学校からの帰り道で、むつみは立ち止まった。
友人達と別れて1人で歩いていたが、周囲を見渡して首を傾げる。
視界に入る何台かの車を見る。
停車している車に見覚えがあり、むつみはその車に向かって足を進めた。
ドアの近くに立つと、ゆっくりと後部座席の窓が開く。
「気付かれるなんて思わなかったのに。」
車中の人が残念そうに笑う。
「感が良いものね、むつみちゃんは。」
「…だって、この車、目立つわ。」
それに、少し前までむつみ自身が毎日乗っていた車だったから、すぐに目に止まった。
「外の空気が入るから…乗ってもいい?」
むつみが尋ねると、車中の新堂杏依が微笑んだ。
◇◇◇
杏依は実家からの帰りらしく、この後に予定があるわけではなかった。それを聞いたむつみが家に誘うと、杏依が嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、むつみは罪悪感を感じてしまう。
杏依と晴己にとって大切な時期なのに、迷惑をかけてしまったことを杏依はどう思っているだろう?
『むつみちゃんには、もう入る隙間なんてないのよ?』
笹本絵里の言葉が突き刺さる。
絵里の言っている事は正しいと思う。幼い頃から絵里に投げつけられた言葉は、むつみを傷つけてきたが、彼女の言っている事は正しい。自分が新堂晴己の生活を邪魔しているのは、嫌というほど分かっている。
だけど、そこから抜け出せない自分が情けない。
「杏依様。お久しぶりでございます。お体は如何ですか?」
「和枝さん。とても元気よ。」
杏依の答えに和枝が顔を綻ばせる。
「むつみちゃんの好きなチョコレートケーキを作ったんですよ。御心配なく。むつみちゃんの好みに合わせて糖分は控えめですから。」
「そうよね、これぐらいの甘さは許されるわよね?糖分は控えているつもりなのよ?それなのに晴己君ったら、何もかもダメだって言うのよ?」
「晴己様の心配性は異常ですから。」
和枝は昨日と同じ台詞を言い、杏依と和枝が顔を見合わせて笑う。
確かに晴己は色んな事を心配しすぎだと思う。
だけど、彼の意見は何も間違っていないし、とても正当性があると思う。むつみは晴己の過保護な部分や過干渉な性格が自分に向かなくなってしまったら、とても寂しく感じるだろう。晴己の好意を鬱陶しいと思う気持ちはなかった。
それよりも、晴己からそれだけの好意を受けている事に申し訳なさを感じてしまう。晴己から離れなければ、自立しなければ、そう思っているのに、晴己の温もりを手放すのが怖かった。
「それでは、杏依様ごゆっくりと。」
和枝がリビングから出て行き、むつみは杏依と2人だけになった。取り留めのない話をし、むつみの気持ちも和んだ時に、杏依がポツリと言う。
「良かった。」
「え?」
突然の彼女の呟きに、むつみは問いかける。
「姿だけ見て帰ろうと思っていたの。元気な姿を見れれば充分だから。でも、こうして話せて良かった。もう…むつみちゃんに会えないような気がしていたから。」
「そんなこと…」
むつみは、はっきりと否定できずにいた。
「むつみちゃんが遠くに行っちゃうような気がしたの。歩いているのを見た時に、余計に思ったわ。数ヶ月会っていなかっただけなのに、凄く綺麗になっていて。」
杏依の掌がむつみの頬を撫でる。
「それなのに…悲しそうな顔をしているんだもの。」
杏依がもう一方の手でむつみの髪を撫でた。
「1人で我慢しないで。」
杏依の声に、むつみの心が締め付けられる。
「杏依さん…」
今の杏依に涙を見せたくなかった。迷惑をかけたくなかった。
「ごめんなさい…」
「言ったでしょう?謝らなくていいのよ。むつみちゃんは何も悪くないわ。」
流れ落ちた涙が杏依の指を濡らす。
「辛かったでしょう?何も力になってあげられなくてごめんね。」
杏依の腕がむつみを抱き寄せた。
