りなりあ

番外編 12 4/7 UP 
ありふれた日常 4/8 UP
ありふれた日常 5/30 UP

約束を抱いて-48

2006-11-30 23:09:09 | 約束を抱いて 第一章

「私は、弱い自分と戦わなきゃいけないの。優輝君も、そうでしょう?」
見上げてくるむつみから、優輝は目を逸らした。
笹本絵里は優輝が決勝戦で負ければ、金銭を渡すと言ってきた。卓也の怪我は、背中に大きな傷跡を残している。その治療費を絵里は用意すると言ったのだ。
そしてもう1つ、絵里は優輝に提案した。
『決勝戦が一番の大舞台でしょ?だから、そこで負けて欲しいの。そうすれば、むつみちゃんは傷つくわ。悲しむわ。一度くらいそんな思いをさせてもいいでしょう?そうすれば、その後は関わらないわよ。晴己様はあの子を守れなかった。だから、橋元君が守ってあげればいいじゃない。』
絵里の冷たい視線を思い出す。
「優輝君が、この試合に出ているのは、私の為?」
むつみから聞かれ、優輝は目を瞑る。
「それだけじゃないよね?卓也君の治療費の為?」
優輝は目を見開いた。やはり、むつみは全てを絵里から聞いているのだ。
「私は、ちゃんと自分で進むから。私自身が変わらない限り周りの状況は変わらないわ。」
優輝は兄の言葉を思い出していた。
『時と共に、関係が変わるのは当然だろう?どうしてそれを受け入れられない?』
「優輝君。お金は…手に入れる方法が、あるでしょう?」
優輝は、むつみの“提案”を思い出していた。

◇◇◇

優輝はむつみを控え室に残して公衆電話に向かった
「兄ちゃん?」
《どうした?》
「どこ?」
《…買物。》
「嘘つき。観に来ているのに。」
電話の向こうで涼が沈黙したのが、答えだった。
「…卓也は?」
そして、耳にもう1つの声が届く。優輝は電話越しに、久しぶりに卓也の声を聞いた。
「…直接、言わなくてごめん。」
試合に出ることを、優輝はクラブの仲間を通じで卓也に伝えてもらっていた。
《出るか出ないか、それは優輝が自分で決める事だろ?》
ポツリ、と卓也が言う。
卓也と会話がはずまない、そんな事は珍しい事で、優輝は違和感を感じながらも言葉を続けた。
「俺…続ける事にした。」
電話の向こうが沈黙する。
「やめても何も変わらない。俺がテニスをしていなかったら、こんな事にならなかったかもしれない。いや…卓也が怪我をする事なんて絶対になかった。」
《…クダラナイ。》
優輝は思わず耳を疑った。
《そんな押し付けがましい感情、気持ち悪い。》
「卓也?」
《で、俺が皆から言われるわけ?もったいない、優輝がやめたのは、もったいない。今度は俺が責められるじゃん。コーチや晴己さんや。優輝からも。》
「どうして俺が責めるんだよ。」
《責めるよ。今は違っても、いつか思う時が来る。どうしてやめたんだろう、どうして続けなかったんだろう、後悔するに決まってる。それに、まともに練習してないから、優輝ぼろぼろじゃん。弱いじゃん。》
卓也の口調は早く荒くなっていくが、はっきりとした口調だった。
《ギリギリ勝利、って状況じゃん。》
「卓也!」
優輝は苛立ってきた。
《やめて欲しいなんて思ってないし。やめられたら、俺、自分で自分の事、責めなきゃいけないじゃん。》
「…」
《それにさ、あの子にも責められるし。》
「あの子?」
《斉藤むつみ?優輝さぁ、練習サボって彼女と会ってただけじゃねぇの?情けねぇ。ずっと晴己さんみたいになりたくないって言ってたのに。ちょっと相手が可愛くて綺麗》
「卓也!」
《実際そうじゃん。彼女に惑わされて負けるなんて最悪。》
「…なんだと?」
《そうだろ?彼女の為に負ける、やれるもんならやってみろよ。そうすりゃ、晴己さんは優輝に感謝するかもな。頭が上がらないよ。プライドも実力も、今までのこと、全部捨てて斉藤むつみを守ったら、晴己さんは、もう何も優輝に言えなくなる。でも優輝が、それを理由に負ける事を選んだって知ったら、晴己さんは自分の事を責め続けるんじゃないのか?そんな事をするくらいなら試合に出なければ良かったのに、そう思うに決まっている。》
『そんなに辛いのなら、やめればいい。』
晴己の言葉を思い出す優輝の耳に卓也の声が届く。
《そんな最低最悪な格好の悪い状況、選んでみろよ?優輝…全部、失くすぞ。》
卓也の声は、とても強かった。


