瑠璃先輩と須賀君を無視して、私も食事を続けようと思った。
でも、スプーンを持ったまま、動かす事が出来ない。
杏依ちゃんと弘先輩は黙々と食べていた。
杏依ちゃんまで黙ってしまうから、沈黙が広がっていて居心地が悪い。
「…俺が、何を心配しているって言うんですか?」
何故か須賀君は、愛想笑いをしていて、それなら怒っているほうがマシだと思った。
「だって部活では全然、そんな雰囲気じゃなかったもの。姫野さんをマネージャーに推薦したのは須賀君だし、親しい間柄なんだろうな、とは思っていたけれど。」
「親しいですよ。家が隣ですから。それがどうかしましたか?」
瑠璃先輩は溜息を出すと、今度は私を見た。
「姫野さん。」
「は、はい?」
「須賀君と…つきあってるの?」
「へ?」
きょとんとした私の目を見て、瑠璃先輩が首を横に振る。
「その反応は、ただのお隣さんってだけみたいね。でも…誤解されるわよ?」
「誤解?」
「この状態、一緒に住んでますって感じじゃない?」
「え?そうですか?一緒に御飯は食べますけど。」
「いや、まぁ、それが…なんだけどね。これってさ。同棲だよね?」
「…へ?」
カランと、スプーンがお皿に当たる。
「そう思われても変じゃないよね?私なら、そうなのかなぁって思うよ?ねぇ、小野寺君。」
私は弘先輩の反応が知りたくて、でも怖くて。
なんとなく、あまりよくない状況?
「う…ん、そうかもね。」
うわぁ…最悪かも。
でも、ここで真実を知ってもらえば問題ないよね?
「でも、お隣さんって大事だよ。」
「はい?」
瑠璃先輩が問う。
「だって僕と由佳もずっと隣で。由佳達家族が海外に住んでいて留守だった時、留守宅お願いしますって、由佳の御両親が言っていたよ?別に大した事はしていないけれど、留守にしている間の家の状況とか、周囲の近所の事とか。由佳も戻って来た時は、まずは友達の状況を知りたがっていたし。そういうのって、お隣さんだから出来ることって多いよ。僕も、由佳の御土産、一番最初に選ぶ権利があったし」
…なにか…話の要点が違う気が、する。
「瑠璃ちゃん考えすぎだよ~。」
明るい声が弘先輩の言葉を止めた。
「だって好美ちゃん好きな人いるもの。」
「え?杏依ちゃん?」
叫んだのは、私だった。
「えぇ?違うの?てっきり」
「う、わぁ~!!」
「だって」
「杏依ちゃん!」
杏依ちゃんの言葉を止めてみる。
「わ、私はね。松原英樹ファンクラブ会員なんです!」
思わず立ち上がっていた。
ここで須賀君との事を誤解されるのも、弘先輩への想いが知られるのも、とても困る。
「そういえば、そうよね。かなり冷静なファンクラブ会員だけど。」
隠れ蓑にしている事が、瑠璃先輩には知られているような気がしてきた。
「まぁ…松原君のファンでいる間は良いかもしれないけど?でも、姫野さんに好きな人ができたら、この状況厄介よね?姫野さんの事を好きな人だって、須賀君の事を彼氏だと誤解しちゃうと思わない?」
「だから、あなた達が口外しなければ何も問題はないと思いますけど。」
須賀君の口調は、何となく命令っぽくて、それを先輩に対して言うから、私はハラハラしていた。
「うわぁー…康太君って意地悪。瑠璃ちゃんを苛めないで。」
そう言いながら、杏依ちゃんは私を後ろから抱きしめた。
「こんなに意地悪な康太君は、好美ちゃんと似合わないと思う。」
「…そんなこと、杏依が決める事じゃないでしょ?」
瑠璃先輩の声が呆れている。
「だって、なんとなーく、そう思うの。好美ちゃんと康太君…なんていうのかなぁ、友達って言うのも違う気がするし。好美ちゃんには素敵な人、私が紹介」
「香坂先輩。」
とても、強く響く、冷たい声を須賀君が出した。
周囲が静まり返ってしまう。
「…チョコ、食べたでしょ?食後に、って言ったのに?」
「いいでしょ?ひとつぐらい。食べたいんだもの。折角、弘君が買ってきてくれたんだから。ね、好美ちゃん。康太君、意地悪でしょ?」
杏依ちゃんがまた手を伸ばしてチョコを口に入れて、そして私の口にも放り込んだ。
私は、この顔触れを客観的に見て、そして共通点を探してみた。
もちろん同じ中学出身だけれど、今まで特に接点はなかったのに。
「…あ。」
「どうしたの?姫野さん?」
瑠璃先輩の問いに、私は瞬きを返した。
「…杏依ちゃんの…先生達…だ。」
ここに松原先輩が加われば、ファンクラブの人達が羨ましいと話していた、“あの頃”が再現される。
「そうね…そういえば。須賀君が借り出された時もあったわよね。あの時は驚いたわよ。松原君が下級生を連れてきて、あーぁ、杏依の学力も相当なもんだと思ったわ。」
「酷~い。瑠璃ちゃん。」
言いながら杏依ちゃんは新発売のチョコの箱を開けようとする。
