意味もなく発言する人じゃない。
理由なく行動する人じゃない。
それは分かっているけれど、晴己お兄様の言葉を受け止めることが出来ない。
「1ダースって…ちょっと迷っちゃいますよ?」
笑顔を返せば笑顔が返ってくる。
「相手が12人だと、二股とか浮気とか超えちゃいますよね」
「そうだね。だけど好美は特定の異性と付き合っている訳じゃないから、二股でも浮気でもないよ」
優しい笑顔で言われると、そうだよね、悪いことじゃないよね、大丈夫だよね、と思ってしまいそうになる。
身内の女性に12人の男性をどうぞ…そんな人は世の中に存在しないだろう。
冗談だと思いたいけれど、晴己お兄様が冗談を言うのも信じられないし…というか、不用意に発言したら周囲が動いちゃう可能性があるから冗談など言わないはずだ。
「あのー…ちなみに、晴己お兄様の頭の中には12名の男性の姿は、ありますか?」
あるから発言してるんだろうなぁ。
周囲の年齢が近い女性は、ほとんどが晴己お兄様の婚約者候補だったらしいし、単位がダースとか、そういう次元ではない。
「桐島賢一、三上大輔、立辺哲也、橋元涼」
並ぶ名前。
「小野寺君は12人に含んでも含まなくても、どちらでも良いからね」
お気遣いありがとうございます、なのか、どうなのか。
「あとは、これから選ぼうか?」
12名、選出していないみたいですね…。
こんなことを言い出したのは、機嫌が悪いからなのか、パーティでのことを怒っているのか、それとも可愛い中学生女子が従弟に夢中だからなのか。
色々と問いたいけれど、現在、晴己お兄様の感情が良くも悪くも私に向いているのは事実だ。
「晴己お兄様が選んで下さるのなら、私は待っているだけで良いですよね?20歳で決めれば良いんでしょう?」
適当で良いかなぁ。
まだまだ時間はあるし。
電撃的な出会いとか、しちゃうかもしれないし。
「それでも良いけれど、もちろん好美が候補者を選出しても良いんだよ?涼みたいに立候補する人もいるかもしれない」
いないでしょう。
面倒だよ、鬱陶しいよ。
私を取り合う為に、その他の11人と争う人なんて、いない。
前出の人達は、色々と考えがあって、メリットデメリットがあって…だから。
「そうだね…松原君は、どう思う?」
「え?えーっ!!晴己お兄様、何を言ってるの?」
そこで、ようやく、私は感情を出した。
「何って…松原英樹君。卒業後も好美と親しいし、凄く親身になってくれたみたいだから」
「そうですけれどっ!」
本人の気持ちは、完全に無視ですか?
「頼れる人だよね?」
「そうですけれどっ!」
弘先輩の親友を候補にしますか?
過去…一応過去ってことにしておくけれど、過去の恋敵を候補にしますか?
「晴己お兄様、酷い」
「そうだろうね」
責めたのに、彼は平然としている。
「僕は好美を護れる人が1人でも多いと安心だ」
そうかもしれませんけれど。
「僕自身の個人的な感情は不要だし、過去よりも未来が大事だと思っている」
ですが。
「報われないと分かっていながらも好美を護れる男性が必要だ」
色んな意味で、松原先輩は報われていませんけれど…。
ちょっと、勝手過ぎる。
従弟に対して、どう思っているのだろう?
妻の従兄に対しても、申し訳ないと思わないのだろうか?
「そういう感じの選び方で良いから」
私は盛大な溜息が出た。
「適当に聞こえますけれど?」
「適当で充分だよ」
「え?」
「涼が自ら名乗り出たことで、他も騒ぎ出すはずだ。好美はそれを見ているだけで良い」
見てるだけって、私は当事者なのに?
「加奈子ちゃんが正式に姫野本家を訪問したのは、今日が初めてなんだ」
急に話が変わって、私は少し混乱する。
「彼女を援助するのは姫野でも新堂でもない。僕だよ。僕は加奈子ちゃんの才能を壊したくないからね」
ゾクゾクと、体が少し震えた。
こういう時に、私と気持ちを共有してくれるのは誰だろう?
姫野でも新堂でもない、誰にも影響されず、誰とも関わらなくても自分の力で生きることが出来る人。
「優輝は…どうするつもりですか?」
本当に訊きたいのは、優輝の事じゃない。
優輝に対する晴己お兄様の考えなど、分かっている。
「涼とは適度な距離をお願いできるかな?僕は響子さんに関わって欲しくないからね。優輝には僕だけで充分だ」
晴己お兄様にとって、時々姫野は邪魔な存在になる。
その援助を受けて留学した弘先輩は…どうなるのだろう?