約束を抱いて-47

2006-11-30 17:52:05 | 約束を抱いて 第一章

優輝の前に身を屈めたむつみは、床を見つめたまま深呼吸をした。
「来てたの?」
分かりきった事を優輝は聞く。
「今日だけ?」
むつみは首を横に振る。
「晴己さんは?」
「はる兄も…初日から…観てる。」
やっぱり、と優輝は思う。
久保は晴己は来ていないと言ったが、そんな訳がないと思っていた。もし本当に来ていなかったら、完全に見捨てられた事になる。
自分の中にある、晴己に対する矛盾した気持ちを感じながらも、優輝は安堵していた。
「優輝君は、はる兄の結婚式に来てたの?」 
突然、むつみが予想もしない話題を出し、優輝は首を傾げた。俯くむつみの表情は分からない。
「行ってない。あの日、海外だった。」
「新堂の家に行った事はある?」
「あるよ。」
「地下は?」
「ワイン倉庫?あるよ。でも、一度割ってからは立ち入り禁止になった。」
そう言った優輝をむつみは見上げて、クスクスと笑う。
「割ったの?高いワインもあるでしょ?」
「…だよなぁ。」
「…杏依さんには、会ったことがある?」
「ある、けど?」
「私ね、杏依さんの事が大好きだったの。」
むつみは、晴己の妻の話を始めた。
「はる兄と杏依さんが付き合い始めた時、凄く嬉しかった。だけど、結婚が決まってから凄く寂しくなってきて。おめでとうって言いたいし、言わなきゃ、そう思っていたけど言えなかった。」
むつみは淡々とした口調で話していた。
「だから、結婚式の日、地下で泣いていたの。」
優輝は視線を落とすが、やはり彼女の表情は分からない。
「相手が杏依さんじゃなければ…もっと嫌な人で、私の嫌いな人だったら、絶対に結婚しないでって言ったのに。」 
彼女の話に優輝は相槌を打つ事も出来ず、ただ聞いているだけだった。
「1人で地下に降りて、気持ちを落ち着けよう、そう思っていたら声をかけられたの。」
むつみは薄暗い地下を思い出していた。
「寂しいのなら、結婚して欲しくないのなら、言えばいい、そう言われたの。はる兄の友達に。」
むつみが顔を上げて、首を傾げた。
「…誰?」
「分からない。ワイン倉庫は暗いし、私は泣いていて顔を上げられなかったから。声しか知らない。私は、寂しいなんて言えない、そう言ったら」
優輝は息を飲んだ。
「自分を裏切る事だけは、しちゃだめだって言われたの。」
むつみが、また俯く。
「私は余計に分からなくなって。寂しい気持ちを隠すと、自分を裏切ったことになるし、もし正直に寂しい気持ちを伝えていたら、それだって、自分を裏切る事になるの。だから分からなくて、余計に涙が出てきて。」
むつみが、優輝の足首を撫でた。
指が震えていて、でも、その指先が温かいと優輝は感じていた。
「それなら、おめでとう、と言えばいい、そう言われた。その言葉で誰かが傷つく事はないし、誰もが喜んでくれる。私自身がそれを受け入れられなくても、いつかこの選択が正しかったと思える時がくるって。はる兄と杏依さんは、誰よりもその言葉を、私に言って欲しくて、そして」
むつみが顔を上げた。
「私自身だって、2人が幸せになって欲しい、そう思っているのは事実だから。」
優輝はむつみを見た。むつみは、どんな気持ちだったのだろう。
自分の本心を言葉にする事を選んでいたら、彼女は追い詰められなかったのでは、と思う。
「斉藤さんは…傷ついたんじゃないのか?」
むつみが、瞳を伏せる。
「…でも、それは私の弱さだわ。はる兄の幸せを拒む権利なんて、私にはないから。」
晴己の話をして、むつみが寂しいと感じる事が、優輝の気持ちを掻き乱す。
「その人がね。」
顔を上げたむつみが、寂しいのに笑顔を浮べる。
「いつか会う時が来たら、よく頑張ったね、って褒めてあげるよって。」
「…褒めてくれた?」
「…まだ、だけど。」
そう言って笑ったむつみは、寂しそうでも悲しそうでもなく、なぜか、とても子供っぽい笑顔で、いつか来るその日を楽しみにしているようだった。


約束を抱いて-46

2006-11-27 16:28:06 | 約束を抱いて 第一章

優輝はむつみと手を繋いでいた。
実際は、優輝が彼女の手を掴んでいる感じだった。あの店では、むつみが優輝の手を掴んでいたのに、と不思議な気持ちに優輝はなるが、今のむつみは、自分で歩こうとする意思を感じさせないくらい、ぼんやりとしていた。
少し強引に手を引かないと、むつみは歩を進めない。
駅に辿り着いて、優輝はホッとする。

早く駅に到着したくて早足で歩いた優輝に付いて来たむつみは、少し息が荒れていた。
「大丈夫?」
むつみは息を整えているのか、返事をしない。
ただ、優輝が手を放そうとした時、むつみの方から力を込めてきた。
「斉藤さん。」
優輝は再び、むつみの手を握り返す。
「帰ろう。今日は隣にいるから。だから…電車に乗れる?」
絵里に深く帽子を被らされたむつみが視線を上げ、そして頷いた。

◇◇◇

翌日から優輝の生活は変わった。
正しくは、元に戻ったのだ。
早朝に公園まで走り体を動かし、登校する。
放課後はテニスの練習に励み、一日を終える。
優輝がずっと繰り返していた日々が、また再開された。
黙々と優輝は日々を繰り返し、試合に挑んだ。
まるで当たり前のように順調に決勝戦まで進むが、優輝がその頬を緩める事はなく、ピリピリと張り詰めた雰囲気が、彼を取り囲んでいた。
「痛むのか?」
尋ねる久保の顔が引きつっていた。
「少し…テーピング、しておいた方がいい気がする。」
優輝は俯いたまま答えた。
「…そうか。」
自分の足首に触れようとする久保から逃げるように、優輝は足を動かす。
「…斉藤さんは?」
「優輝?」
「ずっと…斉藤さんがしてくれていたから、彼女にしてもらう。」
屈んでいた久保は立ち上がった。
「…連絡するけど、わざわざ来てもらうのか?」
「来ていないの?」
久保は呆れ顔を優輝に向けた。
「来れないだろう?晴己だって来ていない。優輝を混乱させないように、そう考えている。」
「本当に?晴己さん、試合観に来ていないんだ?決勝なのに?あんなに鬱陶しかったのに。俺は…見捨てられた?」
自嘲気味に笑う優輝を見ながら、久保は携帯を取り出した。
久保が話している間、優輝は自分の足首に手を置き、溜息を出す。
「これから来るってさ。むつみちゃんも一緒に。」