「酷いって、こっちが言いたいわよ。大変だったんだから。杏依ったら集中力が続かないし。それなのに」
須賀君が杏依ちゃんからチョコの箱を取り上げる。
「新堂さんに家庭教師をお願いしてから、成績上がっちゃうし。私達の努力は何って感じよね?小野寺君。」
弘先輩はクッキーの箱を開けようとしていたけれど、それも須賀君は取り上げた。
「そらまめいがいにも、なにか、たべもの、だしましょーか?」
1人だけ立ち上がっていた須賀君が、私達を見下ろしていた。
「…怖いよ。須賀君。棒読みだし。」
怒っているんだろうなぁ。
私が遅くなってしまったから、冷蔵庫の残り物で作ったみたいだし、予定通りいかなくて機嫌が悪そう。
「食べたい、食べたーい。何があるの?康太君。」
杏依ちゃんには、須賀君の機嫌の悪さなんて関係ないみたい。
そんな上機嫌の杏依ちゃんに須賀君は返事をせずに、台所へと入る。
「…ねぇ、姫野さん。」
「はい。」
瑠璃先輩が机の上に散乱しているお菓子の箱を、スーパーの袋に戻していく。
「…ここは、姫野さんの家、よね?」
「はい。そうです。」
暫くして漂ってくる香りに、須賀君の答えを聞かなくても夕食のメニューが全員に分かった。
◇◇◇
「…明日の為に準備していたカレー…で我慢してください。」
須賀君の言葉と共に、食卓に人数分のカレーが置かれた。
「明日?じゃ、今日の夜は、どうするつもりだったの?」
瑠璃先輩が問う。
「夜の材料は姫野が帰ってくるのが遅いから。待っていられなかったんです。台所にあるもので作るしかなくって、瑠璃先輩から貰ったソラマメと、ゴボウでキンピラ作って。後は味噌汁でもしようと思ったけれど、俺、あの味噌、好きじゃないし。明日は忙しいからカレーを作っておこうと思って準備しておいて。キャベツあるから、それをどうしようと考えていた最中に香坂先輩が来るし。結局、この人数だったらカレーも出さなきゃ、足りないじゃないですか?」
「あ、あのさ…須賀君。食事…誘ったの須賀君だよ?」
決して、先輩達は夕食をねだっていた訳ではないと思う。
「食べ物出さなきゃ、菓子ばっかり食べるじゃねぇーか。この2人。」
指をささないでよ、先輩に向かって。
「いただきまーす。」
それなのに、杏依ちゃんは何も気にせずスプーンを手に取る。
「おいしい!」
杏依ちゃんの笑顔を見ていると、なんだか色んな事が、どうでも良くなってしまう。
それは須賀君も感じたみたいで、彼は溜息を出した後に、カレーを食べ始めた。
「須賀君って、料理上手なのね。」
瑠璃先輩の言葉に、須賀君は顔を上げるけれど何も答えなかった。
「姫野さん。須賀君の得意料理って何?」
瑠璃先輩の問いに、私は首を傾げて、この1ヶ月を思い出してみた。
杏依ちゃんに絵本を読んでもらった日に作ってくれたオムライス。
そういえば、私の誕生日に作ってくれたケーキも美味しかった。
「えーと…。」
たくさんありすぎて、何が得意料理なのだろうと考えていたら。
「姫野。早く食べろ。」
冷たい命令口調が、私の思考を中断させる。
「瑠璃先輩も、早く冷めないうちに」
「須賀君。」
須賀君の言葉を、瑠璃先輩が止めた。
「御心配なく。言わないわよ、今日のこと。」
須賀君が瑠璃先輩を見て、そして2人は視線を逸らさない。
そんな2人の向こうで、杏依ちゃんと弘先輩は、美味しそうに須賀君手製のカレーを食べていた。
どうして閉めるのかな?
閉めた事で誤魔化せるとは思えない。
「今の…康太?」
「はい。そうです。須賀君。お隣だから。」
私が玄関の扉を開けると、須賀君が眉間に皺を寄せて私を見た。
「そういえば、康太。引越、したんだっけ?」
弘先輩の、のんびりとした声が須賀君に問う。
「…何を今更。1ヶ月も前ですよ。」
「姫野さんの、お隣…さん?」
「家の持ち主が仕事で留守にするから、俺は留守番です。」
「えぇっと…こっちが康太が住んでいる家、で?あっちが?」
私の自宅の玄関に立つ須賀君が、ちょっと困ったと言葉を詰まらせた。
だから、誤魔化すのは無理だよ?
須賀君、中から出てきただけじゃなく、エプロン姿だし。
家からは、なんとなーく良い香りが漂っているし。
そして。
「好美ちゃん。お帰り~!」
須賀君の後ろから顔を出した人は、この場の状況などお構いなし。
「あれ?小野寺君?どうしたの?」
どうしたの?って私が聞きたい。
どうして、私の家に杏依ちゃんがいるのよ?
「香坂さん。ちょうど良かった。」
それなのに、弘先輩まで、ちょうど良かった、って何?
「頼まれていた買物。これから届けようと思っていたけど。どうしよう?家まで持っていこうか?ここで渡そうか?」
「うわぁ。嬉しい!今、見せて。家だと、母もうるさいから。ちょうど良かった。」
なにがちょうど良かった、なの?
