哲也さんが知っているのは、私の家族のこと。
彼は祖母を知っている。
姫野家のことを知っている。
「婚約者になれば教えてくれるんですか?」
「そのうちに。それに、そうなれば自然と現実を知る事になる。」
知りたい事実を教えてくれる人は、もうこの世にはいない。
「姫野?どうして…拒否しないんだ?」
私のことを知っている人を、このまま帰すのは、とても惜しい。
「哲也さん。」
その声に私は部室内の人達の存在を思い出して、振り向いた。
「すみませんけれど、僕は姫野さんと付き合おうと思って、その話をしていたところですから、先に僕が返事を貰っても良いですか?」
全く空気を読まない声が響く。
「ちょ、ちょっと弘君。こんな時に」
「だって、このままだと姫野さん哲也さんと婚約しちゃうよ?」
由佳先輩の焦る声に反して、弘先輩は相変わらずのんびりとしている。
“婚約”という単語は、私には遠い世界の言葉。
「そういうことなら返事をすれば?好美。」
哲也さんの促しに、私は首を傾げた。
そんな私の肩を須賀君が両手で掴む。
「姫野?何を悩んでいるんだ?」
須賀君が問うのは、分かる。
私は中学の時から弘先輩に憧れていて。
松原英樹ファンクラブに所属していても、そこからの情報で弘先輩のことを知れるのがうれしかった。
高校に入学して、サッカー部のマネージャーになって、弘先輩との距離が凄く近くなった。
私の気持ちが大きくなったのか、また小さくなったのか、それは自分でも分からない。
だけど。
弘先輩の存在は私には特別だった。
舞い落ちる桜を思い出して、決して忘れてはいけない日の事を、私に思い出させる存在だった。
それは辛いだけではなく、悲しいだけではなく。
忘れてはいけない日に存在した、別の空間で生きる人。
世界中の全てが真っ暗だと思っていた私に、幸せに過ごす人もいるのだと、悲しいけれど現実を教えた存在。
他には何も見えなかったのに。
それなのに、弘先輩の周囲だけが異空間だった。
「決められないのなら、ゆっくりと考えればいい。」
膝を受け止めた左手が、私の頭上に置かれる。
それは、さっき松原先輩がしてくれたのとは、何かが違った。
祖母を知る人。
私のことを、私の家族を知っている人。
私の知らないことを、哲也さんは知っている。
「期限は来年の4月。」
「4月?」
「3月に好美は16歳になる。誕生日当日まで、というのは酷だと思うから4月。それまでに、どちらにするのか考えればいい。」
冷たい声。
抑揚のない、感情のない声。
でも、私は。
私から離れていく哲也さんの手を見ながら、遠い過去を探す。
何人の人が、幼い私の頭を撫でてくれたのだろう。
誰が、私を抱きしめてくれたのだろう。
「どうしてですか?私には拒む権利はないんでしょう?」
「ないよ。でも強制されるよりも自分の意思で俺を選んだほうが納得できるだろう?」
「凄い自信ですね。」
思わず、笑ってしまった。
とても傲慢な人だ。
「康太。期限は4月だ。」
哲也さんは冷たい声を残して、大輔さんと部室を出て行った。
しばらく沈黙が続き、その沈黙を瑠璃先輩が破る。
「ちょっと、どういうこと?これじゃ、まるであの時の杏依と同じだわ。小野寺君!どうして付き合っていることにしなかったの?あの時の松原君みたいに嘘を並べれば良かったのよ。彼氏がいることにすれば、いくらなんでも」
「それは無理だと思うよ。」
相変わらず弘先輩は、口調が変わらない。
