日曜は、とっても疲れた。
パーティの準備を手伝ったわけでもないし、参加したわけでもないし、後片付けに追われたわけでもない。
私は、ただ、杏依ちゃんの家で隠れていただけだ。
それなのに、とても疲れていた。
その原因が哲也さんだと思うと、余計に疲れが大きくなった。
哲也さんに気持ちを惑わされている自分が、凄く嫌だ。
私がこんな状態なのに、結局、哲也さんは来ない。
イギリスに戻ったのかどうか確認していない。
玄関のドアが開く度に、車の音が聞こえる度に反応してしまう自分をどうにかしたい。
月曜も火曜も落ち着かなかった。
そして、水曜。
朝からの訪問客に、ちょっと気持ちが高揚した私は、やっぱり自分を叱咤するべきなのかもしれない。
「やだぁ。好美ちゃん、どうしたの?怖い顔して?」
杏依ちゃんが原因だよ。
どうして、こんな朝早くから?
「姫野さん、忙しい…わよね…ごめんね、朝から」
瑠璃先輩に言われてしまい、表情を作る。
「いえ…驚いただけです。杏依ちゃん…お誕生日会の準備、午後からの約束だったと思うけど?」
「うん。そうだよ」
それじゃ、どうして?
「お味噌汁がね」
だから?
「美味しかったの」
良かったね。
「それで、次のお味噌も私は食べられるのかなぁって気になって」
「…兄は志織さんには持っていくと思うので…そちらでどうぞ」
最近の兄は、味噌を確認する為だけに時々自宅に戻る状態だ。
大学は通える距離だ。
勉強が忙しくて大変なのは分かる。
私の大学生活と兄の大学生活は全く違うということも、理解している。
だけど、本当の理由は違うような気がする。
どうして家を出たのか問い詰めたい気持ちと、そろそろ兄を解放しなければいけないと思う気持ちが、毎日私の中で交錯している。
「そっかぁ。次はいつ頃になりそう?」
「…知らない…水羊羹あるよ。食べる?昨日、兄が作ったから」
「嬉しい!いただきます」
ふわりと笑う杏依ちゃんを見て、私は彼女の意図が分かった。
私と兄が、どれだけの頻度で会っているのかを探っているのだ。
知られても困ることでもないし隠すことでもないけれど、直球で訊かないのは、やはり何か考えがあるのだろう。
この人は、どこか恐ろしい。
ニコニコ笑って甘えてくるけれど、それで終わりじゃない。
そんな風に捻じ曲がった考えをしてしまう私は嫌な人間かもしれないけれど、杏依ちゃんの好意を素直に受け取れない私がいる。
大学を休学中の杏依ちゃんと、大学に行く時間が迫っている瑠璃先輩に、水羊羹とお茶をお出しして…急かして帰って貰った。
◇◇◇
昨日、絵里さんが来てくれた。
だから、兄も帰って来た。
絵里さんと話して、私は落ち込んでしまった。
お味噌を持ち帰ってくれたのだけが救いだ。
結局、直樹さんとの婚約は解消しない、らしい。
気持ちがスッキリとしないのは哲也さんが原因じゃない。
絵里さんと会えなくなるのが寂しいのだ。
それは当然、当たり前…だけど。
私の絵里さんへの想いの隙間隙間に哲也さんが割り込んでくるのが、余計に気に入らない。
朝は急いで準備して大学に行って、午前の授業後慌てて帰宅。
今日はお誕生日会の準備があるから、私は忙しい。
それなのに。
「おかえりー」
大学から帰宅したら…杏依ちゃんがいた。
「…杏依ちゃん。まさか、ずっといたの?」
変だ。
ちゃんと帰って貰ったはずだ。
「えー違うよ?勝海迎えに行ったもの」
ふにゃふにゃと、可愛い笑顔の勝海君に絆されそうになる。
勝海君は姫野の血を引くし、ここにいてもおかしくないし、ちゃんとみんな世話をしてくれる。
でも、私の家なんだけど。
