りなりあ

番外編 12 4/7 UP 
ありふれた日常 4/8 UP
ありふれた日常 5/30 UP

指先の記憶 第三章-12-

2010-05-25 00:14:18 | 指先の記憶 第三章

「随分と冷酷だな。」
哲也さんの声には感情がない。
「…もしかして私の事ですか?」
「他に誰がいる?」
無表情の哲也さんに言われるのは納得できない。
「どうして私が冷酷なんですか?“彼ら”の方が非常識で酷いと思いますけれど。そんな人達に対して、私は精一杯の対応をしていますよ?」
「人数も覚えていないのに?」
「え?」
「今までの延べ人数は覚えていないだろう?顔も覚えていないはずだ。もちろん名前も知らない。」
「そ、それは!話をしたこともない人達だから。それなのに私に彼氏がいるのかどうか聞いてくるとか、そっちのほうが変でしょう!」
「話をする為に、名前を知ってもらう為に、自分自身の存在を好美に知ってもらう為に告白しているんだろう?俺が好美の前に現れなかったら、好美は俺のことを知らないままだった。違うか?」
「そ…そうですけれど。」
「最初の段階として好美の前に姿を見せているのに、顔も名前も覚えてもらえない。精一杯の対応をしていると言うが、好美には誠意がない。」
車が裏門の前で停まる。
「だが」
開いている裏門の前に立つ人影。
「卑怯ではないみたいだ。その点は評価できる。」
「どうして私が哲也さんに評価されなきゃいけないんですか?」
車が裏門を通過する。
「俺は好美を婚約者に選んでいるんだ。評価して当然だろう?…まったく…康太は」
須賀君の名前を呼ぶ時は、少しだけ哲也さんの声に感情が見える。
「来るなと言っても無理だな。どれだけ心配性なんだ。」
裏庭に車が停まる。
ドアが外から開けられる前に、私は自分でドアを開けた。
そして、哲也さんにお礼を言おうと思ったのに、彼は運転席のドアを開けて外に出てしまう。
私が車から降りると、哲也さんは私の手から荷物を取り、それを須賀君に差し出した。
「ほら。好美の荷物。」
須賀君が荷物を受け取る。
「康太。好美に話がある。」
「…邪魔だと言いたいんですか?」
「別に。聞かれて困る話じゃない。そこで待ってろ。」
車内での哲也さんの説教のような注意を思い出して、少し嫌だった。
「好美。今の状況を繰り返していても、何も変わらない。余計に悪化するだけだ。」

哲也さんが、ゆっくりと丁寧に話す。
「面白がっている生徒もいるかもしれないが、何人か
は本当に好美の事を好きで告白しているかもしれない。」
私は首を傾げた。
彼らが本気だとは思えない。
「好美は相手にしない、冗談だと適当に受け流す。はっきりと断らない好美が悪い。」
新学期が始まってから振り回されているのは私なのに。
「好美が毅然としていないから、不特定多数の人間が近寄ってくるんだ。」
哲也さんの人差し指が私の額に触れる。
「嘘はつかなくていい。」
そして少し力を込められて、私の視線は上を向く。
「しっかりと相手の目を見ろ。」
言われて私は哲也さんの瞳を見た。
「そらすな。惑わされるな。面倒だと思っても、相手の言葉を聞け。気持ちに答えられなくても想いは受け止めろ。」
感情的に話されていたら、私は反論していたかもしれない。
でも、哲也さんの抑揚のない口調は、混乱している私の気持ちを少しだけ滑らかにしてくれた。
「今の好美は相手の気持ちを無視している状態だ。それは逃げていることになる。」
治まっていた鼓動が、突如早くなる。
「好美?」
哲也さんは私の変化に気付いたようで、人差し指が動く。
「私」
あの時、須賀君は私を放してくれなかった。
逃げたかったのに。
どうして私1人が、現実と向き合わなきゃいけないのか、分からなかった。
「逃げるのは嫌です。」
哲也さんの大きな手のひら。
無表情で冷たい口調で、怖い印象だけれど。
この人の手の温もりから離れたくないと、私は思ってしまう。
だけど、そんな心地良さは一瞬だった。
「逃げたくないのなら、今すぐに哲也さんに断れ。」
私の頭上に置かれていた哲也さんの手が離れる。
須賀君が哲也さんの手首を掴んでいた。


