りなりあ

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約束を抱いて:番外編-幸せへの願いⅡ-2

2008-09-30 14:08:23 | 約束を抱いて 番外編

◇大江夫人◇

冷蔵庫から取り出した味噌を、私はテーブルに置いた。
カレンダーと時計を見て、時の経過の速さを実感する。
今日で、慎一君に朝食を用意するのは最後になるだろう。
桐島明良君から連絡を貰った時は驚いた。
慎一君を部屋まで送り届けた事を知らせてくれたのかと思ったが、慎一君が眠ってしまった事、不審な車が停車している事を報告された。
明朝、迎えに来て欲しい、そして慎一君を預かって欲しいと言われた。
明良君が関わってきた理由を知りたいと思うし、色々と気になる。
でも、“桐島”という名前が私を躊躇させる。
あちらの方が多くの情報を持っているのは確実だ。
「おはようございます。」
「おはよう。慎一君。」
制服姿の慎一君は、昨晩までと随分と印象が違う。
「アイロン、ありがとうございます。」
「写真撮影だから、ピシッとしなくちゃね。あら、慎一君。後ろ…ちょっと寝癖が。」
「え?」
既に準備を終えていた彼は、慌てて後頭部を触って、急いで2階に戻る。
昨夜、慎一君を斉藤家に迎えに行った時は、今後の事が心配だった。
でも写真撮影をしたいから制服にアイロンをかけて欲しいと慎一君に頼まれ、その彼は寝癖を残すほど、たっぷりと睡眠を取っている。
「おはよう。」
「おはよう。碧さんから食事に誘っていただいたわ。」
「…ようやく、か。僕は、このまま慎一君にいて貰いたいけどなぁ…。」
勝手な事を言う夫の言葉を無視をして、私は味噌を手に取った。
頂き物の手作り味噌を使うのは躊躇していた。
量が少ないから、という理由は、なんだか自分の心の狭さを表しているようで恥ずかしい。
慎一君の事を考えて、というと、嘘だと思われそうな気もするけれど、2つの気持ちがあるのは事実だった。
お味噌汁は地域や家庭で、随分と味が違う。
慎一君が美味しいと言ってくれるお味噌汁を、と考え、それなら斉藤先生や碧さんに質問すれば良いのだけれど、慎一君の事に触れるのは避けた方が良い気がして何も聞けなかった。
ただ、斉藤先生からは頻繁に質問を貰った。
慎一君は元気なのか、食欲は、など。
「今年の出来は、どうかしら?」
私は蓋を開けて、香りを確認する。
「その表情、満足気だね?」
夫も香りを確認して、彼の頬がゆるむ。
頂きモノの味噌の味を疑っていた訳ではない。
初めて作った時から毎回譲ってもらっているけれど、年々美味しく…というと、作った本人に怒られそうだ。
でも、実際に美味しくても、それが食べる人の好みに合うかどうか、というのは違う。
「具は、何?」
「お野菜タップリ。慎一君には栄養をとってもらわないと。食欲はあるけれど随分と栄養が偏っていたから。」
慎一君を預からなかった事を、悔んでいる。
桐島明良君に言われるまで放っておいた大人達。
“彼等”は、まだ中学生なのに。
「おはようございます。」
2階から降りて来た慎一君が、夫に朝の挨拶をする。
「おはよう慎一君。荷物は、また今度取りに来れば良いから。学校まで送っていこうか?」
「ありがとうございます。大丈夫です。ちょっと寄り道していきたいから。」
「寄り道?」
私はお碗をテーブルに置いた。
慎一君と夫が座り、私もお茶碗や他の小皿を置いて席に着く。
「うわぁー美味しそう。いただきます。」
「…どこに、寄るの?」
あまり質問をしてはいけないと分かっているけれど、どうしても気になってしまう。
「橋元先輩を迎えに。あ、斉藤先輩の彼氏です。先輩、毎朝トレーニングしているから、さっき会ってきて、今日は早い目に来て欲しいって言ってきたんですけど」
そういえば、慎一君の今朝の起床は早かった。
寝癖のまま、外に出たんだわ。
「なーんだか乗り気じゃない感じで。家まで迎えに行こうかと。」
慎一君は、どうしても“むつみちゃんの彼氏”に来て欲しいみたいだ。
「あっ!美味しい、このお味噌。」
今日に間に合って、良かった。
今日、会う人達の顔触れを想像して、そして、来れない人達の事も考える。
「良かったわ。慎一君が美味しいと言ってくれて。」
慎一君の言葉はお世辞ではない、と思う。
「手作り味噌なのよ。あ…そう言えば慎一君の先輩になるわね。」
今年の味噌は良い出来だと、早速伝えよう。
味噌の香りが、私の記憶を刺激していた。