◇◇◇
晴己お兄様は車から降りず帰って行った。
自宅に戻ったのか、仕事なのか、テニスクラブなのか、それとも、あの子の家なのか。
友人の夫という位置でいて欲しいのに、晴己お兄様は私の身内で、社会的な地位を考えれば私の後見人としての立場にもなれる。
幼い頃から今までの記憶が全て繋がっていて、そして私の記憶に晴己お兄様が存在していれば、私は何の迷いもなく彼に従順に生きてきたと思う。
だけど、現状では無理だった。
「おかえりなさい。好美さん」
「おかえりー」
母屋の玄関で出迎えてくれたのは、桐島明良君と雅司だった。
明良君に荷物のように軽々と片腕で抱えられている雅司は、楽しそうに喜んでいる。
だけど、雅司は随分と体が大きくなったから、片腕で軽々は来年は無理かもしれない。
明良君も成長するから無理じゃないかもしれないけれど…みんな、どんどん成長していく。
「兄も来ています」
履物で分かっていたけれど、明良君に言われて憂鬱になった。
「落ち込んでいますから慰めてあげてください」
なぜ私が?
そう言いたいけれど、それは雅司の楽しそうな姿に、言えなくなる。
私が雅司を弟だと認識する前から、大切に護ってくれた。
心配性の兄が雅司を預けた兄弟。
客間に辿り着いて、おかえりなさいと出迎えてくれた人は、優しすぎて、ちょっと頼りない人。
だけど、最近変わってきたから…鬱陶しかったりもする。
「座って下さい」
落ち込んでいる人の口調では、ない。
「橋元涼さんが候補に名を連ねると聞きました。どういうことですか?」
知りません。
勝手に、涼さんが言い出して晴己お兄様が納得して、哲也さんと一緒に来たんです。
「好美さんは了承したのでしょうか?」
了承って言うか、私の意見なんて通るのかな?
勝手に決まっていたけれど?
「これ以上、候補を増やしてどうするつもりですか?」
そうだよね。
私も同じ意見です。
でもね、まだまだ増えるんだって。
1ダースだって。
鉛筆と同じ扱いだよ?
「現状の候補だけでは不服ですか?違いますよね?哲也さんを選ぶか小野寺さんを選ぶか、それは好美さんが決める事です。同列にする為に大輔さんが加わり、時間稼ぎの為に僕が加わっただけです。橋元涼さんは全くの無関係でしょう?面識は?」
賢一君の中では、哲也さんか弘先輩、その二択だけだ。
あくまでも、彼自身は脇役らしい。
「会ったことはなかったけれど…彼の家族には全員…おじいちゃんとおばあちゃんと、ご両親と弟には会った事があって」
盛大な溜息を賢一君が出す。
「それは、僕達ではダメですか?叔父が…桐島裕が和歌子さんと結婚しないからですか?僕の家族は、僕が好美さんと結婚するしないは、全く関係なく、あなたの事を大切に思っています。橋元さんの家族に頼らなくても…」
そうだよね。
だけどね。
普通なんだよ。
橋元家は、凄く普通の家族なの。
支えあって助けあって、泣いたり喧嘩したり笑ったり、たぶん、そういう家族。
祖父の謝罪の為に、叔父の願望の為に、従妹の安堵の為に彼女の夫の命令に従い、自分の気持ちは全て無視して排除して、従弟の幸福の為に結婚しても良いと、全て自分が犠牲になっても良いと、そう考えてしまう賢一君が育った家庭とは、違うの。
途端に笑顔になる人は、勝海君のおじいちゃんだと思うと、凄く妙な感じだ。
純也さんが流暢なフランス語で話す相手は、昨夜テレビで観たパティシェ。
有名らしい…私は知らなかったけれど。
昨晩、響子さんに彼に関する情報を詰め込まれて、私の頭はチョコやクリームで溢れている。
そんな重い頭なのに、土曜の午後に呼び出されて、ちょっと不服だけれど…仕方がない。
純也さんが留学時代から懇意にしているらしいパティシェの男性は、私に向かって微笑んでいる。
甘いもの、それほど好きじゃないです。
私は水羊羹が好きです。
…と、言える雰囲気じゃない。
実際に美味しかったから、私も笑顔を返して、なぜこの場に杏依ちゃんがいないのか、問いたいけれど我慢する。
良いの?って思うけれど、色々と考えがあるみたいだ。
弘先輩が、この場にいたら喜びそうだ。
イチゴ狩りは当分先だから、今日の写真を送ろうかな?
「加奈子ちゃん、どうする?」
写真をお願いしようと思ったのに、孝明君に邪魔をされた。
そんなに加奈子ちゃんの返事を急がなくても良いのに。
明らかに彼女は困っているのに。
それが分からないほど、孝明君は鈍感ではないはずだ。
そして、加奈子ちゃんは、孝明君に流されないようにと踏みとどまっている。
孝明君が加奈子ちゃんの友人に告白しなければ、加奈子ちゃんは流されていたかもしれない。
自分の友達の気持ちを乱されて、無関係でいられる性格じゃない。
孝明君だって、それは分かっているはずだ。
「お父さんと…美咲さんに相談する」
加奈子ちゃんの言葉に、孝明君の指がピクッと反応した。
それを誤魔化すように、彼は純也さんの前に並ぶパティシェの光る粒に指を伸ばす。
彼の告白の相手が誰なのか発言したら、晴己お兄様は、どんな反応をするだろう?
