りなりあ

番外編 12 4/7 UP 
ありふれた日常 4/8 UP
ありふれた日常 5/30 UP

指先の記憶‐5

2008-06-25 20:46:13 | 指先の記憶 第一章

眠りに落ちる前に雨音が耳に届いたのを覚えている。
目覚めると雨は止んでいて、庭の木々が朝日に照らされていた。
昨日、水やりをする必要はなかったかも、と思ったけれど、元気に色づく緑に、“無駄な事”などないのだと、自分に言い聞かせる。
手を抜くのは簡単だ。
やってもやらなくても、私は1人だし誰かが褒めてくれる訳でもない。
でも、祖父と祖母が作り上げた庭を私は守りたかった。
門を閉めて階段を降りながら、雨の後の空気の綺麗さに嬉しくなって深呼吸をした。

◇◇◇

校庭には人が集まっていた。
今まで、その光景を知らなかった訳ではないけれど、興味のない私には無関係の事だった。
授業が始まるまで、まだまだ時間はタップリとあって、図書室とか教室で誰かが登校するのを待つ日が多いけれど、今日の私は保健室へと向かった。
いつでも来てよいと、校医の先生は言ってくれたけれど、私は週に一度だけ顔を出すのが習慣になっていた。
普段と変わらず普通に会話をして、今日は英語の小テストがある事等を話していた私は、保健室の窓から校庭が見える事に気付いた。
「う、わぁ…。ここって特等席だったんですね。“松原英樹ファンクラブ”の皆様は知っているのかしら?」
サッカー部の朝練が見える。
今朝は須賀君も来ているようだった。
「知っているわよ。仮病をつかって保険室に来る生徒もいるのよ。でもね。」
校医の女性が微笑む。
「ほとんどの生徒は、あんな風に大勢で騒ぎながら眺めるのが好きなのよ。」
「そういうもの…ですか?」
私は須賀君が“弘先輩”と呼んだ、“彼”を見つけた。
サッカー部の人達の中で一番目立つのは松原先輩だと思う。
特別、彼に興味がない私でも、松原先輩は周囲の視線を引き寄せると思うし、魅力的だと思う。
だけど、私の視線は弘先輩を追いかけていた。
幻は消えてしまうと思っていたのに、彼は存在していた。
記憶が、祖母を亡くした日に戻ってしまう。
悲しさや寂しさとは違う。
もっと衝撃的で苦痛で。
涙など出なかった。
「姫野さん。」
校医の女性が呼ぶ声に、私は校庭から視線を戻した。
「前にも言ったけれど…毎日、来てもいいのよ。図書室や教室で勉強するのを、ここに移しても…。」
「仮病をつかう“松原英樹ファンクラブの皆様”は困った存在なのに、私は許されるの?私が…特別だから?」
嫌な事を聞いていると、自分でも分かる。
私に接する大人達の気持ちを試して、そして確かめているのは、私自身だった。
「そうね。あなたは…特別よ。」
あっさりと、彼女は言った。
「家族を亡くして1人になって、それなのに、あなたは気丈に生きている。それが強がっている訳でもないみたいだから、ずっと不思議だったの。でも、今…分かったわ。」
彼女は窓から校庭を眺めた。
「やっと…家族以外の事に気持ちが動くようになった…違うかしら?」
それは、彼女に言われるまで気付かなかった、自分自身の感情だった。
周囲の事を気にしている余裕なんて、全くなかった。
そんな暇も時間もなかった。
「強がるって、何だか好きな言葉じゃ…ありません。」
彼女が笑う。
「そうね。ごめんなさい。姫野さんは一生懸命だったのよね。でも、時には…。」
心の緊張を緩める事は、今の私には無理だった。
緩めてしまえば、戻れなくなる。
どんどん、底に落ちてしまう。
「大丈夫ですよ。私は。今度、一度…ファンクラブに混ざって応援してみます。結構、楽しそうだし。それから、私」
落ち着けと、自らに言い聞かせる。
泣いても叫んでも、助けて欲しいとお願いしても。
私と同じ気持ちを感じてくれる人は、存在しない。
分かって欲しいと望んでも叶わない望みは、私を苦しめる。

