「俺は先に行きますから。」
須賀君は階段を軽快な足取りで降りて行く。
行き先は同じだから、一緒に登校すれば良いのに。
入学した直後は、駅から学校までは別々に歩いていたけれど、いつの間にか私と須賀君の“関係”は周囲に知られるようになっていた。
おそらく、テストの結果が散々だった私が逃げて須賀君に追いかけられたあの日に、もう何も隠せなくなったのだと思う。
「康太は姫野さんの保護者みたいだね。」
弘先輩を見ると、その手には蒸しパン1つ。
「そう、ですね。」
保護者。
その言葉が一番適しているかもしれない。
「持とうか?お弁当。」
弘先輩は、パクパクと蒸しパンを口へと放り込む。
最後の1つも彼の口の中に入ってしまって、ちょっと残念な気持ち。
お弁当に蒸しパンは入っていないだろうし、それにしても…このお弁当、重い。
私は、遠慮せずに弘先輩に渡した。
「朝から待っていてくれたんですか?」
「帰りは一緒に帰れないから。」
弘先輩に言い切られて…少し罪悪感。
「目黒さんから電話があって、怖かったなぁ。怒られちゃったよ。どうして哲也さんを追い出さなかったのか、って文句言われた。」
そう言いながらも、弘先輩からは危機感とか緊迫感とか嫌悪感とか、そんなものは感じない。
「僕のほうが姫野さんと会う機会が多いから優位だと思っていたのに。」
昨日、祥子さんが凄い勢いで我が家のドアを叩いた。
階段だと絵里姉さんが来れないとか、道路へ通じる裏庭を手入れしなくちゃとか、色々話して、そして祥子さんから“報告”を受けた。
私は学校と部活を終えると、絵里さんの家に行く。
そこでは絵里さんから勉強を教わるだけでなく、今まで通り祥子さんの“特訓”もある。
そして、その“特訓”の“先生”は哲也さんらしい。
さすがに、哲也さんの“特訓”は毎日ではないみたいだけれど、絵里さんの家から私を自宅に送り届けてくれるのは、哲也さんで決定、みたいだった。
私の意見を聞いてくれるとか、そんな感じではなく、まさに“報告”だった。
その報告をしながら、とても不機嫌だったから、あの勢いのまま弘先輩に電話をしたのかと思うと、かなり怖かったと思う。
部活の後に絵里さんの家に行くのは疲れるけれど、美味しい夕食があると思うと、それはそれで嬉しい。
須賀君の料理はお弁当で食べられるし、気持ちも満たされる。
でも、弘先輩と一緒に食べないと、お弁当を作ってくれない気もして、なんだか…何が優先順位なのか私自身も自分の気持ちが分からない。
私は、とんでもない状況に自分を置いているのかもしれない。
「…あ、困ったな。康太。」
須賀君の背中は既に遠くなっている。
「康太!」
弘先輩の声に振り向いた須賀君が私達を見上げた。
「姫野さん。僕はそんなに余裕があるように見える?」
「えー…と見えますよ。今でも冗談で告白されたんだと思っています。」
弘先輩が首を傾げた。
階段を駆け上がってきた須賀君が、嫌そうに私達を見る。
そういう視線は、先輩に対して向けてはいけないと思うけれど。
「何…ですか?」
「一緒に行こうよ。行き先は同じなんだから。だから康太がお弁当持って。」
「えぇ?」
「そうじゃないと、姫野さんと手をつなげないから。」
「…はいはい。分かりました。」
奪うようにしてお弁当を取って再び階段を下りていく須賀君の背中。
「冗談だと取られていたら凄く残念。僕だって、ちょっとは焦ってるよ。」
そう言われても、なんだかピンとこない。
「でも僕は」
不思議だった。
そんな風に見えないのに、弘先輩の指先が少し震えていて。
握り返したら、ホッとした表情になる。
「康太が応援してくれるみたいだから…心強いかな。」
期限は4月。
桜が舞う季節がやってくる。
その時、私は誰と桜の花を見上げているのだろう?
