りなりあ

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約束を抱いて 第三章-28

2007-09-27 23:06:04 | 約束を抱いて 第三章

桐島太一郎の名前の下には、彼の子供達の名前が書かれている。そして、その下に続くのは香坂杏依の名前。
“香坂”は杏依の旧姓だ。
そして、その杏依の隣には新堂晴己の名前があり、晴己の祖父母と両親の名前も書かれている。
晴己の“従姉弟”や、杏依の“従兄弟”の名前は伏せられているが、むつみは彼らの名前が分かる。
むつみは雑誌を閉じた。
意外な事に、批判的な内容は書かれておらず、桐島太一郎の孫娘と新堂晴己が婚約し、それを祝福する内容だった。
「…私は関係ないもの。」
晴己とは親戚関係でもなければ、当然ながら家族でもないと分かっているが、このように図で見てしまうと、改めて他人である事を思い知らされた。
笹本絵里は、この系図に名前を載せる事が、近い将来可能になる。新堂晴己の従弟の妻として、ここに自分の存在を現わす事が出来る。
むつみは寂しい気持ちを紛らわす為にアルバムを開いた。
むつみは晴己の写真を探す為に書庫に来たのだ。碧が見せてくれた写真だけではなく、他の写真を見たかった。むつみの記憶に残っていない出来事を写真なら残してくれている。
その当初の目的を果たす為に開いたアルバムの中には、目的の写真よりも随分と古い写真が並んでいた。
「お母さん?」
子供の頃の碧が写っていた。
「おじいちゃん、なのかな?」
むつみは、碧が大人達と写っている写真を見た。
むつみは碧の両親の写真を見るのは初めてではないが、普段見える場所に飾られているわけではない為、記憶に殆ど残っていない。
「おじいちゃんと、おばあちゃんと、誰かしら、この人?」
不思議に思って次を捲る。
「おとうさん?」
そこには、むつみの父親が写っていた。
そして、父と一緒に写っているのは、碧と先ほどの女性だった。
むつみはアルバムを閉じた。
むつみが見たかったのは晴己の写真だ。
箱の一番上に置かれていた写真の束だけを取り出し、アルバムや雑誌を箱に戻そうと思った。
しかし、むつみは妙に感じた。
大量の雑誌があるのなら、碧が女優として雑誌に書かれる噂などを気にし、毎回購入していても変ではない。
だが、ここにある雑誌は全て年代が違った。
晴己と杏依が結婚する前の雑誌。
碧の結婚式の写真が載せられた雑誌もあった。
もしかすると、碧は自分に関係する雑誌だけを残していたのかもしれない。
それに、桐島太一郎に関する記事を読む限り、批判的な内容だけを載せる訳ではないようだ。
むつみは雑誌を手に取った。

◇◇◇

「むつみちゃん?どうしたの?」
改札を出た涼は、手を振るむつみを見つけて、思わず彼女に駆け寄った。

「本屋に行ったら遅くなっちゃった。暗くなったから、涼さんが帰ってくるのを待っていたの。」
「もし来なかったら?」
「それも考えたわ。もしデートだったらどうしようって。でも涼さん最近彼女いないみたいだし。」
「幸せなむつみちゃんに言われると、余計に落ち込むな。」
涼は変だと思った。
涼が帰宅する時間など明確ではないし、瑠璃に電話する事も出来る。橋元の家に行かず、ここで待つと言うのは、涼を待っていたことになる。
「もし涼さんが乗っていなくても、一時間後なら優輝君が帰ってくるから。」
涼はむつみが抱えている本屋の袋を彼女の腕から少し強引に取り上げた。
「優輝が帰ってくる時間までウロウロとしていたら心配するだろう。瑠璃さんに電話するよ。」
その言い方が、むつみを心配する晴己に似ている気がして、涼は自分に驚いていた。
「…大丈夫。」
「むつみちゃん?」
「瑠璃さんには話してきたから。涼さんに会うから、一緒に御飯を食べるから。後で迎えに来て欲しいって。」
むつみが涼を見上げて、そして視線を逸らす。
「むつみちゃん。」
涼の声に、むつみは戸惑いながら視線を上げた。
「何が食べたい?」
涼の優しくて柔らかい声に、強張っていたむつみの頬が少しずつ緩んだ。


約束を抱いて 第三章-27

2007-09-26 01:19:20 | 約束を抱いて 第三章

1階では家政婦達が忙しく働いていた。
晴己が連れてきた家政婦達に碧は好感を持ったようで、彼女達は斉藤家で働く事が決まった。そして週末は帰宅できないと言っていた碧は撮影に変更があり、急に休暇が取れることになった。その為、むつみが週末を新堂の家で過している間に大掃除が始まったようだった。