◇◇◇

晴己とむつみが優輝の控え室に姿を現わしたのは、10分も経過していない時だった。
優輝は晴己に会うのは久しぶりだった。
最後に会った日から一週間と少しという短い期間だが、優輝には長い時間だった。
遠い土地の試合でも、晴己は何らかの方法で優輝に連絡を取って来てくれていたし、直接会わなくても晴己の存在は身近に感じていた。
こんなに長い時間、晴己を遠くに感じたのは、彼が大学受験を控えた年以来だった。
受験生だから仕方がないと思っていたのに、後で付き合っている彼女と会っていた事が分かり、優輝は途端に晴己が嫌になった。
今回の件は、優輝自らが望んだ事だが、やはり辛かった。
晴己の『やめればいい』という言葉。
優輝自身がそれを望んでいたのに、投げつけられた言葉は、あまりにも冷たかった。
「はる兄…」
むつみが不安げな声で晴己を見上げ、晴己はその背中を押して、部屋から出て行った。
晴己は優輝を少しも見ることなく、出て行ってしまった。
「あの…」
戸惑っているむつみにテープを差し出す。
むつみの姿は登校する度に見ているが、こんな風に話すのは久しぶりだった。
「…痛むの?」
むつみの瞳が揺れていて、優輝の心が痛む。
だけど優輝は頷いた。
優輝の前に屈んだむつみの指が、震えている。
“捻挫が、また少し痛む”その事実を知ったむつみの気持ちを思うと、優輝は辛かった。


約束を抱いて-45

2006-11-24 20:04:48 | 約束を抱いて 第一章

「晴己さんがやめた原因を考えても仕方ない。もう、どうでもいいよ。俺はテニスやめるし、晴己さんを追いかける必要もないし、目標にもしなくていい。何も関わる事はないから。」
晴己に見捨てられたと思うと、優輝は胸が痛んだ。
「斉藤さんは、重要?晴己さんがテニスをやめた理由。」
むつみは、しばらく考えて、そして首を横に振った。
「本当の事なんて…教えてくれないと思う。SINDOを継ぐ事を選んだ、そう言われてしまえば、それは当然だと思うから…。はる兄は続けたくても難しい環境だと思うし。」
むつみが、ゆっくりとした口調で優輝に問いかける。
「優輝君は、続けたい、そう思っているでしょう?」
「…違う。」
「嘘だってすぐに分かる。3歳からテニスを始めて、毎日練習をして強くなりたくて、確実にそれを現実に変えていて」
「晴己さんから聞いたのか?」
むつみが小さく笑った。
「違う。優輝君が私に話してくれたのよ?」
言われて、むつみに話した自分の夢を思い出した。
「短い時間だったけれど、私は優輝君を見ていたし、優輝君は、私に話してくれた。」
むつみは、初めて会った春の日を思い出していた。
力強い眼差しだった優輝の瞳は、今は輝きを失っている。
「私よりも、もっと長い時間、優輝君を見てきた人達がいる。こんなこと誰も喜ばない。」
優輝はテニスを始めた時を、はっきりと覚えている。テニスは面白くて楽しくて、褒めてもらうのが嬉しかった。その中でも、晴己に褒めてもらうのが嬉しくて、晴己に認めて欲しくて、毎日飽きもせずに練習をしたのを覚えている。あまりに夢中な優輝に困った晴己に勉強をするように言われて反発した時も、根気強く晴己が優輝の宿題を見てくれた事もある。
「優輝君。」
むつみの指が優輝の頬を撫でる。
『見捨てられた事は彼女だって分かっています。』
優輝は、また絵里の言葉を思い出す。
自分の責任で怪我をさせてしまった事を悔む気持ちを、むつみは知っている。
誰よりも晴己の想いを受けていると信じて疑わなかった気持ちを、むつみは感じていたはずだ。
そして、その人に見捨てられてしまった悲しさも…。
「…えっ?」
思わず声が出て、優輝は慌ててむつみの腕を掴み、自分の頬から離す。袖口で目を拭いて、その袖口が濡れているのを見て、初めて自分が涙を流した事に気付いた。
自分の涙に驚く優輝の手を、むつみが取る。
「早く、ここから出よう。絵里さんの話なんて、まともに聞く必要ないわ。」
むつみが強い口調で言った。

◇◇◇

むつみに手を引かれて優輝は薄暗い通路を歩き、扉に辿り着く。
「俺は、笹本絵里と話があるから。」
「どうして?あの人と話しても何も解決しないわ。優輝君は自分の思い通りにすればいいだけでしょう?」
優輝は自分の手首を掴んでいるむつみの指に手を伸ばした。
振りほどけば簡単だと分かっていたが、優輝は振り解かず、むつみの指を一本ずつ、優しく自分の手首から放し始めた。
ふいに、むつみが優輝の手首を放した。
「お願い、あの人の所に行かないで。」
むつみの腕が優輝の体に回される。
「私、優輝君のことが好きなの。」
優輝とむつみの視線が絡み合う。
「橋元君!」

