りなりあ

番外編 12 4/7 UP 
ありふれた日常 4/8 UP
ありふれた日常 5/30 UP

ありふれた日常 ―指先の記憶 番外編―

2015-05-30 16:25:08 | 指先の記憶 番外編

「いただきます」
手を合わせる動作は、とても優雅なのに、鶏のからあげを口に含む動きは素早い。
「おぃひぃ」
感想を述べる口は、左側が膨らんだままだ。
それなのに、箸は次の目的物を狙っている。
見た目からは想像できないが、隣に座る人が俺に負けないくらい食欲旺盛だと思い出した。
一緒に食事をした回数は、それほど多くない。
いただきますと手を合わせて食事をするというよりも、気付けばお互いに何かを食べていた、という感じだ。
俺は食事をする為に彼女の家に行く訳ではなくて、走るコースに最適だから行っているだけだ。
じぃちゃんがいるかもしれないから彼女の家に行くだけで、空腹だと発言した覚えは一度も、ない。
ただ、なんとなく美味しそうな匂いがするとか、じぃちゃんを待っている間とか、遠慮せずに食べた事は、ある。
「優輝、お茶」
「はい」
「あ、ちょっと温めて。お湯を少し追加して」
「はい」
「これ、あげる」
「…」
「食べなさい」
「…はい」
なんだろう。
どうして俺の皿に、ニンジンが移動して来るんだ?
それも、新鮮な生野菜の状態で。
そして、どうして俺は、この人に逆らえないのだろう?
細切りのニンジンを肉でグルグルと巻いて、味は無視して飲み込む。
そんな風に俺が戦っている間にも、食卓の上の料理は減っていく。
昼過ぎに、俺と一緒にカレー食べたよな?
その後、蒸しパン食べてたよな?
俺は蒸しパンは食べていない。
それなのに、運動をした訳でもないのに、俺以上に食べている人は、今も俺以上に食べている。
負ける訳にはいかないと、天ぷらに箸を伸ばすと、たまねぎだった。
なんだろう。
何だか、色々と納得できない。
「おばあちゃん、いわし美味しい!」
褒め言葉に祖母は喜び、冷蔵庫から浅漬けを出す。
塩加減がどうとか、優輝がたくさん食べるからとか、真剣に話し合っているように見えるけれど、彼女の箸の動きは止まらない。
1人で呑むと酒の量が増えてしまうから、一緒に呑もうと誘う祖父。
息子も孫も、あまり家では付き合ってくれないと、愚痴を言う祖父。
「おじいちゃん、私、まだ未成年だよ?」
祖父の愚痴を聞き流していた家族は、彼女の言葉に動きを止めた。
「私が20歳になったら、一緒に呑もうね。たぶん、私、お酒強いと思う!」
にっこり笑う笑顔は、自信満々だ。
だけど、俺の家族は表情を固めている。
兄を除いて。
兄は、会話に加わらず、笑いもせず、反応もせず、ただ食べ続けている。
「ちょ…ちょっと…涼。好美さんの年齢、ちゃんと理解していたの?」
「18歳だろ」
母の焦る声に、兄は面倒そうに答えた。
「好美さんは、大丈夫なの?」
母の問いに、彼女は首を傾げる。
「晴己お兄様が納得しているから、大丈夫だと思います」
晴己さんの名前だけで、全員が安堵した。
俺以外は。
やっぱり、色々と変だ。
面識などなかったはずなのに、なぜ、にぃちゃんが好美さんに結婚を申し込むのか。
晴己さんが納得するのも変だ。
むつみに関する事では、納得してくれない事ばかりなのに。
「私よりも…大丈夫ですか?優輝は?」
何を問われているのか分からず、とりあえず俺は天ぷらを皿に移動させる。
…シイタケ、かよ。
「優輝は私が、おねえさんになっても大丈夫なの?」
「は?おねえさん?」
「そうでしょ?義理のおねえさん」
確かに、そうなのかもしれないけれど、全く想像が出来ない。
だけど、質問には真剣に答えるべきだ。
そう思って、目を閉じてシイタケを噛んで飲み込んで、目を開けたら。
「うわーっ!可愛い!」
隣の和室で、好美さんは、じぃちゃんとばぁちゃんと話していた。
いつの間に食べ終えたのか。
いつの間に移動したのか。
俺への質問は何だったのか。
相変わらず良く分からない人だと思いながら、ライバルが消えた俺は改めて食事を再開した。
だが。
残っている天ぷらは、レンコンとか玉ねぎとかカボチャとか。
かきあげは、ニンジン独特の色が見え隠れしていて、その色は油で普通以上に光っていた。
「母さん、豚肉は?」
我が家の天ぷらには、絶対に豚肉がある。
俺はトンカツも美味しいと思うが、豚肉の天ぷらも美味しいと思う。
「あら?おばあちゃん、たくさん作っていたわよ?」
という事は。
「優輝、美味しかったよ。豚肉の天ぷら」
好美さんの声が和室から聞こえた。
俺の分を残さず食べてしまった客人を責める気力は、既に残っていない。
「優輝、天丼にする?」
母の声に、俺は兄を見た。
「にぃちゃん、もう食べない?」
「あぁ」
面倒そうに答える兄は、俺に視線を向けることなくビールを飲み続ける。
父は既に食後のお茶を飲みながら、和室を気にしている。
「母さん、かきあげ以外、全部天丼にして」
野菜ばかりだが、仕方がない。
ニンジン入りのかきあげは、却下だ。
食卓に残っている漬物も炒め物も煮物も、全て食べれば、どうにか空腹は満たされそうだ。
天丼が出来上がるのを待ちながら、俺よりも好美さんのほうが1日の食事量が多い気がして、なんだか色々と訳が分からなくなってくる。
そして、そんな俺の困惑は、和室からの泣き声に更に大きくなる。
「おばあちゃん達、好美さんのおばあ様と知り合いだったみたいよ」
母が俺の前に丼を置きながら言った。
近所だから当然かもしれない。
驚く事ではないかもしれない。
だけど、好美さんは初めてその事実を知ったようで、古いアルバムを見て泣いている。
そんな彼女を慰める祖母は、とても優しい表情をしていた。
そして、兄は何の反応も示さず、ずっとビールを飲み続けている。
俺は、天丼が冷めていくのを気にしながらも、初めて好美さんに会った日の事を思い出していた。
「うわぁー美味しそう。食べないの?冷めちゃうよ?」
体が、ビクっと震えた。
声の主を見て、思わず丼を横へと移動させた。
じーっと俺の天丼を見る瞳には、涙など残っていない。
この人、さっきまで泣いていたよな?
ずーっと俺の前で、食べ続けていたよな?
「好美さん。優輝が残したかきあげで良ければ、天丼出来るわよ?」
母の誘いに、好美さんはお願いしますと嬉しそうに答えた。

◇◇◇

玄関で、兄と並んで好美さんを見送る俺は、理解に苦しんでいる。
俺が残したかきあげ。
母の言葉は間違っている。
今日の夕食は、好美さんが残したものを俺が食べた。
と表現するのが正しい。
不満は感じているが、空腹は感じていない。
俺の家族は、凄く嬉しそうにしていたから、まぁ…良いかな、とは思っている。
だが、兄の態度は気に入らない。
車が迎えに来ているからとか、玄関のドアの向こうで運転手さんが待っているとか、そんな事実は別にして兄は好美さんを車まで見送るべきだ。
俺と一緒に玄関に並んで、缶ビール片手に、面倒そうな顔をしているのは、絶対に変だ。
「ごちそうさま。すっごく美味しかった。ありがとう」
好美さんの視線は、俺に向いている。
婚約者である兄を見るのではなく、俺を見ている。
兄を見上げるのは、身長差があり過ぎて疲れるのかもしれない。
そう思いながら兄を見上げた。
俺の視線に気付いた兄が俺を見下ろして、そして、またビールを飲む。
そして、また、俺を見下ろした。
「背、伸びた?」
兄の問いに、俺は何度も頷いた。
身長が伸びているのは、ちゃんと実感していたけれど、こうして兄と並んで立つと改めて確認する事が出来た。
小さい頃から何度も、兄と身長を比べていた。
年齢差が大きくて比べるという言葉は正確ではないかもしれない。
俺の身長が伸びれば、兄も成長していた。
追い付くことなど出来ず、見上げるだけだった存在が、正しく俺の身長を測れる物体へと変化したのは数年前。
若干の伸びはあるかもしれないが、最近は俺のほうが伸びが大きい。
背伸びすれば、兄の肩を上から見る事が出来そうだ。
髪をクシャクシャに撫でられて子ども扱いされていても、今は嬉しい。
若干、酒臭い気もするが、今は我慢できる。
「涼さん」
その声に、好美さんの存在を思い出した俺は飛び跳ねそうな勢いだった体を落ち着かせた。
「涼さん」
2度目の呼びかけに、兄が俺の頭上から手を放した。
俺達兄弟は、先程のように好美さんに向き直った。
「私、時々可愛くなる弟は欲しいかも」
好美さんの言葉に、俺は首を傾げる。
時々可愛いだけでなく、可愛い盛りの弟が実際に存在しているのに。
「楽しかったから、また来ますね。涼さんが留守の時に」
その言葉にも、俺は首を傾げた。
ドアが開いて、外の空気が入ってきた。
少しずつ夏が近付いて来ているのを感じる、少し重そうな空気だった。
だけど。
空気が軽く、舞った様な気がした。
舞い上がった空気が、淡く、白く、そして光る。
ゆらりと、彼女の髪が動いた。
静かな音で閉まるドアを見て、俺は腹を撫でる。
「…もうちょっと、何か食べようかなぁ」
どうしてだろうなぁ。
凄い食欲だよなぁ、あの人。
また来るって言ってたけれど、俺の食べる分、残るのだろうか?
そんな事を考えながら、兄を見上げた。
「わっ!にぃちゃん、どうしたんだよ!ビール!」
缶からビールが零れている。
それだけではなく、ビールは兄の首元を、上着を濡らし、そして床まで流れていた。
「ったく。何してるんだよ?」
俺は、とりあえず兄の手からビールの缶を取り上げて、床に置いた。
「もしかして、好美さんに見惚れていたとか?」
何を思ったのか、兄が床に置かれている缶を蹴った。
少しだけ残っていた中身が、再び床に流れる。
「にぃちゃん!」
見上げると、兄は呆然とした表情で玄関のドアを見ていた。
「優輝」
「なんだよっ…ばぁちゃん、タオル持って来て!」
動かない兄は頼れないから、台所にいる祖母に助けを求めた。
「今…桜が」
「はぁ?何、言ってんだよ?」
桜の季節は、既に終わっている。
「桜が…咲いてた」
緩慢な動きで、兄がドアを指差した。
当たり前だが、桜と表現できるものなど、何もない。
酔っ払いの相手は面倒だと思いながら、俺は祖母が持って来てくれたタオルで床を拭いた。