忙しそうな彼女達に遠慮してしまい、むつみは自分で書庫の鍵を持ち出した。
古い箱は、前回和枝と一緒に書庫に来た時も置かれていた。
半開きの上部を開けて中を見ると、古いレコードが入っていて、その写真は碧の若い頃だと分かる。碧が恥ずかしいと言った映像を思い出す。
あの歌のメロディーは、むつみの耳の奥に残っている。
全部聞いてみたいと思うが、レコードを持ち出すことに、むつみは躊躇した。
いつか母が聞かせてくれる時が来るだろうと期待して、むつみは箱を元通りに閉めた。

◇◇◇

ダイニングに戻り、片付けられた室内を見て、むつみはこの機会に、自室の掃除をしようかと考えた。やはり桜学園の中学部の制服は処分した方がいいだろうと思う。
碧が帰宅して、むつみに一冊の本を差し出した。
書庫の整理をした時に役立つ本を探してみたが、料理の本は新しいほうが良いと考えて、むつみの為に買ってくれたようだった。
書庫の本が移動していた理由が分かり、むつみは新しい本を見て、碧に礼を言った。
「むつみ、書庫の本を整理した時にね。」
碧が一枚の写真を差し出した。
「…はる兄?」
写っているのは晴己だった。
「懐かしいでしょ?晴己さん、今のむつみよりも年下よ?」
晴己の背後の景色を見て、それが優輝と出会ったテニスコートだと、むつみは分かった。
晴己と手を繋ぐ幼い少女が自分だということも分かる。
「…他にもあるの?」
「あったわよ。他は書庫に置いたままだけど。さすがに大変で昨日は少し整理しただけ。本は読まないなと思っても、捨てられないわね。むつみが欲しそうな本も見つからなかったから、料理の本は新しい本がいいかと思って。」
「…書庫の本は捨てないの?」
「そうね。しばらくは。」
むつみは母にレコードの事を聞くのを戸惑い、本という単語で尋ねた。
「懐かしい物が、たくさんあったわ。見ていると捨てられなくなるの。」
それが母の答えだと分かり、むつみは安心して、再び写真の中の晴己を見た。

◇◇◇

翌日、むつみは学校が終わると急いで帰宅した。
新しい家政婦達は次々と家を綺麗にしていき、和枝は久しぶりに手の込んだ料理を作ると張り切っていた。
今日は庭の手入れの為に業者も来ている。
慌しい家の中で、むつみは今日も書庫の鍵を自分で開けた。
母のレコードが詰まっている箱を持ち上げる。
少し重く感じるがサイズが小さくて、むつみでも持ち上げる事が出来たが、古い箱は傷んで弱くなっている。
そして、下にある箱は随分と丈夫だった。
昨日は、新しい箱の上に古い箱が乗せられているのが不思議だった。以前から書庫にあった箱の上に、他の新しい箱を乗せるのなら、古い箱が下になると思ったからだ。
しかし改めて、むつみは丈夫な箱の上に弱い箱が乗せられるのは当然だと思い、違和感を感じた自分を不思議に思いながら飲料水の箱を開けた。
箱の中には、むつみが思ったように写真の束が入っていた。
写真の束の下には分厚い本があり、むつみはそれがアルバムだと分かり、それも取り出した。
そして、その下には、以前本棚に並んでいたはずの雑誌が入れられていた。
むつみは昔から雑誌などを読むことを避けていた。読むだけでなく目に触れるのも好きではなかった。有名人の私生活や世の中の事件を中心に書かれている雑誌には星碧の名前が載ることもあり、例え良い内容でも出来る限り見ることを避けていた。
むつみは、数冊の雑誌を捲った。
「あ。桐島太一郎…先生。」
むつみの呟きが、書庫の中に響いた。
まるで、他人の生活を勝手に見るような感じがして、そんな事をしてはいけないと思いながら、むつみはページを捲る。
『桐島太一郎氏と、その孫娘。』
むつみは読む事を躊躇した。
『系図』
と書かれたページには、むつみの良く知る人達の名前が並んでいた。


約束を抱いて 第三章-26

2007-09-23 01:45:28 | 約束を抱いて 第三章

「本当に、いいんですか?」
慎一が申し訳なさそうに尋ねた。
「うん。持って帰っても捨てるし。」
この言葉も優輝から言われたような気がするし、それに可愛気のない言葉だった。こんな言い方だと慎一は戸惑うと分かっていても、むつみは他の言葉を見つけられなかった。
「先輩?」
慎一はまだ声変わりをしていなくて、その声は少し高くて、むつみの耳に刺すように響く。
「いいの。良かったら食べて。本当は昨日の夕食の残りで、私はたくさん食べたし、ちょっと飽きたから、他の物を食べたいの。」
こんな言葉を晴己に聞かせたくないし、少しも本心ではない。晴己に対して罪悪感を感じながら、むつみは慎一のパンへと手を伸ばした。
「これ、貰ってもいい?」
「…はい。あの、ありがとうございます。」
慎一がむつみから弁当を受け取った。