背後からの声に優輝はむつみを自分から離して、扉を少しだけ開けた。
「むつみちゃんを一人にしないで!」
その声に、優輝は慌ててドアを閉めた。
「勝手な事をしないで。」
駆けてきた絵里は厳しい口調で優輝を咎め、持っている荷物をむつみに差し出した。
「忘れ物よ。」
それはここに来る時までにむつみが着ていた、彼女のコートだった。
そして、絵里は、コートを着たむつみに帽子を被せる。
「橋元君、このドアを出たら駅まで行くのよ。誰に声をかけられても相手にしちゃだめ。」
優輝とむつみは目を見合わせた。
「むつみちゃんを、放さないで。」
絵里が2人の横を通り、ドアを開ける。
「絶対に放さないで。…むつみちゃんも、橋元君の手を放さないで。」
絵里が、むつみの背中をそっと押した。


約束を抱いて-44

2006-11-22 20:12:40 | 約束を抱いて 第一章

優輝が初めて絵里を見たのは、この店だった。
試合に出る事を決めた優輝が、クラブの友人に会って卓也に伝えて欲しいと頼んだ後に、周囲の騒がしさに視線を向けると、むつみが笹本絵里に叩かれていた。
次に会ったのは、大西にこの店に連れて来られた時だった。
その時に絵里と大西から、むつみと晴己の事を聞かされた。
絵里は優輝に試合に出場する事を勧めた。
そして、ある提案を出した。
「優輝君にとって、何もプラスになる事は、ないのに?」
むつみが優輝を見る。
『橋元君の実力なら決勝まで進む事なんて簡単でしょ?だから、そこまで勝ち進んで欲しいの。そして』
絵里の声が頭に響く。
『決勝戦で負けるのよ。』
「笹本絵里から何を聞いたか知らないけれど、放っておいてくれよ。」
絵里はむつみに全てを話してしまったのだろうか?
「次の試合を最後に、やめるの?」
むつみは優輝の言葉など聞いていないのか、質問を続ける。
優輝は自分の気持ちをはっきりとさせるべきだと思った。ずっと言えなかった事を自分の言葉で伝えなければ、いつまでもむつみは、自分に関わってくる。
「やめるよ。」
「どうして?」
「既にやめていたから。次の試合に出るのが特別なだけ。」
優輝がむつみを見る。
「聞いたんだろ?笹本絵里に。俺がテニスをしていなかったら、卓也は怪我なんてしなかったんだ。俺は、晴己さんの好意を当たり前のように受けていた。それが周囲の反感を買っている事は知っていたけれど、晴己さんの好意を拒む事をしなかった。」
優輝は7月を思い出していた。
「呼び出された場所に卓也が一緒に行くと言ってくれた時も拒まなかった。あいつらは、俺に怪我をさせようと思っていただけなのに。」
むつみは、優輝に助けられた時を思い出していた。
「テニスをやめるのは卓也君の怪我が原因だから?そんな事を言われたら、卓也君が辛いわ。」
優輝は、触れられたくない部分に触れられた気がした。むつみの言っている事は正しい。優輝自身が気付いていた事だ。
「周りから言われる。怪我をしなかったら優輝君は責任を感じなかった。テニスをやめる事なんてなかった。また一人、実力のある選手が潰されたって。」
自分で言って自分を苦しめているようにむつみは感じる。同じような言葉を、何度も言われた事がある。
「その怪我が、俺が原因なんだよ。」
「やめて何が変わるの?怪我をした事実は消えないわ。」
優輝は目を見開いた。
「そんな事でやめるの?」
「そんな事?俺にとっては重要な事だよ。」
「それなら、どうして試合に出るの?やめるのなら出なくてもいいじゃない。」
むつみの意見は尤もだった。
でも、その口調が晴己と重なり、絵里のマンションの駐車場での晴己を思い出してしまう。
「俺は」
「私のため?」
優輝が言葉を呑み込んだ。
「私が優輝君に怪我をさせてしまったから?治った事を私に伝える為?はる兄が…頼んだから?」
優輝は、苛々とした。
晴己に頼まれたのは事実だし、自分もそれに従うほうが楽だと思っていた。
だけど、むつみには言われたくなかった。
「でも、勝たなきゃ何も意味がない。」
むつみの言葉に優輝は息を呑んだ。
「負けたら、怪我が原因だと思っちゃう。もし捻挫していなかったら、もっと練習できたのに、って。」
「違う!」
むつみが絵里から“話”を聞いている事を優輝は思い出した。

「でも、はる兄はそうだったわ。」
「…晴己さんはずっとテニスを続けていた。」
「怪我は致命傷ではなかったかもしれない。私は、分からないの。はる兄の言葉を信じて良いのか、他の人たちの言葉を信じて良いのか。優輝君が言ったように、はる兄は」
むつみの声が少し震えていた。
「私のためなら、嘘だってつくと思う。それを事実にすることも、可能だわ。」
優輝は絵里の言葉を思い出していた。
『どうして晴己様は結婚なさったの?斉藤むつみが成人するのを待てば良かったでしょう?』
絵里の言葉は、優輝に嫌悪感を抱かせていた。