窓辺でむつみは瞳を閉じた。
昨夜、眠る事は出来たが熟睡は出来ず、瞼が重い。
今日も優輝を囲む人達は騒々しく、避難するような気持ちで保健室に来ていた。
昨日の高瀬の件で、優輝との繋がりは消えてしまった。以前は優輝に避けられていたが、別の意味で深く関わっていたように思う。それは良い関係ではなかったけれど、むつみしか知らない優輝がいた。
今は、優輝の捻挫は完治しテニスも続けている。良い環境になりつつあるのに、むつみは素直に喜べない。以前は心から望んでいたはずなのに。
前に進んでいく優輝に反して、むつみは立ち止まったままだった。優輝が『ありがとう』と言ってくれた事は凄く嬉しいが、むつみは終わりを告げられた気がしていた。
「え?」
突然、窓を叩く音がむつみの耳だけでなく身体にも響いてきて、彼女は慌てて体を起こした。
見ると優輝が外から窓を叩いている。
慌てて立ち上がって窓を開けると冷たい風が吹き込んできて、優輝が窓枠を超えて室内に入ってきた。
彼は窓を閉めると、呼吸を整えながら床に座り込んだ。
「あぁー、なんだよ、あいつら。」
むつみが窓の外を見ると、何人かの生徒が駆けて行く。
「斉藤さんは何してるの?こんなところで。」
「…先生の代わりに…留守番。」
逃げてきたのが一番の理由だが、留守番というのも嘘ではない。
「へぇ、いい場所見つけた。ここなら誰も来ないかも。」
むつみは座っていた椅子に、また座りなおした。
「…保健室よ。みんな来るわ。」
今は誰もいないけれど、生徒の出入りが多い場所だ。
「具合が悪いとか怪我してたりだろ?俺に構っていられないんじゃない?」
優輝の言い分が尤もな気がして、むつみは何も言い返さなかった。その為に沈黙が続いてしまい、何か話さなくてはいけないと思うむつみを優輝が見上げてきた。
「あのさ、俺、テニス続ける事にした。」
そんな風に宣言されても、どんな言葉を返せばよいのか、むつみは分からなかった。続けて欲しいと望んだのは自分だし、この言葉を優輝から聞ける事は嬉しいけれど。
「卓也にも会ったし、まだ…怪我の事はあるけれど。」
「…あの」
むつみは状況が変わった事を優輝に話そうとした。
「CMの話だけど…」
「昨日晴己さんから聞いたよ。斉藤さん抜きでやるって。」
「ごめんね、私が話した内容と…。」
「いいよ、別に。俺はその方がいい。」
残念だと思っていたむつみに反して、優輝は気にも留めていない風で、その様子が余計にむつみを落ち込ませる。
「出来るだけ自分の力でどうにかしたいから。」
優輝の声は以前と随分違っていて、とても強い音を出していた。
「変更になった事、もしかして気にしていた?」
CMの件が変更になった事を、優輝は特に気にしていなかった。晴己から話は進んでいると聞いている。
笹本絵里と最後に会った日の帰り道で、むつみから話を聞いた時は驚いたし、自分には無理な話だと思っていた。
だけど、それが実現される可能性が高くなってきている。
「あのさ」
優輝の声を遮るように、チャイムが鳴り響く。
時計を見ると、昼休みが終わる時間になっていて、五分後に再びチャイムが鳴れば午後の授業が開始される。
チャイムが鳴り終わると優輝は立ち上がり、今度は座っているむつみを見下ろした。
「どうして練習、見に来ないんだ?」
予想外の言葉に、むつみは顔を上げて優輝を見るが、彼はすぐに出て行ってしまった。
残されたむつみは、緊張で強張ってた身体を緩め、長い息を吐き出した。
晴己を見送った後、むつみは並べられた料理を食べていた。
食欲はないし出来れば食べたくないが、食べ終わるまで和枝は帰らないだろう。
むつみの成長をずっと見てきた和枝は、むつみの様々な状況を知っている。彼女からむつみに何かを問いかける事はないし、むつみも彼女に全てを話しているつもりはない。だが、彼女は今回の事を知っているに違いない。