「私、先生の名前、知らなかったわ。最初に自己紹介してもらった気もするけれど、忘れちゃった。」
精一杯の私の笑顔に反して、校医の先生は寂しそうな微笑みだった。


指先の記憶‐4

2008-06-24 23:57:36 | 指先の記憶 第一章

「やめろってっ!!」
暴れる須賀君が拘束されるのは毎回の事。
そして、須賀君が逃げられないのも毎回の事。
私は水羊羹を取り分けた後、キラキラの派手な鞄の横に置かれている紫陽花を包まれている新聞紙から取り出した。
「カレンさん。ありがとう!すっごく綺麗。」
「うわぁ。可愛いわ!やっぱり、女の子には花が似合うわねぇ。」
私の前で体を屈めてくれたカレンさんが、紫陽花を抱える私を嬉しそうに見ている。
そんなカレンさんの後ろで、須賀君が畳の上に倒れ込んでいた。
「慣れればいいのに。」
そう言ってカレンさんを見ると、カレンさんは溜息を出した。
「面白くないわ。小さい時から生意気だったけど、最近は特に私を毛嫌いするのよ。思春期だからって、ねぇ?」
寂しそうなカレンさんの瞳を、私は覗き込む。
「私は変わらないわよ?思春期だからって関係ないから。」
私はカレンさんが大好きだから。
その気持ちを込めたのに、またカレンさんは溜息を出し、姿勢を戻すと倒れている須賀君の背中にキラキラの派手な鞄を置いた。
「康太、帰りなさい。」
面倒そうに起き上った須賀君の背中から鞄が落ちて、須賀君が拾う。
「思春期とか…慣れるとか、そんな問題じゃないだろ。カレンさん、俺…鳥肌出るから、やめてくれよ。悪寒に近いんだけど。」
「失礼な子ね。康太は、これから私の家のエアコンの掃除。」
嫌そうに顔を歪めたけれど、須賀君は反論しなかった。
「それから、好美ちゃん。」
少し厳しい口調のカレンさん。
「ちゃんと戸締りをする事。玄関の鍵も。分かった?」
カレンさんの言葉に、須賀君が頷く。
「ガラガラーって開けて入ってきたのは、2人だよ?」
私の反論に、カレンさんの顔が厳しくなる。
「だから、言っているの。好美ちゃん分かってる?康太が男だって事。」
「そりゃ…分かってますけど。」
何を今更、そう思っていると、カレンさんが私に近付いて来た。
「じゃ、私は?」
カレンさんの問いに答える前に、私は一歩カレンさんに近付いた。
「今後、気をつけます。忘れないようにするわ。」
カレンさんが私の事を心配してくれている事は、ちゃんと分かっている。
やっぱり、もう少し“1人暮らし”だという事を自覚しなくちゃ。
「…分かってないわね。この子。」
カレンさんが咳払いをする。
「私だってねぇ」
カレンさんの声のトーンが変わり、須賀君が顔を歪めた。
「戸籍上は男だってこと、分かってるのか?」
男性の声で、男性の口調で話すカレンさんを、私は興味深く見つめた。

「うわぁ。カレンさんって、素敵な声!」
私が一歩近付くと、カレンさんが一歩下がる。
「ねぇねぇ、自由に変えられるの?独り言とかは、男性の声なの?」
「ちょ、ちょっと。好美ちゃん。」
下がり続けるカレンさんの背中を須賀君が両手で支えた。
「康太。好美ちゃんって、ほんと…危機感がないっていうか…。」
カレンさんの声は、すっかり女性の声に戻っていた。
「まぁ…好きな人でも出来れば、変わるかもね。」
カレンさんの呟きが、私に今朝の事を思い出させた。
「えぇ?ちょっと、好美ちゃん。まさか?」
「いや、いや、いやっ!お願い、カレンさん、聞かないで!」
誰、とか。
どこの人、とか。
どんな人、とか。
質問されると困る。
「あら、あら。まぁ…。好美ちゃんも、そんな年頃なのねぇ。」
「カレンさん、行くよ。」
須賀君がカレンさんの鞄を持つ。
「俺、早く帰りたいんだけど。雅司が寝る時間だし、小学生達の勉強もあるし。第一さ、俺よりも背が高いんだから、自分でしろよ。」
「嫌よぉ。爪が割れちゃうかもしれないし、手も荒れちゃうし。」
私が取り分けていた水羊羹を、カレンさんは急いで口に入れると、仏壇の前で手を合わす。
「じゃあな、姫野。」
「じゃぁね。好美ちゃん。」
2人を見送って、玄関の鍵を確認して、私は途端に静かになった家で1人で叫んだ。
「よぉっし!!」
紫陽花を飾った花瓶を、仏壇から見える位置に置く。
「おじいちゃん、おばあちゃん。お父さん。今年もカレンさんの庭に、紫陽花が綺麗に咲いたよ。」
写真の中の笑顔に負けないように、私は笑顔を返した。


指先の記憶‐3

2008-06-23 22:09:30 | 指先の記憶 第一章

水羊羹が、良い感じで冷蔵庫で冷やされた頃、玄関の扉がガラガラと開けられた。
「姫野。鍵、開けたまま。」
須賀君の不機嫌な声が聞こえて、私は玄関へ向かった。
「だって、そろそろ来るだろうなぁって思っていたし。庭の水やり終わったところだし。第一、滅多に閉めなかったし。」
「だから!それは、ばあちゃんと一緒に住んでいた時の話。1人なんだから。」
“1人”という単語は、私を悲しませ、寂しくさせ、逃げられない現実を突きつける。
だけど、須賀君は、その言葉を遠慮なく私に投げてくる。
「分かっているのか?1人暮しなんだぞ?」
強調するように繰り返された言葉。
祖父母よりも父よりも口煩い須賀君に、私は返事をせずに台所に行く事にした。
「先にエアコンの掃除するから。」
そう言って須賀君が玄関を出て行こうとするのが分かって、私は振り向いた。
「大丈夫。自分でするから。」
去年は、おばあちゃんが須賀君に頼んでいたけれど、去年よりも少しは私も身長が伸びたし、これからは色んな事を“1人”でしなくてはいけない。
「俺でも脚立が必要なのに、姫野には無理。」
学年で一番背が高い須賀君に言われると、背の低いグループに属する私は、何も言い返せなかった。

