お誕生日会をして、加奈子ちゃんの演奏を聴いて。
杏依ちゃんが絵本を読んでくれている間に眠ってしまった私の髪は、女の子達が何本も細い三つ編みを作り、雅司に大笑いされた。
三つ編みは四方八方に、重力を無視した方向に持ち上がっている。
上着を羽織った私に驚いた女の子達が呼び止めてくれたけれど、私は三つ編みのまま迎えの車に乗った。
杏依ちゃんに頼っても、上手にほどいてくれるとは思えない。
私には響子さんという強い存在がいる。
子ども達の夕食の時間も迫っていたから、私はそのままの髪型で帰宅した。
そして帰宅すると。
「三つ編みにはセーラー服じゃないのか?」
哲也さんの変態発言に出迎えられた。
「哲也さんも、そっちの趣味ですか?」
母屋の和室に座る哲也さんは私を見上げて、ちょっとだけ眉を動かす。
だけど、すぐに無表情になって、その表情に私は少し安堵した。
今日は酔っていない。
感情を抑えている。
「大輔と一緒にするな」
大ちゃんは、まぁ色々と…多趣味だ。
「好美ちゃん。おかえりなさい」
その声に振り向くと、響子さんが持つお盆には湯飲みが2つ。
「三つ編み?みんな上手になったのね」
「でしょー?」
ふふっと響子さんと笑い合う。
出来るようになった三つ編みを上手に再現してくれるのは嬉しい。
私が教えたわけじゃないけど。
「好美ちゃん。お客様よ」
「おなかすいたー。今日は何?食べて髪洗うから、響子さん、三つ編みほどいてね」
体の向きを変えて離れに向かおうとした。
「好美」
背後からの声を無視すれば良いのに、足の動きが止まってしまう。
「お客様だと響子さんが言っただろう?」
「…私に、じゃないですし」
私のお客様ではないのだと、勝手に判断した。
そう思い込みたい私は、どう対応して良いのか分からなくて、そんな自分が嫌だ。
平然と対応したい。
だけど、やっぱり嫌だ。
空港で出来る限り普通に会話していたつもりだけれど、その後電車で泣き続けた自分を思い出して、心が痛い。
あれから時間が経過したのに、弘先輩とは楽しい時間を過ごしたはずなのに。
哲也さんのことを思い出す回数など、減っていたはずなのに。
たった数日で私の気持ちを過去に戻した彼と、普通に会話する自信がない。
「好美に、だ。涼は仕事中らしい。会社に戻るから、あまり無駄な時間を使うな」
哲也さんの言葉に振り向いて、私は2つの湯飲みの意味を理解する。
「こんばんは」
部屋の奥で立ち上がる人に視線を向ける。
「…こん…ばんは」
なぜ、この人がいるのだろう?
この人がお客様なら、哲也さんは何だろう?
どうして哲也さんは来たのだろう?
タイミングが良いのか悪いのか分からない。
私は喜んでいるのか怒っているのか、自分でも分からない。
「哲也が言ったように会社に戻らなければならないので、手短に。直接報告したかったので」
元気いっぱいの男の子と顔は似ているのに、随分と涼さんの印象は違う。
だけど、最近の優輝は涼さんに、ちょっと似ているかも、と思った。
無邪気にテニスだけに夢中になっていた小学生だったのに。
近所に引っ越して来てからは、落ち着いてしまった。
「報告、ですか?」
嫌な予感がした。
色んなことが起きた高校一年の秋、なぜ私は冷静だったのだろう?
失った人達と思い出が戻って来て、私を包んでくれた。
変化は大きかったけれど、満たされる気持ちも大きかった。
だけど、この数週間は違う。
失ってばかりだ。
みんな、私の前からいなくなる。
「姫野好美さんの婚約者候補に立候補することになった」
涼さんの言葉の意味が分からなかった。
助けを求めるように目の前の哲也さんを見て、そして湯飲みをテーブルに置いた響子さんを見る。
「…痛い」
その声に、再度哲也さんを見る。
「好美、頭を振るな。当たると痛い」
四方八方に広がっている三つ編みは、私が頭を動かすと凶器のようになる。
「あっ…ごめんなさい…って…そうじゃなくって、今の何ですか?」
「何って、そのままの意味だろ?何人か候補を選ぶんだろ?その1人に涼が立候補した。それだけだ」
「それだけって、哲也さんは納得しているんですか?ライバルになるのにっ!」
「好美自らライバルだと認めてくれるのか?光栄だな。俺を選べ。それで解決だ」
「そうじゃなくってっ!」
ダメだダメだ。
哲也さんとの問題は、後回しだ。
「涼さん」
クルリと体の向きを変えたら、バシッと音がした。
たぶん…三つ編みが哲也さんの腕に命中した音だ。
「どういうことですか?」
私は焦っているのに、涼さんは座ってお茶を飲んでいた。
「ちょ、ちょっと!何を悠長に、お茶なんて」
「俺、お客様なので」
そうですけれど!
私は和室の奥に進んで、涼さんの隣に座る。
お茶を飲む横顔を見上げて、訴えた。
「婚約者の意味、分かっていますか?結婚するってことですよ?それに私の場合は晴己お兄さまのこともありますし、私の家族の事、ご存知ですか?」
「うーん、なんとなく。今まで興味なかったから知らなかったけど。祖父母の話を繋ぎ合わせれば、なんとなく」
「興味がないのなら、どうしてですか?」
「面白そうだから」
「はい?」
「哲也には話しておいたほうが良いかと思って。本気みたいだし。だから付いて来て貰った。あーちなみに晴己も納得済み」
「納得?」
晴己お兄様の選択肢の中に、橋元涼が含まれる意味が分からない。
だって、私とは何の関わりもない人だ。
哲也さんも大輔さんも賢一君も、他人だけど親戚のような人達だ。
他人だからこそ、私は彼らと結婚することで本当に家族になって彼等の家族とも親族になれる。
それくらい、晴己お兄様は考えてくれている。
全くの部外者や他人と私を結婚させようなどとは思っていない。
「意外だと、思っている?」
涼さんが湯飲みを置く。
「お互いに何も知らないのに候補だと言われても気味悪いだけだろう?」
迷って私は頷いた。
涼さんが、ちょっと笑う。
「だけど、俺の家族は、どうだ?」
「…え?」
「俺と結婚すれば、好美さんは家族を手に入れられる」
ピクッと私の指先が震えた。
「まぁ、弟は不要か?優輝はうるさいだけだろうし。可愛い盛りの弟が実際にいるんだから。俺の家族は何も特別じゃない。普通の家族だ。俺が好美さんに与えることができるのは、普通の家庭だ」
震え始めた体を、自分で抱きしめた。
落ち着けと、呼吸を整えようと、だけど唇が震えていた。
おじいちゃんは、大好き。
庭を綺麗にしてくれた。
私の思い出を取り戻してくれた。
おばあちゃんも、大好き。
おじいちゃんの為に作るお弁当には、愛情がいっぱいだ。
優輝は時々顔を見る程度で良い。
恋人とベッタリだろうし、日本に居続けるとは思えないし、時々会うだけで充分だ。
姫野のおじ様の援助で、私も時々試合を応援してあげよう。
その程度で良い。
「晴己が納得した意味、理解できた?」
私は、ゆっくりと頷いた。
「あぁ、これ。イワシの煮物、夕食にどうぞ」
渡された容器は、いつもおばあちゃんが渡してくれる容器。
「涼。それぐらいにしておけ」
背後から、そっと私を包む哲也さんの腕に抵抗せず、私は体の向きを変えた。
三つ編みは哲也さんの頬を直撃した気がするけれど、今は気にしていられない。
哲也さんの胸に額を当てると、後頭部を撫でてくれる手のひらが懐かしい。
両手が塞がっていなかったら、哲也さんの背中に腕を回していたかもしれない。
イワシの容器があるから、ポロポロと流れる涙を拭うことも出来ない。
涼さんの家族と過ごす空間にいる自分を想像して、欲しいと思ってしまった。
凄く魅力的だった。
自分が家族というものに執着しているとは、思わなかった。
日曜は、とっても疲れた。
パーティの準備を手伝ったわけでもないし、参加したわけでもないし、後片付けに追われたわけでもない。
私は、ただ、杏依ちゃんの家で隠れていただけだ。
それなのに、とても疲れていた。
その原因が哲也さんだと思うと、余計に疲れが大きくなった。
哲也さんに気持ちを惑わされている自分が、凄く嫌だ。
私がこんな状態なのに、結局、哲也さんは来ない。
イギリスに戻ったのかどうか確認していない。
玄関のドアが開く度に、車の音が聞こえる度に反応してしまう自分をどうにかしたい。
月曜も火曜も落ち着かなかった。
そして、水曜。
朝からの訪問客に、ちょっと気持ちが高揚した私は、やっぱり自分を叱咤するべきなのかもしれない。
「やだぁ。好美ちゃん、どうしたの?怖い顔して?」
杏依ちゃんが原因だよ。
どうして、こんな朝早くから?
