大輔さんの右腕が動く。
「壊さないで!!」
立ち上がった私は叫びながら両手で大輔さんの体を押していた。
突然のことに大輔さんは少しバランスを崩す。
棚の上の貯金箱。
小学生の夏休みに作った、貯金箱。
それに触れられそうになって、思わず大輔さんの体を押していた。
「ご、ごめんなさい。」
私は何をしているのだろう?
触られたわけでもないのに。
大輔さんは何もしていないのに。
どうして?
自分自身の行動と言葉が奇妙で不思議だった。
「ごめん。」
大輔さんの声に顔をあげる。
なぜか彼は少し微笑んでいて、今まで騒々しかったのが不思議なくらい穏やかな表情だった。
「大丈夫、触ってないから。好美の手作り?」
「はい…小学生の時に…でも」
心の奥に閉じ込めていた思い出が、まるで飛び出るようだった。
「おじいちゃんが…手伝ってくれるだけのはずなのに、どんどん勝手に作っちゃって…。」
夏休みの宿題なのに。
思い出して頬を膨らませた私を、大輔さんが見て笑う。
この人でも、こんな風に笑うんだ、と不思議に思った。
騒々しくて、騒がしくて、うるさくて、鬱陶しくて、私をイライラとさせた人。
哲也さんと同じ年齢なのに、子どもっぽくて、落ち着きがない人。
そんな印象しかなかった人が、とても満ち足りた笑顔を私に向けた。
そんな風に微笑みかけてもらうのは、とても久しぶりだった。
みんな、私をかわいそうだと、不憫だと、哀れだと、大きな優しさで包み込むように微笑んでくれる人が多かった。
その優しさに救われたのは事実。
でも、哀れみの眼差しに惨めな思いをしたのも事実だった。
「哲也、帰ろうか。あ、その前に、これ飲んでから。」
大輔さんが、まだ誰も手にしていなかった猫のカップでハーブティを飲む。
そして、私に犬のカップを差し出した。
「冷めちゃうよ?」
受け取った私は、その場に腰を下ろした。
少し冷めたハーブティを飲んで、そして視線を上げると、哲也さんと目が合った。
その直後に、哲也さんが噴出した。
それが珍しくて、声を出さないようにしているけれど、哲也さんは耐え切れないという風に笑っていた。
それにつられたのか、須賀君も笑い出す。
「なんだよ、2人とも。」
不機嫌な声を大輔さんが出して、それを聞いた哲也さんと須賀君が、また笑い出す。
「悪い、いや…人って変わらないものなんだと、思っただけだ。」
笑いながら、言葉を詰まらせながら、哲也さんが言う。
「考え方とか、行動とか…記憶とか…簡単に消えないんだな。」
大輔さんが飲み終えたカップを、少し乱暴に置いた。
「それって、成長していないってことですよ。哲也さん。」
須賀君の言葉に、また哲也さんが笑う。
「2人そろってやめてくれよ。帰るぞ、哲也。」
須賀君の後ろを通った大輔さんが、ポンッと、手のひらを須賀君の頭上に置いた。
◇◇◇
床に転がって、目を閉じた。
「おーい、姫野。眠るなら2階に行け。」
「…おなかいっぱい。もう食べられない。」
「当たり前だ。あれだけ食べたら充分だ。」
言いながら須賀君は、まだ箸を動かしている。
「さすが育ち盛り。若いなぁ康太は。」
「何をオヤジみたいなこと言っているんですか。大輔さん。ちょ、ちょっと哲也さん。それ、俺の肉。」
「…頼むから、そういう悲しくなるような発言をするな。まだ冷蔵庫にあるだろ。」
「どうして2人とも一生懸命本気で肉食べるんですか?帰って家で食べればいいのに。」
「誘ったのは康太だろ。俺と哲也は康太達が食べる為に買ってきたのに。残れば冷凍すればいいと思ったのに、この調子だと全部食べる気だろ?」
「ほらほら、大輔さん。白菜とネギ。瑠璃先輩のお野菜美味しいですよ。」
「分かってるよ。さっき食べた。康太、響子さんにも、ちゃんと分けてやれよ。」
須賀君と大輔さんの言い争いは相変わらず。
「…私は、いいです。見てるだけで…。」
目を開けると、響子さんが立ち上がって台所へと向かうのが見えた。
朝食に須賀君が用意してくれた料理を、私は食べることができなかった。
昼食は響子さんが作ってくれた。
残っているはずの須賀君の料理は、既に冷蔵庫の中にはなかった。