◇◇◇

梅雨に入ってから蒸し暑い日が続き、寝苦しい夜もあった。
だからエアコンを掃除してくれるのは嬉しいし助かるけれど、須賀君の好意に甘えている自分が、この先の人生を歩んでいけるのか、時々不安になる。
物置から出した脚立を使って、とりあえず今日は2か所だけと言って、須賀君は1階の客間と2階の私の部屋のエアコンを掃除してくれた。
残った分は自分でしようと思ったけれど、絶対に自分でするな、と命令口調の須賀君に、私は素直に頷いてしまう。
「須賀君、ご飯は?」
「食べてきた。」
私服姿の須賀君が“家”に戻っているのは予想していたけれど、答えを聞いて、私は冷蔵庫から水羊羹を取り出した。
取り分けた水羊羹を仏壇に供え、手を合わす須賀君の背中を見ながら、私はいつも不思議な気持ちになる。
「姫野。」
須賀君が私の向かい側に座る。
「ばあちゃん、水羊羹好きだったよな。」
「うん。須賀君と一緒に食べるのが、特に好きだった…かも。」
祖母は須賀君と一緒に和菓子を食べるのが好きだった。
家族を失って1人になってしまった事は、当然だが悲しいし寂しい。
でも、こうして生きていけるのは、私がこの家から離れないからだと思う。
ここからは離れられない。
思い出が詰まる場所から離れることは出来ない。
中学生の私が1人で暮らす事には、色んな障害があるけれど、幸せな事に私には助けてくれる人達が存在する。
「須賀君。」
ちゃんとお礼を言っていない事に気付いて、私は熱い日本茶を須賀君の湯呑に注ぎながら、彼の名を呼んだ。
なに?と、問うような視線を私に向けた須賀君の表情が強張り、ガラガラっと大きな音が玄関から響く。
「好美ちゃーん。今日、おばあちゃまの月命日でしょ?綺麗な花を見つけたのよ。おじゃましまーす。」
大きな声が響く。
「あぁ…鍵、閉め忘れた…。」
私に注意したのは須賀君なのに、彼は物置から戻った後に鍵を閉めるのを忘れたようだった。
「大丈夫だよ。いつもの事だし。」
呑気にお茶を飲む私を、須賀君が怪訝そうに見る。
「あぁ!やっぱり、康太だ。物置が開く音がしたからね、康太だろうなぁって。まぁ~涼しい!康太、良い子ねぇ。エアコンの掃除をしてあげるなんて。」

須賀君が急いで水羊羹を口に含み、日本茶で流し込む。

「それじゃ、姫野。」

立ち上がった須賀君は、抵抗するのを許されず、その体を拘束される。
「うわぁ、やめろって。」
後ろから抱き締められ、というか、羽交い締めにされている須賀君が、本気で嫌がっていた。
「康太ちゃん。私の家のエアコンも、お願い~。」
腰までの綺麗なウェーブを揺らして、バッチリと濃い化粧をした綺麗なおねえさんが、須賀君の耳元に囁いた。