指先の記憶 第三章-11-

2010-05-16 23:12:29 | 指先の記憶 第三章

“調べる”ということは、とても大変な作業。
安易に頼んで安易に中止をお願いするのは、間違っている。
一度目は許してくれても、二度も許してもらえるはずがない。
そして、夏休み前と今では、私の気持ち自体が違っている。
でも、事実を知るのは怖い。
知らないまま今の生活を続ける方が幸せな気がする。
『“おじいちゃん”の事は分かるの。小さい時から遊びに行っていたし、一緒に住んでいると食事も一緒に食べるでしょ?でも、“おじい様”の事は分からないわ。』
和菓子を選んで欲しいと言った時の杏依ちゃんの不安そうな顔を思い出す。
結婚前は“父方の祖父”の家に住んでいたから、杏依ちゃんが分からないという“おじい様”は母方の祖父である“桐島太一郎”だ。
賢一君と明良君の“おじい様”。
そして、哲也さんが“頑固爺さん”と表現した人。
「和穂。」
左手首を右手で覆う。
カレンさんがプレゼントしてくれた腕時計。
『康太が自分の意思で自分の為に決めるのなら、私は何も言わない。好美ちゃんに康太の傍にいて欲しいの。正しい道を選べるように。』
私の指の震えが止まる。
「前回はごめんね。勝手な事を言って。今度は途中で投げ出したりしないから。あ!早く行かなきゃ。弘先輩にお弁当、全部食べられちゃう。」
和穂に笑顔を向けることが出来た自分を不思議に思いながら、私は口の中に小さな欠片で残っていたミントの飴を、のどの奥に飲み込んだ。

◇◇◇

「眠るな。」
哲也さんの声を聞いて、私は頬を叩く。
「はぁーい…。」
答えながら、また睡魔に襲われて瞳を閉じたくなる。
「好美の体力では無理だろ?今の生活は。」
「そんなことないです。大丈夫です。」
車が坂道を上る。
裏門へ続く道は、凄く久しぶりだった。
街灯だけでは周囲の景色が見えず、私は諦めて視線を哲也さんに移す。
「哲也さんは大丈夫ですか?」
「何が?」
「私を送ってくれて、休みの日も家に来てくれて。」
「康太には嫌がられているが、そうでもしないと好美に会えないだろう?」
車が停まる。
「…しかし…俺よりも康太のほうが飽きもせずに。」
門灯に照らされているのは、須賀君だろう。
「裏門を使えるようにすれば俺も康太も好美だってラクだと思ったのに、監視員みたいだな。康太は。」
須賀君が開けてくれた門を車が通過する。
そして車が停まると、外からドアが開けられた。
「姫野。早く降りろ。」
いきなり苛々としている須賀君の声。
私が抱えている鞄を、須賀君は手早く取り上げる。
車を降りる前に振り向いて、哲也さんを見て、少し名残惜しい気持ちがした。
「姫野。」
須賀君の声は、私が車に留まることを許してくれない。
「好美。早く戻って寝たほうがいい。寝不足だろう?」
「…おやすみなさい。」
車を降りて哲也さんの車を見送る。
門を閉めて石畳の上を歩く須賀君の後姿を見ながら、私は心も体も、とても疲れた気がしていた。
今日は、まだ月曜日なのに。

◇◇◇

「言えばいいだろ。婚約者がいると。」
「婚約者なんていません。哲也さん、須賀君と同じこと言うんですね。須賀君は弘先輩と付き合っていることにしろって言うし。私、嘘はつきたくないです。」
「“婚約者”が嫌なら、小野寺弘と付き合っていることにしても、俺は別に構わない。高校生が、どう解釈しようがどんな噂を流そうが俺には関係ない。嘘をつきたくないのなら、実際に小野寺弘と付き合っても良いぞ?すぐに別れるのは目に見えてる。」
「…その自信、どこからくるんですか?」
昨日と同じように、車が坂道を上る。
「毎日毎日、落ち着かないだろう?呼び出されてばかりで何人目だ?」
「人数なんて把握してません。それに、みんな…面白がっているだけだし。」
弘先輩とお弁当を食べる時間だけは、周囲の視線を気にすることもなく、穏やかな時間だった。
それなのに、今日は部室の前で待っていた五人の男子生徒に順番に“告白”をされた。
あれは完全に嫌がらせ、だと思う。