私の家だよ、ここ。
それなのに家の中に弘先輩を招く杏依ちゃんに、私は溜息を出した。
「どうしたの?好美ちゃん。入らないの?」
だから、私の家なんだけど。
「…杏依ちゃん。どうして、ここにいるの?今までは休日は実家に戻っていたかもしれないけれど、結婚したんだし、連休だからって」
「家出してきたの。」
「え?」
「だって。晴己君、うるさいんだもの。」
「ちょ、ちょっと杏依ちゃん?」
「あれもダメ。これもダメって。私が食べたい物も食べさせてくれないのよ?」
「そりゃ、そうでしょ?」
須賀君の声が響く。
「えぇ?康太君まで酷い。」
「だって、香坂先輩の食べたい物って、半端ないし。」
須賀君は弘先輩が持っていたスーパーの袋の中を見た。
「康太君、いつもは違うの!今日は特別なの!だって、ずっと禁止されていたから!」
「あの家なら手作りのデザートとかもありそうなのに?そっちの方が美味しいでしょ?」
「そうだけど。でも、色々と違うの!」
「でも食生活は基本ですよ。気をつけたほうが。香坂先輩の…って、いつまでもその名前で呼んじゃだめですよね?新堂晴己さんが間違っているとは思えないけれど。」
「好美ちゃ~ん。酷いよ。康太君、なんだか晴己君みたい。細かいの。うるさいの。小言ばっかりなの!」
その意見には、賛成。
「でもね。言っている事が正しいから、余計に悔しいの!」
その感情も、私と同じ。
「ねぇねぇ。好美ちゃんも小野寺君も、早く入って。一緒に食べよう?」
結局、食べるんだなぁと思いながら、私は弘先輩を見上げた。
「どうぞ。弘先輩。」
「あ、りがとう。」
弘先輩が、私の家を見て、そして須賀君が住む家を見て。
そして須賀君を見た。
「で、こっちは誰の家?」
「…姫野の家です。どうぞ。弘先輩。」
須賀君は、明らかに嫌そうな表情で弘先輩を促していた。
◇◇◇
「へぇ…焼くのも美味しいのね。」
瑠璃先輩が黒く焼けたさやからソラマメを出す。
「瑠璃先輩にいただいたソラマメ、今朝も食べたんです。とーっても美味しくて。ありがとうございます。」
弘先輩と杏依ちゃんの話を聞いて分かった事は、昨日、杏依ちゃんが実家に戻り、中学時代の友人が集まったらしい。
今日の部活で弘先輩がぼんやりとしていたのは、杏依ちゃんの話に遅くまで付き合っていたからで、それは瑠璃先輩も同じようだった。
杏依ちゃんが瑠璃ちゃんも呼ぼう、と勝手に決めて勝手に呼び出して、私の家では、杏依ちゃんと瑠璃先輩、弘先輩と、そして須賀君と私が食卓を囲んでいた。
今日、部活に来なかった瑠璃先輩にソラマメのお礼を言えなかったから、こうしてお礼を言えた事は嬉しいけれど。
かなり…予想外の顔触れだと思った。
「買物?」
急いで買物をしていた私の焦る気持ちは、弘先輩の穏やかな声に消えていく。
「はい。夕食の買物です。」
こんなに元気な声を出す私を、須賀君と絵里さんが見たら、冷たい視線を向けられそうだ。
「そういえば姫野さん1人暮らしだったね。自分で作っているんだ?凄いね。」
須賀君が作ってますなんて、言えないし、言いたくないかも。
「このチョコ買うの?新発売だよ。どうぞ。」
弘先輩がチョコの箱を差し出してくれる。
「あ、りがとうございます。えーっと、新発売だし、どんなかなぁ、と思って。」
満面の笑顔で勧められると、喜んで受け取るのが正しい気がして、ちょっと困る。
「美味しそうだよ。僕も買おうと思っているんだ。それとも一緒に食べる?」
違う意味で、私の気持ちが焦りだす。
「そ、そうですね。か、買ってみようかな。」
答えながら弘先輩の買い物籠を見て、私は思わず一歩下がった。
「ひ、弘先輩。連休にどこかに旅行、ですか?」
弘先輩が持っている籠には、お菓子が山盛りに入っていて、凄い光景だった。
「あ…これ?頼まれた買物。僕が全部食べるわけじゃないよ?姫野さんは、連休はどうするの?僕は」
「あの、弘先輩?」
「なに?」
ご機嫌っぽい?
今日の部活では、眠そうで面白くなさそうでボンヤリとしていたけれど。
「チョコ、貰って良いですか?」
「はい。どうぞ。」
弘先輩が再び差し出してくれたチョコの箱を受け取って、自分の籠に入れた。
あの本を手に取る事が出来なかった日を思いだす。
「これぐらいで大丈夫かな?姫野さんは、まだ買物あるの?」
「いえ、終わり、ました。」
「じゃあ、一緒にレジに行こうか?」
“一緒”という単語を、あまり聞かせないで欲しい。
会計を終えて、スーパーから出て、弘先輩とは方向が逆だから挨拶をしようと思ったのに。
「一緒に帰ろうか。姫野さん。」
絵里さんに言われたように、身だしなみをきちんと整えておけば、弘先輩の好意を素直に喜べたのに。
「えぇっと、方向逆、ですよね?私、こっちですから。」
「送って行くよ。もうすぐ暗くなるから。」
須賀君が待っているから、早足で帰るべきなのに。
でも、須賀君が怒るのは、暗い道を1人で歩くからだよね?
弘先輩に送ってもらったと言えば…許してくれる、かな?