指先の記憶‐2

2008-06-22 20:24:54 | 指先の記憶 第一章

「姫野?」
須賀君が私の名前を呼んだ事が分かっていても、私は返事が出来なかった。
「へぇ…姫野も、他の女子と同じ、だな。」
溜息が聞こえて、私は隣に立つ人を見上げた。
「俺もカッコイイと思うよ。」
須賀君の視線はグラウンドを見ていた。
「確かに、一番目立つし。だったら尚更、試合、見に来いよ。松原英樹ファンクラブは邪魔だが、1人くらいまともに試合を見ている女子が必要だ。」
「えぇっと…。あぁ。松原先輩?」
私は、その頻繁に聞く名前を思い出した。
「なんだ?その面倒そうな言い方は。」
「だって、松原先輩見てたわけじゃないし。」
言って私は慌てて口元を押さえた。
松原先輩を見ていた、そう言って溢れるファンに紛れてしまえばよかった。
「へぇ。」
須賀君の目が面白そうに光る。
「じゃぁ、誰?」
「誰って、誰って何?何が?」
「何を焦ってるんだよ?」
須賀君が私を見下ろす。
「須賀君、本当に本気で性格悪いよ?」
責める私の口調を気にもせず、須賀君はグラウンドに視線を戻す。
「もしも」
時々、思う時がある。
「姫野が見ていた人が」
須賀君が、遠くを見ているように思う事がある。
「あの人なら。」
遠い記憶を、遠い過去を。
「やっぱり、水羊羹食べに行く。」
体の向きを私に向けて、まっすぐに見下ろされた。
「えぇ?何?それ?」
訳の分からない言葉を感慨深げに言う須賀君に私は驚いた。
「…だから。派手で目立つ人気の売り出し物件の松原先輩よりも、だな」
「俺は何処かの新築物件か?」
その声に、須賀君が姿勢を正す。
「う、わっ。」
「うわってなんだ?うわって?なにを練習サボって、人を勝手に評価してるんだ?」
「あぁっと…部活はちゃんと出ますから。朝はねぇ、ちょっと何かと忙しくて。」
「朝練は強制ではないが、彼女とデートする暇があるのなら練習に出ろ。もしくは、彼女連れでサボり中の部員が練習を堂々と見るな。」
「「彼女じゃありません!」」
揃った私達の声に、松原先輩は少し驚いて、そして笑う。
「そんな事、どうでも良いけど。」
「良くないです!勘違いされたら私の恋の明るい未来が!」
背伸びしてみても、背の高い松原先輩の瞳を見るのは大変だった。
だけど、私の話に耳を傾けてくれる松原先輩を見て、途端に私は上げていたかかとを落とす。
ヤバイ。
この人が、かなりカッコイイ人だって事を忘れていた。
「気にするな。誰でもお買い得の新築物件には気持ちが揺れるんだって。」
なんとなく、早速浮気心が出てしまった私を宥めてくれた須賀君に感謝する。
「先輩、部活は出ますから。じゃ!」
全く反省していない須賀君に松原先輩が軽く手を振った。
それだけで、周囲の女子生徒が叫び声を上げて、私は耳を塞ぎそうになった。
「あ、そうだ。」
須賀君が私を見下ろし、そしてもう一度グラウンドを見た。
「弘先輩!」
須賀君の声が周囲に響く。
それは、“松原英樹ファンクラブ”の女子生徒達の声よりも大きく響いた。
「…ちょっとぉ…須賀君、声が大きいよ。サボっている部員が存在を示して、どうす」
サッカー部の人達の集団から抜け出し、こちらに向かって歩いて来る人。
幻だと思っていた人の姿が、私の目に飛び込んでくる。
「昨日、間違って弘先輩のタオル持って帰ってしまって。ちゃんと洗って乾かしましたから。」
須賀君がタオルを取り出して、投げる。
「これからは間違わないように。」
彼が一歩ずつ、私達に近付いてくる。

「康太。」
須賀君を呼ぶ声は、あの時の声と同じ。
「分かりやすいでしょ?名前、書いておかなきゃ駄目だよ。弘先輩。」
松原先輩が笑い、タオルを広げた。
「ピンク、は…ちょっと遠慮したかった、かな。」
彼が、少し困ったように笑う。
「えぇー。可愛いから、いいじゃん。それにピンクしかなかったし。」
「…嘘ばっかり。」
思わず出た私の言葉に、3人が視線を絡めた。
「じゃ。先輩。ほら、行くぞ。姫野。」
立ち去る須賀君の後を、私は追いかけた。


指先の記憶‐1

2008-06-22 17:16:37 | 指先の記憶 第一章

― 指先の記憶 ―


懐かしい本を見つけた。
幼い頃に読んだ本。

最後に読んだのは、私が何歳の時だろう?
最後に読んでくれたのは、何時なのだろう?
誰が私に読み聞かせてくれたのだろうか?
祖父も祖母も、そして父も、読んでくれたのだろうか?
そして母は、私がこの本が一番のお気に入りだという事を知っているのだろうか?

表紙に描かれた景色は、私の憧れだった。

綺麗な緑も、鮮やかな花も。
柔らかそうな髪も、その微笑みも。

本の表紙を、次のページを。
指で辿り、めくり、何度も読んで欲しいとお願いしたのを覚えている。

「あ…すみません。」
本へと伸ばした手が、同じように伸ばされた手に触れそうになって、私は慌てて腕を引っ込めた。
「すみません。」
その声に、隣に立つ人を見上げた。
「どうぞ。」
お先に、と勧めてくれる動き。
「…ちょっと懐かしいな、と思っただけです。」
「僕も同じです。」
柔らかそうな髪。
優しそうな微笑み。

