りなりあ

番外編 12 4/7 UP 
ありふれた日常 4/8 UP
ありふれた日常 5/30 UP

指先の記憶‐50:第一章 完

2008-09-17 23:44:06 | 指先の記憶 第一章

雅司君が“よしみ”と呼んでも、私は返事をしないようにしている。
それが普通になると困るからだ。
「よしみ」
でも、彼は、その呼び方を変えるつもりはないようで。
「ふとった」
雅司君の言葉に須賀君が笑う。
「にぃ よしみ ふとった。」
そんな失礼な言葉を言う弟を須賀君は注意せず、面白そうに笑っている。
実際に太ってしまった私は、私の頬を指で引張る雅司君に抵抗しなかった。
教育上、良くない状況だと分かっているけれど、でも、小さな指の温かさが幸せを感じさせてくれていたからだ。
「姫野。条件のサン。」
「え?」
今、その話をするの?
幸せに浸っているのに、邪魔をされた気がした。
「サッカー部のマネージャー。」
「え?」
「中学の時みたいに断る理由はないだろ。既に先輩達に話してあるから。」
「どうして私?」
「由佳先輩も歓迎してくれたし。ほら、松原先輩目当てで入部されると困るから。姫野はファンクラブ会員だけど、そっちの方が都合が良いって。」
由佳先輩とは、最近、松原先輩の彼女になった人だ。
ファンクラブの皆は春休みの間、とても騒々しくて、偵察を頼まれている私にはマネージャーの位置は好都合なのかもしれない。
「じゃ、雅司。にぃちゃん行ってくるからな。」
とても、とても愛しそうに。
迎えに来てくれた保育士の人に雅司君を預けて、須賀君が私を見下ろした。
「これが条件のサン。分かった?」
「ちょ、ちょっと須賀君!分からないよ!」
「昨日話したら、さすがの姫野も眠れなくなると思ってさ。優しい俺の思いやりだよ。感謝しろ。」
足早に駅に向かう須賀君を追いかけた。

◇◇◇

入学式を終えた私は、金属のドアの前で深呼吸をした。
「姫野。開けるぞ。」
須賀君の顔は緊張していて、彼も深呼吸を繰り返す。
「既に話しているんだよね?どうして、そんなに緊張してるの?」
「そうだけど。」
「須賀君、意外と頼れない。」
今朝、マネージャーの話を聞いた時は驚いたけれど、暫く時間がたつと私の気持ちは随分と落ち着いていた。
高校では何かクラブをしたかったし、それが何かは決めていなかったけど、サッカー部のマネージャーというのも悪くはないと思った。
「じゃ、私が開けるね。」
金属のドアノブを掴もうとした時。
「康太?」
その声は、まるで桜の花びらのように、私の周りに落ちてきて。
振り向いた私に、今度は須賀君の声が届く。
「弘、先輩。」
名前を呼んだ須賀君の表情から緊張が消える。
「康太。入学おめでとう。」
「ありがとうございます。」
須賀君が、とても嬉しそうに微笑んだ。
弘先輩の視線が私へと動いて、固まってしまった。
時間が戻る。
悲しくて寂しくて、暗闇の中に1人でいた、あの日に。
「康太。」
その声は、とても久しぶりで、でも私の記憶にしっかりと残っている声。
「松原先輩…。」
呟いたのは、私だった。
「マネージャーしてくれる子?康太の彼女、だっけ?」
「「彼女じゃありません!」」
揃った私達の声に、松原先輩は少し驚いて、そして笑う。
同じような事が、前にもあったのを思い出す。
「あ…そう。まぁ、そんな事、どうでも良いけど。」
「良くないよ。松原先輩。」
須賀君が松原先輩を見て、そして2人の視線の高さが同じ事に驚いたのは、私だけではなかった。
「康太。随分と伸びたんだな?」
「はい。姫野は横に伸びましたけど。」
「須賀君!」
「先輩。勘違いされると困る。姫野の恋の明るい未来が閉ざされる。あまり恨まれたくないから。」
閉ざしているのは須賀君だよ?
弘先輩の前で太ったとか言わないで欲しい。
「姫野さん。」
背の高い須賀君と松原先輩を見上げる事に疲れた私の前に、弘先輩が体を屈めてくれた。
「姫野さん、ちょっと…動かないで。」
弘先輩の指が私の髪に触れる。
そして、指で摘んだ桜の花びらを私の手のひらの上に置いた。
「小野寺弘です。よろしく。」
「…よろしく…おねがいします。」
花びらが、私の手のひらから空へと舞った。