「むつみちゃん、私がしますよ。」
食器をシンクに置こうとしたむつみに和枝が言う。
「手伝うわ。」
和枝が微笑んだ。
自分ですると言っても和枝は納得しないだろう。
手伝う、その言葉をむつみは和枝に言うことが多かった。むつみが料理に興味を持ったのも、忙しそうに動き楽しそうに料理をする和枝を手伝いたい、そう思った気持ちが最初だった。
今では、むつみも夕食の準備が出来るし、母親だって休みの時は料理をする。以前のように、家政婦に頼らなくても大丈夫だ。
ただ、この家の掃除を1人でするのは大変だ。
今は和枝の娘が1人で掃除をしている状態で、それは娘に負担が多すぎる。むつみの両親は、もう1人家政婦を増やしたいと思っているが、晴己が納得していない状況だった。
「私、はる兄に酷いことを言ったわよね?」
食器を洗い終え、むつみはタオルで手を拭いた。
「晴己様が頑固なだけですよ。」
「和枝さん?」
「むつみちゃんは、こんなにしっかりしているのに。確かに1人でこの家にいることは心細いでしょうけれど、もう中学生ですものね。家に誰かがいるほうが安全だと思いますが、晴己様の心配性は少々異常です。」
和枝の言葉にむつみは思わず笑ってしまった。こんな事を口に出来る人間は少数しかいないだろう。
時計の音が響き、9時を告げる。
「それでは私は失礼しますね。」
和枝の娘が9時に迎えに来ることになっていたのだろう。
和枝は笑顔を残してキッチンから出て行った。
◇◇◇
むつみが寝る準備を始めていた時、母親が帰宅した。
何かを聞かれるかと思ったが、母親は普段と何も変わらず、少しだけむつみと会話をすると、母親も寝る準備を始めた。
ベッドの中に入っても、なかなか寝付けず、父親の車の音が聞こえて時計を見ると1時を過ぎていた。
早く眠らなければ、そう思いながら眠りに入れない。
「私も、会いたいけれど…」
春休みと夏休みは、むつみは別荘に滞在している。
それは新堂家も同じで、晴己と杏依が結婚してからは、杏依も一緒に過ごす事になり、むつみは別荘に行く日を、それまで以上に楽しみにするようになった。
むつみが優輝と出会った春休みは、晴己と杏依は海外旅行を控えていた為、数日しか別荘に滞在しなかった。短い時間でも2人に会えた事は嬉しかったが、2人がむつみの為に時間を作るように努力しているのをむつみは気付いている。
あの日、2人を見送った後、久しぶりにテニスコートに向かったむつみは優輝と出会った。
あの日から、杏依に会っていない。
夏休みは、杏依は別荘に来れず、晴己は一日だけの滞在だった。優輝の事で色んな問題が起こっていた時期なのに、そんな状況でも時間を作って晴己は会いに来てくれたのだ。
それを考えると、2人に甘えている自分が情けなくなる。
むつみは、初めて杏依に会った時の事を思い出していた。
温かい、それが杏依に対する印象だった。
不安な時に傍にいてくれた人。
晴己に感じるのとは違う温もり。
何度も彼女の温かさに包まれた事を思い出し、むつみの心が穏やかになっていく。
彼女は、そっと目を閉じた。
しばらく続いた車中の沈黙を破ったのは晴己だった。
「CM…よく思いついたね。」
晴己は感心した声をむつみに向けた。
「決勝戦で負けるのは優輝にとって屈辱。それなら試合に出なければいい。でも、そうすればテニスを再開する機会を逃してしまう。」
晴己は静かな声だった。
「決勝戦で負ければ絵里さんが金銭を優輝に渡すのならば、決勝戦で勝って金銭を得る方法を考えればいい。」
むつみは驚いて晴己を見た。
絵里が優輝に話した提案を、晴己は誰から聞いたのだろう?
絵里が話したのだろうか?
優輝が話したのだろうか?
晴己は、何時、誰から、どのような方法で、それを知ったのだろう?
