りなりあ

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ありふれた日常 ―約束を抱いて 番外編―

2015-04-08 00:43:06 | 約束を抱いて 番外編

時期は、約束を抱いて第三章開始の前になります

◇橋元 優輝

「いただきます」
むつみの声がダイニングの空気を揺らす。
丁寧に両手を合わせて、にっこりと笑って。
「どうぞ」
答える母の声は凄く優しい。
食卓に女の子が居るだけで、どうしてこんなに雰囲気が変わるのだろう。
祖父も祖母も父も母も、そして兄も嬉しそうにしている。
食卓に並んでいるのは普段通りのメニューなのに、皆はたくさん食べるし会話も弾んでいる。
何を食べても美味しい美味しいと言う彼女を見ながら、 むつみの料理のほうが美味しいんじゃないのか?と素直に思ってしまうが、 さすがに母の前で言う訳にはいかずに心に留めた。
3年になったら受験生だから、きっと色々と変わってしまう。
だけど、こうして俺の家族と一緒に食事をするのは晴己さんは反対しないだろうし…反対されても、関係ない。
同級生は、映画に行ったとか、買い物に付き合わされたとか、なんだかフワフワした話しをしているけれど、俺達には無関係だ。
限られた時間で、出来るだけ会いたいと思ったら、こうしてお互いの家族を含む形になってしまう。
別に良いけれど。
不満があるって訳じゃないけれど、俺以外の誰かがいると、むつみはそっちを気にするし、そっちと話すし、そっちに視線を向ける。
これは美味しい、こっちはどうやって作るのとか、今度一緒に、とか。
祖父母は仕方がない。
むつみは、おじいちゃんとおばあちゃんという存在を知らないらしくて、俺のじぃちゃんとばぁちゃんで良いのなら、いつでもどれだけでも貸してやる。
父母も、仕方がない。
女の子は可愛いと言われてしまえば、男として産まれてしまった俺は納得するしかないし、確かにむつみは可愛い。
だけど、兄は不要だ。
以前は、むつみに対して冷たかったはずなのに。
俺も、冷たかったかもしれないけれど、俺の場合は色んな事情と感情があって、だ。
「あ、おい。優輝。それ、むつみちゃんの」
むつみの皿に残っていたトンカツを一切れ、奪うようにして食べた俺を兄が責める。
「ごちそうさま」
言ってむつみの腕を掴む。
「あ、あの…片付けは私が」
「いいのよ、むつみちゃん」
むつみと母の会話を無視する俺が歩けば、むつみも付いて来る。
「ごちそうさまでしたっ」
慌しく礼を言うのは、むつみは不本意だと思うけれど、気にしていられない。
片付けなど、手伝う必要はない。
なぜ俺が、母とむつみが並んで食器を洗う後姿を眺めなきゃいけないんだ?
「おなか、いっぱいになった?」
「はいっ」
「まったく…優輝は、揚げればあるのにねぇ」
溜息交じりの母の声を背中で聞きながら、隣の和室に移動する。
「無理して食べ過ぎ」
庭が見える位置に座ると、むつみも隣に座った。
「おいしかった、から」
残り一切れまで食べたむつみは、母に気を遣っているのだと、なぜ誰も気付かないんだ?
あんな量のトンカツ、むつみが全部食べると本気で思ったのだろうか?
「無理したら、また次回も無理しなきゃいけないだろ?」
「ご、めんなさい」
「別に俺、怒っているわけじゃないから」
「えっとね、でもね」
言い過ぎたかと思っていたら、むつみが口元を緩める。
「自分でも驚いちゃうくらい、いっぱい食べちゃったの。美味しかったのは本当よ。それにね」
そして、また口元が緩む。
「みんなで食べると美味しいね。なんだか食欲も凄くて、楽しくて」
確かに、俺の家族も普段よりは食欲旺盛だった。
むつみが無理をした訳ではなく、本当に楽しかったのなら、それで良いかと納得した直後。