「姫野さん、忙しい…わよね…ごめんね、朝から」
瑠璃先輩に言われてしまい、表情を作る。
「いえ…驚いただけです。杏依ちゃん…お誕生日会の準備、午後からの約束だったと思うけど?」
「うん。そうだよ」
それじゃ、どうして?
「お味噌汁がね」
だから?
「美味しかったの」
良かったね。
「それで、次のお味噌も私は食べられるのかなぁって気になって」
「…兄は志織さんには持っていくと思うので…そちらでどうぞ」
最近の兄は、味噌を確認する為だけに時々自宅に戻る状態だ。
大学は通える距離だ。
勉強が忙しくて大変なのは分かる。
私の大学生活と兄の大学生活は全く違うということも、理解している。
だけど、本当の理由は違うような気がする。
どうして家を出たのか問い詰めたい気持ちと、そろそろ兄を解放しなければいけないと思う気持ちが、毎日私の中で交錯している。
「そっかぁ。次はいつ頃になりそう?」
「…知らない…水羊羹あるよ。食べる?昨日、兄が作ったから」
「嬉しい!いただきます」
ふわりと笑う杏依ちゃんを見て、私は彼女の意図が分かった。
私と兄が、どれだけの頻度で会っているのかを探っているのだ。
知られても困ることでもないし隠すことでもないけれど、直球で訊かないのは、やはり何か考えがあるのだろう。
この人は、どこか恐ろしい。
ニコニコ笑って甘えてくるけれど、それで終わりじゃない。
そんな風に捻じ曲がった考えをしてしまう私は嫌な人間かもしれないけれど、杏依ちゃんの好意を素直に受け取れない私がいる。
大学を休学中の杏依ちゃんと、大学に行く時間が迫っている瑠璃先輩に、水羊羹とお茶をお出しして…急かして帰って貰った。
◇◇◇
昨日、絵里さんが来てくれた。
だから、兄も帰って来た。
絵里さんと話して、私は落ち込んでしまった。
お味噌を持ち帰ってくれたのだけが救いだ。
結局、直樹さんとの婚約は解消しない、らしい。
気持ちがスッキリとしないのは哲也さんが原因じゃない。
絵里さんと会えなくなるのが寂しいのだ。
それは当然、当たり前…だけど。
私の絵里さんへの想いの隙間隙間に哲也さんが割り込んでくるのが、余計に気に入らない。
朝は急いで準備して大学に行って、午前の授業後慌てて帰宅。
今日はお誕生日会の準備があるから、私は忙しい。
それなのに。
「おかえりー」
大学から帰宅したら…杏依ちゃんがいた。
「…杏依ちゃん。まさか、ずっといたの?」
変だ。
ちゃんと帰って貰ったはずだ。
「えー違うよ?勝海迎えに行ったもの」
ふにゃふにゃと、可愛い笑顔の勝海君に絆されそうになる。
勝海君は姫野の血を引くし、ここにいてもおかしくないし、ちゃんとみんな世話をしてくれる。
でも、私の家なんだけど。
確かに、それほど抵抗がないのはあるけれど。
最初に私の抵抗をぶち破ったのは、この人だ。
弘先輩とお菓子を交換した、あの日だ。
どうして、こう…平気なのかな、この人は。
響子さんと晴己お兄様は、小さい時の記憶もある訳だし、納得できる。
杏依ちゃんのお母さんも、よく来ていたみたいだから、間取りを把握している。
だけど皆…私に気を遣ってくれている。
ほとんど自分の家のように暮らしていたらしい麗子さんも、私が暮らす離れには遠慮がち…だ。
私は離れでの暮らしの記憶が多い。
だから、母屋を誰が行き来しても寝泊りしても、あまり気にはならない。
だけど、離れは…やっぱりちょっと違う。
初めての状態でこの家に来ているはずの杏依ちゃんが、一番…図々しい。
図々しいというのは失礼かもしれないけれど、うん、でも、それがぴったりだ。
人懐っこいのとは、違う。
「好美ちゃん。お昼まだでしょ?一緒に食べよう」
それは私の台詞だと思う。
ここ、私の家、だし。
「豆ご飯、好美ちゃん好きでしょ?」
食卓に並ぶお茶碗2人分。
得意そうに杏依ちゃんは言うけれど、彼女が作った豆ご飯じゃない。
家政婦さん達が作ってくれた豆ご飯だ。
私だって作るわけじゃないけれど、どうして杏依ちゃんは、そんなに得意気…なんだろう?
いつも、それを感じる。
だけど、いつも同じ結末になる。
「美味しいね」
「…うん、美味しいね」
豆ご飯を食べて、にっこりと杏依ちゃんは笑い、私に同意を求める。
同意した私は、その時点で全てが綺麗に消えてしまう。
心のモヤモヤも。
納得できない疑問も。
不満そうな顔をしていたはずだったのに、頬が緩んでしまう。
一緒に食べて美味しいねと言ってくれるのは、杏依ちゃんだけだから。
兄も響子さんも瑠璃先輩も、一緒に食べることはあるけれど、私が美味しいと言えば良かったと答える人達だ。
私に作ってくれる立場の人達だから、私の反応を見ているだけだから。
その人達と杏依ちゃんは同じ年齢なのに、どうしてこんなにも私の意識が違うのだろう?
結婚して母親になった人なのに、杏依ちゃんは以前と変わらない。
変わらず私に接してくれる。
彼女の存在が、私を助けてくれているのは事実だ。
この家に入るのを、母は遠慮している。
いつも、裏の桜を眺めて満足しているだけだ。
そして雅司が、この家に入ることを、凄く戸惑っている。
だけど、その戸惑いをぶち破ったのも杏依ちゃんだ。
杏依ちゃんが平然としているから、雅司も平然と出入りするようになった。
その事に関して、桐島太一郎さんは、かなり戸惑っている。
だけど、杏依ちゃんは平気だ。
彼女の図々しさが羨ましい。
そして、とても感謝している。
責められても咎められても、平気な彼女はとても強い女性だ。
護られているだけの人だと思っていたのに。
何の努力をしなくても、幸せに包まれる人だと思っていたのに。
「杏依ちゃん…絵本、読むの?」
苦手だと思っていた人に、読んで欲しいとお願いをしたのは高校に入学する直前だった。
読んでもらいながら眠ってしまったあの頃と、私の生活は大きく変わってしまった。
この人に私は護られているのだと、時々思い知らされる。
常には感じていない…それは許してもらいたい。
だけど、ちゃんと、時々だけど感謝しているから。
「読んでくれる?」
「うん。いいよ」
「…ありがとう」
時々だけど。
ありがとうの言葉に、私は多くの想いを込めている。
それに気付いているのかいないのか。
杏依ちゃんは、いつも変わらない笑顔を向けてくれる。
その度に、私は自分の心にフワフワとした幸福が舞い降りるのを感じている。
「好美」
ちょっと暴れてみたけれど、再び背後から拘束されてしまった。
「涼さーん、助けてください」
ゆっくりと橋元涼が私の前に立つ。
「危機的なものを感じませんが、助けたほうが良いのでしょうか?」
凄く面倒そうな声だった。
あー…この人も飲んでいるんだ。
「助けてください。確かに危機的ではないですが、できればこの状況から脱したいと思っています」
「らしいぞ、哲也」
「好美。涼は今日のパーティの大事なお客様だ。身内の好美が迷惑をかけるな」
身内になる私達だから、お客様と言われてしまうと…申し訳ないと思ってしまう。
「身内?」
涼さんの声が問う。
「あぁ、身内だ。いや…俺と好美は違うが」
そこには拘りがあるみたいだ。