◇◇◇

「ごちそうさまでした。」
綺麗に食べ終えた慎一は満面の笑顔でむつみに礼を言った。
その笑顔に嬉しくなる気持ちと、そして不思議な事に、むつみは少し寂しい気持ちを感じる。
むつみは、料理を作ったのが晴己であることを、すごく悔んだ。自分が作ったものなら、もっと素直に喜ぶ事が出来たのに、そう思い、そんな自分に驚きながら、慎一から返された弁当箱を袋に戻した。
「玉子焼きは先輩が?」
「え?」
むつみは慎一の問いに戸惑った。
「なんとなく。他の料理と味が違ったから。」
「…そう…かな?」
確かに、玉子焼きはむつみが今朝焼いたが、晴己が作る料理は、むつみが好きな味だし自然と晴己の影響を受けている。だから、むつみが作る料理の味と、晴己の味に大きな差があるとは思えない。
「私、玉子焼きの味は色々と変えるの。いつも違うし。玉子料理が好きだから、オムライスとか。」
聞かれてもいないのに話してしまう自分を不思議に思い、むつみは言葉を止めた。それにオムライスが好きというのは、とても子供っぽく感じた。
「僕も好きですよ、オムライス。」 
慎一の言葉を聞きながら、一番最後に晴己が作ってくれたのは何年前だったかと、むつみは考えていた。

◇◇◇

週末を新堂の家で過し、日曜日の夜に帰宅したむつみは、書庫の鍵を開けた。
明日から気分が滅入る事が多くなるような気もするが、週末だけでも杏依達と過して心が和む事が嬉しかった。
それは和枝の言っていた事を、むつみに実感させた。晴己がむつみの家で自由に過していたように、今のむつみには新堂の家が彼女の心を落ち着かせた。
書庫のドアを自分で開けるのは初めてだった。必要な時は、いつも和枝が開けてくれていた。しかし、その“必要な時”など滅多になかった。書庫に置かれている本は、古い本と父の医学書などで、むつみが読みたいと思う本は常に身近にあったし、書庫に片付けられる事などなかったからだ。
「あれ?」
書庫に入ったむつみは、違和感に首を傾げた。
そして、本が詰められた棚を見渡して再び首を傾げる。
並んでいたはずの雑誌が消えてしまっている。だけど、まるで最初から雑誌がなかったように他の本が並んでいた。
「気のせいかな?」
目的の料理の本は前回と同じ場所にあって、むつみはそれを手に取るが、棚から出す事を途中でやめた。
本を棚に戻し、むつみはダンボールを見た。
母も優輝と同じCMに出演したのだから飲料水の箱がむつみの家にあっても不思議ではない。でも、その新しいダンボールの上に古い箱が乗せられているのを、むつみは不思議に思った。


約束を抱いて 第三章-25

2007-09-20 23:20:28 | 約束を抱いて 第三章

「本当だったんだね、友達って。」
「そうみたいね。大学が同じってだけじゃないんだ。」
「弟を通しての繋がりだろ?でないと変だろ?結果的に好評で商品の売り上げが良くても、全くの素人だったのにさ。」
「そうよね。起用する人間を選んだのかな?」
「だろ?橋元の就職だって手を回したんじゃないのか?」
数名の社員が話す声は、抑えた声でも涼の耳に届いていた。
「涼。」
涼と同じように聞き取っているはずなのに、まるで何も聞こえない素振りで、晴己は涼に微笑みかける。
「何を食べる?どれがお勧めかな?」
周囲の男性社員、そして女子社員の視線を気にもせずに、晴己は涼に問いかける。
「何をしに来たんだ?」
涼は晴己の問いに答えずに、逆に質問をした。
「お世話になっている方達に挨拶を、と思ってね。午前の挨拶は、ここが最後だよ。午後もあるから、ゆっくりは出来ないけれどね。」
涼は怪訝に思った。
挨拶を兼ねて誰かと昼食を取ることだって可能なのに、どうして涼の会社の社員食堂に新堂晴己がいるのだろうか?
「涼と一緒に昼食を取ろうと思ってね。」
だから、どうしてそんな事を思うのか、涼は不思議だった。
同僚や先輩社員、そして上司までもが、涼が晴己と知り合いであることに、戸惑いだけではない感情を抱いているのが分かる。
「昨日、一緒に食べただろう?それにうちの社員食堂なんて晴己の口に合うのか?」
昨夜の晴己の料理を思い出して、涼は晴己に告げる。
「俺、今日はカツカレーにしようかな?」
「僕も同じ物にしようかな?
美味しい?」
「さぁ?晴己の口に合うかどうかなんて知らないな。って、本気で食べるつもりか?」
問うと晴己が頷く。
「…食べた事あるのか?」
「あるよ。食べた事も作ったことも。一番得意なのはオムライスだけれど。」
「…。」
「むつみちゃんが大好きでね。小さい時から。そういえば、最近作ってあげていないな。」
「はいはい。分かったよ。買ってくるから。」
涼は晴己の話を聞くのが嫌で、席を離れた。
晴己が涼の勤務する会社を訪ね、そして涼と一緒に食事をとったことは、すぐに社内の噂で広まるだろう。涼が新堂晴己と友人である、という噂は以前からあったが、2人が一緒にいるのを見て、社員達は確信を強めるに違いない。