止っていた時が、動き出す。

                 ~指先の記憶‐50:第一章 完~


指先の記憶‐49

2008-09-16 09:53:22 | 指先の記憶 第一章

「条件?」
予想しなかった話の展開に、私は戸惑い不安になる。
「そんなに不安な顔をするなよ。俺は無理難題を押し付けるつもりはない。」
話しながら裁縫箱の中に針と糸を戻す。
「イチ。1人で」
「ちょっと待って!」
私の声に須賀君は少し驚いたようだった。
「イチって何?イチって?まさか数字?ニイとかサンとか言わないよね?」
「お?鋭い。みっつあるよ。」
「えぇ?変だよ。ズルイよ。卑怯だよ。」
「別に俺は構わないけど?自分の事は自分で、どうぞ。」
冷たい口調と視線に、私は須賀君の腕を掴んだ。
「と、とりあえず、聞いてみる。」
仕方ないな、そんな感じで須賀君が笑った。
「イチ。1人で悩まない事。」
「…え?」
「疑問に思う事や不思議に思った事、誰でも良いから相談しろ。その相手が俺で、俺が力になれるのなら嬉しいけれど、俺が姫野に嫌な思いをさせたり傷つけたり、悩ませる時が来るかもしれない。」
私は首を振った。
須賀君が私を傷つける事なんて、ないのに。
「仮定、だよ。もし、そういう時が来たら、カレンさんでも絵里さんでも。これから新しく出来る友達でも。誰でも良いから相談する事。香坂先輩とかさ。」
「うーん、杏依ちゃんに相談して、解決するかなぁ?」
なんとなく、彼女は悩みというものからは遠い位置にいる気がする。
でも、ずっと前に和菓子を選んで欲しいと言った彼女は、確かに悩んでいたかも。
「大丈夫だよ。」
須賀君は笑わなかった。
とても真剣な顔と声だった。
「香坂先輩が持っているカードは多いから。」
「え?」
「そのうち、分かるよ。新堂杏依は…未来を持っている。次はニイ。」
須賀君は立ち上がると、直してくれたスカートを私の椅子の背もたれにかけ、そして机の上に置いてくれた絵本を手に取った。
そして、座ったままの私に絵本を差し出す。
私は、少し戸惑いながら、その絵本を受け取った。
「自分の幸せは自分で護れ。」
色褪せた懐かしい絵本が、私の手の中に戻る。
「姫野は1人だから。誰の事も気にするな。考えるな。自分の幸せだけ考えて、亡くなった姫野の父親や、ばあちゃんに、いつでも今の自分の事を自信を持って報告できるように。姫野は自分だけの幸せを護れば、それでいいんだよ。」
とても、ゆっくりと、小さな子どもに聞かせるように、須賀君は話す。
「…貰ったのか?」
傷んでしまった本を撫でていた私の指は、裏表紙の下の方で止まった。
「覚えて…ないの。私の本だと思ってた。お父さんか、おばあちゃんが…買ってくれたと。」
私は始めて気付いた。
“ひめのよしみ”と、ひらがなで書かれているが、それはシールの上に書かれている事に。
私の名前を書き損じた家族の誰かが、改めて私の名前を書いた、というよりも、そこには別の人の名前が書かれているような気がした。
シールの下には、私以外の人の名前が書かれている。
「貰ったのかな?古本屋とか、バザーとか、譲ってもらったとか、かな?」
私はシールを剥がす事を戸惑った。
そして、私の名前が“大人の字”ではない気がした。
最近、ひらがなを絵を描くように画用紙に書く雅司君や舞ちゃんのように、子どもの字のようだった。
「姫野。明日の朝は早いし、夕食にしよう。」
「え?でも、サン、は?」
「それは明日。」
「え~?気になる。」
「大丈夫だよ。姫野は悩んで眠れないとか、有り得ないから。」
須賀君が私の手から絵本を取り、机の上に戻した。

◇◇◇


夕食は須賀君手作りのオムライスだった。
オムライスにケチャップで絵を描く彼を見ながら、彼が意外と幼いのか、それとも私が子ども扱いされているのか、ちょっと疑問だった。
朝は、須賀君に急かされながら準備をして、私達は施設へと向かった。
一緒に暮らす事をやめた須賀君は、雅司君の気持ちに対して、かなり敏感になっていた。
それでも施設を出る事にしたのだから、彼なりの理由があるのだろう。
「姫野。」
須賀君が私を呼ぶ声がする。
振り向いて、私は彼が雅司君と手を繋いでいるのを見た。
雅司君が私を見上げて、そして不思議そうな表情をする。
「おはよう。雅司君。」
「よしみ」
その呼び方は、あまり心地良くない。


指先の記憶‐48

2008-09-15 21:41:26 | 指先の記憶 第一章

「姫野。ばあちゃんに甘えて育ちすぎ。」
そんな言葉を私に言えるのは須賀君だけだと思う。
母の存在を知らず、父を亡くした私が祖母に甘える事を誰も責めなかった。
「ばあちゃんは、姫野に何も教えなかったのか?」
そんな訳ではない。
祖母は、いつか私が1人になることを分かっていたから、料理も掃除も色んな家事を私に教えてくれた。
だから、同級生に比べれば、私は家事一般は出来ると思う。
だって、実際に1人で住んでいるのだから。
でも、1人で生きていける器用さや強さを身につけるのは怖かった。
1人になる時が、必要以上に早くなりそうな気がして、目を背けたかった。
「教えて貰えば良かったな。もっと聞いておけば良かった。」
私は本棚の上に手を伸ばした。
「だって…私が知りたい事、知らない事、たくさんあるのに、もう…誰にも聞けないもん。」
母の事を、祖父の事を。
「あれ?」
背伸びをしてみても、上の棚には届かなくて、やっぱり私の身長は伸びていないことに気付く。
仕方なく、昔と同じように椅子の上に乗ろうとした。
「これ?」
須賀君の伸ばした手が、目的の場所に届く。
「…勝手に入ってこないでよ。須賀君。」
家には何度も来ていても、彼が私の個室に入るのは初めてだった。
「そんな事、どうでもいいから。この箱か?」
須賀君が箱を取り、私に渡してくれる。
箱を支えにしていた本が倒れそうになって、須賀君の手が、それを止めた。
「須賀君。その本も…取って。」
彼が私の勉強机の上に本を置いてくれ、私は箱の中から裁縫セットを取り出した。
「取るのが難しいところに、どうして置いてあるんだ?」
「うーん…おばあちゃんが亡くなる、ずっと前に、私の為に用意してくれたけれど、その時は、おばあちゃんは元気だったし、やっぱり自分でする機会はなくって。おばあちゃんの裁縫セットを借りたりしていたし。」
「ばあちゃんが亡くなってからは?一度もボタンは取れなかったのか?今回みたいに太ったから直す、じゃなくてさ。」
「…大江先生が…してくれてた。」
また、須賀君の大袈裟な溜息。
「…あのさぁ、須賀君。スカート脱がなきゃ直せないし…出て行って貰える?」
「別にいいけど。自分で出来るわけ?」
「…たぶん。」
「俺がやってやるよ。出て行くから、脱いだら渡せ。」
凄く面倒そうな口調で須賀君は言うと、部屋を出て行きドアを閉める。
私は急いで着替えて、廊下で待っている須賀君を呼んだ。
いつの間にか、彼の手には針と糸が準備されている。
私の部屋の床に座った須賀君が、スカートを手に取った。
私は彼の器用な手を見ていた。
「全く出来ない訳じゃないよな?」
確認するような須賀君の口調。
「…うん。まぁ一応。時間はかかるけど…。須賀君、早いね。」
やっぱり器用だな、そう思って彼の指先を見て、そして彼の横顔を見る。
殆ど毎日会っていて見慣れた顔なのに、彼は私と違って、とても大人に近付いているような気がした。
「姫野。」
「なに?」
「暇なら、俺の家の冷蔵庫から夕食持って来て。」
「え?」
「ずっと見ていないで、動け。他にも明日の準備もあるだろ。こうして直しているから、夕食も朝食も食べるだろ?」
須賀君は私を見ずに話し続け、そして針を動かす。
「食べないとか痩せるとか無理なダイエットとか、そんな事するなよ。」