ありふれた日常 ―約束を抱いて 番外編―

2015-04-08 00:43:06 | 約束を抱いて 番外編

時期は、約束を抱いて第三章開始の前になります

◇橋元 優輝

「いただきます」
むつみの声がダイニングの空気を揺らす。
丁寧に両手を合わせて、にっこりと笑って。
「どうぞ」
答える母の声は凄く優しい。
食卓に女の子が居るだけで、どうしてこんなに雰囲気が変わるのだろう。
祖父も祖母も父も母も、そして兄も嬉しそうにしている。
食卓に並んでいるのは普段通りのメニューなのに、皆はたくさん食べるし会話も弾んでいる。
何を食べても美味しい美味しいと言う彼女を見ながら、 むつみの料理のほうが美味しいんじゃないのか?と素直に思ってしまうが、 さすがに母の前で言う訳にはいかずに心に留めた。
3年になったら受験生だから、きっと色々と変わってしまう。
だけど、こうして俺の家族と一緒に食事をするのは晴己さんは反対しないだろうし…反対されても、関係ない。
同級生は、映画に行ったとか、買い物に付き合わされたとか、なんだかフワフワした話しをしているけれど、俺達には無関係だ。
限られた時間で、出来るだけ会いたいと思ったら、こうしてお互いの家族を含む形になってしまう。
別に良いけれど。
不満があるって訳じゃないけれど、俺以外の誰かがいると、むつみはそっちを気にするし、そっちと話すし、そっちに視線を向ける。
これは美味しい、こっちはどうやって作るのとか、今度一緒に、とか。
祖父母は仕方がない。
むつみは、おじいちゃんとおばあちゃんという存在を知らないらしくて、俺のじぃちゃんとばぁちゃんで良いのなら、いつでもどれだけでも貸してやる。
父母も、仕方がない。
女の子は可愛いと言われてしまえば、男として産まれてしまった俺は納得するしかないし、確かにむつみは可愛い。
だけど、兄は不要だ。
以前は、むつみに対して冷たかったはずなのに。
俺も、冷たかったかもしれないけれど、俺の場合は色んな事情と感情があって、だ。
「あ、おい。優輝。それ、むつみちゃんの」
むつみの皿に残っていたトンカツを一切れ、奪うようにして食べた俺を兄が責める。
「ごちそうさま」
言ってむつみの腕を掴む。
「あ、あの…片付けは私が」
「いいのよ、むつみちゃん」
むつみと母の会話を無視する俺が歩けば、むつみも付いて来る。
「ごちそうさまでしたっ」
慌しく礼を言うのは、むつみは不本意だと思うけれど、気にしていられない。
片付けなど、手伝う必要はない。
なぜ俺が、母とむつみが並んで食器を洗う後姿を眺めなきゃいけないんだ?
「おなか、いっぱいになった?」
「はいっ」
「まったく…優輝は、揚げればあるのにねぇ」
溜息交じりの母の声を背中で聞きながら、隣の和室に移動する。
「無理して食べ過ぎ」
庭が見える位置に座ると、むつみも隣に座った。
「おいしかった、から」
残り一切れまで食べたむつみは、母に気を遣っているのだと、なぜ誰も気付かないんだ?
あんな量のトンカツ、むつみが全部食べると本気で思ったのだろうか?
「無理したら、また次回も無理しなきゃいけないだろ?」
「ご、めんなさい」
「別に俺、怒っているわけじゃないから」
「えっとね、でもね」
言い過ぎたかと思っていたら、むつみが口元を緩める。
「自分でも驚いちゃうくらい、いっぱい食べちゃったの。美味しかったのは本当よ。それにね」
そして、また口元が緩む。
「みんなで食べると美味しいね。なんだか食欲も凄くて、楽しくて」
確かに、俺の家族も普段よりは食欲旺盛だった。
むつみが無理をした訳ではなく、本当に楽しかったのなら、それで良いかと納得した直後。
「むつみ?」
和室は、まだ照明が消えたまま。
ダイニングと庭からの明かりだけが頼りの薄暗い空間。
その空間で、むつみの目元がキラリと光る。
「どうした?」
全く理由は思い当たらない。
「ごめんね・・・」
無理矢理に笑顔を向けるけれど、それが余計に悲しそうに見える。
むつみが涙を流す理由を知りたいと思う。
俺に何が出来るのか分からないし、何も出来ないかもしれない。
むつみの中には俺の知らないものがたくさんあって、今の俺には対処出来ない事が多いと思う。
彼女が頼るのは、晴己さんだ。
俺に話すより晴己さんに話すほうが解決できるに違いない。
認めたくないけれど認めなくてはいけない事実。
「むつみ」
だけど、きっとあるはずだ。
晴己さんには出来ない、俺にしか出来ない事。
「みんなうるさいもんなぁ。鬱陶しかった?」
首を横に振る。
「食べ過ぎで気持ち悪い?」
また、首を横に振ると、黒い髪がサラリと流れる。
「優輝君、私ね」
顔を背けられて、ちょっとショックだけれど、庭の照明が彼女の髪に艶を与える。
「羨ましいの」
小さな声。
「私、優輝君が羨ましい」
「え?」
時々、むつみの思考回路が俺には理解できない。
何がどうなってそういう考えが出てくるのだろうか?
「羨ましいって何が?」
俺が尋ねると、むつみは顔を上げて、濡れた瞳で俺を見た。
「こうやって家族と食事できるのって楽しいね」
泣きながら、だけど嬉しそうに笑う。
心から嬉しそうなんだけど、少し寂しさも見え隠れする。
俺にとっては日常だった。
祖父母と一緒に住むようになったのは最近だけど、それ以前も幼馴染の家族もクラブの仲間も。
大勢と食事を囲んで、争うように食べていた。
あたりまえで、ありふれた、普通の日常。
「いつでも来れば良いよ。俺が練習でいない時でも」
言いながら、家族にむつみを奪われるのが嫌だと思っているのに、訳の分からない事を言っている自分が、本当に分からない。
「ありがとう。でも、優輝君が一緒のほうが、もっと嬉しい」
「…かばん取ってくる」
無視したつもりは、全く無いけれど、むつみの言葉に何と返して良いのか分からない。
和室を暗いままにして、瑠璃さんが迎えに来たら帰れるようにと準備済みのかばんを取りに廊下から玄関へ向かう。
ダイニングの扉が、少し開いていた。
その隙間から、俺の家族が見える。
襖へと向かって折り重なるようにしている家族。
「あれ、優輝いなくなったぞ」
「ちょっと、涼。私にも見せてちょうだい」
「優輝は押しが弱いなぁ」
「そうだなぁ。ここでチャンス!って時じゃないのか?」
「涼とは似ても似つかないわね、あの子」
俺が既に後ろに立っている事に気付かないほど和室を覗くことに 夢中になっている家族に溜息が出る。
この家族が羨ましい?
俺にとってはプライバシーなんてものが全くないほど、密着しすぎた家族だけれど?
小さい時から、全員がしつこく俺に構う。
嬉しい時が多いけれど、一日に同じ事を何度も全員に聞かれたりするのはちょっと鬱陶しい時もある。
ついでに、何か飲み物を持って行こうと、冷蔵庫を開けた。
それに驚いたのか、全員が振り向く。
「きゃ!」
「うわぁ!」
皆が叫んで、和室へと襖と一緒に倒れる。
何をやってるんだ、この人達。
ダイニングと和室を仕切るものがなくなり、こちらの光がむつみまで届く。
驚いて振り向いた彼女が俺の家族の醜態を見て、笑った。
本当に楽しそうに。
「あーあ。派手にやっちゃったわねぇ」
母が言う。
呆れている俺とは正反対に、むつみは楽しいね、なんて言って笑っている。
何が楽しいのか、何が羨ましいのか、やっぱり分からない。
だけど、かなり不服だけれど。
むつみは、俺の家族といる時、楽しそうに笑う…みたいだ。


番外編 12・完

2015-04-07 19:06:17 | 指先の記憶 番外編

今回の話で、この番外編は終了です。
次話は、優輝視点の話になります。

耳と視覚に刺激を感じて、目が覚めるのが常だった。
目覚ましの音や、太陽の光。
起きてと私の体を揺らす弟。
だけど、今日は違った。
懐かしい感覚と、もう二度と戻らない朝の日常。
音も匂いも、それほど強く感じた訳ではないけれど、階下での人の動きが私を目覚めさせた。
夢の中にいるのかと、現実との境目が分からなかった。
祖母の作る朝食を食べることは二度と出来ない。
父と朝食を囲むことは、どれだけ望んでも実現しない。
家政婦さん達が準備してくれる朝食は、もちろん美味しい。
響子さんが、あれはダメ、これはダメ、と気にかけてくれるのは嬉しい。
「うそ…でしょ…6時前だよ…」
ベッドから飛び出して、ドアを開けて、階段を駆け下りる。
転がるように台所へと向かうと、お味噌の香りが広がっていた。
「朝から元気だな。静かにしろって何回言わせるんだよ」
久しぶりに聞く小言は、相変わらずだった。
「出来るまで寝てていいぞ」
「え…うん、大丈夫。おはよ…兄さん」
兄さんと呼ぶよりも須賀君と呼ぶほうが良かったのかもしれないと、最近は後悔している。
私にとって、目の前の人は兄というよりも、小煩い同級生の須賀君だ。
「おはよう。郵便物、置いてるぞ」
そう言うと兄は冷蔵庫前に戻り、野菜室を開けた。
先程の兄の視線を追い、私はテーブルの上に置かれたハガキを見つけた。
表には私の名前。
字体から、それが弘先輩の文字だと分かる。
そして裏には。
「なに…これ?」
一面が、淡いピンク色だった。
「さぁ?好美宛だから俺に分かる訳がないだろ。どうしてさ、俺の家に送るんだよ?わざわざ持って来なきゃいけないのに」
台所と和室を行き来する兄は、お茶碗を置いて、小皿を置いて、糠漬けに卵焼きに…食卓の上が賑わっていく。
「他にも英語の本とか絵本とかさ…誰が読むんだよ」
「…杏依ちゃん?」
「…そうだな」
昆布の佃煮を器に取り出しながら兄が私を見た。
2人で、ちょっとだけ笑って弘先輩に感謝する。
弘先輩が荷物を送ってくれると、兄は私宛の荷物を届けてくれる。
英語の本を雅司に読んであげたいと思ったら、杏依ちゃんに連絡を取れば良い。
離れていても私の事を想ってくれている弘先輩に会いたい気持ちは、どれだけ頑張っても消えてくれない。
一緒に行こうと松原先輩は言ってくれる。
そして、その誘いは日に日に激しくなる。
どうやら、封書を受け取っているらしい。
182cmの用紙に182項目の買い物リストが並んでいるらしい。
やっぱり、松原先輩が一番不憫かもしれない。
俺の身長と同じかよ!と憤慨していた。