約束を抱いて:番外編-幸せへの願いⅡ-1

2008-09-26 22:52:51 | 約束を抱いて 番外編

◇瑠璃◇

食器棚からお碗を取り出そうとして、コンロの前に戻った。
この数日は、1人分多いことを思い出して鍋の蓋を開けて水の量を確認する。
自分だけの朝食なら、朝からコンロの前に立つのは極力避けるけれど、2人以上となると、そうもいかない。
光雄ちゃんが戻ってきていると知った田舎の親戚が、ゴボウとソラマメを大量に送ってくれた。
さすがに我が家では食べきれないから、少し斉藤家に持って行こうと思っている。
ゴボウをダンボールから取り出して泥を落とそうと考え、そして時計を見た。
「うわっ。時間がないかも。」
冷蔵庫の中を見て、舞茸を見つけて、それを取り出す。
昨夜、碧さんから電話があった。
中学校まで送って欲しいというお願いで、むつみちゃんだけを送るのか、それとも三者面談とかあったっけ?そんな事を考えながら、時間を問うと、7時頃には中学校に到着したいと言われた。
予想外の時間の早さに驚いたが、恐縮している碧さんの声を聞くと、大事な用事のように感じた。
その時間なら私が大学に行く時間に影響がある訳でもないし、滅多に見ない朝の早い母校を訪れてみるのも楽しいかも、そう答えたら、明らかに受話器の向こうの碧さんがホッとして喜んだのが分かった。
テレビで見る綺麗な女優さんも、娘の事になると普通の母親になる。
当然のことだけど、私は星碧という人の私生活を見た事で、今まで自分が見てきたものだけが真実ではないのだと、改めて知った。
碧さんの事だけではなく、その他の色々な事も。
私の知らない真実は、とても多い。
「瑠璃。飯は?」
私を苛々とさせる声が耳に届く。
「おはよう。光雄ちゃん。」
「あぁ。」
あぁ、じゃないよ、あぁ、って?
日本を離れていたからって、朝の挨拶を忘れるかしら?
時差ぼけとか全くないみたいだし、いったい光雄ちゃんが日本に戻ったのは、いつ?
聞いても適当で曖昧な返事しかしてくれない光雄ちゃんに、今朝は問うのを諦めた。
「あ…ソラマメは?」
「時間がないから。ソラマメは夜。」
「えぇー…食べなきゃ、お礼の電話、できないだろ?」
自分で準備すれば、いいのに。
「きのこのお味噌汁だけど、いい?」
一応聞いてみる。
嫌だと言われても、変更など出来ないし、するつもりもないけれど。
「ん。」
短い答え。
「舞茸とか、えのきとか。あまり外国にないよね。久しぶり?」
「ん。」
味噌汁等の和食を食べたいと希望するけれど、それは“家庭の味”を希望している感じで、日本食が恋しいという訳ではなさそうだった。
いったい、いつから日本に戻っていたのか?
「なぁ、瑠璃。」
炊き立ての御飯と味噌汁。
斉藤家で働く家政婦の和枝さんが漬けたお漬物。
焼き魚とかあればベストな気がするけれど、今朝は時間がないから仕方がない。
「アルバイト料、とか出るのか?」
「えぇ?写真撮るだけだよ?いくら朝が早いからって。私がお世話になっている家だよ?それくらいサービスしてよ。」
信じられない。
職がない身だとはいえ、我が家で食べられるのに、金銭を求めるなんて。
私が出来る限りの感謝を込めて朝食を準備しているのに、それ以上を求めるなんて。
「そういう訳じゃなくて」
「いいから。早く。食べて。迎えに行かなきゃいけないの。」
車には、碧さんとむつみちゃん、そして碧さんの姉が乗る事になっている。
そして、“碧さんの姉の息子”とは、校門前で待ち合わせをしているらしい。
“碧さんの姉の息子”つまり、むつみちゃんの従弟という事になると思うけれど、4月からむつみちゃんの通う中学校に通っているらしい。
入学式の前に碧さんのお姉さんが入院してしまった為に、入学記念の写真を撮っていないらしく、お姉さんが退院したので、授業が始まる前の学校に行き、校門前で記念撮影をしたい、との事。
その従弟って、あの男の子だろうな、と思った。
スーパーで会った子は二年生だと言っていたし、新入生なら、あのピザの店の前で会った子。
むつみちゃんが、おにぎりとお味噌汁を作っていた子。

従弟だったのだと、なんだか安心した。
そして、それと同時に、従弟なら、なぜあんなに不自然な緊張をお互いに抱いていたのか不思議だと思った。
碧さんに質問したいな、とは思うけれど、それは家庭内の事情で、いくら斉藤家でアルバイトをしている私でも深く関わってはいけない、そう自分に言い聞かせた。
「いただきます。光雄ちゃんも早く食べてね。」
伯父を急かしてみるが、彼はノンビリとしていた。
気が進まない、というのが本心だろう。
斉藤家でアルバイトをしている事自体、光雄ちゃんは好ましく思っていない。
決して、光雄ちゃんに認めてもらう必要などないけれど、“杏依に頼まれた”という事実が嫌なのだろう。
小さい時、保育園に光雄ちゃんが迎えに来てくれた事がある。
でも私は、杏依の父親か母親が迎えに来るまで一緒に待っていた。
帰ろうと言う光雄ちゃんの言葉なんて関係なかった。
光雄ちゃんは困っていて、苛々としていた。
そして私が杏依と一緒にいるのが当たり前になっていくのを、光雄ちゃんは嫌がっていた。
杏依に頼まれると断れない私を、断れない周囲の人達を、光雄ちゃんは怪訝に思っていた。
そして、あの頃から状況が変わっていない事に、かなり呆れているようだ。
斉藤家でアルバイトまでしているのだから、どっぷりと巻き込まれているけれど。
でもね、光雄ちゃん。
「あ、瑠璃。美味い。この味噌汁。」
料理の腕は上達したから、得な事もあるのよ?
ダシの取り方も和枝さんが教えてくれたし、ダシにも色々あって複雑なのよ?
それに味噌にも、色々な種類があって。
「この味噌ね、後輩の手作りなの。あまり量がないのが残念だけど。」
光雄ちゃんは“手作り味噌”という言葉に驚いて、そして。
「美味いな。」
ホッとしたような穏やかな叔父の顔を、久しぶりに見た気がした。