約束を抱いて-43

2006-11-20 23:01:14 | 約束を抱いて 第一章

その場を離れようとした優輝は絵里に肩を掴まれた。
「裏口から出なさい。」

優輝は絵里の言葉を無視するが、大西が優輝を呼んだ。
「言う通りにしたほうがいい。斉藤むつみは…目立ち過ぎる。」
大西の言葉に、優輝は周囲を見渡した。店内にいる客達が自分達を見ている。そして店の外にも人が集まっていた。
「SINDOの本社が近い。誰が来るか分からないぞ。それに」
大西が鍵を絵里に投げ返す。
「桜学園の生徒は、制服を着て街中を歩いたりしない。それもこんな時間に、こんな店で。学園の風格を乱すだけでなく、本人にも危害が加えられる。それぐらい知っているだろう?」
大西の言葉はむつみに向けられていた。大西はポケットに突っ込んでいた帽子を深く被り椅子に座った。
そして、優輝はむつみと一緒に絵里の後に続いた。

◇◇◇

「待っていて。すぐに戻るわ。」
ドアが閉まる。
絵里に案内された部屋には窓がなく、机が1つ置かれ、椅子が積み上げられている。ロッカーが並んでいて、従業員用の更衣室のようだった。
積み上げられている椅子を降ろす気にもなれず、優輝は床に座った。
入り口付近に立っているむつみを見上げて、呼ぶ。
「座れば?」
首を横に振る彼女の気持ちは分かる。
椅子の他にも、物やダンボールが積み上げられていて、優輝の隣しか空いていない。
優輝は自分が座っている床を見て、手でその場所の埃を払う。
「座れば?その制服、汚したくないのか?」
埃まみれの床など不似合いな制服を着ているむつみを見た。
その制服は、とてもむつみに似合っていた。
優輝は桜学園の制服を間近で見るのは初めてだった。
テニスクラブには桜学園の生徒が大勢いたから、どうして自分を桜学園に入学させてくれなかったのか、両親に尋ねた事がある。

だけど、中学生にもなれば、その理由なんて簡単に分かる。
桜学園に通う為に必要な資金など、一般的な会社に勤務する優輝の両親に払えるはずがないのだ。
テニスクラブに通うのも、合宿に参加するのも、テニスを続けていれば、金銭的な問題が発生するのだということを、優輝は最近になって、ようやく知った。
「斉藤さんは、桜学園だったのか?」
奈々江の部屋を思い出していた。
和室に閉じ篭っていた優輝にも、奈々江と晴己の声は届いていた。
『中学からは公立を選んだ事が、彼女の意思表示でしょう?』
あの時は意味が分からなかったが、今なら奈々江が晴己に言った言葉の意味が分かる気がした。
涼の『新堂晴己といえば斉藤むつみだろ。』という言葉も、むつみの『離れられない』という言葉も。
「中学に入学するまでは。」
積み上げられている荷物を避けて、むつみが優輝の横に座る。
「中学も、そのまま進むつもりだったけど、途中で気が変わったの。勉強は物足りなかったし、そのまま大学まで進むのは納得いかなかったから。」
「…だから制服、持っているんだ。」
「…捨てちゃえばいいのに、ね。」
むつみが小さく笑う。
むつみが着ていたのは、桜学園の中等部の制服だった。どうしてそんなものを着ているのか尋ねたいと思うが、優輝は面倒な気がして、それ以上は何も聞かずに、目を閉じた。

静かな空間だった。すぐ傍での店の喧騒は耳に届かない。
「…ごめんなさい。」
暫くして、むつみが小さな声を出した。
優輝は、目を閉じたまま問う。
「何が?」
「何も知らなくて…。卓也君の事、知らなくて。優輝君がテニスをやめた理由を知らないのに、勝手な事を言ってごめんなさい。」
優輝は、ゆっくりと目を開けた。
「…絵里さんの話を、受けるの?」
むつみが不安そうに優輝を見ていた。


約束を抱いて-42

2006-11-17 18:09:03 | 約束を抱いて 第一章

優輝は道路の反対側から店内を見渡す。店外にも並べられているテーブルには、数組の客が集まっていた。
ここから、むつみが叩かれる光景を見たのを思い出しながら、優輝は道路を渡り店の前に立つ。
先週の金曜日、練習を終えた優輝は、以前同じクラブに通っていた大西に声をかけられた。そして、この店で笹本絵里を紹介された。
「橋元?」
声をかけられて振り向くと大西が立っていた。
「晴己さんが迎えにきたんだろ?」
大西は不思議そうに尋ねた。
「晴己さんは関係ない。」
大西が笑う。
「そんな事、言えるようになったんだ?あの人の後ろばかり追いかけていたのに。」
優輝は深呼吸をした。
「大西さんは、卓也の事、何か知っているのか?」
「俺が?何をだよ?卓也は崩れてきた材木からおまえを庇った。それだけだろ?事故だよ。」
「俺たちはあの時、大西さんに呼ばれて」
「だから?救急車呼んでやっただろ?俺が行ったから助かった。感謝しろよ。」
優輝は唇をかむ。
「責任を人に擦り付けるな。絵里さんの話は受けるのか?」
「何処だよ。絵里…さんは。」
「もうすぐ来るだろ。中で待てば?」
促されて優輝は店の中に入り、座ろうと思った時だった。
「絵里さん?」
大西が優輝の背後を見て驚く。不思議に思った優輝は、振り向いた。
「な、なんだよ。」
絵里の隣に、むつみが立っていた。
「…本当に、斉藤むつみと知り合いだったのか?馬鹿じゃねぇのか?そんなに自分を追いつめてどうするんだよ?それとも、そんなに晴己さんを利用したいのか?晴己さんに取り入りたいのか?」
大西の言葉に優輝は反論しようとするが、絵里が割って入ってきた。
「驚いたわ。マンションの前で待っているんだもの。だから折角だから教えてあげたの、卓也君の事。それから私の提案もね。」
絵里は得意気に優輝に言う。
「私の事を酷いって言うのよ?私の出した提案は、そんなに酷い?無理強いしているわけじゃないでしょ?橋元君が決めればいいのよ。そうでしょう?」
優輝は絵里の言葉を聞きながら、むつみを見た。
「帰ろう、優輝君。」
むつみが、優輝に言う。
むつみは制服を着ていた。だけど、優輝の家にいた時に着ていた制服とは違う。
「橋元君は私と話があるから、ここに来たのよ?邪魔をしないで。橋元君が怪我をしたのは、あなたのせいでしょう?それなのに、しつこく付きまとうのね。晴己様の時だって。自分が疫病神だって分かってる?自分の存在がどれだけ晴己様に迷惑をかけているのか分かっている?」
絵里は強い口調だった。