花びらが冷たい雨に落とされる前に、この手のひらで受け止められますように。
目の前の階段は、優しい太陽の光に照らされていた。
◇指先の記憶 第二章・完◇
「姫野さんは状況を分かっていないのよ。考えて良いって言ったけれど、そんなに甘くないはずよ。」
瑠璃先輩が言う。
「哲也さん自身に非がある訳じゃないけれど、新堂さんの従弟よ?新堂晴己が新堂に逆らえないように、哲也さんだって新堂に逆らえない。笹本絵里さんと親しいのよね?彼女は倉田直樹さんという婚約者がいて、幸せそうなの?」
絵里さんの婚約者という存在が、私の淡い夢を砕いたのは事実だ。
「あの人の言っている婚約なんて、想像しているような甘いものじゃない。」
瑠璃先輩が強い口調で吐き捨てるように言う。
「たまたま杏依は新堂晴己を好きになった。それはそれで良かったかもしれない。でも、杏依は向き合わなくても良い現実と向き合っているのよ。別に目をそむけて自分の幸せだけ考えて生きていっても良かったのに。」
瑠璃先輩が深呼吸をした。
「どうして拒まなかったの?拒否できないと言われたからって。」
「あの…そんなにヤバイんでしょうか?新堂って。」
「ヤバイって言うか、そりゃ…色んな権力を持ってるわよ。あの人達に近付きたいと思っている女性はたくさんいるんじゃないの?でも、関わりたくない人も多いと思うわ。」
「…そうですか。」
SINDO…か。
もちろん、その名前は知っているけれど私には遠い存在だし、関わることなど考えたこともない。
でも、突如関わることになってしまって、だからといって何をどうしてよいのか分からない。
「えーっと…私、帰ります。大阪から送った荷物が届くことになっているので。」
訳の分からない人達よりも、今の私には響子さんが渡してくれたハーブティを荷物から出すことの方が重要だ。
「姫野。どうして自分の状況に危機感を持たないんだ?」
「え?危機感?」
「姫野は弘先輩から告白されたんだろ?」
須賀君の問いに頷く。
「で、初対面の哲也さんに婚約者になれ、そう言われたんだぞ?自分の事なんだから、ちゃんと理解しろよ。荷物とか、そんな場合じゃないだろ?」
「えー…だって。4月までって言ってたし。でも荷物は今日届くし。」
「4月までという期限を出したのは哲也さんで、弘先輩に“期限”は関係ないぞ?」
あぁ、そっか…。
「拒めないって哲也さんは言ったけれど、そんなこと姫野には当てはまらない。姫野は弘先輩と付き合って、普通に高校生活を送れば良いんだよ。今ここで弘先輩に返事をすれば、それで全部解決する。」
須賀君が私の両肩を掴んで、そして少しずつ力が入る。
「いいよ康太。僕も4月まで待つから。」
「弘先輩?」
驚いた須賀君が振り向いた拍子に、肩が開放される。
「どうしてそんな悠長な事を言うんですか?強引さとか…弘先輩に期待しても無理か…。」
須賀君が呟いて、そして溜息を出す。
肩を掌で撫でながら、憂鬱そうな表情の須賀君を見ていた。
◇◇◇
学校が始まるのは楽しみだけど、少し残念な気持ち。
楽しかった夏休みは、もう戻らない。
「おはよう。」
門扉の向こう側から声がして、視線を下げると弘先輩が私を見上げていた。
「…おはようございます。」
立ち上がった弘先輩が、欠伸をひとつした。
「おはよう。姫野。」
隣の家から出てきた須賀君が、弘先輩の隣に立つと外から門扉を開ける。
「ほら。弁当。」
お弁当を受け取るが、それは今までよりも大きくて重い。
「弘先輩。4月までとは言わずに早く決めてくださいね。」
「僕1人で決められることじゃないから。」
「そんな事を考えていられるのは今だけです。夏休みの間ならともかく、今日から学校が始まれば、確実に姫野の周囲は変わる。ライバルは哲也さんだけにしてください。姫野、2人分だから弘先輩と仲良く食べろ。」
「…あ、りがとう。」
須賀君は全面的に弘先輩に協力的。
「俺は先に行きますから、姫野のこと宜しくお願いします。姫野を待っていたから、おなかもすいてるでしょ?蒸しパンです。りんご入りです。」
透明な袋の中には、一口サイズの蒸しパンが3つ。
朝から蒸しパンを作った須賀君を横目で見ながら、私は弘先輩の手の中を見る。
3つのうちの1つをくださいと言うのは、私が言える立場ではなさそうだ。
哲也さんが知っているのは、私の家族のこと。
彼は祖母を知っている。
姫野家のことを知っている。
「婚約者になれば教えてくれるんですか?」
「そのうちに。それに、そうなれば自然と現実を知る事になる。」
知りたい事実を教えてくれる人は、もうこの世にはいない。
「姫野?どうして…拒否しないんだ?」
私のことを知っている人を、このまま帰すのは、とても惜しい。
「哲也さん。」
その声に私は部室内の人達の存在を思い出して、振り向いた。
「すみませんけれど、僕は姫野さんと付き合おうと思って、その話をしていたところですから、先に僕が返事を貰っても良いですか?」
全く空気を読まない声が響く。
「ちょ、ちょっと弘君。こんな時に」
「だって、このままだと姫野さん哲也さんと婚約しちゃうよ?」
由佳先輩の焦る声に反して、弘先輩は相変わらずのんびりとしている。
“婚約”という単語は、私には遠い世界の言葉。
「そういうことなら返事をすれば?好美。」
哲也さんの促しに、私は首を傾げた。
そんな私の肩を須賀君が両手で掴む。
「姫野?何を悩んでいるんだ?」
須賀君が問うのは、分かる。
私は中学の時から弘先輩に憧れていて。
松原英樹ファンクラブに所属していても、そこからの情報で弘先輩のことを知れるのがうれしかった。
高校に入学して、サッカー部のマネージャーになって、弘先輩との距離が凄く近くなった。