どうして少し怒っているのか不思議だったけれど、私は嬉しかった。
見放されたと思っていた。
金銭的な事をカレンさんと話していた時に須賀君に言われた言葉がショックだった。
『姫野は自分で出来るよ。それに、しなくちゃいけないだろ?』
「あの…須賀君。」
今ならお願いしても、聞いてくれるかもしれない。
「お金の事…やっぱり、お願いしちゃ、ダメ?」
須賀君の指の動きが止まる。
私は須賀君の返事を聞くのが怖いと感じながら、彼の指先を見ていた。
「条件がある。」
「え?」
「姫野の要望を受け入れても良いけど、俺の条件を姫野が受け入れられるのなら。」
パチンと、須賀君がハサミで糸を切った。


指先の記憶‐47

2008-09-15 17:33:34 | 指先の記憶 第一章

杏依ちゃんの声は心地良かった。
絵本の内容を、文字の一つ一つを、記憶している。
この本を読んでくれた人達の声を、覚えている。
ただ…その声が、私の記憶に残る声が、本当に本人達の声なのかどうか、記憶が曖昧になってきていて、悲しくて寂しくて。
でも、過去を思い出すことへの抵抗を感じるよりも、幸福だった時が心に残っている事実が幸せだと感じた。
悲しい思い出とは別に存在する私の過去。
そこには私を愛してくれた人達が存在していて、確実に私は愛を感じていた。
あの日、祖母を亡くした日。
私は本を手に取る事が出来なかった。
弘先輩は私に譲ってくれたけれど、私には出来なかった。
大切な思い出を失くしたくない。
忘れたくない。
それを護っていけるのは、私だけなのに。
杏依ちゃんの声は、私に懐かしい思い出を運んでくれる。
そして過去だけではなく、彼女は私に未来を見せてくれるような、そんな気がした。

◇◇◇

「…ひめの…おい、姫野。」
心地良い眠りを邪魔する声に、私は目を開けた。
ボンヤリとした視界に須賀君を見つけて、そして周囲が暗い事に気付く。
「…あれ?」
「姫野。香坂先輩、帰ったぞ?あのさぁ…雅司でも、絵本を読んでもらっている最中には、最近は眠らないようになったぞ?」
「え…?」
少し重い体を起こして、キョロキョロとすると、窓の外は暗くなっていた。
「えー?私、眠っちゃったの?」
そして、途端にお腹が鳴る。
「あのさぁ、姫野。健康なのは良いけれど、大丈夫なのか?」
「な、にが?」
「なにが、って明日、入学式。」
「あ…そうだよね。でも、須賀君の部屋も酷い状態だよ?」
「俺、完璧に片付けるつもりはないけど?まだ荷物も届くし。明日の準備は既に終了しているし。今日の夕食も明日の朝食も冷蔵庫の中。」
須賀君が私を見て、そして、その視線が私の頭から足まで見たのを感じて、文句を言おうと思った時。
「姫野は?教科書は?鞄は、どうするんだ?それに。この春休みで太っただろ?制服、入るのか?」
ワンピースを着ていた私は、両手を腹部に当てて焦る気持ちが大きくなる。
「えぇっ!!そんな事ない、有り得ない!だって須賀君だってイッパイ食べてたじゃん!須賀君こそ、どうなの?須賀君も太ってるよ!制服入らないよ!」
「俺は上に伸びたから。」
暗闇の中でも須賀君が笑っているのが分かった。
「姫野は横に伸びたみたいだな。」
「須賀君!!」
立ち上がった私を須賀君の腕が止める。
「電気つけるから。足元気をつけろよ。」
その腕を払って、忠告を聞かなかった私は床に置いてある物に足を当ててしまう。
「姫野。食べていけば?腹、鳴っていたし。」
「いらない。太ったもん。食べない。明日の朝も食べない。」
「そんな事すると入学式で気分が悪くなるだろ?制服のサイズ、直せば?」
「大丈夫だもん。食べなきゃ平気だもん。スカート入るから!」
「ちょっとだけボタンの位置を変えればいいだろ?1週間くらいで元に戻るだろうし。」
「大丈夫だもん!」
「…とにかく、着てみれば?」
「…」
「ほら。姫野。」
軽く背中を押されて、私は廊下に出る。
廊下には電気がついていて、なんとなく振り向くのが嫌で、私は急ぎ足で隣の自宅へと戻った。