「晴己様の邪魔になっているのが分からないの?」 
むつみは何も言い返せなかった。
「大西君。この子をむこうに連れて行って。邪魔だわ。目立つのよ、桜学園の制服は。」
言われた大西は戸惑っていた。
「それとも、私の部屋を使う?」
そして、絵里は鍵を大西の前に投げた。
「橋元君に嫉妬なんてしないで、この機会を利用すれば?斉藤むつみと話したくても、今までは無理だったでしょう?」
絵里がむつみの手を取り引張ろうとするのを、優輝は立ち上がって、絵里の腕を掴んだ。
「嫉妬しているのは、そっちだろう?」
優輝が絵里を見上げた。
「晴己さんが憎いのか?それとも俺達が憎いのか?俺達が特別な存在だから?」
優輝は絵里の腕を放し、むつみを自分の後ろに隠す。
「晴己さんが傍に置いたのは、晴己さんの意思だろ?」
優輝は、家の廊下で見た涼の瞳を思い出していた。むつみを見る涼の眼差しを懐かしいと感じた。
「そんなに悔しいのなら、自分がそれだけ価値のある存在になってみろよ。」
優輝はむつみの手を取る。
『優輝は自分の進みたい道を歩めばいい。もしそれに晴己が賛同してくれて与えてくれる好意は素直に全部受け取ればいい。だけど、それに縛られる必要はないから。』
周囲から疎まれて妬まれていた時に兄が言った言葉を思い出す。小学生の自分には理解できなかった兄の言葉。
『自分だけは見失うなよ。俺達は優輝の味方だ。俺達家族が出来ない事は晴己に頼ればいい。それは優輝自身にそれだけの価値があるってことだから。』
優輝は、むつみの手を強く握った。


約束を抱いて-41

2006-11-16 18:48:26 | 約束を抱いて 第一章

優輝がドアを閉めて暫くすると、再びドアが開いた。
「涼?」
祖母の問いかけに、涼は首を振る。
「…大丈夫だよ。」
何が大丈夫なのか分からないが、そう答えていた。祖母は、優輝を止めなくて良いのか聞きたかったのだろう。少し不安な表情を見せるが、靴を脱ぐとむつみに話しかける。
「何か飲むかい?」
座ったままのむつみは、優輝の祖母を見上げて、少し笑みを浮べる。
「…すみません…。大丈夫です。あの…お邪魔しました。」
何が大丈夫なのか、むつみも分からないがそう言っていた。
廊下に座り込んだままの、むつみと涼の姿は、決して普通ではないし、少しも大丈夫には見えないが、優輝の祖母は2人の言葉を受け取って、ダイニングへと入って行った。
その姿を見送って、むつみは溜息を出す。いろんな事を整理して考えたいと思うが、何が起こっているのか全てを知らない彼女は混乱しているだけだった。ただ自分の存在が優輝を苛つかせている事は、理解していた。
「送って行くよ。」
涼の声に顔を上げる。
「…追いかけなくて、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。」
また、涼はそう言った。
「あの、卓也君って?」
「…君には関係ない。優輝の事は俺達家族がどうにかする。君が何かをしたところで状況が変わるとは思わない。」
「試合、出ないつもりですか?」
「…それが、大きく違うところだよ。」
溜息混じりに吐き出されたその声は、あまりにも冷たい。
「その考えが、家族と他人の違いだよ。君と晴己はテニス選手としての優輝の事ばかり考えている。だけど俺達家族は違う。優輝が無事でいればそれでいい。」
涼は、葛藤していた。
無理矢理に優輝を説得したほうがいいのか、それとも、優輝の判断に任せたほうがいいのか。
「他人の君達に何が分かる?追い詰めるだけじゃ何にもならないんだよ。無理やりに道を作る訳にはいかないんだ。決めるのは優輝だ。」
冷たい視線を浴びせられても、むつみは涼から目を逸らさなかった。