私の気持ちが大きくなったのか、また小さくなったのか、それは自分でも分からない。
だけど。
弘先輩の存在は私には特別だった。
舞い落ちる桜を思い出して、決して忘れてはいけない日の事を、私に思い出させる存在だった。
それは辛いだけではなく、悲しいだけではなく。
忘れてはいけない日に存在した、別の空間で生きる人。
世界中の全てが真っ暗だと思っていた私に、幸せに過ごす人もいるのだと、悲しいけれど現実を教えた存在。
他には何も見えなかったのに。
それなのに、弘先輩の周囲だけが異空間だった。
「決められないのなら、ゆっくりと考えればいい。」
膝を受け止めた左手が、私の頭上に置かれる。
それは、さっき松原先輩がしてくれたのとは、何かが違った。
祖母を知る人。
私のことを、私の家族を知っている人。
私の知らないことを、哲也さんは知っている。
「期限は来年の4月。」
「4月?」
「3月に好美は16歳になる。誕生日当日まで、というのは酷だと思うから4月。それまでに、どちらにするのか考えればいい。」
冷たい声。
抑揚のない、感情のない声。
でも、私は。
私から離れていく哲也さんの手を見ながら、遠い過去を探す。
何人の人が、幼い私の頭を撫でてくれたのだろう。
誰が、私を抱きしめてくれたのだろう。
「どうしてですか?私には拒む権利はないんでしょう?」
「ないよ。でも強制されるよりも自分の意思で俺を選んだほうが納得できるだろう?」
「凄い自信ですね。」
思わず、笑ってしまった。
とても傲慢な人だ。
「康太。期限は4月だ。」
哲也さんは冷たい声を残して、大輔さんと部室を出て行った。
しばらく沈黙が続き、その沈黙を瑠璃先輩が破る。
「ちょっと、どういうこと?これじゃ、まるであの時の杏依と同じだわ。小野寺君!どうして付き合っていることにしなかったの?あの時の松原君みたいに嘘を並べれば良かったのよ。彼氏がいることにすれば、いくらなんでも」
「それは無理だと思うよ。」
相変わらず弘先輩は、口調が変わらない。
「だって、香坂さんは、あっさりと新堂さんを選んだ訳だし。僕が姫野さんと付き合っていたとしても、姫野さんが哲也さんを選ぶかもしれないよ。」
「…最初から相手に譲ってどうするのよ。」
由佳先輩の声が呆れている。
「弘先輩、どうして焦らないんですか?姫野は哲也さんの申し出を断らなかったんですよ?」
「焦ってるよ。英樹の二の舞になるのかなぁって。」
「…おい、弘。今更、俺を傷つけるな。」
松原先輩の言葉に思わず笑ってしまった私に、部室内の人達の視線が向けられた。
闘志を阻害されて、私は哲也さんを見上げた。
「康太の言うとおりだ。好奇心で妙なことを覚えようとするな。頭で考える前に逃げろ。」
「だって」
この状況で逃げる必要はないと思う。
本気で大輔さんに危害を加えられる訳はないし、他にも人がいる訳だし。
「言い訳をするな。勝手なことをすると祥子さんに迷惑がかかると思わないのか?」
祥子さんの名前を出されて、私は視線を伏せた。
「えぇ?祥子ちゃん?好美って祥子ちゃんに護身術習ってるんだ?」
この人に、“好美”と呼ばれる覚えはない。
「姫野。そんな事、俺に言わなかっただろ?」
須賀君の声が焦っていた。
「色々と出来るようになってから、いきなり須賀君に攻撃とかしたら、驚くかなぁっと思って。」
「そんな低年齢な考え方をするな。それに、攻撃が目的じゃないはずだ。」
大きさを抑えた声だけれど、須賀君の声は怒っていて、嫌悪感に満ち溢れていた。
哲也さんに阻止されなければ失敗せず、須賀君は褒めてくれたかもしれないのに。
「祥子って、目黒祥子?」
瑠璃先輩が問う。
「あーぁ。絵里も何を考えているんだか…好美を祥子ちゃんに会わせて、こんなことまで教えて?」
大輔さんの言葉に、私は眉をひそめた。
「嫌がっているぞ。大輔。」
哲也さんが、少しだけ笑う。
それは決して素敵な笑顔ではない。
楽しそうとか、幸せそうとか、そんな感じではない。
例えるなら、私の家庭教師を願い出た絵里さんが面白そう、と言った時と似ていた。
「決まりだな。大輔は他を探せ。」
「えー…意外。」
大輔さんが体を屈めて私の顔を見る。
「タイプなんだけどなぁ、姫野家の顔はツボなんだよ、俺には。でも、哲也が決めたのなら仕方がないし。二年待って幸い、だな。良かったじゃん好美。哲也に選んでもらえて。俺にも哲也にも選んでもらえなかったら、新堂が選ぶ男にしなくちゃいけないし、新堂と遠い位置にいる奴だと面倒だしさ。」
大輔さんの言葉を私は理解しようとした。
でも、この人が何を言っているのか、全く分からない。
「あー、そっか。知らないんだっけ?ほら、さっき言っただろ?ここにいる人達なら話が早いって。新堂晴己の婚約者候補だった女性達がどうなるか。」
「従弟である、あなた達が婚約者候補の中から自分達の婚約者を選ぶ、ですよね。」
答えたのは瑠璃先輩。
「大正解。」
「だから、それは…倉田直樹さんが笹本絵里さんを選んで」
「で、言ったように、俺達はまだ選んでいない。」
大輔さんの言葉を聞いた瑠璃先輩が、視線を私へと向ける。
「好美本人が認識していないとしても、彼女が晴己の婚約者候補だった事は周知の事実。昔から、笹本家・桐島家・姫野家の女性は必ず新堂の跡継ぎの婚約者候補として育てられる。」
桐島?
明良君の姓だ。
「晴己が婚約者を決めても俺達は動けなかった。相手は身内を亡くしたばかりの中学生。こっちに引き取る話も出ていたけれど、それは色々と面倒なことがたくさんあって。」
どうして私が、この人達に引き取られなきゃいけないの?