指先の記憶 第三章-10-

2010-05-14 23:58:18 | 指先の記憶 第三章

観たことも聞いたこともない。
須賀君がテニスをしていたことを知ったのは、哲也さんと大輔さんが学校に来た日。
「優勝までしたのに、その翌年からの試合には名前がない。怪我でもしてる?」
「怪我?」
「怪我をしてテニスが出来なくなった?」
「須賀君、サッカーしてるよ?」
「手首を痛めている、とか。」
「でも、須賀君…かつらむき上手だよ?」
「…包丁使いとテニスが関連あるかどうか私には分からないけれど。とにかく、須賀君は健康体よね。どこか体を痛めているとか、そんなことは感じないわ。」
和穂の言葉に私は頷いた。
「優勝しているのに、やめてしまうなんて変だと、好美は思わない?」
私は和穂の問いに答えられなかった。
須賀君のことで分からない事や理解できない事は、たくさんある。
「どうする?前回私が調べたのは、ここまで。再開する?」
私は和穂を見た。
真剣な眼差し。
校内での彼女の印象は真面目な生徒、だと思う。
輪を乱すことなく、秩序を守る。
そして、こちらが助けを求めるまで彼女は何も聞かない。
「…桐島…太一郎の家族のことを…。」
その後の言葉が続かない。
しばらくして、和穂が口を開く。
「政治家よね。香坂先輩の祖父、でしょ?」
「知ってるの?」
「当然。ファン暦は好美よりも長いのよ。気になって当然でしょ?本人にその意思はなかったとしても、私から見れば、松原先輩から、あっさりと乗り換えたとしか見えなかったわよ?新堂晴己に惹かれてしまった香坂先輩を責める気はないけれど、どうして新堂晴己が香坂先輩を選んだのか、気になるでしょ?その時に知ったの。彼女の祖父が桐島太一郎で、彼女の母親が新堂晴己の父親の元婚約者だと。」
「元、婚約者?」
和穂の口元が上がる。
自信に溢れる表情。
瑠璃先輩のノートに書かれていたことが事実だとしても、そこに記されていない真実も存在するはずだ。
「和穂。」
和穂が微笑む。
「好美。報酬は貰うわよ。」
和穂の要求に答えられるだろうか?
「須賀康太とデートさせて。」

「え?そんなことで良いの?」
和穂が頬をふくらませた。
「そんなことってねぇ…好美は当たり前のように彼の温情を受けているでしょうけれど。」
「えっと、和穂って須賀君のこと、好きなの?」
「別に。好美の話を聞いていたら気持ちも冷めちゃうわよ。あまりにも校内でのイメージとギャップがありすぎて。でも、親しい人間に対しては、優しいのかなって考えると、興味があるの。だって作り物みたいな感じだもの。普段の須賀君は。」
「作り物?」
和穂が私の頭を、子どもにするように撫でると私に飴を差し出した。
「似てると思ったのよね。好美と須賀君。」
私は飴を口に含む。
「好美の場合は、結果的に良かったと思うよ。みんな、どんな話題で好美と話せばよいのか分からなかったもの。でも、ファンクラブに所属したことで、共通の項目で話ができたわ。」
「項目って…。」
「実際そうでしょ?松原先輩のことを話題にする時は、お互いの家族構成や生活なんか関係ない。好美が私達に歩み寄ろうとしてくれたんだって分かる。須賀君も同じように、私達に馴染もうとしてる。でも彼の場合は同級生達と同等というよりも、頼れるクラスメイトの位置みたいだけれど。」
「だって須賀君変わっているもの。おじさんだよ。精神年齢とか。」
「じゃ、どうして須賀君が、そんなに“おじさん”なのか、調べましょうか。」
「ちょ、ちょっと待って。私は桐島」
和穂の視線に私は言葉を止める。
「桐島が須賀君と関わりがあるから調べて欲しいんでしょ?」
俯いた私に、和穂の少し冷たい声が降り注ぐ。
「好美。今度は途中で中止とか、なしだからね。調べて欲しいのなら、ちゃんと覚悟を決めて。」
私は握った両手が太ももの上で震えるのを止められなかった。


