りなりあ

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指先の記憶 第三章-24-

2010-08-26 23:37:35 | 指先の記憶 第三章

非常階段の手すりを掴んで、私は呼吸を整えた。
抱えていたお弁当箱を持ち直して、視線を上げる。
踊り場まで行けば人の目を避けることができそうだった。
でも、階段の段数を数えて、頭痛がする。
自宅へと続く階段と比べると段数は少ないのに、苦痛に感じた。
手すりを掴む指に力を込めようと思うのに、するりと指が手すりから離れる。
「…え?」
暑くて、でも私の身体は冷たくて、そして直線的なはずの階段が揺れた。

◇◇◇

風の音が聞こえる。
目を閉じると、見えないものが心に語りかけてくれる。
風が流れて、そして少しだけ秋の香り。
父が元気な頃、二人で座って一緒に庭を眺めていた。
祖父が庭の草木を、ずっと手入れしていて、祖母が休むように言っても、祖父は楽しそうに作業を続けていた。
ゆっくりと目を開ける。
視覚よりも先に、私は左手に感じる感触に意識が集中した。
「…須賀、君?」
指を少し動かすと、彼の身体が弾かれるように動いた。
「姫野…良かった…。」
まるで今にも泣き出しそうな須賀君の表情。
須賀君が私の手を握ったまま、自分の頬に引き寄せた。
響子さんに短く切られていた髪は、少し伸びている。
指で梳くと、サラサラと私の指からこぼれる。
「どうしたの?」
「俺が聞きたい。」
須賀君が私の手をベッドへと戻す。
「弁当持ってウロウロして。早く食べないから空腹で倒れたんだろ。」
須賀君は、いつも通りの口調。
「…倒れた?」
「今は寝ろ。授業終わったら迎えに来るから。部活は休み。絵里さんにも連絡しておく。」
立ち上がった須賀君の手を私は掴む、といっても、その指に少し触れることが出来ただけだった。
力が入らない自分に驚きながらも、須賀君の言うように今は眠ったほうが良いと私自身の体が訴えている。
「どれだけ、寝ていたの?」
「どれだけって…五分ぐらい。だから、もう少し」
「ここにいて。」
須賀君が嫌そうな顔をした。
「須賀君なら、授業サボっても大丈夫でしょ?」
「姫野。それ、わがまま。勝手。」
「だって」
「教室に戻りなさい。」
突然、私達の会話に他の人の声が混ざる。
「姫野さんに足りないのは睡眠よ。」
校医の先生の言葉に従う須賀君の背中を見送り、私は校医の先生に背中を向けた。

◇◇◇

眠ったほうが良いことは、自分でも分かっていた。
瞼も体も重い。
でも、頭の奥の痛みは消えてくれず、眠ることは出来なかった。
「姫野さん。」
小さな声で校医の先生が私を呼ぶ。
体の向きを変えることが億劫で、返事をすることも面倒だった。
「親戚の人が迎えに来ているけれど、家に帰って休む?」
…親戚?
以前、絵里さんが学校に来た時を思い出した。
体を動かそうとしたら、後頭部の辺りを撫でられた。
「眠れないのか?」
前髪を撫でられて、私はゆっくりと体を動かす。
「話さなくていい。無理に動く必要もない。俺が車まで運ぶから。授業が終わる前なら生徒も少ない。裏門から出れば、それほど目立たない。」
哲也さんの両手が、私の体とシーツの間に滑り込む。
その時、遠くから響く物音が、凄い速さで近付いてきた。
少しだけ浮いていた私の体が、ベッドへと戻る。
「姫野!」
「授業中でしょう?ちょっと何を…!」
校医の先生の叫び声に、何かが床に転がる音が混じる。

鈍い音や高い音。
そして、哲也さんの溜息。
須賀君の姿は、哲也さんの体の向こうで、私は見ることができない。
「康太が来る前に連れて帰ろうと思ったのに。失敗だったな。」
哲也さんの手が私から離れる。
哲也さんが移動して、ようやく私は須賀君の姿を見ることができた。