◇◇◇
「…階段。」
自宅へと続く階段の前に来た時、弘先輩が階段を見上げて呟いた。
「弘先輩、ありがとうございました。」
「姫野さんの家…この上?」
「はい。向こうから坂道もあるけれど、いつも、こっちです。」
「大変だね。」
「慣れてます。子どもの時からですから。」
弘先輩が階段を上ろうとする。
「弘先輩、ここで大丈夫です。」
「…ここ。」
「はい?」
「上に…広場、ある?」
「はい。今は使われていませんけれど。中には入れないし。広場と言うか森と言うか、そんな感じになってます。」
「小さい時、遊んだかも。」
「そうですよね。私も小さい時は遊具で遊んだ記憶があります。」
不思議だった。
近所なのだから不思議ではないかもしれないけれど、幼い時、同じ場所を遊び場にしていたのが不思議だった。
「久しぶりだから、上ってみてもいい?」
「でも、“広場”には入れませんよ?」
弘先輩は止める私の言葉を聞かずに、階段を上っていく。
そんな弘先輩の後ろ姿を見ながら、私も階段を上り、家まで送ってもらうのが嬉しくて、少しでも長く一緒にいられる事が嬉しくて。
そして、肝心の事を忘れていた。
家の門を開けて、ここまで来たのだから家に招くべきなのか?と考えて、私の自宅に須賀君がいる可能性を考えていた時。
「遅い!」
須賀君の声とともに、玄関の扉がガラガラと音を立てて中から開けられる。
「姫野!雅司と一緒に昼寝してから、どれだけウロウロ」
そして、扉がガラガラと閉められた。
目が覚めたら、また鬱陶しいと煙たがれるのは分かっているけれど、束の間の休息に身を委ねたくなる。
登校前に施設を訪問するのを須賀君に拒まれた理由は、雅司君の事が原因だった。
私と須賀君は、出来る限り同時に施設を訪問することを避けている。
須賀君と私が一緒にいることを嫌がる雅司君の気持ちを察して決めたことだ。
そして私が舞ちゃんと話すことも雅司君は極端に嫌がる。
それなのに、雅司君はお昼寝の時など眠くなった時に私がいると、必ず私の手を取った。
その理由など、私には分からない。
そして、たぶん。
雅司君自身も分かっていないだろう。
でも、理由など関係なく、私は眠りに落ちる前に感じる温かさが、とても愛しかった。
◇◇◇
雅司君の指が私の頬を引張る痛さで、私は心地良いお昼寝から目覚めた。
「ちょっと、雅司君!」
今日2回目の寝起きで、須賀兄弟相手に怒っている自分が情けなくなる。
周囲を見渡せば、まだ眠っている子ども達もいて、絵里さんの視線が叫び声を出した私を注意していた。
カレンさんから貰った時計を見ると、時刻は4時半。
昼食を部員達と食べると言っていた須賀君が戻っている可能性が高くて、慌てて眠っている子ども達の輪から外へ出た。
「好美ちゃん。髪、整えてきなさい。」
「はぁーい。」
覇気のない私の返事に絵里さんが溜息を出したのが分かるけれど、振り向かずに私は鞄から取り出した鏡を見た。
「買物行くだけだし、帰るだけだし、まぁ、いいや。」
「好美ちゃん。」
鏡に絵里さんの姿が写る。
「寝起きの服装で買物に行くの?」
絵里さんの手が私の髪を整える。
「だってお昼寝だし。制服みたいに皺は気にならないし。それに絵里さんだって、今日はお化粧していないでしょ?」
今日、という箇所に力を込めてみた。
「私は身だしなみくらいはちゃんとしています。」
確かに、そう。
化粧をしていなくても、地味な髪型で地味な服装でも。
隠したくても隠せない何かが、絵里さんから漂っている。
綺麗な絵里さんを知っているのは、婚約者の人だけなのかな?
確かに、それで充分だとは思うけれど。
「今後、気をつけます。じゃ、絵里さん。またね。」
小声で話して、そして玄関に向かおうとした私は、足を止めた。
振り向いて、部屋の隅に座っている雅司君を見つける。
手を振ると、少し躊躇した雅司君が手を振ってくれた。
その動作に、私は自分でも理解できないくらい、とても安堵した。
◇◇◇
須賀君のメモを見ながら、スーパーのかごに食材を入れていく。
「ヨーグルト、ヨーグルト。あ、お味噌も、そろそろ。」
メモを見ると、味噌と書かれた文字が二重線で消されている。
「あれ?どうしてだろ?」
そういえば、今朝、おばあちゃんのお味噌の話をしていたなぁ、と思い出すけれど、確か残り少なかったから新しく買おうと思って味噌の棚へと向かった。
でも、ずらりと並ぶ味噌を見て、私は悩む。
なんだか、須賀君は不満を抱いている感じだったし、このメモから想像すると、味噌を買おうとしている私に買うな、と言っているようだった。
「細かいからなぁ、須賀君。」
隣に住むようになって、一緒に食事をするようになって、彼の事を深く知るようになった。