「時間が過ぎるのを待っていたら…いつの間にか絵里が好美に近付いていた。それで、このまま放っておくわけにはいかない、となった訳。分かった?」
「分かりません。」
私は、自分でも驚くくらい、はっきりとした声を出した。
「だろうな。大輔は事実の半分も話していない。」
見ると哲也さんが、また小さく笑う。
「他の余計なことなんて知らなくていい。俺が姫野好美を婚約者として選んだ。それが事実だ。」
感情のない哲也さんの声は、私の心に何も響かない。
「だから?」
息を吐き出して私は哲也さんを見上げた。
「あなたが私を選んだ、だから何だって言うんです?それに従わなきゃいけないんですか?」
哲也さんが少し首を傾げた。
「拒否する権利は君にはない。」
「どうしてですか?」
「どうして、だろうね。でも、事実を知れば納得すると思うよ。」
「でも、その事実は私には話せない。そういうことですよね?」
哲也さんが私から一瞬だけ目を逸らして、そしてまた私を見る。
「話せないよ。今は。でも」
哲也さんの表情に、小さな感情が見えた気がした。
「君には家族のことを知る“権利”がある。」
その言葉は、まるで命令を下すかのように、私の心に響いた。
倉田直樹さんは、私の名前を知っていた。
そして桐島明良君が雅司君の名前を知っていたことも思い出す。
目の前の人が、どうして私の名前を知っているのか問うべきなのかもしれない。
「やめてください。」
須賀君の声が震えている。
「それなら、康太に俺達の事を紹介してもらおうかな?」
私は目の前の人を見上げた。
自己紹介くらい構わないのに。
というか、ちゃんと自己紹介して欲しい。
「康太。知り合いなのか?」
松原先輩の声に、私は振り向いた。
松原先輩と弘先輩、そして由佳先輩は心配そうな視線を向けていた。
だけど、須賀君は何も答えず、俯いてしまった。
「康太は、うちのテニスクラブ出身。」
明るい声の人が、須賀君を指差した。
「須賀君を勧誘に?」
「違うよ。康太を勧誘しても無理だって事は分かっているから。」
瑠璃先輩の問いは、あっさりと否定される。
須賀君がテニスをしていたなんて初耳で、また私の知らない彼の過去が出てくる。
「俺達の今回の目的は、彼女。」
今度は私に指が向けられる。
「私?テニスの経験はありません。」
体育の授業で、ちょっと経験しただけだ。
「テニスじゃないよ。」
状況の分からない私に反して、その人は爽やかな笑顔を向ける。
それが強張った表情をしている須賀君と違い過ぎて、私は少し苛々とした気持ちになった。
「ここにいる人なら察しがつくと思うんだけどなぁ?杏依さんと付き合っていると偽った松原英樹君と、そのお友達なら。だよね?」
明るい声とは対照的な、冷たい緊張感が部室内に漂った気がした。
「あの時、説明したよね。新堂晴己の婚約者候補達がどうなるのか。」
「直樹さんが笹本絵里さんを選びましたよね?」
「瑠璃さん。“候補者達”だよ。絵里だけじゃない。」
「ですから、その候補者達の中から、哲也さんと大輔さんも選んだんでしょう?」
「俺達は、まだなんだよねぇ。」
「まだ?」
驚いた声を向けたのは、須賀君だった。
「だってさぁ、誰でも良いって訳じゃないしさ。俺にも選ぶ権利はあるし。」
「…大輔さんは1人に決められないだけでしょう?」
「なんだよ。康太。酷いこと言うなよ。」
須賀君の態度が変わって、なんとなく和気藹々、みたいな感じで会話をしている須賀君と“大輔さん”と呼ばれた人。
そんな2人を見ていた私は視線を感じた。
表情のない人だと思った。
冷たい視線と、緩むことのない表情。
瑠璃先輩は彼のことを“哲也さん”と呼んでいた。
「想像以上。」
冷たい声が頭上から降ってくる。
「“姫野家”の血が、ここまで濃く表に出るとは。亡くなった“おばあさま”に似ていると君自身も思うだろう?」
祖母の事を知っている?
「ホント、そっくりだよなぁ。これは今後が怖そう。」
大輔さんが私へと手を伸ばすのを、須賀君も瑠璃先輩も防げなかった。
「でもさ、ここまで似ていると誰も疑問に思わないよな。明らかに姫野の血が流れている。だよね、哲也。」
大輔さんの手が私の手首を掴もうとする。
「…え、おいっ!」
この人に手加減なんてしなくて大丈夫。
私よりも体が大きい、大人の男性。
私が精一杯の力を込めても、絶対に勝てない。
「姫野?」
「姫野さん?」
須賀君と瑠璃先輩の驚いた声。
「ちょ、ちょっとストップ!分かった分かったから。」
大輔さんの声を聞きながら考える。
手首を回したら、次はどうするんだっけ?