「んー…えっと…好美さん?このまま放っておくのは良くないかもしれないが、俺は哲也には勝てない。それは分かるだろう?」
その問いに頷いた。
「だから、哲也を説得するか警報機を押すか、になるが。できれば関わりたくない、という気持ちも大きい」
ですよね。
気持ちは分かります。
だけど、このままだと哲也さんは本当に私を連れ帰るかもしれない。
私が警報機を押せば良いけれど、やっぱり騒ぎにはしたくない。
本格的に危機的かと問われれば違うけれど、今後を考えると出来るだけ穏便に済ませたい。
「涼さんの気持ちは分かります。それでしたら伝言をお願いします」
「伝言?」
見上げると、とても面倒そうな興味なさそうな瞳。
その瞳に訴える。
「おばあちゃん、最近、ちょっと煮物の塩分が多いと思いませんか?作る量が増えたのと、食べ盛りの人達の食事を作るからだと思いますけれど。優輝が食べるから嬉しいみたいですけれど、同じ食事をしているおじいちゃんとおばあちゃんが、私は心配です。それからおじいちゃん。ちょっとお酒の量が増えたの、知ってます?」
まぁ、ちょっとなんだけど。
でも、見上げた先の瞳が、少し反応している。
そして、背後の人も動きを止めている。
「それから。優輝」
ちょっと強い口調で言ったら、涼さんがビクリと震えた。
「練習場所に使うのは構いません。ちゃんと優輝本人が私に良いかどうか訊いてくれましたから。でも、階段を片足で上り下りするのは、何度注意しても止めません。怪我したら、どうするんですか?松葉杖で上まで来た時は驚いて、でも、凄い体力だなと思ったから褒めてしまった私が間違いだったかもしれませんけれど、今も片足って、優輝は良いかもしれませんが、小さな子ども達が真似をして困ります。涼さんからも注意してください」
ちょっと大袈裟に話したけれど、実際に困っていた内容だったから、話し終えて自然と溜息が出た。
そして、前方も後方も動きが止まっているのが分かる。
だけど、私の体を拘束する腕が緩んだ。
「そうだったな。優輝…直談判してたな」
「桜の…家か?」
「あぁ」
涼さんの問いに、哲也さんが答えた。
「松葉杖で…あの時、優輝は…君の家に行ったのか?」
「はい。ご挨拶が遅れました。初めまして。姫野好美です」
ちょっと乱れている服を整えながら答える。
「そうか…哲也。彼女が帰るのなら、その車に俺も乗せてもらって構わないか?近くだろう?」
「あぁ。そうだな。好美、運転手は?」
「はい。大丈夫です」
哲也さんを見上げて、ようやく私は笑顔を向ける。
「哲也さん。お元気で」
「戻るのを延期す」
「どうぞ。ご自由に」
「本当に…冷たくなったな」
その言葉を適当に聞き流して、私は哲也さんに手を振った。
涼さんを見上げると、とても怪訝な瞳。
「車の番号、指示されています?」
「いや…行けば分かると」
多くの人は帰った後だけれど、客人を1人で駐車場に向かわせるのは、新堂としては対応が妙だと感じた。
だけど、その疑問は、すぐに晴れる。
「お疲れ様。好美ちゃん」
「響子さんっ!」
「帰りましょう。どうぞ、橋元さん」
響子さんが晴己お兄様と連絡をとっているのか。
誰かが私が来ていることを知っていて、涼さんと会わせたのか。
本当の事は分からない。
分からないことなど、たくさんある。
確かなのは、響子さんは私と涼さんを車に乗せる計画だった、という事だ。
「初めまして。晴己の叔母の姫野響子です」
「え?叔母?」
「はい。叔母です。晴己の祖父は私の父です。私の母は後妻です。彼女の祖母は晴己の祖父の妹です」
自分達の事を紹介する時、響子さんは上手に晴己お兄様を絡める。
必要な時は名前を出して、避けたい時は名前を伏せる。
「そ…うですか。すみません。今日は色々とあって。とてもじゃないが…全員を覚えられない」
苦笑しながら車の後部座席に乗る涼さんに私も続く。
響子さんが助手席に乗り、車が走り出した。
◇◇◇
涼さんは色々と質問があるみたいだけれど、言葉にしない。
だから、私はウトウトしていた。
住み込みの運転手さん、乗り慣れた車。
何の抵抗もなく眠りに誘われる。
「好美ちゃん」
響子さんの声に、目を開けた。
体を伸ばして、隣に座る人を見る。
「おばあちゃんに、今年も、らっきょうお願いしますと伝えてください」
「…随分と、親しいみたいですね」
「はい。お世話になっています」
「優輝が、松葉杖で行くぐらい?」
「練習場所ですよ?怪我をしていた時も、優輝は動く部分は鍛えていましたから」
「そうですか…今日はありがとうございました。家族に伝えます」
思考能力が完璧ではない状態で、涼さんは車内の私達に礼を言うと車を降りた。
その姿が玄関の扉の向こうに消えるのを見送って、響子さんが私の隣に座ると車が再び動く。
「響子さん。哲也さんに会っちゃった…」
「そう。残念ね。まぁ、今ここに好美ちゃんがいるんだから、良いんじゃないの?」
「うん…そうだよね」
「晴己さんの考え、納得出来なかったら従わなくて良いのよ?まだ決めなくても良いんだから」
「うん…そうだよね。ねぇ、響子さんは、どうするの?」
「私?」
「響子さんは、誰と結婚するの?」
「あー…好美ちゃんの、残り…とか?」
「ちょ、ちょっとっ!」
「だって、好美ちゃんと男を奪い合うなんて、絶対に嫌。好美ちゃんの候補に選んだ時点で、姫野と良好な関係を築ける人って事でしょ?そこから選ぶのが早いでしょ?」
「そうだけど。だったら、響子さんが先に選んで。年上だし」
「それはねぇ…やっぱり男性側には好美ちゃんのほうが人気あると思うけど?」
「…どうして?」
「個人個人の事は別にして…姫野本家の娘で麗子の妹である私よりも、好美ちゃんのほうが色々と都合が良いでしょ、男性側から見ると」
「うー…」
「私は父も母も姉も意見を言うだろうし、その意見は通さなきゃいけない。でも好美ちゃんの外野は多いけれど、決定的に強い意見を持つ人がいない」
「そうよねぇ…そうだよねぇ…だから、晴己お兄様、哲也さんを除外しないんだよね」
桐島太一郎氏も、裕さんも、凄く私の事を心配してくれるけれど、結局は他人だ。
「あーそうそう。心配しないで。残りを選ぶとしても、私は哲也さん選ばないから。あっちも私を選ばないだろうけど」
「どうして?」
「えー、だって嫌よ?それなりに家の事を考えて結婚するとしても、私よりも好きな女性がいた人よ?その状況も知っているのよ?さすがに嫌だわ」
「好き、なのかな?」
「好きでしょ?それくらいは認めてあげなきゃ。気持ちまで否定するのは酷よ」
響子さんの声を聞きながら、溜息が出た。
諦めだけでなく、哲也さんに呆れている気持ちも大きい。
哲也さんの右手を、私は両手で包む。
私の腰から移動させることに成功した右手を見て、ちょっとホッとしたら左手の力が強くなった。
文句を言いたいけれど、我慢する。
右の手のひらを眺めて、そして頬を寄せた。
ベッタリとした、あの感覚を思い出して少し震えてしまった。
「怪我…するようなこと、しないでください」
左手が私の後頭部を撫でる。
…っ、やった!