指先の記憶‐50:第一章 完

2008-09-17 23:44:06 | 指先の記憶 第一章

雅司君が“よしみ”と呼んでも、私は返事をしないようにしている。
それが普通になると困るからだ。
「よしみ」
でも、彼は、その呼び方を変えるつもりはないようで。
「ふとった」
雅司君の言葉に須賀君が笑う。
「にぃ よしみ ふとった。」
そんな失礼な言葉を言う弟を須賀君は注意せず、面白そうに笑っている。
実際に太ってしまった私は、私の頬を指で引張る雅司君に抵抗しなかった。
教育上、良くない状況だと分かっているけれど、でも、小さな指の温かさが幸せを感じさせてくれていたからだ。
「姫野。条件のサン。」
「え?」
今、その話をするの?
幸せに浸っているのに、邪魔をされた気がした。
「サッカー部のマネージャー。」
「え?」
「中学の時みたいに断る理由はないだろ。既に先輩達に話してあるから。」
「どうして私?」
「由佳先輩も歓迎してくれたし。ほら、松原先輩目当てで入部されると困るから。姫野はファンクラブ会員だけど、そっちの方が都合が良いって。」
由佳先輩とは、最近、松原先輩の彼女になった人だ。
ファンクラブの皆は春休みの間、とても騒々しくて、偵察を頼まれている私にはマネージャーの位置は好都合なのかもしれない。
「じゃ、雅司。にぃちゃん行ってくるからな。」
とても、とても愛しそうに。
迎えに来てくれた保育士の人に雅司君を預けて、須賀君が私を見下ろした。
「これが条件のサン。分かった?」
「ちょ、ちょっと須賀君!分からないよ!」
「昨日話したら、さすがの姫野も眠れなくなると思ってさ。優しい俺の思いやりだよ。感謝しろ。」
足早に駅に向かう須賀君を追いかけた。

◇◇◇

入学式を終えた私は、金属のドアの前で深呼吸をした。
「姫野。開けるぞ。」
須賀君の顔は緊張していて、彼も深呼吸を繰り返す。
「既に話しているんだよね?どうして、そんなに緊張してるの?」
「そうだけど。」
「須賀君、意外と頼れない。」
今朝、マネージャーの話を聞いた時は驚いたけれど、暫く時間がたつと私の気持ちは随分と落ち着いていた。
高校では何かクラブをしたかったし、それが何かは決めていなかったけど、サッカー部のマネージャーというのも悪くはないと思った。
「じゃ、私が開けるね。」
金属のドアノブを掴もうとした時。
「康太?」
その声は、まるで桜の花びらのように、私の周りに落ちてきて。
振り向いた私に、今度は須賀君の声が届く。
「弘、先輩。」
名前を呼んだ須賀君の表情から緊張が消える。
「康太。入学おめでとう。」
「ありがとうございます。」
須賀君が、とても嬉しそうに微笑んだ。
弘先輩の視線が私へと動いて、固まってしまった。
時間が戻る。
悲しくて寂しくて、暗闇の中に1人でいた、あの日に。
「康太。」
その声は、とても久しぶりで、でも私の記憶にしっかりと残っている声。
「松原先輩…。」
呟いたのは、私だった。
「マネージャーしてくれる子?康太の彼女、だっけ?」
「「彼女じゃありません!」」
揃った私達の声に、松原先輩は少し驚いて、そして笑う。
同じような事が、前にもあったのを思い出す。
「あ…そう。まぁ、そんな事、どうでも良いけど。」
「良くないよ。松原先輩。」
須賀君が松原先輩を見て、そして2人の視線の高さが同じ事に驚いたのは、私だけではなかった。
「康太。随分と伸びたんだな?」
「はい。姫野は横に伸びましたけど。」
「須賀君!」
「先輩。勘違いされると困る。姫野の恋の明るい未来が閉ざされる。あまり恨まれたくないから。」
閉ざしているのは須賀君だよ?
弘先輩の前で太ったとか言わないで欲しい。
「姫野さん。」
背の高い須賀君と松原先輩を見上げる事に疲れた私の前に、弘先輩が体を屈めてくれた。
「姫野さん、ちょっと…動かないで。」
弘先輩の指が私の髪に触れる。
そして、指で摘んだ桜の花びらを私の手のひらの上に置いた。
「小野寺弘です。よろしく。」
「…よろしく…おねがいします。」
花びらが、私の手のひらから空へと舞った。

止っていた時が、動き出す。

                 ~指先の記憶‐50:第一章 完~


指先の記憶‐49

2008-09-16 09:53:22 | 指先の記憶 第一章

「条件?」
予想しなかった話の展開に、私は戸惑い不安になる。
「そんなに不安な顔をするなよ。俺は無理難題を押し付けるつもりはない。」
話しながら裁縫箱の中に針と糸を戻す。
「イチ。1人で」
「ちょっと待って!」
私の声に須賀君は少し驚いたようだった。
「イチって何?イチって?まさか数字?ニイとかサンとか言わないよね?」
「お?鋭い。みっつあるよ。」
「えぇ?変だよ。ズルイよ。卑怯だよ。」
「別に俺は構わないけど?自分の事は自分で、どうぞ。」
冷たい口調と視線に、私は須賀君の腕を掴んだ。
「と、とりあえず、聞いてみる。」
仕方ないな、そんな感じで須賀君が笑った。
「イチ。1人で悩まない事。」
「…え?」
「疑問に思う事や不思議に思った事、誰でも良いから相談しろ。その相手が俺で、俺が力になれるのなら嬉しいけれど、俺が姫野に嫌な思いをさせたり傷つけたり、悩ませる時が来るかもしれない。」
私は首を振った。
須賀君が私を傷つける事なんて、ないのに。
「仮定、だよ。もし、そういう時が来たら、カレンさんでも絵里さんでも。これから新しく出来る友達でも。誰でも良いから相談する事。香坂先輩とかさ。」
「うーん、杏依ちゃんに相談して、解決するかなぁ?」
なんとなく、彼女は悩みというものからは遠い位置にいる気がする。
でも、ずっと前に和菓子を選んで欲しいと言った彼女は、確かに悩んでいたかも。
「大丈夫だよ。」
須賀君は笑わなかった。
とても真剣な顔と声だった。
「香坂先輩が持っているカードは多いから。」
「え?」
「そのうち、分かるよ。新堂杏依は…未来を持っている。次はニイ。」
須賀君は立ち上がると、直してくれたスカートを私の椅子の背もたれにかけ、そして机の上に置いてくれた絵本を手に取った。
そして、座ったままの私に絵本を差し出す。
私は、少し戸惑いながら、その絵本を受け取った。
「自分の幸せは自分で護れ。」
色褪せた懐かしい絵本が、私の手の中に戻る。
「姫野は1人だから。誰の事も気にするな。考えるな。自分の幸せだけ考えて、亡くなった姫野の父親や、ばあちゃんに、いつでも今の自分の事を自信を持って報告できるように。姫野は自分だけの幸せを護れば、それでいいんだよ。」
とても、ゆっくりと、小さな子どもに聞かせるように、須賀君は話す。
「…貰ったのか?」
傷んでしまった本を撫でていた私の指は、裏表紙の下の方で止まった。
「覚えて…ないの。私の本だと思ってた。お父さんか、おばあちゃんが…買ってくれたと。」
私は始めて気付いた。
“ひめのよしみ”と、ひらがなで書かれているが、それはシールの上に書かれている事に。
私の名前を書き損じた家族の誰かが、改めて私の名前を書いた、というよりも、そこには別の人の名前が書かれているような気がした。
シールの下には、私以外の人の名前が書かれている。
「貰ったのかな?古本屋とか、バザーとか、譲ってもらったとか、かな?」
私はシールを剥がす事を戸惑った。
そして、私の名前が“大人の字”ではない気がした。
最近、ひらがなを絵を描くように画用紙に書く雅司君や舞ちゃんのように、子どもの字のようだった。
「姫野。明日の朝は早いし、夕食にしよう。」
「え?でも、サン、は?」
「それは明日。」
「え~?気になる。」
「大丈夫だよ。姫野は悩んで眠れないとか、有り得ないから。」
須賀君が私の手から絵本を取り、机の上に戻した。