「だって、香坂さんは、あっさりと新堂さんを選んだ訳だし。僕が姫野さんと付き合っていたとしても、姫野さんが哲也さんを選ぶかもしれないよ。」
「…最初から相手に譲ってどうするのよ。」
由佳先輩の声が呆れている。
「弘先輩、どうして焦らないんですか?姫野は哲也さんの申し出を断らなかったんですよ?」
「焦ってるよ。英樹の二の舞になるのかなぁって。」
「…おい、弘。今更、俺を傷つけるな。」
松原先輩の言葉に思わず笑ってしまった私に、部室内の人達の視線が向けられた。
闘志を阻害されて、私は哲也さんを見上げた。
「康太の言うとおりだ。好奇心で妙なことを覚えようとするな。頭で考える前に逃げろ。」
「だって」
この状況で逃げる必要はないと思う。
本気で大輔さんに危害を加えられる訳はないし、他にも人がいる訳だし。
「言い訳をするな。勝手なことをすると祥子さんに迷惑がかかると思わないのか?」
祥子さんの名前を出されて、私は視線を伏せた。
「えぇ?祥子ちゃん?好美って祥子ちゃんに護身術習ってるんだ?」
この人に、“好美”と呼ばれる覚えはない。
「姫野。そんな事、俺に言わなかっただろ?」
須賀君の声が焦っていた。
「色々と出来るようになってから、いきなり須賀君に攻撃とかしたら、驚くかなぁっと思って。」
「そんな低年齢な考え方をするな。それに、攻撃が目的じゃないはずだ。」
大きさを抑えた声だけれど、須賀君の声は怒っていて、嫌悪感に満ち溢れていた。
哲也さんに阻止されなければ失敗せず、須賀君は褒めてくれたかもしれないのに。
「祥子って、目黒祥子?」
瑠璃先輩が問う。
「あーぁ。絵里も何を考えているんだか…好美を祥子ちゃんに会わせて、こんなことまで教えて?」
大輔さんの言葉に、私は眉をひそめた。
「嫌がっているぞ。大輔。」
哲也さんが、少しだけ笑う。
それは決して素敵な笑顔ではない。
楽しそうとか、幸せそうとか、そんな感じではない。
例えるなら、私の家庭教師を願い出た絵里さんが面白そう、と言った時と似ていた。
「決まりだな。大輔は他を探せ。」
「えー…意外。」
大輔さんが体を屈めて私の顔を見る。
「タイプなんだけどなぁ、姫野家の顔はツボなんだよ、俺には。でも、哲也が決めたのなら仕方がないし。二年待って幸い、だな。良かったじゃん好美。哲也に選んでもらえて。俺にも哲也にも選んでもらえなかったら、新堂が選ぶ男にしなくちゃいけないし、新堂と遠い位置にいる奴だと面倒だしさ。」
大輔さんの言葉を私は理解しようとした。
でも、この人が何を言っているのか、全く分からない。
「あー、そっか。知らないんだっけ?ほら、さっき言っただろ?ここにいる人達なら話が早いって。新堂晴己の婚約者候補だった女性達がどうなるか。」
「従弟である、あなた達が婚約者候補の中から自分達の婚約者を選ぶ、ですよね。」
答えたのは瑠璃先輩。
「大正解。」
「だから、それは…倉田直樹さんが笹本絵里さんを選んで」
「で、言ったように、俺達はまだ選んでいない。」
大輔さんの言葉を聞いた瑠璃先輩が、視線を私へと向ける。
「好美本人が認識していないとしても、彼女が晴己の婚約者候補だった事は周知の事実。昔から、笹本家・桐島家・姫野家の女性は必ず新堂の跡継ぎの婚約者候補として育てられる。」
桐島?
明良君の姓だ。
「晴己が婚約者を決めても俺達は動けなかった。相手は身内を亡くしたばかりの中学生。こっちに引き取る話も出ていたけれど、それは色々と面倒なことがたくさんあって。」
どうして私が、この人達に引き取られなきゃいけないの?