両腕の拘束がなくなって喜ぶ。
だけど、すぐにまた両腕が回ってきた。
「心配させて、悪かった」
先程よりも強くなった両腕に、私は完全に脱力した。
「あのぉ、哲也さん。今は、晴己お兄様を刺激しないでください。聞きました?私の事?」
「大輔から聞いた」
「そういう事みたいなので、晴己お兄様を怒らせないでくださいね」
「好美は、それで良いのか?」
「はい」
「小野寺弘は、どうするんだ?」
「それは弘先輩が決めると思います」
少しだけ胸が痛んだ。
だけど、少しだけ…だ。
「晴己が選んだ男と婚約するって…無茶苦茶だと思わないのか?」
「今すぐって訳じゃないですし、晴己お兄様は何人か選ぶみたいですから、私がその中から選ぶだけです」
「だが」
「哲也さん、含まれるでしょう?」
「どう、だろうな」
「含まれますよ。選ばれます。だから、今は晴己お兄様を刺激しないでください。除外されちゃいますよ?敗者復活のチャンスなのに」
「敗者か。好美に言われると複雑だな。しかし、晴己は何人選ぶ気だ?」
「今のところ、晴己お兄様が挙げた方達、私も納得しています」
「誰だ?」
今の声、ちょっと怖いですよ。
落ち着いてください。
「大ちゃん」
「大輔も含むのか?」
「はい。直樹さんは除外です。色々と…ありますから」
「そうだな。次は?」
「賢一君」
「桐島賢一か?」
「はい。今のところ、その3人が候補です。妥当だと思いませんか?」
「妥当?」
「はい。お互いに恋愛感情はないけれど、お互いの家族と親族の事を考えて最善を尽くせる人達です」
「恋愛感情は、あるほうが良いだろう?だったら、俺が一番有利だ」
「哲也さんの気持ちは関係ありません」
「好美、前よりも冷たくなったな」
「そうですね。姫野の血、覚醒中です」
「今のところって事は、今後増えるのか?」
「みたいです。冷静に、きちんと考えて、相手の人にも私の状況は理解して貰わないと困りますから。哲也さん、私は納得して認めて欲しいと思っています」
哲也さんとは正反対の気持ちだ。
「私は、反対されてまで自分の幸せが欲しいと思いませんし、幸せになれるとも思えません。突然増えた身内を…その人達を悲しませるようなことはしたくないから」
「好美…」
「だから、晴己お兄様を怒らせるようなこと、しないでください」
ゆっくりと、拘束が解ける。
長い。
長過ぎ。
説得に、これほど時間が必要だとは思わなかった。
私は、近くの壁に手を置いた。
ホッとして、溜息が出て、そして警報機が視界に入る。
押さずに済んで…良かった。
そう思う反面、押して騒ぎになって、晴己お兄様の候補から除外して貰えば良かったかもしれない、と思う気持ちもある。
それなりに覚悟はしていたけれど、思っていたよりも哲也さんの気持ちが真っ直ぐで、驚いてしまった。
凄くお世話になった人だから、あの頃の私を支えてくれた人だから、良好な関係でいたい。
だから、個人的に特別な感情は向けないで欲しい。
ゆっくりと深呼吸をした。
顔を上げて姿勢を正して、体の向きを変えようとした。
それなのに。
壁に置いた私の両手の近くに、哲也さんが両手を置く。
「好美」
酔っ払いだ。
普通に相手をしても無理だ。
警報機を押すか、靴のヒールを使うか、考えて否定して、壁から手を離す。
体の向きを変えて、一度深呼吸をした。
背後には壁、そして哲也さんの体と腕に囲まれた状態。
その狭い空間の中で、ゆっくりと顔を上げた。
とても、久しぶりだった。
あの頃も、私よりも随分と大人だと思っていたけれど、今はもっと大人で…格好良いと思ってしまった。
パーティに出席していたから、髪も服も、以前の雰囲気とは随分と違う。
「好美」
栄吉おじ様に似ている声、似ている風貌。
戻ることが出来ない幼い頃に、取り戻せない祖父だと慕っていた人の存在に、心が痛くなる。
そばにいて欲しかった。
ずっと、一番近くにいて欲しかった。
無茶苦茶で勝手な我侭だと分かっていたけれど、哲也さんにとって迷惑なお願いだと分かっていたけれど、それでも私のそばに残ることを選んで欲しかった。
「会いたかった」
2回目の言葉だけど、目を合わせて言われてしまうと、私の気持ちも言葉になりそうで必死に抑えた。
「高校生活は楽しかったか?」
「…はい」
「大学の生活は、慣れたか?」
「…はい。あの時の生活の変化に比べれば、今のほうが色々と順調です。大学の人達は私が姫野だって分かっているし、姫野の家の事も。私自身よりも私の事を知っていたり。だから、毎日が新鮮だったり懐かしいと思ったり。哲也さんの妹さん達にも凄くお世話になっています。ありがとうございます」
周りの人は、凄く親切だ。
とても優しい。
だけど、私は哲也さんに残って欲しかったのに。
今更、目の前に現れて…そう思ってしまう気持ちが大きくて、責めたくて。
「好美、どうすれば許してくれる?」
両腕が背中にまわる。
「…哲也さん。やめてください。あの時、私のそばに、ずっといてくれたのは」
私の勝手な我侭を。
理不尽な要求を。
受け止めて、私の心を満たしてくれたのは。
「弘先輩です。哲也さんじゃない」
哲也さんの胸に両手を置いて、密着しないように距離を保つ。
離して欲しい。
早く帰りたい。
これ以上、哲也さんの想いを知りたくない。
「離してくだ」
「哲也」
私の言葉を遮る声が耳に届く。
私だけでなく哲也さんも驚いたみたいで、慌てるように力強く両腕の中に包まれてしまった。
抵抗する私の耳に、大人しくしろと声が届く。
そう言われても精一杯抵抗してみたけれど、全く効果はなかった。
「哲也」
また、声が聞こえた。
「邪魔したほうが良いのか?それとも邪魔したら怒るのか?」
男性の声だった。
「嫌がっているように見えるから邪魔したほうが良さそうだが?家政婦に手を出して晴己に怒られないのか?」
晴己お兄様の事を、晴己と呼ぶ人は限られている。
「同意なら家政婦でも問題ない」
哲也さんの答えに、私は心で否定する。
同意じゃない、と。
「それに、怒られるのは俺じゃない。仕事中の家政婦だ。だから、何も見なかったことにしてくれ」
「あー…了解」
ちょ、ちょっと、納得しないでください。
折角の救世主に私は手を伸ばそうとして考える。
晴己お兄様と親しい人に、私がここにいる事が知られてしまうのは、私にとっても都合が悪い。
このまま家政婦のままで、彼には帰ってもらったほうが良い。
きっと哲也さんは、そう思ったから…だと思いたい。
「じゃぁな。涼」
頭上から聞こえる哲也さんの声に、私はピクリと反応した。
りょう?
はるみ、てつや、りょう。
そう呼び合える人達ならば、りょうは…涼だ。
「涼さん」
私の声に、哲也さんの腕の力が緩む。
そのタイミングを逃さず、私は哲也さんの腕の中から顔を出す。
「橋元涼さんですよね?すみませんが、同意ではないので助けてください」
歩き出していた橋元涼が、ゆっくりと振り返った。
新堂勝海披露パーティ終了後
指先の記憶本編終了時から思いっきり時間が飛びますが、姫野好美、大学生になりました。
本館で何があったのか、別館にいた私には分からない。
でも、杏依ちゃんの話を聞くと、晴己お兄様は、今頃どんな気持ちなのだろうと考えると…関わりたくない。
杏依ちゃんが舞ちゃんと話をしたのなら、以前から知り合いだったと周囲は分かってしまう。
どうして杏依ちゃんが施設に行っていたことを隠していたのか分からない。
もしかしたら隠していないのかもしれない。
ただ、晴己お兄様が気付かなかっただけ。
それとも、気付いていたのかもしれない。
確かなのは、2人が施設を話題にしていなかった、ということ。
私は勝海君の披露パーティには出ていない。
親戚なのだから、いつでも会えるし参加する必要はない。
だが、参加しても別に構わない。
こうして、家政婦さんの制服を着て、晴己お兄様には何も告げず別館に身を潜める必要はない。
今日、ここで何が起こるのか誰か来るのか、気になって仕方がなかった。
「私、帰るね」
杏依ちゃんに告げると、にっこりと笑顔を返される。
「哲也さん。本館に泊まるみたいよ」
杏依ちゃんが出した名前に、思わず身体が強張った。
「晴己君が引き止めてしまったみたい」
その原因を作ったのは、杏依ちゃんだよね?