◇◇◇


夕食は須賀君手作りのオムライスだった。
オムライスにケチャップで絵を描く彼を見ながら、彼が意外と幼いのか、それとも私が子ども扱いされているのか、ちょっと疑問だった。
朝は、須賀君に急かされながら準備をして、私達は施設へと向かった。
一緒に暮らす事をやめた須賀君は、雅司君の気持ちに対して、かなり敏感になっていた。
それでも施設を出る事にしたのだから、彼なりの理由があるのだろう。
「姫野。」
須賀君が私を呼ぶ声がする。
振り向いて、私は彼が雅司君と手を繋いでいるのを見た。
雅司君が私を見上げて、そして不思議そうな表情をする。
「おはよう。雅司君。」
「よしみ」
その呼び方は、あまり心地良くない。


指先の記憶‐48

2008-09-15 21:41:26 | 指先の記憶 第一章

「姫野。ばあちゃんに甘えて育ちすぎ。」
そんな言葉を私に言えるのは須賀君だけだと思う。
母の存在を知らず、父を亡くした私が祖母に甘える事を誰も責めなかった。
「ばあちゃんは、姫野に何も教えなかったのか?」
そんな訳ではない。
祖母は、いつか私が1人になることを分かっていたから、料理も掃除も色んな家事を私に教えてくれた。
だから、同級生に比べれば、私は家事一般は出来ると思う。
だって、実際に1人で住んでいるのだから。
でも、1人で生きていける器用さや強さを身につけるのは怖かった。
1人になる時が、必要以上に早くなりそうな気がして、目を背けたかった。
「教えて貰えば良かったな。もっと聞いておけば良かった。」
私は本棚の上に手を伸ばした。
「だって…私が知りたい事、知らない事、たくさんあるのに、もう…誰にも聞けないもん。」
母の事を、祖父の事を。
「あれ?」
背伸びをしてみても、上の棚には届かなくて、やっぱり私の身長は伸びていないことに気付く。
仕方なく、昔と同じように椅子の上に乗ろうとした。
「これ?」
須賀君の伸ばした手が、目的の場所に届く。
「…勝手に入ってこないでよ。須賀君。」
家には何度も来ていても、彼が私の個室に入るのは初めてだった。
「そんな事、どうでもいいから。この箱か?」
須賀君が箱を取り、私に渡してくれる。
箱を支えにしていた本が倒れそうになって、須賀君の手が、それを止めた。
「須賀君。その本も…取って。」
彼が私の勉強机の上に本を置いてくれ、私は箱の中から裁縫セットを取り出した。
「取るのが難しいところに、どうして置いてあるんだ?」
「うーん…おばあちゃんが亡くなる、ずっと前に、私の為に用意してくれたけれど、その時は、おばあちゃんは元気だったし、やっぱり自分でする機会はなくって。おばあちゃんの裁縫セットを借りたりしていたし。」
「ばあちゃんが亡くなってからは?一度もボタンは取れなかったのか?今回みたいに太ったから直す、じゃなくてさ。」
「…大江先生が…してくれてた。」
また、須賀君の大袈裟な溜息。
「…あのさぁ、須賀君。スカート脱がなきゃ直せないし…出て行って貰える?」
「別にいいけど。自分で出来るわけ?」
「…たぶん。」
「俺がやってやるよ。出て行くから、脱いだら渡せ。」
凄く面倒そうな口調で須賀君は言うと、部屋を出て行きドアを閉める。
私は急いで着替えて、廊下で待っている須賀君を呼んだ。
いつの間にか、彼の手には針と糸が準備されている。
私の部屋の床に座った須賀君が、スカートを手に取った。
私は彼の器用な手を見ていた。
「全く出来ない訳じゃないよな?」
確認するような須賀君の口調。
「…うん。まぁ一応。時間はかかるけど…。須賀君、早いね。」
やっぱり器用だな、そう思って彼の指先を見て、そして彼の横顔を見る。
殆ど毎日会っていて見慣れた顔なのに、彼は私と違って、とても大人に近付いているような気がした。
「姫野。」
「なに?」
「暇なら、俺の家の冷蔵庫から夕食持って来て。」
「え?」
「ずっと見ていないで、動け。他にも明日の準備もあるだろ。こうして直しているから、夕食も朝食も食べるだろ?」
須賀君は私を見ずに話し続け、そして針を動かす。
「食べないとか痩せるとか無理なダイエットとか、そんな事するなよ。」

