雅司君が“よしみ”と呼んでも、私は返事をしないようにしている。
それが普通になると困るからだ。
「よしみ」
でも、彼は、その呼び方を変えるつもりはないようで。
「ふとった」
雅司君の言葉に須賀君が笑う。
「にぃ よしみ ふとった。」
そんな失礼な言葉を言う弟を須賀君は注意せず、面白そうに笑っている。
実際に太ってしまった私は、私の頬を指で引張る雅司君に抵抗しなかった。
教育上、良くない状況だと分かっているけれど、でも、小さな指の温かさが幸せを感じさせてくれていたからだ。
「姫野。条件のサン。」
「え?」
今、その話をするの?
幸せに浸っているのに、邪魔をされた気がした。
「サッカー部のマネージャー。」
「え?」
「中学の時みたいに断る理由はないだろ。既に先輩達に話してあるから。」
「どうして私?」
「由佳先輩も歓迎してくれたし。ほら、松原先輩目当てで入部されると困るから。姫野はファンクラブ会員だけど、そっちの方が都合が良いって。」
由佳先輩とは、最近、松原先輩の彼女になった人だ。
ファンクラブの皆は春休みの間、とても騒々しくて、偵察を頼まれている私にはマネージャーの位置は好都合なのかもしれない。
「じゃ、雅司。にぃちゃん行ってくるからな。」
とても、とても愛しそうに。
迎えに来てくれた保育士の人に雅司君を預けて、須賀君が私を見下ろした。
「これが条件のサン。分かった?」
「ちょ、ちょっと須賀君!分からないよ!」
「昨日話したら、さすがの姫野も眠れなくなると思ってさ。優しい俺の思いやりだよ。感謝しろ。」
足早に駅に向かう須賀君を追いかけた。
◇◇◇
入学式を終えた私は、金属のドアの前で深呼吸をした。
「姫野。開けるぞ。」
須賀君の顔は緊張していて、彼も深呼吸を繰り返す。
「既に話しているんだよね?どうして、そんなに緊張してるの?」
「そうだけど。」
「須賀君、意外と頼れない。」
今朝、マネージャーの話を聞いた時は驚いたけれど、暫く時間がたつと私の気持ちは随分と落ち着いていた。
高校では何かクラブをしたかったし、それが何かは決めていなかったけど、サッカー部のマネージャーというのも悪くはないと思った。
「じゃ、私が開けるね。」
金属のドアノブを掴もうとした時。
「康太?」
その声は、まるで桜の花びらのように、私の周りに落ちてきて。
振り向いた私に、今度は須賀君の声が届く。
「弘、先輩。」
名前を呼んだ須賀君の表情から緊張が消える。
「康太。入学おめでとう。」
「ありがとうございます。」
須賀君が、とても嬉しそうに微笑んだ。
弘先輩の視線が私へと動いて、固まってしまった。
時間が戻る。
悲しくて寂しくて、暗闇の中に1人でいた、あの日に。
「康太。」
その声は、とても久しぶりで、でも私の記憶にしっかりと残っている声。
「松原先輩…。」
呟いたのは、私だった。
「マネージャーしてくれる子?康太の彼女、だっけ?」
「「彼女じゃありません!」」
揃った私達の声に、松原先輩は少し驚いて、そして笑う。
同じような事が、前にもあったのを思い出す。
「あ…そう。まぁ、そんな事、どうでも良いけど。」
「良くないよ。松原先輩。」
須賀君が松原先輩を見て、そして2人の視線の高さが同じ事に驚いたのは、私だけではなかった。
「康太。随分と伸びたんだな?」
「はい。姫野は横に伸びましたけど。」
「須賀君!」
「先輩。勘違いされると困る。姫野の恋の明るい未来が閉ざされる。あまり恨まれたくないから。」
閉ざしているのは須賀君だよ?
弘先輩の前で太ったとか言わないで欲しい。
「姫野さん。」
背の高い須賀君と松原先輩を見上げる事に疲れた私の前に、弘先輩が体を屈めてくれた。
「姫野さん、ちょっと…動かないで。」
弘先輩の指が私の髪に触れる。
そして、指で摘んだ桜の花びらを私の手のひらの上に置いた。
「小野寺弘です。よろしく。」
「…よろしく…おねがいします。」
花びらが、私の手のひらから空へと舞った。
止っていた時が、動き出す。
~指先の記憶‐50:第一章 完~