それとも、既にご存知…かもしれない。
中学校を卒業したら日本を離れる杉山孝明。
そして、答えを迫られている飯田加奈子。
この2人も、私から離れてしまう人達だ。
寂しいけれど、それが才能を伸ばす為のものならば。
彼らの未来へと繋がるのならば。
「私も…行こうかな」
その言葉に、孝明君が私へと近付いた。
そして、慣れた動作で跪いて私を見上げた。
嫌なんだよね…これ。
でも、彼はお気に入りなのか何なのか知らないけれど、私に跪く。
「是非、来て下さい。僕の父と母も…叔父も喜びます」
きっと。
彼の家族が見せてくれる思い出は、私の知らない父の過去。
孝明君が、私に見せてくれるのは、私の父に対する尊敬と憧れ。
私の手を取り、顔を寄せる中学生。
残念過ぎる成長だ。
「孝明君」
牽制するように、彼の手から抜け出てサラサラの髪を撫でた。
不服そうな表情を気にせず、私は彼の瞳を見る。
「写真、撮って」
「写真…ですか?」
「うん」
見上げた先のパティシェに微笑む。
「…分かりました」
「テーブルの上も込みで撮ってね」
立ち上がった孝明君が、カメラを構える。
そして、パティシェは。
着物姿の私に、頬を寄せた。
これか、これなのか。
杏依ちゃんが来ないと言うか、来れないと言うか、連れて来ないと言うか…。
「…ありがと…孝明君…」
夏休みは色々と面倒かもしれない。
だけど、上機嫌になったパティシェに笑顔を返してしまう私自信が、色々と面倒な性格に成長してしまったのが問題だ。
「晴己お兄様。杏依ちゃんへのお土産?」
パティシェの名前が入った箱に、晴己お兄様がチョコや小さな焼き菓子を詰めている。
自分の名前で商品が売れるって、凄いな、と思った。
箱自体はシンプルなのに、名前があるだけで、最高の価値を持つ。
晴己お兄様の指先のチョコは、とても小さい。
箱に詰められたスイーツは、12個。
それを杏依ちゃんは多いと思うかな?
少ないと思うかな?
可愛い形。
鮮やかな色。
それぞれの香り。
全てが個性的で、どれかひとつを選べない。
きっと眺めて悩んで困って喜んで。
コロコロ変わる彼女の表情を見て、晴己お兄様も微笑むのだろう。
想像して…ちょっと気持ちが悪くなってきた。
やっぱり、こういう時に身内なのだと実感する。
晴己お兄様の杏依ちゃんへの愛情は、チョコをドロドロに溶かしそうな勢いだ。
嫌悪の気持ちを飲み込む私を、姫野のおじ様が呼ぶ。
パティシェとおじ様と純也さんは、これからパーティに出席する。
3人を見送って、役目を終えてホッとする。
部屋に戻ると、晴己お兄様は2つ目の箱を手にしていた。
他にも誰かに渡すのだろうか?
そこに詰められるのは、キャンディーのような…そういえば、ホワイトデーで弘先輩から貰ったキャンディもキラキラしていた。
由佳先輩が姫野さんのキャンディは他とは違うと言っていたのを思い出す。
確かに美味しかった。
甘すぎず、一つ一つ手作りみたいだった。
あれと同じなのかなぁ。
晴己お兄様が12個を詰め終えたのを確認して、私は問う。
「ひとつ、貰っても良い?」
「どうぞ」
指を伸ばして、ブルーを手に取る。
水色。
淡くて、透き通っている。
何味だろう?
思ったよりも硬い気がする。
「好美、飲み込んじゃダメだよ?」
当然だ。
ちゃんと味わうつもりだ。
「溶けないよ?」
不思議そうに晴己お兄様が私を見る。
「…好美も、興味を持ち出したのかと思ったけれど。飴だと思った?」
首を傾げて、晴己お兄様を見る。
孝明君は、私に先ほどの仕返しをするかのように笑っている。
加奈子ちゃんは、大きな瞳をゆっくりと瞬きさせて、そして…カタンと音を立てて立ち上がる。
落ち着けと孝明君が彼女を宥めている。
私は自分の指にある、その塊を眺めた。
「なーんだ。食べ物じゃないんだ」
それを元に戻した。
晴己お兄様が詰めた2つの箱。
杏依ちゃんは、どんな反応をするだろう?
どれを選ぶだろう?
それとも、どっちの箱…だろう。
◇◇◇
加奈子ちゃんを家まで送ると、孝明君も車を降りた。
加奈子ちゃんのお父さんと、そして孝明君の叔母である美咲さんが2人を待っていた。
4人で食事に行くと言う彼女達を、羨ましく思った。
一緒に混ざりたいと言えば拒まれないだろうけれど、他人の私は完全にお邪魔だ。
家に帰れば響子さんが待っている。
1人じゃない。
だけど、このまま橋元家を訪問したほうが賑やかで楽しくて、寂しい気持ちが消える気がする。
そう思う気持ちはあっても、隣に座る晴己お兄様に話すことは出来ず、車が坂道を登り始めた。
「晴己お兄様。涼さんに会いました」
「意外だった?」
「はい。でも、ちょっと納得する部分もあります」
優輝は…これから、どうするつもりなのだろう?