確かに、それほど抵抗がないのはあるけれど。
最初に私の抵抗をぶち破ったのは、この人だ。
弘先輩とお菓子を交換した、あの日だ。
どうして、こう…平気なのかな、この人は。
響子さんと晴己お兄様は、小さい時の記憶もある訳だし、納得できる。
杏依ちゃんのお母さんも、よく来ていたみたいだから、間取りを把握している。
だけど皆…私に気を遣ってくれている。
ほとんど自分の家のように暮らしていたらしい麗子さんも、私が暮らす離れには遠慮がち…だ。
私は離れでの暮らしの記憶が多い。
だから、母屋を誰が行き来しても寝泊りしても、あまり気にはならない。
だけど、離れは…やっぱりちょっと違う。
初めての状態でこの家に来ているはずの杏依ちゃんが、一番…図々しい。
図々しいというのは失礼かもしれないけれど、うん、でも、それがぴったりだ。
人懐っこいのとは、違う。
「好美ちゃん。お昼まだでしょ?一緒に食べよう」
それは私の台詞だと思う。
ここ、私の家、だし。
「豆ご飯、好美ちゃん好きでしょ?」
食卓に並ぶお茶碗2人分。
得意そうに杏依ちゃんは言うけれど、彼女が作った豆ご飯じゃない。
家政婦さん達が作ってくれた豆ご飯だ。
私だって作るわけじゃないけれど、どうして杏依ちゃんは、そんなに得意気…なんだろう?
いつも、それを感じる。
だけど、いつも同じ結末になる。
「美味しいね」
「…うん、美味しいね」
豆ご飯を食べて、にっこりと杏依ちゃんは笑い、私に同意を求める。
同意した私は、その時点で全てが綺麗に消えてしまう。
心のモヤモヤも。
納得できない疑問も。
不満そうな顔をしていたはずだったのに、頬が緩んでしまう。
一緒に食べて美味しいねと言ってくれるのは、杏依ちゃんだけだから。
兄も響子さんも瑠璃先輩も、一緒に食べることはあるけれど、私が美味しいと言えば良かったと答える人達だ。
私に作ってくれる立場の人達だから、私の反応を見ているだけだから。
その人達と杏依ちゃんは同じ年齢なのに、どうしてこんなにも私の意識が違うのだろう?
結婚して母親になった人なのに、杏依ちゃんは以前と変わらない。
変わらず私に接してくれる。
彼女の存在が、私を助けてくれているのは事実だ。
この家に入るのを、母は遠慮している。
いつも、裏の桜を眺めて満足しているだけだ。
そして雅司が、この家に入ることを、凄く戸惑っている。
だけど、その戸惑いをぶち破ったのも杏依ちゃんだ。
杏依ちゃんが平然としているから、雅司も平然と出入りするようになった。
その事に関して、桐島太一郎さんは、かなり戸惑っている。
だけど、杏依ちゃんは平気だ。
彼女の図々しさが羨ましい。
そして、とても感謝している。
責められても咎められても、平気な彼女はとても強い女性だ。
護られているだけの人だと思っていたのに。
何の努力をしなくても、幸せに包まれる人だと思っていたのに。
「杏依ちゃん…絵本、読むの?」
苦手だと思っていた人に、読んで欲しいとお願いをしたのは高校に入学する直前だった。
読んでもらいながら眠ってしまったあの頃と、私の生活は大きく変わってしまった。
この人に私は護られているのだと、時々思い知らされる。
常には感じていない…それは許してもらいたい。
だけど、ちゃんと、時々だけど感謝しているから。
「読んでくれる?」
「うん。いいよ」
「…ありがとう」
時々だけど。
ありがとうの言葉に、私は多くの想いを込めている。
それに気付いているのかいないのか。
杏依ちゃんは、いつも変わらない笑顔を向けてくれる。
その度に、私は自分の心にフワフワとした幸福が舞い降りるのを感じている。