まぁ、いいかな。
深く考えなくても。
この状況で“失礼な態度”なのは、哲也さんと大輔さんだ。
私は遠慮なく、大輔さんの腹部めがけて足を上げた。
「え?」
でも、上げたはずの足は空中で止まる。
「康太。何を教えているんだ?」
哲也さんが私の膝を掌で受け止めていた。
大輔さんの手首が私の手から離れて、私は仕方なく足を床に下ろす。
「俺じゃない。俺じゃないです!」
須賀君が首を横に振っていた。
「姫野。どこで覚えたんだよ、そんな事。見よう見まねでしたら姫野が怪我するぞ。」
せっかく実践のチャンスだったのに。
なんだか、損した気分。
自分の事を好きになればいいのに。
響子さんに最初に言われた時は、意味が分からなかった。
でも、きちんと私自身が自らを見ないと、須賀君が言ったように“自分で自分を護る”事はできないのかもしれない。
「帰ろうか。姫野。」
松原先輩の手が私の頭上から離れるのを残念に思いながら足を進めた時。
「英樹。」
弘先輩が、私と松原先輩の前に立った。
「英樹。僕」
弘先輩が私の手からカバンを奪う。
「姫野さんと付き合う。」
「…弘?」
「弘君?」
松原先輩と由佳先輩の声を聞きながら、私は弘先輩が持つ自分のカバンを見た。
「弘君。そんなこと英樹に宣言してどうするの?姫野さん本人に聞かなきゃダメでしょ?」
「姫野さん、どうする?僕と付き合う?」
「………え?」
視線をあげて弘先輩を見て、そして松原先輩と由佳先輩を見た。
「弘。もうちょっと緊張感を持ったほうが良いと思うぞ?」
「そうかなぁ?」
「弘君。姫野さん驚いているわよ。ちょっと突然過ぎだと思うわ。」
なに、これ。
私を置いて、3人は会話を繰り広げていく。
緊張感がない、確かにそんな感じだ。
「…帰るか、由佳。俺達がいても仕方がない。」
そう言った松原先輩の腕を、私は思いっきり掴んだ。
「…姫野。意外と力が強いんだな。」
慌てて手の力を緩めたけれど、放す訳にはいかない。
再び力を込めようとした時、ドアが外から開けられた。
「弘先輩戻っていたんですか?」
不機嫌な須賀君の声。
「…何してるんですか?」
部室内を見渡して、須賀君が怪訝そうな表情をした。
私は咄嗟に松原先輩の腕を放して、弘先輩から強引にカバンを奪うと、須賀君のもとへと走った。
「姫野?」
不思議そうな須賀君の声に答えずに、彼の背中に隠れる。
「あー…そっか。姫野って康太の彼女だっけ。」
「「違います。」」
2人揃って否定する。
松原先輩に否定するのは、これで何度目だろう。
「本当に違うんだ?」
「違います。それが何か?」
須賀君の声は相変わらず不機嫌だ。
今朝は、そんな事なかったのに。
「弘が、姫野さんと付き合うって言うから。」
「…え?」
須賀君が振り向いて、背後の私を見た。
その視線を受けて、私は首を何度も振る。
「弘君がね、いきなり言い出したのよ。一方的に。だから今、姫野さんの意見を聞かなきゃダメよ、って言っていたの。」
「だったら姫野、答えればいいだろ?」
また振り向いた須賀君に言われて、私は彼を見上げ、そして目を伏せた。
状況が分からず、何をどう答えれば良いのか分からない。
頭の中を整理しようと思っていたら、背後のドアが開けられて、驚いた私は須賀君の背中にしがみついた。
「待って下さい!どうして?何の用があるんですか?」
その声は瑠璃先輩。
「視察だよ。ちゃんと許可も貰っている。うちのテニスクラブに勧誘しようと思って。」
「ここはテニス部じゃありません。」
須賀君の左腕が私の体を引き寄せる。
「テニス部は終わったよ。何人か興味を示してくれて、今度練習試合するんだ。そうだ、瑠璃さんも観に来れば?」
瑠璃先輩と男性の声。
「それなら、もう用事は済んでいるんですよね?」
声を荒げている瑠璃先輩を不思議に思いながらも、私は須賀君の腕に、しっかりと包まれていた。
「懐かしい面々だねぇ。これなら早く済みそうだ。」
弾むような明るい声。
「康太。」
相手の声は明るいのに、須賀君の腕は震えている。
「直樹に会ったんだって?」
知っている人の名前が出て、私は須賀君の腕の中で少し体を動かした。
「絵里に先手を打たれて、こっちは正直焦ってるんだよね。」
力を込めて須賀君の腕から抜け出た私は、男性が2人だということに、初めて気付く。
「知っている人なの?」
見上げた先の須賀君の視線は、私を見てくれない。
「ねぇ、須賀君。」
「“須賀君”か…。」
冷たい声が私の耳に届く。
その人は、今まで一度も声を出さなかった人。
「自己紹介したほうが良さそうだね。姫野好美さん。」
一歩私へと近付いた人を見上げて、どうして私の名前を知っているのか不思議だった。
「松原先輩?」
この人を見上げるのは首が痛い。
そう思っていたら、先輩が少し体をかがめてくれた。
というか、私に顔を近づけてくるから、松原先輩のまつ毛の一本一本が綺麗に見える。
そんな距離に近づいてきた“学校のアイドル”の顔を見ながら、私は首を傾げた。
「姫野さぁ…。」
「はい?」
間近で見ると、やっぱりカッコイイ。
こんな機会は滅多にないと思うから、しっかりと見ておこう。
「髪型変えた?」
「はい。」
当然の事を聞かれて、私は即答した。
少し髪を切ったとか、そんな程度ではなく、私の髪型は明らかに変わっていた。
