「卑怯だぞ。涼」
「抱き合いながら言われたくない。哲也に勝てないのなら争いたくない」
「涼が勝てないのは、現時点で、だ」
いや、違う。
現時点でも哲也さんは勝っていない。
「毎日毎日イワシを持参されたら、好美は陥落する」
おばあちゃん、ごめんね。
毎日イワシは、ちょっと無理です。
「俺は頼まれた料理を持って来ただけだ。何が卑怯だ?」
「橋元さん、哲也さん、好美ちゃんと一緒に食べます?」
「はい。いただきます」
「涼は帰れ。用件は伝えた。帰れ」
「この状況で俺だけが帰るのは不公平だ」
「涼は家族に話したのか?好美にプロポーズすることを、家族は納得しているのか?」
「話していない。納得するわけがない。俺は自慢できる恋愛など一度もしていない」
自信たっぷりに答えなくても。
それに、プロポーズだと表現されても、違う気がする。
「だけど、15歳から執着し続ける哲也よりはマシだと思っている」
私も同感だ。
響子さんは私達に構わずに準備を始めている。
家政婦さんが出入りする度に、料理の香りが増えていく。
男性2人が増えたから、お肉料理を増やしたみたいだ。
私は子ども達とケーキを食べているから、それほど空腹ではない。
お昼も、杏依ちゃんに勧められて、色々食べちゃったし。
イワシとご飯とお味噌汁だけで良いかも。
でも、野菜と肉を食べるように響子さんと哲也さんが言いそうだ。
だったら、涼さんはラクかもしれない。
私が何を食べても、どんなことをしていても放っておいてくれそうだ。
だって、私に興味がないから。
料理のことを考えていたら、どんどん冷静になってきた。
涙も止まり、溜息を出す。
哲也さんから離れよう。
彼の手つきが怪しくなってきている。
宥める様な手のひらだったのに、今は指先が私の背骨を辿っている。
「現行犯」
背中から哲也さんの指が離れた。
「好美が二十歳になるまで戻ってくるなって言っただろ?わざわざ会いに来るな」
イワシを持ったまま、私は背後に引っ張られる。
「いらっしゃい。大ちゃん」
イワシが大輔さんの手でテーブルに置かれた。
「好美も、哲也を煽るなと言っただろ?」
「私、何もしてないもん」
以前と同じせりふを返したけれど、本心は以前とは違うことには、自分で気付いている。
「無自覚も自覚ありも、どっちも悪い」
「大輔さんも食べます?」
響子さんは私と大輔さんの会話など、気にしていない。
「いただきます。あー…好美、パスポート取りに行った?」
「まだ」
「早く行かないと」
「はーい…」
覇気のない私の声に、大輔さんが呆れた視線を向ける。
「パスポートって…今なのか?」
哲也さんに問われて、私は視線を逸らす。
「俺がイギリスに行く前に言っただろ?申請しろと。今まで持っていなかったのか?」
頷くと、哲也さんが大輔さんを睨む。
大輔さんは無関係だから、睨むのは可哀相だ。
「哲也を基準にして好美が行動すると思うなよなぁ…好美が今回申請したのは、小野寺君が留学するから。響子さんの父親が好美を連れて行くと言った時に、パスポートありませんなんて、言えるわけがないだろ?」
「俺の時は申請せずに、小野寺弘なら申請するのか?」
「当たり前だろ、哲也」
当たり前なのかどうか、分からない。
だけど、響子さんにも言われたし、無理やり申請場所に連れて行かれたし。
その時に見た書類から、私の母のことも、私の兄のことも、文字で理解することが出来た。
分かっていたことだけど、自分の目で見て、それを受け入れることに戸惑ったのは事実だ。
その現実を響子さんと大輔さんが私に見せたかったのだと…それも事実だ。
そして、姫野のおじ様の援助で留学することになった弘先輩に会う為には、パスポートが必要なことも、事実だった。
「好美。小野寺君が」
「響子さん。私、ご飯とイワシで充分かも。だってケーキ食べちゃったし」
