「中原君。誰なの、その人?」
慎一は、むつみを見上げた。
「さぁ…?知らない人です。」
「知らない人を泊めたの?」
むつみの勢いに慎一は一歩下がるが、後ろにいた吉井の体に背中が当たる。
「えぇっと…悪い人ではないと」
「そういう人が一番危ないの!」
登校してきた加奈子が状況を水野に問うが、水野は不思議そうに首を傾げただけだった。
「親切にも家まで送ってくれて」
「その程度の事で騙されるなんて!」
「えっと、昨日、急に母が転院することになって、理由が分からなくて色々と考えてしまって。それで、僕は疲れていたみたいで、家に戻ったら眠ってしまって」
「どうしたの?…ちょっと、むつみ。落ち着きなさい。」
姿を見せた加奈子が、むつみを慎一から離した。
「中原、斉藤先輩の言う通りだよ。その人、素性が分からないんだろ?世話になる家って信頼できるのか?」
「それは大丈夫です。でも…彼も、そんな不審人物ではないと思います。だって、お金持ちっぽい気がしたし。」
「そんな事で人を判断しちゃダメ。」
むつみが慎一の両肩に手を置いた。
「お金なんて簡単に手に入れられる人だっているのよ。卑怯な手段とか、理不尽な事とか。その人がお金持ちっぽいなんて、どこで判断したの?家まで送ってくれた事には感謝するべきだと思うけれど、そのまま帰らずに図々しく家に上がったのよね?中原君が疲れていて眠そうだって分かっていたのに、勝手に泊まって早い時間に起こすなんて。常識がないわ。そんな人を信頼するなんて、お金があるとかないとかの問題じゃないわ。」
「むつみ。」
加奈子に腕を掴まれた事に、むつみは気付かない。
「世の中には悪い人だっているの。利用されるし弱点を探すし、嫌がらせも、お金を持っている人の方が」
むつみが慎一の左腕を掴んだ。
「先輩。」
慎一は自分の腕を掴む手に、自らの左手を乗せた。
「心配かけてしまったみたいで、ごめんなさい。」
手の甲を慎一に撫でられて、むつみは驚き、そして言葉を止める。
「今日からは大丈夫です。1人じゃないから。」
「…そう、ね。」
むつみは慎一の腕を放した。
そして、振り向くのが怖いと思った。
今の行動は自分でも予想していなくて、昨日のパーティで勝手な言動をした時とは全く違った。
また優輝に嫌な思いをさせてしまった。
「斉藤先輩は、優輝さんの気持ちを掻き乱すのが得意だよね。」
水野の声が、むつみを責める。
「水野。余計な事を言うな。」
吉井が水野を咎める。
「えー?だって、俺でも嫌だよ、今のは。自分の好きな人が他の男の事を、例え中原みたいに恋愛対象外だって思える相手でも、感情を露にされるのって嫌でしょ?」
水野の言葉は、むつみに自らの言動を後悔させる。
「…っ…はは」
慎一から声が漏れた。
「せ、先輩、橋元先輩…お、怒っているんですか?」
笑いながら声を途切れさせながら、慎一は優輝を見る。
「す、すみません。だって。やきもちですか?僕に?どう考えても誰が見ても、橋元先輩が斉藤先輩とお似合いでしょ?凄く好きだって事は、見ているだけでも分かりますけれど、そんなに僕に怖い顔を向けないでください。僕よりも水野先輩の方が手強い相手、でしょ?」
慎一が水野を見上げた。
「…って、そんな事もないか…な?」
その言葉に水野が眉間に皺を寄せるが、慎一は相変わらず笑顔だった。
「それなのに、何が不満ですか?」
慎一の問いに、優輝は何も答えず無表情なままだった。
「僕なんて、どう見ても“弟”にしか見えないでしょ?」
慎一が欠伸をした。
「…やっぱり保健室行ってきます。」
慎一は自分よりも背の高い上級生達を見渡し、そして変わらず笑顔を向ける。
「御心配なく。僕は斉藤先輩の事」
そして、また小さな欠伸。
「嫌いですから。」
慎一の声に予鈴の音が重なる。
茫然と立ったままの上級生達に慎一は笑顔で手を振ると、廊下を小走りで駆けて行った。
いつも通りのコースを走り終えた優輝は、ベンチに座り飲料水の蓋を開け、明るくなっていく空を見上げていた。
自らが宣伝している内容を思い出すと気分が良いものではないが、次の依頼も断らない方が賢明だという事は理解している。“むつみの提案”が実現するとは思わなかったし、この手段を教えてくれた彼女が、あの時の自分を救ってくれたのは、紛れもない事実だった。
それなのに、自分は彼女の役に立てない、助けてあげられない。せめて、理解ぐらい出来れば良いのに、それさえも心の狭い自分には苦痛だと、優輝は感じていた。
「おはよう。」
その声が聞こえた事に優輝は驚かなかった。
「おはよう。」
隣に座ったむつみの表情は、とても晴れやかだった。
「昨日はごめんね。」
彼女の開放されたような表情を見ると、昨日のパーティには大きな価値があったのだと思い知らされて、責める気持ちなど起こらない。