須賀君達がカレンさんの家を出た後、私は響子さんに、彼女の実家が経営する美容院へと連れて行かれた。
少し癖のある髪を自分でまとめることが私は苦手で、そして思うように整わない。
肩よりも少し長めの髪を束ねるだけだった。
だから特にこだわりなどなく、響子さんに髪を切りたいと言われても、練習になるのなら、どうぞ、そんな軽い気持ちだった。
それなのに。
響子さんがカットした私の髪は、ゆるやかな軽い癖を残して、私の輪郭を囲んでいた。
鏡の中の自分を見た瞬間、記憶が弾けた。
古い昔の写真。
幼い頃に綺麗だと思った、祖母の若い頃の写真。
あの頃の祖母の年齢に私は近づいていた。
「痩せた?」
「そうですねぇ…たぶん痩せたと思います。でも体重は変わってませんよ。」
響子さんは、次から次へと私に“友人”を紹介した。
「日焼けとかしないのか?」
松原先輩の指が一本、私の頬に軽く触れた。
「日焼けしないように注意してます。私、日焼けすると肌がボロボロになっちゃうので。」
それだけは小さい時から祖母に言われていた。
でも、祖母が亡くなった後は、日焼けする夏だけを気にしていて、響子さんが言うには、私の肌は凄く硬くなっていた、らしい。
一週間で自分でも分かるくらい随分と肌の調子が良くなったから、このまま手を抜きたい気もする。
でも、響子さんが今度遊びに行くね、と言っていたから、手を抜いていたのを知られると注意されるから気を抜けない。
「姫野。」
ようやく、松原先輩の顔が私の目の前から離れていく。
「はい?」
「姫野って」
松原先輩が少し眉間に皺を寄せた。
「誰かに…似てるよな?」
似ていると言われるのは、今回が初めてでは、ない。
「英樹。また言ってるの?」
由佳先輩を見ると、彼女は小さな溜息を出していた。
「前から言うのよね。“誰か”に似ていても変じゃないわよね。雰囲気の似ている人に会ったことがあるだけかもしれないし。」
「そうだけど…これだけ綺麗な顔だったら覚えてるぞ?」
松原先輩が、また私の顔を覗き込んだ。
「その髪型やめて、もっとボッサボサにしたほうがいいぞ。」
「…嫌です。気に入ってるのに。」
松原先輩の無茶な提案に、私は反論した。
「夏休みが終わって授業が始まって、生徒が増えたら厄介じゃないか?」
「だったら松原先輩も髪型ボッサボサにしたらどうですか?服装も乱れて、姿勢も悪くて、いっつも不機嫌そうな顔をしていたら、ファンクラブなんて、すぐに解散ですよ。」
「そうだよね。」
由佳先輩が笑う。
「俺は男だからいいんだよ。姫野はいいのか?呼び出されたり、後を付けられたりするぞ?」
「ありませんってば。そんなこと。」
「あるって、これから。分かってるのか?姫野。」
松原先輩の両手が私の頬を包んだ。
「この髪型が、すっごく姫野に似合っていて、若干太り気味だった体が健康的に痩せて、荒れてた肌が元々の色白に戻って」
「褒めてるんですか?それとも嫌味ですか?」
松原先輩の両手が私の頬から離れ、そして彼の右手が私の頭上に置かれた。
「夏休み楽しかったみたいだな。」
視線をあげて、松原先輩を見た。
「姫野の明るい表情って、俺は初めて見たかも。」
大阪では、起きてから眠る時まで、常に誰かが隣にいてくれた。
馴染めるとか考える間もなく、私は彼らの輪の中にいた。
髪も指も爪先も服も、そして私の心まで。
響子さんと、その“友人達”は、私に色んな事を教えてくれた。
笑っても良いのだと、そう思わせてくれた。
そして、彼らが須賀君の事を良く知っていて、だから私は凄く心を許すことができた。
階段を見て思わず溜息が出そうになるのを、慌てて抑えた。
「言っただろ?階段。」
駅の階段の事ばかり考えていて、家まで続く長い階段の事を、すっかり忘れていた。
そんなに長期間、家を留守にしていた訳ではないのに。
この階段を使わないと自宅には帰れないのに。
「道路からって、無理だったっけ?」
「姫野の家だろ、俺に聞くな。」
確かに、須賀君が住み始めたのは最近で、私は小さい時から住んでいるのだから私の方が詳しいはず。
思わず問いかけてしまったけれど、他に道があったはずだと記憶している。
祖父は車で来ていたはずだ。
「公園。」
弘先輩が言っていた。
昔、この上の公園で遊んだ事があると。
「公園?」
「弘先輩が遊んだことがあるって。」
「弘先輩が?」
今は木々が生い茂っている森のようになっている家の裏手。
あそこは公園だったはずだ。
そして、そこを通り抜ければ車が走れる広さの道路に繋がっていた。
「弘先輩の記憶って信用できるのか?それより早く帰るぞ。疲れない靴じゃなかったのか?」
「そうだけど。」
そうだけど、スカートを気にしながら歩くのは、なんだか体が緊張して、必要以上に疲れてしまう。
でも、とにかく家に早く帰りたい。
「おい。姫野!」
「好美ちゃん!」
カレンさんと須賀君の声を背後に聞きながら。
「怪我するぞ!」
絵里さんに見られると、きっと怒られる。
響子さんは、この一週間は何だったの?と言いそうだ。
祥子さんは…笑うかもしれない。
そんな事を考えながら、私は靴を両手に持って階段を駆け上った。
◇◇◇
「小野寺君。どこか行ってたの?」
「図書館。」
「2週間、ずっと?」
瑠璃先輩が怪訝そうに弘先輩に問う。