「時間が過ぎるのを待っていたら…いつの間にか絵里が好美に近付いていた。それで、このまま放っておくわけにはいかない、となった訳。分かった?」
「分かりません。」
私は、自分でも驚くくらい、はっきりとした声を出した。
「だろうな。大輔は事実の半分も話していない。」
見ると哲也さんが、また小さく笑う。
「他の余計なことなんて知らなくていい。俺が姫野好美を婚約者として選んだ。それが事実だ。」
感情のない哲也さんの声は、私の心に何も響かない。
「だから?」
息を吐き出して私は哲也さんを見上げた。
「あなたが私を選んだ、だから何だって言うんです?それに従わなきゃいけないんですか?」
哲也さんが少し首を傾げた。
「拒否する権利は君にはない。」
「どうしてですか?」
「どうして、だろうね。でも、事実を知れば納得すると思うよ。」
「でも、その事実は私には話せない。そういうことですよね?」
哲也さんが私から一瞬だけ目を逸らして、そしてまた私を見る。
「話せないよ。今は。でも」
哲也さんの表情に、小さな感情が見えた気がした。
「君には家族のことを知る“権利”がある。」
その言葉は、まるで命令を下すかのように、私の心に響いた。
倉田直樹さんは、私の名前を知っていた。
そして桐島明良君が雅司君の名前を知っていたことも思い出す。
目の前の人が、どうして私の名前を知っているのか問うべきなのかもしれない。
「やめてください。」
須賀君の声が震えている。
「それなら、康太に俺達の事を紹介してもらおうかな?」
私は目の前の人を見上げた。
自己紹介くらい構わないのに。
というか、ちゃんと自己紹介して欲しい。
「康太。知り合いなのか?」
松原先輩の声に、私は振り向いた。
松原先輩と弘先輩、そして由佳先輩は心配そうな視線を向けていた。
だけど、須賀君は何も答えず、俯いてしまった。
「康太は、うちのテニスクラブ出身。」
明るい声の人が、須賀君を指差した。
「須賀君を勧誘に?」
「違うよ。康太を勧誘しても無理だって事は分かっているから。」
瑠璃先輩の問いは、あっさりと否定される。
須賀君がテニスをしていたなんて初耳で、また私の知らない彼の過去が出てくる。
「俺達の今回の目的は、彼女。」
今度は私に指が向けられる。
「私?テニスの経験はありません。」
体育の授業で、ちょっと経験しただけだ。
「テニスじゃないよ。」
状況の分からない私に反して、その人は爽やかな笑顔を向ける。
それが強張った表情をしている須賀君と違い過ぎて、私は少し苛々とした気持ちになった。
「ここにいる人なら察しがつくと思うんだけどなぁ?杏依さんと付き合っていると偽った松原英樹君と、そのお友達なら。だよね?」
明るい声とは対照的な、冷たい緊張感が部室内に漂った気がした。
「あの時、説明したよね。新堂晴己の婚約者候補達がどうなるのか。」
「直樹さんが笹本絵里さんを選びましたよね?」
「瑠璃さん。“候補者達”だよ。絵里だけじゃない。」
「ですから、その候補者達の中から、哲也さんと大輔さんも選んだんでしょう?」
「俺達は、まだなんだよねぇ。」
「まだ?」
驚いた声を向けたのは、須賀君だった。
「だってさぁ、誰でも良いって訳じゃないしさ。俺にも選ぶ権利はあるし。」
「…大輔さんは1人に決められないだけでしょう?」
「なんだよ。康太。酷いこと言うなよ。」
須賀君の態度が変わって、なんとなく和気藹々、みたいな感じで会話をしている須賀君と“大輔さん”と呼ばれた人。
そんな2人を見ていた私は視線を感じた。
表情のない人だと思った。
冷たい視線と、緩むことのない表情。
瑠璃先輩は彼のことを“哲也さん”と呼んでいた。
「想像以上。」
冷たい声が頭上から降ってくる。
「“姫野家”の血が、ここまで濃く表に出るとは。亡くなった“おばあさま”に似ていると君自身も思うだろう?」
祖母の事を知っている?
「ホント、そっくりだよなぁ。これは今後が怖そう。」
大輔さんが私へと手を伸ばすのを、須賀君も瑠璃先輩も防げなかった。
「でもさ、ここまで似ていると誰も疑問に思わないよな。明らかに姫野の血が流れている。だよね、哲也。」
大輔さんの手が私の手首を掴もうとする。
「…え、おいっ!」
この人に手加減なんてしなくて大丈夫。
私よりも体が大きい、大人の男性。
私が精一杯の力を込めても、絶対に勝てない。
「姫野?」
「姫野さん?」
須賀君と瑠璃先輩の驚いた声。
「ちょ、ちょっとストップ!分かった分かったから。」
大輔さんの声を聞きながら考える。
手首を回したら、次はどうするんだっけ?
