女性はポーチへと手を伸ばすが、震える指先は簡単にはポーチに触れられない。
「…あの」
私の声に、女性が体を強張らせた。
「…座りますか?」
女性は少しフラフラとしながら、私の向かい側に座った。
でも、会話などない。
時々視線をあげて私を見る彼女との時間は、とても居心地が悪かった。
このまま座り続けるつもりなのだろうか?
すぐに立ち上がれというのは酷だと思うし、勧めたのは私だけれど、具合が良くなったのなら席を移動して欲しかった。
安易に同席を勧めた事を後悔し始めた時。
「相席になるほど満席か?姫野。」
その声に私は顔を上げた。
「他にも席、空いているだろ。」
いつの間に来たのか、須賀君がテーブルの横に立っていた。
「知り合い?」
「え?」
「この人。」
須賀君の視線が、下を向いている女性を見下ろしていた。
「あのね、須賀君」
この人は具合が悪くて、そう言おうとした私の言葉を須賀君が遮った。
「席を移動してもらえば?」
とても冷たい口調に、私は言おうとした言葉を飲み込んでしまう。
そして、とても嫌な空気が漂う。
「姫野?」
「えっと…あの、ポーチを私が落としたと思ったみたいで。でも私のものじゃないし、でもなんだか具合が悪そうで座ってもらって。」
「もう大丈夫じゃないのか?」
「え?」
「具合。」
女性は下を向いていて、その顔色は私には分からない。
「あの、大丈夫ですか?立てます?病院行かなくても大丈夫ですか?」
病院まで連れて行ったほうが良いのかな?
「放って置けよ姫野。知らない相手に関わるな。」
「須賀君?」
須賀君は冷たい言葉を出し、そして店員を呼んだ。
「この人、具合が悪いみたいですけれど。俺達の知り合いじゃないから。」
店員は困ったように視線を動かした。
「大丈夫ですか?手を貸しましょうか?」
それは須賀君の声で、優しい言葉を出してくれて、私は安心した。
須賀君が女性の腕を掴む。
「…ごめんなさい。」
そう言って立ち上がった彼女の体が少し揺れる。
咄嗟に、須賀君が彼女の体を支えた。
とても小柄な人だ。
立ち上がった女性と須賀君を見て、私と須賀君が並んで立つと、こんな感じなのだろうか?そんな事を考えていた時。
「あ、あのお客様!」
店員の叫び声を無視して、その女性は走って店を飛びだした。
「安心したな姫野。随分元気そうだ。」
「そ、そうだね。」
「なにか飲んでたのか?あの人。」
「えっと、何も。」
「それなら無銭飲食じゃないんだな。」
須賀君が、はき捨てるように言う。
そして店員に注文をした。
「フルーツパフェ2つ。」
私は食べたくないのに。
「雅司にはナイショだからな。」
彼の言葉に私は何も言い返せなかった。
何がナイショなの?
この店で待ち合わせたこと?
フルーツパフェを食べる事?
知らない女性が私の前に座っていたこと?