指先が覚えている。

柔らかい温もりを。
暖かい優しさを。
包んでくれる心強さに身を委ねていた、あの頃を。

◇◇◇

「姫野。なーにを、ボーっと歩いてるんだよ?」
背後からの軽い衝撃に、私は振り返る。
「ちょっと?須賀君。朝から何よ?」
「ボーっとしてると危ないぞ?そんなにダラダラ歩いて。」
「ダラダラなんてしてないわよ。たっぷり時間に余裕を持って登校しているのよ。須賀君こそ朝練は?」
「だよなぁ。あぁ。また怒られる。」
「…急げば?」
「まぁ、いいや。」
諦めの早い須賀君に侮蔑の視線を向けた。
「う、わぁ…。可愛くない顔。そんな風だから、彼氏いないんだよ。黙っていれば、それなりなのに。」
「彼女のいない人に言われたくないです。」
「はいはい。しっかし、なんで、こんなに早いんだ?」
「そうねぇ。なんでだろうね。」
私は、急いで歩いているのに、須賀君は平然と私の隣に並ぶ。
なんだか、それが悔しくて歩幅を大きくしても、やっぱり須賀君は私の隣を歩いている。
「少し前はね、色々忙しいなとは思っていたのよ。1人っていっても、お弁当も作るし。朝も、ちゃんと食べたいし。でも、慣れると大丈夫みたい。」
「へぇ。ベテラン主婦って感じ。」
今の自分の状況を素直に話せる相手が隣にいる事が、今の私を救ってくれている。
この春に、私は祖母を亡くした。
その時がいつか来るとは分かっていても、中学二年生になったばかりの時期に亡くしたのは、かなり早いと思う。
もっと先でもよかったのに。
私が成人して結婚して。
そんな遠い未来でも良かったのに。
だけど、その望みが叶えられる事はなく、祖母は私を残して旅立った。
「今日ね、おばあちゃんの月命日だから水羊羹つくろうかな、って思ってるの。」
「俺も食べる。」
「…どうしてよ?」
「どうせ、1個だけ作るんじゃないだろ?全部1人で食べたら太るぞ。」
「先月だって食べたのに。それにねぇ、女の子に対して太るとか、そういう事、軽々しく言わないで。須賀君って、本当に口が悪いよ?」
腫れ物に触るように、皆が私に接している。
親しい友人も、同級生も、先生達も。
でも、須賀君だけは違う。
祖母が亡くなる前も亡くなった後も、彼は変わらない。
「そうだ。来週の試合、見に来れば?」
「どうしようかなぁ。サッカーのルールとか知らないし。」
「それくらい知っておけよ。」
「出るの?須賀君。」
「あったりまえ。」
「練習サボってるのに。」
須賀君がグラウンドの前で立ち止まり、私も彼の隣からサッカー部の人達の練習を眺めた。
「先輩達の最後の試合だからさ。」
「だったら真面目に練習したら?今日、来なくて良いよ?部活の後だと遅く」
幻、かと思った。
あの日の出来事は私の幻。
祖母を亡くして1人になり、寂しさで朦朧としていた私が見た幻だと思っていた。
その幻が、私の視線の先にあった。


約束を抱いて 第四章-50・完

2008-06-19 00:05:40 | 約束を抱いて 第四章

「今…先輩は、僕と同じ気持ちですか?真実を知りたい、母の過去を知りたい、そう思うのは間違っていますか?」
慎一が彼自身に係わる重要な事柄を知りたいと思う事は、少しも間違っていないと、むつみは思った。
「先輩には、関係ない…かな?」
むつみは驚いて顔を上げた。
「僕は、ずっと会える日を待っていたのに、僕の気持ちなんて何も知らないで、僕の存在も知らずに、斉藤先輩は凄く幸せそうだった。僕を見ても、僕の名前を知っても、思い出してくれなかった。悔しくって…母と僕に会ってくれない…それなのに、幸せな家族で…嫌いに」
慎一の瞳から涙が落ちるのを、むつみは霞む視界で見ていた。
「嫌いになりたかったのに。ごめんなさい。僕…幸せそうな斉藤先輩が、羨ましくて…。僕の中に、嫌な気持ちがあって、僕にないものを持っていて、僕のこと、少しも覚えてくれていなくて。先輩に酷い事を…。

碧が慎一に腕を伸ばした。
「慎一。」
碧の指が慎一の髪を梳いていく。
「僕…」
慎一の頬が涙で濡れていく。
「嫌いになりたかったのに…それなのに、好きな食べ物が一緒で…先輩もオムライスが好きで…お弁当の卵焼きが、同じで、お味噌汁の味も同じで」
言葉を止めた慎一の瞳から涙が溢れ出て、その姿の幼さに安堵した碧は、慎一の体を抱き寄せる。
「私も好きよ。むつみの作る卵焼きが。だって…姉さんの味に似ているから。」
慎一の背中を、碧の掌が優しく撫でていた。

◇◇◇

「着きましたよ。」
瑠璃が車を停めた。
「ごめんなさいね。瑠璃さん。急にお願いして。」
碧の言葉に、瑠璃は笑顔を返す。
「大丈夫です。叔父は暇ですから。」
昨日、優輝が斉藤家を出て行くと、暫くして大江婦人に連れられて慎一の母親が姿を見せた。慎一は大江婦人と一緒に彼女の家に戻り、碧達姉妹は一晩中、話し合っていた。問題は解決したのか残ったままなのかは分からないが、車内で楽しそうに会話を続けている姉妹を見て、むつみは安堵した。
「一応、プロのカメラマンですから。中学入学の記念写真を撮るには、適役だと思います。」
窓ガラスが外から叩かれ、後部座席の扉が開けられる。車内を覗く慎一の後ろには優輝が立っていた。
「早く、早く。朝練の人達が来ちゃうから。橋元先輩が遅いから。」
急かされて車から降りたむつみ達は校門の前に並んだ。
「橋元先輩は後で。」
慎一に連れて来られた優輝は不服に思いながら、車の横に立っている瑠璃の隣に立った。
「俺…朝のトレーニング、中断されたんだけど。それなのに、なんだか酷い扱い。」
問うと瑠璃が笑う。
「むつみちゃんが幸せそうだから…良いんじゃないの?」
母親と叔母、そしてむつみと写真を撮った慎一が、優輝を呼ぶ。
「出番みたいね。」
瑠璃の言葉に優輝は面倒そうな足取りで校門の前に戻るが、慎一が優輝の腕を掴んだ。
「なんだよ、中原?」
慎一が優輝とむつみの間に、自らの体を割り込ませる。
「だって、僕の中学入学の記念写真です。僕が主役です。」
そんな慎一に優輝は溜息を出す。
「あっれぇ?何してるんですか?」
その声に、碧は姉に背中を押されて車の中に押し込まれた。
「なに?その迷惑そうな顔。」
水野が校門前に立つ人達を見渡す。
「水野先輩って…タイミングの悪い人ですよね。」
水野の視線から逃げるように、慎一は優輝の後ろに身を隠す。
「入学式の時、写真撮れなかったから。邪魔しないでください。」
「で、どうして優輝さんと斉藤先輩も一緒な訳?」
「僕が一緒に撮りたいから。」
「じゃ、俺も一緒に写ってやるよ。」