どうして少し怒っているのか不思議だったけれど、私は嬉しかった。
見放されたと思っていた。
金銭的な事をカレンさんと話していた時に須賀君に言われた言葉がショックだった。
『姫野は自分で出来るよ。それに、しなくちゃいけないだろ?』
「あの…須賀君。」
今ならお願いしても、聞いてくれるかもしれない。
「お金の事…やっぱり、お願いしちゃ、ダメ?」
須賀君の指の動きが止まる。
私は須賀君の返事を聞くのが怖いと感じながら、彼の指先を見ていた。
「条件がある。」
「え?」
「姫野の要望を受け入れても良いけど、俺の条件を姫野が受け入れられるのなら。」
パチンと、須賀君がハサミで糸を切った。


指先の記憶‐47

2008-09-15 17:33:34 | 指先の記憶 第一章

杏依ちゃんの声は心地良かった。
絵本の内容を、文字の一つ一つを、記憶している。
この本を読んでくれた人達の声を、覚えている。
ただ…その声が、私の記憶に残る声が、本当に本人達の声なのかどうか、記憶が曖昧になってきていて、悲しくて寂しくて。
でも、過去を思い出すことへの抵抗を感じるよりも、幸福だった時が心に残っている事実が幸せだと感じた。
悲しい思い出とは別に存在する私の過去。
そこには私を愛してくれた人達が存在していて、確実に私は愛を感じていた。
あの日、祖母を亡くした日。
私は本を手に取る事が出来なかった。
弘先輩は私に譲ってくれたけれど、私には出来なかった。
大切な思い出を失くしたくない。
忘れたくない。
それを護っていけるのは、私だけなのに。
杏依ちゃんの声は、私に懐かしい思い出を運んでくれる。
そして過去だけではなく、彼女は私に未来を見せてくれるような、そんな気がした。

◇◇◇

「…ひめの…おい、姫野。」
心地良い眠りを邪魔する声に、私は目を開けた。
ボンヤリとした視界に須賀君を見つけて、そして周囲が暗い事に気付く。
「…あれ?」
「姫野。香坂先輩、帰ったぞ?あのさぁ…雅司でも、絵本を読んでもらっている最中には、最近は眠らないようになったぞ?」
「え…?」
少し重い体を起こして、キョロキョロとすると、窓の外は暗くなっていた。
「えー?私、眠っちゃったの?」
そして、途端にお腹が鳴る。
「あのさぁ、姫野。健康なのは良いけれど、大丈夫なのか?」
「な、にが?」
「なにが、って明日、入学式。」
「あ…そうだよね。でも、須賀君の部屋も酷い状態だよ?」
「俺、完璧に片付けるつもりはないけど?まだ荷物も届くし。明日の準備は既に終了しているし。今日の夕食も明日の朝食も冷蔵庫の中。」
須賀君が私を見て、そして、その視線が私の頭から足まで見たのを感じて、文句を言おうと思った時。
「姫野は?教科書は?鞄は、どうするんだ?それに。この春休みで太っただろ?制服、入るのか?」
ワンピースを着ていた私は、両手を腹部に当てて焦る気持ちが大きくなる。
「えぇっ!!そんな事ない、有り得ない!だって須賀君だってイッパイ食べてたじゃん!須賀君こそ、どうなの?須賀君も太ってるよ!制服入らないよ!」
「俺は上に伸びたから。」
暗闇の中でも須賀君が笑っているのが分かった。
「姫野は横に伸びたみたいだな。」
「須賀君!!」
立ち上がった私を須賀君の腕が止める。
「電気つけるから。足元気をつけろよ。」
その腕を払って、忠告を聞かなかった私は床に置いてある物に足を当ててしまう。
「姫野。食べていけば?腹、鳴っていたし。」
「いらない。太ったもん。食べない。明日の朝も食べない。」
「そんな事すると入学式で気分が悪くなるだろ?制服のサイズ、直せば?」
「大丈夫だもん。食べなきゃ平気だもん。スカート入るから!」
「ちょっとだけボタンの位置を変えればいいだろ?1週間くらいで元に戻るだろうし。」
「大丈夫だもん!」
「…とにかく、着てみれば?」
「…」
「ほら。姫野。」
軽く背中を押されて、私は廊下に出る。
廊下には電気がついていて、なんとなく振り向くのが嫌で、私は急ぎ足で隣の自宅へと戻った。

◇◇◇

「姫野?どう?」
私はドアの向こうから聞こえる須賀君の声に答えられず、鏡を見て溜息を出した。
返事をしない私の状況を、須賀君は分かっているはずだ。
須賀君の予想通り、新しい制服のスカートは、私のウエストを苦しめていた。
無理ではないけれど、決して快適ではない。
「姫野。」
「ちょ、ちょっと!須賀君、開けないでよ!」
突然開けられたドアに驚いていると、須賀君が残念そうな顔を私に向けた。
「姫野さぁ…女子高生として、ちょっとそれは悲しい状況だな。」
「放っておいて!」
「だから、直せよ。針と糸は?」
「…」
「まさか…ばあちゃんが亡くなってから、針と糸…使ってないのか?」
頷いた私に、須賀君の大きな溜息が聞こえた。