指先の記憶 第三章-9-

2010-05-13 23:58:12 | 指先の記憶 第三章

中央に書かれている名前は、一番最初に私の視界に入ってきた。
そして何人もの名前が並んでいる。
思わずノートを閉じてしまう。
内容を自分の頭が理解するのが怖くて嫌で、拒絶したくなる。
仏壇に視線を送る。
祖母と父の写真。
そして、仏壇から離れた位置に置かれている棚の上の写真。
祖父と祖母と父と、そして私。
視線をノートへと戻し、しばらく、そのノートを見ていた。
そして、また開く。
中央の文字を指で辿る。
香坂杏依。
そして、彼女から繋がる、線。
コピーの為にコンビニに行くのは避けたかった。
須賀君に気付かれる可能性は、とても高い。
私は夕食前に先輩達に教えてもらった数学のノートを取り出して、最後のページを破る。
自分で書いたほうが頭に入る。
この内容は、頭に入れなきゃいけない、そう感じた。
「桐島…。」
新しく“線”を加え、そして雅司君の名前を書き込んだ。

◇◇◇

美術準備室の奥で座る彼女が、視線をあげた。
「やっぱり来た。」
「やっぱり?」
「好美の周り、騒がしいから。」
彼女は伸びをする。
「気になるわよ。私としては。興味いっぱい。」
「…だろうね。」
楽しそうな彼女の笑顔に反して、私はきっと無表情。
彼女の隣に椅子を運んで座ると、溜息が出てしまう。
「好美が対象だから気が進まない、というのも本心よ。好美が須賀君のことを知りたいと言いながら途中で中止したのと同じ気持ち、かな?」
「自分自身のことを知りたいと思うのは、変じゃないよね?」
「当然でしょ?」
佐山和穂(さやまかずほ)。
松原英樹ファンクラブのメンバー。
私がファンクラブに入ることを歓迎してくれ、同年代の友人と過ごす時間と場所を与えてくれた友人。
中学三年の夏、彼女の家で勉強をした後に杏依ちゃんに会ったことを思い出す。
「それに簡単なのよ。自分の事を調べるのは。事実はすぐに調べられる。好美自身のことなんだから。」
彼女の言う通りだ。
自分の事を知る方法はある。
そして、私の周りの人は既に事実を知っている。
哲也さんは姫野家のことを知っているし、須賀君も何かを知っている。
そして、きっとカレンさんも。
でも、誰も私に事実を告げない。
そして須賀君の了承を得ることを、須賀君の意思を皆が気にしている。
「2年の先輩は誰だったの?」
戸惑いながら和穂に問う。
先輩達に勉強を教えてもらっていた時、須賀君を訪ねてきた女子生徒がいた。
その人が須賀君と親しい感じで、それが不思議で、私は和穂に依頼した。
彼女はファンクラブの会員達からの色んな情報を持っているからだ。
でも私は、卑怯なことをしている気がして、途中でやめるようにお願いをした。
「校内では完全にお互いを無視してるわ。最初は好美の勘違いなんじゃないかと思ったぐらい。須賀君と全く接点がないから。ただ、彼女は小学校入学前は好美の家の近くに住んでいたみたい。引越しをしているから、中学は私達とは違う。だから須賀君とは中学では面識がないはず。それに学年も違う。だから、塾とか習い事とか、そういう方面での知り合いかもね。」
私は須賀君のことを何も知らない。
彼が、幼少期を何処で過ごしたのか。
カレンさんの話から、日本中を転々とした…とは聞いているけれど、その前は何処かで生活をしていたはずだ。
須賀君のお母さんの実家だという、あの家?
「テニス…クラブ。」
私の呟きに、和穂は微笑む。
彼女は既に何かを知っている。
そして、彼女なら他の人とは違い、私に事実を教えてくれる。
「SINDOの経営するテニスクラブに須賀君は通っていたことがあって、そこで、あの上級生と一緒だった可能性はある。でも、一般の人達まで調べるのは過去の名簿が必要。でも、公式に発表されたことは簡単に分かるのよ。疑いようのない事実としてね。」
「事実?」
「須賀康太。同姓同名かもしれないけれど、公式なテニスの試合で優勝してるわ。」
「え?須賀君が優勝?」
突拍子もない事実に、私は思わず立ち上がった。