◇◇◇

「英語?」
兄の問いに優輝が頷く。
「それ、俺じゃなく晴己さんが適任だろ?」
優輝は、人参が省かれたカレーを元気に食べる。
それを見た雅司が人参を食べるのを躊躇するから、私は首を横に振った。
「雅司。美味しいよ。人参」
「待て。おい。いや、人参は食べて良い。だが、ちょっと待て。朝のイタダキマスから、どれだけ食べ続けているんだよ。もう止めろ」
兄の声に、雅司が私を見る。
私達は、兄の料理を食べ続けている。
ひたすらに。
兄が作ったら食べ、なくなったら兄は作り、昼の材料も使ってしまって、明日用にと準備してくれていたカレーを昼に食べた。
そして姿を見せた優輝が、既に昼食は済ませていると言いながら、兄のカレーを食べ始め、雅司と私も優輝に続いている。
「そうだね…雅司、それ食べたら、ごちそうさましようか?」
「うん。そうだね」
そう言いながら、私達の目は、兄の手作り蒸しパンに釘付けだ。
「…で、優輝。晴己さんじゃなく俺?」
「試合とか、色んな契約とか生活面とか…もうちょっと自分1人で対応できるようになりたいから」
「だったら尚更、俺、実用面での英語、ほとんど経験ないから」
「じゃぁさ…誰か康太さんの友達とか」
「友達?だからさ、晴己さんは?」
優輝は残りのカレーを食べ、溜息を出す。
「晴己さんには頼みたくない」
「反抗期?」
「違いますっ!」
私の言葉に優輝が反論した。
「俺は、そんなに子どもじゃないですっ!」
「ほぉぉー…大人になったからかぁ」
「好美」
目の前に、兄が蒸しパンを置いた。
黙れ、ということみたいだ。
「優輝、適任者探しておくよ」
「やった。ありがとう!」
そう言って優輝は蒸しパンに手を伸ばそうとして、途中で止めた。
「雅司君。遊んでから蒸しパン食べようか」
伸ばした手で、そのまま雅司を抱える。
嬉しそうに喜ぶ雅司を見送って、私は蒸しパンに手を伸ばす。
だけど、兄の手で蒸しパンは遠ざかる。
「兄さん。適任者って?」
「松原先輩かな、やっぱり」
「そっか…じゃ、晴己お兄様に報告しなきゃ、だね」
「そうだな」
反対はしないと思う。
反抗期ではないかもしれないけれど、反発する気持ちがある優輝が晴己お兄様に頼ることを躊躇しているのを、晴己お兄様も分かっているだろう。
ただ、松原先輩と優輝を会わせる事に晴己お兄様が納得するか…それが気にはなる。
だけど、2人は先日のパーティで面識があるはずだし、私に松原先輩を勧める晴己お兄様なら、優輝に勉強を教える事を拒むとも思えない。
でも、事前に報告しなければ、色々と面倒になるのは目に見えている。
「留学…かな」
「だろうな」
また1人。
私の前からいなくなる。
だけど、それは彼の未来だ。

私は幸せだった。
心を閉める負の感情はあるけれど。
まだ、どうにか自分でコントロールが出来そうだった。
私の前から、多くの人がいなくなるけれど、それは未来への希望の為。
理由があって、私はちゃんとその理由を知っていて。
だから、私は応援したいし、理解をしたい。
弘先輩から届いたハガキは、意味不明な色が塗られているだけのハガキだけれど。
ハガキが届く限り、弘先輩は私の事を忘れていない。
優輝の試合を観に行って。
夏休みには、曾祖母の家に行く。
舞ちゃんの家族にも会える。
賢一君と明良君も一緒だ。
母も雅司も楽しみにしている。
杉山家の人達とは現地で合流予定だ。
初めてパスポートを使うのが、弘先輩に会いに行く為じゃないというのは、ちょっと残念だ。
正直ちょっと迷ったし、今もちょっと不本意だ。
だけど、杏依ちゃんから命令が下された。
甘いものリスト。
182cmじゃなかったけれど、結構長かった。
両親と配偶者に頼めば良いのに、彼らは買ってきてくれない、らしい。
純也さんは買ってくれそうだけれど、晴己お兄様と争うのが面倒なのだろう。

私の心の不安定を、多くの人が支えてくれている。
それは充分に分かっている。
甘えすぎてはいけないと分かっているけれど、今は頼らないと私は自分を保てない。
きっと、大丈夫。