「留学期間中は日本に戻れないから」
「お野菜は、抜きでも良いかなぁ」
「好美!」
聞きたくない。
考えたくない。
弘先輩のこと、思い出したくない。
立ち上がって、この部屋で食事をするか母屋の台所に行くか、離れに行くかを考えて、腕時計で時刻を確認する。
「あっ…」
思い出したのと同時に、声が聞こえた。
近付く話し声。
姿を見せる人。
「松原先輩!こんばんは!」
必要以上に元気な声を出した私に、松原先輩は焦りもしない。
私の情緒不安定に、彼は凄く慣れてしまっている。
私は松原先輩に母屋の一室を貸している。
その部屋で彼は勉強を教えている。
進学塾で講師のアルバイトもしているけれど、個人で家庭教師もして、今日のように生徒を集める時もある。
その集まる場所に私の家を使用したいと言ってくれた時、お役に立てるなら、そう思った。
松原先輩は感謝してくれたけれど、実際には私に弘先輩と会う時間を作ってくれた。
高校を卒業した先輩達に会えなくなるのは寂しいと思っていたのに、松原先輩、弘先輩、由佳先輩が講師として生徒を集めた。
瑠璃先輩は時々お手伝いしてくれるし、授業抜きでも、時々会いに来てくれる。
「今日は、サッカー部のみんなですよね?」
私が卒業しても、部員達が来てくれるから、私の家はいつも賑やかだ。
中学生の生徒もいる。
小学生の授業もある。
だから…施設の子達も来ることがある。
杏依ちゃんの図々しさとは違う手段で、松原先輩は私の場所を守ってくれた。
「今日は瑠璃も手伝ってくれるから、+3人分で、軽食お願いします」
「はい!」
って、私が作るわけじゃないけれど。
+4じゃない。
これからは、弘先輩は含まれない。
「ということで、ここからは個人的な話題。弘が」
聞きたくない。
松原先輩が弘先輩を呼ぶ声は、ずっとずっと中学生の時から聞いていて、私は色んなことを思い出してしまうから。
考えたくない。
それなのに。
「うっ…」
ポロリと一粒零れれば、もう止まらない。
「松原先輩が」
また、損な役目ばかり。
「説得してくれれば良かったのに」
ポタポタと畳に涙が落ちる。
「行くなって言ってくれれば良かったのに」
あの時、哲也さんが受け止めてくれなかった思いを、弘先輩と松原先輩は受け止めてくれた。
理不尽で勝手で我侭で。
何度も心の中で謝りながら、私は先輩達に甘え続けている。
「ごめん。姫野」
大きな手のひらは、誰にも似ていない。
「俺がもっと、弘と話し合えば良かったのに」
話し合っても、弘先輩は勝手に1人で決めたと思う。
「俺が行く時は一緒に行こう?」
パスポートなど必要ないと思っていたのに、松原先輩の言葉に私は素直に頷く。
「姫野にお願いがあるらしい」
何だろう?
「イチゴを」
「…はい?」
見上げると、困ったように溜息を出された。
「イチゴは、やっぱり日本が美味いらしくて…まぁ…それには俺も同感だが。で」
凄く凄く言いにくそうだ。
「会いに来るのなら、イチゴが美味しい季節でお願いします、らしい」
「あ?え?い、いちごー?」
ピタッと涙が止まる。
「ちょ、ちょっと!私がイチゴ持って行くんですか?美味しい時期を選んでですか?帰ってきたらいいじゃないですか!そんなに食べたいのならイチゴ狩り行けばいいでしょ!」
曾祖母の近くでイチゴ狩りもあった気がする。
行って、たっぷり食べて、写真送ろうかな?
うん、そうしよう。
「弘先輩なんか、大嫌い!」
松原先輩が笑う。
「だよなぁ。嫌いだよなぁ」
「嫌いじゃなくって大嫌いなんです!」
「あぁ、分かった分かった」
「分かってません!」
「俺、準備あるから」
「ちょーっと待ってください!」
私の叫び声に混ざって、おなかが鳴った。
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