「自分でも気付いていなかったの。絵里さんに会う事はないと思っていたし、優輝君から絵里さんの名前を聞くなんて、考えもしなかったから。でも、本当は凄く気になっていたみたい。笹本の人達の事。」
優輝は絵里の部屋を逃げ場にしていた時期がある。
あの出来事が、むつみを更に傷つけたことは確かだった。
「あの時は、ごめん。」
「謝らないで。あれが最善の策だったと思うから。絵里さんがあの提案を出さなければ、優輝君は試合に出なかったでしょ?試合に出ないと、決勝戦とか優勝とか、有り得ないもの。試合に出るキッカケを作ったのは絵里さんだわ。」
むつみが穏やかに微笑む。
「いつかまた、会えると良いな。」
その言葉が、むつみが昨夜の出来事を後悔していない事を証明していた。
「今日は晴れそうだね。」
今日の始まりを告げる太陽が昇り、街を照らす。
眩しそうに日差しの中で目を細めた彼女は、とても綺麗だと優輝は感じた。
◇◇◇
優輝とむつみが登校すると、吉井のクラスの前で慎一と吉井が話していた。
「おはようございます。」
優輝達に気付いた慎一は挨拶の後に、欠伸をした。
「寝不足なのか?」
「大丈夫です。今朝の1時間目、自習なので寝ることにします。今日は四時起きだったから、ちょっと変な感じで。でも睡眠時間自体は取れているので、少し眠れば復活します。」
「四時?」
むつみは早すぎる時間を不思議に思い、問いかけた。
「早いでしょう?起こされたんです。吉井先輩、これが」
慎一は吉井にメモを渡した。
「新しい住所です。担任と顧問の先生には報告しました。」
受け取った吉井が、心配そうに慎一を見下ろした。
「大丈夫か?暫くは部活、休んでいいぞ。」
「すみません。明日からは大丈夫です!」
元気良く答えるが、やはり慎一の声には張りがない。
「引越したんだ?」
伸びてきた手が、吉井からメモを奪う。
「あ…。水野先輩、おはようございます。今日から知人の家にお世話になることになって。」
バスケ部員3人の会話を聞きながら、優輝は自分達の教室に向かう為に歩き出そうと思ったが、慎一の声に止められる。
「橋元先輩。今日、斉藤先輩の家の前で待っていたでしょ?」
「本当か中原?どういうことだよ優輝さん。」
理由を水野に説明する必要はないと、優輝は思った。
「本当ですよ。お世話になる家、斉藤先輩の近くだから。」
「…近く、なの?」
むつみの問いに慎一が笑顔を向けた。
「はい。母の入院が少し長引きそうなので、病院のご夫妻の家にお世話になることになりました。」
その内容に、むつみはホッとした。
慎一が大江夫妻に預かってもらえるのなら安心だ。
「大丈夫か?中原。その人達、朝の四時に起こすんだろ?酷くねぇか?」
「あ、違います。そのご夫妻じゃないですよ。僕も状況が分かっていなくて。」
「…なんだ、それ?」
水野が怪訝な顔を向けた。
「妙な、おにいさんなんです。ちょっと今まで会った事がないというか。」
慎一が思い出すように首を傾げた。
「昨日、会ったばかりの人なのに、目が覚めたら、その人がいて。迎えに来ているから荷物をまとめろって言われて。」
「中原君。」
むつみが他の彼等を避けて、慎一の前に立った。
明良はコンビニの袋から中身を取り出した。
「良かったらどうぞ。缶コーヒーとパンです。」
「…なんだ、おまえは?」
男性は怪訝そうな瞳を向けたが、窓を全て開けて素直に袋を受け取った。
その間、明良は車内を見渡し、助手席に置かれている鞄を見つける。
「昨日から僕を尾行していたでしょう?」
「おまえじゃねぇよ。」
男性が誤魔化すようにパンの袋を開けた。
「写真は趣味ですか?」
「馬鹿にするな?一応プロだぞ。ちゃんと今回も依頼されたんだ。」
「そうですか。可愛い男の子が好みで追いかけているのかと。変わった趣味の持ち主だと思ったのですが。」
「なんだと?仕事だ仕事。誰がこんな事、好んでするか?それに、おまえじゃない、って言っただろ?海の向こうから戻ってきた俺は資金がゼロ。家族に会いに行くにも、手土産がないのは問題だ。」
男性が缶コーヒーを飲む。
「大変ですね。」
言いながら明良は、窓から車内に腕を入れた。
「ちょっ。なにする気だ?」
短い時間だが、男性が缶コーヒーを置く場所に悩んだ為、明良は窓から鞄を取り出すことに成功し、車から離れると鞄からパスポートを取り出した。
「あ、本当だ。いろんな国のビザがある。へぇ。髭がないと随分と印象が違いますね。あ、フィルムだ。僕を撮りました?」
車の横に戻ると、窓から顔を出していた男性が腕を伸ばす。
「あぁ!だめだって。だから、おまえじゃない、そう言っただろ?それは俺の可愛い姪の写真!」
「…姪?」