「むつみちゃん1人で金銭を得る方法はあるけれど、それだと優輝が拒むに違いない。全く無名の中学生のテニス選手が簡単に金銭を得る方法はないけれど、星碧の娘なら可能性はある。」
むつみの思考回路を全て理解しているかのように、晴己は話し続ける。
「優輝も試合で優勝すれば少しは知名度が上がりCMに起用される可能性が出てくる。負けて失う物が大きい事よりも、勝って多くの物を得る事を考えた。」
むつみは言い当てられて唇をかむ。
「優輝は納得しただろうね。絵里さんの提案よりもむつみちゃんの提案の方が、条件が良い。だけど残念だが、むつみちゃんの考えた方法は実現しない。」
実現しない、そう言われてむつみは俯いた。
1つだけ残っていた優輝との繋がりが無くなってしまう。
「優輝は自分で必要なだけの金銭を得られる。優輝自身が自分でそう望んでいる。」
晴己の指がむつみの髪に触れて、驚いたむつみは顔を上げた。そっと髪を撫でられ、そしてすぐに離れる。
「決勝戦の前に僕に言いに来たよ。問題なくテニスを続けられる手段を僕に考えて欲しいと。」
晴己はむつみから視線を逸らす。
「優輝は自分で金銭を得られる。むつみちゃんの協力は不要だよ。」
晴己の厳しい声が、むつみに向けられる事は珍しかった。咎めるような口調は、むつみの勝手な行動を非難していた。
◇◇◇
むつみが家に到着すると、家政婦の和枝が迎えてくれた。
和枝は新堂家で勤めていた家政婦だったが、晴己の依頼で斉藤家で働くようになった。仕事の忙しいむつみの両親の代わりに、幼い時からむつみの世話をしてくれている。
以前は住み込みの状態だった時もあるが、最近は年齢の為に仕事が辛くなってきているようで、掃除等は和枝の娘が担当し、和枝は夕食の準備を担当している。
「1人で平気だから、はる兄は家に戻って。」
和枝が晴己を招き入れるのを、むつみは拒んだ。
晴己と和枝が顔を見合わせている。
「はる兄、帰って。私、勝手な事ばかりして心配をかけたけれど、もう…迷惑かけないから。」
「迷惑だなんて」
「これ以上、私が勝手な行動をする事はないでしょ?高瀬さんの話は私には無関係になったもの。ここに来る必要はないわ。」
「むつみちゃん?」
「もう余計な事はしない。優輝君には関わらないから。」
むつみは、伸びてきた晴己の手を払いのけて靴を脱いだ。
「杏依がむつみちゃんに会いたがっている。」
むつみの背中に晴己の声が届く。
「心配している。」
「…話したの?」
振り向いて聞く。当然だと、すぐに自分で思った。
9月以来、晴己はむつみの家に来る事が多かったし、奈々江の家に連れて行かれた日は新堂の家に泊まった。
晴己が杏依に事情を話していて当然だ。
「話していないよ。」
「え?」
「杏依には話せない。でも、気付いている。」
むつみは心の中に渦が巻き始める。
新堂の家に泊まった日、むつみは杏依に会う事を避けた。会ってしまえば、杏依の状況に関係なく、泣きついてしまいそうだったからだ。
「ご、ごめんなさい…」
「どうして謝る?」
むつみは首を横に振った。
「優輝は大丈夫だよ。テニスを続ける。もう、むつみちゃんが苦しむ必要はない。だから杏依を安心させて欲しい。」
むつみは返事が出来なかった。
「気紛れですよ。御迷惑をおかけしました。」
むつみが一生懸命に考えた事を、晴己は〝気紛れ〟という言葉で済ませてしまった。
「この年齢の時は、様々な事に興味を示します。一番身近な母親の職業に憧れるのは当然でしょう?一時の気紛れで高瀬さんに御迷惑をおかけしました。」
晴己は躊躇もせずに話している。
「お分かりかと思いますが、私は彼女を世間に晒す気は全くありません。本人が望んでいたとしても。」
晴己は笑顔のままだ。
「お詫びに代役を準備しました。」
机の上に出された書類を見て、高瀬は笑みをこぼす。
「代役というよりも、彼を売り込みに来られたのでしょう?それも新堂さん自らが足を運んで?」
むつみは、完全に自分を無視している男性2人の会話を聞きながら机の上の書類に目を落とす。