◇◇◇

「姫野?どう?」
私はドアの向こうから聞こえる須賀君の声に答えられず、鏡を見て溜息を出した。
返事をしない私の状況を、須賀君は分かっているはずだ。
須賀君の予想通り、新しい制服のスカートは、私のウエストを苦しめていた。
無理ではないけれど、決して快適ではない。
「姫野。」
「ちょ、ちょっと!須賀君、開けないでよ!」
突然開けられたドアに驚いていると、須賀君が残念そうな顔を私に向けた。
「姫野さぁ…女子高生として、ちょっとそれは悲しい状況だな。」
「放っておいて!」
「だから、直せよ。針と糸は?」
「…」
「まさか…ばあちゃんが亡くなってから、針と糸…使ってないのか?」
頷いた私に、須賀君の大きな溜息が聞こえた。


指先の記憶‐46

2008-09-13 00:29:05 | 指先の記憶 第一章

斉藤病院を訪問した日から、私の気持ちは予想以上に軽くなった。
高校合格の実感も大きくなり、新しい制服を試着して嬉しくなる。
教科書達は私の気持ちを少し不安にしたけれど、心強い“先生”が隣に住んでいるし、私は新生活が楽しみだった。
でも、入学式前日に須賀君の“新居”を訪問した私は、溜息を出した。
須賀君が施設から運んだ荷物は、それほど多くはなかったのに、新しい部屋は多くの荷物で溢れていたからだ。
「大丈夫?須賀君。カレンさんの荷物、隣の部屋に移動するって言ってたよね?」
「移動したよ。」
でも、段ボールが積み上げられている。
「じゃ、これ、須賀君の荷物?」
「そうだけど?配達で届いたから。」
「ふーん…。何?服、とか?」
問うと面倒そうにカッターを渡されて、どうやら私に開けろと言いたいようだった。
そこまでして中身を確認したくはないけれど、ひとつぐらい、そう思ってダンボールの蓋を閉じているテープをカッターで切る。
蓋を開けると、中には本が詰まっていた。
それは難しそうな本ばかりで、日本語じゃないものもあって、そして、新しいわけではないみたいだった。
「貰ったんだよ。」
「全部、本、なの?」
「だろうな。」
須賀君は私の問いに適当な感じで答えて、メジャーを取り出した。
「なに…測ってるの?」
「本棚、必要かな、と思って。でも、まぁ、いいか。あの家に返せば。姫野は?読む?」
読めないと思うし、読みたくないし。
でも、断ると小言を言われそうな気がして、私は何冊かの本を手に取った。
なるべく薄そうな本を探す。
「あれ?」
私は一冊の本を取り出した。
「須賀君。」
「なに?」
須賀君は床や窓のサイズを測る作業を続けていて、私を見てくれない。
「須賀君。これ…、私も持ってるよ?」
振り向いた須賀君に本を見せる。
「あぁ…それ?その程度なら、姫野でも読めるよな?」
読めるよ。
だって、絵本だから。
「この絵本って…本当は、こんなに綺麗なんだ。」
私が持っている絵本は、色褪せていて、少し黒ずんでいるのに。
「こんにちはー。」
階下から声が響いてくる。
「康太君、いる?好美ちゃんはー?」
「えぇ?杏依ちゃん?」
私は部屋を出て階段をおりた。
玄関のドアを開けると、杏依ちゃんが満面の笑顔で立っている。
「どうしたの?杏依ちゃん。」
「あのね。新婚旅行から帰ってきたの。好美ちゃんの家、お留守だったから、こっちかなぁと思って。」
「あー…そっか。そうだよね。杏依ちゃん結婚したんだよねぇ…。」
実感がない。
新婚旅行という言葉が、この人には似合わない。
「今ね、松原君の家に行ってきたの。そうしたら康太君が引越した事を聞いて。あぁ、そうだ。これ、預かってきたの松原君から。参考書だって。」
そして杏依ちゃんは、一冊の本を私へと差し出した。
「香坂先輩。どうぞ。」
いつの間にか1階におりて来ていた須賀君が、私の後ろから杏依ちゃんを誘う。
「おじゃましまーす。」
何の抵抗もなく、断ることもなく、杏依ちゃんは靴を脱いだ。
今みたいな感じで、彼女は松原先輩を訪問したのだろうか?
杏依ちゃんには繊細な複雑な感情など皆無な気がして、私は久しぶりに松原先輩を哀れんだ。
でも、そんな松原先輩にも変化が訪れていることは、既に私の耳に届いていた。

杏依ちゃんのお土産は、全てがタップリと甘そうだった。
実際に甘そうなチョコや、甘そうな土産話。
「好美ちゃん。その絵本、どうしたの?」
私は、ずっと絵本を抱えたままだった。
「えぇっと、あれ?どうしたの?これ?送ってもらった、だっけ?」
「それは俺の本。」
「ふーん…須賀君も読んでたんだ。」
杏依ちゃんに差し出すと、彼女はそっと表紙を指で撫でる。
彼女の指には、大きなダイヤモンドではなく、シンプルな指輪が存在を示している。
「ねぇ、好美ちゃん。読んでいい?」
「…読む、の?」
「だめ?」
この絵本を、誰かに読んでもらうのは凄く久しぶりで、そして懐かしくて嬉しくて、私は杏依ちゃんの隣に座った。