まぁ、いいかな。
深く考えなくても。
この状況で“失礼な態度”なのは、哲也さんと大輔さんだ。
私は遠慮なく、大輔さんの腹部めがけて足を上げた。
「え?」
でも、上げたはずの足は空中で止まる。
「康太。何を教えているんだ?」
哲也さんが私の膝を掌で受け止めていた。
大輔さんの手首が私の手から離れて、私は仕方なく足を床に下ろす。
「俺じゃない。俺じゃないです!」
須賀君が首を横に振っていた。
「姫野。どこで覚えたんだよ、そんな事。見よう見まねでしたら姫野が怪我するぞ。」
せっかく実践のチャンスだったのに。
なんだか、損した気分。
自分の事を好きになればいいのに。
響子さんに最初に言われた時は、意味が分からなかった。
でも、きちんと私自身が自らを見ないと、須賀君が言ったように“自分で自分を護る”事はできないのかもしれない。
「帰ろうか。姫野。」
松原先輩の手が私の頭上から離れるのを残念に思いながら足を進めた時。
「英樹。」
弘先輩が、私と松原先輩の前に立った。
「英樹。僕」
弘先輩が私の手からカバンを奪う。
「姫野さんと付き合う。」
「…弘?」
「弘君?」
松原先輩と由佳先輩の声を聞きながら、私は弘先輩が持つ自分のカバンを見た。
「弘君。そんなこと英樹に宣言してどうするの?姫野さん本人に聞かなきゃダメでしょ?」
「姫野さん、どうする?僕と付き合う?」
「………え?」
視線をあげて弘先輩を見て、そして松原先輩と由佳先輩を見た。
「弘。もうちょっと緊張感を持ったほうが良いと思うぞ?」
「そうかなぁ?」
「弘君。姫野さん驚いているわよ。ちょっと突然過ぎだと思うわ。」
なに、これ。
私を置いて、3人は会話を繰り広げていく。
緊張感がない、確かにそんな感じだ。
「…帰るか、由佳。俺達がいても仕方がない。」
そう言った松原先輩の腕を、私は思いっきり掴んだ。
「…姫野。意外と力が強いんだな。」
慌てて手の力を緩めたけれど、放す訳にはいかない。
再び力を込めようとした時、ドアが外から開けられた。
「弘先輩戻っていたんですか?」
不機嫌な須賀君の声。
「…何してるんですか?」
部室内を見渡して、須賀君が怪訝そうな表情をした。
私は咄嗟に松原先輩の腕を放して、弘先輩から強引にカバンを奪うと、須賀君のもとへと走った。
「姫野?」
不思議そうな須賀君の声に答えずに、彼の背中に隠れる。
「あー…そっか。姫野って康太の彼女だっけ。」
「「違います。」」
2人揃って否定する。
松原先輩に否定するのは、これで何度目だろう。
「本当に違うんだ?」
「違います。それが何か?」
須賀君の声は相変わらず不機嫌だ。
今朝は、そんな事なかったのに。
「弘が、姫野さんと付き合うって言うから。」
「…え?」
須賀君が振り向いて、背後の私を見た。
その視線を受けて、私は首を何度も振る。
「弘君がね、いきなり言い出したのよ。一方的に。だから今、姫野さんの意見を聞かなきゃダメよ、って言っていたの。」
「だったら姫野、答えればいいだろ?」
また振り向いた須賀君に言われて、私は彼を見上げ、そして目を伏せた。
状況が分からず、何をどう答えれば良いのか分からない。
頭の中を整理しようと思っていたら、背後のドアが開けられて、驚いた私は須賀君の背中にしがみついた。
「待って下さい!どうして?何の用があるんですか?」
その声は瑠璃先輩。
「視察だよ。ちゃんと許可も貰っている。うちのテニスクラブに勧誘しようと思って。」
「ここはテニス部じゃありません。」
須賀君の左腕が私の体を引き寄せる。
「テニス部は終わったよ。何人か興味を示してくれて、今度練習試合するんだ。そうだ、瑠璃さんも観に来れば?」
瑠璃先輩と男性の声。
「それなら、もう用事は済んでいるんですよね?」
声を荒げている瑠璃先輩を不思議に思いながらも、私は須賀君の腕に、しっかりと包まれていた。
「懐かしい面々だねぇ。これなら早く済みそうだ。」
弾むような明るい声。
「康太。」
相手の声は明るいのに、須賀君の腕は震えている。
「直樹に会ったんだって?」
知っている人の名前が出て、私は須賀君の腕の中で少し体を動かした。
「絵里に先手を打たれて、こっちは正直焦ってるんだよね。」
力を込めて須賀君の腕から抜け出た私は、男性が2人だということに、初めて気付く。
「知っている人なの?」