「橋元優輝の場合は、最初から決まっていたでしょう?代役は〝彼女〟ですよ。既にご本人の了解を得ています。」
そして、また書類が出される。その写真を見て、むつみは目を丸くした。
「星碧が?」
高瀬も驚きの声を上げる。
「高瀬さんとむつみちゃんが話し合った金額のままでお願いします。それを星碧と橋元優輝で分け合います。」
「新堂さん?それは無理でしょう?星碧のCM出演料は、そんなに安くありませんよ?」
「ご本人は納得されていますよ。」
「ですが」
「高瀬さんが納得できないのなら、星碧に相応しい金額を支払っていただければ問題ありません。」
晴己は笑顔を崩さない。
「企画はそのまま、少々出演者が変わるだけです。」
晴己の無理矢理な言い分に高瀬は顔を歪めた。
「斉藤むつみでなく、斉藤碧に変更になるだけです。勘違いか書類上の手違いか。どこかで話が食い違ったのでしょう。女優である星碧がCMに出ることには何の違和感もないでしょう?でも、その娘は一般人なのにCMに出演する事などありえません。どこの企業が契約してくれますか?」
晴己は笑顔のまま、言い切った。
◇◇◇
電車で来たのだから、帰りも電車を利用するつもりだった。
だけど、その気持ちを晴己に伝える事は気が引けてしまい、むつみは晴己と一緒に駐車場へと向かい、彼の車に乗る。
顔見知りの運転手が、むつみが一緒に来た事に驚きもせずに会釈をし、むつみも会釈をしてから後部座席に座った。
晴己も後部座席に乗り込み、むつみの隣に座る。
少し暗くなり始めていて、電車も人が多くなってくる時間だ。この時間に1人で電車に乗るのは躊躇ってしまう。
晴己の従姉である奈々江の部屋に行った日の事を思い出すと、やはり電車は避けたい。
だから、こうして晴己の車に乗れたことは嬉しいが、やはり1人で帰るべきだったのかもしれない。
むつみが1人で帰ることを晴己が受け入れてくれるとは思えないが、こんな風に晴己に送ってもらうのが当然になっているのは、そろそろ止めなくてはいけない。
「碧さんは今夜は撮影らしいね。」
晴己は私服に着替えているむつみを見る。
「一度、家に帰ったの?」
むつみは首を横に振る。
「制服のままだと目立つから、駅で着替えた…」
今朝、むつみは駅のコインロッカーに私服を預け、学校が終わると駅のトイレで私服に着替えた。制服はむつみの鞄の中に入っている。
「目立つと分かっているのに、あの時は桜学園の制服を着たんだね。」
驚いて晴己の顔を見ると、前を見据えたままの彼は無表情で、そこから感情を読み取れない。
居心地が悪くて、窓の外を見たむつみに晴己の声が届く。
「話が早く進みそうだ。むつみちゃんが事前に〝交渉〟してくれていたから。」
晴己の言葉が、むつみの胸にチクリと刺さった。
ビルの正面から入るのを避け、駐車場に向かったむつみは、男性を見つけて会釈をした。
「久しぶりだね。電話の声で想像はしていたし噂にも聞いていたけれど、綺麗になったね。」
数年ぶりに会う高瀬に言われて、どんな言葉を返せばいいのか、むつみには分からなかった。
「碧さんも自慢の娘だろうね。」
「…母には、似ていないでしょう?」
彼の言葉を素直に受け取れず、可愛くない反応をしてしまう。
「似ていないけれど、星碧の娘だと分かるよ。」
何を見てそう思うのか分からないが、彼は嬉しそうに頬を緩めていた。
高瀬に連れられてエレベーターに乗り、部屋へ案内される。途中ですれ違う大人達の視線が気になっていたむつみは、室内に入った時に安堵の溜息を出した。
「ところで先日の話だけれど、むつみちゃんの要望は変わらず、かな?」
「はい。あの…条件は良くなったと思いますが。」
勧められた椅子に、むつみは座った。
◇◇◇
「困ったな…それは無理な相談だよ。」
むつみの前に座る高瀬が持っていたペンを机に置いた。
「むつみちゃん未成年だろ?それにこの話を進めるのに、碧さんに黙っていることなんて不可能だよ。すぐに彼女の耳に入る。」