そう思っていたのに。
たった一瞬で私は自分の心の安定を失ってしまった。

彼女が私の前に現れるまで。
私の心は生きていた、はずだった。


番外編 ―完―


番外編 11

2015-04-06 14:34:28 | 指先の記憶 番外編

一晩中降っていた雨が、葉の上で光っている。
窓から隣の家を見ると、朝の風に揺れるカーテン。
その部屋で眠る人達は、既に起床しているようだ。
見下ろすと、桜の木々の隙間から階段が見える。
その空間に現れては消えて、そしてまた姿を見せる人物が、階段を駆け上がっている。
空間と空間を移動する早さに、駆ける人物が誰なのか分かった。
「相変わらず元気だなぁ…」
溜息を吐き出して、そして背伸びをする。
着替えて髪を整えていると、階下から声が聞こえ始めた。
想像以上の早さに驚き、そして早朝から女性の家を訪問する図々しさに呆れながらも準備を終えて1階へと向かう。
既に家政婦さんが対応してくれていた。
玄関の向こうで、雅司を肩車しながらスクワットをしている中学生は、爽やかな笑顔。
額の汗がキラキラと朝日に輝いていて、あぁ若いなぁ、と思った。
今日は、ちゃんと両足で階段を上がってきたみたいだから、私の伝言は届いているみたい。
「おはようございます」
「おはよう よしみ」
「…おはよう雅司。優輝おはよう。どうしたの?」
離れを直接訪問するということは、私に用があるのだろう。
「兄から聞きました」
「そう」
「そうって…どうしてですか?」
「どうしてって、知らない。勝手に決まってた」
「勝手にって…にぃちゃんは誠実じゃないし、コロコロ気が変わるから、やめたほうが良いです」
私なんて1ダースだよ、って言ったら、優輝は嫌悪するかもしれない。
「お兄さんのこと嫌いなの?」
「兄弟だから、嫌いとかそういう問題じゃなく。にぃちゃんの女の人に対する考え方、俺は納得できないことばかりですから」
「そうだよねぇ。優輝は彼女一筋だものね」
眉間に皺を寄せて、優輝は私から目を逸らした。
「康太さんは知っていて、納得していますか?」
「あ…そうだね。どうなんだろう?どっかから聞いているかも?」
適当な私の答えに、優輝は呆れたように溜息を出した。
「康太さん、今度いつ戻りますか?」
「さぁ?いつかな?」
分からないから答える事が出来ない。
過干渉だった兄は、今では私に対して無関心に近いかもしれない。
無関心と感じるのは自分自身が悲しくなるから避けたい。
だから、出来るだけ関わらないようにしている、と表現するのが正しい…かもしれない。
「康太さん、忙しいですよね」
「そうみたいだね」
それだけが理由ではないと思うけれど、兄の大学生活が時間に追われる状況だというのは事実だった。
「急ぎの用事?」
「急ぎっていうか…この前のパーティ…勝海君の。康太さん来ているかと思っていたけれど。あ、そういえば、好美さんも来てなかった」
「だって私、勝海君に会っているもの」
結構、頻繁に。
あの母子、入り浸っているし。
「康太さんに会えるかと思って楽しみにしていたのに」
残念そうに言うけれど、そんな気持ちの余裕があったのだろうか?
先日のパーティでは、優輝も彼女に振り回されたはずだ。
もしかすると、余裕が出てきたのかもしれない。
テニスを再開して、彼女との関係が落ち着いてきたからなのかもしれない。
彼女を傷つけた存在が目の前から消えて、彼女が気にする存在が従弟だと分かって。
「今度、雅司が会いに行く時に一緒に行ったら?時間が合えば、だけど。優輝も忙しいでしょ?」
「いっしょに てにす しようよ」
「それは、いつでもOKですけれど。テニスでも遊びでも。だけど、俺…康太さんに」
優輝は、言葉を止めた。
困ったように私を見て、そして視線を逸らす。
そんな優輝は珍しい。
いつも真っ直ぐで、気持ちに正直なのに。
「連絡、しようか?」
私から兄に連絡をするのは控えているけれど、連絡して嫌がられるわけではないと…たぶん思う。
「お願いできますか?時間があれば、で…あ、でも、やっぱり康太さんしか頼めないかも」
なんだか切羽詰った感じだから、私は少し焦り始めた。
「大丈夫だよ。優輝。1人で悩まないほうが良いよ?話があるみたいだから連絡してあげて、って言っとくね?」
「はい。お願いします」
兄に連絡をする理由が出来て、ちょっと嬉しい気持ちと面倒だと思う気持ちと、妹が兄に連絡する事に理由など不要だと思う気持ちと…乱れる感情に自分自身が嫌になる。
混乱する私に反して、優輝の表情は柔らかくなる。
雅司を地面に降ろして、持参しているペットボトルを手に取った。
ゴクゴクと飲む姿は、去年から駅やテレビで観る姿と同じ。
同じだけれど、約半年で随分と成長している。
水分を摂取したことで、優輝の額に汗がキラキラと光る。
初めて会った時、とても真っ直ぐな瞳だった。
兄を見る時の瞳が、凄く輝いていた。
引越しの報告に来てくれた時は、早々に帰ってしまった。
次に来た時は、松葉杖。
暗い表情と、虚ろな瞳。
まるで別人のように変わってしまった。
「ぼくも のむ」
雅司が両手を優輝に向ける。
「ダメ。これは運動した後に飲むものだから」
そう言って、優輝は残りを飲み干した。
「じゃ ボトル ちょうだい」
「ボトル?」
空になったボトルを振って、優輝は私を見た。
「雅司。お茶入れようか?」
「うん」
嬉しそうに笑って、雅司は優輝からボトルを受け取ると、腕を伸ばした。
「ちょ…マジかよ」
項垂れた優輝に私は笑う。
「お気に入りだものね、雅司」
優輝のCMでの動きを、雅司は真似をしている。
あのCMは凄く爽やかで、結構評判が良いらしい。
「ねぇ、優輝もやってみて?」
「勘弁してください。俺、思い出すのも嫌なのに」
凄く嫌そうな表情を向けられて、だけどそんな素直な優輝の感情に私は安堵する。
「そう?格好良いよね雅司?」
「うん かっこいい!」
恥かしそうに視線を逸らす優輝に笑いそうになる私の前で、優輝は途端に表情を変えた。
「よしっ!だったら、もっと格好良い俺を見せてやる」
自分で言うなんて、なんて奴だと思う私の前で、優輝は雅司を抱き上げた。
視線が高くなって喜ぶ雅司が持つペットボトルが、太陽の光に輝く。
「次の試合、観に来てください」
もっと格好良い俺、期待できそうだ。
「やったね!雅司」
「うん!」
関係者席を確保できる…はずだ。
雅司が観戦したいと言っていると言えば、晴己お兄様も納得する…はずだ。
「にぃも!にぃも いっしょに!」
「そうだよね。兄も観に行くかどうか、聞かなきゃ」
「…マジで?」
「え?困る、の?」
「そうじゃ、なくて…康太さん来てくれたら…俺、マジでヤバイかも」
「え?何が?どうしたの?」
優輝の口元が変だった。
明るく笑う表情じゃなくて、ちょっと複雑そうな。
「すげー…嬉しいかも」
きっと、それは汗なのだと思う。
優輝の瞳が、キラッと少しだけ光った…気がした。
兄の幼少期を、私は知らない。
兄が、どの程度テニスをしていたのかを知らない。
だけど、優輝にとって、兄と過ごしたテニスの時間は、それなりに貴重な思い出なのだと彼の表情が語っている。
兄は私に子ども時代の事を語ってくれない。
私も聞かないし、他の人に教えて欲しいと頼むこともしていない。
だけど、優輝の存在が、私が知らない兄の子ども時代を教えてくれる。
「ちょっと待って、優輝。今から電話するから」
後でなど、待っていられない。
優輝が兄に会いたがっている。
兄の子ども時代が、それほど不幸ではなかったのだと私に思わせてくれる存在が、兄を待っている。
「え?こんな朝早くから?」
朝早くから私を訪問した本人が、何かを言っているが無視をした。
和室に入って仏壇にまだ挨拶をしていないことを思い出す。
「ごめんね。おばあちゃん、お父さん。優輝がさぁ、色々言うから」
適当な言い訳を言いながら、電話を手に取る。
呼び出し音の後、応答の声を聞く前に私は用件を口にする。
優輝が会いたいらしいよ。
言いながら玄関に戻って、優輝に子機を差し出す。
私の耳に届いたのは、兄が私の名前を発した音だけ。
それ以上を聞く余裕がなかった。
今、兄と話しをしてしまったら、私は余計な事を言いそうだ。
帰ってきて。
戻ってきて。
一緒にいて。
私は解放してあげることができない。
会話を終えた優輝が、子機を雅司の耳元に寄せる。
「にぃ おはよ」
雅司の耳には、優しい兄の声が届いているはずだ。
「優輝、大丈夫みたい?」
「はい。ありがとうございます。明日、早速ここで」
「そう。良かった。あ、優輝。練習は?」
「うわっ!そうだった」
「大丈夫間に合う?車、用意しようか?」
「走ったほうが速いです」
「そうだね」
優輝には、もう松葉杖は不要だ。
通話を終えた雅司が私に子機を差し出した。
切れていることを願ったが、受話器から私の名前を呼ぶ声。
『明日、優輝と14時に約束したから』
「はーい。あっ!雅司、階段ダメだからね。じゃぁね、兄さん、明日」
こっちは忙しいのよ、と兄に伝えて通話を終えた私は、とても卑怯な人間だ。
階段の上で、雅司と一緒に優輝を見送る。
眩しくて、輝いていた。
未来への希望に満ちている。
まるで太陽のようだと思った。
朝日が、輝きを増していた。


約束を抱いて-まとめ-

2015-02-19 14:13:03 | Weblog

約束を抱いて第一章~第四章までのあらすじ。

現時点で200話(他番外もあり)となっている為、簡単にまとめました。

◇あらすじ◇
4月から中学2年になる斉藤むつみは、春休みを別荘で過ごしていた。
そこで出会った橋元優輝と夏に再会する事を約束するが、優輝は姿を見せなかった。
夏休みが終わり、むつみのクラスに優輝が転校してくる。
だが、彼はむつみを拒絶し、テニスをやめていた。
むつみは優輝がテニスを再開する事を望み、優輝は試合に出場し優勝。
少しずつ2人の距離は近付き、お互いの気持ちを確認する。

と、まぁ…こんな感じです。

その後、水野紘が2人の邪魔をしてきて、中原慎一の存在が斉藤家に影響を与えますが、
むつみと優輝の恋愛は、周囲は色々あるけれど2人は幸せという状況です。
ただ、むつみは自分だけが幸せなら良いとは思えないですし、
優輝は、むつみは俺のことだけを考えろ、の思考。
そして、そんな2人を放っておいてくれるほど、周囲の人達は無関心ではなく…。
第五章からは、「指先の記憶」も絡んできますが、
「指先の記憶」が未読でも「約束を抱いて第五章」を楽しんで頂けるように話を進めたいと思っています。


************


人物紹介と、あらすじよりも詳しい事柄や事件一覧です。

斉藤 むつみ(さいとうむつみ):主人公。

橋元 優輝(はしもとゆうき):むつみの彼氏。将来有望なテニス選手。

新堂 晴己(しんどうはるみ):むつみが慕う相手であり、優輝が目標とする人物。

新堂 杏依(しんどうあい):晴己の妻。

橋元 涼(はしもとりょう):優輝の兄。

星 碧(ほしみどり):本名は斉藤碧。職業女優。むつみの母親。

笹本 絵里(ささもとえり):むつみと晴己の関係を嫌悪している。

飯田 加奈子(いいだかなこ):むつみの友人。

水野 紘(みずのひろし):優輝の幼馴染み。

中原 慎一(なかはらしんいち):むつみの従弟。


◇第一章◇

・むつみと優輝が出会う
・優輝と卓也が事故(事件)に巻き込まれる
・優輝がむつみの中学に転校してくる
・優輝がむつみを庇って怪我
・むつみが絵里と再会  その後、奈々江と直樹に再会
・優輝が直樹が所有するマンションを、絵里の提案で隠れ場所にしていた事が発覚
・むつみが橋元家を訪問し、優輝と絵里が会っていた事を知る
・むつみは優輝を連れ戻す為に絵里を訪問
・優輝の試合

◇第二章◇

・優輝が試合で優勝した事により、むつみと優輝は少しだけ距離が近くなる
・むつみが高瀬に依頼したCM出演が晴己に知られてしまう
・杏依と久しぶりに会ったむつみは優輝の事を話す
・図書館、公園、新堂邸で微妙な距離を保ちながらも、むつみと優輝は過す時間が増えてくる
・水野紘が転校してくる
・水野紘がむつみに告白
・杉山がむつみに告白
・むつみと優輝は、告白をしてきた生徒達に断りの返事をする
・晴己が2人の付き合いに関して、条件を出す
・CM撮影は、むつみは加わらず、星碧と井原卓也、優輝で行なわれる
・新堂のクリスマスイヴのパーティに招かれる

◇番外編◇

・晴己が瑠璃に斉藤家でのアルバイトを依頼
・初詣
・優輝が初めて、むつみに対する感情を言葉にする
・バレンタイン

◇第三章◇

・むつみの誕生日を祝う会が新堂邸で催され、加奈子が演奏をする
・むつみと優輝は中原慎一と保健室で出会う
・少女時代の星碧の映像がテレビで放映される
・むつみと瑠璃はピザとクレープの店の前で、慎一に会う
・校内で1年生の女子生徒が座り込んでいるのを見つけたむつみが、声をかける
・上司の高瀬に呼び出された涼は、優輝のCM出演に関して晴己が関わっていたことを知らされる
・むつみと瑠璃はスーパーで水野に会う
・授業が始まる前に、むつみが慎一に勉強を教える
・むつみは料理の本を探す為に和枝と一緒に書庫に入る
・突然、家政婦を連れて斉藤家を訪問した晴己が、大量の料理を作成
・むつみは晴己との会話で、自分が幼い頃の記憶を忘れていることを自覚する
・晴己が涼の会社を訪問
・晴己が連れてきた家政婦が斉藤家で働く事になる
・再び書庫に入ったむつみは、書庫内に違和感を感じる
・斉藤家で大掃除が始まる
・むつみは書庫に行き(3度目)、昔の雑誌を見つける
・書庫で見つけた写真を涼に見せる
・授業中に気分が悪くなった慎一が保健室で休む
・慎一を送って行くむつみ
・むつみと慎一は慎一の母が入院している病院(大江医院)を訪問
・大江医院で慎一の母と会うむつみ
・斉藤医師の指示で、瑠璃がむつみを大江医院に迎えに来る
・連休は、むつみは杏依と一緒に別荘で過す
・連休に絵里が涼の会社を訪問
 絵里が涼に、むつみの両親に関わる噂を話す
・水野から、むつみと慎一が会っていた事を知らされる優輝
・涼は絵里が訪問してきた事を晴己に話す
・むつみは涼に相談
・むつみの力にはなれないと涼は言い、晴己に相談するように促す
・むつみは晴己に、過去の事、慎一の事を話す
・晴己は、むつみと初めて出会った時の事を話す