「隠し撮りしたわけじゃないからな。偶然だ。最後に会ったのは中学生の時だったからな。全然、会っていなかったんだ。俺は行く先々でハガキとか手紙とか、撮った写真を送っているのに、あいつは何も返してこない。そんな無慈悲な奴でも俺には可愛い姪なんだ。」
それは彼が個人的に大切な写真のようで、明良はフィルムと鞄を返した。
「ったく。あいつは。何で俺が撮ろうとしている写真の中に入ってくるのかねぇ。まったく。あいつが邪魔で全然撮れないし。なんで一緒に行動してるんだ?嫌になる。仕事にならない。」
独り言を続けながら、男性はフィルムを胸ポケットに入れた。
「不本意な依頼は大変ですね。」
明良の言葉に男性は頷く。
「本来は、どのような写真が専門ですか?」
「動物。」
「…可愛いものが、好きなのですか?」
「違うって言ってるだろ?写真の個展、開いてくれるって言う甘い言葉にのっちまって。嫌な仕事も個展の為、そう思っていたら…にいちゃんに話しても仕方ないな。今、俺は大人として社会人として葛藤中だ。そんな事、分からねぇよな。にいちゃんには。」
男性は1人で話し続ける。
「仕事や自分のプライドよりも、カネの力に負ける時もあるんだよ。あぁ、でもなぁ。身内として、これは…。」
「手土産、喜んでくれると思いますよ?」
「え?」
男性が明良を見る。
「あなたが撮った写真が充分に手土産だと思いますよ。早く会いに行ってあげたほうが喜ぶんじゃないですか?日本を離れたのは随分と前のようですし。」
「だな。そうだな。よし、やっぱり俺には、こんな仕事は合わねぇ。ありがとうな。礼をしたいが何も持ち合わせていない。悪いが出世払いでいいか?」
「年上の人から、そのような言葉を言われるとは考えもしませんでした。」
「冷たいことを言うな。俺よりも、にいちゃんの方がカネに困っていない顔をしている。何処の坊ちゃんか知らないが、そうだな、俺が個展を開いた時、こんな卑怯な手段じゃないぞ。ちゃんと認められた時に、にいちゃんが撮って欲しい写真を撮ってやる。」
「…撮って欲しい写真?」
「現在は無名の俺に撮られても、何も価値がないだろう?だが、俺が世間に羽ばたいた時!名誉な事だぞ。」
自信たっぷりな男性の言葉だが、明良は全く期待を持てなかった。だが、好きな事に没頭している姿が、なんとなく微笑ましくも感じる。
「じゃぁな、にいちゃん。」
車の窓が閉められ、男性が車を走らせる。
微かに明るくなってきた空を明良は見上げた。
「…え?……………………うわっ!!」
瞳を開けて飛び起きた慎一が周囲を見渡す。
ようやく起きた事に安堵した明良は立ち上がった。
「ど、どうしてですかっ?」
慎一が明良を見上げる。
「どうして明良さんがいるんですか!」
「…大きな声を出さない。まだ夜明け前だ。」
声変わりしていない慎一の声は、全く睡眠をとっていない明良の耳に、少し痛く響いた。
「部屋まで送ってやったのに、勝手に寝たのは慎一君だ。」
「…それなら朝まで眠らせてください。こんな時間に起こさないでください。嫌がらせですか?」
幼い顔に似合わない言葉で、慎一は言い返してくる。
「僕を1人にしないように、って思ってくれたんでしょ?その気持ちには感謝します。その好意に甘えて朝まで寝ます。早朝練習に間に合う時間まで寝ます。」
そう言って再び布団に潜り込む慎一を明良は止める。
「何故、僕が慎一君に嫌がらせをする必要がある?君が早朝練習に間に合う時間まで眠っていたら、こっちが困るんだ。僕が学校に間に合わない。」
「それじゃ。気になさらず帰ってください。」
「…今日の分だけでいい。他の荷物は後で取りに来い。学校と部活の準備だけでいいから早く荷物をまとめろ。」
「荷物?ええぇえぇ?」
明良は布団と一緒に慎一の身体を抱えた。
「ちょ、ちょっと何をするんですか?」
「だから静かにしろと言っただろ。隣の部屋に響く。大江さんが迎えに来ている。今日から慎一君は大江さんの家で生活するんだ。お母さんには大江さんから話しているから心配するな。」
「どういうことですか?降ろしてください。」
「それなら食生活を見直せ。中学生の男がお姫様抱っこされるのは情けないと思わないか?」
「わ、分かりました。分かったから降ろしてください。準備が出来ませんからっ!」
布団の上に降ろされた慎一は、再び明良を見上げた。
「な、何者ですか?あなたは?」
「何者って大袈裟な。桐島明良だよ。」
「それは分かっています。昨日、お聞きしましたから。」
「無用心だよ。昨日会ったばかりの素性の知らない人物を家に招くのは。」
「それはお互い様でしょう?あなただって僕の事を知らないはずだ。」
慎一の言葉に明良は少しだけ口元を緩めた。