色々と聞きたいけれど、それは避ける。
「…それなら、尚更、早く帰る。会いたくないから」
別館に哲也さんが来ることはないけれど、一応同じ敷地内。
早々に自宅に戻りたかった。
◇◇◇
家政婦さんの制服のほうが目立たない。
気持ちは落ち着かないけれど、駐車場を目指した。
使用する車と運転手さんは杏依ちゃんから指示を受けている。
晴己お兄様は気付いていないみたいだし、もしバレてしまったら、パーティに参加しようと思ったけれど哲也さんがいたから、そう言ってしまえば良い。
また彼が悪者になってしまうけれど、仕方がない。
訪問客の人達と会うこともなく、ホっとしていた。
だけど、ふと何か妙な感じがして、その直後だった。
考える間も、逃げる間もなかった。
歩いていたら前方に衝撃を感じて、後ろに引き戻されて、そして背中に何かが当たる。
肩に重みを感じて、首に何かが当たる。
一瞬だった。
右手も左手も、両足も自由に動かせない。
「メイド服はスカートが短いのが鉄則じゃないのか?」
首に触れる髪が少し痛い。
肩に触れる頬が動くと、髪も動いて更にチクッとする。
そして、微かに届くアルコールの香り。
逃げるのは無理だと分かり、私の身体から力が抜けた。
「家政婦さんの制服です。動きやすい長さですから、ミニスカートを選ぶ必要はありません」
「それは残念。短いほうが触りやすいのに」
「…本当に変態だったんですね」
背後に立つ人が笑い出す。
滅多に笑わない人なのに、晴己お兄様のお酒に付き合わされていたみたいだし、かなり酔っているのかも。
諦めの気持ちが広がっていく。
この人に私が勝てるわけがない。
体格も体力も。
身を護る術を私に教えてくれたのは彼だ。
勝てるわけがない。
戦うことを放棄して、後ろの人に体重を預ける。
私を拘束する力が弱まり、その腕が優しく私を包む。
思わず溜息が出た。
諦めの溜息なのか、安堵の溜息なのか。
認めたくないけれど、この人の腕の中は凄く落ち着く。
「…帰ってきていたんですね」
勝海君の披露パーティに出席するのは知っていた。
従兄弟達は1人も欠けないほうが良いと均整を保つように努めている人達だ。
その均整を壊したのは私だと大ちゃんに言われた時は落ち込んだけれど、それぐらいで壊れてしまうような人達ではない、というのが事実だった。
「明日、戻る」
少しだけ腕に力が入る。
会いに来てくれるかもしれないと、この数日思っていた。
それは期待なのか、それとも避けたいからなのか、自分でも良く分からない。
結局会いに来てくれることはなくて、もう会わずに済むと思っていたのに。
「好美」
耳に流れてくる声は、祖父だと慕っていた人に似ているけれど、でも違うように聞こえてしまうようになっていた。
「会いたかった」
その意味が、今の私は分かるようになっていた。
私も会いたかったと返すことができない、とても重くて意味が違う言葉。
15歳の時は、その意味を想像するのも理解するのも怖かった。
家族を再び得た私は、たくさんの愛を与えてもらい、与える相手も存在した。
今は、それらの愛情とは違う異性への愛が存在するのだと、理解できるようになっている。
「哲也さん、ここ…新堂の敷地内ですよ?そういうの…晴己お兄様、凄く嫌がるの知っていますよね?」
晴己お兄様は、領域とか、そういうものに拘る。
だから、新堂の敷地内での哲也さんの勝手な行動は絶対に許さない人だ。
「だったら、俺の家に来い」
いや…違う。
晴己お兄様の名前を出してもダメみたいだ。
でも、考えてみれば、以前も晴己お兄様の忠告を聞かなかった人だし…面倒な人だ。
「私は自分の家に帰ります。哲也さんの家には行きません。それに、哲也さん、酔っているでしょう?」
「…酔っている…晴己に飲まされた。俺は晴己ほど強くない」
やめて、やめて。
耳元で囁かないでください。
「耐え性がなかったって呆れてるのか?小野寺弘に俺は完敗だ。でも、罪を償ったら許してくれるか?」
大げさだけど、今なら分かる。
晴己お兄様には、あれは罪だったのだ。
あの状態で自分の気持ちを優先した哲也さんを、晴己お兄様は許さなかった。
それは分かる。
あの頃の私は、何もかもが分からなくなっていて、哲也さんに縋って。
でも、もしあのまま、哲也さんが傍にいてくれたら。
私は、他の大切なものに気付かなかったと思う。
母との関係を修復できなくても、新しい関係を築くことも求めなかったと思う。
裕さんと母を見守ることも、兄と弟との関係も。
友人さえも求めなかったと思う。
何も残らない、何も無いではなく、何もいらないと思ってしまっていただろう。
「許す許さないの前に、哲也さんは減点のままですよ?何か加点できること、ありましたっけ?」
庭と家の整備も、家政婦さん達も、私が快適に過ごせるようにしてくれたのは哲也さんだ。
だけど、それに関して加点をしていない。
「減点なら希望はあるな…存在まで消されているかと思っていた」
不穏な空気、それを感じた。
触れていた手が動き始める。
「いくつになった?」
「18です」
「まだ、ダメか?」
「はい。たぶん許可はおりません」
「…誰の許可だ?」
「うーん…晴己お兄様とか、私の兄とか弟とか、麗子さんとか、栄吉おじさまとか、あー…そうそう…裕さん、意外に怖いですよ?それから太一郎先生。私に何かあると、祖母と父にあの世で会えないと言っています。今の世ではなく先の世のことを悩んでいます。絶対に長生きすると言っています。なので、今、元気ですよ」
哲也さんが笑う。
「その人数が納得するのは無理だろう?俺は誰も納得しなくても認めなくても、別に構わない」
いや…私本人が納得していない。
どうにかしなくてはいけない。
でも、騒ぎになると、本当に今度こそ哲也さんと晴己お兄様が壊れる。
それなのに、こんな状態の哲也さんは思慮が浅すぎる。
お酒に酔っている。
飲まされた、付き合わされた。
その言い訳は勝手過ぎる。
盛大な溜息が出た。
現在、このブログに残っている小説について簡単に説明させていただきます。
『春が来るまでに』は、既に削除済みです。
このブログに残っている小説は、全て人物が関連しています。
その為、関連しない小説は移動か削除しています。
『春が来るまでに』は、りなりあ内の小説とは全く関連していません。
TWINKLEは関連していますが、本編は完結しているので移動済み。
指先の記憶も移動させたいのですが、話数が多いので…進んでいません。
りなりあ内の小説は、登場人物は未成年です。
今後、彼女達は成長していきますので、恋愛が成就した際には新しい話が書けると思います。
まだまだ先が長いので、時々親世代と遊びつつ…これからも宜しくお願い致します。
◇橋元優輝-はしもとゆうき-◇
お花見の数日後 中学校の入学式当日 優輝とむつみが出会う1年前の春です
1話完結です
満開は過ぎたけれど、桜は今も咲いている。
他人の庭だけれど、造ったのは僕の祖父だから、なんだか誇らしい。
「これ、ばぁちゃんから」
祖母から渡された包みを、台所のテーブルに置いた。
「ありがとう。今日の夕食にするわね」
姫野響子さんが包みを開けて、祖母の手作りを喜ぶ。
僕は、響子さんという女性が不思議だ。
ばあちゃんのご飯は、確かに美味しい。
でも、それは、じぃちゃんの好みだ。
響子さんが大喜びするのは、違う気がする。
でも、この人、あの麗子さんの妹だし、晴己さんの叔母さんだし、あの人の娘だし、理解できないのは当然かもしれない。
「響子さんのお父さんに事前に連絡もらうのは無理なんですか?コーチ達、すっげー焦ってたけど」
「そうねぇ。あの人、自由だから」
春休みの間は合宿だった。
最終日、突然、響子さんのお父さんが姿を見せた。
でっかい肉の塊と、でっかい魚と一緒に。
その差し入れは確かに嬉しい。
でも、厨房のおばちゃんが慌てていた。
新堂の別荘にいる料理人が来てくれて、立派なステーキと立派な寿司になったけれど、できれば事前に連絡を貰いたかったというのが、コーチ達の希望みたいだ。
その前にカレーを3皿食べた俺も、そう思う。
「優輝、じぃちゃん帰るぞー」
聞こえる声に、玄関へと向かう。
仕事を終えた祖父が立っていた。
「響子さん、すみませんが宜しくお願いします」
祖父は響子さんに挨拶をすると、その場を去った。
今日は入学式だった。
テニスの練習は夜だから、祖父母に制服姿を見せる為に、こっちに来た。
祖母と一緒に昼ごはんを食べてから、仕事中の祖父を訪問した。
康太さんにも見せようと思ったのに、残念なことに、まだ帰って来ていない。
晴己さんは、この近くに来ているらしくて、4時に迎えに来てくれる。
でも、それまで。
「…退屈だ」
玄関から庭を眺めていたら、後ろに立っていた響子さんが笑った。
「庭の奥で壁打ちしてきたら?麗子姉さんも、昔はしていたから」
「ラケット持ってくれば良かった」
激しく後悔した。
「康太のラケット使えば?着れなくなった服、整理していたし」
響子さんに促されて和室に入る。
「すげー…康太さん優しい…」
感動した。