◇◇◇

時々、涼が振り返ってむつみを見る。むつみの歩幅に合わせる様に、ゆっくりと歩き、むつみが付いて来ているかを確認する涼の動作が、むつみには嬉しかった。
「あの…涼さん。」
名前を呼ばれて涼は立ち止まった。
「そう呼ばせてもらってもいいですか?」
振り向くとむつみが自分を見ていた。あまり気分の良いものではない。だからと言って、優輝君のお兄さんでは長いし、橋元さんも橋元君も変な気がする。涼君とも涼とも呼べないだろうから、むつみが出した提案は最適かもしれない。
「別に、いいけど。」
そう答えて、気付く。むつみに自分の名前を呼んでもらう必要などないのに。彼女とは関わりたくないと思っているのだから、呼び方なんて決める必要などない。
「良かった。」
むつみが嬉しそうに微笑む。和やかに会話をしている場合ではないのにと思いながら、涼は歩き出した。
「涼さん。」
背中にむつみの声が届く。
「涼さんは、私の事を知っていました?」
気付けば、むつみが隣を歩いていた。
「はる兄とは、ずっと昔からお友達?」
涼は、少し足を速めた。
「晴己の事は優輝がテニスを始めた時から知っていた。でも個人的に話すようになったのは同じ大学に進んでから。」
むつみを見ると、その目が話の続きを促していた。
「…君の事は、自然と耳に入ってきたよ。」
晴己の近くにいると、むつみの名前は度々出てくる。
「あの、涼さん。」
むつみが立ち止まり、涼の腕を掴んだ。
「…以前に…お会いした事、あります?」
涼は立ち止まって、むつみを見た。
『あなたは私の事を知っているの?』
薄暗い空間に響いた声を涼は思い出していた。
「会った事はないと思うよ。何処かですれ違った事はあるかもしれないけれどね。」
そして涼は、また歩き出した。


約束を抱いて-40

2006-11-15 16:17:04 | 約束を抱いて 第一章

優輝は玄関のドアが開いた音に気付かなかった。
ダイニングのドアが開き、ようやく言葉を止める。
「兄ちゃん…。」
涼が庭に出ている祖母に話しかけながら玄関のドアを開けた時、家の中から優輝の声が聞こえてきた。すぐに止めに入ろうと思ったが、祖母に諭されてしまった。
優輝の本音を聞く事が出来て良かったと思うが、そこには涼が認めたくない事実も含まれていた。
「何を…している?」
それは弟に対してだけでなく、むつみに対しても向けられていた。関わって欲しくないのに、家に入り込んでいるむつみが信じられなかった。
「帰ってくれないか?」
冷たく言い放つ涼の言葉に俯いてしまったむつみは、床に置いてあった鞄を手に取った。
「優輝?」
むつみの行動を見ていた涼は、優輝が自分の後ろを通った時に、ようやく気付いて、慌てて廊下へと出た。
玄関へと足を向けている優輝の腕を掴む。
「優輝!」
勢いよく腕を掴まれて優輝は壁に背をぶつけた。
「…いってぇ…何するんだよ!」
例え運動神経が優れていて、力のある優輝でも成人した兄には敵わない。壁に抑え付けられると、その場から逃げる事など、出来なかった。
「何処に行くつもりだ?」
涼が優輝を見下ろす。
「あの家に行くのか?笹本絵里とは関わるな!」
反論しない優輝の態度が答えになっていた。
「笹本絵里?」
むつみの声が聞こえて、涼が視線を向けると、和室から出てきたむつみが廊下に立っていた。
「…絵里…さん?」
むつみの顔が引きつり、焦点が合わなくなっていく。
「どうして、優輝君が、あの人を知っているの?」
口元が震えていて、涼は久保の言葉を思い出していた。
幼い頃に笹本絵里に叩かれ、頭上から赤ワインを流されたむつみにとって、笹本絵里の存在は恐怖に近いものだろう。
「学校に来なかったのは…あの人の家に…いたから?」
むつみが優輝と涼の傍まで駆けて来た。
「やめて!お願い。あの人の所に行かないで!」
むつみの悲痛な叫びに涼は眉間に皺を寄せた。
「利用されるだけだわ!あの人は、はる兄の周りにいる人間が邪魔なだけ。優輝君は新堂の犠牲にならないで!」
むつみは、自分の声が耳に届いた瞬間、呆然とした。その姿を見た涼が、むつみに問う。
「君は、自分が犠牲になっていると分かっているのか…?」
「…そんな、つもりは…」
否定するむつみは、自分の言った内容に驚いていたのだろう。だけど、おそらく、それが彼女の心の底にある本心。
「分かっていて、晴己と離れないのか?」
「…だって」
むつみが、その場に座り込んでしまった。
「…はる兄から離れられない…」
優輝は、そんなむつみを見て背筋が震えた。
怖い。むつみに執着している晴己も、晴己から離れられないと思っているむつみも。2人の関係に嫌悪感を感じる。
「そんな事を言っているから何も改善されないんだろう?」
涼が優輝の腕を放して、むつみの前に膝をついた。
「もう、幼い子供じゃないだろう?晴己がいなくても生活していける。年齢と共に、時と共に、関係が変わるのは当然だろう?どうしてそれを受け入れられない?」
涼を見上げるむつみの瞳が潤む。
「昔と同じ状況を続ければ、君が犠牲になるだけだ。」
「犠牲?」
立っていた優輝も、慌ててむつみの前に座った。
驚いたむつみが、思わず後退りするのに構わず、優輝はむつみを食い入るように見て、そして涼へと視線を移した。
「俺、笹本絵里に会ってくる。」
「優輝!」
ゆっくりと言い切った優輝の腕を涼は掴むが、優輝は涼をしっかりと見ていた。
「あの人が、卓也の事を何か知っているんだ。」
「優輝?」
涼は、弟の目の奥にある光を、懐かしいと感じた。
ずっと、塞ぎこんでいた優輝が、少しだけ自分自身を取り戻し始めたような気がする。
「俺は、晴己さんの言いなりにならない。新堂の犠牲になんて、ならない。」
強く言い切った優輝が2階に上がり、数分で降りて来た。その間、むつみと涼は状況が分からず無言のまま座っていた。
玄関に立つ優輝が、涼に告げる。
「兄ちゃん、家まで送ってあげて。」
そして、ドアが閉められた。