「それとも…僕を…僕の家族を知っているの?」
今にも泣きそうな大きな瞳に見つめられて、明良は目を逸らす。
「僕個人は君の事を知らない。でも、僕の親戚が君の家族の事を知っている可能性は、あるかもしれない。」
「親戚?」
「でも、それは不確かな可能性だよ。それよりも僕は。」
慎一の前に明良の手が差し出された。
「慎一君の中に、確かな可能性を見つけた。」
意味が分からず、慎一は怪訝な瞳を明良に向けた。
「そのうち分かるよ。」
慎一は差し出された明良の手と、明良の顔を交互に見た。
「よろしく。中原慎一君。」
分からないまま、慎一は明良の手に自分の手を重ねた。
「っ痛…。ちょっと明良さん。握力、凄いですね。」
「そうかな?慎一君が弱いんだよ。今日からは、しっかり食べて、ゆっくりと眠るんだね。大丈夫だよ。お母さんは警備の整った斉藤医院に移されただけだ。体は回復している。」
明良の言葉に、慎一は嬉しそうに微笑んだ。
◇◇◇
駅まで送ると言ってくれた大江夫人の好意を明良は断った。
「朝食、これでいいの?」
差し出されたコンビニの袋を受け取り、明良は笑顔を大江夫人に返した。
車が去るのを見送り、明良は道を歩く。
目的の車は街灯に照らされていて、まるで自分の存在を示すかのような無防備さだった。相手は思慮が浅い人間だと分かり明良は安心した。
昨夜から停まっている車の助手席側の窓ガラスをノックすると、目を開けた車内の人物が驚いて体を起こした。
慌てて車を出そうとする男性に明良がコンビニの袋を見せると、窓が少し開く。
単純な思考の持ち主で良かったと明良は感謝した。
「おはようございます。」
「…まだ暗いだろ。なんだ?」
「明るくなると困るのは、あなたでしょう?一晩中車を停めたまま。不審者ですよ。警察呼びましょうか?」
様々な方面の記憶を辿るが、無精髭の男性の顔に明良は心当たりがなかった。
酒を全て飲み干した晴己がグラスをテーブルに置いた音に、大輔は驚いて顔を上げた。
「何を、思い出していた?」
晴己が真っ直ぐに自分を見ていた。
「あ、えーっと。むつみちゃんの事を考えていて。小さい時、可愛かったなぁ…え?」
肩に手を置かれて、見上げると哲也が小さく首を横に振っていた。
「今も可愛いと、僕は思うよ。」
晴己の言葉と視線は冷たい。
「…そう、だな。」
大輔は晴己と目を合わさず、視線を伏せた。
「大輔は施設を訪問した事は?」
晴己の問いに大輔は直樹と哲也を見るが、2人に無視されてしまい、仕方なく視線を上げた。
「ずっと前に…久保コーチに連れられて、テニスを教えに行った事が。え、でも。鈴乃さんの娘が預けられていた施設とは違う、と。あ、そうだ。哲也も一緒だった!」
哲也に助けを求める。
「俺達が小学生の時の話だ。」
哲也が答える。
「俺と大輔が施設を訪問したのは、その時だけだがコーチは今も続けている。他に、香坂純也さんは彼自身が小学生の頃からピアノの演奏を数箇所で行なっているし、それは結婚後も続けている。桐島明良君も積極的に訪問しているようだ。尤も彼の場合は斉藤医院で将来の為にボランティアもしているようだから、テニスやピアノとは意味が違うが。」
大輔は話し続ける哲也を見た。
いつの間に調べたのだろうか?
「ところで直樹は、どうするんだ?笹本絵里が近付くのは困る。関わるのは困る。倉田直樹の婚約者という立場を利用されると困る。婚約は白紙にすればいいだろう?直樹が決められないのなら、晴己が決めれば」
「直樹が決める事だよ。」
晴己が立ち上がる。
「俺が決めて、いいのか?」
直樹の問いに晴己は1度視線を向けるが、すぐに逸らし寝室に続くドアへと向かった。
「破棄しない。」
「直樹?」
大輔は驚いて直樹を見た。
「絵里との婚約は破棄しない。絵里を自由にするのはリスクが大きすぎる。」
「婚約者という立場なのに、笹本絵里を制御できていないのは直樹だろ?」
大輔の正しい批判に、直樹は何も言い返せなかった。
晴己が寝室の扉を閉める音が部屋に静かに響いた。
◇◇◇
「ご機嫌斜めだな。」
晴己の部屋を出ると、哲也が嫌そうに言った。
「斜めって、そんな程度か?不機嫌だよ。怒ってるよ!」
大輔は今後の事を考えると憂鬱だった。
「どうやら、杏依さんは晴己に黙って施設訪問をしていたようだな。」
何処で手に入れたのか、哲也が差し出す写真には杏依が大勢の子供達と一緒に写っていた。そこには幼い舞の姿もある。
「なんで杏依さんまで。むつみちゃんの事もあるのに。」
大輔の盛大な溜息が廊下に響く。
3人は自宅には戻らず新堂邸に宿泊する事を考えながら歩いていた。晴己も今夜は杏依と暮らす別邸には戻らないようだった。
「むつみちゃんの勝ちだな。」
むつみの部屋の前を通り過ぎた時、直樹が呟いた。
