玄関のチャイムの音に、むつみと晴己は顔を見合わせ、そして時計を見た。
時刻は10時近くになっている。
むつみの両親が帰宅してもチャイムは鳴らさないし、こんな時間に誰かが訪問するのは珍しい。
2人がそう思っていると、またチャイムが鳴らされる。
家政婦の1人が、モニターを確信しようとキッチンに入ってきた。
そして、またチャイムが鳴り、続けて何度も鳴らされる。
むつみは驚いて晴己の腕を掴む。
「晴己様。」
家政婦が晴己を呼ぶ。
晴己はモニターに映る姿を確認した。
「僕が出るよ。」
晴己は小さな溜息を残して、むつみを置いて出て行った。
◇◇◇
「どうして晴己さんがいるんだよ?俺、全然聞いてないけど?」
「優輝に報告する必要はないだろう?僕は昔から来ているんだから。」
「昔と今を一緒にするなよ?来るなって言っただろ?晴己さんだって納得したんじゃないのか?」
「納得したつもりはないけれど?優輝こそ、非常識だな。こんな時間に。」
「俺が非常識なら晴己さんも同じだろ!」
「僕は、これを届けに来ただけだよ。」
晴己は封筒を2通取り出した。
「むつみちゃんに優輝の分を渡して貰おうと思っただけ。」
「なんだよ、それ?」
「久保コーチから聞かなかったか?日曜の事?」
「…聞いたよ。」
「で、優輝は?こんな遅くにどうした?」
「俺は練習終わって家に帰って、メシ食って。で、ちょっと走ろうと。」
「そう。これ、優輝の分。」
晴己が差し出した封筒を、優輝は1通でなく2通、奪うようにして取った。
「送って行くよ。」
「いい。走って帰るから。」
「送る。」
晴己の声は有無を言わせない口調だった。
「車で待っている。5分だけだぞ。」
晴己がドアを開けて外に出る。
玄関のドアが閉まるのと同時に、ダイニングのドアが開いた。
◇◇◇
「ほら。むつみの分。」
「…ありがとう。」
むつみは受け取った封筒を見て、それが新堂家からの招待状だと分かった。
「何のパーティなのかな?」
「新堂家の長男のお披露目。」
その内容に、むつみは少しだけ驚くが、新堂家なら不思議な事でもないと、思い直す。
「日曜日…迎えに来るから。」
それが、今の優輝には精一杯の言葉だった。
「うん。久しぶり…かも。また色んな人が集まる…よね?」
集まる顔触れを思い浮かべて、むつみは不安な気持ちが大きくなる。
「俺が…ずっと一緒にいるから。」
優輝にも日曜に集まる人々が想像出来るし、そこに絵里が現れるのも確実だった。
「にーちゃんも行くし、コーチも行くし、むつみの両親だって仕事が大丈夫なら行けるだろ?大丈夫だよ。じゃ、俺…。晴己さん待っているから。」
帰ろうとした優輝は、後ろからむつみに服を掴まれて、ドアノブを回す手を止めた。
「私は優輝君が一緒にいてくれれば、いい。」
慎一の事に対して怒っていた気持ちなど、どうでも良くなる。余計な話ばかり耳に入れる水野への苛立ちなど、消してしまいたくなる。怒りや苛立ちなど、むつみの前では無駄に感じるし、そんな不要な気持ちよりも、むつみへの想いの方が遥かに大きい。
だけど優輝は自分の素直な気持ちを上手に表現する術がなく、むつみの表情を確かめる事も出来ない。
優輝が出て行くのを見送り、閉められたドアの前で、むつみは外の音に耳を澄ました。
車の音が遠くなり、静寂が戻る。
「優輝君…ごめんね。」
話す事が出来ず、優輝に余計な負担をかけていることを悔み、ビデオの内容を思い出す。
懐かしい母の歌声。
リズムの違う、幼い自分の歌声。
そして、何度も繰り返される名前。
記憶に残らない出来事が、むつみの心を占めていく。
優輝以外の“何か”が、心に入り込んでくる事が、悲しくて切なくて、そして申し訳ない気持ちになる。
優輝への想いも約束も、散り散りに消えていくのを、むつみは自分で止める事が出来なかった。
◇約束を抱いて 第三章-50・完◇