◇◇◇

「かわいい、けど。」
むつみは弁当を見て溜息を出した。
「先輩?」
背後からの声に、むつみは慌てて弁当の蓋を閉じた。
「どうしたんですか?こんな所で。お弁当ですか?」
振り向かなくても、それが慎一の声だと分かって、むつみは一度目を閉じた。
「先輩?」
目を開けると慎一の足元が見えて、むつみは視線を上げた。非常階段に座っていたむつみを、慎一が見下ろしている。
「先輩?もう食べちゃいました?」
「…これから。」
「隣に座ってもいいですか?」
慎一の問いにむつみが答える間もなく、慎一はむつみの隣に座る。
「僕も食べようかなって思って。」
慎一は持っていた袋を開けた。
「…それだけ?」
「お弁当は、さっき食べちゃったんです。これはお腹が空いたから。」
昨夜の優輝達の食欲を思い出して、むつみは慎一を見た。
体の小さい慎一でも、やはり食事の量は多いのだろうか?
むつみは弁当箱を開けて、そして小さな溜息を思わず出してしまった。晴己のマネをして作ってみたが、自分の為に作って自分だけが食べると言うのが、少し気が滅入る。
おかずは晴己が作ったものだし、むつみは少し手を加えただけだ。晴己の料理は好きだから、味に問題はないと分かっているが、何故か食欲がない。
「先輩の弁当、かわいいですね。」
かわいいと言われて、むつみはまた気持ちが滅入る。どうしても素直に喜べない。
「…中原君、交換しない?」
以前、優輝に同じ言葉を言われた事を思い出す。
「いいんですか?」
「うん。私、あまり食欲ないかも。」
心の中で晴己に謝りながら、むつみは弁当箱を慎一に差し出した。


約束を抱いて 第三章-24

2007-09-12 23:12:24 | 約束を抱いて 第三章

優輝と涼と久保が帰宅し、賑やかだったダイニングは急に静かになった。むつみの両親は明日の仕事の準備の為に、それぞれの部屋へ行き、晴己とむつみだけが残された。
和枝には帰宅してもらい、キッチンでは新堂の家政婦が後片付けを続けている。

ダイニングのテーブルには残った料理が並んだままで、むつみは明日の弁当に利用しようと考えてテーブルを見渡す。
あれだけの食事を食べる男性の食欲は凄いと思いながらも、それを超える量を作った晴己に驚いてしまう。
「むつみちゃん、ここは僕がしておくよ。明日の準備をしておいで。」
「えぇっと…でも。」
晴己は普段と変わらない笑顔だった。
食事中、晴己は随分と涼にワインを勧めていたし、晴己自身も飲んでいたように思う。晴己は酒に強いと聞いた事はあるが、全く変わらないのも不思議だと思う。
宿題は既に終わっていたが、むつみは仕方なくソファに座って本を読むことにした。
時々、晴己に視線を送ると、料理を器に移す動作を繰り返していた。その姿は真剣で、そして時々動きを止めて考えている。
こんな風に晴己の事を見るのは随分と久しぶりだった。
ずっと晴己は傍にいてくれると思っていたし、それが当然だった。もしかすると失ってしまうかもしれないと考えてしまう不安は、忘れても良いのかもしれない。
そう思ってしまうくらい、晴己が斉藤家にいる事は、昔から当たり前の事だった。