「…須賀君。」
私の声に、窓の外を見ていた彼が視線を動かす。
目が合って、そして彼は再び窓の外を見た。
「雅司には、この店でのこと何も話すな。」
小さな声。
でも、ハッキリとした強い命令だった。
私はテーブルの上に落ちたままのポーチを見た。
これは私のものではなくて、でもあの女性は私に渡そうとしてくれた。
「姫野。早かったんだな?雅司、すぐに眠ったんだ?」
「うん。今日は早かった。響子さん来てくれたし。」
雅司君が眠ってしまった後、響子さんと2人で過ごすのが嫌で、早々にカレンさんの家を出た。
「俺も早く来れば良かったな。」
独り言のような須賀君の言葉に、どう反応すれば良いのか迷っていたら、店員がパフェを運んできてくれて、私はホッとした。
可愛い盛り付け。
甘そうで冷たそうで、私は思わず身震いをした。
そんな私に構わずに、須賀君がポーチを店員へと差し出す。
「これ、落し物…忘れ物です。」
その言葉に、私は寂しさを感じた。
そして、とても自分の体が冷たくなっていくような、妙な感覚を感じていた。
小さな物音で、そっとドアを開けた須賀君と私の目が合った時、私は食卓の上にお皿を並べている最中だった。
「おかえり。」
私の声に須賀君が人差し指を自分の唇に寄せる。
彼の唇が、雅司は?と私に問う。
カボチャプリンを食べた後ボンヤリとしていた私は、タイマーのピピッと響く音にビクリとした。
そして響子さんは物音を抑える訳でもなく、キッチンで普通に作業を始めた。
折角寝ているのに、と私は訴えた。
そのうち物音で目が覚めるとか、昼寝の時間が長過ぎると夜に眠れないとか、起きたらお腹がすいているだろうから準備しておいた方が良いとか。
響子さんの主張が正しいかどうかは、私には分からない。
「康太、おかえり。」
「響子、雅司は?まだ寝てるなら、もう少し静かにしろよ。」
少し言葉を荒げる須賀君は珍しい。
私に対しては頻繁に向けられるけれど、でも、それは私だけの特権だと思っていた。
そういえば…弘先輩にも時々…向けられるかも。
「とってもよく寝てたわよ?ほら、康太が帰ってきたから起きたみたい。」
響子さんの言葉にソファの前のマットを見ると、雅司君が起き上がり大きな欠伸をしていた。
◇◇◇
その日の食卓は色鮮やかだった。
絵里さんの家で和食続きだった私には、見慣れない食材。
おばあちゃんとの食卓にも、須賀君との食卓にも、滅多に並ばないメニューばかりだった。
横文字ばかりの食材で作られた料理は、私には珍しいメニューだった。
「はい。康太には焼き茄子。」
響子さんが須賀君の前に焼き茄子を置いて、思わず私は笑ってしまう。
「響子、なんだよそれ。その爪。」
須賀君の目が、とても嫌そうに響子さんの爪を見る。
そしてカレンさんは自らの爪を見て、響子さんの爪を見る。
「いいわねぇ若い子は。そんな可愛い色で。」
響子さんが小さく笑う。
なんだか、それが大人っぽくて。
「そんな目で見なくていいのに。」
響子さんが爪を指で引張った。
思わず私は目を見開いてしまう。
爪、剥がそうとしてる?
痛い…よね?
「料理作り終わった後、ちょっと暇だったから雑誌見ながら付けただけ。」
色鮮やかな爪が取れて、その下からは綺麗に切り揃えられた爪が顔を出す。
「好美ちゃんも付けてみる?」
私は絵里さんが整えてくれた自分の爪を見る。
「やめておけ姫野。不器用な姫野には無理。」
須賀君の言葉が私の小さな好奇心を否定した。
◇◇◇
待ち合わせ場所は、カレンさんの家から一番近いファミリーレストランだった。
雅司がお昼寝したら響子に任せて出て来い、そう言った須賀君は、まだ来ていない。
響子さんに絵本を読んでもらった雅司君は、今日は眠るのが早かった。
私だと、あんな風に上手に絵本を読む事も、心地良い眠りに誘ってあげる事もできない。
それに、雅司君が眠ると私は一緒にお昼寝をしてしまう。
響子さんのように雅司君が眠ったから片付けをしよう、料理をしよう、掃除をしよう…爪の手入れをしよう、そんな風に時間を使えない。
「来るの早すぎたかも。」
窓際の席に案内されて、そしてメニューを見る。
杏依ちゃんなら、デザートメニューを見るんだろうな。
この時間だから、私は何を食べよう?
おなかを満たす訳にはいかないし、でも、少しなら?
「あの…」
頭上から小さな声が聞こえた。
まだ注文が決まっていない私は、困りながら顔を上げた。
「すみません。後で注文」
須賀君を待とうかな、先に注文しようかな?