指先の記憶 第三章-23-

2010-08-23 09:25:07 | 指先の記憶 第三章

朝食は冷蔵庫から取り出したおにぎり。
2人分のおにぎりを全て食べるのは無理で、残った2つを私はカバンの中に入れた。
玄関を出ると、いつものように弘先輩が門の向こうに立っていた。
昨晩のお礼と、そして謝罪。
それを言葉にしようと思った私の視界に、隣の家の門を開ける須賀君の姿。
須賀君の視線も歩き方も、昨晩と同じように、とても不機嫌。
「姫野。」
門を出て弘先輩の隣に立つ私に差し出されたのは、お弁当の袋。
「あ、ありがとう。」
受け取って、数時間ぶりに自分の頬がゆるむのが分かった。
「良かった。今日のお弁当は期待できないと思っていたから昨日のおにぎり持ってきたの。」
「昨日の?」
「うん。大丈夫だよ。ちゃんと冷蔵庫にいれて、ちょ、ちょっと?」
須賀君が私のかばんに腕を入れる。
「何するのよ、須賀君!」
彼の手には、私が入れたおにぎりが2つ、そして秋バージョンのチョコレート。
「残りは?」
「食べたよ。朝ごはんに。ちょっと?私がそれを食べるの。だって今日のお弁当、いつもよりも小さ」
目の前でおにぎりを食べ始める須賀君に抗議しながら、私はお弁当の大きさを不思議に思った。
「朝は大丈夫でも昼までは無理。暑いのに腐るぞ。午後からの授業出れなくなって保健室行きだ。」
どうして小さいの?
これじゃ、2人分じゃないよ?
「姫野。何これ?」
須賀君がチョコレートで私の額を軽く叩いた。
「何って…須賀君が買ったんでしょ?冷蔵庫に入っていたよ。弘先輩に」
須賀君を見上げて、そして弘先輩に視線を向ける。
「弘先輩、どうぞ。昨日のチョコは食べちゃいましたよね?」
私と同じチョコを弘先輩に渡そうとしていた須賀君。
「何が、どうぞ、だ。俺が買ったチョコだ。」
そう言って須賀君はチョコレートのパッケージを開ける。
「須賀、君?」
無理だと思うの。
無謀だと思うの。
弘先輩や杏依ちゃんだから、ひと箱全部食べたりするけれど、普通の人は少しずつ食べると思う。
それに須賀君は、そんなに甘いものが好き?
そう思う私の前で、須賀君はチョコを食べてしまって、そしてその箱を握りつぶした。
「遅刻するなよ。」
潰れた箱を私のカバンの中にいれて、須賀君は私に背中を向けた。
「須賀君。」
歩きだした足が止まる。
「康太。」
弘先輩も須賀君を呼び止める。
振り向いた須賀君が私を見て、そして弘先輩を見た。
冷たい視線。
私は自分の身体が冷えていく気がした。
怒っているとかイライラしているとか、そんな感情は読み取れなかった。
ぞわぞわとした胸騒ぎ。
頭の奥に痛みが走る。
突然、夏休みのファミレスでのことを思い出した。
私の事を見ていた知らない女性。
冷たい店内と冷たいアイス。
「姫野さん。」
弘先輩の言葉に、私は我に返る。
視線を動かすと、すでに須賀君の姿はなかった。

◇◇◇

1人分のお弁当を抱えて、私は校内を歩いていた。
弘先輩がいる部室に行くことも、教室に残ることもできなかった。
和穂のいる美術準備室に行けば、塚本先輩の事を質問しそうな気がして、そんな自分が凄く嫌だった。
1人になれる場所を探したくても、それが思いつかない。
今朝から続く頭痛は、私の思考能力を低下させていた。
「姫野さん。」
男の人の声。
振り向いて、哲也さんに宣言したように断ることは、今の私には無理に感じた。
でも、呼び止められることが“告白”につながると思い込んでいる自分を図々しく思い、ゆっくりと私は振り向く。
「大丈夫?」
「…弘、先輩。」
見上げると、弘先輩の向こうにある太陽が眩しくて、私は視線を動かした。
「日陰を歩いた方が良いよ?」
太陽の光が熱い。
弘先輩の後に続こうと思った私は、頭痛を気にしながらも視線を少し上げた。
「あ…。」
その距離が近いのか遠いのか、2人が離れているのか寄り添っているのか。
判断できない私は距離感を失っているのかもしれない。
傍にいるはずの弘先輩に近づくこともできない。
「姫野さん!」
弘先輩が大声を出すことは珍しい。
でも私は、その声に振り向くことができなかった。