指先の記憶‐45

2008-09-10 23:28:44 | 指先の記憶 第一章

「絵里…さん。」
彼女が私の背中に隠れようとした。
そして、私は絵里さんを見つめたまま、だった。
「なに?2人とも。あのねぇ、むつみちゃん。仲直りしましょうって言ったでしょ?」
絵里さんが溜息を出す。
「好美ちゃんも、どうしたの?そんなに驚いた顔をして。」
絵里さんが前髪をかきあげた。
「…髪…束ねていないの?」
綺麗なウェーブが、綺麗に整えられていた。
「…おねえさん、絵里さんのこと、やっぱり…知っているの?」
彼女も絵里さんを知っていて、絵里さんは彼女の事を、むつみちゃん、と呼んでいた。
「お化粧もして、るの?」
普段以上に綺麗だった。
でも、少し…派手な感じがした。
「いつも、してるよ?絵里さん、お化粧。」
むつみちゃんが小声で私の耳に囁いた。
「早く立ちなさい。2人ともスカートが汚れるわよ。」
2度目の言葉に私達は立ちあがり、お互いにスカートに土がついていることを確認した。
「まったく…むつみちゃん、あなた次は6年生なのよ?」
絵里さんの声は、少し苛々としていた。
「家に送って行くから。飛行機は予定通り離陸したわ。」
「…はい。」
むつみちゃんが私より一歩前に出た。
「好美ちゃんも送って行くわ。康太君のお手伝いは?」
「はぁい…。」
むつみちゃんと比べると、緊張感のない声で私は返事をした。
そんな私を、むつみちゃんは不思議そうに見て、そして、1人の男性が歩いてくるのを見つけて、ホッとしたように表情を穏やかにした。
「むつみちゃん。」
その声が、誰かに“似ている”気がした。
「帰ろうか。送って行くよ。」
「うん!」
明らかに元気な声で、むつみちゃんが返事をした。
絵里さんに対する態度と全く違って、不思議に思う私の前に男性が立つ。
「はじめまして。」
私は彼を見上げて、とても背が高くて、少し首が痛くなった。
須賀君も、もっと身長が伸びたら、こんな風に差ができるのかもしれない。
「倉田直樹です。」
「…は、じめまして。」

彼が誰なのか分からず、私は絵里さんを見た。
「倉田直樹さん。私の婚約者。」
「えぇ!!」 
私の叫び声に、むつみちゃんが驚いた顔を向ける。
「おねえさん、直樹さんには…会った事がないの?」
ないはず。
知らない。
この人を。
「はじめまして、だよ。むつみちゃん。」
むつみちゃんは、倉田直樹さんと私を交互に見た。
そして首を傾げて何かを考えている。
「行こうか。先に、姫野好美さんの自宅で、いいのかな?」
「えぇ。お願いします。」
絵里さんの声は、いつもと違う。
「…姫野、好美さん?」
むつみちゃんが私を見た。
「さっきの事、内緒にしてね。」
彼女は絵里さんと直樹さんを気にしながら、私に小さな声で話す。
「今度」
彼女が私の前に小指を出した。
「会う時まで」
寂しそうだった彼女が微笑む。
「私が今日、話した事は誰にも言わないで。ねぇ、約束。」
私は、彼女の話の意味を全て理解出来なかったが、彼女の指に自分の指を絡めた。
「寂しいなんて思わないように、頑張るから。」
小指が離れる。
「見送りは行けなかったけれど、迎えには行くから。その時には、ちゃんと…旅行から帰ってきたら…お帰りなさい、と言えると思う。」
絵里さんと直樹さんが、少し離れた場所から私達を見ていた。
「旅行って、長いの?」
「来週には戻るみたい。学校が始まるし。」
「そう。」
「新婚旅行なの。」
彼女が私の前から動いて、直樹さんの隣に立った。
「行きましょう。好美ちゃん。」
絵里さんの声に促されて、私は歩き出す。
疑問に思うべきだった。
学校が始まる人が新婚旅行に行った事。
絵里さんの婚約者が私の名前を知っていた事。
彼の挨拶が“はじめまして”だった事を、むつみちゃんが不思議に思った事。
私が絵里さんの事を知っているのを“やっぱり”と表現した事。
今度会う時まで、まるで再会を確信しているような会話だった事。
それらを疑問に思うべきだった。
そして、私が誰に似ているのかを。
倉田直樹さんの声が、誰に似ているのかを。


指先の記憶‐44

2008-09-09 23:50:17 | 指先の記憶 第一章

中学校の校医を辞めた大江さんと、私は斉藤病院の近くの公園で待ち合わせた。
見覚えのある看護士さん達だけでなく研修医の人達も、私に合格を祝う言葉をくれた。
斉藤先生にも挨拶をした事で、私の中でひとつの区切りが出来た気がした。
大江さんにお礼を言って、私は1人で斉藤病院に残った。
用事が済んだのだから早く戻って須賀君の手伝いをした方が良いと分かっていたが、庭を見ていると春が来ている事を感じ、少しだけ散歩してみようと思った。
あの時の父と同じように、車椅子で庭の木々を眺める人。
祖母と同じように、ベンチに座って静かに目を閉じている人。
私は、桜の木を見上げた。