「むつみ?」
和室は、まだ照明が消えたまま。
ダイニングと庭からの明かりだけが頼りの薄暗い空間。
その空間で、むつみの目元がキラリと光る。
「どうした?」
全く理由は思い当たらない。
「ごめんね・・・」
無理矢理に笑顔を向けるけれど、それが余計に悲しそうに見える。
むつみが涙を流す理由を知りたいと思う。
俺に何が出来るのか分からないし、何も出来ないかもしれない。
むつみの中には俺の知らないものがたくさんあって、今の俺には対処出来ない事が多いと思う。
彼女が頼るのは、晴己さんだ。
俺に話すより晴己さんに話すほうが解決できるに違いない。
認めたくないけれど認めなくてはいけない事実。
「むつみ」
だけど、きっとあるはずだ。
晴己さんには出来ない、俺にしか出来ない事。
「みんなうるさいもんなぁ。鬱陶しかった?」
首を横に振る。
「食べ過ぎで気持ち悪い?」
また、首を横に振ると、黒い髪がサラリと流れる。
「優輝君、私ね」
顔を背けられて、ちょっとショックだけれど、庭の照明が彼女の髪に艶を与える。
「羨ましいの」
小さな声。
「私、優輝君が羨ましい」
「え?」
時々、むつみの思考回路が俺には理解できない。
何がどうなってそういう考えが出てくるのだろうか?
「羨ましいって何が?」
俺が尋ねると、むつみは顔を上げて、濡れた瞳で俺を見た。
「こうやって家族と食事できるのって楽しいね」
泣きながら、だけど嬉しそうに笑う。
心から嬉しそうなんだけど、少し寂しさも見え隠れする。
俺にとっては日常だった。
祖父母と一緒に住むようになったのは最近だけど、それ以前も幼馴染の家族もクラブの仲間も。
大勢と食事を囲んで、争うように食べていた。
あたりまえで、ありふれた、普通の日常。
「いつでも来れば良いよ。俺が練習でいない時でも」
言いながら、家族にむつみを奪われるのが嫌だと思っているのに、訳の分からない事を言っている自分が、本当に分からない。
「ありがとう。でも、優輝君が一緒のほうが、もっと嬉しい」
「…かばん取ってくる」
無視したつもりは、全く無いけれど、むつみの言葉に何と返して良いのか分からない。
和室を暗いままにして、瑠璃さんが迎えに来たら帰れるようにと準備済みのかばんを取りに廊下から玄関へ向かう。
ダイニングの扉が、少し開いていた。
その隙間から、俺の家族が見える。
襖へと向かって折り重なるようにしている家族。
「あれ、優輝いなくなったぞ」
「ちょっと、涼。私にも見せてちょうだい」
「優輝は押しが弱いなぁ」
「そうだなぁ。ここでチャンス!って時じゃないのか?」
「涼とは似ても似つかないわね、あの子」
俺が既に後ろに立っている事に気付かないほど和室を覗くことに 夢中になっている家族に溜息が出る。
この家族が羨ましい?
俺にとってはプライバシーなんてものが全くないほど、密着しすぎた家族だけれど?
小さい時から、全員がしつこく俺に構う。
嬉しい時が多いけれど、一日に同じ事を何度も全員に聞かれたりするのはちょっと鬱陶しい時もある。
ついでに、何か飲み物を持って行こうと、冷蔵庫を開けた。
それに驚いたのか、全員が振り向く。
「きゃ!」
「うわぁ!」
皆が叫んで、和室へと襖と一緒に倒れる。
何をやってるんだ、この人達。
ダイニングと和室を仕切るものがなくなり、こちらの光がむつみまで届く。
驚いて振り向いた彼女が俺の家族の醜態を見て、笑った。
本当に楽しそうに。
「あーあ。派手にやっちゃったわねぇ」
母が言う。
呆れている俺とは正反対に、むつみは楽しいね、なんて言って笑っている。
何が楽しいのか、何が羨ましいのか、やっぱり分からない。
だけど、かなり不服だけれど。
むつみは、俺の家族といる時、楽しそうに笑う…みたいだ。


