今回の話で、この番外編は終了です。
次話は、優輝視点の話になります。
耳と視覚に刺激を感じて、目が覚めるのが常だった。
目覚ましの音や、太陽の光。
起きてと私の体を揺らす弟。
だけど、今日は違った。
懐かしい感覚と、もう二度と戻らない朝の日常。
音も匂いも、それほど強く感じた訳ではないけれど、階下での人の動きが私を目覚めさせた。
夢の中にいるのかと、現実との境目が分からなかった。
祖母の作る朝食を食べることは二度と出来ない。
父と朝食を囲むことは、どれだけ望んでも実現しない。
家政婦さん達が準備してくれる朝食は、もちろん美味しい。
響子さんが、あれはダメ、これはダメ、と気にかけてくれるのは嬉しい。
「うそ…でしょ…6時前だよ…」
ベッドから飛び出して、ドアを開けて、階段を駆け下りる。
転がるように台所へと向かうと、お味噌の香りが広がっていた。
「朝から元気だな。静かにしろって何回言わせるんだよ」
久しぶりに聞く小言は、相変わらずだった。
「出来るまで寝てていいぞ」
「え…うん、大丈夫。おはよ…兄さん」
兄さんと呼ぶよりも須賀君と呼ぶほうが良かったのかもしれないと、最近は後悔している。
私にとって、目の前の人は兄というよりも、小煩い同級生の須賀君だ。
「おはよう。郵便物、置いてるぞ」
そう言うと兄は冷蔵庫前に戻り、野菜室を開けた。
先程の兄の視線を追い、私はテーブルの上に置かれたハガキを見つけた。
表には私の名前。
字体から、それが弘先輩の文字だと分かる。
そして裏には。
「なに…これ?」
一面が、淡いピンク色だった。
「さぁ?好美宛だから俺に分かる訳がないだろ。どうしてさ、俺の家に送るんだよ?わざわざ持って来なきゃいけないのに」
台所と和室を行き来する兄は、お茶碗を置いて、小皿を置いて、糠漬けに卵焼きに…食卓の上が賑わっていく。
「他にも英語の本とか絵本とかさ…誰が読むんだよ」
「…杏依ちゃん?」
「…そうだな」
昆布の佃煮を器に取り出しながら兄が私を見た。
2人で、ちょっとだけ笑って弘先輩に感謝する。
弘先輩が荷物を送ってくれると、兄は私宛の荷物を届けてくれる。
英語の本を雅司に読んであげたいと思ったら、杏依ちゃんに連絡を取れば良い。
離れていても私の事を想ってくれている弘先輩に会いたい気持ちは、どれだけ頑張っても消えてくれない。
一緒に行こうと松原先輩は言ってくれる。
そして、その誘いは日に日に激しくなる。
どうやら、封書を受け取っているらしい。
182cmの用紙に182項目の買い物リストが並んでいるらしい。
やっぱり、松原先輩が一番不憫かもしれない。
俺の身長と同じかよ!と憤慨していた。
◇◇◇
「英語?」
兄の問いに優輝が頷く。
「それ、俺じゃなく晴己さんが適任だろ?」
優輝は、人参が省かれたカレーを元気に食べる。
それを見た雅司が人参を食べるのを躊躇するから、私は首を横に振った。
「雅司。美味しいよ。人参」
「待て。おい。いや、人参は食べて良い。だが、ちょっと待て。朝のイタダキマスから、どれだけ食べ続けているんだよ。もう止めろ」
兄の声に、雅司が私を見る。
私達は、兄の料理を食べ続けている。
ひたすらに。
兄が作ったら食べ、なくなったら兄は作り、昼の材料も使ってしまって、明日用にと準備してくれていたカレーを昼に食べた。
そして姿を見せた優輝が、既に昼食は済ませていると言いながら、兄のカレーを食べ始め、雅司と私も優輝に続いている。
「そうだね…雅司、それ食べたら、ごちそうさましようか?」
「うん。そうだね」
そう言いながら、私達の目は、兄の手作り蒸しパンに釘付けだ。
「…で、優輝。晴己さんじゃなく俺?」
「試合とか、色んな契約とか生活面とか…もうちょっと自分1人で対応できるようになりたいから」
「だったら尚更、俺、実用面での英語、ほとんど経験ないから」
「じゃぁさ…誰か康太さんの友達とか」
「友達?だからさ、晴己さんは?」
優輝は残りのカレーを食べ、溜息を出す。
「晴己さんには頼みたくない」
「反抗期?」
「違いますっ!」
私の言葉に優輝が反論した。
「俺は、そんなに子どもじゃないですっ!」
「ほぉぉー…大人になったからかぁ」
「好美」
目の前に、兄が蒸しパンを置いた。
黙れ、ということみたいだ。
「優輝、適任者探しておくよ」
「やった。ありがとう!」
そう言って優輝は蒸しパンに手を伸ばそうとして、途中で止めた。
「雅司君。遊んでから蒸しパン食べようか」
伸ばした手で、そのまま雅司を抱える。
嬉しそうに喜ぶ雅司を見送って、私は蒸しパンに手を伸ばす。
だけど、兄の手で蒸しパンは遠ざかる。
「兄さん。適任者って?」
「松原先輩かな、やっぱり」
「そっか…じゃ、晴己お兄様に報告しなきゃ、だね」
「そうだな」
反対はしないと思う。
反抗期ではないかもしれないけれど、反発する気持ちがある優輝が晴己お兄様に頼ることを躊躇しているのを、晴己お兄様も分かっているだろう。
ただ、松原先輩と優輝を会わせる事に晴己お兄様が納得するか…それが気にはなる。
だけど、2人は先日のパーティで面識があるはずだし、私に松原先輩を勧める晴己お兄様なら、優輝に勉強を教える事を拒むとも思えない。
でも、事前に報告しなければ、色々と面倒になるのは目に見えている。
「留学…かな」
「だろうな」
また1人。
私の前からいなくなる。
だけど、それは彼の未来だ。
私は幸せだった。
心を閉める負の感情はあるけれど。
まだ、どうにか自分でコントロールが出来そうだった。
私の前から、多くの人がいなくなるけれど、それは未来への希望の為。
理由があって、私はちゃんとその理由を知っていて。
だから、私は応援したいし、理解をしたい。
弘先輩から届いたハガキは、意味不明な色が塗られているだけのハガキだけれど。
ハガキが届く限り、弘先輩は私の事を忘れていない。
優輝の試合を観に行って。
夏休みには、曾祖母の家に行く。
舞ちゃんの家族にも会える。
賢一君と明良君も一緒だ。
母も雅司も楽しみにしている。
杉山家の人達とは現地で合流予定だ。
初めてパスポートを使うのが、弘先輩に会いに行く為じゃないというのは、ちょっと残念だ。
正直ちょっと迷ったし、今もちょっと不本意だ。
だけど、杏依ちゃんから命令が下された。
甘いものリスト。
182cmじゃなかったけれど、結構長かった。
両親と配偶者に頼めば良いのに、彼らは買ってきてくれない、らしい。
純也さんは買ってくれそうだけれど、晴己お兄様と争うのが面倒なのだろう。
私の心の不安定を、多くの人が支えてくれている。
それは充分に分かっている。
甘えすぎてはいけないと分かっているけれど、今は頼らないと私は自分を保てない。
きっと、大丈夫。
そう思っていたのに。
たった一瞬で私は自分の心の安定を失ってしまった。
彼女が私の前に現れるまで。
私の心は生きていた、はずだった。
番外編 ―完―
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