蕾が開き始めている。 
悲しい思い出が胸を締め付けるが、私は桜の木の下に立つ少女を見つけた。
桜の木を見上げて、眩しそうに空を見上げている。
そして、彼女の髪が風に揺れた。
「なにか、探しているの?」
ゆっくりと振り向いた彼女と視線の高さが変わらないことに驚いたのは、私だけではなかった。
「もうすぐ…咲きそうね。」
また、彼女が桜の木を見上げる。
そして、また私を見て、彼女はとても綺麗に微笑んだ。
「こんにちは。」
思い出してくれたのだろうか、私を。
それを問うのは、少し戸惑った。
「飛行機…見えるかな、と思って。」
「え?飛行機?」
もっと視界の広い場所に移動すれば良いのに、と思った。
桜の木の間からは、綺麗に空を見渡せないのに。
「探しているけれど、見つけたくないような、ちょっと…複雑な気持ち。」
この子が何歳になったのかを、考えてみた。
身長は私と変わらないし、表情は落ち着いているし、私のほうが年上だとは思えない。
「それに…飛行機から私が見えたら、困るから。」
「…え?」
その考えは、やっぱり私よりも年下、かな?
「あ、おねえさん。見えるわけないのに、って思ったでしょ?」
少し恥ずかしそうに彼女は笑う。
「だって、いつも…絶対に確実に、私を見つけるから。」
また、彼女は空を見上げた。
「見つかると、困るの?」
「うん…今日は、困る。嘘をついちゃった、から。」
彼女は桜の木に背中を向けると、ゆっくりと土の上に座った。
「本当はね、空港にお見送りに行く予定だったの。私も行きたかったの。それは本当よ?でもね、なんとなく、なんだか、行けなくって。別荘に行くって嘘をついちゃった。」
私は彼女の隣に並んで座った。
「家にいると、もし家に来ちゃうと困るし、病院までは来ないかな、と思って。」
そして、溜息。
「私も見送りに行かなかったわよ。」
彼女がとても驚いた顔を私に向けた。
「空港じゃないけど。東京駅だけどね。家が隣の人だから、家の前で見送ったけど、なんとなーく、駅とか空港とか、それだけで寂しくなるでしょ?」
「その人は遠くに行っちゃったの?旅行とかじゃなく?」
「うん。引越し。暫くは会えない、かな。小さい時から隣に住んでいた人だから。色んな事、両親の代わりに、おばあちゃんの代わりにしてくれた人だから。」
彼女が、とても真剣な眼差しを私に向けた。
「大切な人がいなくなったら…寂しいよね?引き止め、たの?」
私は首を傾げた。
「引き止めた事になるのかなぁ?私の気持ちなんて、全部お見通しだし。」
「…私と、同じだね。」
彼女の髪が、さらさらと揺れた。
「私…さよなら、してきたの。」
「え?」
「とても、とても…大好きで…でも…さよなら、してきたの。」
さよならの意味を私は図りかねた。
「その人とは、もう会えないの?」
問うと、彼女が首を横に振る。
「たぶん。今までと変わらずに会えると思う。でも、今までと同じじゃ、ないの。」
とても彼女は寂しそうだった。
彼女に何を言ってあげれば良いのか、私は悩んだ。
祖母が入院した時に、眠れない私に穏やかな睡眠を与えてくれた彼女に、あの時のお礼を何かしたいと思っても、分からなかった。
視線を落としている彼女を見ていた私は、気配を感じて視線を上げた。
そして、彼女も視線を上げる。
「「…あ」」
私達の声が重なる。
「何をしているの?こんな所に座って。あなた達、スカート汚れるわよ。」
絵里さんが私達を見下ろしていた。


指先の記憶‐43

2008-09-08 00:45:26 | 指先の記憶 第一章

「あのさぁ、少しは綺麗にしろよ。俺が使う2階の荷物は、そのまま?」
「私は自分の荷物の準備があるし。康太の判断で捨てて良いわよ。古い服とか鞄だし。着たければ、どうぞ。」
「女性物を俺が?」
「なら、好美ちゃんに。」
「姫野は、あんな派手でギラギラした不必要に肌を露出するような趣味の悪い服は着ない。」

「ちょっと、康太?趣味が悪いって、なによ?」
言い争う2人の会話を聞きながら、私は立っている2人を見上げた。
「…あの。」
私の小さな声に、2人は反応する。
「お掃除…手伝うよ?もし、気に入った服があれば貰ってもいいの?」
「もちろんよ。好美ちゃん。」
とても勝ち誇ったようにカレンさんが須賀君を見ている。
「でも、掃除は康太がするわ。だって自分が住む家だもの。好きなように自分で掃除すれば良いわ。」
カレンさんの笑顔に、私は余裕みたいなものを感じた。
「自分が、住む家?」
「そうよ。私は引越すけれど、あの家には康太が住むから。」
「へ…?」
キョトンとした目を、私はしていると思う。
カレンさんが私の前に座る。
「でも、やっぱり好美ちゃんにも時々は掃除をお願いしようかしら?康太は色々と器用だけど、やっぱり男1人だしね。」
「あ、あの?カレン、さん?」
「家を留守にするのは、やっぱり不安でしょ?康太には留守番をしてもらうことにしたの。」
カレンさんが、とても面白そうにクスクスと笑う。
「嫌だわ、好美ちゃん。凄く嬉しそう。さっきまで私には引越して欲しくないって顔をしていたのに。康太が隣に住む事、そんなに嬉しい?」
「そ、そんな事、ないけど…。」
視線を上げて須賀君を見ると、彼はカレンさんから渡された鍵を上に投げて、そして受け止めることを繰り返していた。
「須賀君。」
「何?」
須賀君はカレンさんの家の鍵で遊び続ける。
「隣に、住むの?」
「みたいだな。時々掃除でもすればいいか、って思っていたけど、それも面倒そうだし。そろそろ施設を出ても生活できるし。姫野でさえ1人で住んでいるのに、俺に住めない訳がない。雅司を引き取るのは無理だけど、毎日通えるし。母親の実家から高校に通うのは、ちょっと遠いし。」
色々な事を考えて、隣に住む事を選んだようだ。
「よろしく御近所さん。」
私は仏壇の前に置いてある座布団を須賀君に投げつけていた。
「何するんだよ。姫野。」
笑っている須賀君は、全然痛みなど感じていないみたいで。
「須賀君、早く帰れば?」
「はいはい。」
「明日の掃除なんて手伝わないから。」
「いいよ、別に。」
「と、隣に住んでも、美味しく出来た煮物も分けてあげないから。」
「いいよ。別に。でも、俺が作った料理は分けてあげるから。」
どこまでも余裕な笑みで、須賀君は私を見ている。
「帰れって言うのなら帰るけど。後片付け、1人でするのか?」
「…え?」
私はテーブルの上に並ぶ、使用後のお皿を見た。
「カレンさんは自分の荷物の準備があるし。俺も明日の朝は早いし。じゃ、よろしく。姫野。」
「ちょーっと待って!」
慌てて掴んだら、須賀君の服が少し伸びる。
「なに?姫野。」
上から見下ろされて。
やっぱり須賀君は私の気持ちなんて全て見透かしていて。
「えぇっと…明日、手伝うから、今日は…ここ。」
とても、とても、須賀君は満足そうに笑った。