晴己お兄様は、優輝をどうするつもりなのだろう?
「大輔さんと哲也さんと賢一君と涼さん。選べば良いと晴己お兄様は言いますけれど、あまり人数増やさないでください」
「その4人なら誰を選んでも、それほど大差はないよ」
あっさりと言う晴己お兄様は、彼らに対して失礼だと思う。
「選べないのなら人数を増やせば良い」
私の要望と反対の意見を言い出す人。
「良い事を考えたんだ」
優しい微笑みだけれど、絶対に良い事じゃないと思う。
「12個と12粒なら…12人も楽しそうだ」
「…はい?」
妙な事を言い出した人に、ちょっと体が震えた。
「候補は12人。1ダースだよ。綺麗な単位だと思ったから」
…私は、思いません。
「好美ちゃん。おなかすいた?野菜もお肉も食べられる?早く座りなさい。みんな、来ちゃうわよ?」
私は響子さんに座らされて、松原先輩は授業の準備に向かう。
後輩の勉強、邪魔しようかなぁ。
3年生がいるのなら遠慮するけれど、今日は2年生と1年生だけだ。
松原先輩は、部活を理由に成績が下がるのは困ると言って、後輩達の面倒をみている。
既に卒業しているのに、責任感が強い人だ。
まぁ…私もその責任感に護られた訳だけれど。
校庭を兄に追いかけられて、酷い点数を知られて、先輩達に勉強を教えてもらうようになって。
あの時からずっと、そして今も。
私は頼り続けている。
分かっているけれど、松原先輩になら、美味しいイチゴを届けても良いかなぁとか、少しは思うけれど。
イチゴイチゴイチゴ。
イチゴ大福の次は桜餅で柏餅で。
だったら、市川先輩連れて行くほうが良いのかなぁ?
あー…でも、嫌だなぁ。
「いただきまーす」
空腹だと、思考がまとまらない。
考え事をすると、おなかがすいてくる。
おばあちゃんのイワシと炊き立てのご飯。
「哲也、激しく後悔してるだろ?」
「うるさい」
「哲也がいなくても、好美は大丈夫だったんだよ。好美を支えてくれる人も、護ってくれる人もいる。泣いても叫んでも怒っても、全部受け止めてくれる人がいる。今更だ。哲也は選ばれない」
大輔さんは私の三つ編みを、クルクルと頭に巻きつける。
四方八方に意思表示していた三つ編みが、落ち着いていく。
「だったら、どうして晴己は俺を排除しない?」
その言葉に顔を上げる。
哲也さんは無表情のままで私を見ていた。
そして目が合って、逸らされた。
どうして私が逸らされるんだろう?
やっぱり、苛々する。
「俺の肉、取るなよ」
「大ちゃんのお肉?名前書いてないよー?」
「ケーキ食べて腹いっぱいじゃねーのかよ?」
「苛々すると、おなかがすくの!」
「好美ちゃん!大輔さん!お肉の取り合いで喧嘩しないでっ!自分達が食べる前にお客様にって、どうして思わないの?」
響子さんが、私と大輔さんの間に割って入る。
そして、お肉のお皿を涼さんの前に置いた。
「橋元さん。すみません。次回はちゃんと、1人前ずつ用意しますから」
響子さんの謝罪の言葉。
次回って、次回はあるのだろうか?
「お気になさらず。しかし…随分と変わったお姫様ですね」
そう言って笑う。
嫌味を言われた。
うー…やっぱり、苛々する。
「好美さん。質問があります」
「…どうぞ」
「どうして哲也じゃ、ダメなんだ?」
私は箸を置いた。
お茶を飲んで、湯飲みを置く。
「「変態だから」」
私と大輔さんの声が重なった。
◇◇◇
姫野の当主は幸せに満ちている。
あー…本当に幸せそう。
ニコニコ笑って私を見ているから、私も笑顔を返す。
この人の事を妖怪だと思っている人達に本当は違うのだと言いたい気もするけれど、こんな風にずっとニコニコと眺められたら、やっぱり怖いかも。
だけど、私は笑顔を返す。
それが、また…怖いのだと、兄は言っていた。
姫野のおじ様は、私にとっては良い人だ。
ちょっと子どもっぽいところがあって、心の奥底に寂しさを抱えている。
おじ様は、私と幸せな時間を共有したいと望んでいる。
それが、ちょっとズレていても。
私には興味がないことでも。
荷が重くて、面倒で、退屈でも。
物凄く膨大なお金と、尋常じゃない人手が必要だとしても。
おじ様が私に与えたいと思う幸福があれば、私は享受する。
慣れなくて苦しい時もあるけれど。
「好美。パスポート大丈夫?」
「はい。写真、変な顔だったけど」
晴己お兄様が笑う。
綺麗な顔の人に笑われて、ちょっとムカッとした。
成長するにしたがって、私は晴己お兄様の顔立ちからは離れている。
最近の晴己お兄様は以前にも増して格好が良い。
なんというか、内面って顔に出るようになるんだよね、年齢と共に。
最近の晴己お兄様は、綺麗とか素敵とかよりも、男っぽい感じだ。
まぁねぇ、なんだか色々とドロドロしてるし。
おじ様を妖怪だと太一郎先生は言うけれど、孫の夫も厄介だと思います。
「夏休みはどうする?」
「晴己お兄様は、どうするの?」
私の希望は、全ての時間を曾祖母と…だ。
離れているから、長期の休みには訪問したい。
だけど、それは私の望みであって、正しい選択かというと微妙だ。
兄はどうするつもりなのだろう?