◇◇◇

「うわぁー…すごい、はる兄。」
角皿に綺麗に盛り付けられた食材は、綺麗な色合いで、まるで絵のように鮮やかだった。
「久しぶりだけど、意外と上出来だね。」
「久しぶりって、前に作った事があるの?あ、そうだ。杏依さん好きそうだもの。」
杏依なら可愛く彩られた弁当を素直に可愛いと感じるだろうと、むつみは思った。
「杏依?あぁ、好きそうだね。」
晴己との会話が何か食い違っている気がして、むつみは首を傾げた。
「杏依さんに作ってあげた訳じゃないの?はる兄、それを自分のお弁当に?」
流石に幼稚園の頃なら、晴己が持っていても可愛いかもしれないが、その光景は妙に感じる。
「…仕方ないけれど、ちょっと残念だな。」
晴己の溜息が聞こえて、むつみは顔を上げて彼を見上げた。少しだけ、晴己の顔の位置が以前よりも近くなっている気がした。
晴己もむつみを見て、そして少し驚く。
「当然だね。こんなに背が伸びたのだから。幼い時の記憶がなくなるのは当然だけど…いつ頃なら記憶があるのかな?」
「…はる兄?」
「いつ頃の記憶なら、ある?僕と初めて会った時の事、覚えている?」
むつみは首を横に振った。
「私の記憶の始まりには、はる兄がいるから。」
むつみは晴己との出会いの時を覚えていない。
「そうだなぁ。あっ、幼稚園の時に、はる兄が走ってくれたのは覚えているわ。」
今思えば、あれは周囲の反感を買っただろう。
だけど、当時のむつみは、それに気付かず、それが当然だと思っていたのだ。

仕事で運動会に来れなかった父の変わりに、晴己が父兄参加の競技に出てくれた事がある。
あの時が、周囲が全てを確信した瞬間だった。
全くの他人であるむつみの為に競技に参加した新堂晴己が、どれだけ斉藤むつみという少女と深いつながりなのか公表した事になる。
「僕が作ったのは杏依の為にじゃなく、むつみちゃんにだよ。」
「…私に?」
その記憶が残っていない事に、むつみは寂しくなった。
だけど、それと同時に、自分が知らない間に晴己から様々な好意を受けている事を改めて知る。
この場所を失わなくても良いのだろうか?
このまま晴己の傍にいる事を許してもらえるのだろうか?
晴己の存在がなければ、今の自分が存在しない事は充分に分かっている。
むつみは少しずつ、昔の事を晴己に聞きたいと思い始めていた。むつみ自身の記憶に残っていない出来事を、晴己なら知っているに違いない。


約束を抱いて 第三章-23

2007-09-11 15:20:20 | 約束を抱いて 第三章

練習を終えた優輝と久保が斉藤家に来た時、テーブルには既に料理が並べられていて、仕事を終えた涼も到着していた。
「これ全部晴己さんが?むつみは?」
優輝に問われて、むつみは首を横に振る。
「晴己さんって、器用とか何でも出来るとかっていうより、使用人大勢いるのに、これって無駄な能力じゃねえの?」
優輝は本当に不思議に思い、そこに嫌味な気持ちは少しもないのだが、晴己は優輝の言葉が気に障る。
出来る限り優輝の機嫌を損ねる事は避けたくて、むつみに会いに来る事を最近は控えていた。

優輝を呼び、久保と涼にも来てもらい手厚く歓迎しようと思っていた晴己の気持ちは消えそうになる。
「そうかな?むつみちゃんは、どう思う?」
大人気ないと分かっていても、晴己は優輝の言葉を素直に受け入れたくなかった。
「ずっと小さな頃から、僕の作った料理を美味しいって食べてくれていたよね?」
晴己の口調は優しいが、それは有無を言わせない強さを持っている。むつみは頷く事も否定する事も出来なかった。
「晴己様。」
和枝が咎める声を出し、むつみはホッとする。
「むつみの料理の方が美味いじゃん。変なの。にーちゃんも晴己さんも、就職してから苛々してるし。」
独り言のように優輝は言って、そして椅子に座る。
「食べていい?」
「…いや…ちょっと待て。」
晴己が優輝を止めた。
「すぐに先生が戻るから。」
「はいはい。」
仕方ないというように優輝は再び立ち上がる。
「むつみ。今日の宿題だけど。」
優輝とむつみがリビングへと移動するのを晴己は見ていた。
「不思議だよな。」
晴己の隣に立つ涼が囁く。
「少し前まで綱渡りみたいな感じだったのに、今は凄く自然に当たり前みたいに2人が一緒にいて。そりゃ、もちろんハラハラするような時もあるけど。」
涼が小さな溜息を出した。
「優輝は少しは成長したと思わないか?この環境を受け入れようとしている。晴己の事も。」
「…余裕がないのは…僕の方だな。」
晴己は優輝を見て、自分の行動を思い出す。晴己が優輝に言い返した言葉を、優輝が気にも留めずに聞き流した事が、優輝とむつみの関係に余裕がある事を示していた。
「それは俺も同じだな。」
「涼?」
「社会に出て、それまでも分かっているつもりだったのに、俺の知っている事は本当に一部で。これから先も色んな事を知って巻き込まれていくのかと思うと…嫌になる。」
「…涼?」
「晴己は何を知っているんだ?どうして、あんなに反対していたのに今は2人が会うことを認めてるんだ?」
晴己は用意していたワインを手に取り、そのラベルに視線を落とす。晴己がワインを開けようとするのを、涼は止めた。引き下がれば、簡単に晴己に話を変えられてしまう。
「涼と同じだよ。涼だって2人が付き合う事に反対だっただろう?誰でも同じように思う。最初が普通じゃなかった。」
晴己は仕方なく、ソムリエナイフをテーブルに置いた。
「幸せになって欲しいとか笑っていて欲しいとか、そう思うだろう?だけど僕は違う。」
晴己の視線がリビングへと向けられる。
その眼差しは、愛しそうにむつみを見ていた。
「どうすれば、あの子を守れるだろう。それだけを考えてきた。例え悲しむ事があっても泣くことがあっても、最終的に守れるのなら、それも仕方ないと思う。」
「晴己?」
「僕は守りたかっただけなんだ。だけど…それを望むと」
晴己が悲しそうに微笑む。
「いつも…あの子が犠牲になる。」
晴己が再びワインを開けようとするのを涼は見ていた。
「…晴己の話は矛盾していないか?俺の解釈は間違っているのか?」
むつみの事が大事なら、彼女の幸せを望み彼女を犠牲になどしなければいいのに。
涼は考えながら、過去の事を思い出そうとした。
「分からないな。」
涼の呟きに晴己が反応する。
「僕もだよ。」
「え?」
「僕の選んだ方法が正しかったのかどうか、分からない。」
晴己がグラスにワインを注ごうとするのを、涼は止めた。
「斉藤先生が、もうすぐ戻るんだろ?」
涼の言葉に、晴己は苦笑した。