指先の記憶‐46

2008-09-13 00:29:05 | 指先の記憶 第一章

斉藤病院を訪問した日から、私の気持ちは予想以上に軽くなった。
高校合格の実感も大きくなり、新しい制服を試着して嬉しくなる。
教科書達は私の気持ちを少し不安にしたけれど、心強い“先生”が隣に住んでいるし、私は新生活が楽しみだった。
でも、入学式前日に須賀君の“新居”を訪問した私は、溜息を出した。
須賀君が施設から運んだ荷物は、それほど多くはなかったのに、新しい部屋は多くの荷物で溢れていたからだ。
「大丈夫?須賀君。カレンさんの荷物、隣の部屋に移動するって言ってたよね?」
「移動したよ。」
でも、段ボールが積み上げられている。
「じゃ、これ、須賀君の荷物?」
「そうだけど?配達で届いたから。」
「ふーん…。何?服、とか?」
問うと面倒そうにカッターを渡されて、どうやら私に開けろと言いたいようだった。
そこまでして中身を確認したくはないけれど、ひとつぐらい、そう思ってダンボールの蓋を閉じているテープをカッターで切る。
蓋を開けると、中には本が詰まっていた。
それは難しそうな本ばかりで、日本語じゃないものもあって、そして、新しいわけではないみたいだった。
「貰ったんだよ。」
「全部、本、なの?」
「だろうな。」
須賀君は私の問いに適当な感じで答えて、メジャーを取り出した。
「なに…測ってるの?」
「本棚、必要かな、と思って。でも、まぁ、いいか。あの家に返せば。姫野は?読む?」
読めないと思うし、読みたくないし。
でも、断ると小言を言われそうな気がして、私は何冊かの本を手に取った。
なるべく薄そうな本を探す。
「あれ?」
私は一冊の本を取り出した。
「須賀君。」
「なに?」
須賀君は床や窓のサイズを測る作業を続けていて、私を見てくれない。
「須賀君。これ…、私も持ってるよ?」
振り向いた須賀君に本を見せる。
「あぁ…それ?その程度なら、姫野でも読めるよな?」
読めるよ。
だって、絵本だから。
「この絵本って…本当は、こんなに綺麗なんだ。」
私が持っている絵本は、色褪せていて、少し黒ずんでいるのに。
「こんにちはー。」
階下から声が響いてくる。
「康太君、いる?好美ちゃんはー?」
「えぇ?杏依ちゃん?」
私は部屋を出て階段をおりた。
玄関のドアを開けると、杏依ちゃんが満面の笑顔で立っている。
「どうしたの?杏依ちゃん。」
「あのね。新婚旅行から帰ってきたの。好美ちゃんの家、お留守だったから、こっちかなぁと思って。」
「あー…そっか。そうだよね。杏依ちゃん結婚したんだよねぇ…。」
実感がない。
新婚旅行という言葉が、この人には似合わない。
「今ね、松原君の家に行ってきたの。そうしたら康太君が引越した事を聞いて。あぁ、そうだ。これ、預かってきたの松原君から。参考書だって。」
そして杏依ちゃんは、一冊の本を私へと差し出した。
「香坂先輩。どうぞ。」
いつの間にか1階におりて来ていた須賀君が、私の後ろから杏依ちゃんを誘う。
「おじゃましまーす。」
何の抵抗もなく、断ることもなく、杏依ちゃんは靴を脱いだ。
今みたいな感じで、彼女は松原先輩を訪問したのだろうか?
杏依ちゃんには繊細な複雑な感情など皆無な気がして、私は久しぶりに松原先輩を哀れんだ。
でも、そんな松原先輩にも変化が訪れていることは、既に私の耳に届いていた。

杏依ちゃんのお土産は、全てがタップリと甘そうだった。
実際に甘そうなチョコや、甘そうな土産話。
「好美ちゃん。その絵本、どうしたの?」
私は、ずっと絵本を抱えたままだった。
「えぇっと、あれ?どうしたの?これ?送ってもらった、だっけ?」
「それは俺の本。」
「ふーん…須賀君も読んでたんだ。」
杏依ちゃんに差し出すと、彼女はそっと表紙を指で撫でる。
彼女の指には、大きなダイヤモンドではなく、シンプルな指輪が存在を示している。
「ねぇ、好美ちゃん。読んでいい?」
「…読む、の?」
「だめ?」
この絵本を、誰かに読んでもらうのは凄く久しぶりで、そして懐かしくて嬉しくて、私は杏依ちゃんの隣に座った。


指先の記憶‐45

2008-09-10 23:28:44 | 指先の記憶 第一章

「絵里…さん。」
彼女が私の背中に隠れようとした。
そして、私は絵里さんを見つめたまま、だった。
「なに?2人とも。あのねぇ、むつみちゃん。仲直りしましょうって言ったでしょ?」
絵里さんが溜息を出す。
「好美ちゃんも、どうしたの?そんなに驚いた顔をして。」
絵里さんが前髪をかきあげた。
「…髪…束ねていないの?」
綺麗なウェーブが、綺麗に整えられていた。
「…おねえさん、絵里さんのこと、やっぱり…知っているの?」
彼女も絵里さんを知っていて、絵里さんは彼女の事を、むつみちゃん、と呼んでいた。
「お化粧もして、るの?」
普段以上に綺麗だった。
でも、少し…派手な感じがした。
「いつも、してるよ?絵里さん、お化粧。」
むつみちゃんが小声で私の耳に囁いた。
「早く立ちなさい。2人ともスカートが汚れるわよ。」
2度目の言葉に私達は立ちあがり、お互いにスカートに土がついていることを確認した。
「まったく…むつみちゃん、あなた次は6年生なのよ?」
絵里さんの声は、少し苛々としていた。
「家に送って行くから。飛行機は予定通り離陸したわ。」
「…はい。」
むつみちゃんが私より一歩前に出た。
「好美ちゃんも送って行くわ。康太君のお手伝いは?」
「はぁい…。」
むつみちゃんと比べると、緊張感のない声で私は返事をした。
そんな私を、むつみちゃんは不思議そうに見て、そして、1人の男性が歩いてくるのを見つけて、ホッとしたように表情を穏やかにした。
「むつみちゃん。」
その声が、誰かに“似ている”気がした。
「帰ろうか。送って行くよ。」
「うん!」
明らかに元気な声で、むつみちゃんが返事をした。
絵里さんに対する態度と全く違って、不思議に思う私の前に男性が立つ。
「はじめまして。」
私は彼を見上げて、とても背が高くて、少し首が痛くなった。
須賀君も、もっと身長が伸びたら、こんな風に差ができるのかもしれない。
「倉田直樹です。」
「…は、じめまして。」