番外編 12・完

2015-04-07 19:06:17 | 指先の記憶 番外編

今回の話で、この番外編は終了です。
次話は、優輝視点の話になります。

耳と視覚に刺激を感じて、目が覚めるのが常だった。
目覚ましの音や、太陽の光。
起きてと私の体を揺らす弟。
だけど、今日は違った。
懐かしい感覚と、もう二度と戻らない朝の日常。
音も匂いも、それほど強く感じた訳ではないけれど、階下での人の動きが私を目覚めさせた。
夢の中にいるのかと、現実との境目が分からなかった。
祖母の作る朝食を食べることは二度と出来ない。
父と朝食を囲むことは、どれだけ望んでも実現しない。
家政婦さん達が準備してくれる朝食は、もちろん美味しい。
響子さんが、あれはダメ、これはダメ、と気にかけてくれるのは嬉しい。
「うそ…でしょ…6時前だよ…」
ベッドから飛び出して、ドアを開けて、階段を駆け下りる。
転がるように台所へと向かうと、お味噌の香りが広がっていた。
「朝から元気だな。静かにしろって何回言わせるんだよ」
久しぶりに聞く小言は、相変わらずだった。
「出来るまで寝てていいぞ」
「え…うん、大丈夫。おはよ…兄さん」
兄さんと呼ぶよりも須賀君と呼ぶほうが良かったのかもしれないと、最近は後悔している。
私にとって、目の前の人は兄というよりも、小煩い同級生の須賀君だ。
「おはよう。郵便物、置いてるぞ」
そう言うと兄は冷蔵庫前に戻り、野菜室を開けた。
先程の兄の視線を追い、私はテーブルの上に置かれたハガキを見つけた。
表には私の名前。
字体から、それが弘先輩の文字だと分かる。
そして裏には。
「なに…これ?」
一面が、淡いピンク色だった。
「さぁ?好美宛だから俺に分かる訳がないだろ。どうしてさ、俺の家に送るんだよ?わざわざ持って来なきゃいけないのに」
台所と和室を行き来する兄は、お茶碗を置いて、小皿を置いて、糠漬けに卵焼きに…食卓の上が賑わっていく。
「他にも英語の本とか絵本とかさ…誰が読むんだよ」
「…杏依ちゃん?」
「…そうだな」
昆布の佃煮を器に取り出しながら兄が私を見た。
2人で、ちょっとだけ笑って弘先輩に感謝する。
弘先輩が荷物を送ってくれると、兄は私宛の荷物を届けてくれる。
英語の本を雅司に読んであげたいと思ったら、杏依ちゃんに連絡を取れば良い。
離れていても私の事を想ってくれている弘先輩に会いたい気持ちは、どれだけ頑張っても消えてくれない。
一緒に行こうと松原先輩は言ってくれる。
そして、その誘いは日に日に激しくなる。
どうやら、封書を受け取っているらしい。
182cmの用紙に182項目の買い物リストが並んでいるらしい。
やっぱり、松原先輩が一番不憫かもしれない。
俺の身長と同じかよ!と憤慨していた。

◇◇◇

「英語?」
兄の問いに優輝が頷く。
「それ、俺じゃなく晴己さんが適任だろ?」
優輝は、人参が省かれたカレーを元気に食べる。
それを見た雅司が人参を食べるのを躊躇するから、私は首を横に振った。
「雅司。美味しいよ。人参」
「待て。おい。いや、人参は食べて良い。だが、ちょっと待て。朝のイタダキマスから、どれだけ食べ続けているんだよ。もう止めろ」
兄の声に、雅司が私を見る。
私達は、兄の料理を食べ続けている。
ひたすらに。
兄が作ったら食べ、なくなったら兄は作り、昼の材料も使ってしまって、明日用にと準備してくれていたカレーを昼に食べた。
そして姿を見せた優輝が、既に昼食は済ませていると言いながら、兄のカレーを食べ始め、雅司と私も優輝に続いている。
「そうだね…雅司、それ食べたら、ごちそうさましようか?」
「うん。そうだね」
そう言いながら、私達の目は、兄の手作り蒸しパンに釘付けだ。
「…で、優輝。晴己さんじゃなく俺?」
「試合とか、色んな契約とか生活面とか…もうちょっと自分1人で対応できるようになりたいから」
「だったら尚更、俺、実用面での英語、ほとんど経験ないから」
「じゃぁさ…誰か康太さんの友達とか」
「友達?だからさ、晴己さんは?」
優輝は残りのカレーを食べ、溜息を出す。
「晴己さんには頼みたくない」
「反抗期?」
「違いますっ!」
私の言葉に優輝が反論した。
「俺は、そんなに子どもじゃないですっ!」
「ほぉぉー…大人になったからかぁ」
「好美」
目の前に、兄が蒸しパンを置いた。
黙れ、ということみたいだ。
「優輝、適任者探しておくよ」
「やった。ありがとう!」
そう言って優輝は蒸しパンに手を伸ばそうとして、途中で止めた。
「雅司君。遊んでから蒸しパン食べようか」
伸ばした手で、そのまま雅司を抱える。
嬉しそうに喜ぶ雅司を見送って、私は蒸しパンに手を伸ばす。
だけど、兄の手で蒸しパンは遠ざかる。
「兄さん。適任者って?」
「松原先輩かな、やっぱり」
「そっか…じゃ、晴己お兄様に報告しなきゃ、だね」
「そうだな」
反対はしないと思う。
反抗期ではないかもしれないけれど、反発する気持ちがある優輝が晴己お兄様に頼ることを躊躇しているのを、晴己お兄様も分かっているだろう。
ただ、松原先輩と優輝を会わせる事に晴己お兄様が納得するか…それが気にはなる。
だけど、2人は先日のパーティで面識があるはずだし、私に松原先輩を勧める晴己お兄様なら、優輝に勉強を教える事を拒むとも思えない。
でも、事前に報告しなければ、色々と面倒になるのは目に見えている。
「留学…かな」
「だろうな」
また1人。
私の前からいなくなる。
だけど、それは彼の未来だ。