◇第四章◇

・新堂勝海披露パーティ開催 
・桐島明良が途中でパーティを退出し、斉藤病院で慎一と出会う
・慎一が大江夫妻の家に行く事になる
・光雄が涼に写真を渡す
・涼と祥子は写真を持って、杏依の実家を訪問 卓也も合流
・志織は写真を晴己に渡す
・保健室に来ていた女子生徒の名前を、むつみは確認する事を忘れてしまう
・慎一がむつみの家を訪問していた時、碧が帰宅する
・雨の中を帰ろうとする慎一を、優輝が阻止
・慎一が彼自身が知っている事を、むつみと碧に話す
・写真撮影


*追加
四章終了後、
・絵里は海外へ
・涼は姫野好美の婚約者候補に立候補
となっています。

(2008-10/2015-02追記)


番外編 10

2014-10-29 21:01:15 | 指先の記憶 番外編

「賢一君。今日は来てくれてありがとう」
視線を合わせずに、私は告げる。
「お土産。1箱で充分よね?」
賢一君と明良君と雅司。
3箱を本家の家政婦さんは勧めてくれたけれど、雅司に12個は多すぎる。
賢一君と明良君なら、計画的に12個を食べるような気もするけれど、12は多い。
12という数字を女性で想像してしまって、賢一君の周囲に集まるのを想像して…。
「大丈夫ですか?」
「…ちょ…っと着物…疲れたかも」
やっぱりオカシイ…1ダース…。
「着替えよう、かな…」
「大丈夫ですか?」
伸びてきた両腕が私の体を支えてくれた。
凄く自然な動きで、なんというか…男性的なものを全く感じない両腕。
それは私の主観だとは思う。
逞しくて力強い腕は私を簡単に抱えることが出来るはずだから、彼が男性であることは確かだけれど。
明良君が雅司を抱えていたように、体格の男性的なものとは違って、内面というかお互いの意識というか、そういうものに男性を感じることがない。
哲也さんとも弘先輩とも違って、松原先輩とも違う。
ただ、なんとなく思うのは、賢一君の自然な動きは慣れていて…付き合っていた女性がいたのだろうと想像できる動きだ。
「奥の和室ですよね?」
今では既に間取りを理解している賢一君が、離れに近い和室を目指す。
ゆっくりと歩く私を支えて、倒れないように手を添えて、強すぎず弱すぎず、近すぎず遠すぎず…安心できる距離と力。
賢一君は私の弟を護ってくれる人。
彼の家族は私の家族を知っている。
祖母と父を支えてくれた人達、母の幸せを願ってくれる人達。
私に桐島家という支えがあれば、晴己お兄様も杏依ちゃんも安堵する。
そして、それは、杏依ちゃんの母親である志織さんも同じだろうと思う。
喜んでくれる人が多い。
祝福してくれる人が多い。
反対する人が思いつかないくらい、私の相手として賢一君は適している。
だけど、逆はどうだろう?
賢一君にとって素晴らしい相手は、他にもたくさんいる。
私を抱え込む必要など、ないのだ。
だけど、もし私が彼との結婚を望んだら、賢一君は頷いてくれるだろう。
「椅子にしますか?」
和室に置かれた小さな椅子に座り、私は上半身を賢一君に支えてもらった。
私は彼と視線を合わせないように努力している。
真面目で真っ直ぐな人。
寂しい心を捉えられるのが、怖い。
「兄さん」
廊下からの声。
「好美さんに飲み物を出さないで、いきなり説教は酷だよ」
「あ…ごめん」
畳の上を、そっとそっと歩いてくる雅司。
「はい」
差し出されたトレイには響子さん特製のハーブティ。
冷蔵庫で冷やされたハーブティは、私が飲む量は小さなグラスに一杯だけだと決められている。
食べる物、飲む物など体の中に入る物だけでなく、着る物、使う物も私は殆どを管理されている。
だけど、それは苦痛ではなく、私にとって心地良い状況だった。
だから、結婚相手も決めてくれれば…そう思う気持ちもあるけれど、相手の男性に対して私の心が乱れるのは事実だ。
「おなか すいた?」
雅司が問う。
自分の感情を伝えるのではなく、私の気持ちを問う弟は、日に日に成長している。
この子の幸せを望むことが許され与えることを喜んだ気持ちは、当然ながら今も存在するけれど、雅司の支えに私は甘えてしまっている。
「ぎょうざ つくったんだ」
ぎょうざ作りは、雅司のお気に入りだ。
明良君と一緒に作って、私に振舞ってくれる。
準備しますから着替えてください、明良君はそう言って雅司を連れて和室から出た。
冷えたハーブティを飲むと、胸が少しスッキリとした。
グラスを受け取る手に、自分が今も賢一君の腕に支えられていたことを思い出した。
「落ち着きましたか?」
問われて頷くと、支えている腕が離れる気配がした。
「賢一君」
呼ぶと腕の動きが止まる。
「帯。緩めて」
私の依頼の後、沈黙、そして大袈裟な溜息。
「人を呼んできます。少し我慢できますか?」
「無理。苦しい」
「煽っています?」
「試しているだけ」
その言葉を発して、それが私自身の本心だと気付く。
私の勝手な言動に振り回されない賢一君への信頼は、会う度に増していく。
初めて会った時は、弟である明良君のほうが頼れる雰囲気がして、それは確かに今も変わらないけれど…でも、賢一君は会う度に大人になっていく。
「好美さん。僕には可能性などないと分かっていますが、完全に対象外だと宣言されると、やはり落ち込みます。僕も健全な男ですから無防備も困ります。それに、自覚があるのなら性格に問題がありますよ」
先程までの説教に近い咎めるような声とは違い、優しくゆっくりと言い聞かせるように話す賢一君のほうが、私のことを対象外として扱っている。
「性格に問題があるのは、ちゃんと自分で分かっています。だって私、勝手だもの。我侭だもの。性格歪んでいるもの。こんな私、賢一君は相手にしなくて良いから」
雅司を護ってくれるのなら、私は賢一君にはそれ以上を望まない。
「迷惑なら、来るのを控えましょうか?」
「控えるって…そうじゃなく…どうしてこんな面倒な事してるの?私と賢一君が結婚すれば、全て丸く収まるでしょ?」
どうして、目の前の人は、何もかもを耐えるのだろう?
彼女と別れてまで、どうして私の前にいるのだろう?
「賢一君、中途半端だと思う。太一郎先生とか裕さんとか関係なく…賢一君の気持ちは?」
理不尽に責める自分自身が凄く嫌だ。
「僕の気持ちは必要ですか?」
問われて見上げると、私を見下ろす瞳は、不思議そうに真っ直ぐ向けられていた。
「必要って…そりゃぁ…そうでしょ?」
「今は、その時期ではありませんよね?僕は正々堂々と戦いたい。公平で、抜け駆けなどしたくありません。哲也さんと小野寺さんが不在の状態で、好美さんに結論を迫ることなど出来ません」
「賢一君…どうして、哲也さんと弘先輩を気にするの?」
関係ないのだと、気にしていられないと、強い気持ちを持てば良いのに…だけど、その強い気持ちなど賢一君にはなくて、仕方なく今の位置にいるだけで、それなのに賢一君に気持ちを求める私は、なんて図々しいのだろう。
「気にします。当然です。僕は哲也さんのように好美さんを救ったわけでもなく、小野寺さんのように支えたわけでもありませんから」
私は哲也さんに救われたのだろうか?
弘先輩に支えられたのだろうか?
「でも、あの2人、私を地の底に落としましたけど?」
私の言葉に賢一君が笑う。
「それなら地の底で一緒に待ちましょうか?迎えが来るまで僕もお供します」
「賢一君?」
「でも、待ち続けるのも退屈になるかもしれませんね。それなら、好美さんは上から眺めていましょう。僕達が勝手に騒いでいるだけですから。夏は、僕も一緒に寺本さんの家を訪問しても良いですか?雅司君も楽しみにしていますし、舞ちゃんも早川さんの家に行く予定ですから」
「そうなの?」
「賑やかですよ」
「でもっ!賢一君、畑仕事とか出来るの?」
健康な若者を、曾祖母が放っておくとは思えない。
「未知の世界ですから情けない姿を見せてしまうかもしれませんが」
「好き嫌いは許されないけれど、大丈夫?」
「らしいですね」
「朝は早いよ!」
「健康そうですね」
穏やかな笑顔を向けられて、私の乱れていた心が落ち着いていく。
「賢一君、正々堂々とか公平とか言ってたけど、寺本の名前を出すのは卑怯だよ?」
「事前準備です。根回しは大事です」
爽やかな笑顔で言われて、思わず噴出した。
「響子さんも一緒に餃子を作っていたので、着物に触れるのは避けたいと言うでしょう。頑張って着替えてください」
賢一君の腕が私から離れる。
「ちょ、ちょっと賢一君!本当に帯、緩めてもらわないと」
「早く着替えてください。餃子、冷めますよ」
ピシャリと冷たい言葉と共に、襖が閉まった。