見上げた先の須賀君の視線は、私を見てくれない。
「ねぇ、須賀君。」
「“須賀君”か…。」
冷たい声が私の耳に届く。
その人は、今まで一度も声を出さなかった人。
「自己紹介したほうが良さそうだね。姫野好美さん。」
一歩私へと近付いた人を見上げて、どうして私の名前を知っているのか不思議だった。
「松原先輩?」
この人を見上げるのは首が痛い。
そう思っていたら、先輩が少し体をかがめてくれた。
というか、私に顔を近づけてくるから、松原先輩のまつ毛の一本一本が綺麗に見える。
そんな距離に近づいてきた“学校のアイドル”の顔を見ながら、私は首を傾げた。
「姫野さぁ…。」
「はい?」
間近で見ると、やっぱりカッコイイ。
こんな機会は滅多にないと思うから、しっかりと見ておこう。
「髪型変えた?」
「はい。」
当然の事を聞かれて、私は即答した。
少し髪を切ったとか、そんな程度ではなく、私の髪型は明らかに変わっていた。
須賀君達がカレンさんの家を出た後、私は響子さんに、彼女の実家が経営する美容院へと連れて行かれた。
少し癖のある髪を自分でまとめることが私は苦手で、そして思うように整わない。
肩よりも少し長めの髪を束ねるだけだった。
だから特にこだわりなどなく、響子さんに髪を切りたいと言われても、練習になるのなら、どうぞ、そんな軽い気持ちだった。
それなのに。
響子さんがカットした私の髪は、ゆるやかな軽い癖を残して、私の輪郭を囲んでいた。
鏡の中の自分を見た瞬間、記憶が弾けた。
古い昔の写真。
幼い頃に綺麗だと思った、祖母の若い頃の写真。
あの頃の祖母の年齢に私は近づいていた。
「痩せた?」
「そうですねぇ…たぶん痩せたと思います。でも体重は変わってませんよ。」
響子さんは、次から次へと私に“友人”を紹介した。
「日焼けとかしないのか?」
松原先輩の指が一本、私の頬に軽く触れた。
「日焼けしないように注意してます。私、日焼けすると肌がボロボロになっちゃうので。」
それだけは小さい時から祖母に言われていた。
でも、祖母が亡くなった後は、日焼けする夏だけを気にしていて、響子さんが言うには、私の肌は凄く硬くなっていた、らしい。
一週間で自分でも分かるくらい随分と肌の調子が良くなったから、このまま手を抜きたい気もする。
でも、響子さんが今度遊びに行くね、と言っていたから、手を抜いていたのを知られると注意されるから気を抜けない。
「姫野。」
ようやく、松原先輩の顔が私の目の前から離れていく。
「はい?」
「姫野って」
松原先輩が少し眉間に皺を寄せた。
「誰かに…似てるよな?」
似ていると言われるのは、今回が初めてでは、ない。
「英樹。また言ってるの?」
由佳先輩を見ると、彼女は小さな溜息を出していた。
「前から言うのよね。“誰か”に似ていても変じゃないわよね。雰囲気の似ている人に会ったことがあるだけかもしれないし。」
「そうだけど…これだけ綺麗な顔だったら覚えてるぞ?」
松原先輩が、また私の顔を覗き込んだ。
「その髪型やめて、もっとボッサボサにしたほうがいいぞ。」
「…嫌です。気に入ってるのに。」
松原先輩の無茶な提案に、私は反論した。
「夏休みが終わって授業が始まって、生徒が増えたら厄介じゃないか?」
「だったら松原先輩も髪型ボッサボサにしたらどうですか?服装も乱れて、姿勢も悪くて、いっつも不機嫌そうな顔をしていたら、ファンクラブなんて、すぐに解散ですよ。」
「そうだよね。」
由佳先輩が笑う。
「俺は男だからいいんだよ。姫野はいいのか?呼び出されたり、後を付けられたりするぞ?」
「ありませんってば。そんなこと。」
「あるって、これから。分かってるのか?姫野。」
松原先輩の両手が私の頬を包んだ。
「この髪型が、すっごく姫野に似合っていて、若干太り気味だった体が健康的に痩せて、荒れてた肌が元々の色白に戻って」
「褒めてるんですか?それとも嫌味ですか?」
松原先輩の両手が私の頬から離れ、そして彼の右手が私の頭上に置かれた。
「夏休み楽しかったみたいだな。」
視線をあげて、松原先輩を見た。
「姫野の明るい表情って、俺は初めて見たかも。」
大阪では、起きてから眠る時まで、常に誰かが隣にいてくれた。
馴染めるとか考える間もなく、私は彼らの輪の中にいた。
髪も指も爪先も服も、そして私の心まで。