制服姿の俺は、さすがにこの新しい制服でテニスをするのは抵抗があった。
でも、箪笥には康太さんがジャージなどを用意してくれていて、ラケットもテニスボールも和室には置かれていた。
「ここに来た時の着替えに使えるように整理していたから」
取り出したジャージのズボンを広げて、思わず項垂れる。
「橋元君、これからまだまだ身長伸びるから。大丈夫だって!」
なぜか、その励ましが寂しくなる。
◇◇◇
晴己さんが来るまで、まだ2時間もある。
響子さんはテニスをしない。
康太さんは、やめてしまった。
好美さんも、テニスをしない。
それなのに、壁打ちができる場所がある。
没頭していて、気付いたのは、飲み物をとろうとベンチに向かった時だった。
「いつから?」
「10分ほど前から」
時刻を確認すると、まだ3時。
用事が早く終わったのかもしれない。
「…する?俺…ちょっと休憩」
なんとなく、晴己さんの様子が変だ。
それが僕に向かうわけではないから関係ないけれど。
いつの間にか、晴己さんの前では、僕から俺に変わっていた。
晴己さんとの関係が、少しずつ変わっている。
それは、晴己さんが結婚を決める前も、決めた後も、結婚してからも、この数年感じていた事。
前とは違う、何かが違う。
それが何かは分からない。
小学校を卒業したら留学をする。
それは前から決めていたし、準備もしていた。
でも、最終的に行かないことを決めたのは、僕だった。
理由は、たったひとつ。
寂しいから。
それだけだった。
そう思ってしまった自分が情けなくて悔しくて。
それも、1人で行くわけではなく、最初は久保コーチが同行してくれるし、にぃちゃんも大学生のうちなら行けると言ってくれたし、晴己さんの従弟の直樹さんも大ちゃんも来てくれることになっていた。
整えられた環境に不満などないのに、不安を感じた自分が情けない。
晴己さんは僕を責めなかった。
1年後、そう言ってくれた。
1年後なら、僕はもう少し大人になっているかもしれないし、留学したい気持ちが強くなっているかもしれない。
この1年で、何かが変化するかもしれない。
「…もう終わり?」
晴己さんは汗もかかず、ベンチに戻って来た。
「着替え、持っていないからね。優輝は…それ、大きくないか?」
「康太さんの服…俺、これから成長する予定だから」
「そうだな」
大きな手のひらが、僕の頭上に置かれる。
子ども扱いだった。
子どもだけど。
◇◇◇
来客用の風呂場のシャワーを借りることにした。
箪笥から取り出した服は、やっぱり少し大きめな気がしたけれど、大丈夫これから成長するから。
シャワーを終えて台所に行くと、康太さんが帰ってきていた。
「…ちょっと…大きいか?」
その声を無視して、響子さんが注いでくれた麦茶を飲む。
「晴己さん。予定より早くないですか?」
「友達が来ていて邪魔そうな感じだったから」
「そりゃ、そうでしょ。子離れするべき。入学式だから制服姿を見たいなんて、他人の男に言われたら気持ち悪い」
台所の空気が、固まった気がした。
「そ、そうだ!優輝。ミートパイ食べるか?」
誤魔化すような康太さんの声。
「…ミートパイ?」
「温めるから。優輝。制服は?着替えて見せてよ」
制服姿を見たいなんて他人の男にされたら気持ち悪い…みたいだけど、良いのだろうか?
「…面倒」
「それ、俺の服。自分の制服で帰れよ。それは置いとけ」
確かに、少し大きい服を持って帰っても仕方がないけれど。
でも、身長は伸びる予定だ。
脱いだり着たり面倒だな、そう思いながら和室に戻って着替えて、また台所。
「おおっ!中学生って感じ」
康太さん、僕、中学生ですけど。
「ちょっと制服が大きい感じが1年生よねー」
響子さん、結構キツイ。
「…優輝」
晴己さんの声に、顔を上げる。
「大きくなったな」
そして、また。
大きな手のひらが僕の頭を撫でた。
…気持ち悪い。
確かに、ちょっと、気持ち悪い。
「晴己さん。感慨深過ぎ」
「どこまでおじさんなの?ほんと、気持ち悪い」
ここまで晴己さんを罵倒する人を、僕は知らない。
「優輝。康太の手作りらしいよ。食べてみたら?」
晴己さんの言葉に、僕はミートパイを食べる。
「…美味しいか?」
嬉しそうに僕を見る康太さんに、僕は美味しい…と返事をした。
「康太、私もひとつ…ねぇ、そういえば。中学1年生、多いよね?」
「あーそう言えば」
「ヴァイオリンの子も、そうでしょ?一緒にいたピアノの子も」
「そうなんだ…そのピアノの子が遊びに来ていて」
「あーそっか。あの子も中学1年か。杏依さんの従弟も、よね?あ、じゃぁ、哲也さんの妹さんも、そうでしょ?」
「そっか…多いな」
美味しい、と思う。
美味しい。
きっと、美味しい。
でも、何か満たされない。
そう思ったけれど、それは言葉にしなかった。
◇◇◇
晴己さんの車に乗る前に、もう一度桜を眺めた。
来年は日本にいるのだろうか、そう考えて落ち込む。
中学生になって大きくなったのは事実だけれど、精神面が未熟なのも事実。
まだ、ちゃんと、晴己さんに謝っていない。
助手席に乗り、隣を見るのが少し恥かしい。
「晴己さん、ごめん…準備してくれていたのに」
少し強い力で、頭を撫でられた。
「涼が…安心してた。優輝が留学するのを寂しがっていたから」
「にぃちゃんが?」
驚いて晴己さんを見た。
「涼には内緒だぞ。強がっているから」
留学しないと決めた時、弱虫だと僕に言った兄なのに。
「涼を不安にさせたのも、優輝の御両親が納得できなかったのも、僕がちゃんと説明できなかったことが原因だから。優輝は何も気にしなくて良い」
「え、でも」
「これから少しずつ、今後のこと、ちゃんと御両親に説明するから。次の準備が整うまで待ってくれる?」
僕は何度も何度も頷いた。
晴己さんは何も悪くない。
それなのに、僕を責めない。
前とは違う、変化している。
だけど、それは悪いことや寂しいことばかりじゃないはずだ。
晴己さんに、認めて貰う為に僕はもっと強くなりたい。
◇ 完 ◇
きれいな図でなく…見辛いと思いますが…。
好美の血縁者は色を変えました。
○┬○
┌─――――――――┴―――――――――─┐ 小百合┬栄吉―――――――――――┬―○
│ 後妻┬姫野氏┬○ ┌――┬─――――――┼―――――──┐ │
│ ○┬○ 響子 麗子┬正雄 桃子┬○ 梨佳┬○ 楓┬○ │
│ │ │ ┌─┴─┐ ┌─┬─┼─┬─┐ ┌─┴─┐ │
│ │ ○┬○ │ 大輔 ○ 哲也 ○ ○ ○ ○ 直樹 奈々江 │
│ │ ┌┴┐ │ │
│ │ │ 雄作 太一郎┬○ │ │
容子┬○ │ ┌──┼――───┐ │ │
│ │ │ │ │ │ │
健吾┬和歌子―┬―裕 志織┬純也 ○┬○ │ ○―┬―久美子
┌─┴─┐ │ │ ┌─┴─┐ │ │
康太 好美 雅司 │ 賢一 明良 │ │
│ │ 鈴乃―┬―修司
│ │ │
│ │ 舞
杏依────―――――晴己
◇立辺家 長女◇
朝の準備で忙しい時間に電話が鳴った。
「斉藤むつみが桜学園を辞めた。何をした?」
何の挨拶もせずに突然発せられた不機嫌な声。
「兄さん。おはようございます。彼女の件ですが、私達には関係のないことです。申し訳ありません。今日はお花見の予定があります」
哲也の妹達、それだけの理由で会うことを拒まれていた。
だから、今日の花見は重要だった。
兄の印象で私達を判断されるのは困る。
私達には私達の考えがある。
「花見?」
「えぇ。お母さん達は最近毎日のように手伝いに行っています。私達も今日行きます。できれば少し早く行ってお手伝いをしたいので、兄さん、電話切りますね」
「ちょっと待て」
「…何か?」
「何時に戻る?」
「そうですね…妹達は早く戻る予定ですけれど、私は可能ならお手伝いに残りたいと思っています」
「夜に、もう一度電話する」
…私は遅くなるかもしれないと言っているのに。
「好美の様子、聞かせろ」
嫌だ嫌だ。
しつこい男は嫌われるわよ、兄さん。
「はい。分かりました。戻っていなかったらごめんなさいね」
「その時は、明日、また電話する」
気持ちを妹に見せるなんて。
余裕がないみたいで面白い。
兄は、斉藤むつみのことは深く聞かず、電話を切った。
彼女に何かあったら、同学年の末妹が関わっていると思われるのは、凄く嫌だ。
末妹は、純粋に疑問に思っただけ。
従妹である私達は晴己さんに滅多に会えない。
それなのに、クラスメイトは、いつも彼と一緒にいる。
斉藤むつみが桜学園からいなくなったこと、本当に嬉しい。
兄もイギリスだから、私の生活は快適だ。
ただ、従妹の言葉が耳から離れない。
私達が会えないことを知っているのに、好美さんに会って来たと言った彼女の勝ち誇った顔が記憶から消えない。
大輔さんの妹だから会えて、哲也の妹だから会えないなんて。
あまりにも酷すぎる。
でも、それも、今日で終わる。
「おねえさま。このワンピースで良いと思う?それともこっち?」
末妹が、スカートを揺らしながら私を見上げた。
今日のヴァイオリン奏者に選ばれなかった彼女が、自室で泣いていたのは知っている。