約束を抱いて 第三章-22

2007-09-06 01:20:05 | 約束を抱いて 第三章

晴己が杏依と付き合う前や結婚する前、色んな場面を思い出した。
当時、不思議だと思っていた事が今なら分かる気がする。
晴己と杏依が昨日は仲良く話していたのに、翌日には急に無口になったり、2人がむつみにだけ話しかけたり。
杏依の事で気持ちが浮き沈みする晴己を何度も見た。
「杏依さんと喧嘩したのかな?」
問いながら、むつみは自分で否定した。喧嘩という言葉で夫婦の間は表せない気がしたからだ。
「大人って大変、って事?」
涼も随分と疲れていたし、仕事をするというのは、かなりの苦労を伴うのだろう。
「むつみちゃんだけなんですよ。」
むつみの両手を包む和枝の手は暖かい。
むつみが生まれてからは仕事の量を減らしていた碧が、本格的に仕事を再開しようと考えていた時、新堂家で働いていた和枝が斉藤家へと来てくれた。和枝は晴己にとって、家政婦というよりも乳母に近い存在であり、晴己が信頼する人物の1人だった。むつみにとっても和枝は大きな存在で、祖父母を知らないむつみにとって、和枝の存在は大きい。
「ここだけが、晴己様が自由になれる場所なんです。」
「和枝さん?」
「新堂の1人息子として、晴己様には様々な拘束があります。ここで過すのは、時間の自由や体の自由だけでなく、晴己様の心を自由にしてくれるのですよ。」
和枝がむつみの髪を撫でる。いつの間にか、むつみは和枝を見下ろしてしまうくらい背が伸びてしまっていた。
「晴己様の立場も地位も関係なく、晴己様を見る事が出来るのは、むつみちゃんだけです。」
和枝の言いたい事は分かる気がするが、むつみは首を横に振った。
「杏依さんは?杏依さんだって。」
「そうですね。」
和枝が微笑んだ。
「でも、杏依様は新堂晴己の妻ですよ。そして新堂晴己の息子の母親です。」
ドクンと、むつみの心が跳ね上がる。
「晴己様は以前から自分の会社を持っていますが、SINDOの本体で勤務するのは今までと状況が違います。改めて御自分の置かれている立場を思い知ったのではないかと。」
SINDOの事になると、むつみには分からない事が多い。それはむつみには関係のない事だ。だが、晴己が特別な立場にいる人間だという事は、充分に理解している。
「私に何が出来るの?」
「普段のままで。いつも通りで。晴己様は以前と変わらず、むつみちゃんの幸せを願っていますよ。」