「あの時、むつみちゃんの服も絵里の服も汚れた。むつみちゃんはシャンパンの瓶を転がしていた事もある。それは大輔がさせた事。」
「え?俺のせい?」
大輔は困った。あの事件を自分の責任にされるのは、かなり気分が悪い。
「そうじゃない。俺達の小さな頃の悪戯と話を混ぜて不明瞭にしたんだよ。悪戯の犠牲者には早川修司や鈴乃さんの父親も含まれるし、むつみちゃんの服が濡れた事があっても不思議ではない。絵里に叩かれて赤ワインを流された、その事実を斉藤むつみ自らが消したんだ。証言なんて不確かだ。写真や映像も残っていない。斉藤むつみと笹本一族は和やかに談笑していた。傍目には、そう見える。」
直樹は、誰もいない部屋のドアに手を置いた。
◇◇◇
「慎一君。」
名前を呼ぶが、相手は全く反応しない。
「慎一。中原慎一。…慎ちゃん。」
慎一の瞼が動く。
「…慎ちゃんに反応するのか?」
明良は溜息が出る。
「…おかあ…さん?」
その言葉に明良は再び溜息を出した。
「慎一君。」
額の生え際を撫でると、慎一が気持ち良さそうに眠りに落ちそうになる。
「ったく。どうして僕が、こんな事を…。慎一君。」
今度は仕方なく、慎一の頬を軽く叩いた。
杏依は何も聞かずに、楽しそうに美味しそうに食事を続け、その間、晴己達が斉藤氏の相手をしていた。
その為、随分と酔ってしまった斉藤氏は車に乗ると、すぐに静かになった。
結局、瑠璃は杏依の懇願に負けて新堂邸に宿泊する事になり、家族と運転手だけになった車内には沈黙が広がっていた。碧に慎一の事を問いたい気持ちはあるが、何から話せば良いのか順序に迷い、むつみからは何も話せずにいた。
「むつみ。」
碧が声を出した時、車は坂道を随分と降っていた。
「むつみの部屋、片付けてもらいましょう。」
「え?」
「私から晴己さんに話すわ。桜学園の制服も、もう必要ないでしょう?」
「…うん。」
むつみは窓から外を見た。
新堂邸が遠くに見える。
むつみが育った、もうひとつの家。
2度と来れない訳ではないけれど、今までとは違うと感じていた。
◇◇◇
桐島明良は、規則正しい寝息を聞きながら部屋を見渡した。
コンビニの袋やレトルト食品が食卓の上に置かれている。
「栄養が偏るのは当然か。」
そして、また視線を動かす。
「不思議だな。血の繋がりは。」
電話の横に置かれている写真立てを明良は手に取った。
校門の前で撮影された写真には、数年前の中原慎一の姿がある。おそらく、隣に写っているのは彼の母親だろう。
風貌と周囲の景色から察すると、どうやら小学校の入学式の日に撮影された写真のようだった。
「僕が志織さんに似ているというのは、こういう事なのかな?」
慎一の母は、斉藤むつみに似ていると感じた。
それは髪質なのか、髪型なのか、顔立ちなのか。
定かではないが、同じ血が流れているのが分かる。
入院している子ども達に飴を配った後、明良と慎一は大江夫妻と一緒に斉藤医院を出た。
慎一を部屋まで送ると言う大江夫妻に、車から降りずに、そのまま帰宅して欲しいと頼んだ。
『先ほど彼に問い詰められていたでしょう?僕が送りますよ。僕は何も知りませんから、彼に何を聞かれても何も答えられません。』
明良の言葉を聞いた大江夫妻は、慎一を任せてくれた。明良は慎一を部屋まで送り届けたら電車で帰る予定にしていたのだが、部屋に戻った直後、慎一は明良を放って眠ってしまった。
幸いにも、慎一は自分で押入れから寝具を引っ張り出してくれたから、玄関の鍵を閉めて鍵を郵便受けから室内に放り込めばよいのだが、明良は悩んでいた。
慎一とは初対面だし、無関係の自分が部屋に滞在を続けることには問題があると思うが、慎一を1人で置いていく事に躊躇していた。
明良は照明を消すと、眠る慎一の横を歩いて和室の窓から外を見た。
一台の車が停まっているのが見える。
「参ったな。」
明良は台所に戻り、小さな照明を頼りにして電話帳から大江医院を探した。
◇◇◇
大輔は早々に自宅に戻りたかった。
家族は随分前に帰っているし、時刻は夜の12時を過ぎている。
テーブルの上に置かれたボトルは全て空になっていて、残りが注がれたグラスを持つ晴己は、一言も言葉を出さなかった。
晴己の妻である杏依が、パーティ終了後に、おなかが空いたと言った事にも驚くが、斉藤家を見送った後、晴己が従弟である自分達を部屋に入れてから何時間も経過しているのに、一言も話さない晴己にも驚く。
だが、好ましい事態ではないという事は、従弟である大輔は分かっている。
ボトルから酒を注ぐ時に、直樹が『これで最後だ』と言っていたから、これ以上新しいボトルを開ける事はないだろう。
だが、どのタイミングで帰れば良いのかと、大輔は考えていた。
晴己の従弟という立場は、とても微妙だ。