約束を抱いて-39

2006-11-14 20:09:20 | 約束を抱いて 第一章

「はる兄が、本当にそんな事を言ったの?」
優輝はむつみが自分を疑っているように感じた。そんな事を晴己が言うはずがない、彼女はそう思っているに違いない。
「はる兄は優輝君にテニスを続けて欲しいだけよ?だから久保さんにお願いしたんじゃないの?」
むつみが問いかける内容が、更に優輝を刺激していく。
「晴己さん晴己さんって、うるさいな。晴己さんは自分が出来なかったことを俺に押し付けているだけなんだよ。その為ならどんなに卑怯な手段だって使うんだよ。」
「卑怯?」
「ああ、そうだよ。何でも自分の思い通りになると思っている。それが晴己さんの“力”かもしれないけれど、権力や地位を俺の前に振りかざして」
「はる兄の悪口は言わないで。」
立ち上がったむつみが、小さく低い声を出す。
「事実だよ。少なくとも俺の晴己さんに対する印象は。斉藤さんは晴己さんの汚い部分を知らないだけだよ。俺は晴己さんの言いなりになるなんて、絶対に嫌だ。」
向けられるむつみの眼差しに怒りを感じて、優輝は遠慮のない言葉を続ける。
「斉藤さん、他人だろ?関係ないじゃん。」
むつみの瞳が揺れる。
「それなのに、何もかもが晴己さんの言いなり?全てが晴己さん中心?斉藤さんに何の権利があるんだよ?」
むつみの目から涙が流れた。血縁関係というものは、どんなに本人が望んでも変えられないものだ。生まれる前から決まっている事実。むつみは、その現実に何度も悲しい思いをしてきた。涙を流すむつみに優輝は一瞬戸惑ったが、ここでもう一押しすれば、彼女とは関わらなくて済むようになると思った。
「晴己さんには家族がいるじゃん。杏依さんがいるだろ?斉藤さんが、どう思っていても、晴己さんは同じ気持じゃないだろ?あんたは他人だよ。」
その言葉を聞いて、むつみの涙がピタリと止まった。避けようとしても避けられない事実。誰もが当然だと言う事実。それを優輝に突きつけられて、改めて自分の不確かな立場を思い知らされる。優輝も、言ってはいけない言葉だと分かっていた。でもあえて、彼女が傷つく言葉を探していたのだ。そして、さらに追いうちをかけるように言った。
「結婚してテニスをやめて。俺には女におぼれて自分を捨てた間抜けな人間にしか見えないけどね。」
むつみの中に、怒りと悔しさと悲しさが沸き起こる。優輝が言った言葉はむつみが耳を塞いでいた内容だ。晴己が結婚してから、周りで囁かれる噂。聞きたくないと耳を塞いでいても、同じ事がむつみの心に沸き起こっていた。付き合っていた香坂杏依と結婚を決めた時、晴己はテニスをやめた。むつみは残念だと思う一方で、ようやく自分の背負っていたものから逃れられたと思った。
「私の中のはる兄を壊さないで。」 
晴己の弱い部分なんて知りたくない。むつみの中で晴己は完璧な人間でいて欲しい。
「それはこっちが言いたいよっ。」
むつみは優輝の叫び声に驚いた。
「俺の中で晴己さんは完璧な存在だったんだよ。杏依さんの為にやめてしまったとしても、それまでに俺が見てきた晴己さんは事実なんだからって、自分にそう言い聞かせて、だったら俺が晴己さんを超えるんだって思えるようになったのに。ずっと追いかけて追い抜きたいって。なのに、俺が見てきた晴己さんは嘘だったって今更知らされてどうしろって言うんだよ!」
「嘘って…」
「あの人がやってきたテニスはなんだったんだよ。俺がずっと見てきたテニスはなんだったんだよ。全部、あんたの為だったのかよ!!だからあんなにあっさりやめたのかよ!」
「私の為じゃないわ!」
「晴己さんは斉藤さんの為なら何だってするんだよ。俺に頭をさげる事も、嘘をつき続けることも。それをされた俺がどんな気持ちだったと思う?俺の中で完璧で誰よりも尊敬していた人なんだ。俺の中の晴己さんを壊したのは斉藤さんじゃないかっ!」
それが、優輝の本心だった。   
「どうして俺の前に現れたりしたんだよっ!」
理不尽な事を言っていると分かりながらも、優輝は止められなかった。
むつみと出会わなければ、晴己に対してこんなに敵意を感じる事もなかったのに。晴己が自分を見捨てる事などなかったのに。
やめればいい、晴己の言葉は優輝にとって、強いショックだった。
晴己に見捨てられたのだと、優輝は感じていた。