「必要ないです!」
拒む慎一と水野の声を聞きながら、むつみは空を見上げた。
雲が風に流れている。

昨夜の雨に濡れた木々が、太陽の光の中で輝きを増している。

むつみと優輝の間に立つ慎一の後ろに、背の高い水野が立つ。

写真に残る、この一瞬を抱きしめる。

新しい未来が、始まる。


◇約束を抱いて 第四章・完◇


約束を抱いて 第四章-49

2008-06-17 20:35:24 | 約束を抱いて 第四章

優輝の背中を見送り、むつみは脱衣室の前で暫く立っていた。
「…斉藤先輩?」
慎一がドアを少し開ける。
「…服…ありがとうございます。」
廊下に出た慎一が戸惑いながらむつみを見上げる。
「あのぉ…サイズがピッタリで…。」
首を傾げて問う姿に、むつみは思わず笑みを零した。
「良かった。ピッタリで。」
慎一の髪から水滴が落ちて、額に流れる。
「ちゃんと拭かなきゃ。風邪ひくわ。」
肩にかけられているタオルで慎一の髪を包むと、柔らかい髪から、むつみが使っているシャンプーの香りが漂う。
「寒くない?」
慎一は抵抗しない。
「はい。橋元先輩が見張っていたから。出るに出られないし。」
慎一の笑顔が、むつみの気持ちを和ませてくれた。

◇◇◇

温かい飲物を飲んだ後、優輝が慎一を大江の家まで送って行くことになり、玄関に移動すると、そこには新しい靴が置かれていた。
慎一のサイズにピッタリの服と下着。
そして新しい靴。
慎一は戸惑いながらも、揃えられている靴に足を入れた。
「中原君?」
慎一の動きが途中で止まる。
「…小さいの?」
むつみの問いに慎一が頷いた。
「私と同じサイズ、よね?じゃ…私の靴。」
「…むつみと同じなの?慎ちゃん、足のサイズ…大きくなったのね。」
碧の言葉に沈黙が広がるが、暫くすると慎一が口を開いた。
「どうして、僕の服のサイズとか靴のサイズ、ご存知なのですか?身長は…入学前からあまり変わらなくて、でも…足のサイズだけ…大きくなりました。」
碧は慎一の問いに答えずに、静かに微笑んだ。
「むつみの靴を。」
シューズボックスの中を見ようと碧が扉に手を伸ばそうとして、床に膝をついた。
「…ごめ、んな…さい。」
碧の声が途切れ途切れだった。
「服は、少しは我慢できても、靴はダメだって…分かっていたのに。1つ大きなサイズを、買えば良かったわ。ごめんね…慎ちゃん。」
家政婦に促されて優輝がリビングに戻るのを、むつみは気に留めながら、泣き崩れてしまった碧を見ていた。
「ごめんなさい。」

ポタポタと、碧の涙が床に落ちる。
「母には会いましたか?」
慎一の声は、とても落ち着いた響きだった。
碧が顔を伏せたまま首を横に振った。
「早く会ってあげてください。母は、いつも僕に話してくれました。テレビの画面を見ている時も、映画館の前を通った時も。」

