
中学生の時から須賀君は勉強が出来た。
特に理系。
数学を教えてもらった杏依も、それを実感しているはずだ。
「晴己君から見せてもらったけれど、私は全然分からなかったわ。すっごい長い文章で。大学の費用だけでなく、それに関わる研究費用も援助して欲しいって姫野のおじい様にお願いしたみたいなの」
「今まで、須賀君は勉強が出来る程度にしか思っていなかったから、びっくりよ」
「康太君は好美ちゃんと雅司君のことしか考えていなかったから」
確実に収入が確かな生活を目指していたのだろう。
だけど、状況が変わった。
才能ある人物には金銭の援助を惜しまない人が身内にいる。
「姫野のおじい様ね、康太君には全く興味を持っていなかったの」
「興味って変じゃない?身内でしょ?」
「うーん…あの方の場合は、本当に興味だけで動くから。好美ちゃんは容子さん…亡くなった好美ちゃんのおばあ様にね、凄く似ているし、姫野の女性の典型的な顔らしいの。だから、ほんと、それだけで。おじい様にしたら、ずっと飾っておきたい眺めていたい…存在みたい」
「…ごめん、ちょっと理解できない」
「うん。変わった人だから心配していたけれど、好美ちゃんの行動が、おじい様には新鮮で楽しくて可愛くて仕方がないみたい」
杏依が笑う。
「でも、康太君は小野寺君のように絵を描いたり、私の父のようにピアノを弾いたり、じゃないでしょう?」
「で、興味がない、と」
「うん…それでも康太君なら姫野のおじい様の存在がなくても、この先大丈夫だろうって、晴己君も思っていたみたい。あ、ちなみに晴己君にも、あまり興味ないみたい」
「え?そうなの?」
「普通に優しい、その程度。テニスしていた時のほうが興味を持ってもらった、って言ってたわ」
「…大変だね、杏依。結婚って、ほんと…色々あるのね。杏依、大丈夫?」
「私は、お父さんがツボを押さえていて、適度に興味を持ってもらう術は教えてもらったから。毎月和菓子を持っていくのは私の役目なの。この役目、小野寺君には絶対に譲らないわ」
杏依の表情が真剣になる。
「あ、あとね。紅茶は凄く喜んでくれる。新しいもの珍しいものには興味を持ってくれるの」
「あー…なんだかちょっと分かってきたかも。だから須賀君、あの膨大な論文書き上げたの?研究したい内容に興味を持って貰えればって?」
「うん。で、見事成功みたい。そっち系の研究とか、そういう人、いないから。珍しい頭脳が身内にいるのが嬉しいみたい」
「頭脳、ねぇ。本気だなぁ須賀君。私も頑張らないと。まぁ、でも良いんじゃない?須賀君、自分の事よりも家族優先だし…自分自身の目標があるのは良いかも」
大変だっただろうな、と思う。
幼い弟と、事実を知らない妹。
「須賀君が最初から小野寺君との事を賛成していたのも、ちょっと分かったかも。姫野さんが頼れる相手が欲しいんだろうね」
「だと思う。でも、小野寺君…不安だけど」
「まぁ、未知数だもんね、彼。良く分からないし」
「ねぇ、瑠璃ちゃん。やっぱり、好き、なのかな?あの2人」
「だと思うよ」
答えると杏依が少し難しい顔をする。
「杏依は賛成じゃないの?」
「決めるのは本人だから、私は賛成とか反対とか、ないけど。大丈夫かな、とは思う」
「まぁねぇ、私も重荷じゃないかな、とは思うけど」
「やっぱり、成長しちゃうと難しいよね」
杏依の指が、優しく雅司君の髪を撫でる。
こうして杏依が少し重くなったと言いながらも雅司君に膝枕をしてあげられるのも、彼がまだ子どもだから。
「1年、だよね」
「え?」
杏依の呟きに、私は問う。
「1年でしょう?好美ちゃんが小野寺君と一緒に高校生活を楽しめるのは」
「そうだね」
「思い出、たくさんできると良いね」
杏依の言葉は、まるで2人の恋が1年で終わってしまうような、そんな風に聞こえた。
「そうだね。じゃ、私は2人のお手伝いでもしようかな」
杏依が不思議そうに私を見る。
泣いていたんだよ、そう言ったら杏依は分かってくれるだろうか?
姫野さんの周囲が普通とは違うというのを杏依は分かっているから、気持ちが複雑みたいだけれど。
でも、泣いていたんだよ。
弘先輩、大嫌い。
そう言いながら泣いていた彼女を、私は忘れることができないから。