番外編 9

2014-03-20 09:56:03 | 指先の記憶 番外編

意味もなく発言する人じゃない。
理由なく行動する人じゃない。
それは分かっているけれど、晴己お兄様の言葉を受け止めることが出来ない。
「1ダースって…ちょっと迷っちゃいますよ?」
笑顔を返せば笑顔が返ってくる。
「相手が12人だと、二股とか浮気とか超えちゃいますよね」
「そうだね。だけど好美は特定の異性と付き合っている訳じゃないから、二股でも浮気でもないよ」
優しい笑顔で言われると、そうだよね、悪いことじゃないよね、大丈夫だよね、と思ってしまいそうになる。
身内の女性に12人の男性をどうぞ…そんな人は世の中に存在しないだろう。
冗談だと思いたいけれど、晴己お兄様が冗談を言うのも信じられないし…というか、不用意に発言したら周囲が動いちゃう可能性があるから冗談など言わないはずだ。
「あのー…ちなみに、晴己お兄様の頭の中には12名の男性の姿は、ありますか?」
あるから発言してるんだろうなぁ。
周囲の年齢が近い女性は、ほとんどが晴己お兄様の婚約者候補だったらしいし、単位がダースとか、そういう次元ではない。
「桐島賢一、三上大輔、立辺哲也、橋元涼」
並ぶ名前。
「小野寺君は12人に含んでも含まなくても、どちらでも良いからね」
お気遣いありがとうございます、なのか、どうなのか。
「あとは、これから選ぼうか?」
12名、選出していないみたいですね…。
こんなことを言い出したのは、機嫌が悪いからなのか、パーティでのことを怒っているのか、それとも可愛い中学生女子が従弟に夢中だからなのか。
色々と問いたいけれど、現在、晴己お兄様の感情が良くも悪くも私に向いているのは事実だ。
「晴己お兄様が選んで下さるのなら、私は待っているだけで良いですよね?20歳で決めれば良いんでしょう?」
適当で良いかなぁ。
まだまだ時間はあるし。
電撃的な出会いとか、しちゃうかもしれないし。
「それでも良いけれど、もちろん好美が候補者を選出しても良いんだよ?涼みたいに立候補する人もいるかもしれない」
いないでしょう。
面倒だよ、鬱陶しいよ。
私を取り合う為に、その他の11人と争う人なんて、いない。
前出の人達は、色々と考えがあって、メリットデメリットがあって…だから。
「そうだね…松原君は、どう思う?」
「え?えーっ!!晴己お兄様、何を言ってるの?」
そこで、ようやく、私は感情を出した。
「何って…松原英樹君。卒業後も好美と親しいし、凄く親身になってくれたみたいだから」
「そうですけれどっ!」
本人の気持ちは、完全に無視ですか?
「頼れる人だよね?」
「そうですけれどっ!」
弘先輩の親友を候補にしますか?
過去…一応過去ってことにしておくけれど、過去の恋敵を候補にしますか?
「晴己お兄様、酷い」
「そうだろうね」
責めたのに、彼は平然としている。
「僕は好美を護れる人が1人でも多いと安心だ」
そうかもしれませんけれど。
「僕自身の個人的な感情は不要だし、過去よりも未来が大事だと思っている」
ですが。
「報われないと分かっていながらも好美を護れる男性が必要だ」
色んな意味で、松原先輩は報われていませんけれど…。
ちょっと、勝手過ぎる。
従弟に対して、どう思っているのだろう?
妻の従兄に対しても、申し訳ないと思わないのだろうか?
「そういう感じの選び方で良いから」
私は盛大な溜息が出た。
「適当に聞こえますけれど?」
「適当で充分だよ」
「え?」
「涼が自ら名乗り出たことで、他も騒ぎ出すはずだ。好美はそれを見ているだけで良い」
見てるだけって、私は当事者なのに?
「加奈子ちゃんが正式に姫野本家を訪問したのは、今日が初めてなんだ」
急に話が変わって、私は少し混乱する。
「彼女を援助するのは姫野でも新堂でもない。僕だよ。僕は加奈子ちゃんの才能を壊したくないからね」
ゾクゾクと、体が少し震えた。
こういう時に、私と気持ちを共有してくれるのは誰だろう?
姫野でも新堂でもない、誰にも影響されず、誰とも関わらなくても自分の力で生きることが出来る人。
「優輝は…どうするつもりですか?」
本当に訊きたいのは、優輝の事じゃない。
優輝に対する晴己お兄様の考えなど、分かっている。
「涼とは適度な距離をお願いできるかな?僕は響子さんに関わって欲しくないからね。優輝には僕だけで充分だ」
晴己お兄様にとって、時々姫野は邪魔な存在になる。
その援助を受けて留学した弘先輩は…どうなるのだろう?

◇◇◇

晴己お兄様は車から降りず帰って行った。
自宅に戻ったのか、仕事なのか、テニスクラブなのか、それとも、あの子の家なのか。
友人の夫という位置でいて欲しいのに、晴己お兄様は私の身内で、社会的な地位を考えれば私の後見人としての立場にもなれる。
幼い頃から今までの記憶が全て繋がっていて、そして私の記憶に晴己お兄様が存在していれば、私は何の迷いもなく彼に従順に生きてきたと思う。
だけど、現状では無理だった。
「おかえりなさい。好美さん」
「おかえりー」
母屋の玄関で出迎えてくれたのは、桐島明良君と雅司だった。
明良君に荷物のように軽々と片腕で抱えられている雅司は、楽しそうに喜んでいる。
だけど、雅司は随分と体が大きくなったから、片腕で軽々は来年は無理かもしれない。
明良君も成長するから無理じゃないかもしれないけれど…みんな、どんどん成長していく。
「兄も来ています」
履物で分かっていたけれど、明良君に言われて憂鬱になった。
「落ち込んでいますから慰めてあげてください」
なぜ私が?
そう言いたいけれど、それは雅司の楽しそうな姿に、言えなくなる。
私が雅司を弟だと認識する前から、大切に護ってくれた。
心配性の兄が雅司を預けた兄弟。
客間に辿り着いて、おかえりなさいと出迎えてくれた人は、優しすぎて、ちょっと頼りない人。
だけど、最近変わってきたから…鬱陶しかったりもする。
「座って下さい」
落ち込んでいる人の口調では、ない。
「橋元涼さんが候補に名を連ねると聞きました。どういうことですか?」
知りません。
勝手に、涼さんが言い出して晴己お兄様が納得して、哲也さんと一緒に来たんです。
「好美さんは了承したのでしょうか?」
了承って言うか、私の意見なんて通るのかな?
勝手に決まっていたけれど?
「これ以上、候補を増やしてどうするつもりですか?」
そうだよね。
私も同じ意見です。
でもね、まだまだ増えるんだって。
1ダースだって。
鉛筆と同じ扱いだよ?
「現状の候補だけでは不服ですか?違いますよね?哲也さんを選ぶか小野寺さんを選ぶか、それは好美さんが決める事です。同列にする為に大輔さんが加わり、時間稼ぎの為に僕が加わっただけです。橋元涼さんは全くの無関係でしょう?面識は?」
賢一君の中では、哲也さんか弘先輩、その二択だけだ。
あくまでも、彼自身は脇役らしい。
「会ったことはなかったけれど…彼の家族には全員…おじいちゃんとおばあちゃんと、ご両親と弟には会った事があって」
盛大な溜息を賢一君が出す。
「それは、僕達ではダメですか?叔父が…桐島裕が和歌子さんと結婚しないからですか?僕の家族は、僕が好美さんと結婚するしないは、全く関係なく、あなたの事を大切に思っています。橋元さんの家族に頼らなくても…」
そうだよね。
だけどね。
普通なんだよ。
橋元家は、凄く普通の家族なの。
支えあって助けあって、泣いたり喧嘩したり笑ったり、たぶん、そういう家族。
祖父の謝罪の為に、叔父の願望の為に、従妹の安堵の為に彼女の夫の命令に従い、自分の気持ちは全て無視して排除して、従弟の幸福の為に結婚しても良いと、全て自分が犠牲になっても良いと、そう考えてしまう賢一君が育った家庭とは、違うの。


番外編 8

2014-03-15 20:05:33 | 指先の記憶 番外編

途端に笑顔になる人は、勝海君のおじいちゃんだと思うと、凄く妙な感じだ。
純也さんが流暢なフランス語で話す相手は、昨夜テレビで観たパティシェ。
有名らしい…私は知らなかったけれど。
昨晩、響子さんに彼に関する情報を詰め込まれて、私の頭はチョコやクリームで溢れている。
そんな重い頭なのに、土曜の午後に呼び出されて、ちょっと不服だけれど…仕方がない。
純也さんが留学時代から懇意にしているらしいパティシェの男性は、私に向かって微笑んでいる。
甘いもの、それほど好きじゃないです。
私は水羊羹が好きです。
…と、言える雰囲気じゃない。
実際に美味しかったから、私も笑顔を返して、なぜこの場に杏依ちゃんがいないのか、問いたいけれど我慢する。
良いの?って思うけれど、色々と考えがあるみたいだ。
弘先輩が、この場にいたら喜びそうだ。
イチゴ狩りは当分先だから、今日の写真を送ろうかな?
「加奈子ちゃん、どうする?」
写真をお願いしようと思ったのに、孝明君に邪魔をされた。
そんなに加奈子ちゃんの返事を急がなくても良いのに。
明らかに彼女は困っているのに。
それが分からないほど、孝明君は鈍感ではないはずだ。
そして、加奈子ちゃんは、孝明君に流されないようにと踏みとどまっている。
孝明君が加奈子ちゃんの友人に告白しなければ、加奈子ちゃんは流されていたかもしれない。
自分の友達の気持ちを乱されて、無関係でいられる性格じゃない。
孝明君だって、それは分かっているはずだ。
「お父さんと…美咲さんに相談する」
加奈子ちゃんの言葉に、孝明君の指がピクッと反応した。
それを誤魔化すように、彼は純也さんの前に並ぶパティシェの光る粒に指を伸ばす。
彼の告白の相手が誰なのか発言したら、晴己お兄様は、どんな反応をするだろう?
それとも、既にご存知…かもしれない。
中学校を卒業したら日本を離れる杉山孝明。
そして、答えを迫られている飯田加奈子。
この2人も、私から離れてしまう人達だ。
寂しいけれど、それが才能を伸ばす為のものならば。
彼らの未来へと繋がるのならば。
「私も…行こうかな」
その言葉に、孝明君が私へと近付いた。
そして、慣れた動作で跪いて私を見上げた。
嫌なんだよね…これ。
でも、彼はお気に入りなのか何なのか知らないけれど、私に跪く。
「是非、来て下さい。僕の父と母も…叔父も喜びます」
きっと。
彼の家族が見せてくれる思い出は、私の知らない父の過去。
孝明君が、私に見せてくれるのは、私の父に対する尊敬と憧れ。
私の手を取り、顔を寄せる中学生。
残念過ぎる成長だ。
「孝明君」
牽制するように、彼の手から抜け出てサラサラの髪を撫でた。
不服そうな表情を気にせず、私は彼の瞳を見る。
「写真、撮って」
「写真…ですか?」
「うん」
見上げた先のパティシェに微笑む。
「…分かりました」
「テーブルの上も込みで撮ってね」
立ち上がった孝明君が、カメラを構える。
そして、パティシェは。
着物姿の私に、頬を寄せた。
これか、これなのか。
杏依ちゃんが来ないと言うか、来れないと言うか、連れて来ないと言うか…。
「…ありがと…孝明君…」
夏休みは色々と面倒かもしれない。
だけど、上機嫌になったパティシェに笑顔を返してしまう私自信が、色々と面倒な性格に成長してしまったのが問題だ。
「晴己お兄様。杏依ちゃんへのお土産?」
パティシェの名前が入った箱に、晴己お兄様がチョコや小さな焼き菓子を詰めている。
自分の名前で商品が売れるって、凄いな、と思った。
箱自体はシンプルなのに、名前があるだけで、最高の価値を持つ。
晴己お兄様の指先のチョコは、とても小さい。
箱に詰められたスイーツは、12個。
それを杏依ちゃんは多いと思うかな?
少ないと思うかな?
可愛い形。
鮮やかな色。
それぞれの香り。
全てが個性的で、どれかひとつを選べない。
きっと眺めて悩んで困って喜んで。
コロコロ変わる彼女の表情を見て、晴己お兄様も微笑むのだろう。
想像して…ちょっと気持ちが悪くなってきた。
やっぱり、こういう時に身内なのだと実感する。
晴己お兄様の杏依ちゃんへの愛情は、チョコをドロドロに溶かしそうな勢いだ。
嫌悪の気持ちを飲み込む私を、姫野のおじ様が呼ぶ。
パティシェとおじ様と純也さんは、これからパーティに出席する。
3人を見送って、役目を終えてホッとする。
部屋に戻ると、晴己お兄様は2つ目の箱を手にしていた。
他にも誰かに渡すのだろうか?
そこに詰められるのは、キャンディーのような…そういえば、ホワイトデーで弘先輩から貰ったキャンディもキラキラしていた。
由佳先輩が姫野さんのキャンディは他とは違うと言っていたのを思い出す。
確かに美味しかった。
甘すぎず、一つ一つ手作りみたいだった。
あれと同じなのかなぁ。
晴己お兄様が12個を詰め終えたのを確認して、私は問う。
「ひとつ、貰っても良い?」
「どうぞ」
指を伸ばして、ブルーを手に取る。
水色。
淡くて、透き通っている。
何味だろう?
思ったよりも硬い気がする。
「好美、飲み込んじゃダメだよ?」
当然だ。
ちゃんと味わうつもりだ。
「溶けないよ?」
不思議そうに晴己お兄様が私を見る。
「…好美も、興味を持ち出したのかと思ったけれど。飴だと思った?」
首を傾げて、晴己お兄様を見る。
孝明君は、私に先ほどの仕返しをするかのように笑っている。
加奈子ちゃんは、大きな瞳をゆっくりと瞬きさせて、そして…カタンと音を立てて立ち上がる。
落ち着けと孝明君が彼女を宥めている。
私は自分の指にある、その塊を眺めた。
「なーんだ。食べ物じゃないんだ」
それを元に戻した。
晴己お兄様が詰めた2つの箱。
杏依ちゃんは、どんな反応をするだろう?
どれを選ぶだろう?
それとも、どっちの箱…だろう。