でも、それを私達に気付かれないように、私達を心配させないように、明るく振舞う彼女が健気で可愛い。
「制服でも良いのよ」
「制服?」
「もうすぐ中等部に通うこと、ご報告できる良い機会だわ。私達の身内の方達が集まる機会は少ないから。みなさんお忙しいから仕方がないことだけれど。成長したあなたの姿、きっと喜んでくれるわ」
妹の表情が明るくなっていく。
できれば、ヴァイオリンを演奏させてあげたかった。
「ヴァイオリン、持って行く?」
問うと彼女は首を横に振る。
「…もしかしたら、急に代わりに…ってこともあるかもしれないでしょう?」
それを望んでいる私に、妹は瞬きを何度かして、そして微笑んだ。
「おねえさま。代わりの方は杉山家に何人もいらっしゃいます。それに私は彼が適任だと思っていますから」
自分と同じ年齢の人が選ばれたこと、彼女は悔しいはずなのに。
「制服に着替えてきます」
部屋を出る妹の背中を見ながら、考える。
『斉藤むつみが桜学園を辞めた。何をした?』
兄の言葉を思い出す。
今の状況で妹の制服姿は、何もプラスにならない気がした。
斉藤むつみだけでなく、姫野好美さんも、その兄も桜学園には通わないみたいだ。
「ちょっと待って。やっぱり制服却下。そのワンピースも却下。準備していた服も却下。紺かグレーにしなさい」
私も着替えよう。
「えーどうして?折角のお花見なのに。明るいお洋服を着たいのに」
彼女の反論も、分かる。
「杉山君より目立つ必要はないでしょう」
許していただけるのなら。
お会いしたことはないけれど、仏壇に手を合わせたいと思っている。
妹は残念そうな顔で出て行った。
目立たないほうが懸命だ。
晴己さんの結婚相手が、桐島太一郎の孫。
好美さんの弟の父親が、桐島太一郎の息子。
演奏するのは桐島家と親しい杉山家。
何もかもが桐島の思い通りになっていくのが悔しい。
兄の失敗は絶対に取り戻してみせる。
お花見当日
White day:5 の数週間後になります
*1話にまとめました。
◇斉藤むつみ◇
別荘での滞在を終えて自宅に戻ると、街中が春の装いだった。
ゆっくりと別荘で過ごしてしまった私は、移り行く季節を見逃してしまったのかもしれない。
はる兄と杏依さんは私よりも早く戻った。
入学式までゆっくりと過ごすと良いよ、はる兄は、そう言ってくれた。
私が桜学園に入学しないことを伝えた時、はる兄は何も聞かなかった。
ただ、そう、と言っただけだった。
はる兄は、最近、私が望む言葉をくれない。
お花見に誘ってくれなかった。
一緒に行こうって、言ってくれなかった。
康太お兄様には、あれから会っていない。
はる兄は約束を破る人じゃない。
だから、あれは私との約束だと思っていないみたいだ。
見上げると綺麗な桜が咲いている。
今日は誰でも入れると聞いている。
だから、私が行っても良いはず。
戸惑いながら門の中を覗き見る。
「あ…」
座っている人の中に、先生を見つけた。
笹本先生も私に気付いてくれた。
「どうした?斉藤。中学の制服か?」
「…はい。今回は色々と急なことばかりで、ありがとうございました。今、学校までの道順を確認してきました。先生、歩いて通うみたいです」
言うと、笹本先生が豪快に笑う。
学校では見たことがない姿だった。
「そりゃ新鮮だな。ん?ここ、通り道か?」
「いえ…あの…今日は開放されているって聞いて…」
笹本先生の表情が変わる。
あまり良くない、それを瞬時に察した。
「そっか…まぁ、座れ」
敷地内に案内されて、私は椅子に座る。
先生の隣にいた男性が、凄いスピードで階段を駆け上がって行く。
「あの…笹本先生の、息子さんですよね?」
「あぁ。俺達は門番をするって言うのが、この一般開放の時の昔からの風習」
「そうですか。近所の方達が楽しみにしていました」
「そうだな。随分と久しぶりだな」
笹本先生が懐かしそうに階段の上を見上げた。
それから、しばらく先生と話をした。
私は上に行きたいけれど、どう考えても引き止められている状態だった。
そして、次に起こる事を予想する。
「むつみちゃん」
声の人が門から入ってくる。
直樹さんだった。
私は笹本先生に挨拶をすると直樹さんに近付く。
門の外には車が停められていた。
そして、その車から絵里さんが降りてきた。
あぁ、やっぱり。
着物姿だと階段大変だものね。
絵里さんの弟さんが私が来たことを知らせに行って、直樹さんの車でここまで来たのだと、すぐに分かった。
「お花見。お誘い、受けたの?」
「いいえ。誰からも。一般開放だとお聞きしたので」
「そう。むつみちゃん。向かいの家でお茶でも、どう?」
「はい。ありがとうございます」
私は絵里さんに促されて門の前の道路を渡る。
そして、そこにある一軒の家に入って行った。
◇◇◇
とっても綺麗な和菓子。
ホワイトデーに連れて行ってもらった和菓子屋さんだと絵里さんが教えてくれた。
「絵里さん。今回は色々とありがとうございました」
絵里さんは、制服姿の私を見た。
直樹さんは笹本先生のところに残ったままだ。
「ここね。今は私の弟が住んでいるの」
築年数が経過している感じの家だが、内装が綺麗だった。
「その前は、従兄とか叔父とか、笹本の身内が住んでいたの」
絵里さんの親戚の家、みたいだった。
「どうしてか、分かる?」
そう問われて私は首を傾げる。
笹本家が所有する家なら笹本の方達が住んでも変ではない。
「ここからね、まっすぐに見えるでしょう?」
言われて窓から見ると、門の向こうに階段が見えた。
「うわー…綺麗ですね。桜」
桜が綺麗だから、ここに住んだのかな?
「この家に住む人達を見守りたい、そう思ったからなの」
絵里さんが少し笑う。
「本人は知らないから、この事を話したら気持ち悪い、って言われるかもしれないけれど。でも彼女が生まれる前から、だから。それに、1人暮らしの女の子、心配でしょう?」
絵里さんの言葉に、あの人を思い出す。
「今も…1人、ですか?」
「今は違うわ」
「康太お兄様は?ここに住んでいるって、はる兄が」
絵里さんが驚いた顔を向ける。
「…好美ちゃんに会いに来た訳じゃないの?」
1年前、病院で絵里さんに会った時、私は姫野好美さんと一緒にいた。
「好美さんにも会いたいけれど、でも私のこと覚えていないかもしれないし。私のこと、知らないかもしれない」
「康太君は覚えているの?」
「だって、康太お兄様のことは、私が小さな時から知っているし、康太お兄様が帰ってきたって聞いて会いたくて、でも、はる兄が誘ってくれないから」
「むつみちゃん。晴己様が誘わなかったのなら、それが答えでしょう?」
それは正しい意見だった。
はる兄は、私が康太お兄様に会うのを、あまり良いと思っていない。
「で、でも。私、康太お兄様と同じ中学に行くの。高校も康太お兄様と同じ高校に行くの。だから」
「だから制服で来たの?」
私は何度も頷いた。
「康太お兄様に桜学園ではなく、近所の中学に行きますって…報告するの」
とても不思議そうに絵里さんが私を見る。
「康太君と…親しいの?」
問われて、私は首を傾げた。
「えっと…康太お兄様、時々新堂のおうちに来ていたし、本当に時々だけど。テニスの練習が終わった後とか、康太お兄様は本館に泊まっていたし…。朝ごはんの時とか、お会いしたらご挨拶するのは普通…だと思う」
「その程度?」
そう言われても分からない。
親しいと表現するのが、どの程度、なのか。
でも、考えて…絵里さんが望む答えに辿りつく。
認めたくないけれど、それは事実だから。
「妹さんが…」
泣かないように、握りこぶしに力を込める。
「康太お兄様が、妹がいるって話していて。でも、会えないからって。だ、だから私は」
その人の代わりだったと、ちゃんと分かっている。
康太お兄様は、いつも難しい本を読んでいた。
今になって分かるのは、それが色んな数式や外国の言葉みたいだった、というだけで内容は全く分からなかった。
でも私が書庫に行くと、康太お兄様は、いつも絵本を選んだ。
文字が多くても、簡単な漢字なら読めるようになっても、いつも最初に選んでくれるのは絵本だった。
そして、まるで椅子の背もたれのように私の後ろに座って、絵本を見せてくれた。
お父さんが、してくれたように。
はる兄は、本を読む時は椅子にきちんと座るように言うから、康太お兄様のように絵本を読んでくれたことは一度もない。
杏依さんにお願いしたこともあるけれど、お互いの体の大きさを考えると杏依さんに負担が大き過ぎて、2人で疲れてしまった。
「会えない妹さんを懐かしく思っていたみたいです。でも、妹さんと一緒にいるのをお見かけしたから。お忙しいみたいなので私は帰ります」
綺麗な和菓子を、きちんと全部食べて、そして苦い抹茶も頂く。
…苦くて、ちょっと涙が出そうになった。
「康太君に会いたいの?」
顔を上げることが出来なくて、頷くことも、肯定の返事をすることもできない。
「どうして?」
そう問われて、私は考える。
どうして、こんなに康太お兄様に会いたいのだろう?