指先の記憶 第三章-8-

2010-05-07 23:15:18 | 指先の記憶 第三章

須賀君が住む家を出た私は自宅の門を開けた。
そして、玄関ではなく裏門に向う。
久しぶりに姿を見せた石畳の上を歩きながら周囲の草木を眺める。
夏休みが始まる前に、雅司君が私の腕の中で眠ってしまったことがある。
翌朝、泣き叫ぶ弟の声を聞いて駆け込んできた須賀君は、先ほどと同じように慌てていた。
雅司君は須賀君が来てくれたことを凄く喜んでいたけれど、私は違う。
祖母の病室でのことを思いだしてしまった。
病室から私が逃げないように、須賀君の両腕は私を放さなかった。
後ろから抱きしめられてしまうと、私よりも体の大きな須賀君から逃げることは無理だった。
「嫌だなぁ…ご飯、1人で食べようかな…。」
引越してしまうことを説明したいとカレンさんが言った時も同じ。
カレンさんが私に何かを話すことを恐れていた須賀君。
そして、哲也さんが私に何を話すのかを恐れていた。
「裏門かぁ…。」
これからは、哲也さんの車が裏門から庭に入ることになる。
「もっと綺麗にするべきかな?」
体の向きを変えて石畳の道を戻る。
「姫野。」
歩いていると、須賀君が私を呼ぶ声が聞こえた。
石畳の上に姿を見せた須賀君は、笑顔で私に手招きをする。
「弘先輩と瑠璃先輩、来てるぞ。」
その名前に驚いて、須賀君の後を追いかけて、私は小走りで表に戻った。
「随分と大騒動だったみたいね。裏庭どうするの?」
弘先輩と瑠璃先輩が袋を抱えている。
「裏門まで行けるようにしたんですけれど、もうちょっと綺麗にしたい気も…。でも時間が取れないから、しばらくは現状維持です。」
「部活を気にしているのなら、休んでも大丈夫よ?」
「え?」
親切な瑠璃先輩の言葉に、弘先輩が反応する。
「あ、そっか。小野寺君が困るわね。姫野さんに会えなくなるから。はい、須賀君。お野菜どうぞ。」
その袋の中は、瑠璃先輩のご両親の田舎から送られてきた野菜のようで、須賀君が満面の笑みで瑠璃先輩にお礼を言う。
「なんだか、須賀君って主婦みたい。」
呆れたような瑠璃先輩の声。
「姫野さん。何か飲み物もらえる?やっぱり疲れるわ。この階段。」
瑠璃先輩が私の家を指差した。
「弘先輩も瑠璃先輩も一緒に食べませんか?すぐに作りますから、その間、姫野は勉強を教えてもらえ。」
須賀君の態度と口調は普段通り。
「いただこうかな。小野寺君は?」
「僕も。」
須賀君と2人だけの食卓ではないことに、私はホッとした。

◇◇◇

須賀君は食事を終えると、早々に隣の家に戻った。
弘先輩と瑠璃先輩が届けてくれた野菜を新鮮なうちに調理しておきたいと、嬉しそうに語る彼は、男子高校生としては変わっている気がする。
「姫野さん。良かったら参考にして。」
瑠璃先輩がノートを机の上に置く。
「必要ならコピーして。少しは役に立つと思うわ。」
そのノートを開くと、内容は中学の授業の内容で、私は不思議に思った。
「いつでも良いから返してね。私も必要だから。帰ろうか。小野寺君。」
「いいの?瑠璃ちゃん。後片付け。」
「いいわよね?姫野さん。須賀君も言ってたでしょ?後片付けは姫野さんがするって。それに私、掃除とか嫌いだから。」
「じゃ…僕が」
「大丈夫です!弘先輩。片付けは好きですから。」
「そう…じゃ、ごちそうさま。」
「小野寺君。名残惜しい気持ちは分かるけど、帰るわよ。それじゃあね姫野さん。戸締り、ちゃんとするのよ。」
「はい。」
朝から続いた苛々や戸惑いが、先輩達と話していくと流れるように消えていく。
私は軽くなった気持ちのまま、四人で食べた食器を洗う。
普段よりも食器の量が多いのは当然だけれど、大阪で響子さん達と生活をした一週間は、もっと数が多くて、その事を思い出して懐かしい気持ちになる。
片付けを終えて、私は瑠璃先輩のノートを開いた。
私の学力を瑠璃先輩が心配して、中学の内容を復習するように言ってくれているのだろうか?
このノートを瑠璃先輩が必要としていることを不思議に思いながら、私はページをめくり、そして最後のページに辿り着いた。