◇◇◇

カレンさんは、小さな鞄だけで家を出た。
送ると言っていた荷物も、ダンボールが5箱だけ。
新しい家の家具や電化製品は既に同居人が準備しているからと言って、ちょっとそこまで、そんな感じで私と須賀君に手を振った。
「姫野は、今日は大江先生と会うんだろ?」
「うん。おばあちゃんがお世話になった先生に挨拶に。」
お礼と合格の報告を兼ねて、私は斉藤病院を訪問する事になっていた。
「俺は今日も荷物運ぶよ。」
須賀君は少しずつ荷物を運んでいる。
時々、私も手伝うけれど、大きな荷物など持てなくて、結局あまり戦力にはなっていない。
カレンさんが引越す事を知った日から、意外にも寂しさを感じる事はなかった。
カレンさんと須賀君と過す時間は普段以上に多くて、まるで家族のようで、私の心は満たされていた。


指先の記憶‐42

2008-09-07 10:53:38 | 指先の記憶 第一章

「好美ちゃん?ねぇ、ちょっと。」
私の肩を掴んだカレンさんは、力を入れて、そして力を抜く。
正直、少し痛かった。
力が強いと思った。
カレンさんが本気になれば、私の体を突き飛ばす事も簡単だろうと思った。
でも、カレンさんは凄く遠慮気味に私の肩に手を置く。
「姫野。」
背後からの声に、振り向く必要などなく、それが誰なのか分かる。
「カレンさん。10分なんて、とっくに過ぎてるけど?」
「あー、っと、えぇっと、康太。分かってる、分かってるわよ。ねぇ、好美ちゃん、ちょっと落ち着きましょう?」
「嫌。」
「あのねぇ、好美ちゃん。さっきの話の続きが残っているのよ?ほら、康太も戻ってきたし。」
「さっきの話って、何?」
「須賀君、帰ったんじゃないの?」
嫌な沈黙が続く。
「ほらほら、2人とも。ちゃんと話し合わないと。康太、話って金銭的なことよ?好美ちゃんは康太にお願いしたいって。良かったわね。好美ちゃんが一番信頼しているのは康太よ。」
“一番信頼している”という事をカレンさんに言われてしまって、私は余計に振り向くのが嫌だった。
「お金の事?それだったら志望校を決める時に終わってるだろ?高校三年間に必要な金額とか、大学進学の場合とか。高校三年間の生活費は今よりも多く必要だろうから、そう考えて計算してるよ。別に、誰が管理するとか必要ないだろ?姫野は無駄遣いしないし。」
淡々とした口調が冷たく感じた。
「高校生になるんだから、姫野は自分で出来るよ。それに、しなくちゃいけないだろ?」
どうして、そんな事を言うの?
俺に任せれば良い、そう言ってくれると思ったのに。
「カレンさん。」
私はカレンさんの背中に更に腕を回す。
「姫野?」
「好美ちゃん?」
カレンさんが困っているのが分かる。
少しだけ、私が躊躇したのも事実だ。
カレンさんの香水の奥に、いつもは感じない、感じた事ない、男の人の香りを感じた。
でも、それは嫌な感じではなくて、なんとなく穏やかな気持ちにしてくれた。
それを求めてしまうのは、ダメだと感じながらも、私は身を委ねてしまう。
「姫野。」
須賀君が私の肩に触れようとしたのが分かって、私は更にカレンさんに身を寄せる。
「離れろ。カレンさんから。」
「…嫌。」
「姫野!」
「須賀君に関係ないもん。」
「だから!カレンさんは男なんだって。そんな格好をしていてもカレンは本名じゃないし」
「関係ないもん。カレンさんが、本当は男の人でも、そんな事、関係ない。」
私は下唇を噛んだ。
そうしないと涙が流れそうだった。
カレンさんがいなくなることで、須賀君に頼ろうとした自分を情けなく思った。
須賀君は、私と信頼関係を築くつもりなど、ないのだ。
胸の奥というか胃の辺りというか、どすんとした塊を感じた。
須賀君に見放された気がした。
「姫野。」
須賀君の手が私の手首に触れて、驚いた私は彼の手を振り払った。
「あのねぇ、2人とも。やめなさい。」
自分の体の周りで繰り広げられる私と須賀君のやり取りに、カレンさんが困っている。
「姫野。カレンさんに行って欲しくない気持ちは分かるけど、ちゃんと自立しないと。」
須賀君は、カレンさんがいなくなって平気なの?
寂しくないの?
私は、どうしてこんなに混乱しているのだろう?
どうして、突き放すの?
エアコンの掃除をするなと言ったのは須賀君なのに。
塾に行くなと、俺が教えるからと言ったのは須賀君なのに。
「ねぇ、好美ちゃん。」
溜息を出して、私はようやくカレンさんから離れた。
「時々、遊びに来てね。康太も…嫌でも来るのよ。」
須賀君には少し厳しい口調でカレンさんが言う。
「カレンさんに会うだけだったら行くけど。」
「まぁ…いいわ。最初は。じゃ…明日は朝からお願いね、康太。」
カレンさんは立ち上がると、部屋の隅に置いてある鞄から鍵を取り出した。
「はい。合鍵。不必要な物は捨てて良いわよ。」
「…俺が処分する、わけ?」
須賀君は、とても不機嫌そうに合鍵を受け取った。