彼が誰なのか分からず、私は絵里さんを見た。
「倉田直樹さん。私の婚約者。」
「えぇ!!」 
私の叫び声に、むつみちゃんが驚いた顔を向ける。
「おねえさん、直樹さんには…会った事がないの?」
ないはず。
知らない。
この人を。
「はじめまして、だよ。むつみちゃん。」
むつみちゃんは、倉田直樹さんと私を交互に見た。
そして首を傾げて何かを考えている。
「行こうか。先に、姫野好美さんの自宅で、いいのかな?」
「えぇ。お願いします。」
絵里さんの声は、いつもと違う。
「…姫野、好美さん?」
むつみちゃんが私を見た。
「さっきの事、内緒にしてね。」
彼女は絵里さんと直樹さんを気にしながら、私に小さな声で話す。
「今度」
彼女が私の前に小指を出した。
「会う時まで」
寂しそうだった彼女が微笑む。
「私が今日、話した事は誰にも言わないで。ねぇ、約束。」
私は、彼女の話の意味を全て理解出来なかったが、彼女の指に自分の指を絡めた。
「寂しいなんて思わないように、頑張るから。」
小指が離れる。
「見送りは行けなかったけれど、迎えには行くから。その時には、ちゃんと…旅行から帰ってきたら…お帰りなさい、と言えると思う。」
絵里さんと直樹さんが、少し離れた場所から私達を見ていた。
「旅行って、長いの?」
「来週には戻るみたい。学校が始まるし。」
「そう。」
「新婚旅行なの。」
彼女が私の前から動いて、直樹さんの隣に立った。
「行きましょう。好美ちゃん。」
絵里さんの声に促されて、私は歩き出す。
疑問に思うべきだった。
学校が始まる人が新婚旅行に行った事。
絵里さんの婚約者が私の名前を知っていた事。
彼の挨拶が“はじめまして”だった事を、むつみちゃんが不思議に思った事。
私が絵里さんの事を知っているのを“やっぱり”と表現した事。
今度会う時まで、まるで再会を確信しているような会話だった事。
それらを疑問に思うべきだった。
そして、私が誰に似ているのかを。
倉田直樹さんの声が、誰に似ているのかを。


指先の記憶‐44

2008-09-09 23:50:17 | 指先の記憶 第一章

中学校の校医を辞めた大江さんと、私は斉藤病院の近くの公園で待ち合わせた。
見覚えのある看護士さん達だけでなく研修医の人達も、私に合格を祝う言葉をくれた。
斉藤先生にも挨拶をした事で、私の中でひとつの区切りが出来た気がした。
大江さんにお礼を言って、私は1人で斉藤病院に残った。
用事が済んだのだから早く戻って須賀君の手伝いをした方が良いと分かっていたが、庭を見ていると春が来ている事を感じ、少しだけ散歩してみようと思った。
あの時の父と同じように、車椅子で庭の木々を眺める人。
祖母と同じように、ベンチに座って静かに目を閉じている人。
私は、桜の木を見上げた。

蕾が開き始めている。 
悲しい思い出が胸を締め付けるが、私は桜の木の下に立つ少女を見つけた。
桜の木を見上げて、眩しそうに空を見上げている。
そして、彼女の髪が風に揺れた。
「なにか、探しているの?」
ゆっくりと振り向いた彼女と視線の高さが変わらないことに驚いたのは、私だけではなかった。
「もうすぐ…咲きそうね。」
また、彼女が桜の木を見上げる。
そして、また私を見て、彼女はとても綺麗に微笑んだ。
「こんにちは。」
思い出してくれたのだろうか、私を。
それを問うのは、少し戸惑った。
「飛行機…見えるかな、と思って。」
「え?飛行機?」
もっと視界の広い場所に移動すれば良いのに、と思った。
桜の木の間からは、綺麗に空を見渡せないのに。
「探しているけれど、見つけたくないような、ちょっと…複雑な気持ち。」
この子が何歳になったのかを、考えてみた。
身長は私と変わらないし、表情は落ち着いているし、私のほうが年上だとは思えない。
「それに…飛行機から私が見えたら、困るから。」
「…え?」
その考えは、やっぱり私よりも年下、かな?
「あ、おねえさん。見えるわけないのに、って思ったでしょ?」
少し恥ずかしそうに彼女は笑う。
「だって、いつも…絶対に確実に、私を見つけるから。」
また、彼女は空を見上げた。
「見つかると、困るの?」
「うん…今日は、困る。嘘をついちゃった、から。」
彼女は桜の木に背中を向けると、ゆっくりと土の上に座った。
「本当はね、空港にお見送りに行く予定だったの。私も行きたかったの。それは本当よ?でもね、なんとなく、なんだか、行けなくって。別荘に行くって嘘をついちゃった。」
私は彼女の隣に並んで座った。
「家にいると、もし家に来ちゃうと困るし、病院までは来ないかな、と思って。」
そして、溜息。
「私も見送りに行かなかったわよ。」
彼女がとても驚いた顔を私に向けた。
「空港じゃないけど。東京駅だけどね。家が隣の人だから、家の前で見送ったけど、なんとなーく、駅とか空港とか、それだけで寂しくなるでしょ?」
「その人は遠くに行っちゃったの?旅行とかじゃなく?」
「うん。引越し。暫くは会えない、かな。小さい時から隣に住んでいた人だから。色んな事、両親の代わりに、おばあちゃんの代わりにしてくれた人だから。」
彼女が、とても真剣な眼差しを私に向けた。
「大切な人がいなくなったら…寂しいよね?引き止め、たの?」
私は首を傾げた。
「引き止めた事になるのかなぁ?私の気持ちなんて、全部お見通しだし。」
「…私と、同じだね。」
彼女の髪が、さらさらと揺れた。
「私…さよなら、してきたの。」
「え?」
「とても、とても…大好きで…でも…さよなら、してきたの。」
さよならの意味を私は図りかねた。
「その人とは、もう会えないの?」
問うと、彼女が首を横に振る。
「たぶん。今までと変わらずに会えると思う。でも、今までと同じじゃ、ないの。」
とても彼女は寂しそうだった。
彼女に何を言ってあげれば良いのか、私は悩んだ。
祖母が入院した時に、眠れない私に穏やかな睡眠を与えてくれた彼女に、あの時のお礼を何かしたいと思っても、分からなかった。
視線を落としている彼女を見ていた私は、気配を感じて視線を上げた。
そして、彼女も視線を上げる。
「「…あ」」
私達の声が重なる。
「何をしているの?こんな所に座って。あなた達、スカート汚れるわよ。」
絵里さんが私達を見下ろしていた。