細かい。
完全にオヤジだ。
「彼女、できないよ。あの性格だと。」
ぶつぶつ言いながら、でも最近はモテているみたいだし、とか考えて、レジに向かおうとした私は立ち止まった。
新発売のチョコレートが棚に並んでいる。
「杏依ちゃん、好きだろうなぁ。」
でも、結婚相手は超お金持ちみたいだし、確かに新婚旅行のチョコとか高そうで、甘かったけれど美味しかったし。
私は甘いモノは、大好きじゃないけれど。
でも、気になって手を伸ばしてみた。
「あ、すみません。」
伸びてきた手に触れそうになって、慌てて私は自分の手を引っ込めた。
「…姫野さん?」
その声に驚いて見上げると。
「ひ、弘先輩?」
私は絵里さんの忠告通りに身だしなみを整えなかった事を、後悔した。
私達の生活を、敢えて話す必要などないと言われたけれど、隠す必要も分からない。
「須賀君は電球の交換、得意なの?」
「え?」
「姫野さんが得意だって。」
余計な事を言うな、と須賀君の視線が私を見る。
「得意も下手もあるんですか?電球の交換程度で。」
「弘君、できないから。」
「…弘先輩と一緒にしないでください。」
嫌そうな須賀君の声の後、ドアが再び開く。
「おはよう。あ…康太。」
穏やかな、のんびりとした声だった。
「由佳、おはよう。姫野さん」
「おはようございます。」
「おはよう。」
弘先輩の声を聞いていると、忙しない朝の事を忘れられる。
そんな事を考えていたら、弘先輩は荷物を置くと部室を出て行った。
「ほら。」
由佳先輩が、ちょっと笑う。
「なにも気付いていないでしょ?私達が何を話していたのか、とか。何かあったのかな、とか。そんな事、全く気にしていないから。」
須賀君が棚の引き出しを開ける。
「じゃ、電気消しますよ。」
須賀君は、いつものように慣れた動作だった。
椅子の上に乗って、簡単に天井まで手を伸ばして。
「須賀君、1年なのに背が高いのね。」
「これからは俺がするから、いつでも遠慮なく言ってください。」
須賀君の言葉を聞きながら、今後は由佳先輩が依頼する前に、電球は交換されているだろうな、と思った。
◇◇◇
帰宅して冷蔵庫を開けると、須賀君手製のおにぎりが入れられていた。
ラップで包まれたおにぎりの下にはメモが置かれていて、冷蔵庫の中にメモを入れないで欲しいと何度も言っているのに、と私は独りで文句を言っていた。
メモに書かれた食材を買う為にスーパーに向かう途中で、私は施設に寄った。
つい先ほどまで杏依ちゃんが来ていた事を教えられて、杏依ちゃんと入れ違いになったことを残念に思った。
「よしみ ちゃん」
ピトッと舞ちゃんが、私の頬に頬を寄せる。
その温かさと、柔らかさが、愛しくて。
でも、そんな穏やかな時は一瞬で背中に衝撃を感じた。
「う、わ!」
舞ちゃんに被害がないように、彼女から離れた私は、私の背中を蹴る雅司君の姿を見つけた。
確実に嫌われている。
それも、凄く、かなり。
雅司君は舞ちゃんの手を取ると、私から離れて部屋の隅に2人で座り込んでしまった。
私はそんな2人を見ながら、なんだか疲れてしまって床に体を横たえた。
「あーぁ。失敗。雅司君、さっきまで外で遊んでいたのに。」
私が施設に来た時、雅司君は小学生の男の子達とのサッカー、というかボール遊びというか…それに夢中になっていたから私には気付いていないと思ったのに。
雅司君が舞ちゃんを独り占めする度合いは、以前よりも強くなっていた。
そして、それは私に対しては他の人達よりも顕著に表れる。
私が舞ちゃんから離れると、雅司君の機嫌はなおる。
「好美ちゃん。どうしたの?床に転がって。」
天井を見ていた私は視線を動かして、私を見下ろしている人を見つける。
「絵里さん…こんにちは。」
「こんにちは。好美ちゃん高校生になったのよね?足を揃えなさい。その前に寝転がっていないで、ちゃんと座って」
「はいはいはい!ちょーっと寝転がってみただけです!」
絵里さんの言葉を聞かずに、私は起き上がった。
「さぁ…買物行かなきゃ。」
立ち上がって、化粧をしていない絵里さんを見上げた。
「好美ちゃん。」
荷物を持とうとした私を絵里さんが止める。
彼女の視線を追って、私は小さく頷いた。
雅司君に手を引かれて、舞ちゃんが歩いてくる。
腕を伸ばした舞ちゃんを絵里さんが抱き上げて、舞ちゃんの柔らかい頬が絵里さんの頬に触れる。
そして私の足元には雅司君がウロウロとしていた。
彼の髪を撫でると、私を見上げる瞳が少し揺れる。
私に体を寄せて目を閉じる雅司君を見ていると、彼の勝手な行動や我が侭は、全て許してしまいたくなる。
買物に行かなきゃ、それは分かっている。
でも、まだ時間があるから…別に良いよね?