「母は反対しないと思います。」
「碧さんはね。…新堂さんには伝える必要がないと言えばそうだけれど、あとで新堂さんの耳に入って揉めるのは困るんだよ。」
彼は困った顔をしている。
「むつみちゃんから電話を貰った時は嬉しかったんだけど。やっとその気になってくれたって。でも、君1人じゃないっていうのも…。」
「…無理ですか?」
「いや、まぁ、無理って事じゃないけれど、確かに知名度は上がったし。ただ、彼が関わるのなら、なおさら新堂さんに…。」
むつみは何も言えず黙ってしまった。
「彼の場合はね、既にSINDOが動いているんだよ。」
「え?」
意味が分からず顔を上げたむつみに、高瀬は説明する。
「SINDOが彼の仕事を探している。」
「仕事?」
「そう。だからむつみちゃんと彼がCMに出て、金銭を得る、それはちょっと難しくなってきたね。」
「あの…その、SINDOが探している仕事というのは、実現しそうですか?」
高瀬が溜息を出す。
「やっぱりね。むつみちゃんが芸能界に興味を持ってくれたわけではなく、橋元優輝にお金が必要、そういうことか。」
高瀬は呆れた顔でむつみを見ると、厳しい表情になる。
「こんな事は今後はやめたほうがいい。僕はね、碧さんと付き合いが長いし、斉藤先生にもお世話になっている。むつみちゃんが生まれる前から知っている。そんな僕でも、君は〝商品〟になる。そういう目で見てしまうんだ。自分自身が望んでいない事なら、二度とこんな軽はずみな行動はとるんじゃない。変な大人に利用されるよ。」
むつみは何も言い返せなかった。
「君が本当に望んでいるのなら、碧さんを説得するし新堂さんにも直談判してもいい、そう思っているけれどね。」
高瀬の部屋の内線が鳴る。
彼が話をしている間、むつみは自分の考えた方法が無駄に終わりそうな気がしていた。
電話を終えた高瀬が椅子に座らずにむつみに言う。
「当分は、彼の保護下から抜け出せないみたいだね。」
その言葉が終わると同時にドアがノックされ、開いたドアから新堂晴己が姿を見せた。
風に身を任せ、心地良さそうに落ち葉は舞っている。
窓の向こうは、秋の色合いが濃くなっていた。
「ちょっと、いいかな?」
斉藤むつみは、驚いて体を反らした。
伸びてきた腕が窓を開け、冷たい風が入ってくる。
寒さに震える彼女に構わず、次は足がむつみの机を跨ぐ。
「え?」
驚くむつみの目の前を橋元優輝の体が移動し、彼は窓枠に体を乗せている。
廊下からの騒音がむつみの耳に届く。
「大変ね、橋元君。」
飯田加奈子が、からかう様な口調で言った。
「今だけだよ。いつも試合の直後だけ。」
昨日の決勝戦の結果が新聞に掲載され、朝から優輝の周囲は騒がしい。
「すぐに飽きる。」
その笑顔に曇りはなく、晴れ渡った空のように澄んでいる。
1階だから苦労はなく、外に飛び出した優輝が振り返り、むつみを見る。
「あのさ」
しっかりと目が合い、むつみは体を強張らせた。
「当たり前だけど…勝って良かったよ。」
廊下の騒ぎは続いているのに、むつみには優輝の声しか聞こえなかった。
「ありがとう。」
何も答えられなかったむつみは、軽快に走っていく優輝の後姿を見ていた。
優輝の姿が建物に隠れてから、むつみは冷たい風が入ってきているのを思い出して、立ち上がると窓を閉めた。
そして、また窓ガラスの向こうを見る。
窓を開ける指先も、窓枠に置かれた足も、自分を見た瞳も。
脳裏に焼きついて離れない。残っているテニスの残像だけでなく、優輝の全てが自分の心に入り込んでくる。
むつみは、そんな事を考えていた。
「むつみ。」
名前を呼ばれて驚いて見ると、加奈子が自分を見ている。
「何度も呼んでいるのに。ずーっと見てるんだから。」
加奈子の言葉に恥ずかしくなり、むつみは居心地が悪そうに椅子に座った。
「随分と雰囲気が違う、橋元君が転校してきた時、そう言ったよね?」
何か追求されるのかと思っていたが、加奈子の声は穏やかだった。
「納得した。別人ね。」