その従弟が3人も存在するのも、微妙だ。
出来ることなら、“晴己の従弟の友達”という位置の方が自分には適していたように思う。
一言も話さない晴己に、直樹は会場での出来事を報告していく。そして補足するように哲也も状況を説明する。それを聞きながら大輔は、重いからと言う理由で、シャンパンの瓶をコロコロと転がしていた幼いむつみを思い出していた。
腕を伸ばす舞の動作に、むつみは首を傾げた。
「むつみちゃん、無理しなくていいのよ。」
鈴乃の声は、とても優しい。
「重いから。」
その言葉に、舞が絵里と杏依に向かって腕を伸ばしていた光景を思い出した。
「大丈夫…だと、思う。」
何度も抱き上げて貰った事はあるが、逆の立場というのは記憶にない。少し戸惑いながらも、むつみは舞の身体を自分の腕で包む。
舞は思っていたよりも軽い気がするし、思った以上に重い気もした。その感覚が不思議で、ただ、とても温かいと思った。
「おねえちゃん。やくそくしよう。」
「約束?」
「うん。」
舞がむつみの耳元に囁く。
「まいね、おねえちゃんみたいに、きれいなひとになるわ。それでね。おねえちゃんみたいに、やさしいひとになるの。」
舞の言葉に、むつみは少し戸惑った。
「それからね。まい、なかない。まいがなくと、ままは、とてもかなしそうだから。」
むつみの肩に両手を置いていた舞は、右手を離して小指を見せた。だが、むつみは、片腕だけで舞を抱える事が不安で、そっと舞を下ろす。
「だから、おねえちゃんも、なかないで。」
舞の掌が、むつみの頬を撫でる。
「やくそくよ。」
むつみは舞と小指を絡めた。
「分かったわ。約束。」
このまま、ずっと舞の体温を感じていたいと思うが、むつみは舞の手を鈴乃へと導くと、絵里の姿だけが消えた笹本一族へと向かった。
「斉藤。」
恩師だった笹本氏が、むつみの前に立つ。
「絵里の事、父親の私から謝らせてもらう。申し訳ないが、絵里本人が君に」
むつみは首を横に振る。
「絵里さんは何も間違っていませんから。」
「だが」
むつみは笹本を見上げ、再び首を横に振った。
「まだ分からない事が多くて受け止められないけれど、ここから離れる事が出来たら、その時に絵里さんの言葉が分かる気がします。」
むつみは一歩下がり、笹本一族を見た。
「みなさま…いままで、ありがとうございました。」
深々と頭を下げる。
「いつでも遊びに来なさい。」
豊造氏の言葉に、むつみは顔を上げた。
「おじさま…まだ私には、お抹茶は苦いです。」
「それならお茶菓子を用意するわ。」
豊造氏の妻が言う。
「私の若い時の着物だけど、むつみちゃんに似合うと思うの。今度、見に来て。」
鈴乃の母の言葉に、むつみは笑顔を返す。
「きっと、舞ちゃんに似合うと思います。」
遠回しな断りの言葉に、鈴乃の母は目を伏せた。
「御迷惑、たくさんおかけしてしまって…でも、私、小さい時、ここで皆様と会える事がとても楽しみでした。」
鈴乃の手が、むつみの肩に置かれる。
「むつみちゃんの気持ち、ちゃんと…大人である私達が受け止めるべきね。でも、いつでも。私達で力になれる事があったら、いつでも会いに来てね。」
「はい。」
諦めた表情で互いに頷き合う笹本一族は、むつみの視線が動いたのを見て、晴己と杏依が戻ってきた事に気付いた。
むつみから離れた笹本一族が、晴己に深々と頭を下げる。
豊造氏が祝いの言葉と、そして鈴乃達の事について晴己に感謝の言葉を述べるのを聞きながら、むつみは彼等から離れた。
◇◇◇
笹本一族が去ると、杏依が瑠璃に駆け寄って来た。
「瑠璃ちゃーん。ねぇ、今日は泊まって?」
「…明日、月曜日だから。」
「でも。ねぇ、むつみちゃんも。」
杏依がむつみへと手を伸ばす。
「…学校、あるから。」
困ったな、と思って瑠璃とむつみは目を合わす。
「そっかぁ。残念。あぁっ!どうしよう。」
「ど、どうしたの?杏依?」
瑠璃は驚いて杏依に問う。
「おなか空いちゃった。なーんにも食べてないもん。」
やはり杏依は緊張感がない。
「瑠璃ちゃんは?ねぇ、むつみちゃんは?食べたの?」
言葉に詰まったむつみの反応が答えだった。
「これから一緒に食べましょ。むつみちゃんの部屋で。」
杏依に手を取られた瑠璃は、今までの緊張が解けていく気がした。
「彼氏、でしょう?」
鈴乃の問いを肯定して良いのかと、むつみは少し悩んだ。
碧から言われた「冷やかされる」、それは鈴乃には当てはまらないと思う。
「やっぱり…分かりますよね。」
「当然でしょ?嬉しいわ。むつみちゃんの彼氏が、あなたが自分で選んだ相手だって事、すごく嬉しいの。」
「え?」
むつみは鈴乃の言葉が不思議だった。
好きな相手は自分で選ぶ、それは当然ではないのだろうか?