「美味しいね。須賀君。」
ソラマメも美味しいけれど、今日のお味噌汁も、やっぱり美味しい。
「姫野さぁ…この味噌で、満足な訳?」
「え?お味噌?」
「スーパーで買ってきた味噌で満足…してるよな?」
「だって仕方ないよ?おばあちゃんの作ったお味噌、ないし。作る人、亡くなっているんだから。」
私の中で、おばあちゃんの手作り味噌が一番なのは当たり前の事実。
そのお味噌で育ってきたのだから、他の味噌と比べる事など、全く意味がない。
「スーパーのお味噌も美味しいよ?最初は、どれを買えばいいのか分からなかったけれど。色々試したけど、結構、全部美味しかったよ?」
「…教えてもらっておけば良かったのに。」
須賀君の言葉は、少し嫌味っぽい。
「あ~急がないと!」
私は早々に食事を済ませることにした。
そんな私を見た須賀君は時計で時刻を確認し、随分と時間が経過していた事に気付いたようだった。
私達は黙々と食事をし、食器をシンクに運んだ。
後片付けは、私の担当だ。
それくらい、私がしないと。
「姫野。じゃ、後はヨロシク。」
須賀君は、これから施設に行って雅司君に会う。
その後、私達は駅で待ち合わせて登校するのが日課だった。
私も子ども達に会いたいし須賀君と一緒に毎朝行きたいと思った。
でも、それは須賀君に拒まれた。
◇◇◇
「おはようございます。」
「おはよう。姫野さん。」
部室に入ると本多由佳先輩が天井を見上げていた。
「由佳先輩。どうしたんですか?」
「電球、切れちゃったみたい。」
由佳先輩と同じように天井を見上げると、電球が1つ消えていた。
「今日、みんな来るかなぁ?英樹は部活には来ないし。」
「松原先輩、旅行とか、ですか?」
電球を見ている由佳先輩の横顔を見て、この人が、松原先輩の彼女なのだと、改めて不思議に思った。
由佳先輩と松原先輩は中学の時から同じ部活で仲が良かったし、それだけでなく、小学生時代の一時期を、同じ海外で過したらしい。
親同士も当時の滞在先だけでなく、現在も仲が良いみたいで、ファンクラブの人達も『妥当だよね』と言っていた。
妥当、という表現が嫌だけど。
私も2人はお似合いだと思う。
でも、どこか妙な違和感が残る。
どうしても杏依ちゃんの存在が気になってしまう。
杏依ちゃんは既に結婚しているし、松原先輩が他の人を好きになる事を責める権利も理由も私にはないけれど。
「おじさんが、英樹のお父さんがね、この連休に戻ってきているから。親孝行。困ったなぁ…。弘君は、無理だし。」
由佳先輩の声に出来るだけ不必要に反応しないように努めた。
「弘先輩は、無理なんですか?」
「部活に来るかどうか分からないもの。弘君気まぐれだし。」
“ヒロクン”その呼び方が、以前杏依ちゃんが康太君と呼んだ時のように、私の心を掻き乱す。
由佳先輩が弘先輩と幼馴染で、家が隣同士で、という事は分かっているけれど。
「それに電球の交換とか、そういうマメなこと、できないのよね。」
「そうなん、ですか?」
他にも部員は来るし、誰かに頼む事が出来るだろう、と思っていたら適任者を思い出す。
「由佳先輩。須賀君、もうすぐ来ますよ。須賀君、電球の交換得意だし。」
「得意、なの?」
「はい。得意です。」
電球の交換が得意、というのも変な褒め言葉かも。
「おはようございます。」
部室のドアが開いて須賀君の声が届く。
「おはよう。須賀君。凄いね…姫野さん。」
須賀君が荷物を置こうとして、切れている電球を見上げた。
「もうすぐ須賀君が来るって言っていたから。途中で会ったの?」
「電車、同じだったから。俺、コンビニに寄っていたし。」
一緒に朝食を食べて、家を出たのは別々だけど、駅で待ち合わせて、そして学校の最寄り駅からは別行動。
それを須賀君は口にしなかった。
1階の台所から漂ってくる香りを拒絶するのは、とても嫌で。
「次の連休はカレンさんに会いに行くんだろ?」
早く会いたい、そう電話で言ってくれたカレンさんに私も早く会いたい。
「この連休に、色んな事は済ませておかないと。」
そうだった。
カレンさんへのお土産は、何が良いのかな?
「それとも姫野は」
カレンさんの事を考えながら、須賀君を見上げた。
「弘先輩に会いたいから、部活に行くか?」
真っ直ぐな瞳で私を見下ろして、真剣な表情で須賀君は問う。
でも、すぐに。
「…そこで笑わないで。」
笑いを我慢している須賀君を恨めしげに見上げた。
「須賀君さぁ…面白がっているでしょ?私をサッカー部のマネージャーにして、私の事、笑っているんでしょ?」
「なにが?」
「なにが、って。だってさ…私は」
弘先輩に対して、他の先輩や同級生とは違う特別な感情を抱いていて。
「姫野は弘先輩に恋しているし。」
須賀君は勝手に私の気持ちを代弁した。
「ち、違うもん。」
「大丈夫だって。俺は見てれば分かるけど、姫野の気持ちは学校でも部活でもバレてない。結構、姫野って逞しいと言うか、図々しいと言うか、誤魔化すのが上手いというか、ちゃーんと部員達に平等だし誰も気付いていない。」
「ほ、本当?」
「それに、松原英樹ファンクラブという、立派な隠れ蓑があるしな。」
最大限に利用していることを、いつか松原先輩に謝ろう。
「早く準備しろよ。朝飯、出来てるから。」
高校生になって、約1ヵ月。
毎日須賀君に会っているのに、会う度に彼は大人になっていくような気がした。
取り残されている気がして、遠くに離れてしまいそうで。
須賀君は中学の時と比べると、格段にモテるようになってしまって、本人も結構楽しそうだ。
私は、松原英樹ファンクラブの人達にマネージャーであることを羨ましいと言われるけれど、本心では他の事を自慢したいと思っている。
須賀君のお味噌汁が、とても美味しい事を彼女達に話したい衝動に、時々駆られる。
そんな事を自慢したいと思っている私は、須賀君と比べると大人には随分と遠いみたいだ。
◇◇◇
「いただきます。」
食卓に並ぶ朝食に、思わず嬉しくなる。
「美味しいよね~。須賀君の料理。1人で住むようになってから料理をする機会も増えたし、どんどん腕が上がるって感じ?」