指先の記憶 第三章-7-

2010-05-06 00:31:24 | 指先の記憶 第三章

畳の上に置いた両手に力を入れて、私は体勢を立て直す。
左の膝と爪先で、しっかりと畳を押してバランスをとると右腕を動かした。
遠慮せずに須賀君の腕を指でつねり、彼の腕の力がゆるむ一瞬で逃げ出そうと思ったのに、筋肉質な腕は、皮も肉も少ししか私の指に残らない。
「離して。」
仕方がないから、須賀君の腕を私の体から離す為に、両手でその腕を掴んだ。
「康太。離して欲しいらしいぞ。嫌がってる。」
哲也さんの手が私の両脇に入れられる。
救い上げるように体を持ち上げられて、私は両手を哲也さんの肩に置いた。
須賀君の腕から抜け出て畳の上に自分の両足で立つと、私は長い息を吐き出した。
「好美を苛々とさせているのは、康太だろう?」
「話をするだけじゃなかったんですか?四月まで待つと言ったのは哲也さんだろ?俺の住む家で好き勝手な事をしないでください。」
「話をしたよ。何の情報も持っていない好美が、四月に答えを出せるわけがない。」
「何を…話したんですか?」
「言っただろう?康太なら見破れると。康太は好美の一番近くにいる。好美のことを全部理解できて当然だ。康太自身も、そう思っているはずだ。

話しながら伸ばされる腕に、私は今回も抵抗しなかった。
立った状態だと身長差は凄く大きくて、私の視線は哲也さんの肩に届かない。
「でも、一番分かっていないのは康太だ。好美の感情が須賀兄弟に左右されている事ぐらい気付け。」
哲也さんの発言に驚いて顔を動かしてみるけれど、先ほどと同じように優しく背中をトントンと規則正しく叩かれて、思わず力が抜けてしまう。
「雅司君の情緒が好美の行動に左右されるのなら、その逆もあるってことだ。」
私と雅司君の気持ちはお互いにかみ合わないことが多くて、私は苛々とするし、それは雅司君も同じ。
「桐島兄弟と楽しそうにしている姿を見て」
哲也さんの手のひらは、とても大きい。
「従兄弟だと知って、安心したと言ってくれる他人など滅多にいない。」
哲也さんの腕の力が弱まって、私は畳の上に座り込んだ。
「そこまで雅司君のことを想ってくれているんだ。ちゃんと好美に話してやれ。」
視界の隅で哲也さんの足が動く。
遠ざかる足音と、玄関のドアが閉まる音。
静かな室内には時計の音。
そして、シャカシャカと鳴るのは、須賀君が買ってきたショウガの入った袋。
「姫野。きのこご飯、あとで持って行くから。」
ここは須賀君が住む家。
だから、彼の言葉は私に隣の家に帰ることを促している。
話してやれ、そう言った哲也さんの言葉を須賀君は聞き入れていない。
いつも誤魔化していたのかと言った哲也さんの言葉。
何を誤魔化しているの?
何を隠しているの?
須賀君が立ち上がって私の横を通ると、台所へと向う。
「須賀君。」
立ち止まって振り向いた彼を、私は見上げる。
「須賀君は賢一君と明良君のこと、信頼しているの?」
「してるよ。」
1人で頑張らなくて良い、哲也さんはそう言ったけれど、頑張っているのは須賀君だ。
須賀君が信頼する誰かが存在するのなら。
誰かが須賀君を支えてくれるのなら。
「哲也さんから何を聞いた?」
その口調が少し強くて、私は思わず体を震わせた。
「分かるわけないだろ?哲也さんが姫野に何を話したかなんて、見破れるわけがない。」
「えっと、あの…驚かないのか、って聞かれて。雅司君の従兄だと聞いて。あとは、えっと…。」
思い出しながら私は首を傾げた。
「哲也さんは何も話してないよ?私に質問しただけ。」
「嫌な奴だな。」
「え?」
「気に入らない。」

それは私の事を言っているのではなくて、哲也さんのこと、だと思う。
「俺と雅司のことを気にする余裕があるのなら、もっと自分の事を考えろ。四月までと言わず早く結論を出せ。俺はこれ以上、哲也さんに会いたくない。あの人に、俺の家族のことに口出しはして欲しくない。」
台所の扉が閉められる。
和室に1人で残された私は、時計の秒針の音を聞きながら深呼吸をして立ち上がった。