◇◇◇

加奈子ちゃんを家まで送ると、孝明君も車を降りた。
加奈子ちゃんのお父さんと、そして孝明君の叔母である美咲さんが2人を待っていた。
4人で食事に行くと言う彼女達を、羨ましく思った。
一緒に混ざりたいと言えば拒まれないだろうけれど、他人の私は完全にお邪魔だ。
家に帰れば響子さんが待っている。
1人じゃない。
だけど、このまま橋元家を訪問したほうが賑やかで楽しくて、寂しい気持ちが消える気がする。
そう思う気持ちはあっても、隣に座る晴己お兄様に話すことは出来ず、車が坂道を登り始めた。
「晴己お兄様。涼さんに会いました」
「意外だった?」
「はい。でも、ちょっと納得する部分もあります」
優輝は…これから、どうするつもりなのだろう?
晴己お兄様は、優輝をどうするつもりなのだろう?
「大輔さんと哲也さんと賢一君と涼さん。選べば良いと晴己お兄様は言いますけれど、あまり人数増やさないでください」
「その4人なら誰を選んでも、それほど大差はないよ」
あっさりと言う晴己お兄様は、彼らに対して失礼だと思う。
「選べないのなら人数を増やせば良い」
私の要望と反対の意見を言い出す人。
「良い事を考えたんだ」
優しい微笑みだけれど、絶対に良い事じゃないと思う。
「12個と12粒なら…12人も楽しそうだ」
「…はい?」
妙な事を言い出した人に、ちょっと体が震えた。
「候補は12人。1ダースだよ。綺麗な単位だと思ったから」
…私は、思いません。


番外編 7

2014-03-13 19:01:30 | 指先の記憶 番外編

「好美ちゃん。おなかすいた?野菜もお肉も食べられる?早く座りなさい。みんな、来ちゃうわよ?」
私は響子さんに座らされて、松原先輩は授業の準備に向かう。
後輩の勉強、邪魔しようかなぁ。
3年生がいるのなら遠慮するけれど、今日は2年生と1年生だけだ。
松原先輩は、部活を理由に成績が下がるのは困ると言って、後輩達の面倒をみている。
既に卒業しているのに、責任感が強い人だ。
まぁ…私もその責任感に護られた訳だけれど。
校庭を兄に追いかけられて、酷い点数を知られて、先輩達に勉強を教えてもらうようになって。
あの時からずっと、そして今も。
私は頼り続けている。
分かっているけれど、松原先輩になら、美味しいイチゴを届けても良いかなぁとか、少しは思うけれど。
イチゴイチゴイチゴ。
イチゴ大福の次は桜餅で柏餅で。
だったら、市川先輩連れて行くほうが良いのかなぁ?
あー…でも、嫌だなぁ。
「いただきまーす」
空腹だと、思考がまとまらない。
考え事をすると、おなかがすいてくる。
おばあちゃんのイワシと炊き立てのご飯。
「哲也、激しく後悔してるだろ?」
「うるさい」
「哲也がいなくても、好美は大丈夫だったんだよ。好美を支えてくれる人も、護ってくれる人もいる。泣いても叫んでも怒っても、全部受け止めてくれる人がいる。今更だ。哲也は選ばれない」
大輔さんは私の三つ編みを、クルクルと頭に巻きつける。
四方八方に意思表示していた三つ編みが、落ち着いていく。
「だったら、どうして晴己は俺を排除しない?」
その言葉に顔を上げる。
哲也さんは無表情のままで私を見ていた。
そして目が合って、逸らされた。
どうして私が逸らされるんだろう?
やっぱり、苛々する。
「俺の肉、取るなよ」
「大ちゃんのお肉?名前書いてないよー?」
「ケーキ食べて腹いっぱいじゃねーのかよ?」
「苛々すると、おなかがすくの!」
「好美ちゃん!大輔さん!お肉の取り合いで喧嘩しないでっ!自分達が食べる前にお客様にって、どうして思わないの?」
響子さんが、私と大輔さんの間に割って入る。
そして、お肉のお皿を涼さんの前に置いた。
「橋元さん。すみません。次回はちゃんと、1人前ずつ用意しますから」
響子さんの謝罪の言葉。
次回って、次回はあるのだろうか?
「お気になさらず。しかし…随分と変わったお姫様ですね」
そう言って笑う。
嫌味を言われた。
うー…やっぱり、苛々する。
「好美さん。質問があります」
「…どうぞ」
「どうして哲也じゃ、ダメなんだ?」
私は箸を置いた。
お茶を飲んで、湯飲みを置く。
「「変態だから」」
私と大輔さんの声が重なった。

◇◇◇

姫野の当主は幸せに満ちている。
あー…本当に幸せそう。
ニコニコ笑って私を見ているから、私も笑顔を返す。
この人の事を妖怪だと思っている人達に本当は違うのだと言いたい気もするけれど、こんな風にずっとニコニコと眺められたら、やっぱり怖いかも。
だけど、私は笑顔を返す。
それが、また…怖いのだと、兄は言っていた。
姫野のおじ様は、私にとっては良い人だ。
ちょっと子どもっぽいところがあって、心の奥底に寂しさを抱えている。
おじ様は、私と幸せな時間を共有したいと望んでいる。
それが、ちょっとズレていても。
私には興味がないことでも。
荷が重くて、面倒で、退屈でも。
物凄く膨大なお金と、尋常じゃない人手が必要だとしても。
おじ様が私に与えたいと思う幸福があれば、私は享受する。
慣れなくて苦しい時もあるけれど。
「好美。パスポート大丈夫?」
「はい。写真、変な顔だったけど」
晴己お兄様が笑う。
綺麗な顔の人に笑われて、ちょっとムカッとした。
成長するにしたがって、私は晴己お兄様の顔立ちからは離れている。
最近の晴己お兄様は以前にも増して格好が良い。
なんというか、内面って顔に出るようになるんだよね、年齢と共に。
最近の晴己お兄様は、綺麗とか素敵とかよりも、男っぽい感じだ。
まぁねぇ、なんだか色々とドロドロしてるし。
おじ様を妖怪だと太一郎先生は言うけれど、孫の夫も厄介だと思います。
「夏休みはどうする?」
「晴己お兄様は、どうするの?」
私の希望は、全ての時間を曾祖母と…だ。
離れているから、長期の休みには訪問したい。
だけど、それは私の望みであって、正しい選択かというと微妙だ。
兄はどうするつもりなのだろう?
「杏依と相談中。一箇所くらい合流できると良いね」
「そうですね」
杏依ちゃんは勝海君がいるから、数箇所を移動するのは難しいだろう。
晴己お兄様は仕事を絡めて様々な個人的な用事も済ませるつもりなのだろう。
曖昧に終えた私達の会話は、私達の関係と同じだった。
微妙な距離がある。
私と晴己お兄様の距離を近付けてくれたのは杏依ちゃんだ。
遠慮があるけれど頼れる存在。
頼りたいけれど、微妙な距離の人。
友人の夫として接するほうが、気持ちがラクだった。
そして、兄との距離は複雑なままだ。
誰も私達の間を縮めてくれない。
私達2人でどうにかしなくてはいけないけれど、この年齢の兄妹は距離があって当然な気もする。
杏依ちゃんでさえ、私達の間に入ってくれない。
従弟である須賀雅司に対しては、ちょっと強引なところもあるけれど、他人の須賀康太の家族関係に杏依ちゃんは関わってくれない。
「うわっ…美味しい」
飛び跳ねるような可愛い声に、私は視線を向けた。
「あ…すみません」
声を出してしまったことを恥ずかしがって飯田加奈子ちゃんが視線を伏せる。
普段落ち着いている彼女がデザートを食べて喜ぶというのが不思議で、私は思わず笑みがこぼれた。
「そんなに美味しいの?」
問うと彼女が顔を上げる。
「はいっ!噂には聞いていましたけれど…びっくりです」
「今度一緒に食べよう?」
…今、食べているでしょう?
私は、私と加奈子ちゃんの会話に割り込んだ人を見るが、彼は気にせずに話を続ける。
「向こうで食べると種類も多いよ?夏休みの間、1週間ほど来たら?おじさんのお休み、いつだっけ?」
既にカレンダーまで持ってきている。
「お父さんは、いつも…長い休みは取らないから」
「そっかぁ。じゃぁ、今年はおじさんにお休みあげようよ?旅行、喜ぶと思うよ?観光する所も多いし、あぁ、でも。1度は僕の演奏会に来て欲しいな」
気持ち悪い中学生に成長してしまった。
残念過ぎる。
確かに、その片鱗は以前からあったけれど。
私の腕に収まっちゃうくらい可愛かったのに。
杉山孝明君が、加奈子ちゃんを口説いている。
音楽の世界に彼女を誘惑する為に。
世界で音楽を弾かせる為に。
「香坂先生は、何日間の滞在ですか?」
孝明君に答えずに、香坂純也さんに質問をする加奈子ちゃん。
不服そうな顔の孝明君を見て、思わず噴出すると、彼が困った顔をする。
そんな視線を気にせず、私は加奈子ちゃんが美味しいと言った、艶々と光る粒に指を伸ばす。
あ、確かに美味しい。
「僕達は孝明君の演奏会前後の2週間」
「え?そんなに長く?」
「志織さんが初めてだからね。挨拶したい方達もいるし、行きたいお店もあるから」
それって、純也さんが行きたい店…だろうなぁ。
「志織さんは僕が留学中、一度も来てくれなかった。2週間でも足りないくらいなんだ。あの時来ていたら、2人で懐かしいと言いながら街を歩くことも出来るのに、今回が初めてだから、本当に大変で」
何が大変なのかは分からないけれど、純也さんは不満たっぷりだ。
留学中に行かなかったら、こんな風にずっと責められるのだろうか?
私は、不満顔の純也さんに光る粒達を差し出した。