「…姫野も少しは勉強しろ。」
「私は学校の勉強だけで精一杯で。」
オーブントースターの音が響いて、私達は同時に箸を置いた。
「いいよ須賀君。これくらい私だって出来るし。」
「…そう、だよな。」
立ち上がって台所に行く私の背中に、須賀君の声が届く。
「熱いから気をつけろよ。」
「はーい。」
食器棚からお皿を出そうとして。
「皿、そこに出してある。」
「あ、うん。ありがとう。」
オーブントースターの横に置かれているお皿を手にとって。
「姫野。菜箸は」
須賀君の忠告が続いている。
私は和室を見て、そして須賀君が立ち上がっているのを見る。
私の視線に気付いた須賀君が、食卓の前に戻る。
菜箸でソラマメをオーブントースターから取り出して、私は和室に戻った。
「美味しそう。どうぞ、須賀君。」
彼に勧めたのに。
熱そうに、さやからソラマメを出して、それが私の取り皿に転がる。
「ありがとう。」
私が須賀君を頼る度合いが、以前よりも大きくなっているのは確実だった。
そして、須賀君の小言や忠告が増えたのも、確実だった。
私に身内がいないことを、頻繁に自覚させる言葉を出す須賀君は、私に自立出来る強さを求めている。
でも、誰よりも私に構うのは須賀君だ。
自分でしろと言われて、自分で出来ると答えて。
でも、彼にしてもらうのは、心地良い。
お願いすれば文句を言いながらも、須賀君が拒む事はない。
矛盾した言葉と行動を、私達は毎日繰り返していた。
懐かしい香り。
懐かしくて幸せで。
毎朝、いつも、私を目覚めさせてくれた香り。
記憶を呼び覚ます香りに、私の指が何かを探り当てる。
温かくて優しくて。
ずっと、このまま、この温もりに包まれていたい。
久しぶりに私の手に戻ってきた本は、私の心を包んでくれた。
指先が覚えている。
柔らかい温もりを。
暖かい優しさを。
私を護ってくれた大切な人達との想い出を。
◇◇◇
「姫野!」
突然右手に何かを感じて、私は飛び起きた。
「須賀君!」
手に持たされていた物を放り投げて、それが床に転がる。
「何よ何よ!それ!」
「ソラマメ。」
「そんなもの、朝から掴ませないで!」
「旬だし、美味しいかなぁと思って。」
須賀君が、床に転がるソラマメを拾う。
「どうする?塩茹でにする?」
ソラマメをさやから出そうとする須賀君の手首を掴んだ。
「ちょーっと、待って!そのまま、そのまま焼いてください!」
ベッドの上に座ったままの私は須賀君を見上げた。
「…自分で、しろ。」
さやが空中を舞って、私は慌てて両手で受け止める。
「食べ物を投げない!」
「最初に投げたのは、姫野。」
「私に掴ませたのは須賀君でしょ!それに入ってこないで!」
私はエプロン姿で私の部屋に立っている須賀君を見た。
「だったら鍵、閉めておけ。」
「閉めてるわよ!それに、玄関の鍵、渡しているんだし。意味ないでしょ?」
「玄関じゃなくてさ、部屋の鍵。玄関だってチェーンもしておけ、って言っただろ?」
「だって、そんなことしたら、須賀君が朝、こっちに来れないじゃないの!」
朝から叫び続ける私に反して、須賀君は落ち着いた口調で返してくる。
「だからさ、俺が朝からこっちに来る必要なんて、ないだろ?姫野がちゃんと起きればさ。」
「そんな事言ったら、朝ごはんどうするの?お弁当はどうするの?」
「自分で作れ。」
「嫌だよ、無理だよ!サッカー部に入部させたのは須賀君でしょ?大変なんだから!帰りは遅くなっちゃうし、私は勉強だって大変だし。須賀君みたいに何でも簡単に出来ちゃう人間じゃないんだから、御飯くらい、作ってよ!」
「それが人に頼む態度かよ。だから、姫野がこっちに来い。起きるくらい自分で起きろ。」
冷静な声に、私は反論できなくなった。
須賀君の言い分は正しくて。
私は起床さえ自分で出来れば良いのだ。
朝ごはんは用意しておくと須賀君は言ってくれた。
でも、“起床さえ”が出来なくて、結局須賀君に起こされて、もちろん彼だって最初は廊下から声をかけてくれたり、目覚ましの音を大きくしてくれたり、でも今では部屋に入ってくるようになっていた。
そして、入ってきた事を私が責めるのも、毎日の事。
起こしてくれるだろう、そんな甘えた気持ちがあるなんて知られてしまったら、正座でもさせられて怒られそうだ。
「それだけ叫んだら目も覚めただろ?早く準備しろ。」
「あ~!!今、何時?早く準備しなきゃ。えぇっと今日は何曜日」
「今日から連休。」
「へ?」
「だから学校は休み。俺は部活行くけど、姫野は休んでもいいだろ?」
そういえば、そうだった。
高校に入学して最初の、たっぷり休息できる連休。
「だったら起こさないで!」
もう一度寝よう。
そう思っていたら。
「今起きないと、朝飯ないぞ。」
カーテンの隙間からは、明るい光が差し込んでいた。
お誕生日会に招かれて -飯田 加奈子-
「お誕生日会があるから、来てね。」
そんな事を言われたのは、小学生の時以来だった。
3月に新堂邸に招かれた時は、誕生日パーティに招待されたと言うよりは、行ってみたら親友の誕生日だった、と表現する方が正しいかもしれない。
もちろん、彼女の誕生日だということは認識していたし、お祝いの気持ちは私の中に存在していたけれど。
「香坂先生が」
あんな言い方をするから。
私は、むつみの誕生日を祝う事よりも、“新堂のピアノ”に触れる事に心を奪われていた。
-勝負に負けると、加奈子ちゃんの未来は消える-
穏やかな微笑で、そんな内容を中学生に言った香坂先生。
むつみの誕生日、という大切な日なのに、それを利用した自分が嫌だった。
「利用じゃないよ、素晴らしい機会だよ、って。何よ、それ。」
1人でブツブツと言いながら練習室の鍵を閉めた私は、背後からの物音に振り向いた。
想像通り、と言ってしまうと、それならどうして、もっと早く出てきてくれなかったのか、と責められそう。
…責めないわね、彼女は。
「おはよう。むつみ。」
「…おは、よう。」
何か言いたそうで、でも言葉を飲み込んで。
「…もう、終わったの?」
「そうねぇ。なかなか難しい。またお昼に来ようかな。」
むつみも来る?