「だって、康太お兄様、いつも寂しそうで、いつも1人で」
「康太君が心配?」
そう問われて、それだけが理由ではないけれど、康太お兄様が今どうしているのか知りたかった。
素直に頷けない私に、絵里さんが困ったように微笑む。
そして、桜の花の形をした、小さな落雁がお皿の上に置かれた。
「見習い中の方が作ったみたいよ。売り物じゃないらしくて」
「そうですね。売り物には、なりませんね」
思わず言ってしまった言葉に絵里さんが笑った。
「むつみちゃん、正直ね」
「…すみません」
ホワイトデーのハートは、綺麗な形だった。
でも、この桜は、ちょっと崩れてしまっている。
桜は…繊細…ということにしておけば良かった。
私は帰ると言ったのに、追加された落雁。
味わったほうが良さそうで、絵里さんは時間を気にしていて…引き止められている、そう感じた。
それからしばらくして。
「むつみちゃんが心配しなくても康太君は、大丈夫よ」
私など康太お兄様の役に立つことはできない。
それは分かっているけれど、言葉にされてしまうと、ちょっと落ち込んでしまう。
「むつみちゃん」
呼ばれて絵里さんの視線を追う。
窓の外に康太お兄様の姿を見つける。
階段を降りてくる姿。
門の外に出る姿。
隣には、あの人が一緒だった。
彼女が手を振る横顔を見ていると、しばらくして、男性と女性、そして男の子の姿が現れる。
康太お兄様が、とても軽々と男の子を抱き上げる。
そして、好美さんと一緒に門の向こうに消え、男性と女性は来た道を戻って行った。
「康太君の妹さんよ」
うん、知ってる。
「康太君の弟さんよ」
…知らなかった。
でも、知らなくて当然かも。
あの子は、まだ4才ぐらい。
私は、この数年の康太お兄様を知らない。
今までだって、新堂の家で時々お会いするだけ。
でも、私にとっては特別な人だった。
私も、いつも1人だったから。
◇◇◇
絵里さんに挨拶をして笹本先生にも挨拶をして、私は自宅に向かって歩いた。
最後じゃない、終わりじゃない、会えないわけじゃない。
康太お兄様の領域に、私が入る必要はない。
康太お兄様と、直接連絡が取れるわけでもない。
私と康太お兄様に、直接繋がりがあるわけでもない。
はる兄がいるから、時々会えただけ。
はる兄の生きる空間に私が入るのではなく、私が生きる空間に、はる兄が時々来てくれる。
それだけで充分。
だから、絵里さんの言っていることは分かる。
中学からは桜学園に通わないこと。
それを決めたのは私だ。
だけど、その通う中学に康太お兄様は通っていた。
はる兄の領域と私の領域。
それは重ならないけれど、私は康太お兄様の領域に入ることになるのに。
何がダメで何が絵里さんを困らせているのか…そう、困っていた。
怒っているのではなく、聞き分けのない私に呆れて、困っていた。
何度も何度も、どうして分からないの?と。
分からない。
はる兄のいない空間で生きていくことが、どんなことなのか分からない。
「入学式、まだよね?」
背後から声をかけられて、思わず身体が震えた。
「そんなに驚かないで…大丈夫?顔色、悪いよ?」
振り向くと、そこには私と同じくらいの身長の女の子。
「あの、えっと?」
確か、近所に住んでいる子だ。
「飯田加奈子ちゃん!」
私の声に、今度は彼女が仰け反った。
「…元気みたいで良かった。ねぇ…どうして、その制服?」
「あ、あのね!私」
ポンと、肩に両手を置かれた。
「私、全然急いでいないから、ちゃんと話を聞くから。ちょっと落ち着いて。あー…ジュース飲む?」
そう言って彼女は公園を指差した。
その前にある自動販売機でジュースを買う。
私は本当は甘いジュースは苦手だけれど、加奈子ちゃんが買った甘そうなジュースを私も買ってみた。
ベンチに座って一口飲むと、残っていた苦味が消えて、ふーっと息を吐き出した。
「落ち着いた?」
「はいっ!」
「で、どうして制服?」
「学校まで歩いてみました。何分なのかなって」
加奈子ちゃんが首を傾げた。
「私、この制服で中学に通います」
「…え?ってことは桜学園じゃないの?ねぇ、それよりも、その敬語、やめて」
「あ…はい」
「制服着ているから驚いたじゃないの。私、入学式、行き忘れたのかって」
「え?じゃ、じゃぁ、飯田加奈子さんは私と同じ年なの?」
「…そうだけど?」
「年上だと思っていました。大人っぽいから」
「それ…あなたに言われると嫌味に聞こえる」
その意味が分からず、私は首を傾げる。
「で、でも、凄いですよ?」
あ、敬語になっちゃった。
でも、隣に座る加奈子ちゃんは、とても綺麗。
薄手のコートを羽織っているけれど、とても綺麗なワンピースを着ていて、髪型も綺麗にまとめられている。
なにかのパーティでも行ったみたいな感じだった。
「今日は特別。ほら、あの桜の家で」
「あ…」
私が入れなかった場所。
「今日、私の知り合いが演奏したの。ヴァイオリン。だから聴いてきたの」
素敵だろうな、そう思った。
「彼が選ばれたのは当然だと思うけれど、羨ましかった」
はぁーっと溜息を加奈子ちゃんは出す。
そして彼女の膝の上で、綺麗な指が動き出す。
「中学校の音楽室、使っても良いってOK貰ったの。学校に行くのが楽しみ」
加奈子ちゃんの顔が明るくなる。
私はドキドキして不安な中学校を、彼女はとても楽しみにしている。
「じゃぁね。また入学式でね」
そう言って加奈子ちゃんが立ち上がる。
彼女の髪から、桜の花びらが、ひらりと舞う。
「あ、あの!」
私の声に加奈子ちゃんが振り向いた。
「ね、ねぇ。うちに来ない?」
色んな理由を言いたくても、うまく言えない。
加奈子ちゃんは少し考えて、そして笑顔になる。
「ピアノ弾かせてくれる?私の家、ピアノがないから。あなたの家から時々音が聞こえるけど、弾くの?」
「私は弾かない…というか、習うのやめちゃったから。お母さんのお友達が時々」
母の仕事関係の人達が家に来た時に弾いていることがある。
「じゃ、調律はOKね。それと、もうひとつ」
加奈子ちゃんは、とても楽しそうな笑顔だった。
「私と友達になって」
それは、私のほうからお願いしたいくらい、嬉しい言葉だった。
「わ、私で…いいの?」
「いいわよ。もちろん」
「わ、私…中学校のこと何も知らないけど、いいの?」
加奈子ちゃんが驚いた顔をして、そして笑う。
「私だって知らない。まだ入学していないから」
確かにそう。
でも、私が心配なのは知らないのは、違う意味がある。
「大丈夫。みんな同じだから」
髪を、すっと撫でられた。
加奈子ちゃんの手に、ピンクの花びら。
それが風に舞い上がる。
「みんな今までの世界とは違う場所に行くの。みんな不安よ?」
きっと、これが私の新しい世界。
はる兄の世界や康太お兄様の世界とは重ならない、私の世界。
私達の世界。
そこで生きていくことができたら、誰に頼らなくてもあの階段を上れる気がする。
私は康太お兄様との思い出を閉じ込める小さな箱を、心の奥に用意した。
いつか、それを開ける時がくるまで。
何年先になったとしても。