響子さんが食べてくれたようだが、須賀君は食欲旺盛の私が全て食べたと思い込んでいる。
哲也さんと大輔さんが買ってきてくれた、見たこともない高級そうな牛肉で“すきやき”を提案してくれた響子さんは、私の気持ちを察している。
須賀君の手料理に嫌悪を感じてしまったこと。
この状態で須賀君と食卓を囲むことに抵抗があること。
騒々しい声を聞きながら、また瞳を閉じた。
「起こしてしまったようだな。悪かった。」
「大丈夫です。充分に眠りましたから。」
哲也さんが後ろ向きに歩き、大輔さんを玄関へ連れて行く。
暴れる大輔さんの手が届かないように、彼から距離を保ちながら、私も一緒に玄関へと向かった。
「帰るぞ。大輔。」
和室からは響子さんが困ったように玄関の私達を見ている。
「どうして哲也は迎えに行くのをやめたんだよ。絵里に任せるなんておかしいだろ。哲也、俺は帰らないぞ!康太に文句を言ってやる。あいつは考えが甘いんだよ。これからのこと、ちゃんと」
「それは今日は必要ない。帰るぞ。」
玄関で靴を履くことを拒む大輔さん。
「あの。」
私の声に、2人の動きが止まる。
というか、暴れることを止めた大輔さんの動きを、哲也さんが瞬時に封じ込めた。
さすがだな、凄いな、と感心しながら2人を見上げると、大輔さんは諦めたように溜息を出していた。
「良かったら、お茶でも、どうですか?」
私の言葉に大輔さんは視線を上げる。
そして、また騒々しい声を発する。
「ほらほら。哲也。好美が言っているんだ。」
「その呼び方、やめてください。」
「どうしてだよ?哲也はOKなのに、俺はダメなのか?」
「なんだか、イライラとします。」
理由などは分からないが、大輔さんが私の名前を呼ぶのは、気分が良いものではなかった。
「大輔帰るぞ。康太は、まだ戻っていない。」
「なんでだよ。好美が…ええっと、どう呼べば言い訳?好美は好美なんだから仕方ないだろ。鬱陶しいな。」
「鬱陶しいのは大輔さんです。やっぱり帰ってください。今度哲也さん1人で」
「おい!最初に誘ったのは好美だろ!」
そんな玄関の喧騒は、勢いよくあけられた玄関の扉の音に、ぴたりと止まる。
哲也さんと大輔さんが体を隅に寄せて、そして、須賀君が飛び込んで来た。
私の足元に散らばる須賀君の荷物。
そして、肩で息をしている須賀君。
「おかえり。」
思った以上に、私の言葉は、とてもあっさりとした響きだった。
さっきまで、大輔さんと言い争っていたのが嘘のようだ。
「…ただいま。」
呼吸を整えた須賀君は、いつもどおりの声で、そう答えた。
静かになった玄関の床に、須賀君の額から流れ落ちた汗が落ちていく。
「響子さん。寝起きの私に何かおいしい飲み物、ちょうだい?須賀君は?とりあえずお水、飲んだほうがいいんじゃないの?」
下げていた視線を上げて、私は玄関に立つ2人を見た。
「大輔さん。お茶一杯飲んだら帰ってくださいね。」
満面の笑顔の大輔さんに、私の眉間の皺は更に深くなった。
◇◇◇
お客様用のカップではなく、普段使いのマグカップを食器棚から須賀君が取り出した。
2人のことをお客様として須賀君が扱っていないことが明白で、でも、この家は私が住む家だから、須賀君も響子さんも“お客様”だけれど、何もしないで座ったままの私が意見を言うのも変な気がして、そんなことよりも何もしない私自身が変なのかもしれない。
「どうした?姫野。」
色んな矛盾が頭の中をグルグルとしている。
「…納得できない。」
「何が?」
須賀君がポットを食卓の真ん中に置いた。
ガラスのポットの中で、ハーブが揺れている。
無造作に適当な感じでマグカップに分けられるハーブティ。
深い意味はないと思うけれど、今の私が使いたいと考えていた可愛いお気に入りの犬のマグカップを、須賀君が大輔さんへと渡す。
「大輔さん、早く帰ってください。」
「これ飲んだらね。俺、猫舌だから。」
「だったら、こっちの猫のカップ使ってください。」
私の言葉を無視して、大輔さんは立ち上がる。
大輔さんの行動が気になって落ち着かない。
須賀君と哲也さんと目が合う。