「杏依と相談中。一箇所くらい合流できると良いね」
「そうですね」
杏依ちゃんは勝海君がいるから、数箇所を移動するのは難しいだろう。
晴己お兄様は仕事を絡めて様々な個人的な用事も済ませるつもりなのだろう。
曖昧に終えた私達の会話は、私達の関係と同じだった。
微妙な距離がある。
私と晴己お兄様の距離を近付けてくれたのは杏依ちゃんだ。
遠慮があるけれど頼れる存在。
頼りたいけれど、微妙な距離の人。
友人の夫として接するほうが、気持ちがラクだった。
そして、兄との距離は複雑なままだ。
誰も私達の間を縮めてくれない。
私達2人でどうにかしなくてはいけないけれど、この年齢の兄妹は距離があって当然な気もする。
杏依ちゃんでさえ、私達の間に入ってくれない。
従弟である須賀雅司に対しては、ちょっと強引なところもあるけれど、他人の須賀康太の家族関係に杏依ちゃんは関わってくれない。
「うわっ…美味しい」
飛び跳ねるような可愛い声に、私は視線を向けた。
「あ…すみません」
声を出してしまったことを恥ずかしがって飯田加奈子ちゃんが視線を伏せる。
普段落ち着いている彼女がデザートを食べて喜ぶというのが不思議で、私は思わず笑みがこぼれた。
「そんなに美味しいの?」
問うと彼女が顔を上げる。
「はいっ!噂には聞いていましたけれど…びっくりです」
「今度一緒に食べよう?」
…今、食べているでしょう?
私は、私と加奈子ちゃんの会話に割り込んだ人を見るが、彼は気にせずに話を続ける。
「向こうで食べると種類も多いよ?夏休みの間、1週間ほど来たら?おじさんのお休み、いつだっけ?」
既にカレンダーまで持ってきている。
「お父さんは、いつも…長い休みは取らないから」
「そっかぁ。じゃぁ、今年はおじさんにお休みあげようよ?旅行、喜ぶと思うよ?観光する所も多いし、あぁ、でも。1度は僕の演奏会に来て欲しいな」
気持ち悪い中学生に成長してしまった。
残念過ぎる。
確かに、その片鱗は以前からあったけれど。
私の腕に収まっちゃうくらい可愛かったのに。
杉山孝明君が、加奈子ちゃんを口説いている。
音楽の世界に彼女を誘惑する為に。
世界で音楽を弾かせる為に。
「香坂先生は、何日間の滞在ですか?」
孝明君に答えずに、香坂純也さんに質問をする加奈子ちゃん。
不服そうな顔の孝明君を見て、思わず噴出すると、彼が困った顔をする。
そんな視線を気にせず、私は加奈子ちゃんが美味しいと言った、艶々と光る粒に指を伸ばす。
あ、確かに美味しい。
「僕達は孝明君の演奏会前後の2週間」
「え?そんなに長く?」
「志織さんが初めてだからね。挨拶したい方達もいるし、行きたいお店もあるから」
それって、純也さんが行きたい店…だろうなぁ。
「志織さんは僕が留学中、一度も来てくれなかった。2週間でも足りないくらいなんだ。あの時来ていたら、2人で懐かしいと言いながら街を歩くことも出来るのに、今回が初めてだから、本当に大変で」
何が大変なのかは分からないけれど、純也さんは不満たっぷりだ。
留学中に行かなかったら、こんな風にずっと責められるのだろうか?