指先の記憶‐41

2008-09-06 20:05:05 | 指先の記憶 第一章

「カレンさんは大丈夫?」
カレンさんの両手を包むと、少し複雑な気持ちになった。
骨格は、やはり男性。
細くて綺麗な指で綺麗な爪だけど、私の指に感じるのは、ゴツゴツとした硬い印象だった。
「なにが?」
「引越し…カレンさんが須賀君と離れて、大丈夫なのかな、と思って。」
「そうねぇ、気になるわね。でも、お互いに自分の道を進まないと。」
カレンさんの微笑みは寂しそうだった。
「私が原因だって須賀君は言ったけれど、須賀君の卒業だって関係してるよね?」
カレンさんは須賀君の事を想っているのに、カレンさんを引き止めたのが私だと言い切られた事が悔しかった。
「好美ちゃんが原因とか、そんな理由じゃないのよ。ただ、この家のお金の事、私がしている、でしょ?」
肝心な事を私は忘れていた。
「そうよね…ごめんなさい。」
おばあちゃんが亡くなった後の色々な事を、カレンさんが引き受けてくれていた。
「ねぇ、好美ちゃん。どうする?これから。前に康太が言ったように、好美ちゃんの白無垢になるように、お金を無駄遣いしないほうがいいとは思うけれど。高校生だと、今以上にお小遣いも必要になると思うの。」
「アルバイト、するよ?」
「でも、康太が許すかしら?」
「どうして須賀君の了承が必要なの?」
私の口調は少し厳しかったようで、カレンさんは少し驚いた顔をした。
「だって、好美ちゃん勉強大丈夫?」
その問いに答えることは難しい。
「康太に管理してもらう?」
「え?」
「康太は既に把握しているし、それは…2人の信頼関係の問題だけど。」
「信頼関係?」
須賀君に対して信頼を持っていると言うのは、おかしいような気がした。
大人であるカレンさんを信頼していて、金銭的な管理をお願いしているのは、不思議ではないかもしれない。
でも、それを私と同じ未成年である須賀君に頼むのは、なにか、おかしい。
「迷惑、かな?」
私が須賀君を頼るのは彼にとって、迷惑なのかな?
「変だと思ってる?須賀君に頼ろうとするのは、変?」
「変じゃないわ。」
カレンさんが微笑む。
「康太、喜ぶと思う。」
でも、カレンさんの微笑が崩れてきて、そして笑い出す。
「ちょっとぉ?カレンさん?笑わないで。」
とても、凄く、お子様だと思われている気がする。
「ごめんね。でも、ほんと…可愛くって。」
褒められているのだろうか?
「好美ちゃん。」
離れてしまうから。
遠くに行ってしまうから。
「カレンさん!」
両腕を広げてくれたカレンさんに飛びつくと、私の体を支えてくれたカレンさんの体が倒れる。
「えぇ?好美ちゃん?」
驚いたカレンさんの声と共に、私はカレンさんの腕に包まれていた。
体勢を崩したのに、私を支えたまま、無理な状態から体勢を戻したカレンさんは、もしかすると腹筋とか凄いのかもしれない。
やっぱり男の人だと感じながらも、私は離れたくなかった。
「驚いたわ。」
私の耳元にカレンさんの溜息が流れる。
背中をトントンと叩かれて、その指も、やはり少し硬いように思った。
私の頬を撫でていた杏依ちゃんの指とは、全く違う。
「カレンさん。」
行かないで欲しい。

ずっと傍にいて欲しい。
祖母の事を知っている人が、近くにいて欲しい。
仏壇に手を合わせて、綺麗な花を供えてくれて。
一緒に水羊羹を食べて欲しい。
祖母が入院した時も、亡くなった時も、色んな雑務はカレンさんがしてくれて、そして、私を支えてくれた人。
泣く事さえ出来なかった私の変わりに、祖母の亡骸に涙を落としてくれた人。
「カレンさん。」
その期間、カレンさんが自分の全てを犠牲にしていたのは事実で。
気付きたくなかった。
知りたくなかった。
何も知らずに、何も分からずに、そんな私の傍に、ずっといて欲しかった。
「好美ちゃん、ちょ、ちょっと」
私を引き離そうとするカレンさんに抵抗していると、玄関からガラガラと大きな音が聞こえた。