私は幸せだった。
心を閉める負の感情はあるけれど。
まだ、どうにか自分でコントロールが出来そうだった。
私の前から、多くの人がいなくなるけれど、それは未来への希望の為。
理由があって、私はちゃんとその理由を知っていて。
だから、私は応援したいし、理解をしたい。
弘先輩から届いたハガキは、意味不明な色が塗られているだけのハガキだけれど。
ハガキが届く限り、弘先輩は私の事を忘れていない。
優輝の試合を観に行って。
夏休みには、曾祖母の家に行く。
舞ちゃんの家族にも会える。
賢一君と明良君も一緒だ。
母も雅司も楽しみにしている。
杉山家の人達とは現地で合流予定だ。
初めてパスポートを使うのが、弘先輩に会いに行く為じゃないというのは、ちょっと残念だ。
正直ちょっと迷ったし、今もちょっと不本意だ。
だけど、杏依ちゃんから命令が下された。
甘いものリスト。
182cmじゃなかったけれど、結構長かった。
両親と配偶者に頼めば良いのに、彼らは買ってきてくれない、らしい。
純也さんは買ってくれそうだけれど、晴己お兄様と争うのが面倒なのだろう。

私の心の不安定を、多くの人が支えてくれている。
それは充分に分かっている。
甘えすぎてはいけないと分かっているけれど、今は頼らないと私は自分を保てない。
きっと、大丈夫。