私は、不満顔の純也さんに光る粒達を差し出した。
「卑怯だぞ。涼」
「抱き合いながら言われたくない。哲也に勝てないのなら争いたくない」
「涼が勝てないのは、現時点で、だ」
いや、違う。
現時点でも哲也さんは勝っていない。
「毎日毎日イワシを持参されたら、好美は陥落する」
おばあちゃん、ごめんね。
毎日イワシは、ちょっと無理です。
「俺は頼まれた料理を持って来ただけだ。何が卑怯だ?」
「橋元さん、哲也さん、好美ちゃんと一緒に食べます?」
「はい。いただきます」
「涼は帰れ。用件は伝えた。帰れ」
「この状況で俺だけが帰るのは不公平だ」
「涼は家族に話したのか?好美にプロポーズすることを、家族は納得しているのか?」
「話していない。納得するわけがない。俺は自慢できる恋愛など一度もしていない」
自信たっぷりに答えなくても。
それに、プロポーズだと表現されても、違う気がする。
「だけど、15歳から執着し続ける哲也よりはマシだと思っている」
私も同感だ。
響子さんは私達に構わずに準備を始めている。
家政婦さんが出入りする度に、料理の香りが増えていく。
男性2人が増えたから、お肉料理を増やしたみたいだ。
私は子ども達とケーキを食べているから、それほど空腹ではない。
お昼も、杏依ちゃんに勧められて、色々食べちゃったし。
イワシとご飯とお味噌汁だけで良いかも。
でも、野菜と肉を食べるように響子さんと哲也さんが言いそうだ。
だったら、涼さんはラクかもしれない。
私が何を食べても、どんなことをしていても放っておいてくれそうだ。
だって、私に興味がないから。
料理のことを考えていたら、どんどん冷静になってきた。
涙も止まり、溜息を出す。
哲也さんから離れよう。
彼の手つきが怪しくなってきている。
宥める様な手のひらだったのに、今は指先が私の背骨を辿っている。
「現行犯」
背中から哲也さんの指が離れた。
「好美が二十歳になるまで戻ってくるなって言っただろ?わざわざ会いに来るな」
イワシを持ったまま、私は背後に引っ張られる。
「いらっしゃい。大ちゃん」
イワシが大輔さんの手でテーブルに置かれた。
「好美も、哲也を煽るなと言っただろ?」
「私、何もしてないもん」
以前と同じせりふを返したけれど、本心は以前とは違うことには、自分で気付いている。
「無自覚も自覚ありも、どっちも悪い」
「大輔さんも食べます?」
響子さんは私と大輔さんの会話など、気にしていない。
「いただきます。あー…好美、パスポート取りに行った?」
「まだ」
「早く行かないと」
「はーい…」
覇気のない私の声に、大輔さんが呆れた視線を向ける。
「パスポートって…今なのか?」
哲也さんに問われて、私は視線を逸らす。
「俺がイギリスに行く前に言っただろ?申請しろと。今まで持っていなかったのか?」
頷くと、哲也さんが大輔さんを睨む。
大輔さんは無関係だから、睨むのは可哀相だ。
「哲也を基準にして好美が行動すると思うなよなぁ…好美が今回申請したのは、小野寺君が留学するから。響子さんの父親が好美を連れて行くと言った時に、パスポートありませんなんて、言えるわけがないだろ?」
「俺の時は申請せずに、小野寺弘なら申請するのか?」
「当たり前だろ、哲也」
当たり前なのかどうか、分からない。
だけど、響子さんにも言われたし、無理やり申請場所に連れて行かれたし。
その時に見た書類から、私の母のことも、私の兄のことも、文字で理解することが出来た。
分かっていたことだけど、自分の目で見て、それを受け入れることに戸惑ったのは事実だ。
その現実を響子さんと大輔さんが私に見せたかったのだと…それも事実だ。
そして、姫野のおじ様の援助で留学することになった弘先輩に会う為には、パスポートが必要なことも、事実だった。
「好美。小野寺君が」
「響子さん。私、ご飯とイワシで充分かも。だってケーキ食べちゃったし」
「留学期間中は日本に戻れないから」
「お野菜は、抜きでも良いかなぁ」
「好美!」
聞きたくない。
考えたくない。
弘先輩のこと、思い出したくない。
立ち上がって、この部屋で食事をするか母屋の台所に行くか、離れに行くかを考えて、腕時計で時刻を確認する。
「あっ…」
思い出したのと同時に、声が聞こえた。
近付く話し声。
姿を見せる人。
「松原先輩!こんばんは!」
必要以上に元気な声を出した私に、松原先輩は焦りもしない。
私の情緒不安定に、彼は凄く慣れてしまっている。
私は松原先輩に母屋の一室を貸している。
その部屋で彼は勉強を教えている。
進学塾で講師のアルバイトもしているけれど、個人で家庭教師もして、今日のように生徒を集める時もある。
その集まる場所に私の家を使用したいと言ってくれた時、お役に立てるなら、そう思った。
松原先輩は感謝してくれたけれど、実際には私に弘先輩と会う時間を作ってくれた。
高校を卒業した先輩達に会えなくなるのは寂しいと思っていたのに、松原先輩、弘先輩、由佳先輩が講師として生徒を集めた。
瑠璃先輩は時々お手伝いしてくれるし、授業抜きでも、時々会いに来てくれる。
「今日は、サッカー部のみんなですよね?」
私が卒業しても、部員達が来てくれるから、私の家はいつも賑やかだ。
中学生の生徒もいる。
小学生の授業もある。
だから…施設の子達も来ることがある。
杏依ちゃんの図々しさとは違う手段で、松原先輩は私の場所を守ってくれた。
「今日は瑠璃も手伝ってくれるから、+3人分で、軽食お願いします」
「はい!」
って、私が作るわけじゃないけれど。
+4じゃない。
これからは、弘先輩は含まれない。
「ということで、ここからは個人的な話題。弘が」
聞きたくない。
松原先輩が弘先輩を呼ぶ声は、ずっとずっと中学生の時から聞いていて、私は色んなことを思い出してしまうから。
考えたくない。
それなのに。
「うっ…」
ポロリと一粒零れれば、もう止まらない。
「松原先輩が」
また、損な役目ばかり。
「説得してくれれば良かったのに」
ポタポタと畳に涙が落ちる。
「行くなって言ってくれれば良かったのに」
あの時、哲也さんが受け止めてくれなかった思いを、弘先輩と松原先輩は受け止めてくれた。
理不尽で勝手で我侭で。
何度も心の中で謝りながら、私は先輩達に甘え続けている。
「ごめん。姫野」
大きな手のひらは、誰にも似ていない。
「俺がもっと、弘と話し合えば良かったのに」
話し合っても、弘先輩は勝手に1人で決めたと思う。
「俺が行く時は一緒に行こう?」
パスポートなど必要ないと思っていたのに、松原先輩の言葉に私は素直に頷く。
「姫野にお願いがあるらしい」
何だろう?