指先の記憶‐43

2008-09-08 00:45:26 | 指先の記憶 第一章

「あのさぁ、少しは綺麗にしろよ。俺が使う2階の荷物は、そのまま?」
「私は自分の荷物の準備があるし。康太の判断で捨てて良いわよ。古い服とか鞄だし。着たければ、どうぞ。」
「女性物を俺が?」
「なら、好美ちゃんに。」
「姫野は、あんな派手でギラギラした不必要に肌を露出するような趣味の悪い服は着ない。」

「ちょっと、康太?趣味が悪いって、なによ?」
言い争う2人の会話を聞きながら、私は立っている2人を見上げた。
「…あの。」
私の小さな声に、2人は反応する。
「お掃除…手伝うよ?もし、気に入った服があれば貰ってもいいの?」
「もちろんよ。好美ちゃん。」
とても勝ち誇ったようにカレンさんが須賀君を見ている。
「でも、掃除は康太がするわ。だって自分が住む家だもの。好きなように自分で掃除すれば良いわ。」
カレンさんの笑顔に、私は余裕みたいなものを感じた。
「自分が、住む家?」
「そうよ。私は引越すけれど、あの家には康太が住むから。」
「へ…?」
キョトンとした目を、私はしていると思う。
カレンさんが私の前に座る。
「でも、やっぱり好美ちゃんにも時々は掃除をお願いしようかしら?康太は色々と器用だけど、やっぱり男1人だしね。」
「あ、あの?カレン、さん?」
「家を留守にするのは、やっぱり不安でしょ?康太には留守番をしてもらうことにしたの。」
カレンさんが、とても面白そうにクスクスと笑う。
「嫌だわ、好美ちゃん。凄く嬉しそう。さっきまで私には引越して欲しくないって顔をしていたのに。康太が隣に住む事、そんなに嬉しい?」
「そ、そんな事、ないけど…。」
視線を上げて須賀君を見ると、彼はカレンさんから渡された鍵を上に投げて、そして受け止めることを繰り返していた。
「須賀君。」
「何?」
須賀君はカレンさんの家の鍵で遊び続ける。
「隣に、住むの?」
「みたいだな。時々掃除でもすればいいか、って思っていたけど、それも面倒そうだし。そろそろ施設を出ても生活できるし。姫野でさえ1人で住んでいるのに、俺に住めない訳がない。雅司を引き取るのは無理だけど、毎日通えるし。母親の実家から高校に通うのは、ちょっと遠いし。」
色々な事を考えて、隣に住む事を選んだようだ。
「よろしく御近所さん。」
私は仏壇の前に置いてある座布団を須賀君に投げつけていた。
「何するんだよ。姫野。」
笑っている須賀君は、全然痛みなど感じていないみたいで。
「須賀君、早く帰れば?」
「はいはい。」
「明日の掃除なんて手伝わないから。」
「いいよ、別に。」
「と、隣に住んでも、美味しく出来た煮物も分けてあげないから。」
「いいよ。別に。でも、俺が作った料理は分けてあげるから。」
どこまでも余裕な笑みで、須賀君は私を見ている。
「帰れって言うのなら帰るけど。後片付け、1人でするのか?」
「…え?」
私はテーブルの上に並ぶ、使用後のお皿を見た。
「カレンさんは自分の荷物の準備があるし。俺も明日の朝は早いし。じゃ、よろしく。姫野。」
「ちょーっと待って!」
慌てて掴んだら、須賀君の服が少し伸びる。
「なに?姫野。」
上から見下ろされて。
やっぱり須賀君は私の気持ちなんて全て見透かしていて。
「えぇっと…明日、手伝うから、今日は…ここ。」
とても、とても、須賀君は満足そうに笑った。

◇◇◇

カレンさんは、小さな鞄だけで家を出た。
送ると言っていた荷物も、ダンボールが5箱だけ。
新しい家の家具や電化製品は既に同居人が準備しているからと言って、ちょっとそこまで、そんな感じで私と須賀君に手を振った。
「姫野は、今日は大江先生と会うんだろ?」
「うん。おばあちゃんがお世話になった先生に挨拶に。」
お礼と合格の報告を兼ねて、私は斉藤病院を訪問する事になっていた。
「俺は今日も荷物運ぶよ。」
須賀君は少しずつ荷物を運んでいる。
時々、私も手伝うけれど、大きな荷物など持てなくて、結局あまり戦力にはなっていない。
カレンさんが引越す事を知った日から、意外にも寂しさを感じる事はなかった。
カレンさんと須賀君と過す時間は普段以上に多くて、まるで家族のようで、私の心は満たされていた。