考える私の視線の先には女性が立っている。
「あの…これ」
彼女が何かを差し出した。
「落としましたよ。」
「え?」
彼女の言葉に、私は彼女の手の中の物を見る。
小さいピンク色のポーチ。
でも私には見覚えのないモノ。
「いいえ…私のモノではないので。」
外は確かに暑い。
でも彼女の額に流れる汗は異常な感じで、顔色を見ると具合が悪そうだった。
「大丈夫ですか?」
私が問うと、彼女の手が震える。
その手から、小さなポーチがテーブルに落ちた。
香りの小さな粒子。
ハーブティの香り。
テーブルの上のキャンドルからも、良い香りが漂ってくる。
瞳を閉じて、その香りを感じて、思わず頬が緩んだのが自分で分かる。
目を開けて再び口に含んだハーブティが体に流れ込んできて、とても不思議な感じだった。
風鈴の音がチリン、と鳴ったことで私は現実に戻される。
顔をあげると響子さんは雑誌をパラパラと捲っていた。
話しかけると悪いかな?
でも、同じテーブルを囲んでいるのに会話がないのも変。
だけど…彼女と何を話せば良いのだろう?
ずっと響子さんを見ているのも悪い気がして視線を動かした。
コンロの火は消えているけれど、なんとなく、その上のお鍋は温かそうな…感じだった。
オーブンも動いている。
私は、どれだけ眠っていたのだろう?
響子さんは雅司君と遊んでいたはずなのに、いつの間に食事の準備をしたの?
それとも、私達が出かけている間に?
今日だけでなく、今までも?
響子さんは、こんな風に、まるで自分の家のように、ここで過していたのだろうか?
「…あ…。」
響子さんが私の声に反応して雑誌から視線を上げる。
「カレンさんの…同居、人?」
そうだ。
そういえば。
カレンさんが京都で一緒に住んでいた“同居人”。
「同居人?」
響子さんが私の言葉を繰り返す。
「響子さんがカレンさんの同居人?」
響子さんが雑誌を閉じる。
「カレンさんが京都で一緒に住んでいた人の事?」
響子さんの問いに、私は頷いた。
「好美ちゃん…会っていないの?」
再度、私は頷いた。
私がカレンさんの家に行った時、一緒に住んでいるはずの“同居人”の姿はなかった。
男性なのか、女性なのか。
それさえも知らない。
「私じゃないわ。“同居人”は、私じゃない。」
響子さんがミントティーの入ったカップを持つ。
その指が綺麗で、その爪が綺麗で。
丁寧に手入れされて、可愛い色で彩られている。
それを見た途端、私の中に嫌な感情が沸き起こった。
そんな爪で料理をしたら不衛生じゃない?
同居人じゃないのに、どうしてカレンさんの家で、当たり前のようにキッチンで料理を作ったの?
響子さんの視線を感じて、でも私は彼女の爪から視線を逸らせない。
「好美ちゃん。」
私の名前を呼んで、響子さんが立ち上がる。
その時に椅子が少し音を立てて、その音に私はまた苛々とした。
雅司君が眠っているのに、どうしてもっと静かにできないのかしら?
キッチンへと向かう響子さんの後姿を見ながら、自分の強張っている頬をどうにかしようと指で引張った。
「好美ちゃん。」
また、彼女が私の名前を呼ぶ。
視線を上げて、指で頬の筋肉を無理矢理に上げてみる。
「食べる?」
コトン、とテーブルに小さな器が置かれた。
白い可愛い陶器。
「どうぞ。」
頬から離れた指が、響子さんが差し出したスプーンを受け取った。
「カボチャプリン。」
「かぼちゃ?」
「そう。カボチャ。料理の残りで作ったから2つしかないし。康太達が帰ってくる前に。」
「えっと、でも。須賀君達も食べたいんじゃ?」
「さぁ?どうかな?でも、別に欲しがらないと思うけど。あまり好きじゃないだろうし。」
また、イラっとした。
私は自分の記憶を辿ってみても、須賀君がカボチャを好きかどうか判断できない。
どうして響子さんが、須賀君の好みを判断できるの?
「一般論だけどねぇ…男性は、あまり好まないでしょ?」
「…そう、なの?」
「そう。一般論だけど。」
私は苛々しているのに、響子さんは落ち着いている。
彼女がプリンをひとくち食べたのを見て、私もスプーンを入れてみる。
普通のプリンよりも少し固めに感じたけれど、口の中でトロッと溶けていく微かな甘さ。
「美味しい…。」
「そう、良かった。」
響子さんが再び雑誌を開いた。
私は、時々小さく鳴る風鈴の音を聞きながら、ゆらゆらと揺れるキャンドルの光を眺めていた。