加奈子が微笑む。
彼女には何も話せなかった。何度も心配の言葉をかけてもらっていたけれど、何も話せず困らせるだけだった。
「良かったね、むつみ。」
加奈子は何も問い詰めない。
「これからは普通に話せるようになるよ。」
加奈子がむつみの耳元で囁く。
「橋元君、自分を取り戻したみたいだもの。今の彼が、むつみの知っている〝優輝君〟でしょ?」
優輝は活気に満ちている。
転校してきた時の彼は別人かもしれない、そう思ってしまうくらいだ。初めて会った時の優輝も、転校してきた時の優輝も、そして今の彼も、同一人物に間違いはないのに、1人の人間が抱える物が違うだけで、こんなにも人が変わってしまう。
別人に見えるけれど1人の人物。
明るい笑顔の奥に、むつみは彼の影を見てしまう。
強い意思を感じさせる瞳から、涙が零れ落ちたのを覚えている。
「加奈ちゃん、私…」
むつみの小さな声は、廊下の喧騒に消されそうになるが、加奈子は耳を傾けて、むつみの声を拾う。
「怪我が治って試合に出て欲しい、勝って欲しい…それだけしか思っていなかったのに…」
止まらない想いがむつみの心を占領していく。
「むつみは、それを望んでも良いんじゃないの?」
加奈子が不思議そうに首を傾げた。
「ライバルは多そうだけれど。」
廊下に集まる生徒の中には女子生徒が含まれていて、彼女達が優輝に好意を抱いているのが分かる。
「むつみは、あの中の1人じゃないよ?それは、橋元君も分かっているんじゃないかな?」
加奈子は優しい口調で、むつみに言った。
観客席に行こうとした晴己は、すれ違った人を呼び止めた。
「絵里さん、試合はこれからですよ。」
絵里が立ち止まって晴己を見上げる。
「私は帰ります。観戦する必要は…ありませんから。」
「…気になりませんか?」
問いかける晴己に絵里は笑顔を向ける。
「確かに、例え実力が勝っていても、試合が終わるまで分からない。でも、晴己様。」
絵里は腕時計を見る。
「もうすぐ始まりますね。私は橋元君に質問をしました。どれを選ぶのか。友達なのか好きな子なのか自分なのか。それとも、尊敬していた人なのか。」
尊敬していた、と過去形で言われて、晴己は苦笑した。
「優輝は、何と答えました?」
絵里が、また微笑む。
「それは、晴己様が御存知でしょう?」
立ち去る絵里の後姿を、晴己は見送っていた。
◇◇◇
観客席に座るむつみは、晴己の向こうに視線を送り、会釈をした。振り返って、むつみの視線を追う晴己は、涼と卓也が少し離れた場所に座っているのを見つけた。
「はる兄、ごめんね。」
隣に座るむつみが、晴己に謝る。
「勝手な事ばかりして、ごめんなさい。はる兄に相談すれば良かったのよね。私が色んな事、複雑にしちゃったのは事実だわ。」
「…僕が気付けば良かったんだよ。」
多くの事に、もっと早く気付いていれば、と晴己は思った。
「優輝が、コートにいるのは、むつみちゃんのお陰だね。」
驚いたむつみが晴己を見た。
「私は何も…。」
晴己はゆっくりと首を横に振る。
「むつみちゃんが優輝を助けたんだよ。あの合宿で出会わなければ、転校先にいなかったら、そして」
晴己は、いつのまにか恋をしていたむつみの瞳を見た。
「むつみちゃんが、優輝を好きにならなかったら、優輝はここにはいなかったよ。」
試合が始まる合図が響く。
「それは、はる兄だって同じでしょう?私、ずっとずっと小さな時から、はる兄と一緒にいられることが嬉しかった。」
むつみの声に耳を傾ける晴己。
「一緒にいて、テニスをする姿を見て、たくさん愛してもらって。はる兄がいなかったら私は優輝君と出会っていなかったと思う。好きにならなかったんじゃないかって思うの。」
晴己は、むつみの瞳を見て、彼女が自分から遠く離れていくような錯覚に陥る。
そう感じてしまうくらい、彼女の事を綺麗だと感じる。
「ありがとう。」
そして、むつみはコートへと視線を戻す。晴己も彼女の視線を追い、その瞳の先にいる優輝を見た。綺麗に伸びる腕。挑戦的な眼差し。