むつみは慎一の横顔を見た。
いつもの可愛い表情ではなく、そこには落ち着いた1人の少年が立っている。
「1本だけ、ビデオがあるんです。」
慎一が微笑む。
「僕は小さくて、歩き始めたばかりで。いつも僕の傍には年上の女の子がいて。食事をするのも、ジュースをこぼした時も、プールの水が怖い時も、絵本を見せてくれるのも、雨に濡れた時も。いつも、その人が一緒でした。僕に歌ってくれた歌は」
中腰だったむつみが、床に座り込む。
「母と同じでした。」
「歌?」
碧が顔を上げた。
慎一の口笛が、碧とむつみに届く。
「不思議ですよね。記憶には残っていなくて、当然だけど覚えていなくて。でも、ビデオを見る度に、その映像が僕の記憶になっていくんです。」
慎一が微笑む。
「僕は…知っていたんです。斎藤先輩のこと。」
座り込んだむつみは、慎一を見上げた。
「斉藤先輩は有名だったからすぐに分かって。話をしたくて、方法を考えて…保健室に行く事にしました。」
むつみは慎一と初めて会った保健室のことを思い出す。
「僕…嫌いでした。斉藤先輩のこと。」
慎一の言葉が、むつみの心を突き刺す。
「僕が…斉藤先輩の位置で…生きてきたかもしれないのに。母は…僕に…僕の父親の事を何も教えてくれません。」
むつみは隣で同じように座り込んでいる碧が、自分と同時に体を強張らせた事に気付く。
「いつか話してくれると思っていたけれど、でも話してくれなくて。色んな噂を聞いて…でも、僕が真実を確かめることは無理でした。」
悲しそうに微笑む慎一から、むつみは目を逸らした。


約束を抱いて 第四章-48

2008-06-03 23:56:51 | 約束を抱いて 第四章

振り向いた慎一にホッとして、むつみは左手で肩を引き寄せて家に戻る事を促した。
「放してください。」
抵抗するように、慎一が首を横に振り、そして門扉へと手を伸ばす。
「中原君。中に戻って。聞いて欲しい話があるの。」
「お願いです。放してください。僕は何も話すことなんてありません。何も聞きたくないです!」
むつみの手を振り払い、門の外に出ようとした慎一が動きを止めて、再び振り返った。
「中原君?」
不思議に思ったむつみは、門の向こうを見て、そこに優輝の姿を見つけた。
「鍵、開けて。」
優輝の言葉に、開錠の方法を知らない慎一が外に出られる訳がない事に、むつみは気付いた。焦っていた自分を情けなく思い、優輝に傘を渡されて、雨が降っていた事にも、ようやく気付く。
立ち尽くしたままの慎一の頭上に傘を移動させようと思った時、優輝が慎一の体に腕を回した。
「「え?」」
重なった慎一とむつみの声は雨音に消されていく。
優輝の肩の上に乗せられてしまった慎一の姿は、以前、むつみが優輝の家で晴己にされた姿と同じで、むつみは家の中に入っていく優輝の後ろ姿を不思議な気持ちで見ていた。
「橋元先輩、降ろしてください!」
無駄な抵抗をする姿も。
「先輩!斉藤先輩、助けてください!」
むつみに手を伸ばす仕草も。
少し前まで、自分自身がしていた動作で、むつみは恥ずかしくなる。
「橋元君!」
家の中から駆けて来た碧が驚いている。その姿も声も、テレビの画面で見る碧とは随分と違う。
むつみは優輝の傘を玄関脇に置き、そして、自分が裸足だったことにも気付く。
「橋元君、タオルどうぞ。濡れているわ。」
碧の声に家政婦がタオルを差し出す。
「いえ…俺は大丈夫です。それよりも。」
優輝の視線の先にいるむつみは、足元だけでなく髪も体中も濡れていて、家政婦はむつみにタオルを渡した。
「これから…どうしますか?」
「え?」
優輝の問いに、碧が戸惑う。
「風呂、使っていいですよね?すみません、俺も濡れているけど。」
靴を脱いだ優輝は慎一を担いだまま家の奥へと歩いて行き、廊下に水が滴り落ちる。
「むつみさんも、早く中に。」
家政婦が玄関のドアを閉めると、外の雨音が聞こえなくなる。
「2階の浴室で温まってください。風邪をひきますよ。」
1人の家政婦が、むつみを促す。
そして、もう1人は、優輝と慎一の後を追った。
座り込んでしまった碧に、むつみは声をかける事が出来なかった。

◇◇◇

抵抗する慎一を見張っておくと優輝が言ってくれたと、家政婦から伝言を聞いて、むつみは2階の浴室で濡れた体を温めた。だが、ゆっくりと落ち着く事は出来ず、着替えて髪を乾かすと、1階に戻った。
「優輝君。入っても大丈夫?」
脱衣室の外から声をかけると、優輝がドアを開けてくれた。
「優輝君は大丈夫なの?シャツは乾いたけれど…。」
むつみが持っているシャツを手に取ると、優輝はそれを着た。それが制服でもテニスウエアでもない事が、優輝が帰宅してから斉藤家を訪問した事を告げていた。
「あの…これ、私の服だけど…大きいかな?これとか、男の子でも着れるかなって思ったんだけど、あと、これも中原君が着たら可愛い、かな?」
思わず頬が綻んでしまう。
「本人に聞けば?」
優輝の冷たい声に、むつみは、また後悔する。
「橋元先輩!」
浴室から声が響く。
「もう、いいですか?このままだと、僕がのぼせてしまいます。」
「あと1分!」
浴室に向かって優輝は叫び、むつみが手に持っている服に手を伸ばした。
「…下着…ないよな?」
「あ…そっか、どうしよう…。」
慎一のサイズの下着がある訳もなく、困ったと思っていると、家政婦が姿を見せた。
「むつみさん。碧さんから預かりました。」
渡されたものは、服だけでなく下着も靴下も揃っていて、むつみは戸惑いながら優輝を見上げた。
碧が用意した服を優輝は取り、むつみの手元には自分の服だけが残った。