そう思っていたのに。
たった一瞬で私は自分の心の安定を失ってしまった。

彼女が私の前に現れるまで。
私の心は生きていた、はずだった。


番外編 ―完―


番外編 11

2015-04-06 14:34:28 | 指先の記憶 番外編

一晩中降っていた雨が、葉の上で光っている。
窓から隣の家を見ると、朝の風に揺れるカーテン。
その部屋で眠る人達は、既に起床しているようだ。
見下ろすと、桜の木々の隙間から階段が見える。
その空間に現れては消えて、そしてまた姿を見せる人物が、階段を駆け上がっている。
空間と空間を移動する早さに、駆ける人物が誰なのか分かった。
「相変わらず元気だなぁ…」
溜息を吐き出して、そして背伸びをする。
着替えて髪を整えていると、階下から声が聞こえ始めた。
想像以上の早さに驚き、そして早朝から女性の家を訪問する図々しさに呆れながらも準備を終えて1階へと向かう。
既に家政婦さんが対応してくれていた。
玄関の向こうで、雅司を肩車しながらスクワットをしている中学生は、爽やかな笑顔。
額の汗がキラキラと朝日に輝いていて、あぁ若いなぁ、と思った。
今日は、ちゃんと両足で階段を上がってきたみたいだから、私の伝言は届いているみたい。
「おはようございます」
「おはよう よしみ」
「…おはよう雅司。優輝おはよう。どうしたの?」
離れを直接訪問するということは、私に用があるのだろう。
「兄から聞きました」
「そう」
「そうって…どうしてですか?」
「どうしてって、知らない。勝手に決まってた」
「勝手にって…にぃちゃんは誠実じゃないし、コロコロ気が変わるから、やめたほうが良いです」
私なんて1ダースだよ、って言ったら、優輝は嫌悪するかもしれない。
「お兄さんのこと嫌いなの?」
「兄弟だから、嫌いとかそういう問題じゃなく。にぃちゃんの女の人に対する考え方、俺は納得できないことばかりですから」
「そうだよねぇ。優輝は彼女一筋だものね」
眉間に皺を寄せて、優輝は私から目を逸らした。
「康太さんは知っていて、納得していますか?」
「あ…そうだね。どうなんだろう?どっかから聞いているかも?」
適当な私の答えに、優輝は呆れたように溜息を出した。
「康太さん、今度いつ戻りますか?」
「さぁ?いつかな?」
分からないから答える事が出来ない。
過干渉だった兄は、今では私に対して無関心に近いかもしれない。
無関心と感じるのは自分自身が悲しくなるから避けたい。
だから、出来るだけ関わらないようにしている、と表現するのが正しい…かもしれない。
「康太さん、忙しいですよね」
「そうみたいだね」
それだけが理由ではないと思うけれど、兄の大学生活が時間に追われる状況だというのは事実だった。
「急ぎの用事?」
「急ぎっていうか…この前のパーティ…勝海君の。康太さん来ているかと思っていたけれど。あ、そういえば、好美さんも来てなかった」
「だって私、勝海君に会っているもの」
結構、頻繁に。
あの母子、入り浸っているし。
「康太さんに会えるかと思って楽しみにしていたのに」
残念そうに言うけれど、そんな気持ちの余裕があったのだろうか?
先日のパーティでは、優輝も彼女に振り回されたはずだ。
もしかすると、余裕が出てきたのかもしれない。
テニスを再開して、彼女との関係が落ち着いてきたからなのかもしれない。
彼女を傷つけた存在が目の前から消えて、彼女が気にする存在が従弟だと分かって。
「今度、雅司が会いに行く時に一緒に行ったら?時間が合えば、だけど。優輝も忙しいでしょ?」
「いっしょに てにす しようよ」
「それは、いつでもOKですけれど。テニスでも遊びでも。だけど、俺…康太さんに」
優輝は、言葉を止めた。
困ったように私を見て、そして視線を逸らす。
そんな優輝は珍しい。
いつも真っ直ぐで、気持ちに正直なのに。
「連絡、しようか?」
私から兄に連絡をするのは控えているけれど、連絡して嫌がられるわけではないと…たぶん思う。
「お願いできますか?時間があれば、で…あ、でも、やっぱり康太さんしか頼めないかも」
なんだか切羽詰った感じだから、私は少し焦り始めた。
「大丈夫だよ。優輝。1人で悩まないほうが良いよ?話があるみたいだから連絡してあげて、って言っとくね?」
「はい。お願いします」
兄に連絡をする理由が出来て、ちょっと嬉しい気持ちと面倒だと思う気持ちと、妹が兄に連絡する事に理由など不要だと思う気持ちと…乱れる感情に自分自身が嫌になる。
混乱する私に反して、優輝の表情は柔らかくなる。
雅司を地面に降ろして、持参しているペットボトルを手に取った。