◇◇◇

「はる兄、こんなにたくさん?」
テーブルに並べられている料理を見て、思わず晴己に問いかけた。キッチンを見れば、オーブンには何か料理が入っているようだし、コンロの鍋も蒸気を出している。
「つい…久しぶりだったから作りすぎたみたいで。」
困った顔をする晴己も珍しくて、むつみは瞬きをした。
晴己と目が合い、彼が小さく溜息を出す。
「…先生と碧さんは?」
「今日は帰ってこれるみたいだけれど。」
晴己がホッとした顔を向けるが、それでも量が多い。
「優輝を呼ぼうかと思ったけど、この状況だと…機嫌を損ねそうだね。」
以前、優輝が晴己に斉藤家に来る事をやめて欲しいと言った事がある。しかし、久保と優輝が来てくれれば、随分と料理は減りそうだ。
「…素直に言って謝って…許してもらおうか?」
弱気な晴己も珍しい。
「機嫌悪くなると思うけど、後で知る方が怒りそう。」
「…確かに。」
晴己と目が合い、むつみは思わず笑った。
「幸せ一杯って感じだね。」
晴己が少し呆れている。
「こんな些細な事で揉める事もない、とか?」
些細な事ではないと思いながらも、晴己の問いにむつみは頷いた。
晴己が来ている事や、晴己が作った料理が並ぶ事には、優輝は不機嫌になるかもしれない。
「だって。少しでも優輝君と一緒にいたいもの。」
今夜も一緒に過ごす事をむつみは選びたかった。

そして、きっと、優輝も同じように思ってくれるはずだと、むつみは思った。


約束を抱いて 第三章-21

2007-09-05 14:52:44 | 約束を抱いて 第三章

むつみは瑠璃を慕い始めている。
今の状況なら、家政婦として雇う新しい人とむつみの関係を重要視する必要はないかもしれない、と碧は思っていた。
「むつみ、今週末は晴己さんの家に泊まらせてもらえるかしら?」
料理の本を見ていたむつみの視線が戸惑っていて、素直に頷けない事に、碧は気付く。
「週末は帰宅するのが難しそうだから。晴己さんには私からお願いするわ。むつみは大丈夫?」
むつみに拒む理由などないし、碧の依頼を晴己が拒む理由もない。
「むつみは2週間ぶり?赤ちゃんは大きくなってるわよ?」
「…そうなの?」
「毎日表情が変わっていくもの。楽しみね。」
むつみの耳の奥に、泣き声が思い出される。
「…また、泣かれちゃうかも…。」
「大丈夫よ。泣くのが仕事だもの。」
碧の明るい声にむつみは少し気持ちが落ち着くが、また心が騒がしくなる。
消えない泣き声は、むつみの心を不安にさせていった。

◇◇◇

「ただいま。和枝さん車が?」
むつみは玄関に置かれている靴を見て確信する。
「晴己様ですよ。」
駐車場に新堂の車が停まっていたから予想はしていたが、晴己がこの家を訪ねるのは随分と久しぶりだった。
「…お客様?」
晴己の靴以外にも女性用の靴が置かれていて、むつみは首を傾げた。
「杏依さん…じゃないよね?」
シンプルな形の黒い靴は杏依が普段利用するタイプではない気がする。
「おかえり、むつみちゃん。」
奥のドアが開いて晴己が歩いてくる。
「ただいま。はる兄?」
久しぶりに見る彼のエプロン姿に、むつみは再び首を傾げた。
「おかえりなさいませ。むつみさん。」
続いて晴己の後ろから、2人の女性が顔を出す。
「た、ただいま。」
状況が分からなくて和枝に助けを求める。
「新堂で働く者です。」
言われて彼女達を見ると、確かに見覚えがある。
「少し台所を借りたくてね。瑠璃さんには休んでもらっているし、手伝いの為に2人を。」
にこやかに話されても、むつみは状況が分からない。しかし、晴己は楽しそうだった。
「はる兄、何か作っているの?」
話しながらキッチンへ向かい、その扉を開ける。
「え?」
振り向いて和枝を見ると、彼女が肩をすくめた。
「こんなに…たくさん?」
「7時には出来ると思うよ。それまで宿題を済ませたら?」
「…うん。」
晴己がキッチンに戻り手を動かし始め、新堂の家政婦達も、その手伝いを始めていく。
晴己が料理をする姿を見るのは久しぶりだった。
仕事もあるし、以前よりも忙しくなっているのに、突然来た意味が分からなくて、むつみは考えを巡らせた。
もしかすると、昨日の事で怒っているのだろうか?
久保に送ってもらえば問題はないと思ったのだが、晴己は納得出来なかったのだろうか?
「…はる兄。昨日ね。」

「優輝の練習を見に行ったんだってね。喜んでいたよ。久保さんも優輝も。」
既に晴己は知っていたようで、笑顔を絶やさない。
「えっと。今週末は」
「来るんだよね?碧さんから連絡をもらったよ。杏依も喜んでいるから楽しみだね。」
むつみはキッチンのドアを閉めた。
「…和枝さん?」
むつみは和枝に問う。
「何か、あったのかな?」
きっと何かあったのだろう。
それを隠す為に微笑む晴己。
むつみには晴己の表情の違いが分かる。
どんなに笑顔でも怖い時もあるし、寂しそうな時もある。
だけど、こんな彼を見るのは久しぶりだった。
「好きにさせてあげてください。晴己様の勝手な我が侭ですよ。昼から、ずっと…ですから。」
「え?昼から?お仕事は?」
「晴己様の立場なら、少々時間に自由がありますが、自分の立場を分かっていない部分もあるので困ります。」
「…和枝さん。」
「でも今日だけは許してあげてください。こんな事…久しぶりでしょう?」
和枝に言われて、むつみは記憶を辿った。