そして、優輝が視線をこちらへと向けた。
優輝は、自分を見てくれている人達を見つけ、心で伝える。
「俺は」
優輝の体が伸びる。
「全部、手に入れる。」
秋晴れの高い空が広がっている。
秋風が彼女の髪を撫で、優しく包む。
むつみは、初めて出会った日の約束を、心に抱きしめた。
~約束を抱いて 第二章 へ続く~
控え室に戻った優輝は、椅子に座っているむつみの前に立った。
「卓也に会ったのか?」
むつみが頷く。
「勝手な事ばかりするなよ。」
苛立つ気持ちが声を大きくするが、むつみは驚く素振りも見せず、涼やかに微笑んでいた。
「だって」
むつみが腕を伸ばす。
優輝は避けることが出来ず、むつみの両腕が優輝の腰に回される。
「優輝君が勝つところを観たいから。」
瞳が、優輝を見上げていた。
「はる兄も同じよ。優輝君が、その手に自分の夢を掴む瞬間を、待ち望んでいる。」
◇◇◇
控え室から出て行こうとするむつみを優輝は呼び止めた。
「テーピングは?」
優輝の足には、何もされていない。
「…必要?」
むつみが優輝を見る。
「必要ないよね?保護の為に…する?」
まっすぐに自分を見てくるむつみに、優輝は答える。
「必要、ないよ。」
むつみの笑顔に優輝は、心の中の塊が砕けていくのを感じていた。
◇◇◇
廊下に出ると、晴己と久保が立っていて、既にむつみの姿は見えなかった。
「晴己さん、ちょっといい?」
久保は控え室に戻り、優輝は自分よりも遥かに背の高い晴己を見上げた。
小さな頃から少しでも背が伸びれば晴己に近づいたと喜ぶけれど、晴己もまた背が伸びている。だけど最近は少しずつ晴己の顔を見上げる角度が小さくなっている。
きっと、彼に並ぶのは、そう遠くない未来かもしれない。その未来を掴めるかどうかは自分が左右できる事なのかもしれない。優輝はそう考えながら、晴己を見上げる。
「俺がこの試合に勝ったら、SINDOと契約させて。」
「契約?」
「よく分からないけれど、それは晴己さんに任せる。俺が金銭的に困ることなくテニスを続けられる環境を作ってよ。」
「…強気だな。自分からそんな事を言うのか?」
「お得だと思うよ?将来有望な選手を今のうちに捕まえておけばいいじゃん。」
晴己は、少し呆れ顔を向ける。
「でも、条件がある。」
「SINDOが出すのではなく、優輝から条件を言うのか?」
「最初に、まとまったお金を用意して。…卓也の手術費に充てたい。」
晴己は、少し小さな溜息を出した。
「勝ったら、でいいよ。もし負けたら何もいらない。」
優輝の言葉の力強さが、意思の強さを感じさせる。
「晴己さん、俺を認めてよ。俺のテニスを認めてくれるのならSINDOと契約できるんだろ?」
「…」
「俺、晴己さんに一番認めて欲しいって思っている。」
物心付いた時からずっと、新堂晴己という人物に憧れて目標にして、彼を超えたいと思っていた。近くにいるのに遠い存在の彼。
兄が言ったように、この道は険しいかもしれないし、大西が言ったように、自分を追いつめるだけかもしれない。
「俺は、晴己さんみたいに1つに選ばない。欲しい物は」
見上げてくる優輝を、晴己はとても満足気な顔で見ていた。
「全部、手に入れる。」
「そんなに簡単に、全てを手に入れられると思っているのか?考えが甘いな。」
晴己の笑顔がとても挑戦的だった。だけど優輝は、いつも頭を撫でて宥めてくれた優しい晴己とは全く違う部分を見せられて、少し嬉しかった。
「自分が出来なかったからって、俺にも出来ないなんて決め付けるなよ。」
苛立ちではない何かが、優輝の中に沸き起こる。闘争心が沸き立ち、それはとても心地良い。
「優輝、僕は」
晴己は身を屈めてその瞳を覗き見る。
「できる限りの協力と」
晴己がクスっと笑う。
「必要以上の邪魔をさせてもらうよ。」
「なんだよっ!邪魔することないだろ!」
「それなら、見せてもらおうか?優輝の本気。」
晴己の言葉に、優輝が笑う。
「絶対に、認めさせてやるからな。」
優輝の瞳が輝いていた。