響子さんと、その“友人達”は、私に色んな事を教えてくれた。
笑っても良いのだと、そう思わせてくれた。
そして、彼らが須賀君の事を良く知っていて、だから私は凄く心を許すことができた。
階段を見て思わず溜息が出そうになるのを、慌てて抑えた。
「言っただろ?階段。」
駅の階段の事ばかり考えていて、家まで続く長い階段の事を、すっかり忘れていた。
そんなに長期間、家を留守にしていた訳ではないのに。
この階段を使わないと自宅には帰れないのに。
「道路からって、無理だったっけ?」
「姫野の家だろ、俺に聞くな。」
確かに、須賀君が住み始めたのは最近で、私は小さい時から住んでいるのだから私の方が詳しいはず。
思わず問いかけてしまったけれど、他に道があったはずだと記憶している。
祖父は車で来ていたはずだ。
「公園。」
弘先輩が言っていた。
昔、この上の公園で遊んだ事があると。
「公園?」
「弘先輩が遊んだことがあるって。」
「弘先輩が?」
今は木々が生い茂っている森のようになっている家の裏手。
あそこは公園だったはずだ。
そして、そこを通り抜ければ車が走れる広さの道路に繋がっていた。
「弘先輩の記憶って信用できるのか?それより早く帰るぞ。疲れない靴じゃなかったのか?」
「そうだけど。」
そうだけど、スカートを気にしながら歩くのは、なんだか体が緊張して、必要以上に疲れてしまう。
でも、とにかく家に早く帰りたい。
「おい。姫野!」
「好美ちゃん!」
カレンさんと須賀君の声を背後に聞きながら。
「怪我するぞ!」
絵里さんに見られると、きっと怒られる。
響子さんは、この一週間は何だったの?と言いそうだ。
祥子さんは…笑うかもしれない。
そんな事を考えながら、私は靴を両手に持って階段を駆け上った。
◇◇◇
「小野寺君。どこか行ってたの?」
「図書館。」
「2週間、ずっと?」
瑠璃先輩が怪訝そうに弘先輩に問う。
「あの…すみません。私も2週間もお休みしてしまって。」
「姫野さんはいいのよ。」
私がカレンさんに会いに行くのは特別なことだと、瑠璃先輩と由佳先輩は快く私が部活を休むことを納得してくれた。
「今日は久しぶりだし無理しなくていいからね。暑いから疲れたら休むのよ。」
瑠璃先輩の優しい忠告を受けて、私は弘先輩の隣を通り抜けてグラウンドへと向かった。
◇◇◇
弘先輩は部活に顔を出しただけで、グラウンドの端に座って練習を見ていただけだった。
部活が終わって気付けば、弘先輩の姿はなかったが、荷物は残されている。
「弘先輩、どこに行ったんでしょうね?」
部員達は帰り、由佳先輩と私だけが残っていた。
「そのうち戻ってくるわ。英樹も探しに行かなくて良いのに。久しぶりだから疲れて何処かで寝てるのよ。寝てるだけなら良いけれど、自発的に動き出したら止まらない。巻き込まれると厄介だから困るのよね。」
由佳先輩は困ると言いながら、笑っていた。
由佳先輩と弘先輩は幼馴染だから、お互いに色んな事を知っている。
弘先輩の幼い時の事を知っているはずだ。
響子さんが須賀君の“過去”を知っている事に最初は心が痛んだけれど、今は、それを当然の事だと思えるようになっていた。
「姫野さんは疲れなかった?」
瑠璃先輩も、とても気にしてくれた。
でも、思ったよりも私は体調が良く、今日は瑠璃先輩には先に帰ってもらった。
響子さんから無理をしないように忠告はされているし、これからは自分の体調は自分で管理できるようにしなくちゃいけない。
「大丈夫です。」
「明日は無理しなくて良いのよ。姫野さん夏バテしやすいでしょ?」
自分でも気付いていなかったけれど、響子さんは気付いていて、そして由佳先輩も気付いていた。
その事を知って、少し恥ずかしくなる。
「姫野さん。勉強は、どう?」
「向こうで友達になった人達が教えてくれて」
由佳先輩と、こんな風に話すのは滅多になかったと気付く。
「ある程度は終わっているんですけれど、分からない箇所、由佳先輩教えてください。明日、持ってきますね。」
由佳先輩の顔が、ほころぶ。
「そうね。明日なら」
由佳先輩の声に重なって、部室のドアが開けられる。
松原先輩の後ろで、弘先輩が欠伸をしていた。
「帰ろうか。姫野さん。」
由佳先輩の言葉に私は歩き出すが、松原先輩に立ち塞がれて、不思議に思った私は顔を上げた。