「中原、着替え置いておくから。」
優輝は慎一に伝えると、脱衣室から出てドアを閉めた。
「優輝さん、どうぞ。お飲物、用意しています。」
優輝はむつみから離れると、リビングへと向かった。


約束を抱いて 第四章-47

2008-06-02 01:01:08 | 約束を抱いて 第四章

オムライスに絵を描いてしまった自分は、晴己の影響を大きく受けていると思いながら、むつみは慎一を見ていた。
「ごちそうさまでした。やっぱり美味しい!先輩の料理。」
慎一の笑顔にむつみは嬉しくなり、そして、慎一の食欲に安心した。
「飲物、用意するわ。」
「僕、手伝います。」
慎一の好意をむつみは断らず、2人でキッチンに立った。
慎一にコンロで湯の準備を頼み、むつみは棚を開けて何を淹れようかと考えた。
「あれから橋元先輩と話しました?すみません。僕が原因ですよね?」
振り向いた慎一の問いに、むつみは首を横に振る。
例え、慎一の事が原因でも、優輝を怒らせているのは、むつみ自身だ。
むつみは少し背伸びをして茶葉の缶に手を伸ばした。
慎一の口笛が耳に届き、むつみはコンロの前に立っている慎一の背中を見た。
「中原君…その歌」
茶葉の缶が棚から滑り落ち、大きな音が響く。
「先輩?あつっ!」
慎一の声に、むつみは急いで蛇口から水を出した。

◇◇◇

慎一が言った通り、蒸気が少し当たっただけで火傷はしておらず、むつみは家政婦が渡してくれた軟膏を慎一の指に塗っていた。
「大丈夫です。先輩。」
軟膏を塗る必要はないと分かっているが、むつみは凄く不安になっていた。
「ごめんね。」
「いえ…先輩が悪いわけじゃ…。」
ソファの前に座り、むつみは慎一の手を放す事が出来なかった。
「…さっきの歌。何の歌なの?」
「母がよく歌ってくれて。僕の子守唄、かな?」
「子守唄?」
むつみは慎一の細い手首を撫でる。
浮き上がる血管に血の流れを感じて、自分と同じ血が流れているのだと思った。
晴己とは血の繋がりがなく、それが周囲からの妬みや反感の原因だと感じて、むつみは悲しかった。
血の繋がりがないという事実は、聞きたくない噂を生み出し、晴己を慕っている幼いむつみの心を打ち砕いた。
少しでも同じ血が流れていれば、何度も望み、祈った。
「先輩の子守唄は?」
晴己に出会う前の、幼い自分が聞いていた歌。
記憶の奥に眠る、懐かしい歌。
「リズムが…違うの。」
テレビから流れた母の歌と、幼い自分の歌。
同じ歌なのに違うリズム。
「リズム?」
どうして、慎一の口笛と幼い自分の歌が同じリズムなのだろう?
画面に映った幼い自分と、生まれたばかりの男の子。
遠い遠い微かな記憶が、蘇ってきて欲しい。
「慎ちゃん…?」
きっと、何度も呼んだ名前。
そして記憶の奥にしまい込んだ名前。
何も証拠はないし、誰からも確実な話を聞いていない。それなのに、むつみは目の前の彼を慎ちゃんだと確信していた。
「…ありがとうございます。」
むつみの手から慎一は自分の手を放した。
「…大丈夫?」
問うと、慎一が目を伏せた。
「あのね、中原君。」
何から話せば良いのかと考えていると、廊下から物音が聞こえてくる。
奥の部屋にいた家政婦達が動き出したのが分かり、むつみは慎一から少し離れた。
父が帰宅したのだろうか?
大江が迎えに来たのだろうか?
時刻を確認して、そしてカレンダーを見て、むつみは立ち上がった。
「先輩?」
不思議そうに見上げる慎一を見て、むつみは気持ちが焦り始める。
ドアが開く。
「ただいま。むつみ。予定よりも早く戻れたの。外は雨が降り」
碧が言葉を止めた。
そして、その視線を辿って、むつみはソファの前に座り込んでいる慎一を見た。

暫くすると、慎一がゆっくりと立ち上がった。
「…おじゃましています。」
震える慎一の声が、むつみを更に緊張させる。
「こんばんは。あの…僕、失礼します。」
碧の横を通って慎一が廊下に出る。
「待って、中原君。」
靴を履く慎一の肩を掴み、その肩の小ささに、むつみは思わず手を放してしまった。
その瞬間に慎一が外に出てしまう。
追いかけて掴んだ腕は、細くて小さくて、むつみの指が回るような腕。
「ごめんね…慎ちゃん…。」
強引に引張る事も力を入れることも躊躇ってしまう細さ。
けれども、放せば2度と掴む事など出来ない気がして、むつみは慎一に懇願する。
「お願い…行かないで。」
雨が髪を濡らしていく。