そう尋ねれば、彼女は頷くだろうか?
今朝、私の登校は早かった。
今日は“お誕生日会で曲を演奏”という、複雑な気持ちで引き受けた予定が入っていて、その練習の為に練習室を使いたかったからだ。
子ども達相手だから、アレンジなどしないでシンプルに。
香坂先生の要望は分かっているけれど、もっと他に色々と弾きたいと思ってしまう。
先日の新堂家で開催されたパーティには杉山君も一緒だったし、今回も、もしかして?と思っていたけれど、杉山君が誕生日会に来るかどうかは本人の意思に任せる、ということだった。
だったら、私の意志は?と問いたいのを我慢した。
私と杉山君の環境が違いすぎる事ぐらい、私が一番良く分かっている。
杉山君は彼が望む環境を、整えてもらえる。
…既に、整っている。
私は違う。
それは、分かっている。
「むつみ。鍵、お願いできる?」
授業が始まるまで、むつみは音楽室で時間を過したいのだろうと想像した。
私も一緒にいても良いのだろうか?
彼女に質問しても良いのだろうか?
「うん…職員室に返しておくね。」
むつみは私を引き止めない。
「じゃぁね、ヨロシク。」
鍵をむつみに預けて、私は廊下へ出た。
そして、廊下が騒がしい事に気付く。
教室に向かいながら、生徒達の会話の中に出てくる複数の名前から判断して、“あの光景”の話題だと、すぐに分かった。
校門前で写真撮影が行なわれていて、確かに生徒達が通学するには早い時間だったけれど、写真撮影は意外にも長引いていた。
校門前に行く事ができない数名の生徒に混じって、私は撮影が終わるのを待っていた。
「先生。」
私は難しい顔をしながら私に気付かない森野先生を呼び止めた。
「あ、あぁ。飯田。」
「凄く騒がしいですね。」
「いやあ…まあ、俺もびっくりしているんだが。」
「なにがですか?」
「斉藤とバスケ部の一年の中原が。」
水野紘の声が近付いてくる。
「優輝さん。どういう事だよ!知っているなら教えろよ。」
相変わらず、水野紘は騒々しい。
「朝練に来たんだろ?」
今朝の橋元君は、かなり機嫌が悪そうだ。
彼等の写真撮影の光景を私は見ていない。
校門から少し離れた場所で、森野先生に立ち塞がれたから。
でも、行く手を阻まれた他の生徒達も、私にも。
なんとなく、彼等が言い争っているような雰囲気は感じていた。
でも、切羽詰った雰囲気じゃなかったから、あまり気にはしていなかったけれど、やはり何かあったのだろうか?
「朝練って、そんな場合じゃねぇーよ。どういうことだよ!」
橋元君の肩を後ろから掴んだ水野紘を橋元君が見上げた。
「斉藤先輩と中原が従姉弟って。」
「え?」
思わず声が出た私を、橋元君と水野紘が見る。
そして、森野先生は。
「という事らしい。いやー、全く…。」
立ち去っていく森野先生の背中を見送る。
こんなに騒がしい状況を生み出したのは森野先生にも責任があると思う。
離れた場所から1人で盗み見なんてしていないで、写真撮影を中止させれば良かったのよ。
平日じゃなく休日にお願いする、とか。
注目を浴びる人が集まっているんだから。
「水野君。」
背の高い下級生を見上げた。
「朝練は?」
「そんな場合じゃない、です!」
叫んだ彼の体の向こうから、見覚えのある人が歩いてくる。
「それ、こっちに近付いてくるバスケ部の先輩に言ってね。」
水野紘は逃げようとするけれど、先輩には勝てないようで、あっさりと捕まっていた。
「橋元君。」
彼が私の視線の先を追う。
その廊下の奥には、彼等が何度か利用した音楽室。
「練習室の窓が重くて。」
少しだけ橋元君の眉間に皺が寄る。
「錆びてるのかしらねぇ…。」
なんだか、凄く怖い目で睨まれた気がするけれど。
「閉めて来てくれる?」
「どうして、俺?」
私は深呼吸をした。
「だって私、今日は大事な演奏があるの。指を怪我したら大変でしょ?」
「俺だって練習がある。」
彼の言い分は尤もだ。
「私はね、今日。」
両手を広げて彼の目の前に出した。
「お誕生日会なの!」
強い言葉に橋元君が少し怯んだ。
「分かる?お誕生日会なのよ?大事な日なの。大切な日でしょ?」
一歩下がった橋元君が、私を見て呟いた。
「むつみの周りの人間って…俺に対して理不尽だと思う。」
彼の溜息に笑いそうになるのを堪えるのが精一杯だった。
『施設での演奏は、これからは加奈子ちゃんにお願いしたいけれど、どうかな?今度、お誕生日会があるから是非来て欲しい。みんなに聞かせてあげよう。』
未来を、私は掴めるのだろうか?