「あの…すみません。私も2週間もお休みしてしまって。」
「姫野さんはいいのよ。」
私がカレンさんに会いに行くのは特別なことだと、瑠璃先輩と由佳先輩は快く私が部活を休むことを納得してくれた。
「今日は久しぶりだし無理しなくていいからね。暑いから疲れたら休むのよ。」
瑠璃先輩の優しい忠告を受けて、私は弘先輩の隣を通り抜けてグラウンドへと向かった。
◇◇◇
弘先輩は部活に顔を出しただけで、グラウンドの端に座って練習を見ていただけだった。
部活が終わって気付けば、弘先輩の姿はなかったが、荷物は残されている。
「弘先輩、どこに行ったんでしょうね?」
部員達は帰り、由佳先輩と私だけが残っていた。
「そのうち戻ってくるわ。英樹も探しに行かなくて良いのに。久しぶりだから疲れて何処かで寝てるのよ。寝てるだけなら良いけれど、自発的に動き出したら止まらない。巻き込まれると厄介だから困るのよね。」
由佳先輩は困ると言いながら、笑っていた。
由佳先輩と弘先輩は幼馴染だから、お互いに色んな事を知っている。
弘先輩の幼い時の事を知っているはずだ。
響子さんが須賀君の“過去”を知っている事に最初は心が痛んだけれど、今は、それを当然の事だと思えるようになっていた。
「姫野さんは疲れなかった?」
瑠璃先輩も、とても気にしてくれた。
でも、思ったよりも私は体調が良く、今日は瑠璃先輩には先に帰ってもらった。
響子さんから無理をしないように忠告はされているし、これからは自分の体調は自分で管理できるようにしなくちゃいけない。
「大丈夫です。」
「明日は無理しなくて良いのよ。姫野さん夏バテしやすいでしょ?」
自分でも気付いていなかったけれど、響子さんは気付いていて、そして由佳先輩も気付いていた。
その事を知って、少し恥ずかしくなる。
「姫野さん。勉強は、どう?」
「向こうで友達になった人達が教えてくれて」
由佳先輩と、こんな風に話すのは滅多になかったと気付く。
「ある程度は終わっているんですけれど、分からない箇所、由佳先輩教えてください。明日、持ってきますね。」
由佳先輩の顔が、ほころぶ。
「そうね。明日なら」
由佳先輩の声に重なって、部室のドアが開けられる。
松原先輩の後ろで、弘先輩が欠伸をしていた。
「帰ろうか。姫野さん。」
由佳先輩の言葉に私は歩き出すが、松原先輩に立ち塞がれて、不思議に思った私は顔を上げた。
「ばいばい よしみ」
「…バイバイ…」
雅司君は、満面の笑顔で私に右手を振った。
左手は、しっかりと須賀君の手を握っていて、兄と2人で過ごせることを喜んでいるような、そんな気がした。
その姿を見ると、私がカレンさんの家に残るのは正しい気がするけれど。
「じゃ。姫野。響子、姫野のことよろしく。」
須賀君の言葉は、私を響子さんに託すことを意味している。
一緒に帰ろうと言ってくれなかった事に、私は不満を感じていた。
「ご心配なく。」
須賀君の言葉を受け取った響子さんの表情を確かめるのは、怖くて出来ない。
「雅司君、また会おうね。」
「ばいばい きょうこちゃん」
“子どものように甘える雅司君”の姿に、心がチクチクする私の手をカレンさんが包む。
「好美ちゃん。お留守番、お願いね。」
昨夜、帰宅したカレンさんは、とても慌てていた。
急に京都に用事が出来たから戻らなければならない、と言うのだ。
それなら、尚更私がここに残る必要はないから、須賀君達と一緒に帰れると思ったのに、カレンさんは私に留守番を頼んだ。
「響子ちゃんも一緒だから安心ね。」
どうして、響子さんもカレンさんの家に泊まるのか、その理由を問いたい。
そして、私は拒絶したいのに。
「うん。大丈夫。カレンさん忙しいけど…無理しないでね。」
本心を言葉にすることは出来なかった。
「好美ちゃん!あなたは、どうして?こんなに優しいのかしら!」
感嘆の声をあげるカレンさん。
「私は大丈夫だから。1人でも大丈夫だから。だから…響子さんには家に帰ってもらっても。」
小さな“抵抗”をしてみる。
「ダメよダメ!女の子1人で留守番なんて。」
「だって…響子さんの家…隣なんでしょ?」
彼女の家がカレンさんの隣の部屋だと知ったのは、昨日。
「私は大丈夫よ。」
響子さんが私の顔を覗き込んで、私は彼女と目が合って…そして思わず溜息が出る。
あからさまだと自分でも思う。
きっと皆も気付いているのに。
でも、須賀君とカレンさんは私が望む言葉をくれない。
「じゃ。姫野。響子、姫野をよろしく。」
「じゃあね。好美ちゃん、響子ちゃん。お留守番お願いね。」
そんな言葉を2人は残し、雅司君は笑顔で去って行く。
「好美ちゃん。」
2人になった空間で、響子さんが私の名前を呼んだ。
「仕方ないから諦めて。」
響子さんは私の気持ちに気付いている。
「好美ちゃん。早速…お願いがあるの。」
なぜか、とても楽しそうに。
響子さんが私に笑顔を向ける。
それが絵里さんに似ていて、私はこれからの1週間を考えて、ちょっと憂鬱になった。
◇◇◇
意外にも、私は退屈ではなかった。
どちらかと言うと忙しかった。
常に誰かが隣にいる状態で、常に誰かが私の行動を知っている。
ちょっと1人になりたい、そんな事を思ったのは大阪を発つ前日で、その気持ちはすぐに寂しさに変化した。
寂しいだろうと思っていたのに、寂しさを感じなかった1週間。