「イチゴを」
「…はい?」
見上げると、困ったように溜息を出された。
「イチゴは、やっぱり日本が美味いらしくて…まぁ…それには俺も同感だが。で」
凄く凄く言いにくそうだ。
「会いに来るのなら、イチゴが美味しい季節でお願いします、らしい」
「あ?え?い、いちごー?」
ピタッと涙が止まる。
「ちょ、ちょっと!私がイチゴ持って行くんですか?美味しい時期を選んでですか?帰ってきたらいいじゃないですか!そんなに食べたいのならイチゴ狩り行けばいいでしょ!」
曾祖母の近くでイチゴ狩りもあった気がする。
行って、たっぷり食べて、写真送ろうかな?
うん、そうしよう。
「弘先輩なんか、大嫌い!」
松原先輩が笑う。
「だよなぁ。嫌いだよなぁ」
「嫌いじゃなくって大嫌いなんです!」
「あぁ、分かった分かった」
「分かってません!」
「俺、準備あるから」
「ちょーっと待ってください!」
私の叫び声に混ざって、おなかが鳴った。
お誕生日会をして、加奈子ちゃんの演奏を聴いて。
杏依ちゃんが絵本を読んでくれている間に眠ってしまった私の髪は、女の子達が何本も細い三つ編みを作り、雅司に大笑いされた。
三つ編みは四方八方に、重力を無視した方向に持ち上がっている。
上着を羽織った私に驚いた女の子達が呼び止めてくれたけれど、私は三つ編みのまま迎えの車に乗った。
杏依ちゃんに頼っても、上手にほどいてくれるとは思えない。
私には響子さんという強い存在がいる。
子ども達の夕食の時間も迫っていたから、私はそのままの髪型で帰宅した。
そして帰宅すると。
「三つ編みにはセーラー服じゃないのか?」
哲也さんの変態発言に出迎えられた。
「哲也さんも、そっちの趣味ですか?」
母屋の和室に座る哲也さんは私を見上げて、ちょっとだけ眉を動かす。
だけど、すぐに無表情になって、その表情に私は少し安堵した。
今日は酔っていない。
感情を抑えている。
「大輔と一緒にするな」
大ちゃんは、まぁ色々と…多趣味だ。
「好美ちゃん。おかえりなさい」
その声に振り向くと、響子さんが持つお盆には湯飲みが2つ。
「三つ編み?みんな上手になったのね」
「でしょー?」
ふふっと響子さんと笑い合う。
出来るようになった三つ編みを上手に再現してくれるのは嬉しい。
私が教えたわけじゃないけど。
「好美ちゃん。お客様よ」
「おなかすいたー。今日は何?食べて髪洗うから、響子さん、三つ編みほどいてね」
体の向きを変えて離れに向かおうとした。
「好美」
背後からの声を無視すれば良いのに、足の動きが止まってしまう。
「お客様だと響子さんが言っただろう?」
「…私に、じゃないですし」
私のお客様ではないのだと、勝手に判断した。
そう思い込みたい私は、どう対応して良いのか分からなくて、そんな自分が嫌だ。
平然と対応したい。
だけど、やっぱり嫌だ。
空港で出来る限り普通に会話していたつもりだけれど、その後電車で泣き続けた自分を思い出して、心が痛い。
あれから時間が経過したのに、弘先輩とは楽しい時間を過ごしたはずなのに。
哲也さんのことを思い出す回数など、減っていたはずなのに。
たった数日で私の気持ちを過去に戻した彼と、普通に会話する自信がない。
「好美に、だ。涼は仕事中らしい。会社に戻るから、あまり無駄な時間を使うな」
哲也さんの言葉に振り向いて、私は2つの湯飲みの意味を理解する。
「こんばんは」
部屋の奥で立ち上がる人に視線を向ける。
「…こん…ばんは」
なぜ、この人がいるのだろう?
この人がお客様なら、哲也さんは何だろう?
どうして哲也さんは来たのだろう?