「晴己様の選んだ人を、あなたが恋人として認める、そんな時がくるのかもしれないと、私と絵里は、むつみちゃんの事を…ずっと」
「不憫だと、思っていました?」
むつみの問いに鈴乃が驚いた表情を見せた。
「私も、たぶん…何の戸惑いもなかったと思います。私の中では、はる兄の存在や、はる兄の意見は絶対的なものだったから。でも」
晴己は反対していた。
だけど、むつみは自分の気持ちを止められなかった。
「自分でも驚きました。ダメだって言われても、自分でもダメだって分かっていても。」
あの頃の事を思い出すと、胸が苦しくなる。
「気持ちが抑えられないのが不思議でした。でも、認めて欲しかった。はる兄には、他の人が許してくれなくても、はる兄が認めて喜んでくれるのなら、それだけで充分…」
言いながら、むつみは自分の中に存在する晴己の大きさを改めて感じる。
晴己が出した、“テスト結果”という条件は、結果的に、むつみに優輝と過す時間を与えてくれたし、そうなる事など、晴己は分かっていたはずだ。
「幸せ?」
問われて、むつみは考えた。
「…即答、出来ないかも。まだ、ちょっと。えぇっと、かなり温度差を感じる時があって。」
鈴乃が笑う。
「でも、むつみちゃんは、とても好きなのよね?」
その問いに、むつみは迷わず頷いた。
優輝への想いが自分の中に存在する事も嬉しいし、鈴乃と、このような会話が出来る事も嬉しい。
「むつみちゃんがいてくれて、とても嬉しかったわ。あなたが舞の名前を呼んでくれた事、おかえりなさいと言ってくれた事…本当にありがとう。とても嬉しいけれど…でも、相変わらず1人で頑張ってしまう子ね。」
鈴乃の声は優しく、むつみを咎める。
「私は…私と修司さんは覚悟して、ここに来たの。噂の的になる事も中傷される事も、当然だから。でも、きちんとお礼が言いたかった。別の機会でも良かったかもしれない。でも、このパーティは特別だから。舞の命を、私達の幸せを守ってくれた晴己様に」
むつみは鈴乃の手を握り返していた。
「誰も祝福してくれなくても平気だと思っていたの。でも…ここに来て、むつみちゃんの言葉をきっかけに大勢の人が舞に会いに来てくれた。」
むつみは首を横に振った。
「私じゃ…ないです。私だけじゃ…。」
絵里と杏依は長い年月、この日を待っていたに違いない。そして、その為の準備を2人は別々の意志と行動で続けていたのだろう。
「むつみちゃんは、小さな時から、いつも。こんなに泣き虫なのに、我慢ばかり。言えない?彼氏には相談出来ない?まだ中学生で、同じ歳の彼に頼る事を躊躇するかもしれないけれど、でも解決できなくても、あなたが何を思っていて何を悩んでいるのか知りたいと思っているんじゃないかしら?」
顔を上げて見た先にある鈴乃の瞳は、とても穏やかだった。
「どうしてないているの?」
その声と同時に、むつみの服の裾を、いつの間にか戻って来ていた舞が軽く引張った。
「かなしいの?」
むつみは首を横に振る。
「違うわ。嬉しいのよ。」
むつみは鈴乃と取り合っていた手を放した。
「嬉しいの。会えた事が嬉しいの。舞ちゃんにも、舞ちゃんのママにも。」
「みんなにも?」
「そうね。」
むつみは答えながら自分の気持ちを再認識していた。
今日の出会いは、過去と未来に何かを照らしてくれるはずだ。
「じゃぁ、きょうは、たいせつなひ?」
「え?」
むつみは舞の問いに少し戸惑う。
「そ、そうね。大切な日…だわ。」
「まいも!」
舞は嬉しそうだった。
曇りのない笑顔だった。
まるで、髪に飾られている小さな花が咲くように。
パーティが終わり、晴己達は来客者を見送っていた。
「「斉藤むつみさん。」」
自分を呼ぶ声が左右から聞こえて、むつみは両隣を見た。
「すみません。お先にどうぞ。」
声を出した右側に立つ男性を、むつみは知らない。
「いいえ。どうぞ。」
左側に立つ声の主には、見覚えがあった。
「すみません。すぐに済みますので。」
むつみを挟んで会話をする2人の男性を、むつみは交互に見た。
「あなたに、お礼を言いたくて。」
「私に、ですか?」
見上げた先にある顔を、むつみは知らない。
「はい。私の」
「すみませーん。」
言葉を遮る大声の主が駆けて来る。
「あ、ごめんね、むつみちゃん。ちょっと悪いけど。」
久保は、そう言うと男性の腕を取る。
「さっきの商品ですけど、もう少し他の色も見せてください。」
「あぁ。構わないですが。」
男性が戸惑いながら、でも久保の声に負けている。
「早速ですね。これから。」
「え?これからですか?」
久保に引き摺られるようにして、男性が去っていく。
その後姿を見ながら、むつみは首を傾げた。
「いいのかな?話が途中だったみたいだけれど。」
むつみは振り向いた。
「多分…というか、私、あの方にお礼を言ってもらうようなこと、覚えがないので。あの…私に何か?」
見下ろしてくる彼を、むつみは不思議に思った。
「あ…いや。ごめん。似ていたものだから。いや…似ていないかな?」
「母にですか?」
彼は答えない。
「母には似ていないと思います。似ているのは髪だけです。」
「そうだね。髪が…とても。」
また、彼は黙る。
「むつみちゃん?」
瑠璃の声がして、むつみはホッとした。
例え碧の親しい知り合いでも、男性に見つめられるのは抵抗がある。
「今度、撮影を見においで。」
彼は背中を向けるが、すぐに振り向き、またむつみを見た。
「…監督さんと、知り合い?」
「ううん。あの時、お母さんのホテルで一緒に食事をしただけ。」
「行きましょう。」
瑠璃は怪訝に思ったのだろう。
むつみの手を取り、その場から離れた。
◇◇◇
「むつみちゃん。」