その1週間が終わることに寂しさを感じた自分が不思議だった。
◇◇◇
東京駅の構内で私を待っていた須賀君は、何かを言おうとして、そして言葉を飲み込んだ。
それは京都駅で乗ってきたカレンさんが、私の隣に座る前と同じだった。
2人とも、できれば素直に率直な言葉を発して欲しい。
「荷物送るって言うから、どれだけ増えたのかと思ったら、手荷物、少なすぎ。」
「だって」
「そりゃ、持てないだろうな。その格好で。」
「だって」
「新幹線の間は座っているだけだけど、これから階段やエスカレーターや、途中で疲れたからって、そんな格好の姫野を背負うなんて無理だからな。」
そんなに嫌そうな鬱陶しそうな視線を向けなくてもいいのに。
「背負ってもらわなくて大丈夫です!ちゃんと歩きやすくて疲れない靴だから!…なに?」
須賀君が笑う。
それがとても大人っぽくて、1週間離れていただけなのに。
須賀君は普段と変わらない普段着なのに。
普段滅多に着ないヒラヒラとしたスカート姿の私は、自分がどんな風に須賀君の瞳に映っているのか、少し気になった。
キッチンでの会話が、私の耳に届く。
「康太は何も分かってない。」
「響子に言われたくない。」
「無神経というか無頓着というか。細かいくせに肝心なところ分かってない。」
ソファに座った私は、二杯目のハーブティを飲み終える。
「好美ちゃんは女の子なの。」
須賀君と響子さんの話し声は大きくて、雅司君が起きるのではないかと心配になる。
「康太みたいに頑丈じゃないねん。部屋の温度は低いし、冷たい飲み物ばっかり飲んでるし。」
「夏やから仕方ないやろ?」
2人の口調が、少し変わっていく。
「康太とカレンさんは男やから平気かもしれんけど!雅司君には温度とか食事、注意してるでしょ?」
「そりゃ、そうやけど。姫野は高校生だぞ?」
2人とも、言葉のイントネーションが混乱している感じ。
「だから!!女の子だって言ってるやないの!いつもと違う生活送って、自分の家じゃなくって、環境が変わっている状態なのに、毎日毎日、暑い公園に行って、帰ってきたら冷え冷えした部屋に体を冷やす食べ物ばっかり。おまけにファミレスでパフェ食べたぁ?アイスとか、どうして食べさせるのよ?好美ちゃん甘いもの好きじゃないやろ?」
「響子が冷たいもの食べさせるなっていうからフルーツパフェにしたんじゃねぇか。」
「それでも、あの店ではアイス入ってる!寒い店で、なんでアイス食べやなあかんねん。」
ファミレスで急激に寒さを感じたけれど、私は運ばれてきたパフェを食べた。
黙ってしまった須賀君は何も話さなくて、どうして呼び出されたのか分からないまま。
須賀君と雅司君は明日帰る事になっている。
カレンさんはお仕事があるから、須賀君と雅司君がいなくなってしまうと私は1人になってしまう。
寂しく独りでカレンさんの自宅に滞在を続ける理由はない。
もちろん、カレンさんと一緒に過したいけれど、須賀君達と一緒に帰りたいと思う気持ちのほうが強かった。
その話をしたかったけれど、須賀君が何も話さないから私も言い出せなかった。
お店から外に出た時、少しめまいを感じた。
でも、外の暑さにホッとする気持ちが大きかった。
カレンさんの家に戻ってきて響子さんが私をソファに座らせてくれた途端、体中が震えた。
「好美ちゃん、エアコン苦手でしょ?…って、まさか康太知らなかったの?」
「普通に家でもエアコン使ってるぞ?」
今はエアコンはオフになっていて、窓からの風は少し熱気がこもっている。
風鈴の音は鳴るけれど、涼しげではなくて、少し重い感じだった。
「あー…でも、あのエアコン古いか…。」
「康太、最低。」
2人の声が近づいてくる。
「好美ちゃん。スープ飲む?」
響子さんが差し出してくれたカップを受け取って須賀君を見上げると、額から汗が流れている。
とても暑そうだった。
「ありがとう。」
とろりとした、かぼちゃのスープ。
真夏に食べるのは、ちょっと違うような気がするくらい、温まりそうなスープ。
でも、今の私には、その温もりが嬉しかった。
飲み終わると響子さんがカップを受け取ってくれ、私はソファに横になった。
「姫野。大丈夫か?」
「少しは、そっとしてあげたら?」
話し声を聞きながら目を閉じると、とても穏やかな気持ちになる。
こんな気持ちを感じたのは久しぶりだ。
施設でお昼寝してしまった時、子ども達の騒がしい声を聞きながら、その騒々しさに、私は自分の心が落ち着いていくのを感じていた。
「康太。シャワー浴びてきたら?見てるだけで暑い。」
響子さんの鬱陶しそうな声に、思わず笑いそうになる。
眠ってしまいたいと思いながら、私は目を開けた。
ソファから体を起こすと、須賀君と目が合う。
なんとなく体は重いけれど、私の体の震えは治まっていた。
震えていた女性を思い出して、そして冷たい口調だった須賀君を思い出す。
「大丈夫か?姫野。」
ソファの前に体を屈めて私を見上げてくる須賀君を見て、私の心の中のざわめきが落ち着いていく。
「うん。大丈夫。」
忘れてしまえばいい。
雅司君に話すなと須賀君が言ったから。
だから、私は今日のことを忘れよう。
きっと、そうすることが、今できる最善の策。
安堵の表情をうかべる須賀君を見ながら、私は精一杯の笑顔を彼に向けた。