番外編 6

2014-03-12 01:48:26 | 指先の記憶 番外編

「卑怯だぞ。涼」
「抱き合いながら言われたくない。哲也に勝てないのなら争いたくない」
「涼が勝てないのは、現時点で、だ」
いや、違う。
現時点でも哲也さんは勝っていない。
「毎日毎日イワシを持参されたら、好美は陥落する」
おばあちゃん、ごめんね。
毎日イワシは、ちょっと無理です。
「俺は頼まれた料理を持って来ただけだ。何が卑怯だ?」
「橋元さん、哲也さん、好美ちゃんと一緒に食べます?」
「はい。いただきます」
「涼は帰れ。用件は伝えた。帰れ」
「この状況で俺だけが帰るのは不公平だ」
「涼は家族に話したのか?好美にプロポーズすることを、家族は納得しているのか?」
「話していない。納得するわけがない。俺は自慢できる恋愛など一度もしていない」
自信たっぷりに答えなくても。
それに、プロポーズだと表現されても、違う気がする。
「だけど、15歳から執着し続ける哲也よりはマシだと思っている」
私も同感だ。
響子さんは私達に構わずに準備を始めている。
家政婦さんが出入りする度に、料理の香りが増えていく。
男性2人が増えたから、お肉料理を増やしたみたいだ。
私は子ども達とケーキを食べているから、それほど空腹ではない。
お昼も、杏依ちゃんに勧められて、色々食べちゃったし。
イワシとご飯とお味噌汁だけで良いかも。
でも、野菜と肉を食べるように響子さんと哲也さんが言いそうだ。
だったら、涼さんはラクかもしれない。
私が何を食べても、どんなことをしていても放っておいてくれそうだ。
だって、私に興味がないから。
料理のことを考えていたら、どんどん冷静になってきた。
涙も止まり、溜息を出す。
哲也さんから離れよう。
彼の手つきが怪しくなってきている。
宥める様な手のひらだったのに、今は指先が私の背骨を辿っている。
「現行犯」
背中から哲也さんの指が離れた。
「好美が二十歳になるまで戻ってくるなって言っただろ?わざわざ会いに来るな」
イワシを持ったまま、私は背後に引っ張られる。
「いらっしゃい。大ちゃん」
イワシが大輔さんの手でテーブルに置かれた。
「好美も、哲也を煽るなと言っただろ?」
「私、何もしてないもん」
以前と同じせりふを返したけれど、本心は以前とは違うことには、自分で気付いている。
「無自覚も自覚ありも、どっちも悪い」
「大輔さんも食べます?」
響子さんは私と大輔さんの会話など、気にしていない。
「いただきます。あー…好美、パスポート取りに行った?」
「まだ」
「早く行かないと」
「はーい…」
覇気のない私の声に、大輔さんが呆れた視線を向ける。
「パスポートって…今なのか?」
哲也さんに問われて、私は視線を逸らす。
「俺がイギリスに行く前に言っただろ?申請しろと。今まで持っていなかったのか?」
頷くと、哲也さんが大輔さんを睨む。
大輔さんは無関係だから、睨むのは可哀相だ。
「哲也を基準にして好美が行動すると思うなよなぁ…好美が今回申請したのは、小野寺君が留学するから。響子さんの父親が好美を連れて行くと言った時に、パスポートありませんなんて、言えるわけがないだろ?」
「俺の時は申請せずに、小野寺弘なら申請するのか?」
「当たり前だろ、哲也」
当たり前なのかどうか、分からない。
だけど、響子さんにも言われたし、無理やり申請場所に連れて行かれたし。
その時に見た書類から、私の母のことも、私の兄のことも、文字で理解することが出来た。
分かっていたことだけど、自分の目で見て、それを受け入れることに戸惑ったのは事実だ。
その現実を響子さんと大輔さんが私に見せたかったのだと…それも事実だ。
そして、姫野のおじ様の援助で留学することになった弘先輩に会う為には、パスポートが必要なことも、事実だった。
「好美。小野寺君が」
「響子さん。私、ご飯とイワシで充分かも。だってケーキ食べちゃったし」
「留学期間中は日本に戻れないから」
「お野菜は、抜きでも良いかなぁ」
「好美!」
聞きたくない。
考えたくない。
弘先輩のこと、思い出したくない。
立ち上がって、この部屋で食事をするか母屋の台所に行くか、離れに行くかを考えて、腕時計で時刻を確認する。
「あっ…」
思い出したのと同時に、声が聞こえた。
近付く話し声。
姿を見せる人。
「松原先輩!こんばんは!」
必要以上に元気な声を出した私に、松原先輩は焦りもしない。
私の情緒不安定に、彼は凄く慣れてしまっている。
私は松原先輩に母屋の一室を貸している。
その部屋で彼は勉強を教えている。
進学塾で講師のアルバイトもしているけれど、個人で家庭教師もして、今日のように生徒を集める時もある。
その集まる場所に私の家を使用したいと言ってくれた時、お役に立てるなら、そう思った。
松原先輩は感謝してくれたけれど、実際には私に弘先輩と会う時間を作ってくれた。
高校を卒業した先輩達に会えなくなるのは寂しいと思っていたのに、松原先輩、弘先輩、由佳先輩が講師として生徒を集めた。
瑠璃先輩は時々お手伝いしてくれるし、授業抜きでも、時々会いに来てくれる。
「今日は、サッカー部のみんなですよね?」
私が卒業しても、部員達が来てくれるから、私の家はいつも賑やかだ。
中学生の生徒もいる。
小学生の授業もある。
だから…施設の子達も来ることがある。
杏依ちゃんの図々しさとは違う手段で、松原先輩は私の場所を守ってくれた。
「今日は瑠璃も手伝ってくれるから、+3人分で、軽食お願いします」
「はい!」
って、私が作るわけじゃないけれど。
+4じゃない。
これからは、弘先輩は含まれない。
「ということで、ここからは個人的な話題。弘が」
聞きたくない。
松原先輩が弘先輩を呼ぶ声は、ずっとずっと中学生の時から聞いていて、私は色んなことを思い出してしまうから。
考えたくない。
それなのに。
「うっ…」
ポロリと一粒零れれば、もう止まらない。
「松原先輩が」
また、損な役目ばかり。
「説得してくれれば良かったのに」
ポタポタと畳に涙が落ちる。
「行くなって言ってくれれば良かったのに」
あの時、哲也さんが受け止めてくれなかった思いを、弘先輩と松原先輩は受け止めてくれた。
理不尽で勝手で我侭で。
何度も心の中で謝りながら、私は先輩達に甘え続けている。
「ごめん。姫野」
大きな手のひらは、誰にも似ていない。
「俺がもっと、弘と話し合えば良かったのに」
話し合っても、弘先輩は勝手に1人で決めたと思う。
「俺が行く時は一緒に行こう?」
パスポートなど必要ないと思っていたのに、松原先輩の言葉に私は素直に頷く。
「姫野にお願いがあるらしい」
何だろう?
「イチゴを」
「…はい?」
見上げると、困ったように溜息を出された。
「イチゴは、やっぱり日本が美味いらしくて…まぁ…それには俺も同感だが。で」
凄く凄く言いにくそうだ。
「会いに来るのなら、イチゴが美味しい季節でお願いします、らしい」
「あ?え?い、いちごー?」
ピタッと涙が止まる。
「ちょ、ちょっと!私がイチゴ持って行くんですか?美味しい時期を選んでですか?帰ってきたらいいじゃないですか!そんなに食べたいのならイチゴ狩り行けばいいでしょ!」
曾祖母の近くでイチゴ狩りもあった気がする。
行って、たっぷり食べて、写真送ろうかな?
うん、そうしよう。
「弘先輩なんか、大嫌い!」
松原先輩が笑う。
「だよなぁ。嫌いだよなぁ」
「嫌いじゃなくって大嫌いなんです!」
「あぁ、分かった分かった」
「分かってません!」
「俺、準備あるから」
「ちょーっと待ってください!」
私の叫び声に混ざって、おなかが鳴った。