タイミングが良いのか悪いのか分からない。
私は喜んでいるのか怒っているのか、自分でも分からない。
「哲也が言ったように会社に戻らなければならないので、手短に。直接報告したかったので」
元気いっぱいの男の子と顔は似ているのに、随分と涼さんの印象は違う。
だけど、最近の優輝は涼さんに、ちょっと似ているかも、と思った。
無邪気にテニスだけに夢中になっていた小学生だったのに。
近所に引っ越して来てからは、落ち着いてしまった。
「報告、ですか?」
嫌な予感がした。
色んなことが起きた高校一年の秋、なぜ私は冷静だったのだろう?
失った人達と思い出が戻って来て、私を包んでくれた。
変化は大きかったけれど、満たされる気持ちも大きかった。
だけど、この数週間は違う。
失ってばかりだ。
みんな、私の前からいなくなる。
「姫野好美さんの婚約者候補に立候補することになった」
涼さんの言葉の意味が分からなかった。
助けを求めるように目の前の哲也さんを見て、そして湯飲みをテーブルに置いた響子さんを見る。
「…痛い」
その声に、再度哲也さんを見る。
「好美、頭を振るな。当たると痛い」
四方八方に広がっている三つ編みは、私が頭を動かすと凶器のようになる。
「あっ…ごめんなさい…って…そうじゃなくって、今の何ですか?」
「何って、そのままの意味だろ?何人か候補を選ぶんだろ?その1人に涼が立候補した。それだけだ」
「それだけって、哲也さんは納得しているんですか?ライバルになるのにっ!」
「好美自らライバルだと認めてくれるのか?光栄だな。俺を選べ。それで解決だ」
「そうじゃなくってっ!」
ダメだダメだ。
哲也さんとの問題は、後回しだ。
「涼さん」
クルリと体の向きを変えたら、バシッと音がした。
たぶん…三つ編みが哲也さんの腕に命中した音だ。
「どういうことですか?」
私は焦っているのに、涼さんは座ってお茶を飲んでいた。
「ちょ、ちょっと!何を悠長に、お茶なんて」
「俺、お客様なので」
そうですけれど!
私は和室の奥に進んで、涼さんの隣に座る。
お茶を飲む横顔を見上げて、訴えた。
「婚約者の意味、分かっていますか?結婚するってことですよ?それに私の場合は晴己お兄さまのこともありますし、私の家族の事、ご存知ですか?」
「うーん、なんとなく。今まで興味なかったから知らなかったけど。祖父母の話を繋ぎ合わせれば、なんとなく」
「興味がないのなら、どうしてですか?」
「面白そうだから」
「はい?」
「哲也には話しておいたほうが良いかと思って。本気みたいだし。だから付いて来て貰った。あーちなみに晴己も納得済み」
「納得?」
晴己お兄様の選択肢の中に、橋元涼が含まれる意味が分からない。
だって、私とは何の関わりもない人だ。
哲也さんも大輔さんも賢一君も、他人だけど親戚のような人達だ。
他人だからこそ、私は彼らと結婚することで本当に家族になって彼等の家族とも親族になれる。
それくらい、晴己お兄様は考えてくれている。
全くの部外者や他人と私を結婚させようなどとは思っていない。
「意外だと、思っている?」
涼さんが湯飲みを置く。
「お互いに何も知らないのに候補だと言われても気味悪いだけだろう?」
迷って私は頷いた。
涼さんが、ちょっと笑う。
「だけど、俺の家族は、どうだ?」
「…え?」
「俺と結婚すれば、好美さんは家族を手に入れられる」
ピクッと私の指先が震えた。
「まぁ、弟は不要か?優輝はうるさいだけだろうし。可愛い盛りの弟が実際にいるんだから。俺の家族は何も特別じゃない。普通の家族だ。俺が好美さんに与えることができるのは、普通の家庭だ」
震え始めた体を、自分で抱きしめた。
落ち着けと、呼吸を整えようと、だけど唇が震えていた。
おじいちゃんは、大好き。
庭を綺麗にしてくれた。
私の思い出を取り戻してくれた。
おばあちゃんも、大好き。
おじいちゃんの為に作るお弁当には、愛情がいっぱいだ。
優輝は時々顔を見る程度で良い。
恋人とベッタリだろうし、日本に居続けるとは思えないし、時々会うだけで充分だ。
姫野のおじ様の援助で、私も時々試合を応援してあげよう。
その程度で良い。
「晴己が納得した意味、理解できた?」
私は、ゆっくりと頷いた。
「あぁ、これ。イワシの煮物、夕食にどうぞ」
渡された容器は、いつもおばあちゃんが渡してくれる容器。
「涼。それぐらいにしておけ」
背後から、そっと私を包む哲也さんの腕に抵抗せず、私は体の向きを変えた。
三つ編みは哲也さんの頬を直撃した気がするけれど、今は気にしていられない。
哲也さんの胸に額を当てると、後頭部を撫でてくれる手のひらが懐かしい。
両手が塞がっていなかったら、哲也さんの背中に腕を回していたかもしれない。
イワシの容器があるから、ポロポロと流れる涙を拭うことも出来ない。
涼さんの家族と過ごす空間にいる自分を想像して、欲しいと思ってしまった。
凄く魅力的だった。
自分が家族というものに執着しているとは、思わなかった。