約束を抱いて 第三章-20

2007-09-04 09:35:54 | 約束を抱いて 第三章

「ただいま。」
久保の車で帰宅したむつみを和枝が迎えてくれた。
「おかえりなさい。久保さん、橋元君どうぞ。」
「いいえ。ここで結構です。すぐに優輝を送っていきますから。な、優輝。」
和枝の誘いを久保は断り、優輝も仕方なく頷く。
「むつみちゃん、お弁当ありがとう。毎日は大変だけど、でも時々今日みたいにお弁当を届けてくれれば」
「図々しいんだよ、コーチは。」
優輝の言葉に久保は呆れ、和枝は微笑ましくて笑う。
玄関で久保と優輝を見送った後、むつみは弁当箱を両手で抱えた。むつみも彼らと一緒に弁当を食べた為、三人分を詰めた箱は大きく、今は軽くなっているが持って行く時は結構重かったことを思い出した。
「むつみちゃん、私がしますよ。」
「大丈夫よ和枝さん。自分でするわ。」
シンクに弁当箱を置いて、むつみは水を出した。
和枝は、むつみに任せることした。むつみが優輝の為に何かをしている時は本当に幸せそうで、和枝も嬉しくなるからだ。
「まぁ、あれだけの量があったのに綺麗に全部…。」
和枝が驚き、そして笑う。
「和枝さん。」
洗い終えたむつみがタオルで手を拭きながら問う。
「お料理の本は他にもあるの?」
むつみと和枝は同じ戸棚に視線を向けた。
そこにはむつみが参考にしている本が入っている。
「ありますよ。書庫に。昔の本などは書庫に移動させています。見てみますか?」
「うん。」
和枝に連れられて、むつみは書庫へと向う。
むつみは、滅多に書庫に入らないし、書庫の鍵の置き場も知らなかった。

和枝に鍵を開けてもらい室内に入ると、天井まで届く高さの本棚が並んでいて本が詰まっている。
本屋に行く方が、新しい物を見れるのは分かっているが、少し興味があり参考にしようと思っただけだった。しかし本屋に行く方が、すぐに目的の本を見つけられそうな気がするくらいに大量の本が書庫にはあった。
「下のほうだと思いますよ?高い位置は先生の医学書が主ですから。」
言われてむつみは、上の方を見た。
分厚い参考書や日本語で表記されていない本が並んでいて、むつみが手を伸ばしても届かない高さだ。
むつみが下部へ視線を移すと、幅の狭い背表紙の本が並んでいる。
むつみは身を屈めて並んでいる本を眺めた。

◇◇◇

むつみは書庫から持ってきた本を見ていた。
子供用の弁当を掲載した本は、可愛いと思うし手が凝っていると思うが、これを優輝が喜ぶとは思えなかった。
むつみ自身も、これを作ってみたいとか持って行きたいとか食べたいとか思えなくて、そんな自分が少し悲しくなる。
「あら、むつみ。どうしたの?」
むつみが見ている本を見て、帰宅した碧が問いかけた。
「和枝さんにお願いして書庫に取りに行ったの。」
「そう。懐かしいわね。むつみが小さな頃の本でしょう?」
碧に和枝がお茶を出し、むつみの湯飲みにも注いでくれる。
「和枝さん、しばらくは遅い日が続いてしまうわ。」
映画の撮影が始まった碧は、撮影現場の近くのホテルに部屋を用意してある。出来るだけ自宅に戻るように努めるつもりだが、どうしても帰宅できない日もある。そんな日は和枝に泊まってもらう事になっている。
「やはり、新しい人に来てもらうべきよね。」
碧の困ったような声を聞きながら、むつみは再び料理の本を見た。
家政婦に関する話に、口出しをするのは戸惑ってしまう。むつみを1人にしない為に話し合っているのだと分かっているから、自分は大丈夫だと意思表示をしたいと思うが、それを碧が受け入れてくれるとは思えない。
「この映画の前に決めたかったけれど。」
今回の映画の仕事を、碧はどうしても引き受けたかった。その撮影に間に合うように新しい家政婦を探していたが、時間が間に合わなかった。
瑠璃に来てもらっている事で随分と助かっているのは事実だが、彼女はむつみの“世話係”に近い存在だ。
家の家事を全て任せられて、住み込みも可能な女性を碧は必要としていた。