彼らは、私と大輔さんを交互に見た。
落ち着かない私の気持ちを2人は察している。
でも、大輔さんは、ただ室内を見渡しているだけ。
彼の行動を気にしなくて良いと分かっているけれど、私は大輔さんの動きが気になって仕方がなかった。
響子さんが食卓に朝食を並べる。
須賀君が運んできた料理。
私はレンコンのきんぴらを一口食べて、そのシャキシャキという食感を味わうと、箸をおいた。
「どうしたの?好美ちゃんの好きなものばかりでしょ?」
私は飲み込むことを躊躇してしまい、仕方なくお茶で流し込んだ。
「大丈夫?」
響子さんが心配そうに私を見た。
「…はい…ちょっと、なんだかいつもと違って…。」
部屋を見渡して、不思議に思った。
この空間に響子さんがいること。
それを、私が普通に受け入れていること。
初めてなのに、自然だった。
瑠璃先輩は、須賀君に意見を言っても無駄だと校医の先生に言っていた。
弘先輩は、笹本家に迎えに行く事を康太が納得してくれたら、と言っていた。
市川先輩もカレンさんも、そして哲也さんも。
みんな、須賀君の意見を重要視していたのに、響子さんは違う。
学校に行かないと言っていたのに、須賀君は素直に響子さんの“指示”に従った。
須賀君が響子さんに私を“託す”のは二度目。
『響子、姫野をよろしく。』
夏休みの須賀君の言葉が繰り返される。
須賀君に指示できるのは響子さんだけ。
須賀君が従うのも響子さんだけ。
響子さんの立場と役割を、あの“幼馴染”がしたかもしれないと思うと、凄く嫌だった。
暑さの中で、2人が並んで立っていたのか、話をしていたのか、事実は分からない。
でも、私の視界に2人が同時に入ってきたのは事実だ。
「好美ちゃん。」
響子さんの声に視線を上げる。
「食べる?」
響子さんがカバンから取り出したものを食卓の上に置いた。
ケースの中に赤い色。
「ピクルス、食べる?」
蓋が開くと、酸味が鼻腔をくすぐった。
ひとつ、ふたつ、みっつと、食卓に置かれるケース。
「昨日、康太から連絡があって、今日の学校が終わってからって言うけど、落ち着かなくてね。夜行バスの出発までに作ったから、かなり手荒な調理だけど。」
響子さんが恥ずかしそうに少し首を傾げて、お箸で赤いパプリカを私の小皿に置いた。
赤い色に、小さなベージュの種が混ざる。
他のケースの中身も、ジャガイモには少し皮が残っているし、薄切りキュウリは微妙に蛇腹になっている。
そんなことは響子さんには珍しい。
「これ…夜行バスで持ってきてくれたの?」
私が指差したケースのフタを、響子さんが開ける。
「名案でしょ?夜行バスが到着した時には、ちょうど良い漬かり具合。糠を入れて、冷蔵庫の野菜を入れただけ。後は時間の経過を待つだけ。」
「そうだけど…匂いとか。」
「私も気になったから、ちゃんと他の人達に説明したわ。それは大丈夫。」
なぜか、とても得意げに響子さんは話す。
「糠床持ってますって言ったの?ちょっと匂いますけどって?」
「匂いは大丈夫よ。みんな、大丈夫だって言ってくれたもの。袋も二重にしていたし。」
バスの車内での光景を想像して、思わず笑ってしまう。
「料理ができない可能性もあるから何品か作ったほうが良いと思って。でも、まぁ…康太は相変わらず器用ね。」
昨日の夕食も今日の朝食も、須賀君は完璧だ。
「響子さん。私、お茶漬けが食べたい。」
響子さんにリクエストしながら、私は須賀君が用意してくれた料理を食卓の端へと移動させた。
◇◇◇
響子さん手作りの昼食を食べた後、2階の自室に移動した私は、自分でも驚くほど深く眠った。
自然と目が覚め、階下からの声に少しずつ意識がはっきりとしていく。
ベッドからおりてドアを開ける。
聞こえてくる声に、私は眉間に皺が寄るのが自分でも分かった。
寝起きの顔を鏡で確認して上着を羽織る。
1階へと降りた私の前に立ち塞がる体。
「好美。大丈夫?こんな生活はやめて俺たちと一緒に暮ら」
私は素早く飛び退いた。
「やめろ大輔。」
後ろから哲也さんに羽交い絞めにされた大輔さんが、懲りずに私へと手を伸ばした。