加奈子と杉山が香坂純也に連れられて会場を後にし、優輝と涼の姿も見えなくなった頃、鈴乃がむつみの名を呼んだ。
鈴乃と、彼女の夫である早川修司と、そして舞が並んで立っている。
「おねえちゃん。まいね、とってもたのしかったの。もっと、おねえちゃんと、おはなしがしたいの。また、あえる?」
舞の問いに、むつみは確信のない答えを返す。
「会えるわ。私も舞ちゃんと、もっと、たくさん、話がしたいわ。」
舞の髪には小さな花が飾られている。
それを見て、初めて新堂のパーティに来た時の杏依を思い出す。
「可愛いわ。舞ちゃんの髪。」
「いいでしょう?あいちゃんがしてくれたの。」
舞が嬉しそうに笑う。
杏依の中に、あの時の出来事が、しっかりと残っている事に、むつみは嬉しくなる。
修司と舞が、その場を離れると、鈴乃がむつみの手を取った。
「ありがとう。」
鈴乃の言葉を聞いても、泣いてはいけない、そう思った。
パーティは終わっているし、残っている人も少ない。
泣いても許される状況だが、むつみは出来る限り耐えようと思った。
「鈴、さん?」
だが、むつみの手を包む鈴乃の両手に雫が落ちる。
「ごめんね。むつみちゃん。あなたに何も言わず、何もしてあげられなくて。ごめんね。」
「いいえ、つらかったのは…鈴さん達ですから。」
「絵里を…許してあげて。」
涙を流す鈴乃に、むつみは答えられなかった。
「私が言うのは間違っているわよね。絵里を追いつめたのも、絵里に重荷を背負わせたのも私なのに。」
「鈴さん。私は大丈夫です。」
「むつみちゃん。私と絵里はね、あなたが幸せでいてくれるのなら、凄く嬉しい。」
「鈴さん?」
「それだけじゃないわ。私達も…救われる。」
むつみは鈴乃の言葉を聞いて、過去に縛られているのは自分だけではないのだと、改めて感じた。
「杏依さんの言った通りだわ。」
「なにが?」
「杏依さんから聞いた事があるの。瑠璃さんは、はる兄に冷たいって。はる兄の手を払い除けた事があるって。」
「また、そんな昔話。でも、悪い事をしたとは思っていないわ。だから謝らない。」
瑠璃の言葉にむつみが笑う。
「瑠璃さんなら、はる兄に言い返す事も出来ちゃうんだよね。凄いな。」
「凄い…のかしらね。」
理不尽な事を言われたり、自分が正しいと思っている考えを否定されたら、言い返しても許されると思う。例え、新堂晴己が相手でも。ただ、友人の夫なのだから、失礼な事はしてはいけないとは思うが、新堂という存在を恐れたくないと、瑠璃は思っていた。
「私は、むつみちゃんの方が凄いと思うわ。舞ちゃん楽しそうよ。」
「え?」
「誰が何処で聞いたのか分からないけれど。むつみちゃんの“おかえりなさい”の効力は凄かったみたいね。」
むつみは意味が分からずに瞬きを繰り返す。
「誰も話しかけられなかったのよ。むつみちゃんが最初だった。あなたが全てを知っていて、でもそれを1人で抱えて。鈴乃さん達が帰ってきた事を喜んだ。」
もう一度、瑠璃はむつみの髪を整えてあげる。
「私は、この会場にいる人達の事、あまり知らないけれど。むつみちゃんは知っている人が多いでしょう?むつみちゃんの事を知っている人も多い。鈴乃さん達の状況を知っている人も大勢いて、舞ちゃんの育った環境を耳にしている人も多い。みんな、あなたと同じ気持ちだったと思うわ。」
見上げてくるむつみの瞳を見て、泣かす訳にはいかないと思い、瑠璃はむつみの両手を取った。
「鈴乃さん達が帰ってきた事、舞ちゃんが笑っている事。みんな喜んでいる。だから、むつみちゃんも。ほら。深呼吸して。」
瑠璃に言われて、むつみは素直に深呼吸をする。
「演奏が終わるまで、このパーティが終わるまで泣かないのよ。」
むつみは瞳を閉じ、風が髪を撫でたような気がした。
坂道を自分の足で歩きたいと望んだ気持ちを思い出す。
「行きましょう。」
瑠璃の言葉に、むつみは瞳を開いた。
◇◇◇
加奈子達の演奏は大好評だった。
むつみは何度も加奈子のピアノを聴いた事があるが、杉山のヴァイオリンは初めて聴いた。
「素敵ですね。」
瑠璃の言葉に、森野が満足気に頷いた。
「森野先生は教え子に恵まれていますね。」
「それは認めるが、自分で言うな。」
「私の事ではなくて。杏依に祥子に加奈子ちゃん。むつみちゃんも自慢の生徒でしょ?」
「香坂と目黒が桜学園を受験すると言った時、何を考えているんだと思ったが。こういう事になるとはなぁ。ところで松原は?」
「帰りましたよ。バイトがあるからって。」
むつみが瑠璃に連れられて杏依の友人達と合流した時、松原英樹の姿はなかったが、森野が同席していて、むつみも瑠璃もホッとした。
誰かが何かを言いに来たとしても、森野がいれば対応方法は広がる。
「飯田は勿体無いな…。」
「え?」
森野の呟きに、むつみが反応する。
「杉山は、どうにかなるが…。今日、ここにいる金持ちの誰かが、良い話でも飯田に持って来てくれると良いんだが。」
「…良い話?」
「才能があっても飯田は留学するのは難しいだろう?香坂純也さんの好意で、今も練習を見てもらったり先生を紹介してもらったり出来るが、今後は…。」
「加奈ちゃんは分かっていると思います。」
むつみの言葉に、瑠璃は彼女を見た。
「これが香坂先生の考え、だと。香坂先生が与えてくれたチャンスを無駄にはしません。」
拍手が沸き起こる。
杉山と加奈子が握手をし、そして香坂純也が2人に歩み寄る。
晴己と杏依が感動と謝辞を述べ、皆がアンコールをリクエストしていた。
この場所には希望が溢れている。
幼い時から、そして記憶に残っていない日々も。
ずっと、むつみは、この暖かい空間で過してきた。
多くの人達の未来に繋がるチャンスが溢れる場所で、希望の未来を掴めるのは、選ばれた者だけなのかもしれない。