ゴクゴクと飲む姿は、去年から駅やテレビで観る姿と同じ。
同じだけれど、約半年で随分と成長している。
水分を摂取したことで、優輝の額に汗がキラキラと光る。
初めて会った時、とても真っ直ぐな瞳だった。
兄を見る時の瞳が、凄く輝いていた。
引越しの報告に来てくれた時は、早々に帰ってしまった。
次に来た時は、松葉杖。
暗い表情と、虚ろな瞳。
まるで別人のように変わってしまった。
「ぼくも のむ」
雅司が両手を優輝に向ける。
「ダメ。これは運動した後に飲むものだから」
そう言って、優輝は残りを飲み干した。
「じゃ ボトル ちょうだい」
「ボトル?」
空になったボトルを振って、優輝は私を見た。
「雅司。お茶入れようか?」
「うん」
嬉しそうに笑って、雅司は優輝からボトルを受け取ると、腕を伸ばした。
「ちょ…マジかよ」
項垂れた優輝に私は笑う。
「お気に入りだものね、雅司」
優輝のCMでの動きを、雅司は真似をしている。
あのCMは凄く爽やかで、結構評判が良いらしい。
「ねぇ、優輝もやってみて?」
「勘弁してください。俺、思い出すのも嫌なのに」
凄く嫌そうな表情を向けられて、だけどそんな素直な優輝の感情に私は安堵する。
「そう?格好良いよね雅司?」
「うん かっこいい!」
恥かしそうに視線を逸らす優輝に笑いそうになる私の前で、優輝は途端に表情を変えた。
「よしっ!だったら、もっと格好良い俺を見せてやる」
自分で言うなんて、なんて奴だと思う私の前で、優輝は雅司を抱き上げた。
視線が高くなって喜ぶ雅司が持つペットボトルが、太陽の光に輝く。
「次の試合、観に来てください」
もっと格好良い俺、期待できそうだ。
「やったね!雅司」
「うん!」
関係者席を確保できる…はずだ。
雅司が観戦したいと言っていると言えば、晴己お兄様も納得する…はずだ。
「にぃも!にぃも いっしょに!」
「そうだよね。兄も観に行くかどうか、聞かなきゃ」
「…マジで?」
「え?困る、の?」
「そうじゃ、なくて…康太さん来てくれたら…俺、マジでヤバイかも」
「え?何が?どうしたの?」
優輝の口元が変だった。
明るく笑う表情じゃなくて、ちょっと複雑そうな。
「すげー…嬉しいかも」
きっと、それは汗なのだと思う。
優輝の瞳が、キラッと少しだけ光った…気がした。
兄の幼少期を、私は知らない。
兄が、どの程度テニスをしていたのかを知らない。
だけど、優輝にとって、兄と過ごしたテニスの時間は、それなりに貴重な思い出なのだと彼の表情が語っている。
兄は私に子ども時代の事を語ってくれない。
私も聞かないし、他の人に教えて欲しいと頼むこともしていない。
だけど、優輝の存在が、私が知らない兄の子ども時代を教えてくれる。
「ちょっと待って、優輝。今から電話するから」
後でなど、待っていられない。
優輝が兄に会いたがっている。
兄の子ども時代が、それほど不幸ではなかったのだと私に思わせてくれる存在が、兄を待っている。
「え?こんな朝早くから?」
朝早くから私を訪問した本人が、何かを言っているが無視をした。
和室に入って仏壇にまだ挨拶をしていないことを思い出す。
「ごめんね。おばあちゃん、お父さん。優輝がさぁ、色々言うから」
適当な言い訳を言いながら、電話を手に取る。
呼び出し音の後、応答の声を聞く前に私は用件を口にする。
優輝が会いたいらしいよ。
言いながら玄関に戻って、優輝に子機を差し出す。
私の耳に届いたのは、兄が私の名前を発した音だけ。
それ以上を聞く余裕がなかった。
今、兄と話しをしてしまったら、私は余計な事を言いそうだ。
帰ってきて。
戻ってきて。
一緒にいて。
私は解放してあげることができない。
会話を終えた優輝が、子機を雅司の耳元に寄せる。
「にぃ おはよ」
雅司の耳には、優しい兄の声が届いているはずだ。
「優輝、大丈夫みたい?」
「はい。ありがとうございます。明日、早速ここで」
「そう。良かった。あ、優輝。練習は?」
「うわっ!そうだった」
「大丈夫間に合う?車、用意しようか?」
「走ったほうが速いです」
「そうだね」
優輝には、もう松葉杖は不要だ。
通話を終えた雅司が私に子機を差し出した。
切れていることを願ったが、受話器から私の名前を呼ぶ声。
『明日、優輝と14時に約束したから』
「はーい。あっ!雅司、階段ダメだからね。じゃぁね、兄さん、明日」
こっちは忙しいのよ、と兄に伝えて通話を終えた私は、とても卑怯な人間だ。
階段の上で、雅司と一緒に優輝を見送る。
眩しくて、輝いていた。
未来への希望に満ちている。
まるで太陽のようだと思った。
朝日が、輝きを増していた。